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【115】「中道」の挫折をめぐって━━公明党伊藤県代表との懇談会から/9-15

 さる11日に公明党兵庫県本部で県下のOB議員の有志30人ほどが集まって伊藤孝江兵庫県本部代表(参議院議員)を囲む懇談会を開催しました。ここでは伊藤県代表からの「中道」をめぐる経過報告と、それに対する参加した議員OBたちの受け止め方をまとめると共に、それぞれについての私の論評を加えてみます。

⚫︎立民と公明の溝は「中道結成」でも埋まらず

    冒頭に伊藤県代表から中道結成から8ヶ月間に及ぶ共闘の末に瓦解に至る流れが述べられました。以下はその要約です。

 [立憲民主党(以下立民)、公明党両党は今年1月、衆院のみ中道参加を決めたが、将来的には参議院も合流するべく、相互に努力する約束で出発した。国会内では中道、立民、公明三党で合同部会を構成して、会期中に予算、法案をめぐる審議を行ったものの、他党からの合流もなく、次第に三党間の相違が表面化していった。7月17日に合流するかどうかの結論を出そうと、協議を進めたが合意を得られなかった。立民からは8月末まで延期した上で、その間に全国キャラバンで意見を集約するのでとの申し出があった。だが、結論は、8月29日に合流は困難との報告があり、三党合意は破綻した]

 この流れを踏まえて伊藤代表は、構造的要因として①理念と根幹的政策の相違②国会活動の手法と両党の体質の相違③選挙結果をめぐる感情的対立④根深い宗教アレルギーと相互不信の4点を挙げた。このうち①については、平和安全法制の合憲判断や原発エネルギー政策をめぐって、立民が従来からの反対の主張を崩さず、結党時の5原則を反故にした②については、公明党側は、他の野党との合意形成に注力したのに対して、立民側は反対運動に固執したり、自己満足的修正案作りに終始して、他党との連携構築に失敗した③については、公明党側が小選挙区から撤退して比例区に集中した結果28議席を獲得したが、立民側は軒並み小選挙区で敗退したことから「立民は騙された」「公明だけが得をした」との不満が続出した④については、日常的な交流がないまま強行された「合流劇」で、立民側の議員や支持者層にある公明党、創価学会への無理解が解消されずに残った。

【これら4点は公明、立民の幹部はいずれもかねてからわかっていたはず。本来はそれを結党前に時間をかけて解きほぐすつもりだったのに、急な選挙戦を高市自民党に仕掛けられ、それが不可能になった。「騙した騙された」の次元ではなく、選挙前には小選挙区で立民は十分戦えるし、公明は9小選挙区から撤退して比例区一本で大丈夫だとの見通しに立っていた。選挙戦では相互支援を行った。その結果として惨敗になってしまった。その責任をあげつらうことは潔くないという他ない】

⚫︎「中道解体」への手続きと今後の対応について

 伊藤県代表から中道解体に向けての手続きと今後の活動について①公明党のみでも中道に合流する案が検討されたが、中道内の立民落選者や現職からそれでは実質的に公明のみの党になってしまうとの猛反発があり、断念した②中道に属する公明党議員28人は離党し公明党に再入党し、立民系の21人は新党を結成する③政党交付金や金銭、法的清算のために1人は残り、諸手続きが終われば解党する④衆議院では公明党と、旧立民党系の新党が「統一会派」を結成。参議院はそれぞれ立民、公明がこれまで通りそれぞれが活動する━━との報告があった。これらはメディアで既に報じられているものの、当事者から聞くとリアル感がまったく違う。

 【とくに私は「中道」をせっかく結成したのだから、参議院公明党だけでも合流すべきだと考えてきた。それくらいの決意がないと、中道を結成した意味がないと思うからだ。一時的には公明党系議員が多く見えても、近未来に選挙で勝つことでその党内議員分布も変化するはず。この反応を聞いただけで、およそ中道の旗の下に集まろうとの意識が野田佳彦氏や小川淳也、階猛氏ら極少数の幹部を除き、元々弱かったといわざるをえない。政党交付金については世の批判を招きやすい。立民側だけでなく公明側も共同責任のもとしっかり説明して欲しい】

⚫︎「中道政治」の本分をもっと語るべき

   参加した地方議員OBからは、今回の中道結成について「まったく説明のないまま進められたのは、不満である」「支部会の運営推進をもっと自由に自立した党員組織が望ましい」「創価学会員以外にもサポーター制度などを活かしていくなどもっと支持層拡大を図るべき」「労組連合との直接的関係構築などをも進めるべし」「ヤングケアラーなどの生活者目線の政策をもっと推進して中道政治の再定義に力を注ぐべき」などの意見が出された。

 【中道結集については、公明党的には政治的理念としての中道に、立民よりも馴染みがあった。それゆえに僅かな期間で立民が合流困難と決めつけることは残念な思いが強い。ただ、これで諦めるのではなくむしろこれから始まると捉えるべきだ。ゆえに、衆院で、旧立民系の新党メンバー21人と復党した旧公明系の28人が院内会派「中道」を組んで共闘することは、もう一度原点に立ち戻ってやり直す意味があると思われる。結党時のツートップだった野田、斉藤鉄夫両氏は現職を続けるのならば、前面に出て今日の事態になった結果責任を果たすべきではないか】(2026-9-15)

 

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【114】25年目の「9-11」に、うち続く「戦争と政争の果て」を憂う/9-10

 米国に同時多発テロが起きてから今日で(9-11)で25年。〝希望の21世紀〟が始まった途端に「世界の警察官」を自他共に認めていた米国の首都が攻撃された。航空機の体当たりで、燃え盛る超高層ビル。2977人もの犠牲者を出した。テロと戦争がお茶の間で実況中継されたことはかつてなく、まるで「絵空事」を見るようだった。この歴史的紛争が発端となり、オサマ・ビン・ラディンを首謀者とするアルカイーダを匿うアフガニスタンへの20年に及ぶ米軍の攻撃や、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有しているとの〝不確かな疑惑〟をもとにした米軍の対イラク戦争が7年もの間引き摺った。世界の火薬庫といわれる中東はその後も燻り、今なおガザをめぐるイスラエルとパレスチナの紛争は続き、米とイスラエルが仕掛けたイラン戦争は終わらない。一方の旗頭・ソ連は20世紀末にひとたびは崩壊した。ロシアへと国名を戻し、20数年の〝隠忍自重の雌伏期〟を経たのち、「ウクライナ侵攻」という〝悪逆非道の先祖帰り〟をやってのけた。一連の〝革命的変貌ぶり〟をプーチン大統領ひとりが演じ続けているのは呆れ驚く他ない。この間に民主国家・日本は何人の首相が入れ替わったか。小泉氏から高市氏まで(安倍氏を2人に数えると)ちょうど1ダース12人である。あれこれの評価はここではしない。戦争を経験せずに何はともあれ国が持ったことを喜ぶべきだろう◆日本の21世紀は自公政権と共に明けた。あれから25年。政権は「自維」に代わり、公明と立憲民主が組んで誕生した「中道改革連合」は、一年も持たず早くも解体することになった。8ヶ月ほど前に支持者たちが抱いた高揚感は敢えなく打ち砕かれた。思い返せば25年前当時、私は新しい世紀の到来に胸躍らせ、春には地元姫路で、秋には首都東京での拙著『忙中本あり』出版記念会を開いたものである。旧世紀末から新世紀明けまでの2年間に新幹線車中で読んだ約300冊を中心に、読後感を政治家としての日常の動きに絡め著した異色の試みだった。それからの25年の時間のほぼ半分を現職として過ごし、引退した2013年からの後半13年ほどはOBとして動いた。現役時代の20年の内外の政治の動きを『77年の興亡━━価値観の対立を追って」と題して正続2冊に著し(写真)、人との交流を中心に『触れ合う読書━━私の縁した百人一冊』上下2巻に書いて出版した。書評を趣味とする政治家として魂魄をとどめる足跡を残し得たと自負している◆この間、紛れもなく世界の価値観は変わった。国際政治の枠組みは米国一極支配から「米中露2.5支配」へと変形したかに見える。トランプ米大統領の2016年からの一期の休みを挟んでの再登場は、強引極まるイラン戦争で国内外の分断を白日のもとに定着化させた。更にそれに相呼応するかのような習近平中国総書記の建国百年を見据えつつ「台湾奪還」を豪語する傲岸不遜な振舞い。そしてクリミア半島奪取(2014年)より2022年のウクライナ侵攻から4年、悪戦苦闘も辞さず制圧に血まなこになるプーチン・ロシアの執念。今や米中露三国は「無法者三羽烏」に陥った感が深い◆激変した世界の風景の中で、日本の政治はいかにと思いやるとき、心穏やかならざるものが迫りくる。自民党との〝ハイブリッド連立政権〟の時代を経た後に、高市早苗首相の登場と共に衆院は「中道」へと、立憲民主党と共に姿かたちをひとたび変えた。高市氏の持つ危うさを察知した故だった。国民大衆のために「自民党政治」を変えたいとの一心で、外からの改革路線を内側からのそれへと転じて約25年。大衆救済の大戦略の手立てを「保守中道」から「中道リベラル」へと変化させる試みだった。『77年の興亡』において、私は2022〜25年に日本が大転換期を迎えるとの予測を述べた。それは見事に的中。時代の転機に「中道」は新たなる変革を勇躍めざすものとして少なからぬ期待を集めていた。だが、この事態。あたかも戦わずして沈没する船をみるようで悔しいという他ない。(一部修正=2026-9-11)

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【113】がんと共に生きる━━外科医から転身した小説家の講演から/9-7

 「副作用のないがん治療」をテーマに9月4日から二日間、日本ハイパーサーミア学会第43回大会が大阪大学中之島センターで開かれました。かねてがんの放射線治療に私は興味を持っており、姫路市の最北部・安富町にある坑道ラドン浴「富栖の里」にも少し関わって(放射線の電子本も書いてます)きました。さらにハイパーサーミアとの併用でがん治療を推進させることも勉強せねばと、両日とも参加してきました。

⚫︎がんを取り巻く話題あれこれ

 胃がんで苦しみながら、夫(私の父)の献身的看護に助けられつつ、60歳前に母は亡くなりました。ほぼ50年ほど前のことです。闘病中の母を抱き上げた時の軽かったことやら、治療の苦しさに耐え難く苦痛を訴えていたこと、父があらゆる民間療法を求めて走り回っていたり、病室にふとんを持ち込んで看病していたことなど切ない思い出が一杯あります。まさに「がんは親の仇にござる」なのです。

 昔に比べて胃がんは少なくなったようですが、がんそのものは相変わらず死因の上位を占め、闘病記やら治療法などメディアを賑わせています。つい先ごろ脳医学者の養老孟司氏が「私の往生際」というタイトルでテレビに出(7-6)たり、(テレビで見るほど私は弱っていない)との後日談がラジオで放送(8-8)されたりしました。『文藝春秋』9月号では養老氏の「88歳の僕ががんに教えられたこと」という手記が出る一方、国立がんセンターの垣添忠生名誉総長と放射線治療の専門家・中川恵一氏との「死ぬならがんがいい」という対談も出ています。そんな状況下で開かれた今回の大会ですが、ここではハイパーサーミアの副作用についての相反する報告と、外科医出身の小説家・久坂部羊氏の「末期がん患者の死に方」という興味深々の講演の2つを聴いての私の受け止め方をお伝えします。

⚫︎ハイパーサーミアの「副作用」はあるのかないのか

 ハイパーサーミアとは「高温熱治療」のこと。50年近く前から普及しているのですが、まだまだ一般的には知られてはいません。全国からこの分野の専門医や器財を取り扱う産業界関係者が多数参加していました。同じテーマを扱った2日間のランチョンセミナーを聴いたのですが、初日の担当医師は「ハイパーサーミアは決して副作用のない楽な治療ではない」といった総括をされました。スライドの「楽な治療ではない」との部分をわざわざ二重線で消されていました。

 一方、2日目の担当講師は「ハイパーサーミアの安全性は高い」との患者の声が大きいことを紹介、副作用のないことが強調されました。初日のセミナーを聴いた結果、ハイパーサーミアって、治療を受ける時の身体の姿勢が前屈みのために苦しくて途中で止めたくなるケースが多く、とても楽じゃないということで副作用ありとするのだと私は理解していました。だがところが2日目は違っており、どっちなんやと、しっくりきませんでした。

 よく考えると、前者は「副作用」よりも「検査の仕方」が楽か苦痛かとのアンケート結果に基づくもの、後者は「高温熱治療」による副作用のあるなしでした。異次元の課題を、同じ「副作用の有無」との次元で語られると、聞く方は混乱してしまいます。この辺りの捉え方の基準が統一されるべきだと思ったしだいです。最高責任者の中村仁信大阪大名誉教授(大会長)に伝えましたところ、そうですねぇと、問題の所在を分かっていただきました。

⚫︎AIの時代の医療者の役割と患者の対応━━久坂部羊さんの講演から

    医師から小説家に転身した久坂部羊氏(写真中央、左は中村仁信大会長)のお話はとても深みのあるものでした。転身のきっかけは、末期がんの患者と接触する外科医としての苦しさだったといいます。最新著作『あなたの命綱』という本を手にされつつAI時代の医療者と患者のあり方を50分間見事に語ってくれました。以下私の理解した「久坂部発言」の要旨をまとめてみます。勘違いあるやも。詳しく知りたい向きは本をどうぞ。

 今や患者が自らチャットGPTなどAIを駆使して自身の病気の治し方の指南を受けることが常態化してきているようです。それでなくても普通の患者はがんを治せない医者を認めません。治すと言わない医者を信用しないのです。AIは本来ユーザーをおだて寄り添うもので、基本的に厳しい見立てとは無縁です。そういう存在は患者のためになりません。患者はどう生きるかを考えずに、死にたくないと考えるあまりに却って命を縮めてしまう傾向が強いのです。治るか、死ぬかの二択ではなく負けないことが大事です。

 医師は、そういう患者の方向性をわかった上で人間的繋がりをどう作るかが重要です。人間の生命時間の医療的見立てと現実とは違うことを理解して貰い、目の前にある日々をどう価値ある生き方をしていくかを語るべきでしょう。敢えて言えば山本周五郎描くところの「赤ひげ」のような医師でしょうか。

 いま死ぬならがんだと言われていますが私もそう思います。「ポックリ死」はどれだけ死に至る発作が苦しいものかが語られていないし、「老衰」もその瞬間までの10年ほどの寝たきりや床ずれなどがどれだけ辛く耐え難いものかが忘れられがちです。がんは死ぬまでに残された日々を準備に充てることが出来る素晴らしさがあるのです。

 勤務医を辞めて外務省の海外大使館付きの医師になりましたが、最初の赴任地サウジアラビアの医師との間で、がんの末期患者との対応の辛さで共感しあいました。ただ彼から自分たちにはアッラーの神の存在があると聞いた時には目の前が大きく開けた感がしました。

⚫︎医師から小説家に転身した人たち

 聴き終えて、久坂部さんと話す機会がありました。見事に跳ね上がった口ひげを見ながら、「外科医の現場から離れてしまわれて、後悔はありませんか」と訊きました。「忙しさの中で格闘し続ける仲間たちに負担をかけて申し訳ないとは思います」との応えでした。とても誠実な方だと思いました。

 『チームバチスタの栄光』(海堂尊)や、『三たびの海峡』(帚木蓬生)に熱中した頃を思い出しました。2人とも医師で小説家です。海堂さんとは、「ヤマトタケルからペンネームを考えたのではないですか」と訊いたこと、帚木さんには中国大陸で憲兵をしていたという親父さんのその後を手紙で尋ねるなどやり取りをしたものです。

 ふと、医師から政治家に転身したあと、再び医療現場に戻った福島豊氏を始め何人かの再転身組を思い出しました。(一部修正 2026-9-7)

 

 

 

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【112】合流諦めるのは早過ぎる━━立民、中道、公明の行く道《架空鼎談》/8-31

 案の定と言うべきか、意外とも言うべきか。立憲民主党(立民)、中道改革連合(中道)、公明党(公明)の3党の早期合流が困難になり、実質的に分裂状態になった。この問題をどう捉えるべきか。例によって、家族3人(父、母、息子)の架空鼎談をすることで、背景と展望を探ってみた。

⚫︎中道結成の原点回帰の大事さ

息子)僕の友人に立民好きがいる。彼に言わせると、公明って地域政党として凄いパワーを感じるけど、国政ではイマイチだって。親父の若い頃の公明ってもっと生き生きしてたんじゃあないの?やっぱ、与党化したせいかなあ?

母親)うーん。でも、なんだか公明と逆に、立民って国政じゃあ頼りがいあるような感じがするけど、地方議会じゃああんまり存在感ないわね。中道合流に反対が強いって、今更何って、いう気がするわ。

父親)おいおい。2人ともそう決めつけるなよ。日本の政治を考えた時に、自民が強過ぎる状態を変えるために、野党強化という方向に、公明は舵を切り換えたのが中道の出発点だった。戦いは始まったばっかり。焦ることないよ。

息)いや決められない三党がダメっていうんじゃなくて、衆参両院で公明、旧公明はもっと活躍して欲しいって思ってるだけ。親父さんの方こそ、公明に見切りつけるのが早過ぎて、「中道結成」に賛成してたんじゃないの?

父)加減のバランスはともあれ、自民を揺さぶるチャンスを見逃さずに早く手を打つべしと思ったことは間違いないね。古い自民を変えるには、立民と組んで大きなかたまりを作るしかない。数合わせではなく〝理念への忠誠度〟━━つまり立憲は、しっかりした政治理念を持つ、頼れる存在だと思ったんだよ。

母)中道に合流するかどうかは、立民だけじゃなくて、公明にとっても大変。結党から60年もの歴史を持つ党から、違う歴史を持つ党と組むなんて、簡単なことじゃないわよ。だからやるならやる、やらないならやらんと早く決めなきゃあー。何だか外から見てると、立民ってこれまでも党内でゴタゴタばかりしてた印象強いわ。

⚫︎日本政治の真の安定化のために

息)確かにそうかも。立民の方が地方中心に難しいと言うことなら、時間かけて議論するしかないよね。今年初めの衆院選は残念な結果だったけど、僕の仲間はやっぱり反自民の対抗軸の中心は立民しかないという連中が多いよ。

父)兵庫県ではそのむかし、連合5党協議会といって、労組の「連合」を軸に反自民の組織体を作ろうとしたことがある。今度の中道も似て非なるもんだよね。他の県ではないケースだったけど、やった価値はあったね。僕は兵庫の強さの原因の一つだと確信してる。今の立民代表も兵庫出身だからね。中々まとめるのは難しいんだろうなあ。

母)あの時は維新なんか存在しなかったよね。大阪の自民が分裂して維新は出来たって認識だけど、維新と自民はうまくやっていけるのかしら。維新は早晩雲散霧消するって言ってた人もいるけど、結構強いわよね。

息)親父さんは、維新に一度政権につかせるといいって言ってたけど、それってどういう狙いからだったの?

父)公明が自民と組んで20数年も経ったことで、右の勢力の不満が溜まってたよね。公明のストッパーが利き過ぎたって嘆く人も少なくなかった。それを吐き出させ、日本政治の硬直化を一度柔軟にする必要性を感じたからだよ。

母)柔軟にするって、政府の右傾化を促進させるだけじゃないの。議員定数削減は何とか止めたけど、副首都構想はゴリ押しで成立させてしまった。これで閣内に入ると、もっとやりたいことガンガンやりまくるんじゃあないの。

父)一見そう思われるけど、政治的実験としての維新与党化は、マイナスばかりじゃないよ。左右に振れつつ、あるべき姿に落ち着いていくってことは大きな意味で政治の安定化に繋がるって思う。公明が頑張っても中途半端だったから。今度は右バネを利かせて、自民党の本音部分が全開するのも悪くないかも。政治って決断が大事だから。

息)それって、公明が自民と組んできた20年余りが保守層にそれなりの理解をもたらしたから、今度はリベラル層にも同じように分からせようって、公明が立民に接近したことと相通じる側面もある考え方だねえ。そこは大事な点だから、中道は成功させたかったんだけどなあ。7ヶ月で頓挫して、もう中道止めるってダメだよ!だらしない。

父)結局は国民が政治のダイナミズムを理解していくことが国家としての総合力の強化に繋がっていくと、僕は思うんだよ。だから、一挙にすすっと行かなくても、当初の中道の旗の下に集まろうって動きは続けて欲しいね。

⚫︎中道の決意を世間に示すチャンス逃すな

母)それって、分かったようで分からないわ。要するに公明と中道はどうなるの?来年の地方統一選挙はどうするの?以前に、お父さんは、公明はもう公明の看板はやめて中道系無所属でいくべしって言ってたけど。

息)あれは親父の独創だよね。いや独走的で、先走り過ぎてとてもついていけないって思ったよ。

父)残念ながら、確かに誰も賛同してくれなかったね(笑)。だけど、中道っていう政治理念の重要性を一気に世の中に広めるチャンスだと思ったんだよね。公明って政党名は中立性があっていいけど、役割は終わったともいえる。60年の区切りをつけて、政治的スタンスを改めて鮮明にするには公明を一旦、中道系無所属にするといい。

母)だけど、来年の選挙に今から公明やめて日本全国中道に衣替えしますって言うのは難しくない?
息)いや、そうでもないかもしれないね。公明=中道っていうのは定着しているから、もう一気に行ってもいいかもしれない。決意を披瀝する意味では。だけど、もう賽は投げられ、ルビコンの橋は渡ってしまったんじゃぁ?

父)ここで三党が合流を辞めてしまうと、挫折感のみ漂うとも言えるからね。でも同時に、中道と立民の一体化に向けての意思調整━━つまり、政策だけでなく、国家観から始まってあらゆる面での方向性を詰めていく作業もしっかりやらないうちに店仕舞いするっていうのはどうにも残念だね。堪え性がなさ過ぎるよ。頑張って欲しいな。

母)それには、国際刑事裁判所(ICC)所長の赤根智子さんの応援をみんなでしなくちゃあ。彼女みたいな正義感溢れる人を放置したら日本の恥だわ。皇室典範問題では三党意見一致しなかったけど、この問題では一致して欲しいね。

息)おっ、母さんもそうなんだ。俺もおんなじ。

父)そこは三人意見一致だね〜。(笑) (以上8月31日午後4時現在)

 

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【111】日本が「平和」を生きた81年━━いま「湯川秀樹」から学ぶ/8-25

 日本が世界唯一の被爆国になって81年。とにもかくにも「戦争をしない平和な国」だった。だがいまあらためてそれが問われている。先日、NHKテレビ『昭和の選択』(8月19日)で、「湯川秀樹」(自画像 写真下)を取り上げた番組を観た。日本人として初のノーベル賞を受賞(1949年)した湯川の研究対象は「核力の中間子論」であり、戦時中に日本の原爆研究にも参加していたことで知られる。その彼の行動の足跡は日本の「戦争と平和」にとって極めて示唆に富む。湯川逝きて45年。その主張を再考することは色々あっても意義深いことだと確信したい。

⚫︎50年代から60年代への「核廃絶」の胎動

 この日は、ホスト役の磯田道史(歴史家)と、山崎正勝(物理学者)、いとうせいこう(マルチクリエイター)の3人による鼎談。最後に磯田が、1960年代に世界に影響力を持ったのが「知の世界」で湯川秀樹やアインシュタインだとしたら、「情(愛)の世界」ではビートルズだったとまとめた。妙に印象に残った。1966年に英国からハッピ姿で4人が羽田に降り立ったとき、僕は大学2年・21歳だった。当時「物理学」とも「愛」にも無縁だった。「法華経」を受容するのに懸命で、奇妙な青春の只中にいた。だが「世界はひとつ」という命題だけは体内にしっかり根を下ろそうとしていた。

 広島と長崎に原爆が投下され、漸く目が醒めたかのように日本は戦争終結に踏み切った。以来、原爆を作り出した側の当事者としての物理学者たちは懸命に核廃絶に向けて音頭を取ろうとした。一つの象徴的出来事が、1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」だった。前年に太平洋上のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験によって、第五福竜丸の乗組員らが被爆死したことがきっかけだった。

 これは著名な科学者ら11人が核の脅威に警鐘を鳴らしたものだが、湯川もそこに名を連ねていた。創価学会の戸田城聖・第二代会長が1957年9月8日に「原水爆禁止宣言」をし、一大民衆運動としての「核廃絶」の闘いを本格化させていったことも忘れられてはならない。明年で70年が経つ。世界192カ国で「世界はひとつ」を目指すSGIの試みが続いている。一見無関係のように見えるが「1945年の悲劇」を断固再発させないとの決意において共通する。

⚫︎静かなる湯川の激昂

 19日の番組での「選択」は、政府機関の原子力委員会への委員就任を受諾するか、拒否するかだった。要請してきたのは衆院議員で読売新聞社主の同委委員長・正力松太郎。司会からの問いかけに、お飾りに使われるだけだからと、拒否を選んだ磯田以外の2人は共に、委員になって政治と闘うとの選択をした。僕も同じだった。現実は科学者の立場からのコントロールを湯川は選んだのだった。彼は恐らく相当に悩んだ末の決断だったはずである。

 しかし、正力は初会合(1956-1-4)のその日に記者団に、第一号の原発を早急に導入に着手する旨の談話を発表してしまい、翌日の新聞に掲載された。①情報の公開②自主的研究③民主的運営の「原子力3原則」を無視し外国からの購入優先を露骨に狙った既定路線である。流石の湯川も激昂したが、後の祭り。結局、翌年3月に胃腸障害を理由に辞任する。歴史的事実を後でわざわざ問い直して、選択させるこの番組だが、もうひと工夫する必要ありと思う。

 原発だけでなく、科学者と政治家の確執がその後どう展開してきたか。学術会議のメンバーをめぐって熾烈な駆け引き、せめぎ合いが今も続いていることは周知の通り。

⚫︎「世界政府」への夢と希望

 1975年(昭和50年)9月に京都で開かれたパグウオッシュ・シンポジウムで湯川は核抑止論に基づく政策を取れば、結局は超大国の核武装が無限に続く危険性を訴えた。番組では京都大学に保存された湯川のこの時の草稿に、World Government(世界政府)と鉛筆で書き込んだものが写された。この構想こそ世界の国々が互いに独立を保ちながら同時に地球規模の問題を取り扱う、アインシュタインが唱え、湯川が引き継いだ「理想」だった。人類の見果てぬ夢だ。番組でも今の若者に受け継いでいく大事さが強調されていたけど、心底から共感するほかない。

 この場面で映像に登場したのは小沼通ニ慶應大名誉教授である。湯川記念館の資料室員を務める彼が資料を探しながら「あらゆる意見は少数意見から始まる。誰かの発想が共有され機会があるとそれが多数意見に変わっていく」との湯川が生涯持っていた信念だったことを明かす一方「なんでこんな簡単なことがみんなわからないんだろう。必ず核兵器もなくせるし、戦争も無くさなきゃならない」との湯川の言葉を述べていた。強く印象に残った。

 小沼通ニの『湯川秀樹の戦争と平和 ノーベル賞科学者が遺した希望』(岩波ブックレットNo.1029)は僅か86頁の小冊子だが、人間・湯川秀樹を余すことなく伝えていて面白い。中でも、中折れ帽を被ってコートを着たままバットを振っている写真(左下)に目が止まる。「たまたま通りかかったのだろうか。ヒットを打って一塁まで走ったのは良かったが、なんとアキレス腱が切れてしまったという落ちがつく」とある。卓球(写真左上)も水泳もやるスポーツマンだったとのくだりや、よく似た自画像には笑ってしまった。さらには映画「シェーン」の主題歌「遥かなる山の呼び声」を歌うのが好きだったと知った。

 テレビの中で、湯川スミ夫人が突然出てきた。「アインシュタインが自分が研究したことが原爆になって、罪なき日本人を殺すことになり申し訳ないと、2人の手を握って、ボロボロと涙流して泣かはった」と、明るい関西弁で喋る場面だが、チグハグな感じがしたものの、この人ありて湯川秀樹あり、と腑に落ちた。(敬称略 2026-8-25)

 

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【110】「武士道」から「人道」へ、「死」より「生」を━━価値観の転換の大事さ/8-20

 

 この夏も「戦後81年」をめぐる様々な企画がメディア上で賑わっている。そのうちテレビの映像を通じて僕が観入ったものは数多い。なかでもNHK『映像の世紀』〜8K映像で描く第二次世界大戦〜は4回にわたって、日独両国と米ソ仏英など連合国との戦いを交互に対比しつつ追ったもので、毎回息をのみつつ観てしまった。最終回の『地獄』はタイトル通りの凄まじいまでの切ない映像の連続であった。とりわけレイテ沖海戦での過酷さは「我々から文明の仮面を剥ぎ取り全員を野蛮人に変えた」と米海兵隊員が回想していたように、人間同士の争いとはいえぬ酷いものだった。今年も例年の決まりのごとく、あれこれと専らNHKTVを(ビデオに収録し)観まくった。戦争への嫌悪感を改めて強く感じた人は少なくなかったに違いない◆このうち「こころの時代」の『われ過(あやま)てり 生きろ』は異色の内容を持ったもので、ある種の救いを感じた。劇作家で精神科医の胡桃澤伸さんのひとり芝居「鴨居に朝を刻む」で始まる映像だったが、戦争の被害と加害をどう受け継ぎ、どう伝えるのかというテーマを、皆んなで一緒に考えようとする意欲的な中身だった。伸さんの祖父・盛氏が村長をしていた長野県の河野村から満州開拓に73人が出向き分村を作る。だが、戦争終結と共に、現地住民の攻撃を受ける事態になり、「集団自決」という選択を取った。やがてその事実を知った村長は自分が皆を追い込んだことに自責の念に駆られ、一年後に自宅の鴨居で首を吊り自殺をしてしまう◆そのことをずっと知らされず気付かずに生きてきた孫の伸さんがその足跡を知ってから動く。その経緯の中で精神科医で作家の中井久夫氏や詩人の金時鐘氏との出会いがあり、伸さんはこころのひだの深い人間に育つ影響を受けていく。この問題の本質は、戦前の日本政府が中国大陸奥深くにまで植民地を作ろうとした国策と、それに追従した地方自治体の長の後悔と責任感である。祖父の日誌をもとにその軌跡を探る中で、死なずに生きる選択もあったのではないかと葛藤する。「生きること」への真摯な姿勢が観るものの胸をうたずにおかなかった。「満蒙開拓」をめぐっては、昨今殆ど論じられることもないが、先年テレビで教え子から満州に渡るべきかどうかの相談を受けた結果、行ってこいと背中を押した、学校の教師が登場していた。その時の笑顔が妙に気になった。苦渋に満ちた顔をして欲しかったと思ったものだ◆また、同スペシャル『白い旗 水木しげると硫黄島』は、戦時に死なずに捕虜になることの意味を問うものだった。生きて囚われの身となることを恥とし、玉砕を選ぶことでいいのかの問題を突きつける内容だとも思えた。実はこのテーマは「武士道とは死ぬことと見つけたり」といった戦国時代から江戸期日本に定着した考え方の延長線上にあり、旧日本帝国軍人の精神の骨格を形成するものとなった。この「死の美学」ともいうべき生命軽視の歪んだ向き合い方こそ、近代日本における異形な思想として根付いたものといえよう。特攻隊にせよ、沖縄での民間人の集団自決にせよ、余りにも生命を粗末にした場面を思うにつけても、「武士道」を説いた『葉隠』(山本常朝)の罪深さを思わざるを得ない。僕はむしろ「人道とは生き抜くことと見いだしたり」が大切だと痛感する。このフレーズをこれからの日本に定着させたいと心底から思う。(2026-8-20)

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2026年8月19日 · 2:48 PM

【109】「8-15」の後も対日戦をやめなかった国はどこか?/8-15

 81年前の今日8月15日。日本は長い戦争を敗北してしまった。ほとんどの普通の国民はこれで戦争は終わったと思い込んだ。昭和天皇がポツダム宣言受け入れを国民にラジオを通じて表明(8-15 玉音放送)されたのを聞いたのだから、当然だろう。しかし、戦争(局地戦闘と呼ぶべきか)は終わらず、ある意味で15日を境に、いやまして残酷なものに変わって続いた。それは別の意図を持った国による新たな戦争の継続だった。日本史を伝えるものの本には「その後も南樺太や満州ではソ連軍の侵攻が続き、犠牲者が出た。そして、9月2日の降伏文書調印により、戦争は終結した」とある。8-15に至る土壇場の経緯については旧ソ連は8-9の対日参戦から、遅ればせながら取れるものは根こそぎ頂こうと思ったのか。これを人は「火事場泥棒」と呼ぶのだろうが、「日露戦争の意趣返し」とでもいいたくなる◆「南樺太や満州でのソ連軍の侵攻」との表現は、ソ連軍のみによる攻撃と思ってしまう。だが、ソ連参戦の翌日8-10にモンゴル人民共和国(旧モンゴル)は日本に宣戦布告しているのだ。具体的な動きは定かではないが、ソ連軍と旧モンゴル軍の連合軍が満州方面では常態だったと見られる。実はこの問題については、既に書評やイベント報告などで僕は幾度か取り上げてきた。ジャーナリストの井手裕彦氏の『モンゴル抑留』に詳しい。外務省、厚生労働省など日本政府には、その実態を知りながらも究極のところは曖昧にしてきたと言わざるを得ない経緯がある。煎じ詰めれば、日本が旧モンゴルという存在を国家承認してこなかったことに原因があり、社会主義大国・ソ連のもとで第一号の衛星国になった旧モンゴルの影が極めて薄かったことが災いをした。今回井手氏の指摘があって初めて日本は旧モンゴルとも戦争をしたんだとの認識を持った人も少なくないだろう◆かくいう僕も井手氏の存在や主張を知ったのは最近になってからだが、著作を貪り読む中で多くの知識を得た。色々初めて知ったことばかりだが、最も印象的だったのは、山海関という旧満州の街で暮らしていた民間人(華北車輛社員)家族が「(領事館からの避難命令で父と)別れたのはソ連・モンゴル軍が侵攻してきた『運命の日』、1945年8月31日である」との記述(同書102頁)である。これは、井手氏が2019年11月に初めて会った民間人の死亡者の遺族(当時84歳の娘さん)から聴いた話の一部だという。ソ連・モンゴル軍が満州に侵攻してきたのが、終戦から16日も経っていたことにも驚いたが、民間人家族(母親と子供5人)が「無差別に拉致された」父親と最後の別れをした時と、その後の一部始終や民間人死亡者の遺族の心の底からの国への恨みの言葉など、いずれも強い共感を覚えずにはおかなかった◆日本がモンゴル人民共和国を国家として承認したのは1972年2月19日。事実上は1961年に国連に同国が加盟した時に関係は動き出したといえようが、日本と彼の国は疎遠な関係が続いた。全てはソ連経由だったと見られる。「抑留」についても、旧ソ連と旧モンゴルの間では、日本人の捕虜を分け合うとの「密約」があり、それに応じて全てが決められた。また、日本とモンゴル人民共和国との間には1939年に起きた「ハルハ河戦争(いわゆるノモンハン事件)」の後遺症的遺恨が双方に強く残り、わだかまりがあり続けた。モンゴル人民共和国は、1924年にソ連傘下の国として誕生していらい、「ソ連崩壊」を受けて「モンゴル国」と衣替え(1992年)、民主化したものの強固な露蒙関係に変わりはない。こうした背景もあって、日本は70年近くというもの、旧モンゴルを基本的には無視する傾向が強かったと言って過言ではない◆ようやく両国の関係に光が差し始めたのは1991年8月の海部俊樹首相の初訪問以来といわれ、未だ30年余に過ぎないのだ。しかも経済的関係重視の中での〝歪んだ歩み〟である。「抑留」にまつわる問題処理も遅れ続け、まっとうな外交関係樹立も棚上げ、後回しだったことは想像に難くない。「友好第一」はそれなりに効果をあげてはいるものの、基本はやはりご都合主義というべきだろう。先日の大阪でのイベント(『モンゴル抑留』出版記念講演会)の場で、井手裕彦氏から突きつけられた日本の対応改善について、僕の方から善処を約束したように、全てはこれからだというほかない。つまり、隠されていた「戦後処理」が新たに顕在化しただけかもしれないのだ。(2026-8-15)

 

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【108】80年経った被爆地の変貌明かす━━飯田政之『広島を伝える』を読み込む/8-10

 「非核三原則」なるものをあなたは知っていますよね。では、「新非核三原則」は?「持たず」「作らず」「持ち込ませず」━━今の三原則に代わって「持たせず」「作らせず」「使わせず」(核実験も含め)という新たな原則を打ち立てるべきだと公明党が世に問うたのは1998年。これは被爆国が掲げる原則にしては現行の三原則があまりにも当たり前過ぎる、むしろ核保有国をもっと縛る原則に変えるべきではないのかと、当時公明党の外交安保部会長だった僕が着想し、提案したものだった。あれから28年。高市早苗首相周辺から核保有の動きがほのうかがえ、首相自身も原則を堅持していると現状を表明するだけで、近未来の有り様については触れようとしない。つまり核は持たないと明言しない。僕が新原則を表明した際に、産経新聞だけが注目し、インタビューを受けた。核保有の選択肢を閉ざすべきでないとの主張を持つメデイアとしては公明党の理想主義的頑なさが気になったのだろう。だが今日の状況を見ると、公明党の先見性が伺えるといえないか。28年前に殆ど注目されなかった「持たず」の三原則を、「持たせず」の原則と強化すべきだとの新三原則への転換。歴史の流れに幻と消えたかに見えるのは、少し考え過ぎたからなのかも知れない◆今年の広島への原爆投下から81年となる「平和記念式典」をテレビで見たあと、5月に贈って戴いていた飯田政之『広島を伝える』を改めて読み直した。飯田氏は読売新聞時代に公明党番記者として活躍。僕とは党広報局長時代に付き合った仲だが、今も時々会う親しい友人だ。この本はサブタイトルに「メディア人として思うこと」とあるように、「伝える」をキーワードに①音楽②文化③ファクト④被曝の記憶⑤ローカルテレビの現在地という5つのテーマをもとに事細かに描いている。④については、「継承と表現」、「闘う被爆者と国際政治」の2つに章立てを分けており、5テーマ6章の構成になっている。ふんだんに写真、コラムが使われており、情報量がめちゃ多い。これじゃあ字が小さくて読み辛いよと、つい先日会った際にこぼしてしまった。「広島」を考える上での基礎資料が見事に提供されている。我が大学同期の60年来の畏友・福島和宏(元広島市議)も「自分の現役時代に取り組んだことも盛り込まれており、自分ごとのように読めた」と褒める◆この本の中で僕が注目したのは「被曝の記憶」をどう伝えるかに分類された2つの章だ。第4章では、ピアノ、折り鶴、原爆ドーム、歌、絵、漫画、ドキュメンタリーという7つの「継承と表現のかたち」が読むものを惹きつけた。第5章は、一転、被爆者と国際政治の動きを追う。国会の場で外交や安全保障に長く関わってきた僕としては、「埋まらない理想と現実の溝」に大きな溜息をつくしかない。僕がこの本を読み進めていく上で惹きつけられたのは、30個のコラムである。ここには彼のこれまでの人生の思い出が散りばめられており、自伝をアルバム付きで読むような趣があり実に楽しい。例えば④では東大駒場キャンパスでの音楽部の公開練習で偶々聴いたブラームスの交響曲第一番が自身の人生を変えた話が出てくるし、⑩では中学・高校生時代以来遠ざかっていた剣道に50歳過ぎてから取材先の縁で再び挑戦し、今や7段に挑戦しようという姿が描かれている。新聞記者をしながらバイオリンと竹刀を離さなかった〝音武両道〟の使い手の心象風景が分かって実に面白かった。加えて、言葉の重みについて広島カープの新井貴浩監督の「は」と「が」についての使い分けのエピソードや、日本テレビの藤井貴彦元キャスターの「言葉の筋トレ」での、毎日続ける5行日記の修練なども紹介され、とっても興味深い◆コラムを読み進めるうちに、同じ「被団協」のことを扱っているものが2つあるのに気がついた。No24の見出しは「広島の被団協は一つになれないのか」。No27の方は「世界がヒバクシャに向き合った理由━━被団協へのノーベル平和賞」。この組織体が一つになれない理由は、左翼勢力の党派的争いという古い日本政治の宿痾を反映したものである。僕もかねて広島のこの組織だけでも一つになればいいのにと思い続けてきた。そんなことを乗り越えて2年前にノーベル平和賞を被団協が受賞し得たのは、「『過去の記憶』を伝えるだけではなく、国際社会に挑み続ける営み(覚悟)」が原動力だったに違いない。組織ではなくヒバクシャそのものに世界中が向き合ったことを意味する。見出しのカタカナ表現の使い分けがニクイ。この受賞をきっかけに統合が実現していたら日本のリベラルも少しは見直されたかもしれない。2つのコラムを読み比べつつ、文章まで一本化できないものかと、つい余計なことを考え過ぎてしまった。(一部修正 2026-8-10)

 

 

 

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【107】こぼれ話あれこれ━━井手裕彦『モンゴル抑留』出版記念講演会から(下)/8-5

1日の出版記念講演会での僕の持ち時間は20分。話せなかったこと、喋っても上下2回に挿入できなかったことなどが少々あります。これらを「こぼれ話」としてまとめる一方、最後に井手裕彦さんがモンゴル抑留による「死亡記録配達人」として僕の住む西明石の隣町をほぼ一日かけて遺族関係者宅を探し歩かれた部分を、番外版として報告します。

⚫︎源義経伝説と大相撲の話題

モンゴルといえば、僕らの世代で関心が高いのはなんと言っても、「蒙古襲来」です。とりわけ日蓮仏法を信奉してきた僕にとって、文永、弘安と2度にわたる蒙古の攻撃に対応された日蓮大聖人のことは忘れられません。ですが、個人的には、「ジンギスカン(成吉思汗)は義経なり」との伝説です。井手さんの本の60頁に出てきます。

「余談だが、シーボルトが唱えて以来、日本では隠れた人気がある「源義経=チンギス・ハーン説のことを話題にすると、モンゴルの人たちはこう言って顔をしかめた。『日本人はそんな荒唐無稽なことを信じているのですか』」というものです。僕なんかは作家の高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』っていう本に取り憑かれました。義経が兄頼朝に追われて陸奥から北海道を経て大陸に渡って云々という伝説らしき話の果てにチンギスハーン(成吉思汗)になって活躍したなどという物語は、血湧き肉躍るものとして今も厳然と我が胸に宿っているのです。

さらに、モンゴル人で僕が最も付き合った人がひとりだけいます。大相撲で横綱になった鶴竜関です。彼とは僕の地元・姫路の建設会社の社長とのご縁で、毎年春場所で大阪にやって来るたびに、後援会員の皆さんと一緒にひと夜姫路での懇親会に招かれました。同じテーブルを囲んだ仲であれこれ話かけましたが、殆ど話は続かない寡黙なひとでしたが、クレバーな男の印象はありました。今は大関霧島の所属する音羽山部屋の親方として活躍中です。

⚫︎『77年の興亡』と石破茂前首相

僕は明治維新以来の日本の160年ほどの歴史を顧みる時に「77年の興亡」との視点が重要であると思い、同名の著作にも書いてきました。今回の講演会を主催した一般社団法人『未来を創る新教育推進会』は、個人的にはリカレント教育、社会全体的には歴史の学び直しを目指すものと位置付けられます。井手さんは、日本の歴史におけるモンゴルという国との関係見直しと教科書の書き直しを政府に求めていますが、そういう重要なものを取り上げさせていただくことはとても誇らしいことです。

明治維新の年(1868年)から日本の敗戦(1945年)までの77年間が第1期。1945年から「デジタル敗戦」ともいえる2022年頃までの77年間を第2期として、只今現在は2099年までの第3期に入っているとの歴史の捉え方ができます。今日の井手さんの指摘はこれからの第3期で取り組まれるべき重要なテーマです。問題は第1期のゴールである敗戦に伴う「戦後処理」が未完だという点です。第2期はそれを置き去りにしたまま経済成長一本で奔走してきたものの、後半は「失われた時代」の烙印が押されざるを得ません。第1期の決着さえつけられない中、今再びの敗戦に見舞われているということです。それをどうするか。井手さんの問題提起を突破口に事態を打開するしかないと申し上げて、今日のご挨拶とさせていただきます。

なお、蛇足ですが、私はこの団体のトップに長年の友人である石破茂前首相を招きたいと考えました。リカレント教育という歴史と個人の学び直しに相応しい人物だと思ったからです。ところが僕の依頼に「ん?僕はまだ現役なんだよ」とおっしゃって、あっさり断られました。近い将来の「首相再登板」を狙っておられるのでしょう。なら、尚更学び直しが重要なはずですが、残念でした。

🔳番外編━━西明石に「死亡記録配達人」として登場

大阪でのイベントの翌2日井手さんは岡山へ、モンゴル抑留で亡くなった人のお墓参りに行ったあと、3日には、私の住む西明石の隣り町である大久保町や小久保町にやってきました。明石に死亡記録を配達しに行く予定であることを漏れ聞いた僕はぜひ同行させて欲しいと申し出ました。

しかし、それは訪問先の相手を萎縮させることに繋がる恐れもあるので、辞退しますとのこと。より詳しく聞くと、今回の配達にはぜひ報道させて欲しいとの某TV局の取材依頼があり、その記者が同行する予定なので、赤松が行くと3人になるため、避けたいということでした。このため僕は彼が訪問先の地図をコピーするべく立ち寄る市立明石図書館に行き、手伝いを申し出る(写真上 後ろ姿はコピーする井手さんと記者さん)ことにしました。

最終的に同日夕刻、目的の遺族の方の大姪に当たる人に会えたとの嬉しい報告を聴き、拙宅にて休まれることを提案。午前11時過ぎから午後4時過ぎ頃まで5時間に及ぶ炎天下の労作業についての懇談はまことに尊いものではありました。(この項終わり 2026-8-5)

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【106】日本政府の「怠慢」を暴く━━『モンゴル抑留』出版記念講演会から(中)/8-3

井手裕彦氏の『モンゴル抑留』の出版を記念する講演会を主催した一般社団法人『未来を創る新教育推進会』の理事(副会長)を務める僕は当日講評を行うと共に、同社団の目指す理念を紹介しました。前号に続き、その際の発言を基本に追加修正したものを含めて公開します。(写真上は井手さんを囲む参加者代表。下は77年の興亡とイメージ)

⚫︎友好第一でもなく軍国主義批判でもなく、日本政府の怠慢を突く

モンゴルについて書かれた本で次に有名なのは、半藤一利さんの『ノモンハンの夏』です。半藤さんといえば夏目漱石のお孫さんと結ばれた方ですが、その娘婿が僕の親しい友人である北村経夫元産経新聞政治部長(現在参議院議員)です。この人に頼みこんで僕は20数年前に半藤さんに会ったことが忘れられません。会うなり「貴方はくだらない本を随分読んでる人ですね〜」と呆れられたからです。

事前に『忙中本あり』という2年間に300冊ほど読んだ本の読書録をまとめたものを渡していました。そんなこと言われたものでムッとした私は「政治家を知るための資産公開がありますが、それより政治家はどんな本をどう読んだかを公開した方がいいんじゃないですか?」と切り返しました。「うん。それはいいかも」との答えにホッとしたものです。

それはともかく半藤さんはご自分の本で、それまで司馬さんさえ書かなかった「ノモンハン事件」(モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ばれています)について徹底的に詳しく書いていますが、やりきれないほど重苦しい本です。僕は先の司馬さんの本がモンゴルにとても優しいまなざしで貫かれた友好第一の本だとすると、半藤さんの本は、日本軍国主義の非道さを徹底的に暴き批判した本だと思っています。

これに対して、井手さんの本は、先の大戦後(1945-8-15以後)に起こったソ連とモンゴルの参戦、抑留という不幸極まりない出来事について、なぜどのような経緯で起こり、その実態を克明に明らかにしています。そして現実には、シベリア抑留とは全く違って、ソ連の影に隠れて殆ど起こっていないようにしかみえないモンゴルのケースについて日本政府の不手際を明らかにしているのです。こう見ると、3冊の中で、井手さんの本が最も優れていると言わざるを得ません。

⚫︎「77年の興亡」の第3期では「戦後処理」と個人の学び直しを

さて、今回井手さんの本を我々一般社団法人「未来を創る新教育推進会」はなぜ取り上げたのでしょうか?

それは、今までの個人、社会、国家における教育のあり様を見直す必要があるとの認識から出発している我々として、まず日本という国が他国との関係を誤った歴史として捉えている事を見直したいとの思いがあるからです。先ほど来申し上げていますように、モンゴルという国に抑留されたにも関わらず、どこでどう亡くなったのかも知られないまま死んでいった人々のことを身体を張って調査し、遺族にその経緯を報告をするとの難作業に取り組む井手さんの生き方にこそ、新聞記者からジャーナリストへの転身における個人の学び直しと歴史の見直し姿勢が詰まっていると存じます。

我々は明治維新以降三たびめの「77年のサイクル」の歴史の中に生きています。詳しくは私の書いた『77年の興亡』を元に作ったレジュメをご覧いただきたいのですが、これから始まる「第3期の77年」で、我々は社会として国として、国民あげて第2期で放置された「戦後処理」に取り組まねばなりません。でないと真の未来は開けないと確信するからです。と同時に個人の生き方として、リカレント教育に取り組み、学び直しをする必要があると思います。

その生きた見本として我々の一般社団法人のトップである相島淑美さんのこれまでの生き方を一つのモデルとしてご紹介します。この人は上智大英語学科を出て日経新聞に入社し記者になりました。ですが自分には今一つ合わないと思い、6年後に慶應義塾大学大学院文学研究科に入り直し、アメリカ建国時代から19世紀の文化、精神を研究し、英語力に磨きを掛け直し、卒業後は4年生の大学の講師になる一方、翻訳家として百冊を超える本を出版します。そしてまた6年後に、今度は関西学院大のMBAに入り直し、経営学博士号を取得されるのです。そして更に神戸学院大に准教授として転身。今は経営学部教授として、日米経営学比較とか、茶道に見るおもてなしの研究など多方面で活躍中です。私はこの人の中に学び直しの極意というか、真骨頂を見るのです。(以下つづく 2026-8-2)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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