肺結核を発病、親に内緒の闘病生活 (11)

【昭和43年 1月米原子力空母エンタプライズ佐世保寄港。6月東大紛争激化。8月 ソ連・東欧5か国軍チェコ侵入。10月 新宿事件。明治100年記念式典】

それは昭和42年の12月のことでした。大学での定期健康検診を受けた結果、肺結核の疑いあり、との診断でした。精密検査の末に、左胸部にピンポン球大の影有り、一年の入院治療を要するというのです。大変なショックでした。あと数ヶ月で4年に進級する矢先に入院すれば、仮に一年後に退院出来ても、もう一度三年生の始めからということになり、結局はまる二年遅れることになります。私の信心に賛成していない両親(目の届かぬところでやるのは仕方ないとのこと)の手前、入院など出来るわけがありません。医師には自宅療養をさせて欲しい、3年時だけはクリアしたいのでと懇願しました。しぶしぶ医師の了解を取り付け、両親には内緒の闘病生活が始まりました。

長く神戸銀行に勤めていた父は、私の大学進学と相前後して55歳の定年退職となり、系列の地方銀行に行っていました。給料の中から多くを割いて私の学費を払い、月々生活費を仕送りしてくれていました。私を東京に送り出す直前に、親父の古いコートを私のために仕立て直すべく、知り合いの洋服屋に連れて行ってくれた光景が目に浮かびます。仕送りを増やしてくれとはとても言えません。家庭教師や羽田空港の飛行機の清掃、映画のエキストラのバイトをしたりしていましたが、大した足しにはならず、栄養不足が続いていたものと思われます。

明けて43年の初頭。様々な先輩が「このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」(妙心尼御前御返事)や、「潮(しお)のひると・みつと月の出づるといると・夏と・秋と・冬と・春との境(さかひ)には必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔という障り(さわり)いできたれば賢者は喜び愚者は退くこれなり」(兵衛志殿御返事)といった御書を通し、自分の体験を通じて、今こそ信心で立ち上がり、大きな体験を掴むんだと激励してくれました。

忘れもしません。ある先輩に、現状を電話で報告すると、何時間拝んでるのかと訊かれました。「3時間です」と答えると、「バカ!そんなぐらいで治ると思ってるのか。毎日7時間でも10時間でもあげろ」と怒鳴られました。4畳半の下宿で、朝な夕なひたすら唱題の日々が続きました。地域の先輩、友人から肺結核は伝染するものとあって、なぜ入院しないのかと婉曲にすすめられ、揺らぐ気持ちを抑えつつ拝んだのです。当時の私はとても、入院生活の中で拝み続ける自信はなかったこともありました。

そんな折も折、聖教新聞紙上に掲載されていた小説「人間革命」第4巻疾風の章の連載のある箇所が目に留まりました。この小説のそのくだりを読んで、まさにワナワナと身体中が感動で震え、熱いものが込み上げてきてなりませんでした。

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