●東日本大震災当日の記憶
あの日、あの時間、私は東京から地元姫路に向かう新幹線車中にいました。新横浜駅に停車した頃だったと記憶します。奇妙で微妙な揺れを感じました。約10分間ほど停車したのちに、何事もなかったように「のぞみ」は出発しました。元文科相で隣の選挙区の渡海紀三郎代議士の姫路での会合に向かうところだったのです。当時関西エリアでは著名だった評論家の青山繁晴氏(現参議院議員)の講演があり、それを聴くのが主たる目的でした。なんだか大きな地震が起きたらしいという車内放送を聞いただけ。国会の事務所に電話をしても繋がらず、何も分からない状態のまま姫路駅に着きました。
全貌がぼんやりと分かったのは数時間経って、会場に着いてからです。東北方面が震源地で、首都圏周辺にまで影響が及んでる、とのこと。津波による想像を絶する大惨事はおろか、福島原発を襲う大危機からの〝日本沈没〟寸前の事態だったことを理解するには、まだまだ時間がかかりました。阪神淡路の大震災からほぼ16年。あの時は自社さ政権で社会党出身の村山首相。今度は民民民政権で、市民活動家あがりの菅首相。危機管理に習熟していないリーダーのもとで国家の崩壊的危機を迎える二度目の、更に大きな悲劇をやがて思い知ることになります。
●新入自衛隊員との交流と自衛隊の活躍
震災の翌日、姫路の自衛隊基地で行われた新入隊員を励ます会に訪れ、この春に晴れて自衛隊に入ることが決まった青年たち(大卒、高卒合わせて34人)と会いました。そこでは彼らから「この国のために役立つべく、地域密着型の隊員として頑張ります」「航空自衛隊員として世界にはばたきます」「自衛隊看護生として全力を尽くす決意です」など、一言ずつの決意発表がありました。皆堂々とした立派なものでした。
そのあと、私は「昨日発生した東北・関東大震災においても皆さん方の先輩たちが直ちに懸命の救助活動を展開しています。16年前の阪神淡路の大震災の時に大活躍をされて以来、自衛隊の存在はまさに従来とは一変して、国民に心底から期待されるものとなりました」と強調し、「さてこの世に皆さんが生を受けた20年前は、自衛隊の歴史にとって時代を画す変革期でした。湾岸戦争に金は出したが、人的貢献はしなかった日本は、世界中から特殊な国家として位置付けられたのです。このため、カンボジアPKOからは国際協力をするべく法的措置をとりました」と続けました。「皆さんが自分で決めた一筋の道を断じて怯まず歩いて行って欲しい」と結びましたが、私の代議士生活における自衛隊での挨拶でも印象に残る貴重な場面のものとなりました。
ともあれ、震災時における自衛隊員の活躍はめざましいものがありました。共産党のある幹部が、大津波のために命からがら逃げ伸びた建物の中で、自衛隊員から受けた毛布をはじめとする援助の数々の前に、過去の自分の観念的な自衛隊観が音を立てて崩れたと語っていたのを雑誌で読みましたが、我が意を得た思いがしたものです。
●日米沖の関係に万感の想い込め本会議で演説
3月31日の衆議院本会議では在日米軍の駐留経費の日本側負担をめぐる協定、つまりいわゆる「思いやり予算」についての採決があり、その賛成討論を私が行いました。この演説は私なりに渾身の力を込めました。冒頭で、震災で多くの家族を亡くされた民主党の黄川田徹代議士の席に向かって、お悔やみの思いを込めた挨拶をしたことも忘れえぬことです。以下、演説の山場を転載します。
【ところで、この際に触れておきたいのは、日米地位協定の改定と沖縄の普天間基地移設問題という二つのテーマをリンクさせることです。民主党はマニフェストに地位協定の改定を提起する、としてきました。しかしながら、政権が交代して1年半。「地位協定改定をアメリカ側に申し入れた」とのニュースに私たちは接することができないでいます。結局は旗を掲げるだけで、具体的な行動は起こしていないのです。ここにもう一つのマニフェスト違反があると言わざるを得ないのです。野党時代は簡単にできると思ったが、現実にはやはり難しいというのでしょうか。先日も前原外相は「地位協定の旗は降ろしていない」との答弁をしました。それを聞いた時、私は「旗は旗でも白旗ではないのか」とさえ思いました。
安保条約50周年を迎えた現在、大事なことは日米関係の一層の深化であり、緊密な関係構築だと思います。かつてある国の指導者は「戦場で失ったものを交渉で取り返すことはできない」と言いました。これは裏返せば、「戦場で奪ったものを交渉のテーブルで返したりするものか」ということでしょう。思えば、米国は、これとは反対に、戦場で得たものを交渉で返すという英断を下した国家です。であるがゆえに、今なお、沖縄に対する強い執着があるとの見方もできなくはありません。
それにつけても見過ごすことができないのは、先日のケビン・メア元沖縄総領事、前国務省日本部長の暴言です。この発言は、過去の積み重ねが崩れたことへの悔しい思いがあったとはいえ、持っていく先を間違えられたものと言わざるを得ず、誠に残念です。兼ねて私は日本がホストネーションサポートをするのだから、アメリカはゲストネーションマナーを持つべきなのに、あまりにそれがなさすぎると指摘してきました。ことは若い軍人の仕業ではない、メアという日米関係を代表するといっていい人物がこの程度の認識だからこそ、と思わざるを得ません。ここはあの発言を逆手にとって、日米沖の三者による歴史認識の研究の場を設けるというぐらいの提案が日本からあっても良かったのではないかと思います。
デッドロックに乗り上げた感のする沖縄の基地移設問題を解く鍵は、一にも二にも私は地位協定の改定について具体的に問題を提起し、日本側が汗をかくことだと思います。そのためには、日本が沖縄を琉球王朝以来の歴史と文化と伝統を重んじる地域だととらえることから始めるべきだと考えます。とっくに、日本の領土になった一地方自治体というのでは事態は解決しない。沖縄の方と誠心誠意話し合うと政府が言うのなら、準国家的位置づけをもってして対応すべきだとさえ思います。それで初めて沖縄の人々の心が動くのではないでしょうか。かつて、中国・清と日本・薩摩の狭間で揉みにもまれ、その後は米国と日本の狭間で苦労し続ける沖縄からは、米中の狭間に立つ日本が学ぶべきことは極めて多いと思うのです。
東日本の今次の大災害から復旧・復興に挑む戦いをする中でこそ、「三度(みたび)の開国」を日本が果たしうるとの指摘があります。そのためには、まずは沖縄をめぐる問題を超えなければならないとその重要性を改めて強調させていただいて、私の賛成討論とさせていただきます。】
我ながらいい演説だと自画自賛しています。しかし、肝心かなめの沖縄における基本的課題が何も解決していない現状は残念という他ありません。(2020-8-20公開 つづく)