占領期に姫路で少年時代過ごす (3)

昭和27年頃までの姫路での私の少年時代で特に印象に残っているのは、社会的事象でいうと、デモとの遭遇です。「吉田を倒せ、よしだをたおせ、ヨシダをタオセ」という掛け声の繰り返しが、私の記憶の中に鮮明に残っています。お城のすぐ西に位置する岡町の県道線脇の自宅の前で、私はただならざる騒音を前に立ち尽くしていました。ジグザグ行進をする大勢の労働者たちの辻井方面に向かう背中姿が、西の方に沈む夕陽と共に、今も浮かんでくるのです。労働運動の高まりを背景に、吉田長期政権への反発としてのデモだったのでしょう。当時は勿論吉田なる人物について、何故に倒されるべき対象なのかなど、知る由もなかったのですが、ある意味、私の政治との初対面でした。

人間形成の勃興期とも言える幼年期。地域に住む仲間たちとあれこれと遊んだ記憶が蘇ります。缶蹴り、馬跳び、ぺったん、S字や島型宝取り、釘さしなどなど。具体的に遊びの様相を文字で表現出来ないのがもどかしいほど独創的なものばかり、と今の私には思えます。例えば、馬跳びというのは、ひとりの立った子の股座(またぐら)に首を突っ込み、次々と何人もの子どもたちが数珠つなぎに首を入れ、それを後方から跳んでいって背中に跨るというものです。今の子供達の遊びでは考えられないほどのユニークなものでした。

裏山のてっぺんから特製の板敷で滑り降りる遊びなどもワクワクするほどの興奮を覚えたものです。二本の割り箸で練り飴をグチャグチャ混ぜながら見た紙芝居。屋根の瓦の上に立てかけた日光写真。レンゲ草を繋げて首にかけるレイ。小川沿いの草原や近所の工場の中での隠れんぼも。お好み焼きや関東炊きなどを食べた店の雑多な佇まい。あらゆる思い出が、頭にスイッチを入れた途端に、走馬燈のごとく蘇ってきます。

【吉田茂の総理就任は、昭和21年5月に。68歳。第一次吉田内閣。同11月日本国憲法公布。昭和22年総選挙で社会党が第一党に。片山哲社会党委員長を首相とする民主、国民協同党との三党連立内閣成立。総辞職後、芦田均内閣成立。昭電疑獄総辞職。昭和23年10月第二次吉田内閣以後、昭和29年12月総辞職まで5次に渡る。昭和25年朝鮮戦争勃発、警察予備隊の創設など、激動の占領期が続く】

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