人生の師との運命の出会いへ (12)

「彼は一年前、実家を出て、ひとり大森のアパートに寝起きしていたのだが、索漠とした深夜の狭い一室は、時に父母の家を懐かしく思い出させた。ー二十二歳の青年は、心身ともに疲れ切った体を、父母の家になら投げ出すこともできたろう。たとえ、それが敗残兵の姿であったとしても、父母は抱き取ってくれたにちがいない。しかし同時に、彼の体をこれほどまでに痛めつけた会社を呪うであろうことも、今の父母の心情から、予想されることであった。   彼は、戸田城聖という、この世の恩師を傷つけることだけは、なんとしてもできなかった。彼は悲鳴をあげるかわりに、真剣に唱題に励んだ」

小説『人間革命』第4巻疾風の章の一節である。大森のところを中野に、会社を学会に、戸田城聖を池田大作という名に換えれば、あとは、二十二歳の年齢を始め、そっくり私と同じだった。息を呑む思いだった。その数行後にーこうある。

「ある夜更け、彼は開目抄をぱらぱらと繙いているうちに、ふと偶然に、次の一行が目に入った。『父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり』   彼は現在の生活を、大聖人に肯定していただいた思いがした」

山本伸一青年(池田先生)は、開目抄の一節を通して、現在の生活を日蓮大聖人に肯定していただいたと、新聞連載の時点の20年ほど前の心情を吐露している。自分・赤松正雄は、現在ただいまの生活を池田先生の小説『人間革命』の一節を通して肯定していただいた思いがした。心底から驚き、感激し、そして発奮した。

一段と唱題に磨きがかかった。43年2月ごろだった。慶應大学の創価学会学生部内組織から、衝撃的な連絡があった。入会してもうすぐ満3年というときも時、池田先生にご出席いただいての慶應大学会が結成されるというのである。嬉しかった。天にも昇る気持ちとはこのことだった。この3年というもの、段々と先生に会いたい、直接会って言葉を交わしたいとの思いが募っていく。生来、旺盛な知識欲と、貪欲な探究心を持つ私だが、その両者が相まって、先生にお会い出来ねば、全てが始まらないという気にさえなっていた。

先輩たちに「どうすれば、会長・池田先生に会えるのか」との問いかけをした。一様に、会いたければ、ともかく戦い抜いて、お会い出来る機会が来るように祈り切るんだ、との指導だった。思えば、入会以来、座談会での参加者の心底からの体験談を聞くにつけ、自分もあのような体験を持ちたい、人に語るに足る実体験を掴みたいと思い続け、祈り切った末の、肺結核発病だった。「さあ、これでのぞみ通りの体験をつかんでみろ」と指図された思いだった。そこへ今度はまた、一日として祈らない日がなかった師との出会いが実現することになったのである。実際に開催される日まで、祈りに祈った。その中で、ある作戦ともいうべき思いが我が体内から沸々とたぎってきた。

 

 

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