「ダメだよ。治してからだ。でないと、死んじゃうよ。そうだろ」先生は周りの幹部に、同意を求められます。「はい。そうです」と、私にとっては恨めしい声が次々に。「入れてあげるから、治せ」との答えを期待していた私は、当てが外れてしまいました。「では、次の人」と、無情にも私の番は終わったのです。
父親のいないS君にはお母さんを大事にするんだよ、と。また、落第していたK先輩には、大学はきちっと卒業しなさいといった風に、それぞれが抱えてる課題を見抜かれた上で、個別に懇切丁寧な激励を続けていかれました。凄まじいエネルギーです。ただただ圧倒されて聞いていました。ですが、その間、私はずっと、就職が出来ない、どうしようとばかり考え、先生を少し恨みながら僻む気持ちで見ていたのです。全体に目配りされながら話される先生と幾たびか目線が合いました。気落ちした私の心中を見抜かれていたに違いありません。
全てが終わって、「また会おうな。みんな元気で」と握手を求めるみんなの円陣の真ん中で、「痛いよ、強く握ると」と言われながら、なおも激励を続けておられました。少し気持ちが萎えていた私は先生を囲む輪の一番外側にいました。そこへ、「じゃあ、帰るよ」と言われて歩いてこられた先生と、輪が解けた流れの中にボーッと立っていた私と、目線が合いました。「しっかり信心するんだよ。でないと、死ぬよ」ー厳しい口調でした。すれ違いざまに言い置いて帰られたのです。身に余る激励を受けながら、甘い考えでいた私は頭から水をかけられたかのようになりました。ようやく正気になったのです。
「先生が、君にお医者さんを紹介してあげるようにと、帰り際に言われた。場所を教えるから明日行って来なさい」と、終了後に有難いお話をU大先輩から伝え聞きました。元に戻っていた私は涙が溢れるほど先生のご配慮に感激しました。
翌日、大塚にあるIクリニックへ、大先輩が書いてくれた手書きの地図を見ながら探して、行きました。なんと、着いた先は、産婦人科でした。内科とばかり思い込んでいた私は驚きました。大きいお腹をした妊産婦さんたちを横目に、診察室横の部屋に入っていくと、I女医が待っていてくれました。「驚いたの?池田先生は、私が肺結核を経験した医者だから、あなたに体験を話したうえで、アドバイスするように、って言われたのよ」と、にっこり。有難くも嬉しいご配慮でした。
劇的な出会いから約半月。U大先輩から下宿先に電話がかかって来ました。「先生からご本を君に戴いたから取りにいらっしゃい」と言われるのです。喜び勇んで本部へ。先生の『若き日の日記 第2巻』でした。その裏表紙をそっと開けると、鮮やかなペン字で、こう書いてあったのです。
「僕の青春も 病魔との戦いであり、それが転じて黄金の青春日記となった 。君も頑張ってくれ、君自身のために 、一切の未来のために 赤松正雄君 5月17日」
ーこの病気を治すのは自分のためだけではない、一切の未来のためなんだ。唱題の力を世に証明するために。もう、感激の極致でした。