仏様ならぬ習近平氏の「仏頂面」の意味

日中首脳が3年ぶりに会談をした。安倍・習会談の中味よりも、出会いの場面の習近平中国主席の顔つきが話題になっている。無愛想で不機嫌な顔をしていたことから、報道では、「仏頂面」という言葉が躍った。これは、どういうところからきた言葉なのか、語源由来辞典を引いてみた。まず「仏頂」とは「仏頂尊」のことで、お釈迦様の頭上に宿る広大無辺の功徳から生まれた仏という意味で、その面相は、知恵に優れ、威厳に満ちているが、無愛想で不機嫌に見えることから、使われてきたとされる。ロシアのプーチン大統領や、韓国の朴槿恵大統領らとの握手の際の顔つきがニコニコとしているのと対照的なだけに一段と考えさせられる▼日中間には、二千年の交流をもってしても未だ理解しあえない異文化間認識ギャップがあるとされる。例えば、日本人は死んだものには鞭打たない、と一般的に考える。一方、中国人は死んでも悪人は悪人で、むしろ死んでからさらに鞭打って糾弾して死者をも暴くというのが通常だという。私の学問上の師であった故中嶋嶺雄先生は、その著作のなかで(『日本人と中国人はここが大違い』)、日中関係は「同文同種」ではなく、「異母兄弟」の関係だとして、ひとたび摩擦が起き、対立が生じると、他人以上に和解しがたい関係になると述べている▼近過去の歴史を振り返れば、昭和47年の日中平和友好条約の締結いらい40年余。周恩来や胡耀邦、鄧小平氏といった優れた指導者の時代と違って、江沢民氏以来のリーダーたちは、内政上の不都合を対日関係に転化させていく手法に拘泥しすぎているように思われる。経済的な側面でいかに成長をとげようとも、国家の品格という観点からはどうにも首をかしげざるをえない行動が多すぎる現状に、多くの国が戸惑いを隠せない。とりわけ遠い遠い昔のことではあるけれど、中国に対して「あれだけ愛し、慕ってきたあなたなのに」と幻滅を感じているのが日本の普通の大衆ではないか▼しかし、ものは考えようであり、捉え方しだいだ。「仏頂面」であるにせよ、交渉の場に出てきたということは、日中関係打開への姿勢と期待があるということである。ああいう風な顔をするというのは、写真や映像でにこやかなふりをしてはならない、という事情があるのだろう。世界の常識では、いかなる内部の、家庭の事情があっても、人の世のお付き合いは、友好を、礼儀をもって旨とするはず。それを破るというのは、人道に反するということにほかならず、やがて世間の、世界の非難の対象となろう。尤も、「仏頂面」とは、仏の知恵に優れ、威厳に満ちた面相のことらしいから、習近平氏には単なる内部向けの造作ではなく、それ相当の戦略があるに違いない、と思っておくことにしようか。(2014・11・12)

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