「尖閣」が招く日米中衝突論争ー「沖縄の今」を考える④

国会議員時代に、尖閣諸島にも一度だけだが自衛隊機に乗って上空から見たことがある。その時抱いた感情は、はるけくもきたなあとのとの思いが一つ、もう一つはこの地域を海と空から常時警戒し監視を続けている自衛隊の皆さんへの感謝の一念であった。また、これまで幾たびか船に乗ってこの島々の傍まで行き、上陸しようとした日本人もいる。民主党政権時代にこの諸島の国有化を政府が宣言していらい、大っぴらに中国や台湾の漁船などが示威行動的に出没しだしていることは周知のとおりである。ある意味で一触即発の危機を常にはらむ海域であり、警戒を怠ってはならないことは言うまでもない。ただ、この海域の実態を思うにつけ、日本と中国との対応の異常なまでの差が気になる。つまり、日本の漁船は殆どと言っていいほど尖閣諸島海域に近寄らない。中国側は魚釣島は自分たちのものだと主張し、「日本の不法占有」だとの不当そのもののいいがかりをつけながら、その海域に姿を常日頃から見せていることと大きな違いがある▼私はこうした彼我の差において、日本の漁船の存在感がいたって弱いことにかねて不満を抱いていた。もっと尖閣諸島の傍まで漁に出なければ、我が国固有の領土だといいがたいのではないかとの思いが募って来るからだ。尖閣諸島に対する日本の領有権を主張するからには、もっともっと漁船の姿があっていいのではないかとの素朴な疑問だった。そのためには、尖閣諸島にはせめて漁船が立ち寄れるような船着き場があってもいい、と。このため、要望にこられた沖縄県の漁業者にそのあたりをぶつけてみたことがある。漁業者たちは、島周辺に行くには5時間以上かかるのだから、当然港が欲しい。だが、島に近づくのは海上保安庁が危険視して、一定のところからは進めない、何とかしてほしいとの要望を受けた。このため平成22年の外務委員会で、鈴木久泰海上保安庁長官(当時)に日本の実効支配の具体的手立てを講じるべきだと主張したものである(10・17)。その時の答弁は実態として日本の漁船の操業が少ないと認める一方、むしろ漁業者の側から安全操業のためにきちっと警備をしてほしいとの要望があるとの答弁がなされた。この辺りの実情は恐らく7年経った今も変わっていないと思われるのは残念というほかない▶尖閣諸島をめぐっては、仮にここに中国の海警局やら漁民を装った関係者の侵入や不法上陸を契機にして武力衝突が起こったらどう対応するかという課題が取り沙汰される。いきなり軍隊が出て来るということは想定しづらいので、通常は不法入国、犯罪取り締まりという形で警察権で対応することになろう。海上保安庁や警察で対応しきれないとなると、自衛隊が治安出動や海上警備行動で出る形となり、実力部隊同士の小競り合いから、やがては中国軍と米国軍がぶつかる可能性すらでてくるものと思われる。いわゆる抑止力が効かずに、米中戦争が始まるわけである。日本の国内における米軍基地を狙ってのミサイル攻撃から、際限のない報復攻撃が繰り返される恐れも想定される。そもそも米軍が尖閣諸島をめぐっての日中衝突に本格的にかかわってくるかどうかについても諸説入り乱れている。米国がトランプ大統領の登場で、従来とは一転して独自路線を歩みかねない姿勢が見え隠れする。日本の自前の防衛体制の構築が、日米同盟の強化と相俟って強調されるゆえんでもある▶こうした軍事的対応は揺るがせにできないものの、一方で平和的環境醸成も当然ながら待ち望まれる。この辺りについては、最近発売された『新・日米安保論』(柳澤協二・伊勢崎賢治・加藤朗)が大胆な分析を披露していて興味深い。日米同盟の論理矛盾を衝く議論から始まって、「ナショナリズムと平和主義」の問題提起など、三者三様あるいは三者二様といった議論が喧しい。まさに「三人寄れば安保の知恵」とでもいうような思考実験が続く。尤も、経済的には中国依存の現実があるがゆえに、政治的にも中国主導を周辺が容認すれば、東アジアの平和的安定がもたらされるとの加藤氏の主張には首をかしげざるを得ない。「中国を敵とした集団防衛体制と中国を取り込んだ集団安全保障体制の双方でどちらが作りやすいか」といえば、後者に現実性があるとする柳澤氏は「その時また一番ネックになるのが、大国を夢見る日本のパーセプションということになる」と厳しい。結論的に、加藤氏は「中国とアメリカがつくる体制の中に日本が入るかどうかというだけの話」だとし、柳澤氏はそういう動きになれば本当に歴史を変えることになる、と応じているのだが、現実性に欠けよう。平和を優先させるのか、中国に負けたくないということを第一にするのかとの議論は、果たして二者択一的課題なのかどうか。平和第一主義の党であり、中国との友好関係をどこの党よりもいち早く培ってきた公明党こそ、この議論を積極的にリードする役割があると確信する。このあたりの発信を強めなければと思う事しきりである。    (2017・7・23)

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