【41】アウシュビッツ訪問で受けた衝撃ー平成14年(2002年)❺

●事態対処委員会の一員としてドイツへ

既に幾度か触れたように、有事法制を巡って国会では議論がなされ、私は様々な場面で発言をしていました。そんな折、議論の主戦場たる衆議院の武力攻撃事態特別委員会として、海外調査をする機会があり、メンバーの一員となりました。8月末のことで、訪問先はドイツ、ポーランド、スイスの三カ国でした。たまたま、この年の夏は、ヨーロッパを大洪水が襲い、エルベ川、ドナウ川流域の被害が大きく、ドイツはチェコスロバキア、オーストリアなどと並んで、大きな痛手を被っていました。旅の目的は、ドイツでは、有事法制を巡っての調査、ポーランドではアウシュビッツ収容所の訪問が主なものでした。なお、この旅では個人的都合で、スイスには行かず、単身、オーストリアを訪問しました。

ドイツでは、ポツダム会談の場所となったツェツィリエンホーフ邸で、連邦議会法務委員長のルペルト・ショルツ氏(元ベルリン自由大学教授、元国防大臣)との懇談が印象的でした。有事法制についてのドイツの体験や現状だけでなく、戦後処理やイラク攻撃への対応などテーマは多岐にわたりました。

ここでは、日独の戦後処理比較について、ドイツは戦争責任を明確にしているが、日本は曖昧だとの指摘について、私は日本国内での意見を持ち出してショルツ氏の考え方を聞いてみました。それは、ドイツは全ての戦争責任をナチスのせいにしただけで、国家としての謝罪や責任は明確にしていないではないか、というものです。つまり、ドイツの戦後指導者はやり方が巧みで、日本の指導者は下手だとの見方です。ショルツ氏はそれは誤りであり、ドイツは国としての責任は認めて、イスラエルやユダヤ人への高額の補償をしていると述べました。その上で、日本とドイツの国家イメージを比較されたのは興味深いものがありました。つまり、日本は戦前、戦後で国の有り様は全く変わっていないが、ドイツは新しく国を作ったに等しい、と。これが国際社会で決定的な違いを日独にもたらしたというのです。これにはなるほどなあと思わされました。

●ベルリンでの旧友との再会

実は、このショルツ氏について、前日にベルリン在住の大学時代の友人・梶村太一郎君から「明日君たちが会う予定のエルペン・ショルツ氏は大変な人物だよ。是非、文民統制などについて意見を聞くといいね」とのアドバイスを受けていました。梶村君は同地に住むジャーナリスト。時々雑誌『世界』や『論座』誌上に戦後のドイツと日本の戦争責任などをめぐっての対応ぶりの比較などで健筆を奮っていました。慶應在学中以来、実に35年ぶりくらいで、この時に再会をしたのです。

「ベルリンに住みついてもう四半世紀になるが、ここが気に入っているのは、この国で一番都会だからね。あとは全て田舎だよ。日本に比べて全く自由だし、気軽なことこの上ないよ」と言ってたことを思い出します。在ベルリンの各紙特派員との記者懇談会にも彼は同席していました。そこで、私は、今回の我々の旅の目標は、有事法制の整備状況だけではなく、戦後処理や歴史認識についてのドイツと周辺国との関係を調べることにある、と発言しました。これは彼を十分に意識してのものでした。

●やりきれぬ思いになったアウシュビッツ訪問

この視察旅で、大事な目的の一つは「ベルリンの壁」を見ることでした。既に一部を遺して撤去されています。私はかねてヨーロッパを舞台にした冒険スパイ小説に嵌っていて、ジョン・ルカレの『寒い国から帰ってきたスパイ』や中村正軌の『元首の謀反』などを読み、「壁」を生で見たいとの思いを強く持っていました。この時に現地に足を運んでの率直な感想は、意外に壁そのものが薄かったことでした。壁の裏側には、ナチスの秘密警察・ゲシュタポについての写真が展示されており、訪れた人々の目を奪っていました。アジアからの訪問者としては、南北朝鮮を隔てている〝38度線の境界〟に想いをいたさざるをえず、ベルリンと同様に消える日の遠からんことを祈ったものです。

さて、この旅のもう一つの柱は、ポーランドのアウシュビッツ訪問でした。第二次大戦中に、ナチスによって、ドイツ占領下の各地から、ユダヤ人、ジプシーたちをはじめとして、28民族、150万人もののぼる人々が次々と送り込まれて殺害された地です。ポーランドの首都ワルシャワから空路1時間、世界文化遺産にも指定されている古都クラクフから、さらに車で西へ54キロほど走ったところに、それはありました。

当時、日本語を使うたったひとりだけのガイド(中谷剛さん)が、真っ先に人間焼却炉の前に私たちを案内し、こう言いました。「毒ガスによってここで焼かれ、灰にされたという事実を知っていただければ、あとはもう説明などいりません。これで帰っていただいてもいいくらいです」と。囚人を鞭打つ台、監禁室、移動絞首台、飢餓室、さらには立ったまま身動きが取れない立ち牢など、およそまともな神経では考えられない悪知恵の限りを尽くした拷問の展示室のようなところに足早に案内してくれ、口早の説明を受けました。通常なら半日くらい、最低でも2時間はかけないと全体像が見えないと言われるところを、1時間で回ったのです。

ナチスが収容所から没収した生活用品などがガラスのショーケースに入った形で公開された建物でも息を呑みました。おびただしい数の衣服。身の回りのものを入れてきたであろうトランク、靴やブラシ。さらには遺体から取り外されたであろう義足や義手、メガネ。また、一見何だかわからなかったのが髪の毛の山。そこには三つ編みのお下げ髪まで。これらはもちろん一部で、現実には換金されたり、カーペットなど織物に化けたりしたといいます。

廊下には収容者の顔写真が展示されていました。一様に精気を感じることが出来ないものばかり。それでも絶望やら恐怖を窺わせる表情がなかったように思われたのは、収容所に着いてすぐとったものだからでしょう。未だ一縷の希望を持っていたに違いありません。まとめて毒ガスで殺され、捨てるのに面倒だから、焼却されるとは思っていなかったはずです。

やりきれぬ胸潰れる思いになった私は帰り道に、ようやくガイドの中谷さんと話す機会に恵まれました。「ポーランドにはいつから」「旧ソ連が崩壊し、東欧が次々民主化する前からです」「この仕事には」「5年ほど前から。もちろんこれ以外の仕事もしているのですよ」「日本人は大勢訪れますか」「ええ」

終始一貫暗い表情を変えずに、淡々と事実を述べていく彼に、もう少し脱線したり、明るい雰囲気でと、つい思ってしまいました。それではここで起こったこととの落差が大きすぎます。一切余分なことを拒否する峻厳な雰囲気が彼には漂っており、今でも深く印象に残っています。(2020-5-11公開 つづく)

 

 

 

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