妻の死産と母の死に至る病が直撃 (27)

そこには、「市川雄一」という名があったのです。川崎市、横須賀市などを擁する神奈川二区(旧選挙区)からの出馬です。衆議院初進出から約10年、後方での党の理論的支柱として、その力量を縦横無尽に発揮していた人がいよいよ表舞台に登場するというのです。当のご本人は、その話を時の委員長から聞いた時に「仰天した。まさか選挙に出るとは思ってもいなかった。またジャーナリストの世界で生きたいという気持ちもあった。物書きになりたいとも思っていた」とのちに、雑誌の取材に対して語っています。入社して7年半余り、様々な意味で率先垂範の後ろ姿を見せて来ていただいた大先輩の大変身。嬉しくもあり、正直寂しいことでもありました。

ところで、こうした事態の起こる前、昭和50年代に入って、私の身辺にはいくつかの大きい問題が発生してきていたのです。一つは、妻が身籠った結果、無事に十月十日経ったすえに、死産をしてしまったことです。子どもは作るもんと違う、授かるもんやと口癖のように言っていた母も、なかなか授からない状況が続くので、心配していました。そこへ、受胎し、なんとか流れずに持ちこたえ、喜んでいたのに、結局死産に終わりました。重度の障害を持っていた女の子でした。誕生と同時の死亡です。ささやかなお葬式を出しました。あの時ほど白い布が残酷に見えたことはありません。帝王切開の末のことです。妻の落胆も大きいものがありました。

二つは、その過程の中で、母が胃がんを発病、医者から「余命半年」と宣告されたことです。父は「どないしたらええんや。母さんが川の向こうにどんどん流されてしまいよる。そやけどどないもしてやられへん」と言います。「そりゃあ、信心するしかあれへん。きっと治るから」「ほうか。そんならわしも拝む。治ったら信心ずっと続ける。そやけど治らんかったら、もうせえへんで」こういうやりとりの結果
、遂に父は拝み出しました。我が家の一家全員の入会が「母の生と死」をかけた危機的状態の中、私の入会後10年余りで実現しました。しかし、残念なことに、母は医者の見立て通り、闘病生活半年の末に亡くなってしまいました。私の子も見ずに。

子どもの死に対しては、ある大先輩が「受胎は女の福運、安産は男の福運。妻が身籠ったからと言って喜んでいるだけではいけない。夫は無事生まれてくるまで、しっかり祈ることだ。人間ひとりの生命を授かることは、女にとって命がけのことだけれど、夫もそれを傍観していてはいけない」と指導してくれました。それまで、良い加減に考えていたわけではないのですが、心底これは堪えました。

母の死については、ともかく悲しかった。葬儀の席で号泣してしまいました。19の歳に別れて暮らすようになっていらい、10年余り。ロクな親孝行もしないまま。死の直前に帰神して、病院で痩せ衰えた母を抱き上げたときのその軽さに驚きました。なんともしてやれなかった我が身の無力さにただただ泣けました。父は、様々な病院に足を運んで医師にあったり、民間療法に伴う色々な薬を求めるなど八方に手立てを尽くしました。ベッドのそばに布団を引いて寝起きし、母をお風呂にも入れ、看病の限りを尽くしたと言います。

こういう風になってしまったら、父は約束通り、信仰を辞めると言い出すに違いない。困った。どうする。泣きっ面にハチとはこのことだ、とひたすら恐れました。

 

 

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