ここに二枚の古い新聞記事がある。2004年2月2日と3日付けの二回にわたって、公明新聞2面に「イラクへの自衛隊派遣と公明党の平和主義」と題して赤松正雄外交安保部会長の名のもとに寄稿されたものである。(上)では、「問題の本質は”13年戦争”」「目的は人道支援、軍事分野を排除」との見出しが目に入る。ここでは、公明党が平和主義を捨てたのではないか、との当時の批判に対して、的外れだと断じたうえで、その背景に「三つの勘違いと一つの思い込み」があると述べているのだ▼当時の支配的な空気は「現在のテロが頻発する事態は米国の武力攻撃がもたらしたもので、しかもあると言っていた大量破壊兵器がいまだに発見されないのでは、そもそも戦争の大義がない」というものだった。この点について、私は、「イラクのクウェート侵略に端を発した湾岸戦争とイラク戦争とを全く別のものと見るという、勘違いを起こしている」としている。つまり、私の見立てでは、この戦争は実は13年に及ぶ、本質的には一つの戦争であるというものだ。戦争の大義は、大量破壊兵器のあるなしではなく、イラクの国際法無視を諫めることにあるとの論法だ。二つ目には、ドイツやフランスのように、国連における合意取り付け努力を最後までせずに、日米同盟を優先させたのは国連軽視だとの空気があった。それについては、独仏のイラクとの特殊な関係に目を覆ってしまっているし、隣国に秩序破壊国家・北朝鮮を持つ事情を弁えないことがもたらす勘違いだとしているのである▼(下)では、「あくまで憲法の枠内で判断」「テロ許さぬ”行動する平和主義”」と見出しにある。三つ目には、当時、戦闘状態の再発が懸念される地に自衛隊を出すことは、憲法の禁じる武力行使に追い込まれる可能性があるとの批判があった。これについては、武力行使と護身目的・正当防衛のための武器使用とを混同することからくる勘違いだとしている。最後に私があげる「一つの思い込み」とは、国際貢献は、PKO (国連平和維持活動)までで、それ以上は踏み込みすぎだとしていることである。ようやくPKOの存在が市民権を得た頃であったから当然といえば当然の反応だった。だが、私はへっぴり腰の国際貢献ではないものを目指そうとする公明党の意気込みの現れを表現しようとしたのだ。最後に5原則型のPKOを超えて、多少危ないところでも秩序破壊の国際テロは断じて許さないとの決意を表明。公明党は、人道的見地からイラク復興へと貢献することを、平和主義と決して矛盾しないと捉えている、と結んでいる▼「イラク戦争=13年戦争論」というのは私の独自の見解だが、あとは当時の公明党の原則的な捉え方を逸脱したりしていない。この記事を寄稿するきっかけは、支持団体の婦人たちの間で、イラク戦争について公明党が支持する理由を分かり易く書いてほしいという広範囲な要望があると、女性同僚議員から聴いたことによる。掲載直後には、「行動する国際平和主義」の面目躍如たる内容のものが書けたと、自画自賛していたことが懐かしく思い出されてくる。しかし、ことはそう甘くなかった。事態は暗転する。(2016・9・9)
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イラク戦争をめぐる私的検証➀ー英国がやってのけたこと
この7月に英国で起こったことが気になっている。イラク戦争を検証するための「チルコット委員会」という調査委員会が報告書を公表したのだ。これは、09年に当時のブラウン英首相が政府とは独立した機関として設置したものだが、実に7年かけて結論を出したその中身は、我々日本人にとっても見逃せない。ここには、英国が米国のブッシュ政権に根拠なく追従した経緯が詳細に記載され、さしたる外交努力をせずに無為に開戦に至らしめたことへの批判がなされているからだ▼米国の同盟国の一員としての日本は、イラク戦争について、何らかの検証をしてきただろうか。1993年から約20年間にわたって、日本の政治とりわけ外交・安全保障分野に関わってきた身として、このことに頬かむりは出来ない。まして開戦当時に、ブッシュ大統領を支持した小泉首相を陰に陽にサポートしてきた公明党の一員としてはなおさらだ。しかも私は当時独自の論調を機関紙公明新聞紙上に掲載した。であるがゆえに、後にそれこそささやかではあるが反省の意味を込めた検証を党の責任者として試みた。それは同時に機関誌『公明』誌上に公表されたのである。それらの行為は幸か不幸か全くと言っていいほど世の中に注目されてこなかった。それはひとえに私の非力さが起因していよう。だが、これを忘却の彼方に消え去るままにしておくのは惜しい。そのため、ここに個人の責任において、私的な総括を試みておきたい▼そう決断するに至った背景には、イラクの今なお荒涼たる風景がある。IS(イスラム国)の横暴をほしいままに許し、依然として無法の地であり続けているかに見えるイラク。かの戦争が起こった当時、著名な外交評論家が、「今はどうあれ、必ずや近い将来には、民主的な国家としてイラクは生まれ変わり、中東に新たな世界が幕を開く」と強調し、今一人の現代日本を代表する文明評論家も、かの戦争をやむをえざるものとして積極的に肯定する論陣を張った。これらに影響を少なからず受けたものとして、十数年が経った今なお、苦々しく思い起こす▼今ここで改めて経緯を振り返るに当たり、ただあれは間違っていたと、反省し批判するだけでは能がなさすぎる。それでは、あの選択は止むを得ざるものであり、最終的には歴史の審判を待つしかないとの反論ならぬ言い訳に、まっとうな意味で対峙することは出来ないと思うからだ。「安保法制」をめぐる議論があたかも国論を二分し、かつての自社対決下の不毛の安保論争に逆戻りするかのような様相を呈しているだけに、ここでより一層きちっと振り返っておきたい。イラク戦争を総括しない限り、真実の意味での現代の「平和」は見えてこないと、私には思われてならない。(2016・9・5)
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今夏の観光から➂-シンガポール、香港で淡路島と神戸を想う
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現役引退後三年半あまり、残念ながら海外には行く機会がありませんでした。インバウンドを推し進めるものにとっては、アウトバウンドも経験しておかなくてはなりません。密かに機会をうかがっておりましたら、遂にやってきました(いささか大袈裟かな)。今一緒に観光の仕事を進めている仲間には、実に多彩な人材がいますが、そのうちのひとりであるJKHジャパン(株)の社長・竹田義信氏からシンガポール、香港への旅の誘いを受けたのです。偶々このほどシンガポールに赴任したばかりの篠田浩次大使は旧知の間柄でもあるし、香港には和僑の雄で友人のホープウィル(株)社長の堀昭則氏がいます。彼とも久しぶりに会いたいので、二つ返事で快諾しました▼シンガポールには10数年前に経済評論家の大前研一氏や市川雄一公明党元書記長らと行ったことがあります。マレーシア、オーストラリアへも足を伸ばした忘れがたい旅です。何しろ大前氏はリー・クワンユー氏やマハティール氏らと昵懇で、それぞれの国の政府アドバイザーを務めていましたから。今回はそれ以来です。躍進するこの国の現状を大使との対話で実感してから、街なかに乗り出しました。何しろ淡路島と同国はほぼ同じ面積。そこに兵庫県全体に近い550万人ほどの人々が住んでいるのです。大使からは同国と淡路島との交流推進やら、今年50年になる両国関係を寿ぐ記念の会への協力を求められました。願ってもないことです。竹田社長もその場で出店する企業を探す努力を約束。私も尽力する旨伝えました。竹田氏の仕事は、飲食店の経営や運営に関するコンサルティングが主なもので、これまでカンボジア、タイ、上海、台湾、香港、シンガポールなどに進出して数々の実績を上げています▼香港では、現地生まれの同社社員のエドウイン氏に通訳を兼ねての案内をしてもらいました。和僑の第一人者・堀社長は兵庫県たつの市出身で広島大を卒業した後、40代半ばの今日までずっと香港で仕事をしている強者です。ホープウイル社は香港に拠点を置き、アジア一帯の情報を幅広く発信している企業。昨今はイスラムの人々の情報を日本に向けて送り込んでいます。淡路島へのインバウンドについては、様々な意味で不透明さを漂わす中国よりも香港、台湾、韓国の人々を優先させて取り組むべきだと助言してくれました▼かねて大学生時代に師事した故中嶋嶺雄先生が書かれた『香港』を読んでいらい、この地には憧れてきました。1980年代初頭に、10日を超えた中国への旅を公明新聞記者として果した時、出国時の場所が急きょ香港から上海に変更になってしまったのは残念なことでした。堀さんの「山と海の双方から香港を眺めるといい」との勧めに従って、ビクトリア・ピークから巨大ビル群を見下ろし、スターフェリーに乗船して海から街を眺めました。神戸の六甲から観る夜景が100万ドルの夜景と信じてきましたが、その100倍もスケールの大きい香港を観て、ただ驚嘆するばかりでした。また渡し船さながらに香港の街中を結ぶ船は、明石海峡を渡る船を持つ淡路のジェノバライン(株)にとっても、大いに参考になるものでした。これからインバウンドに取り組み、瀬戸内海観光をブレイクさせたいとの望みを持つ身として、限りないヒントに満ちた「2016夏のアジア旅」でした。(2016・9.1)
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今夏の観光から➁-「パソナ」の事業展開に学ぶ
さて、淡路島といえば以前から人材派遣業のパソナグループ(南部靖之代表)が大いなる力を発揮しています。つい先日には淡路市に新たなサマーリゾートとして「クラフト・サーカス」をオープンしたばかり。以前から好評を博している「野島スカーラ」は小高い丘の上にある小学校の校舎を改造して作ったレストランですが、今度のは海岸に沿って作られたなかなかのものです。7月末に私は大阪のパソナ本社を訪問し、南部代表や山本専務とお会いして、瀬戸内海、淡路島にかけるお互いの情熱を語り合って大いに盛り上がりました▼その際に、初めて聞いたのが、同グループが展開している「丹後王国」のことでした。これは京丹後市にある巨大リゾート施設の名称ですが、道の駅の大型版と銘打っています。これを聞いた私は驚きました。実はかねて今夏の孫を伴う家族旅行の行先として、久美浜海水浴場を選んでいたことを娘から聞いていたからです。この地のすぐそばにこの「丹後王国」があるので、早速8月8日から三日間の旅の中で訪れてみました。平成12年には天皇皇后両陛下が訪問されたというだけあって、古代からの歴史に則った様々な遺産をとりいれた見事な「王国」ぶりです。関西の中心からは少し離れており、まだまだ知られていないようですが、ここに展開されている子どもと大人が一体化しての「遊び場の知恵」は大いに学ぶものがあることを実感しました。このグループは、「地域創生」をかねてその方針に掲げているだけあって、付け焼刃ではない筋金入りの迫力を感じます▼また、8月21日には私ども一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の主催する「ぐる~っと淡路島めぐり」ツアーに参加してきました。せっかくの機会だからと、50年来の友人である社員教育指導者で作家の寺松輝彦氏を誘ったり、中学校以来の同期生ら「悪ガキ仲間」二人にも同行してもらいました。特に寺松氏は埼玉在住とあって、ホテル「海若荘」に前泊。露天風呂で夜を徹して懐かしい語らいをしたものです。昼間には前述の「クラフト・サーカス」に行きましたが、あたかも船上を彷彿させるレストランや南洋の海と見まがうばかりに広がる播磨灘の眺望に、何かとうるさい彼も文句なしに大喜びでした▼淡路島めぐりは、去年までは船旅が主体でしたが、今年はバスと船を組み合わせました。これが見事に奏功、本当に有意義な一日を過ごすことが出来、友たちも大いに感激してくれました。午前8時半に明石港を出た後、ウエステインホテル傍の翼港で下船、あわじ花さじき(去年の朝ドラのロケ地)、パリシェ香りの館、伊弉諾神宮とまわって、お昼には洲本港へ。ここで食事や市内散策をした後に、南あわじ市の福良港へ。ここでは淡路人形浄瑠璃を鑑賞(他に、うずしお観測船に乗ることも選択可能)しました。40分ほどでしたが本場の粋を堪能できました。5時には帰路につき、一時間半の明石港までの航路は、ビール片手に口々に感想を語り合う楽しい船内だったことは言うまでもありません。(2016・8・31)
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この夏の観光から➀ー北海道のバスガイド力に驚嘆
オリピック観たな台風宙返りー柄にもなく川柳(俳句かも)を口にしてみました。というのも台風10号は当初に予測されたコースを全く変えて、途中でぐるっとUターンして南下したあと、再び北上するという変則的な動きを見せたからです。この夏もほぼ終わりになったので、私の夏休みを振り返ってみます。7月25日に上京して、国交省海事局や一般社団法人 日本旅行業協会(JYATA)に立ち寄り、今当方が考えている淡路島へのインバウンドについて、懸案を関係者と議論したり、お願いをしてきました。とりわけJYATAの志村理事長は七か国語を話す超バイリンガルとあって、私はその出会いは楽しみでした。関西国際空港から転勤されたばかり。豊富な淡路島訪問の経験を語ってくれ、大いに参考になりました▼8月1日から4日間は北海道旅行へ。妻と二人で阪急交通社の団体ツアー(40人ほどの皆さんと一緒)に参加するという私たちにとって初めての試みでしたが、とてもいい天気に恵まれ(行く前と、帰ってからは大雨)、楽しい旅でした。ここで私が感じたのは、バスガイドさんの力です。エルム観光バスに全行程お世話になったのですが、入社3年目の若いお嬢さんガイドの案内力たるや凄まじいとしか言いようがないほどのものでした。登別温泉から、富良野、美瑛を経て層雲峡から温根湯温泉、そして小樽、ニセコ温泉といった旅でしたが、その間ずーっと爽やかに、車窓から見える風景や観光案内から、ありとあらゆるその地にまつわる深くて味わい深い話まで、彼女の話しぶりは実にみごとでした。特に、土地ごとに関係する作家や歌人の作品や和歌をよどみなく諳んじて見せる力量は、もう呆然とするばかりに聞き惚れてしまいました▼あまりに感心した私は、同社のFBに投稿しました。このガイドさんは本当に素晴らしい、と。同社からは、「うちのバスガイドはみんなこうした力を日頃から養っていますと」あっさりとした返事は少々意外でした。3年間であそこまで覚える力は本人の努力もさることながら、社としての指導力も大いに関係すると思われます。バスガイドという職業を今私は大いに見直す必要を痛感していますが、淡路島を始めとする瀬戸内海島めぐりの旅でも、バスガイドやシップガイドが大いなる力を発揮するものと思われます▼この旅での見聞を生かすべく、瀬戸内海島めぐり協会の専務理事として、8月19日に洲本市にある兵庫県淡路県民局を訪問して、県民局長や県観光監と意見交換をしました。その際に、淡路島の観光においてバスガイドの存在を確かめたところ、こたえが「ノー」だったのには驚きました、この辺りにも観光地として大いに名を馳せているところと,まだまだこれからというところとではかなりの差があることを思わざるを得ません。(2016・8・30)
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相手の話を聞くことの大切さを知ったささやかな体験
参議院選挙が終わってやがて一か月。様々な人と対話をしたことが思い出されます。そのうち最も強烈な印象で蘇ってくるのが神戸のU 氏とのやり取りです。彼は阪神淡路大震災の時に何もかも失いましたが、過酷な運命に負けずに立ち上りました。打ちひしがれている被災者に政治が何をしてくれるのかを問いかけることから始め、やがて何もしようとしないことに全人生を賭けて対決したのです。当時国会議員で彼を知らぬものはいないといわれるほど働きかけ、文字通り荒れ狂う活動をしました。その彼を私は忘却の彼方に置き去りにしていたのです▼伊藤たかえ選挙事務所に突然やってこられたときは、全くどなたか分かりませんでした。心温まる支持者の「陣中見舞い」の合間に、まれに文句を云い、抗議に来る人がいます。さあ、「公明党のどこが気に入らないのだ」「断固分からせるぞ」と、身構えました。震災対応から安保法制にいたるまで、彼は政治の「非力さ」や「庶民感覚とのズレ」をまくしたてました。当然のことながら、私はいちいち反発し、口を挟みました。しかし、その途中でやめました。彼が誰かということに気付いたのです。この20年の彼我の差に思いを致しつつ、申し訳なさも手伝ってひたすら耳を傾けていました▼その主張には賛同できぬことも多々ありました。しかし、震災によって人生を根こそぎ捻じ曲げられながらも立ち向かってきた存在感に圧倒されたのです。「今政治家が立ち上らずして一体いつ立つのか」というフレーズは胸に刺さり、耳をそばだたせました。「失われた20年」の言葉に象徴される政治の惨状は、政治家の「課題解決先送り」体質に起因すると常々思っている私は、歯を食いしばって聞かざるを得ませんでした▼二時間余りの後、「もう時間ですから」の事務員の声に促されて帰っていきました。数日後、私がいないときに彼は再びやってきて、公明党に一票投じたことを明らかにしたといいます。私が彼の話をひたすら聞いたからでしょうか。普通、人間は議論をすると、言い負かそうとしてしまいます。私などはいつも何か自分らしさを込めたお話を一方的に話してしまいがちです。聞いてるだけでは能がないとの思い込みがあるのです。私にしては珍しく聞くことに徹した背景には、彼の生きてきた人生への畏敬の念があったからに相違ないでしょう。ということは、あまりそう思えない人には、相も変わらず云いたいことのみ言って自己満足するだけに終わるということかもしれません。いやはや怖いことです。と、反省させられる貴重な体験ではありました。これは今後あれこれと尾を引きそうな予感がします。(2016・8・5)
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憲法観、国家観などの違いを乗り越えて
激しかった参議院選挙が終わってあっという間に三週間が経ちました。近く臨時国会が開かれ、参議院の構成も決まります。また、内閣改造も行われる見通しです。そして、新しい都知事も月内には決まります。ようやく政治の動きが軌道に乗って、仕事を政治家それぞれにしてもらう時が来ました。兵庫が送り出した伊藤たかえさんは、県内でたった一人の女性議員です。一方、民進党の議員は県内でゼロになるなど新たな政治分布図が浮かび上がりました▼女性弁護士出身の参議院議員といえば、かつて公明党の代表的顔であった浜四津敏子さんを思い起こします。私が大学に入学した昭和40年には、二学年上の法学部法律学科に在籍されていました。当時からその向学心の高さは知れ渡っていましたが、弁護士を経て政治家になられてからも多くの人を惹きつけてやまないものを持っていました。伊藤さんも負けてはいません。栴檀は双葉より芳しといいます。当選後のメディアでの登場における受け答えや振る舞いぶりなど大器を感じさせるに十分です。浜四津さんに勝るとも劣らない未来の公明党を築く大きな存在になるに違いないと確信します▼兵庫県の飛躍の背景の一つには、自民党の推薦が利いたということがあります。小選挙区の現職衆議院議員の皆さんを始め、力強い支援を頂きました。なにしろ24年間に培った自公関係はただならざるものがあります。最初の頃はぎこちなさが否めませんでしたが、近過去においては同じ党といっても言い過ぎではないほどの連携ぶりでした。私も自民党候補者を連れて友人宅を訪問するということを幾度もやったものです。そのお返しをしなければ、という思いを濃淡の違いはあれ、自民党関係者は持ってくださったと思います▼ただ、自民党は裾野の幅広いでかい政党です。様々な人びとが当然ながらいます。9年前のこと。参議院選挙で自民党の候補者が、聴衆の前で「この中に公明党の人はいるか。その人はわしの応援はせんでええで」と明言したのです。私は応援演説で、ユーモアを交えてその候補者と高校、大学、ものの考え方、性格、あらゆる面でほぼ対照的に違うが、「共産党が嫌い、民主党には負けない」という気持ちが一緒だと強調して、笑いを取ったものです。ところが、その人は「あんたのところとは、憲法観が違うし、国家観も違う」と連れない言いぶり。確かに憲法9条を大きく変えるとの信念を持ち、どちらかと言えば、「神の国」的志向の彼とは違います。細かく言えば、自公の間の溝は狭くありません。その意味での課題は山積しています。3年後、さらには6年後の参議院選の展望に思いを致すとき、ため息が出ます。そうした障害を乗り越えて、伊藤たかえさんを始めとする新しい仲間たちとスクラム組んで頑張るぞ、と決意しています。(2016・7・29)
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真の意味での安定もたらす「自民対公明」の構図
参議院選挙が終わって一週間が経ちました。私が住み、深く関わった兵庫県での結果は、自民、公明、大阪維新の勝利で民進党が落選。衆参合わせて民進党の議席はゼロとなりました。公明党としてはこれまでおよそ手が届かなかった50万票台に悠々と乗る大量得票を頂き、感謝で身が震える思いです。原因の第一は全国屈指の大激戦ということで、各地の支援者の皆さんの応援のたまものです。第二には、自民党推薦となり、安倍首相はじめ自民党とりわけ県内各地の衆議院議員が親身になってくれた結果です。第三に、民進党候補者は、民進党と名前を変えても有権者の間に不信感が消えなかったことが挙げられましょう▼全体として、自民党がギリギリで単独過半数を獲得したこと、憲法改正の発議に必要な議席を「改憲政党」が獲得したことが話題になっています。ことここに至った理由は、「自公対民共」という政権選択の構図を描いた安倍、山口の与党首脳の作戦勝ちということでしょう。これは選挙に勝つという観点からはやむを得ないことでしょうが、多様な課題を持つ現状の政治状況からすれば、与野党の政策を吟味することが叶わず、あまり褒められたことではありません▼選挙戦が終わってメディアはしきりに「憲法改正」に向けての環境が整ったかのごとくに報じています。確かに従来にはなかった舞台が出来上がったことは確かです。ただ、ここから注意を要するのは公明党のスタンスです。ご承知いただいているように、公明党はいわゆる改憲ではなく、部分的に足らざるを補う「加憲」です。しかも憲法3原理は堅持するーつまり9条は触らないという立場です。ですから、改憲勢力としてひとまとめに括ることには無理があります▼「自公対民共」という枠組みは選挙で勝つうえでは効果的でしたが、政権の具体的運営、政策の細かな展開では、「自民対公明」の対立構図があるのです。もはや民進党に野党第一党としての矜持を期待することは望み薄です。世界観が異なる政党と組むということの非を多くの国民が認めています。ゆえに、これからは与党内野党としての公明党に大いなる期待を寄せる必要があります。公明党は決して自民党の言いなりにはならない党であり、自民党の良いところは伸ばし、悪いところは容赦なく壊す政党であることを天下に示さねばなりません。それこそ真の意味での「政治の安定」をもたらすものだと確信します。(2016・7・16)
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自公の成熟した関係示せ 24年ぶりの兵庫の参院選
参議院選挙の公示日の22日、私は兵庫選挙区の伊藤たかえ候補の事務長として”第一声”の挨拶に立ちました。衆議院議員を引退して3年半。公的な場面での登場は久しぶりです。今回の選挙は、兵庫に住む公明党関係者にとって実に感慨深いものがあります。24年前に定数が3から2へと、1減になって候補者が立てられずとても悔しい思いを味わったからです。ここではその際の挨拶をベースに、大幅に加筆したものを掲載します▼元々公明党は参議院政党としてスタートした経緯があり、兵庫県も三年に一度の選挙を大きな節目として闘いを進めてきました。それが叶わなくなり、以後は大阪を始めとする他地域の選挙区支援を主軸に更にこの間に新しくなった選挙制度に伴う小選挙区の選挙戦に取り組んできました。兵庫は2区と8区の2候補者を擁立し、激しい戦いを挑んできたのです。勝利の背景には自公の全国での選挙協力があったことは見逃せません▼24年前の6月にはPKO(国連平和維持活動)法が成立しています。文字通り世間を二分する大論争を招いた法律です。当時の社会党は反対の意思表示として全議員がバッジを外すという異様な行動に出たものです。公明党は世界の中で日本がいかに生きるか、が問われているとの問題意識のもと、国際貢献を重んじる選択に踏み切り、前のめりしがちだった自民党をけん制しつつ議論を積極的にリードしました。思えば、それは今日の成熟した自公関係に基づく連立政権の礎を築く契機となったのです▼長い年月は政党としての公明党を鍛え上げてくれました。今回の選挙では自公の与党勢力で過半数の議席を得る勝利がポイントです。兵庫では自公間での軋みが報じられていますが、内実はそんなことで崩れるほど、柔な関係ではないと私は信じています。これまでお互いが衆参双方の選挙で譲り合い、助け合ってきた歴史があります。民進党や共産党が安保法制を「戦争法」だなどと、全くお門違いの言いがかりを浴びせていますが、これは24年前のPKO法騒ぎと本質的には同様です。かつての日本は自社対決の”55年体制”で政治の不毛化が増進しました。あれから半世紀。今また民進と共産が組んで自公に挑もうとする構図は、あたかも”新55年体制”へと逆行するかのようなものです。この場面で、与党同士がいがみ合うことがあれば、敵を利するだけということを銘記する必要があります。(2016・6・27)
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「申し訳ない」と「恥ずかしい」とのあいだ
舛添要一東京都知事がやっと辞任しました。一連の出来事を報道で見たり聞いたりしているなかで都民だけではなく全国民が様々なことを感じました。16日の朝刊各紙を見ると、同知事が辞任に追い込まれたことに対して「公明党にやられた」と口にしたといいます。恐らく都議会与党の自民、公明両党の間で協議がなされ、例えばリオ五輪までは持たせるという風な了解がそれなりにあったのでしょう。それが違ってしまいました。舛添氏の言葉には公明党が「不信任決議案」提出に踏み切ったことが流れを変えたとの恨みが込められています▼しかし、こういうのをお門違いというのでしょう。舛添氏を都知事として推薦し、与党として支えてきた政党として、その責任は大きいものがあります。いちいちあげつらうことはしませんが、都民を裏切る恥ずべき行為の連続が天下にさらけ出されてしまっては守るにも限度があります。公明党としてこんな知事を皆さんに推薦してしまったことへの「申し訳ない」という思いが当然あるでしょう▼実は舛添さんとは現役時代に少しだけですがご縁がありました。憲法に関する自公での議論の場で同席し、意見をぶつけあったり、NHKの国会討論会にはそれぞれの党を代表して席を並べて出演したことがあります。彼はその後厚生労働大臣になったり、自民党と袂を別ったりするなど八面六臂の活躍をするわけですが、今回週刊誌報道に接触するまでは正直そんな「せこい」ことをする人物だとは知りませんでした。今となっては、私を含めてそれを見抜けなかった人たちすべて「恥ずかしい」と大なり小なり思ってるはずです。厚労省の当時の官房長などは最もその思いが強いのではないでしょうか▼舛添さんは自分のやったことに「罪をおかしてはいない」との思いが強いのでしょう。しかし、そこは仮に百歩譲ったとしても「恥ずべきことをした」との思いは持ってほしいものです。昨今の様々な不祥事にまつわる当事者たちの会見を見ていて気付くのは、「恥じる」という言葉がでてこないことです。皆さん、「申し訳ありません」とはいっても、「恥ずかしいことをしてしまいました」とは言わないのです。不思議です。恥の文化の凋落は日本の前途を暗いものにしてしまいます▼舛添都知事は「文春にやられた」とのみ言っておけばいいのです。そんな週刊誌に名を成さしめるまで知らなかった私たちは「舛添都知事にやられた」と臍を噛むしかないのです。舛添さんを支持してこなかった野党の皆さんも偉そうに「製造責任論」などを言って、与党に罪を擦りつけてる場合ではありません。都知事のカネにまつわる呆れかえる性癖による一部始終を知らなかったことでは同罪なのですから。(2016・6・16)
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