夏の京都に安土桃山文化の源流を求めて旧友と散策

学生時代の友人H氏と、時に応じて京都、奈良の古都を散策する機会を持つことがあります。これまで16-7回ほど試みてきました。彼は既にこの辺りを優に350回を超えて回ったといいます。京都については、『京都検定』を取ろうかというほど詳しいのです。その彼から過ぎ行く夏を楽しまないか、と声がかかって、この24-25の二日間、京都旅に出かけてきました。この旅、単なる気まぐれの名所旧跡を訪れる観光ではありません。安土桃山文化の原動力の源には法華経があったことを探りたい、との明確な意図を定めた研修旅の趣きすらある有益な旅でした。その旅の一端をご披露します。(写真はホームページ『写真録』に)▼今回の旅は、広い意味での日蓮大聖人の京都での影響を探るという狙いを持って、彼は行程を企画してくれました。勿論それだけではなく、関係地域を訪問する合間に、別のテーマも追うよう手配をしてくれました。その結果、法華経に関するものと、それ以外に、鴨長明の方丈庵跡地、 崇徳天皇ゆかりの白峯神宮、そして両腕を若くして失いながら見事な人生を生き抜いた順教尼の仏光院(勧修寺の塔頭)にも行きました。二日間の日程は車をフルに使ってのものでした。法華経に関しては、長谷川等伯に纏わるものや、江戸の大詩人と謳われる元政上人有縁の地にも足を運びました。宿泊先は琵琶湖湖畔の大津市内のホテル。〝持つべきは友〟を実感する心洗われるひとときを体験出来たのです▼京都における日蓮大聖人の足跡は、5老僧の一人である日朗の弟子・日像によって辿ることが出来るようです。これまで私も殆どその辺りについては不確かでしたが、あちらこちらに点在する日蓮宗系の寺院は日像の獅子奮迅の闘いによって切り開かれたと位置付けられます。また、作家・安部龍太郎氏の名作『等伯』でお馴染みの、国宝『楓図』が展示される智積院を訪れ、具に本物を鑑賞できたことは大きな収穫でした。また、元政上人の菩提寺である深草の瑞光寺には今回が二度目でしたが、茅葺の本堂の落ち着き具合は、まるで懐かしい故郷の母屋に帰ってきたようで心和む佇まいでした。今回は隣接する同上人のお墓にも行き、名高い親孝行ぶりにあやかれるよう心正した次第です▼鴨長明の『方丈記』を読んで以来私は、ぜひ一度は庵跡に行きたいと思っていました。そこは想像にも増して深い森の中にありました。親鸞ゆかりの日野の寺院から山あいを登ること500mほど。訪れる人もない寂しい場所です。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まるかの有名な文章。記念の碑の前で、その中ほどに出てくる、「ときどき来たりてあひとぶらふ」10歳の小童を想像してみました。一方、讃岐の地に流され、無念の死を遂げた崇徳天皇の霊を慰めるべく、明治の御代になって鎮魂の思いを込めて作られた白峯神宮。今は蹴鞠からの連想で、サッカーの聖地となっている場所です。ことの発端が忘れられてしまう危惧から、複雑な心境にならざるを得ませんでした。また、17歳の年(明治38年)に養父の狂刀の巻き添えを食って両腕を失った女性はのちに仏門に入り、順教尼となって、口で字を書くようになります。その足跡を飾ったお寺で、彼女の仏そのものと言っていい慈母のようなふくよかで優しい顔を拝見しました。感動しました。そうした一連の旅の中で、H氏が語った法華経礼賛の言葉は、私にとって何にも増して嬉しいことでした。学生時代から50年。当時折伏を受けて、いきなり信仰の門を叩いた私。一方、紆余曲折を経て大いなる研鑽の末に、遂に今信仰の門前に立ち来った友。案内してくれる姿を後ろから追いながら、変われば変わるものと驚くばかりの思いがしたものです。

「産経」インタビューでの私の提言の虚しさ

産経新聞8月9日付けに掲載された私のインタビュー記事(『改憲再出発』)をめぐって、世の中の反応は残念なことに殆どない。私のことをよく知ってくれている友人、知人(各紙記者を含む)30人ほどには予め掲載を知らせ、読んでくださるように伝えた。ほぼ9割ほどの人は絶賛してくれた。反対とか文句を言ってきた人はゼロ。1割くらいは、音無しの構え。ようやく22日になって、同じ産経紙の「阿比留瑠比の極言御免」欄で、「改憲消極論  山口代表にうんざり」との見出しの論考の末尾に、私の発言が二箇所引用され、「山口氏にはこの言葉を拳々服膺してもらいたい」と結んであった。予想されたこととはいえ、いささかの筋違い感は否めず、敢えて蛇足を付け加えたい▼先のインタビューで、確かに私は山口代表の憲法論議への姿勢に疑問を投げかけた。しかし、それは阿比留氏のように「改憲消極論」との認識からではなく、「加憲消極論」に対するものであった。阿比留氏は、加憲も改憲の範囲内と言うのだろうが、それでは厳密さを欠き、公明党への誤解を招く。改憲は全部変えようというもの。加憲は足らざるを補おうというもの。家でいえば、新築と増改築の違いか。改憲の自民党が加憲に擦り寄ってきたかに見えるのだから、つれなくするのは連立のマナーに反するのではないかということだった。連れ添って20年ー9条3項に自衛隊を明記するとの加憲については、改憲に絡めとられるから危険だとか、公明党は環境権、プライバシー権の加憲ならいいので、それ以外は話が違うなどと言うのは、結局は身勝手な我儘に見える▼ただ、その前に私が指摘したかったのは国会での憲法論議のいい加減さであった。山口代表が議論が足りない、もっと議論をと言われるのは、ちょっと違うのではないかという思いがある。国会での憲法論議のあり方、仕組みをそのままにしていて、議論が足りないと言うのでは百年河清を待つに等しいのではないかとの危惧を持つからだ。そこで、私は三つの具体的な提案をしたのである。阿比留氏にはこの点についても触れて欲しかった。この提案に耳を傾けてくれる政治家、政党、メディアはいないのか、との思いが私には極めて強くある。なぜ、私があの提案をしたか。今のままでは強引に憲法改正への発議を迫る動きと、それを拒否する反動的動きがぶつかるだけで、不毛の再継続になるとの恐れを抱くからに他ならない▼憲法を全面的に改正するのか。全く変えずに今のままでいいとするのか。それとも部分的に変えるのか。こうした点を国民は果たしてどう思ってるのかを予め察知することこそ大事ではないか。そのために事前に予備的に国民投票をする必要があるのではないか。また、今の政治家に本当に任せきれるのか。助けを外の世界に求めずともいけるのか、どうか。こうした観点に立った私の提案への賛否の反応が未だどこからもないのである。公明党内の路線の違いなどといった小さい問題ではない。お盆も明けて、国会も動き出す。近く関係者とも会って意見を聞くつもりではある。みんなだんまりを決め込まれるのでは、憲法論議に一石を投じたのではなく、外野席から紙飛行機を飛ばしたみたいだ。結局は大勢になんの影響ももたらすことが叶わず、虚しさだけが募っていく。

坑道ラドン浴で過ごした真夏の三日間

暑い、あついを連発するたびに、涼しい森の木立の中で、川のせせらぎを聴きながら過ごせたら、どんなにいいかと誰しも思われるでしょう。私は姫路市北部の安富町にある日本で唯一つの坑道(元金山)でラドン浴が出来る富栖の里に行くことを思い立ちました。あそこなら単に涼むだけでなく、健康にもいい。一石二鳥にも何鳥にもなる。同じ行くなら、泊りがけで、と意を決して、近くにある宿泊施設ヴィラ富栖を四泊ほど予約(一泊5000円)したのです。選挙後しばらくしてのことでした。本を読み、書きかけて中断している回顧録の平成編を書くにもいい機会だと一人だけの夏休みと洒落込んだのです。富栖の里については幾たびか紹介してきましたが、旧友・亀井義明氏が運営(一般社団法人 全日本地域振興事業機構)に携わっています。もう10年ほどになります。設立する段階から相談に乗ってきました。大量の放射線は人を死に追いやるが、少量の放射線はむしろ健康にいい影響をもたらすーホルミシス効果です。坑道から沸き立つラドンの中で横たわったり、椅子に座って本を読んで過ごすうちに体内に取り込まれるラドンがひとの免疫を高める。ということから、様々なガンや生活習慣病などに悩まされる多くの人々がここを訪れるようになっています。私がこの度数年ぶりに再訪した時も、50人ほどの老若男女で賑わっていました▼偶々着替えのロッカールームで声をかけた人は小野市からのリピーター。既にここには55回来ているという70歳前の大腸と肝臓にガンを持つという男性は、「当初はガンを治したいとの思いが強かったのですが、ここへ来てから亀井さんの云うように、ガンも身の内、折り合いをつけながら明るく生き抜けばそれでいいと思うようになったのです」と涼やかな表情で語っていました。また、市内南部からという85歳の女性は、「これまで数回にわたってガンの切除をしました。未だいくつか小さいながらもありますが、気にしてません。ガンと共存するのが大切です」と、20歳は若くみえる元気な言いぶりで語ってくれました。亀井氏はこの10年、数百人を超える人々の相談に乗ってきて、医師、病院は万能でない、むしろここに来て、生きる希望を持つことで明るく元気になってガンと一緒に生きることにした人が多いと言い切ります▼1日目、2日目と坑道で午前、午後と合わせて3時間ほどゆっくり本を読み、夕方ヴィラに返ってブログを書くという生活をしました。3日目は、石見前姫路市長が静養と視察を兼ねてやってきたので、しばし懇談する機会にも恵まれました。また旧知の姫路に住む奥さんが乳がんだというSさん夫婦とばったり会いました。医師から余命2ヶ月と言われながらもう2年が経つのに、元気だといいます。亀井氏から「医師ががんだ、余命数ヶ月だと云ってもその通りにならない例は数多溢れています。あなたたちも〝がんもどき〟なんですよね」との言葉に大笑いしました。私は今お互いこうやって生きてるってことそれ自体が奇跡なんですよと持論を述べたしだいです▼3日目の夜は富栖の里から少し南に下ったところにある栃原に住む高校、大学とほぼ同期だった山本 祐三君の家にお呼ばれしました。東京から帰省中の娘さん夫婦との家族団欒の席に入れてもらったのです。あっという間に3時間が過ぎ、帰る時間になったのですが、楽しい語らいでした。ヴィラに戻ると、今月初めにインタビュー取材を受けていた産経新聞政治部から出稿直前のメールが届いていて、ゲラ直しに大わらわとなりました。「改憲再出発」というタイトルでの連載で、各党のOB議員から今の憲法審査会での議論をめぐる考えを聴くとの中身です。慌ただしく一方、友人知人に明日の産経新聞を見てくれるようにとメールしました。そうしないと誰も新聞記事など読んでくれません。夏休みの避暑地が一気に仕事場となってしまいました。友人宅で家族団欒の席に連なって里心がついたわけじゃあないのですが、もう一泊の予定を切り上げて、翌日昼過ぎには帰路につくことにしました。新聞掲載対応のためです。結局三泊四日の夏休みで、大した成果はなし。うだる暑さの我が家にまた帰ってきました。(2019-8-10)

 

 

中国に帰る少壮の学者(ジャーナリスト)との別れの茶会にて(下)

李海さんとの別れの茶会のひとときでの語らいと、そこから得たものを私風に再現してみよう。彼の日本への留学、滞在は19歳の年から18年に及ぶ。もともと四川省の地方都市・眉山で生まれ育った彼は、遠く離れた日本に憧れた。勉学を通じて自分の運命を変えたいとの志を持ち、日本留学に挑戦した。最初は日本の中国・広島県福山市で一年半の間、日本語を勉強し、その後香川大学で法律を学んだ。そして、名古屋大学で日中比較文学、ジャーナリズムを研究する。博士論文(『日本亡命期の梁啓超』=桜美林大学北東アジア総合研究所から出版)に挑む間に、香港衛星テレビで働くようにもなり、東京支局長となった。結婚もした。そんな彼にとって、日本における最大の思い出は、名古屋大学での恩師・楊曉文先生との出会いと別れだという。この人のもとで一緒に研究をしたいとの欲求が敢え無く先生の急逝(2014年7月 享年51歳)によって潰えた。彼が博士号を取得した僅か3ヶ月後のことだった▼実はこのほど駐日中国大使になった孔鉉佑氏は上海外国語大学で楊先生とは同級生だった。先般大使就任の際にお会いした李海さんはお祝いの言葉を述べた。話題は楊先生のことに及び「若くして彼は逝ってしまった。本当に残念だなあ」としんみり述べられたという。哀愁が漂う表情でのツーショットになってしまいました、と私にその時の写真を見せてくれた。写真の二人に見つめられた私は、瞬時に楊先生になり変わったかのような錯覚をしてしまった。彼はこれから中国の貴州民族大学に向かう。そこで何をするのか。日本文学と日本事情を学生たちに教え、語る。意欲満々の表情を漲らせた。彼の地での様々な民族の若者たちが日本について学ぶとは素晴らしい。日中相互理解に彼ほど見合う教官はいないと確信する▼私は実は中国に過去に二度ほどしか行っていない。創価学会青年部第一次訪中団と公明党第十三次訪中団の随行記者としてである。もう40年ほど前のことである。以来行っていない。なぜか。中国への贖罪意識が否定できないからとでも言えようか。江沢民氏の「反日教育」や習近平氏らの「中華民族の栄光」と云った言動を見聞きすると、大袈裟だが、どうしても「中国の報復」を意識してしまう。そう語った私に爽やかな笑顔で「そんなことはありませんよ。もう総て終わっています」ときっぱり。〝一知全解〟というわけにはいかないものの、彼の懐の深さと巨大な国家・中国の多面性を改めて知る思いであった▼日本についてどこがいいと思うかと訊いてみた。平和で比較的安全で、安心なところだと指摘すると共に、「製品やモノの出来具合い、サービスや人間の修行に至るまで、皆が極めているかのように見える」ととても嬉しい言葉が返ってきた。いささか褒めすぎのような気がする。もちろん、厳しい見立ても。「だけど、もはや日本人にはワクワクする思いが持てないように思われます。特に若者にエネルギーが感じられない。東北の大震災とりわけ福島第一原発の事故は、日本の国家イメージを決するような重大な関心事だけれど、どうこれを解決していくのか。再チャレンジ可能な社会作りに向けて若者のエネルギー溢れる社会になってほしい」との注文は私の耳に、中国の山あいからのこだまのように切れ切れに響く▼私は「日本社会40年変換説」を改めて彼に説いてみた。明治維新から日清・日露戦争の勝利を経て、敗戦からバブル経済へ。さらにそれの崩壊から少子高齢化の極みへと負の時代が続く、と。興隆を続ける中国を横目に、漂流する日本の現状を語ることは、同じ時期に政治家だった私には、多額の借財を突きつけられたかのようでとても辛い。平成の30年は結局日本にとって変革が望まれながら、ついに全て先送りした「失敗の時代」だったとの認識を示す他ない。では令和の時代はどうなるのか。これまでの価値観を改めて、軍事・経済力はほどほどに、文化、芸術、教育に一意専心する国作りが必要ではないかとの持論を語った。米国との同盟関係を堅持するのか、中国との新たな交流に身を委ねるのか。アジアにおける日本の選択について訊かれた。それには、どちらにつくか、つかぬかではなく、真の自立国家として、巨大な米中両国家の狭間で狡猾に生き抜く逞しさを持ちたい、と。こう語り合って、春秋に富むいい友人を中国に持った喜びをしみじみと実感する。近い将来彼の地に行ってみたい。だが、私には残された時間はもうあまりない。(2019-8-5)

中国に帰る少壮のジャーナリスト(学者)との刺激的な語らい(上)

香港衛星テレビ東京支局長の李海さん(37歳)を私が知ったのは、現役を引退(2012年12月)して、大分経った頃だった。浅野勝人さん(元内閣官房副長官・外務副大臣=元NHK解説委員)からお誘いを頂き、同氏が理事長を務める「一般社団法人   安保政策研究会」に理事として加わった最初の会合で、初めてお会いしたと記憶する。その際に、故中嶋嶺雄先生の著作選集(全8巻)をまとめるお手伝いをしていると、打ち明けられた。私が慶大在学中に、東京外語大からの講師だった同先生の教えを戴いてより半世紀。急逝された先生とのご縁を持つ中国人ジャーナリストと知って、一も二もなく親しみを感じた▼それ以来、中嶋嶺雄先生の追悼の意も込められた著作選集出版会を始めとして、折に触れて会う機会を持った。私が尊敬してやまない荻巣樹徳氏(植物学者・ナチュラリスト)を東京で彼に取材して貰う機会も作ったことがある。今も中国の奥地(タイやヴェトナム、ミャンマーとの国境沿い)でフィールド調査をし続け、多くの中国人の知己を持つ同氏。その時の李海氏について「中国人の中ではかなり柔軟な思考の持ち主ですね」と印象を述べたものだ。また、李海氏は創価学会本部を初めて訪ねた時に「女性が凛としていることが印象的でしたね」と述べたことも忘れ難い。そんな彼と、創価学会の池田大作先生と作家・王蒙氏との対談集『未来に贈る人生哲学』の読後感を語り合ったことがある。この本には心底から感銘を受けたのだが、彼も両先生の学識の深さに感動したという。ただ私はひとつ気になったことがあり、それを彼に訊いてみた▼王蒙氏は、中国文化大革命で新疆にひとたびは飛ばされ、また復活して文化相になるといった毀誉褒貶があることについてである。こうした変遷が日常的に起こり得ることなのかどうか訊いてみた。彼は、「中国の政治は指導者が変わるとやり方も変わるから、それを予め察知して避難したりしていると思います。大臣にもなり、天安門事件の前に辞めるなど政治的に巧みです。今でも次々にヒット作を出していることを見ても、共産党と文学活動にうまくバランスをとる極めて聡明な人物です」との答えが返ってきた。さらに、私はこういう王蒙氏のような立ち居振る舞いが出来る人は珍しいのか、そうでないのかを訊いてみた。それには、「文学の社会性を保ちながら、中国共産党とうまく付き合う文人は少なくないです。中国で生き抜くには知恵が必要であり、巨大権力との戦いには様々な戦術が必要ですが、王蒙氏の例は決して特別ではありません」との反応だった。曇り空から太陽が一気に光を放った時のように、大いなる刺激を受けたものである▼こうした彼との対話は主にラインを通じて行ってきた。一度食事を共にしたが、東京、姫路と遠く離れているだけに、たまに「安保研」で会うぐらいだった。そんな彼から、つい先日、「8月25日に中国に帰ることになりました。貴州民族大学外国語学院で勤務します」という連絡があった。慌てて私は上京の機会を作って、久しぶりに会う段取りをつけることにした。というわけで、李海氏と私の二人だけの「送別の宴」ならぬ、〝送別の茶会〟は8月1日の朝、東京駅ステーションホテルの喫茶室で行われた。次回はその模様を伝えたい。(2019-8-4一部修正)