「先日こんな体験を聞いたのよ」との明るい切りだし。参加者に優しい口調で信仰体験のすごさを語りかける柏原ヤスさん。本部幹部会などで、全国婦人部長だったこの人と、必ず話の中に自分の読んだ本について語り、そこから広布の展望を開くヒントを与えてくれた市川雄一さん。今では故人となってしまったこの二人の話に、とりわけ感動することが多かった。信仰体験と読書。高等部担当幹部時代に、この二つを車の両輪として自分を励まし、後輩たちをも激励したものです。
この頃、日本の政治は、自民党に変わりうる勢力を野党間でどう作るかという課題が、選挙協力などを巡って取り沙汰されてきていました。昭和39年(1964年)に結党され、昭和42年には衆議院に進出していた公明党は、社会、民社、共産党の野党三党それぞれと独自の関係を模索していました。そのうち、日本共産党は、各地の現場で、選挙のたびに公明党候補者のポスターへの嫌がらせから始まって、政策実績の横取りとか、様々な軋轢を公明党との間で起こしていました。
そうしたことを背景に、昭和48年(1973年)9月18日、19日に共産党の機関紙「赤旗」が公明党批判の論文を掲載しました。「公明党大会が残した『疑惑』ー問われるその革新性」というものです。ここでいう公明党大会とは、第11回党全国大会のこと。「中道革新連合政権構想の提言」というものをそこで決定していました。提言のポイントは、現日本国憲法の三原理(①国民主権主義②基本的人権の保障③恒久〔絶対〕平和主義)を将来にわたって、革新連合政権の基盤にすべきだというものでした。
さらに、共産党は「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」というものを出し、政権共闘の前提条件には、憲法問題などで先行きのことをいっさい国民に約束しないで、まずは政権につこうではないかと提案してきたのです。これはきわめておかしなことです。共産党は、本来の目標として、現憲法を変え、今のものとは根本的に違う国家機構、制度を作り、日本を「人民共和国」に変えるとの絶対的方針を決めており、党綱領上にも明記していたからです。
いつ、その憲法を改変するかは、民族民主統一戦線政府が軍隊、警察、裁判所、監獄などの国家暴力装置をはじめとする国家権力を実質的に握った時だとしていました。そこへ新たに提案してきた「民主連合政府」というものは、その憲法を改変する民族民主統一戦線政府の成立を「促進するため」の過渡的な政府とすると、明確に位置付けてきたのです。冗談じゃあありません。革新連合政権というものを一政党の都合で決められてはたまったものではないのです。
公明党は公明新聞紙上で、反論することになりました。10月1日、2日の両日付けで、「共産党は『政権共闘』で憲法問題を回避するな」とのタイトルのもと、共産党への批判を展開しました。憲法問題という国民の関心が一番強い問題で、先ゆきのことを約束しないまま、ともかく政権につくというはおかしいではないか、と。当時の公明新聞編集室は俄かに活気を帯び、慌ただしい雰囲気が漂ってきました。