●頻繁に憲法改正をしてきたドイツ
実はこの年ー2000年の1月20日に衆参両院に憲法調査会が設置されました。初代の衆議院調査会長は中山太郎元外相です。私もそのメンバーの一員となり、様々な論議に加わっていくことになります。その活動の中で、忘れがたいことの一つは、9月10日からの17日までの7日間のドイツ、スイス、イタリア、フランスの四カ国に憲法改正の経緯事情を視察する旅に加わった(私は故あってフランスには行けず三ヶ国のみ)ことでした。メンバーは、中山太郎団長、鹿野道彦副団長、団員に葉梨信行、石川要三、中川昭一、仙谷由人、春名真章、辻元清美そして私の9人。随行には衆院憲法調査会事務局の橘幸信氏ら。そしてメデイアからは、NHK と産経新聞の記者が同行するという大掛かりなものとなりました。
調査活動で最も印象深かったのはドイツでのこと。1949年の憲法制定以来、2000年の時点で、46回に及ぶ憲法改正を経験していたという歴史的事実には驚きました。日本と同様に第二次大戦後、敗戦国としての出発を余儀なくされたドイツですが、その後の歩みは大きく違いました。一行をドイツ連邦議会で迎え、対応してくれたアルフレッド・ハルテンバッハ氏(ドイツ社会民主党=SPD法務部会長)は、ドイツにおいて頻繁に憲法改正が行われてきた最大の理由として、「国家を現実に適合させる必要があった」ことを挙げました。冷戦下に東西両陣営の最前線に立たされて、自らの国は自らで守らねばならない現実に直面して、その都度憲法を改正せざるをえなかった事実経緯を述べてくれました。
彼が語った過去のドイツが経験した三大改正とは、一つは、1956年の北大西洋条約機構(NATO)加盟の際の再軍備に伴う兵役の義務化です。更に、1968年の国家的緊急事態における防衛体制の整備が必要とされた時のこと。そして、三つ目は、東西ドイツの統一の際の改正でした。いずれも過酷な国際政治の現実の中での重要な選択だったのです。
●中山団長が挙げた三つの検討課題
中山団長はドイツ、スイス、イタリアの調査を終えた段階で、同行記者団を前に懇談して、「各国において、憲法は神聖不可侵のものではなく、社会情勢の変化に応じて、改正が極めて普通のこととして行われており、日本においても改正を念頭においた本格的な憲法論議が進められるべきです」と述べました。
その上で、ドイツとイタリアが独立機関として設置している憲法裁判所について、「議会制民主主義よりも良い判断が行われた面もあり、日本でも設置するかどうか十分議論していきたい」と強調しました。さらに、三カ国が憲法において、国民に兵役の義務とそれを拒否した場合の福祉活動など代替勤務を課していることに関連して「社会保障における労働力や個人の社会全体に対する義務を考える上で、検討に値する」と述べました。加えて、スイスが世界で初めて、憲法に遺伝子技術に関する「生命倫理規定」を憲法に盛り込んだことも、大いに参考にすべきだと発言しました。
ここに挙げた三つの発言はいずれも中山団長の個人的なものではありましたが、私を含め団員の間でも興味を惹いた内容でした。同行記者団の一人、産経の高橋昌之記者(姫路出身。先年急逝)は、9月18日付同紙に、大きくこの時の懇談内容を書いています。❶独立した憲法裁判所❷「奉仕活動」の義務化❸生命倫理規定の創設が憲法調査会の検討課題に、と。その記事には各党の代表のコメントが掲載されていますが、私も「憲法を良い方向に変えるべく、できるだけ早い機会に公明党の憲法草案を作るべきだ」とまで、勢い込んだ発言をしているのです。旅先でもあるからでしょうが、突出した高揚感が伝わってきます。同世代の仙谷由人(のちの民主党政権の官房長官)や中川昭一氏(のちの金融担当大臣)らと幾たびも議論を交わしたものです。(この二人も、もう亡くなってしまいました。)
●ローマでの塩野七生さんとの出会い
この旅での重要なイベントは、ローマ在住の作家・塩野七生さんとの懇談(9-14)でした。これは中山団長のたっての希望で、同地の大使公邸で行われました。塩野七生さんといえば、畢生の大作『ローマ人の物語』全15巻を始めとするローマ帝国に関する歴史著作で有名です。同時に歯に衣着せぬ明快な物言いで知られる人でもあります。私は少し以前に国会で彼女を招いて講演会があった際に、同僚議員が仲間を「先生」と呼んだことに対して、「国会議員がお互いを先生と呼ぶのはやめなさいよ」とビシッと指摘されたことに強烈なインパクトを受けていました。その通りだと共鳴したのですが、同時にその舌鋒の鋭さにタジタジとなったのです。これは、私一人だけではなかったはずです。
この夜も塩野さんは、「私を先生と呼ぶのはやめてくださいね。皆さん方もそうですが」と冒頭切り出され、「わざわざイタリアまで日本の国会議員の皆さん方がやってきて、私のような日本人に会おうなんて、一体どういうことでしょう。栄誉あることだと私は受け止めますが‥‥」と皮肉混じりと受け止められる言い方をされたものです。憲法については、改正に必要な国会議員の三分の二というハードル(憲法第96条の規定)を下げて、過半数にすべきだということが唯一最大の注文だと述べられたことが強く印象に残っています。
私は別れ際に、玄関先までついて行き、こう述べました。「日本の男性の多くは塩野さんのローマ人の物語を始めとする著作が大好きです。しかし、女性の多くは須賀敦子さんの著作に興味を持っている人が多いですねぇ」と述べました。実は、須賀敦子さんも塩野七生さん同様にイタリア人男性と結婚し、ローマにかつて住んでいた女流作家です(今は故人)。私はこの人の著作をある女性から勧められてほぼ全てのものをこの時までに読んでいました。それ故に、チョッピリ皮肉を込めて一矢報いたつもりでした。これくらいのことを言わねば、大作家の心を惹かないと思ったからです。しかし、あに計らんや「私も須賀敦子さんのように日本の女性に読まれないといけませんねぇ」との答え。意外でした。役者が違うというべきでしょうか。
こうして憲法調査会の欧州旅は過ぎて行ったのですが、私はローマで、またまたとんでもないハプニングに見舞われます。それが冒頭に述べた四カ国歴訪が、私は三カ国になったことに繋がるのです。これまた自業自得というのでしょう。次回のお楽しみに。(2020-4-17公開 つづく)