Author Archives: ad-akamatsu

的を射た公明党の「日共批判」-「改憲と加憲のあいだ」➂

日本共産党と公明党の間でのいわゆる「公共憲法論争」から40数年が経った。当時私は、公明新聞記者をしていた。編集の最高責任者だった市川雄一編集主幹(当時。元党書記長)のもと、先輩たちが懸命に「公開質問状」に対応していた姿を思い出す。ことの発端は、1973年(昭和48年)12月17日に、日本共産党中央委員会が公明党中央委員会に宛て、25項目の質問を含む「公開質問状」を送り付けてきたことだ。これに対して公明党は、翌74年2月8日に、全ての質問に答えた回答状を共産党に返した。これをきっかけに、公明党は逆に74年6月18日、7月4日の二回に分けて、「憲法3原理をめぐる日本共産党への公開質問状」を提起した。全文22万字に及ぶ、70項目200余問の質問を含むものだった▼入社4年目の30歳前の新米記者だった私など、当時は到底預かり知らないやりとりだった。およそ半年余りの期間に、高揚する社内の気分だけは今なお鮮明に覚えている。以来、共産党からいつ返事が届くのか、心待ちにし続けた。しかし、呼べど叫べど回答はこない。まさになしのつぶてとはこのこと、今となっては、論争から逃げてしまった共産党という政党には呆れるばかりという他ない▼では、この「質問状」で公明党は何を問題としたか。一つは、共産党が平和・人権・民主を柱とする現行憲法を破棄するとの方針を堅持していること。二つは、複数政党制や三権分立など現行政治制度の全面的改廃を狙っていること。三つは、共産党の路線、マルクス・レーニン主義(科学的社会主義)には、自由・民主主義などの市民的社会の持つ諸価値と対立する重大な要素が含まれてること。四つは、共産党の統一戦線論は、政権交代なき共産党一党独裁政権を目指す革命路線(武力革命を含む)であることなどを明らかにした。いずれも今なおなんら解決されていない古くて新しい課題ばかりである▼これらに対して、共産党は例によって「反共」呼ばわりをしつつ、回答不能状態を続けるだけ。その一方で極めて欺瞞的な態度をとるという怪しげな態度に終始している。それは、一般社会では信じがたいことだが、憲法論争における公明党の主張を表面的、皮相的にせよそっくり取り入れて、いつのまにやら自説として押し出すという姑息きわまりない手法である。具体的な例を挙げよう。マルクス・レーニン主義を官許哲学、国定イデオロギーとして国民に押し付けないということや、信教の自由をいかなる体制のもとでも無条件に擁護するといった「新見解」を打ち出したことなどがそれである。また、「プロレタリアート独裁」を「執権」に変えたうえ、「労働者階級の権力」へと用語を入れ替えたり、「マルクス・レーニン主義」という呼称を「科学的社会主義」へと言い換えことなどがそれにあたる。ともあれ、「自由と民主主義の宣言(76年7月)などともっともらしく打ち出してみせざるをえなくなったのは、『公明党の日共批判』がまさしく的を射ていたことを証明しており」、「公共論争における日共の事実上の敗北宣言にほかならない」(佐藤昇元岐阜経済大学教授)。結局、共産党は正面切って回答できないものだから、指摘を受けた方向で見かけだけでも何食わぬ顔で、修正を施すというやり方をとったのである。(2016・11・6)

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なぜ安保論争は先祖帰りしてしまうのかー改憲と加憲のあいだ➁

憲法9条をめぐっては実に様々な意見があります。一切触らずに今の規定のままでいいとするいわゆる護憲の立場から、全てを書き換え、自衛のための軍隊を持つことを明記すべしとの自民党改憲草案にいたるまで、その幅はまことに広いのです。自衛隊の存在をどう考えるかについても同様に色んな意見があります。専守防衛のスタンスが守られているなら、自衛隊の位置づけを改めて書かずとも今のままでいい、寝た子を起こすことはないというのが一般的な考え方です。しかし、一方で自衛隊は憲法違反の存在だとする極めて硬直的な考え方に立つひとも、法律家を中心に多く存在します。今回の安保法制の論議にあっても、ほとんどの憲法学者からは「違憲」との指摘がなされました。それに対して、政権与党側からは、彼らは自衛隊の存在すら認めない立場なのだから、安保法制反対など推して知るべしだとの意見が出され、取り合おうとさえしなかった経緯はご承知の通りでしょう▼このように安全保障に関する考え方に「憲法9条」が入り込むと、事態は一層硬直化するという、戦後一貫して続いてきた流れが再現してしまうのです。非武装中立の立場を誇示した日本社会党の存在が消えてなくなったことで、不毛の論議が避けられ、これからは同じ土俵での議論が出来るのでは、との期待感があえなくつぶれてしまったのです。現在、野党第一党の民進党がどのような野党共闘をするのかが注目されています。これはひとえに日本共産党をどう扱うのかということが焦点でしょう。ここをいい加減にしてしまうと、せっかくの新しい野党の存在が旧態依然とした昔型のものへと、先祖帰りしてしまいかねません▼自民党に対抗するもう一つの勢力を作ろう、政権の新たな受け皿を作るべしということは、あたかも見果てぬ夢のように様々な挑戦がなされてきました。そのうちの一つが1980年代に試みられた「社公民三党」による野党共闘です。この共闘の方向性は曲がりなりにも共産党を除くことで一致していました。いま、歴史の上で社会党、民社党が消えて、いわゆる社会主義イデオロギーに対して、陰に陽にこだわる政党が共産党以外になくなりました。排除の対象となってきた共産党自身の僅かな”お色直し”的対応を前に、社会党的なるものの残滓を抱える民進党が今苦慮し続けているといえるのではないでしょうか。さてどうするのでしょうか▼ここで参考にすべきなのが公明党の過去の振る舞いです。公明党は憲法についての共産党の本質的な態度を問題視してきました。公明党は、「憲法をめぐる公開質問状」を共産党に対して突き付けたのですが、一切これに応えないという態度を同党はとり続けています。このあたりの経緯は『日本共産党批判』や『公明党50年の歩み』に詳細に述べられていますが、ここからは憲法について曖昧な態度のまま、政策協定など交わしてもあまり意味をなさないということがよく分かります。現代日本における二つの組織政党。片や日蓮仏教を背景にした創価学会を最大の支持団体とする公明党。一方は共産主義イデオロギーに依拠することを変えようとしない共産党。この二つの政党が展開した「憲法論争」の姿から得るものは誠に大きいのですが、意外に世の中では知られていません。次回はこの知られざる実態に迫りたいと思います。(2016・10・21)

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明治憲法を作った先人の力に学べー改憲と加憲のあいだ➀

衆議院議員をしていた頃に私は憲法調査会(後に憲法審査会に衣替え)に長く所属していました。その間にいくつもの忘れえぬ思い出があります。一つは中曽根元首相が出席された会合でのこと。公明党の現況を説明する場面で、私は「公明党は長く護憲政党でしたが、ようやく加憲という立場に変わりました。改憲と加憲は一字違いです。もう一歩です」とジョークとも本音とも思われる言葉を飛ばしました。場内の笑いを誘ったことは言うまでもありません。その時の中曽根さんの苦笑がとても印象に残っています。二つ目は、土井たか子元衆議院議長(故人)と、同調査会が終わった後に、衆議院別館の玄関前で立ち話をした時のこと。まずお互いの意見が一致するところから議論をしましせんか、と私が持ちかけると、「あなた方は今は環境権などといっていても、その後にはすぐ9条を変えようというんでしょ」と、ダメなものはダメとばかりに頑なな姿勢を崩そうとされなかったことです▼三つめは、読売新聞主催の憲法記念日の紙上討論会でのこと。出席した政治家は自民党・保利耕輔、民主党・中野寛成両先輩と私の3人でした。まとめの段階になって、コーディネーター役の北岡伸一東大名誉教授が、「ところで、政治家の皆さんは一体いつになったら憲法を改正するのですか」といささか高飛車な物言いをされたのです。私は直ちに「我々もそれなりに努力してるんですから、そういう云い方はないでしょ」と言い返してしまいました。中野さんが「まあまあ、まあ」と仲裁に入ってくれて事なきを得たのですが、名だたる学者に動かぬ事実を指摘されていながらまともに反応するのだから、政治家らしからぬ己を自省せざるを得ませんでした▼こういう風に思い出話を纏めますと、私の憲法に対するスタンスはお分かりいただけるでしょう。そう、私は憲法を今の時代に相応しいものに変えるということに賛成の立場なのです。憲法3原理(基本的人権、国民主権主義、恒久平和主義)を堅持することは当然ですが、それを重視するあまり未来永劫にわたって憲法を触らないというのではなりません。今の時代に呼応したものに、変えていくべきだということを衆議院憲法調査会の場でもしばしば主張してきました。しかも、加憲の対象から9条を外すことには疑問を持っていました。党内は憲法9条については厳守が大勢であったのに、恒久平和主義と矛盾しない形でならと、少し違ったスタンスをとっていたのです▼ところで、私はこのところ「明治維新」なるものをあまり肯定する立場には立っていません。近代日本の誤りは150年前の江戸幕府から明治新政権への「クーデター」にあり、その後の薩長政権の在り方が70年前のあの戦争の敗北につながったとの認識に与しています。尤もそれは全否定ではありません。「明治維新」の方向性については時代のなせる業ということもあって、評価するところも多々あります。とりわけ明治憲法を作るに至った伊藤博文を始めとする政治家たちの努力は大いに宣揚するのにやぶさかではありません。彼をして長州テロリストの一翼であり、かなりの跳ね上がりものだったとの見方があることも理解します。しかし、それを補ってあまりあるのは、欧米列強に後れをとらないように、憲法を作るために獅子奮迅の活躍をしたことです▼そういう明治の先人の努力に鑑みて、何もせずに、ただ今の憲法が立派だから堅持するというのでは、あまりにも寂しいという気がするのです。今の日本の憲法でいいのか。どこをどう変えるか、あるいはどこは変えなくともいいのかーこういった大論争を今の日本人の力でやった方がいいのではないか。これこそ遠回りのようで近道ではないのかということをいいたいのです。これより数回にわたって憲法について考えていきます。(2016・10・18)

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映画『ハドソン川の奇跡』に偏見排し、素直に感動

映画『ハドソン川の奇跡』を観ました。クリント・イーストウッドが監督で、トム・ハンクスが主演。この監督の作品は二年前に『アメリカン・スナイパー』を観て、深い感動とアメリカという国の宿阿とでもいうべきものを痛感して以来でした。ハンクスのものは、『フォレストガンプ/一期一会』以来ですから、もう20年余り経っています。彼も今は60歳。40歳ぐらいの彼のイメージからして、年相応に渋さを出しているのには、誰やらのことは棚上げにして、大いに好感を持てました。この映画を観て色々と感じたことを述べてみたいと思います▼この映画は2009年にUSエアウエイズのエアバスA320機がニューヨーク空港を離陸してほどなく、鳥と衝突しエンジンに不都合をきたしたためやむなくハドソン川に不時着水したという、実際に起こった航空機事故を題材にしているものです。乗客、乗務員155人全員が無事だったという驚くべきニュースを私もそれなりに覚えています。実際の機長が書いた手記を元にしたものですが、イーストウッドはそれを時系列で描かずに、フラッシュバックによって、当事者の記憶を呼び覚ますという錯時的な構成をとっています。このために映像が心理描写に支配され、私のような凡庸な観客には分かり辛いと言わざるを得ません。凝った作り方で、玄人筋には受けるかもしれませんが、何度も同じ場面が登場したりで、回想場面の複雑さには正直いって興ざめしてしました。ここは素直に時系列順に追ってもらった方が迫力があったのだろうと思います▼川に着水せずとも空港に引き返せたはずとする、国家運輸安全委員会の追及により、英雄が容疑者になるかも知れないというテーマの描き方が今一弱いと感じたり、不平や文句ひとつでないあまりにも整然とした乗客の対応などに、いささか現実離れをした米映画らしさを感じてしまいました。これってへそ曲がりな私の偏見でしょうか。勿論、この辺りは事実にそって描かれたものでしょう。映画の筋立てとは別に、最後に実際の機長を囲む乗客らの後の集いが挿入されていました。ともあれ最終的には機長の冷静、沈着さに舌を巻き、私も素直に心から尊敬の念を抱いたことは正直に告白しておきます▼副操縦士とのコンビの絶妙さや乗務員、乗客のチームワークあったればこそという機長の最後の発言などにも心底から感動しました。また、この次は厳寒の時期ではなく7月に起こって欲しいという、副操縦士のユーモアにも深く感じ入りました。最近観た邦画ではあまりにも品のない描き方のものが少なくなく、うんざりしていましただけにこの映画の後味の良さには爽やかな気分に浸れました。それにしてもかつて観た感動的な邦画の数々に比べて貧困さばかりが目立つ昨今の状況はどういうものでしょうか。(2016・10・5)

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大雨で川が瞬く間に増水。さてどう対応するか?

このところの天候不順は全く油断も隙もありません。異常な暑さの夏が終わったかどうかという間に、今度は雨ばかりが降ってくるのです。しかもかなりの大雨が。先日の台風16号は我が町の周辺でもあっという間に川が増水して、家の周りの道路に冠水。あたかも新しく川が出来たかのような様相を呈しました。30分ぐらいの間の出来事です。私が会長を務める自治会内でも、床下浸水で大騒ぎになる地域もありました▼ある隣保では大雨が降るたびにこういう事態が起こるので、該当の住民の皆さんは気が気ではありません。特にこの度の増水ぶりは短い時間で異常な量だったので、もはや一時も待てないと、私のところに対応を迫られる電話がありました。地元市議にも連絡し、担当と思しき下水道課や危機管理室に電話をして、対策をただしました。そこで分かったことは、市役所の危機管理室では1m以下の増水は危機だとの認識がないということでした▼ただ川が増水して氾濫したからといって騒いでいては身が持たないということでしょうか。姫路でいえば、市川級の大きな川への対応には常に目を光らせていても、零細河川にはあまり関心がないといってもよさそうです。それが証拠に危機管理室作成のチラシにもそうした浅い浸水については何も書いてありません。それでは実際に川が氾濫してドンドン水かさが増えてきてもどうしたらいいかわからないということになってしまいます▼先日、地元の要請を受けて市の担当者たちが来ましたが、市には大きな災害の対応マニュアルはあっても、そこまでにはいたらない段階での対応の仕方は用意されていないのです。それに災害の危機を感じて、緊急避難をするという場合、大雨で道路が歩けない状態でどうして避難場所まで行くのでしょうか。実際、目と鼻の先に小学校の体育館があっても、ボートでもない限りいけません。せめて柵でもあれば川と道路の区別がつくのですが、それもない現状です。避難所に行けなければ、二階に上がるなり、平屋は二階のあるうちに行けということでしょうが、お年寄りにはそれさえ大変だといいます。ともあれ、高をくくっているといついかなる危機が押し寄せてくるかもしれません。今のうちにしっかりと対応策を皆で考えておかねば、と思った次第です。(2016.9・30)

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イラク戦争をめぐる私的検証➅-「米国」と正面から向き合う意味

公明党がやったイラク戦争の検証は、結果として私が党機関誌のインタビューに答えるなかで反省するという体裁をとっただけであった。残念ながら、政党としてオフィシャルな形をとったものとは認められないだろう。公明党だけではなく、これまで責任ある政党はどの党も総括めいたことを満足な形ではやっていない。誤りを一度認めてしまうと、政党として以後際限なく疑念を集めてしまうので、避けたいということだろうか。また、長いスパンで見ると、ある時期の誤れる選択も、後々には良いものをもたらしたというケースもままあるから、早急な判断は避けた方が得策だということかもしれない▼しかし、「論語」にあるように、過ちを改めるのに憚る(はばかる)ことなかれ、である。むしろ、失敗は潔く認めた方が一般的には好感をもたれる。タイミングもあろう。安保法制の議論の最中に、私はイラク戦争についての総括と引き換えに、自民党との交渉を進めてはどうかと提案した(一般紙の紙上で)が、無駄なことであった。良い機会だと思ったのだが。公明党と自民党の集団的自衛権についての姿勢は微妙に食い違っており、結局は最後までというか、今日現在に至るまで玉虫色の決着のままだ。ここは集団的自衛権のいわゆる国際標準の規定に合せて、公明党が折れて、その代りにイラク戦争の検証をお互いにしてみせるというということがあっても良かったのではないか▼20世紀の後半に青春を生きた我々世代はヴェトナム戦争の影響を強く受けた。ドミノ理論を持ち出して、反共の旗印を掲げることの無意味さを結果として思い知らされた。空爆を始めとする米軍の猛攻撃をしりぞけ、執拗なジャングルでの戦いで、遂に巨大な米国に勝った小国ヴェトナム。その後の国家としての佇まいの在り様は、もう一つの「20世紀の奇跡」と言ってもいいかもしれない。評論家の立花隆氏は、米映画『地獄の黙示録』について、「誰もコッポラ(監督)のメッセージがわかっていない」と、ヴェトナム戦争の深い闇をキリスト教的見地から説いてみせた。この戦争の悲惨さは、赤裸々に描かれた数多の映画を観るまでもなく分かる▼イラク戦争やアフガン戦争、そしてシリアでの戦闘やイスラム国をめぐる現在の国際平和を脅かす戦いに、我が日本では反対の声を上げ続ける若者や平和勢力が少ないとの指摘がある。確かに、安保法制に「戦争法」とのお門違いの批判をする向きは多いのに。内向き過ぎる”一国平和主義”のなせる業だろうか。ヴェトナム戦争の教訓は、何も米国だけに向けられているものではない。その敗北の教訓を今に生かせていない米国は、中東での一連の紛争に砂漠のなかで血まみれになってのたうち回っている。この姿は、米映画『アメリカン・スナイパー』一作で十分すぎるほど伝わってくる。個人も政党も国家も、イラク戦争の検証をすることで、米国なるものと真正面から向き合い、新たなる「平和」への生き方を自身に迫ることができるのではないか。(この項終わり 2016・9・20)

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イラク戦争をめぐる私的検証➄-罪深い屁理屈の展開

少し前に遡るが、私がイラク戦争肯定論を機関紙に寄稿した背景には、当時のフセイン・イラク大統領の横暴な専制君主ぶりがあり、同国北部のクルド人虐殺などの動きもあって、これを懲らしめるべく米国が立ち上るのは当然との見方があった。座して平和を待つだけではなく、軍事行動をとった米軍を支持することも許されるという公明党の立場を、どう有権者、読者に伝え、理解をして貰うか。必死でギリギリと考えたものだった▼イラクのクウェート侵略に国際社会が怒りを持っていた事実は重く、「無法なならず者イラク」への非難の眼差しは覆いがたいものがあった。そんな中で、私の湾岸戦争から13年越しのイラク戦争という捉え方が生まれた。つまり、湾岸戦争は一旦終わっていて、連続していないなかでの新たな戦争なら、米軍の先制攻撃は批判されて当然である。しかし、イラクの侵略が始まっていらい、両者間で幾度かの戦闘がほぼ間断なく続いていたとみるなら、話は変わってくる。不正行為を撃つということで、米軍のイラク攻撃は”先制”ではなくなってくるわけだ。こうした論理を可能にするために「13年戦争論」は、必要な前提事項だったのである▼開戦当時、大量破壊兵器のあるなしが大きな注目を集めていた。しかし、その後の戦争の進展の中でも発見されなかった。ゆえに、様々な批判が巻き起こった。しかし、私はくじけなかった。小型の化学・生物兵器であっても大量に人を殺戮できるし、今発見できていないのは、開戦の特殊な戦闘状況の中で、消失してしまったのかもしれない。あるいは誰かがどこかに持ち去ったということも考え得るとといった屁理屈を盛んに喧伝したものである。日米同盟の絆を確信してのことではあったのだが、今となってはいささか肩入れしすぎの感は否めない▼そうしたことを経て、やがて大量破壊兵器がそもそもなかったことを認める情報が、当事者たる米英双方から発信されたのである。まさに二階に上がって梯子を外されるというのはこの事だとの思いは強かった。「それ見たことか。せめて仏独のように、アメリカに注文を付けておくべきであった。誤れる情報を唯々諾々と受け入れ、従属しきった姿勢をとったのは、日本外交の大失態だ」との見方が世の中に定着していった。誤った見方を得々として提示した私の罪も少なくない。機関紙上で提起した情報分析の誤りは、せめて機関誌上で反省しておきたいというのが私の最低限の矜持というものであった。(2016・9・19)

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イラク戦争をめぐる私的検証➃-公明党内総括の顛末

一方、山崎正和氏も、イラク戦争について米国の姿勢を肯定的に捉え、擁護する論陣を張られた。衆議院の外務委員会か、イラクに関する特別委員会だったかに、参考人として出席され、その信ずるところを述べられた。私は質問に立ち、その考えられるところを直接問うた。その時の山崎氏の発言は、イラクはそうした「成敗」を受けても仕方がない存在であり、米国の決断を支持した日本の選択はやむを得ないというものだったと記憶する▼山崎氏は後になって、当時のイラク戦争についての自身の発言の非を認められ、今後の戒めとする旨の論考を公表された。この人には『歴史の真実と政治の正義』や『柔らかい個人主義の誕生』など、歴史への深い洞察に根差す著作が数多く、熱烈な信奉者も多い。かくいう私もその一人だった。文明評論の名手をもってしても、現実の国際政治の動向は時に判断を誤らせるもののようである。だが、素直に謝られた姿勢はすがすがしいものとして私の目には写ったものだ▼こうしたなかで、政党としてもその選択の当否が問われた。公明党の場合は、衆議院総選挙の敗北(2009年8月)を総括する形で、自らに問うた。2009年10月に党内に社会保障と安全保障の両分野の検証チームを立ち上げて、これらの分野における政策展開の是非をめぐる議論を行ったのである。前者は坂口力元労働相が、後者は私が責任者となった。負けた原因を探る作業を行うことは元気が出るものではない。まして国際政治の動向への判断の過ちをどう考えるかは、政党として極めて難しい課題である▼日本の選択は間違っていたとの結論を党として出すのは早過ぎないか。よほど慎重にすべきだ。後世の歴史家に判断をゆだねるべきではないのかーなどの党内意見は根強かった。結局は最終的に総括する文章を残すことは見送られることになった。しかし、せっかく党内にチームを作り、検証する議論をしたのだから、その軌跡は残したいという意向を私は貫いた。最終的には、私へのインタビューという形ではあったが、党理論誌『公明』に掲載することで陽の目をみたのである。そこでは、「誤れる情報に踊らされたと言わざるをえない」し、「確たる裏付けがないにもかかわらず、一方的な情報に与したことは反省しなければなりません」との反省の弁を述べたうえで、「公明党が結果として(イラク戦争を)容認したのは不適切であった」と明確に誤りを認めたのである。(2016・9・18)

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イラク戦争をめぐる私的検証➂ー見通しを誤った評論家たち

イラク戦争についての経緯を思い起こすにつけて、忘れられないのは、二人の著名な評論家のことだ。一人は元外交官の故岡崎久彦氏。もう一人は劇作家であり、文明評論家の山崎正和氏である。二人とも私にとって仰ぎ見る存在であるが、幸いなことに親しくさせて頂いた。ご両人とも、私の学問上の師・中嶋嶺雄先生のお引き合わせがあってお出会いした。岡崎さんは、集団的自衛権行使を早く認めよとの議論を論壇などで盛んにされたことや、安倍晋三総理と深い関係があったことで知られる。私とは「新学而会」という学者・文化人、政治家の私的勉強会でご一緒した。イラク戦争については、米軍を中心とする攻撃で、世界中が右往左往していた頃、必ずや近い将来には、中東に自由で民主的な新しい国家が誕生するのだから、心配する必要はないという意味合いの極めて歯切れのいい論考を発表されていた▼これについては、後年になって、外務省の後輩である孫崎享氏との「論争」が私的には注目された。孫崎さんは、『戦後史の正体』などの著作で知られるが、その外交感覚の不明さで問われ続けている鳩山由紀夫元総理を真面目に持ち上げたことでもわかるようにユニークな評論家だ。真正保守の「守り神的存在」の岡崎氏に比べると、奇をてらった形で論壇への殴り込みをかけがちな孫崎さんは、失礼ながらあたかも「疫病神的存在」かも知れない。中央公論誌上での「岡崎・孫崎対談」は興味津々であったが、どちらかと言えば、孫崎氏の方に軍配を挙げたくなる内容だった▼国際社会での出来事をナイーブな感性で観ることは往々にして事の本質を見誤ることになる。したたかな図太い理性で見ていかないといけないということは分かる。しかし、イラクについての岡崎さんの見立ては明らかに間違っていたというしかない。今なお混迷の度を加え、民主国家の誕生どころではない、かの地の事態には、ご本人に間違った情勢判断だったと言って欲しかった。しかし、最後の出版となった『国際情勢判断半世紀』という回顧録にも、イラク戦争をめぐる記述は皆無だった。残念なことだ▼ただし、一か所だけ気になるところがある。台湾をめぐる情勢判断について、1993年頃に九州での国際会議で、「(10年後の台湾について)独立志向が強く、多分今の情勢でいくと、事実上独立国になっているだろう」と発言されたことに触れておられるくだりだ。中国の代表が「台湾問題は我々が決める問題だから」と抗議してきたことを明らかにされたうえで、こう述べている。「客観的見通しを話しているだけで、もしそうなっていなかったら、私の判断が間違ってるだけの話だ」と。イラク戦争についても、せめて「私の判断が間違っただけの話だ」とぐらいは言って欲しかった。(2016・9・15)

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イラク戦争をめぐる私的検証➁ー”13年戦争”との独自の見立て

ここに二枚の古い新聞記事がある。2004年2月2日と3日付けの二回にわたって、公明新聞2面に「イラクへの自衛隊派遣と公明党の平和主義」と題して赤松正雄外交安保部会長の名のもとに寄稿されたものである。(上)では、「問題の本質は”13年戦争”」「目的は人道支援、軍事分野を排除」との見出しが目に入る。ここでは、公明党が平和主義を捨てたのではないか、との当時の批判に対して、的外れだと断じたうえで、その背景に「三つの勘違いと一つの思い込み」があると述べているのだ▼当時の支配的な空気は「現在のテロが頻発する事態は米国の武力攻撃がもたらしたもので、しかもあると言っていた大量破壊兵器がいまだに発見されないのでは、そもそも戦争の大義がない」というものだった。この点について、私は、「イラクのクウェート侵略に端を発した湾岸戦争とイラク戦争とを全く別のものと見るという、勘違いを起こしている」としている。つまり、私の見立てでは、この戦争は実は13年に及ぶ、本質的には一つの戦争であるというものだ。戦争の大義は、大量破壊兵器のあるなしではなく、イラクの国際法無視を諫めることにあるとの論法だ。二つ目には、ドイツやフランスのように、国連における合意取り付け努力を最後までせずに、日米同盟を優先させたのは国連軽視だとの空気があった。それについては、独仏のイラクとの特殊な関係に目を覆ってしまっているし、隣国に秩序破壊国家・北朝鮮を持つ事情を弁えないことがもたらす勘違いだとしているのである▼(下)では、「あくまで憲法の枠内で判断」「テロ許さぬ”行動する平和主義”」と見出しにある。三つ目には、当時、戦闘状態の再発が懸念される地に自衛隊を出すことは、憲法の禁じる武力行使に追い込まれる可能性があるとの批判があった。これについては、武力行使と護身目的・正当防衛のための武器使用とを混同することからくる勘違いだとしている。最後に私があげる「一つの思い込み」とは、国際貢献は、PKO (国連平和維持活動)までで、それ以上は踏み込みすぎだとしていることである。ようやくPKOの存在が市民権を得た頃であったから当然といえば当然の反応だった。だが、私はへっぴり腰の国際貢献ではないものを目指そうとする公明党の意気込みの現れを表現しようとしたのだ。最後に5原則型のPKOを超えて、多少危ないところでも秩序破壊の国際テロは断じて許さないとの決意を表明。公明党は、人道的見地からイラク復興へと貢献することを、平和主義と決して矛盾しないと捉えている、と結んでいる▼「イラク戦争=13年戦争論」というのは私の独自の見解だが、あとは当時の公明党の原則的な捉え方を逸脱したりしていない。この記事を寄稿するきっかけは、支持団体の婦人たちの間で、イラク戦争について公明党が支持する理由を分かり易く書いてほしいという広範囲な要望があると、女性同僚議員から聴いたことによる。掲載直後には、「行動する国際平和主義」の面目躍如たる内容のものが書けたと、自画自賛していたことが懐かしく思い出されてくる。しかし、ことはそう甘くなかった。事態は暗転する。(2016・9・9)

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