昭和53年の暮れ。池田先生によって架けられた中国との〝金の架け橋〟を、弟子たちが渡って、日中友好の絆を深めようと、創価学会青年部訪中団が結成されることになりました。中日友好協会(廖承志会長)の招きによるものです。全国の県青年部長たちと一緒に、私もメンバーの一員に加えて頂きました。北京と石家荘への旅でした。万里の長城や故宮などを見学したり、共産主義青年団の幹部たちと意見交換をするなど、有意義な一週間の旅でした。
学生部総会の時に池田先生の中国講演を聞いて以来、私は学問としての「中国問題」に研鑽を深める一方、日中国交回復への貢献に意を注いできました。その努力の中で、いつの日か大陸中国に渡り、この目で天安門広場に立ち、中国民衆と言葉を交わしたいとの思いを抱いてきました。それが遂に実現する、しかも創価学会青年部の代表の一人として。十分に眠れぬほど気分が高揚する中で、出発の日昭和54年1月12日を迎えました。
北京空港で私たちが乗った飛行機が着陸後、滑走路を回遊しているときに、空港そばの畑で、鍬や鋤を手にした農夫たちが物珍しそうに見ていたことが目に焼き付いています。厳寒の北京で、万里の長城に行ったときには、警備に立っていた兵士の眉毛が白い氷で凍てついていたのも印象に残っています。譚震林氏(元国務院副総理)が、団長(山崎尚見副会長)以下の我々一行に会ってくれました。この旅には、中野区男子部の後輩・黒羽邦彦君(国際局勤務)が団の通訳として加わっていました。北京から石家荘(「長征」の途上にあって、中国共産党に貢献した病院)へと列車で移動し色々と見聞する機会がありましたが、彼のおかげでわたしは随分と得をしたものです。持つべきは有能な友です。ともあれ中国初訪問の私の率直な印象は、〝清く貧しくでっかい国〟というものでした。今から40年ほども前の中国はそんな風だったのです。
一方、沖縄が日本に復帰(昭和47年/1972年)したことを受けて、この年の夏に交通ルールが変わることになりました。6年間は従来通りの「人は左、車は右」だったのですが、漸く本土並みに車は左側通行ということになったのです。これを実施するのが7月30日からだったことから、「ナナサンマル」と呼ばれました。この大きな試みを取材するため、先輩記者とカメラマンと一緒に3人で訪沖しました。前夜から8時間かけて、全沖縄で6時を期して、一斉に変わったのですが、面白い経験でした。
その取材もさることながら、一つ妙なことがありました。朝ホテルで目を覚まして、先輩の部屋に行こうとすると、ドアが半開きになっていて、そこからベッドの上に4本の足が見えるのです。驚きました。ただ、それは先輩記者が持病の発作で苦しみ、カメラマンを助けに呼んだ末のことだったのです。つまり、背中をさすったりしながら、添い寝をして貰っていた、と。笑い話に終わって、ホッとしたものです。そんなハプニングもありましたが、初の沖縄取材はなんとかうまくこなせました。この先、沖縄には幾たびとなく行くことになりましたが、いつもこのエピソードが頭をよぎります。