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【53】衆議院憲法調査会の報告書まとまるー平成17年(2005年)❶

●『BIG tomorrow』に私の「司馬遼太郎論」が掲載

平成17年(2005年)という年は、私が生まれた年からちょうど60年。明治維新(狭義には1868年を指す)からほぼ140年が経っていました。明治維新前夜から明治にかけての歴史を語ることは、団塊の世代を含む私たち戦後第一世代にとってとても楽しいことではあります。その際に欠かせぬ語り部が作家の司馬遼太郎さんです。現在では何かとその歪み(「司馬史観」として)も取り沙汰されていますが、21世紀に入ったばかりの頃には司馬さんはもてはやされていた感が強くします。市川元書記長は『燃えよ剣』がとても気に入っていて、公明新聞時代から政治家としての現役時代にかけて、よく「司馬遼太郎論」や土方歳三をめぐる話を聞かされました。

市川さんは小説で気にいっているところは暗唱されており、『燃えよ剣』の末尾のくだりは何度もなんども繰り返し聞かされたものです。時代の大転換期にあって新選組という小集団のナンバー2として、鉄の規律を守り抜いた智勇兼備の猛将をご自分に重ね合わせていたのかもしれません。思えば、公明党の書記長というポジションと新選組副長とは似てなくもないと、後輩雀たちは時に応じて囀ったものですが、ご本人も満更ではなかったようです。その話題を持ち出すタイミングしだいで、座は殊の外盛り上がりました。

ちょうどこの頃、わたしのところに『BIG tomorrow  』(1980創刊-2017廃刊)っていう雑誌から3月号の取材依頼が来ました。テーマは、「経営者はなぜ司馬遼太郎を読むのか」でした。シリーズの四回目。「義に殉じた、河井継之助の大志とは何だったのか」という主題のもとに、見開きで登場しています。

私は「河井継之助は優れた合理主義者であると同時に、動乱の時代にどう行動すれば人は美しいのか、そしてそれがいかに公のためになるかを真摯に追求した信念の人。司馬さんは『峠』のなかで、継之助が箸の上げ下ろしから、物の言い方、人とのつき合い方、酒の飲み方、遊び方など、毎日の生活を彼の理想とする男のかたちとして実践していくさまを描いています。僕自身があまりさまになっていない人間だけに、サムライの抑制をきかせた立ち居振る舞いには今でも強く惹かれます。」などと、語っているのです。恥ずかしげもなく、『峠』を語り、「河井継之助」を論じていますが、市川さんからの受け売りも多かったことを正直に告白しておきます。

●作家・半藤一利さんとの出会いと「40年周期説」

この頃の私は、事あるごとに「日本社会40年周期説」なるものを口にし、様々な機会に時代を読み解くよすがとしていました。ざっとこれをまとめてみましょう。一言でいえば明治いらい40年ごとに、大きな歴史の転換期が訪れているというものです。つまり、明治維新から40年間、「富国強兵」で突き進んだ日本は、40年後に日露戦争でピークを迎えました。その後更に、40年かけて軍事列強入りを目指した挙句、あの大戦の敗北という、どん底を味わいます。一転、それからまた40年、今度は経済至上主義の坂を駆け上がり、1985年に頂上を極めるのです。そうすると、今はバブル崩壊以後の景気低迷の途上にあり、恐らく40年後の2025年まで続くということになります。その時は少子高齢化のピークという、新たなどん底を迎えるわけです。

実はこの説、歴史家・半藤一利さんの唱えたものを私なりにアレンジしています。彼だけでなく、多くの識者、知識人がこれに類する諸説を展開していますが、私は当時よく借用して「国家目標を掲げる大事さ」を語ることにしていました。実は半藤一利さんの娘婿が元産経新聞の記者で、後に政治部長を経て、今は自民党参議院議員になっている北村経夫さんです。彼とは大変親しく付き合っていましたが、ある時にぜひ岳父・半藤一利さんに会わせてくれと頼み込みました。

遂にそれが実現した夜のこと。半藤さんはいきなりこう言われました。「いやあ、貴方は〝くだらない本〟を実に沢山読んでる人ですねぇ」。流石の私もチョッピリむかっときました。笑いつつ「そうですかぁ。先生の本も入っているのですが、ねぇ」と嫌味含みで切り返した上で、「ですが、政治家が本をどう読んだかを公開することは、資産公開よりも大事な情報公開だと思いますが」と述べたのです。半藤さん、それには「全く仰る通りです」と同意されました。あれから10数年、本を読むたびに思い起こし、銘記しています。もっと〝くだらなくない本〟を読まねば、と。

●憲法調査会報告書に党を代表して

国会に憲法審査会が出来てから、早いもので5年余が経ちました。当初から5年を目処に現行憲法を巡ってあらゆる角度から調査検討をし終えるということになっていました。衆議院は中山太郎氏を中心にして5年間で450時間ほどかけて徹底的に調査しました。その報告書がこの年、平成17年4月15日に中山会長から河野洋平衆議院議長宛に提出されたのです。これは実に大きな出来事でした。私はほぼ全ての期間、この調査会に属して様々な議論に参加、発言をしてきました。時に応じて報道されたり、話題になったことはこれまで触れてきた通りです。

この報告書の冒頭に各党の代表がそれぞれの党の立ち位置、主張を表明していますが、公明党は私がその任に当たったのです。大変に光栄なことでした。衆議院議員になって、ある意味最大の仕事がこれだったと言っても過言ではありません。最も私が言いたかったくだりを抜粋します。

「明文の改正を必要とされる項目はそう多くはない。明文を変えさえすれば、事態に対応出来るとの考え方はいささか短兵急ではないかと思われます。これを受けて、公明党としては、憲法上の明文を改めなければならないものがあるとすれば、それは何か。また、何か付け加えねばならないものがあるとすれば、それは何か。憲法を変えずとも、法律や行政で対応出来るものは何か。こう言った観点から今後徹底的に洗い出す作業をしていくことが必要ではないかと考えています」

この時から、すでに15年が経ちました。その間に、特別委員会で国民投票法を作り、私もそれに貢献することが出来ました。そして憲法審査会が出来ました。しかし、それ以後今に至るまで全くと言っていいほどそれは作動していません。実は、憲法調査会ができて20年経ったということから、昨年産経新聞、今年は毎日新聞からインタビューを受けて、元憲法調査会に身を置いた人間として発言をしました。あまりにも残念な現状に私は幻滅すると発言したり、公明党を含む各政党の態度を批判しました。ただ口撃するだけでなく、具体的な打開策も提言しています。様々な状況から勘案すると、安倍晋三首相が退き、中山太郎さんのような与野党議員から信頼されるリーダーが出てくれば、議論を前進させることは十分に可能だと思うのですが。(2020-6- 15 公開 つづく)

 

 

 

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【52】防衛大綱に伴う予算攻防の夜の衝撃ー平成16年(2004年)❺

●自衛隊富士学校での浜四津さんの勇姿

自衛隊が持つさまざまな施設に私は担当者として積極的に出かけました。9月のある日、静岡県駿東郡小山町の陸上自衛隊富士学校と山梨県にある北富士演習場に視察に行ったのですが、いつもと全く様子が違いました。私が部長を務める外交・安保部会と、女性局の合同視察だったのです。しかも浜四津敏子代表代行も参加しました。自衛隊のあるがままの姿を知っておきたいとの浜四津さんの意向もあり、女性隊員との懇談なども企画され、実り多いものになりました。

当時発売されたばかりの総合雑誌『文藝春秋』10月号に「大和撫子 イラクで奮戦す」という女性隊員三人の座談会が掲載されていて、興味深いものがありました。浜四津さんとの懇談の場では残念ながら本音トークは聞けませんでしたが、その代わりに、この時大変珍しい場面を見ることができたのです。それは、富士学校の校庭で、96式装輪装甲車、90式戦車への試乗を迫られ、浜四津さんが受け入れて、なんと車上の人になったのです。

最初、私は代表代行はよもや乗るまいと、思っていました。もし、週刊誌などの知るところとなると、いいように揶揄られ、自衛隊アレルギーを持つ婦人層からも批判されるのではと、懸念したからです。自衛隊の装甲車の助手台に颯爽と立って、走りゆく車上の姿。つくづく度胸があるなあと思いました。昭和42年ごろ慶大で後輩として出会って以来、いつもチャーミングな先輩でした。その浜四津さんが見せた全く別人のような勇姿。今なおぼんやりながら思い浮かんできます。このことは一切当時のメディアでも党内でも語られていません。私自身黙っていました。今、はじめて明かします。15年ほど経っていますからもう時効でしょう。

●尖閣列島を空から訪問する

国土交通委員会の一員として、尖閣列島を上空から視察をしようとの話が持ち上がり、11月17日に私も参加しました。日本の領土であるのに、中国、台湾もその領有を主張するという異常な事態が続いている中で、様々な課題もあるので、現地を見ておこうということになりました。視察を決めた直後に偶々原子力潜水艦の侵犯事件もあり、一層意義深いものになりました。これより数年前、石原慎太郎氏や西村慎吾氏らの衆議院議員有志が海路この島々に来たものですが、石垣島から北へ130-150キロほど離れており、ヘリコプターでほぼ1時間ほどもかかる行程でした。

一機につき定員は7人。乗組員が4人でしたから議員は2-3人。午前と午後の二回に分けて乗り組みました。魚釣島を中心に北小島と南小島の三つの島から成り立っていますが、魚釣島を見た印象は大きいなあというもの。幅3-5キロにも及ぶ堂々たる島です。かつて明治の頃には、この島でアホウドリの羽を加工したり、カツオ漁の拠点があって、工場を営んだ人々が住んでいたといいます。今は勿論無人島ですが、ヘリで20分ほど接近、旋回して見たところ、研究用にと放たれた山羊が数頭走ってるのが見えました。また、かつて右翼団体が岩に描き残した日の丸の旗もくっきりと見えました。またその側に、小さな灯台と思しき建造物も見えましたが、日本の領有を示すもっとしっかりした建物を作る必要を感じたしだいです。

●防衛大綱めぐる予算攻防にしのぎを削った夜に

この年の暮れは、新しい防衛計画の大綱と次期中期防衛整備計画が決定されるに至りましたが、私は与党プロジェクトチームの副座長を務めました。座長は自民党の額賀福志郎さんです。元防衛相も務めたベテランです。約一ヶ月の間に、合計8回ほどの議論を展開して、大綱や中期防の中身をめぐる詰めの作業をしたあと、陸上自衛隊の定員についての交渉に関わりました。

この時の経緯については、12月9日付けの日経新聞が詳しく報道しています。

新たな「防衛計画の大綱」の焦点だった陸上自衛隊の編成定数は15万5千人で決着したのですが、定数削減に難色を示した自民党、防衛庁。大幅な圧縮を求めて譲らない財務省。そして目に見える防衛力縮小を求めた公明党というように、三者の立ち位置がぶつかり合ったのですが、最終的に「三方一両損」に落ち着いたとの見方を示しました。当事者としてもその見方が的確だろうと思います。

この時の大綱の編成定数は16万人ですが、常備自衛官は14万5千人。予備自衛官は1万5千人で構成されていました。これを予備自衛官を8千人減らして7千人にして、常備自衛官は3千人増やして14万8千人にするという形で決着させました。それぞれのメンツが立つことになったのです。

この経緯を日経はさらに詳しく解説していますので、その部分をまるごと引用します。

「中期防と大綱を絡ませ、利害を調整するために登場したのが、自民党の額賀福志郎元防衛庁長官と公明党の赤松正雄氏だった。関係閣僚と与党幹部による異例の折衝を落としどころに導くには、官僚ではなく『政治家の関与』が欠かせない。七日夜。額賀氏と赤松氏は『防衛庁と財務省が激突していてはどうしようもない。「常備」は十五万人を割り込ませ、十四万八千人にしよう』と申し合わせた。八日、日中の閣僚折衝は決着に至らず、額賀氏と赤松氏は三度にわたって財務省に出向き「十五万人5千人」で合意した。どの関係者も『満点』とは言えないが、誰もが『実』をとったー。これが陸自編成定数の結末だった」

この顛末は勿論、額賀福志郎さんのリードによるもので、私は呼吸をうまく合わせただけでした。で、全てがうまくいった夜遅く、額賀さんが二人だけの打ち上げをしようと、とある赤坂見附のお店に連れて行ってくれました。ドアを開けた途端、目に入った風景に私たちは度肝を抜かれました。カウンターに10人足らずほどの男性客がずらり並んで座っていたのですが、全員坊主頭だったのです。壮観というか異様というべきか。後で、北陸地域の某宗派の理事を務める僧侶の皆さんの集いだと分かったのですが、後ろ姿を見つめながらの二人だけの会はイマイチ弾まず、盛り上がりに欠けてしまったのは否めませんでした。(2020-6 -13公開 つづく)

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【51】結党40周年の節目の党大会を前にー平成16年(2004年)❹

●自衛隊中部方面隊と県伊丹高の合同演奏

昭和39年に結党された公明党も、早いもので、この年11月18日に40周年を迎えました。記念すべき日の一ヶ月ほど前に、兵庫県伊丹市にある自衛隊中部方面隊の創立44周年の会合に出かけました。この時、自衛隊の音楽隊員と地元の県立伊丹高校吹奏楽部の男女高校生による合同演奏がありました。チャイコフスキーの『序曲1812年』です。少し以前にイラクで犠牲になった外務省の奥克彦さんの後輩(彼は同高卒)たちによる演奏だと思うと、一層胸に染み込みました。

この時のレセプションでスピーチに立った私は、こう述べました。

今日は載せ上手な方が多いと見えて、タイミングよく拍手が出ていますが、私の話はすぐに終わります。自衛隊中部方面隊が誕生したのが44年前の昭和35年といいます。その年は日米安保条約改定の年です。いわゆる60年安保の年で、私はちょうど中学3年生でした。実に感慨深いものがあります。(ここで拍手が一部から出たものですから、「まだちょっと早い」とつい言ってしまい、場内大笑いに)。ところで、私は自衛隊を我が国の憲法にきちっと位置付けるべきだと考えるひとりです。以上、おわりっ。

こう述べたものですから、場内、大拍手。 短いことに喜んだか、その内容の歯切れの良さに感激してくれたのかはわかりませんが、恐らく両方でしょう。後に、交歓の時間になって元陸将で方面総監、富士学校の元校長だったという人物がやってきて、こう話しかけてきました。

「貴方のようなはっきりとものをいう公明党議員がいるとは驚いた。今の政治はことごとく公明党が自民党の足を引っ張っている。要するに(公明党は)何をしたいのか、はっきりしない。なんとかならぬかと思っていましたが‥‥」ーこう言われたので、私は以下のように言い返しました。

「自民党の足を公明党が引っ張ってるとおっしゃるが、政権を一緒に組んで5年。むしろ公明党のお陰で、自民党が助かってることが多いのですよ。貴方のようなことを言われる方に会うと、『それなら連立を解消しましょうか』っていうことにしているのです」と。これって、「売り言葉に、買い言葉」だったでしょうか。

●讀賣新聞が私の発言を引用して『変革の岐路』と書く

実はこのやりとりを国会リポートに書きました(10月12日号)ところ、讀賣新聞が「公明 結党40年」というたたみ記事を10月31日の党大会当日の朝刊で書きました。見出しは、「〝第三党〟変革の岐路」とありました。

そこでは、公明党がこの40年というもの 「イデオロギーにとらわれない庶民の党を標ぼうし、福祉重視で存在感を示した」うえ、「中小政党でただ一つ、生き残りに成功した形である」と評価する一方、「その間に連携相手を何回も変えた」ことは「政治のリアリズムだと言うのならそれまでだが、『場当たり的で一貫性がなさ過ぎる』と見る有権者も少なくない」と批判の矛先をこちらに向けていたのです。

そのあとで、私の国会リポートでの先に紹介したやりとりを引用した後に「赤松氏はこう語る。公明党のおかげで自民党が助かってることだって多いと反論したんだ。ただ、かつてのように国連中心主義を掲げていれば済む時代ではない。国内外の変化に応じるため、党はもっと自己変革をしていかなければならないとは思う」と続けています。

この記事は最後に、「公明党は自民党や民主党のような形で党首選を行ったことがない。『政党文化の違い』『団結優先の結果』とされるが、疑問に思う議員はいないのだろうか。公明党は今岐路に立っている。今回の党大会は四十年の歳月を振り返り、政党としてのありようを問い直す好機だ」と結んでいます。胸にグッと突き刺さってきました。

書いたのは飯田 政之記者。当時最も親しかった番記者のひとりです。彼はその後北海道の札幌支局編集部長になったり、讀賣交響楽団の事務方のトップを経験したあと、福岡放送取締役を経て、現在は広島テレビの専務取締役をしています。『北の日曜日』『オーケストラ解体新書』などの著作もあり、剣道を嗜み、ヴァイオリンの演奏も巧みな文武両道に長けた、なかなかの才人です。

●自民公3党の憲法調査会座談会(讀賣新聞)に登場

この年の11月4日付けの讀賣新聞14面、15面見開きで、衆院憲法調査会3党座談会が掲載されました。前日の3日が日本国憲法の公布日であり、翌年春に衆参両院におけるこれまでの同調査会の最終報告書をまとめるにあたってのものでした。自民党から保岡興治、民主党から枝野幸男(共にそれぞれの党の調査会長)、公明党からは党の事務局長をしていた私でした。司会は、御厨貴東大教授(当時)でした。

この座談会では、論議の現状と評価、国家と個人・家族、政治と行政、憲法9条と自衛権、日米関係と安全保障、今後の取り組みの6つの角度から自在に三人が語っています。冒頭のテーマでは、枝野氏が「なにをどう変えるのかというテーマ設定なしに、『護憲か改憲か』などという論議はあり得ない」と述べたので、私は「私流に言えば、全面的に変えるのか、それとも全く変えないのかという議論は設定の仕方がおかしい。(中略)『何をどう変えていくのか』という収束のさせ方をしていないから、いろいろな形で(憲法調査会の)話が飛んでしまっているという感じがする。今のような漠たるやり方ではなく、新しい人権では何が必要かとか、内閣と地方自治の部分も新しくするにはどういった点が必要かなどと、議論を整頓していくべきではないか」と述べました。枝野氏の主張をより具体的に言い換えた格好になっています。

国家と個人・家族については、「国家の責任、個人の責任、共同体の責任、家族の責任などについて、『権利対義務』という捉え方ではなく、『責任対無責任』という角度で、憲法上の大枠で捉えてはどうかと感じている」と述べています。家族の大切さを憲法に入れるべきだと考えているという保岡氏に対して、「憲法の中に家族の位置づけを規定する必要はない」として、これも枝野氏と同じ立場でした。

憲法9条と自衛権についても、枝野氏の「(集団的自衛権を巡っては、)どこまでやって、どこからはやらないという線を明確にする必要がある」という主張に対して、賛成の意を表明しています。その上で、「どう整理するかと言えば、先ほどの日米近海における日米共同対処の部分は、集団的自衛権の範ちゅうには入れない。一方、アフガン空爆やイラク攻撃など、海外における直接戦闘行動や武力行使にかかわるものは、日本はやらない。こういうことを明確にしていくことによって、国連平和維持活動(PKO)における武器の使用と、一般的な武力行使を混同するような議論も整理できるようになる」と述べました。

こういう風に見ると、この時点から15年以上経っていても、枝野氏と公明党の憲法における立ち位置はそう大きな隔たりはないように見えます。こうした点で、公明党が立憲民主党との合意を形成する努力をもっとすべきだとの私の持論は生きてくると思えます。(2020-6-10 公開 つづく)

 

 

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【50】憲法論点整理、イラク対応などこなし参院選勝ち抜くー平成16年(2004年)❸

●公明党の憲法についての「論点整理」がまとまる

参議院選が近づくにつれて、憲法の論点整理を急ぐべきだとの空気が各党の間で加速してきました。6月16日に開かれた党憲法調査会で、我が公明党もまとめることが出来ました。以下に大事なところに絞って抜粋します。

〈前文〉敗戦直後の歴史的背景を色濃く反映しすぎているとし、前文としてふさわしいか、疑問視する向きがある。日本語らしからぬ表現も多く、書き直されるべきだとの指摘もある。その際にあらためて憲法三原則を明確に盛り込むべきとの主張がある。

〈天皇〉象徴天皇制は維持していく。国事行為については現行に異論はない。女性天皇については認める方向で検討したい。

〈戦争の放棄〉9条の現行規定を堅持すべきとの姿勢を覆す議論にはいたっていない。集団的自衛権の行使は認めるべきではないとの意見が大勢。個別的自衛権の行使について明確に示すべきではないか、自衛隊の存在を認める記述をおくべきではないかとの意見がある。ただ、違憲と見る向きは少数派であるゆえ、あえて書き込む必要はないとの考えもある。

〈国民の権利及び義務〉環境権、プライバシーの権利、知る権利を積極的に明示すべきとの主張がある。

以上を、太田座長が中心になってまとめてくれました。質量ともにいささか不満足は否めませんでしたが、多様な意見がありますから、仕方ありません。私個人としては様々な媒体で、積極的に発言を重ねていきました。かなり露出度は高かったと思いますが、そんな中で特筆できたのは、『週刊金曜日』の「憲法激論」シリーズで、行動する哲学者・高橋哲哉さんと対談(7月2日号に掲載)したことです。

高橋さんは、「憲法論議で何もタブーを設ける必要はないが、加憲や論憲の立場は限りなく改憲派の流れに取り込まれていって」しまうとの立場で、繰り返し私を攻め立ててきました。それに対して、私は「憲法を何も改革しないというところからは、何も生まれないという確信がありまして、必ず、僕の考えている方向に日本国は行く」し、「今に生きる僕らがこの憲法をどうするのかということを真剣に議論することから、日本のこれからが拓けていく」と言い切っています。この辺りについては今もなお変わらぬ私の確信です。

●参議院選で民主党が大躍進するも、与党が安定多数確保

陸自のイラク派遣、年金制度の抜本的な改革など一般的に与党側に受けの悪い課題が取り沙汰される中、参議院選挙が行われたのは7月11日。しかも、この選挙直前に、年金保険料の未納問題が発覚したのです。先に述べたように、福田康夫官房長官は保険料未納の責任をとって辞任するのですが、実は民主党の菅直人代表も最初は批判の急先鋒だったのに、自らも未納だったことが判明し、代表を辞任する羽目になりました。また遅れて、小泉首相も年金未加入期間があったことやら、議員になる前に、勤務実態のない会社から年金保険料を納付してもらっていたという厚生年金違法加入の事実も指摘されました。

国会議員相互の間で、後ろ指をさしたり、さされたりする一方、最高首脳が正面から指弾される事態となって、まさに上も下へもの大騒ぎとなりました。そんな時に、小泉首相は、島倉千代子の歌謡曲『人生いろいろ』をもじって、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」と答弁の中で発言しました。当然ながらこれは、はぐらかし、開き直り答弁と見られて、世の顰蹙を買いました。

これより少し前に、イラクに陸上自衛隊が派遣される際に、野党から安全な地域はどこかと聞かれて、「そんなこと、俺がわかるわけないだろ」と答えたものです。この時に限らず、答弁の際にこのように開き直る総理大臣は、長く国会で取材したり、議員としても多くの人を私は見てきましたが、小泉さんがまさに初めてです。しかし、この人は妙に憎めないところがあって、それ以上に問題が拡大しないのです。この参議院選挙でも自民党は改選51議席に対し、49議席とマイナス2に留まりました。

公明党は選挙区3は完勝、比例区でも過去最高の862万票を獲得して8人が当選して、合計11議席となって改選議席に1議席上乗せしました。一方、民主党は菅氏に替わった岡田克也代表のもとで、3年前の前回にとった26議席から、ほぼ倍増の50議席を獲得しました。また、共産党は改選前の15を大きく割り込んで4に、社民党も13から2に激減しました。こうした数字だけを見ると、じわり二大政党制に近づく結果となったのです。

●イラクから帰国した第一次派遣の自衛隊員を前に挨拶

8月10日に東京・市谷の防衛庁で、イラク復興業務支援隊第一次要員帰国報告ならびに慰労会が開かれました。わたしは自民、民主、公明の約20人ほどの議員と共に参加して、党を代表して挨拶に立ちました。そこでは、二つの点から以下のように話したのです。

一つ目は、13年前の第一次湾岸戦争ともいうべき戦いに、日本は多国籍軍に参加すべしとの動きが高まり、国連平和協力法案という法案が出されました。公明党はこれは武力行使と一体化する危惧があるとして、反対したのです。しかし、13年経った今度のイラク戦争(第二次湾岸戦争)では、後方の非戦闘地域に限定して、自衛隊を参加させる法案(イラク人道復興支援特別措置法)に、公明党は賛成を(後に中身はそのままで、形として多国籍軍参加へ移行することも容認し)しました。政党として、唯一公明党だけが(武力行使には)反対から、(後方支援には)賛成へ、と変化したのです。実はこれは、ずっと賛成の自民、ずっと反対の民主とは違うと言いたかったのです。

二つ目は、今年(2004年)は、自衛隊が誕生して50年の佳節ですが、同時にあの木下恵介監督の名作映画『二十四の瞳』が世に出て50年とのことです。あの映画の中で、小学校6年に成長した男の子5人に高峰秀子さん扮する大石先生が将来の希望を訊く場面が出てきます。昭和8-9年あたりの時代設定ですから、男の子たちは口々に軍人になりたいといいます。それに対して、先生はなんで軍人になんかなるの?家業の米屋さんや漁師を継げばいいのに、と嘆くわけです。恐らく、死に急ぐことはないとの思いからだったと思います。

あれから50年が経ち、今回のイラク復興支援という大きな仕事を無事に成し遂げて帰ってこられた皆さんのおかげで、恐らく今の学校現場では、子供たちが「自衛隊に入りたい」と言っても、先生たちは反対しない(むしろ、大いに国際社会で役立つ仕事をする自衛隊員になりなさい)ものと、私には思われます。50年経って、自衛隊を取り巻く環境もこのように変化してきたのです。皆様のご努力、ご苦労に、深い敬意を表するものです。

このように挨拶を致しました。今振り返ってもいい挨拶だったと思う次第です。なお、この時の隊員たちのリーダーは、ヒゲの隊長こと、現在参議院議員の佐藤正久さんでした。(2020-6- 7  公開 つづく)

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【49】「国民年金の未納問題」が発覚し大騒ぎー平成16年(2004年)❷

●「一級のミリタリーは一級のシビリアン」

3月の21日の日曜日、私は念願だった防衛大学校の卒業式及び関連行事に参加しました。同大学校は、神奈川県横須賀市走水にありますが、この日は第48期生の卒業式でした。国会議員になって、外交・防衛分野を担当してきた身として、一度は行きたいものと思っていたのですが、ようやくその機会がめぐってきました。この催しに参加したいと思った理由には二つあります。一つは、先輩市川雄一元書記長から、常々防衛大学校の卒業式には行っておいた方がいいと聞かされていたことがあります。もう一つは、たまたまこの時の防衛大学校の学長が西原正さんであり、この年の送辞を担当したのが元外務省高官だった岡崎久彦さんだったからです。このお二人とは中嶋嶺雄先生が主宰される私的勉強会(新学而会)でご一緒している仲間だったのです。

市川さんからしばしば聞かされたのは、1993年の卒業式の時のことです。この年の来賓代表は作家の塩野七生さんで、その送辞が市川さんの心を捉えて離さなかったというのです。実はその内容が、この年の雑誌『文藝春秋』3月号の巻頭文「日本人へ・十」に紹介されていたので、ポイントになるところを挙げてみましょう。

この日の挨拶は、一言で要約すると、「一級のミリタリー(軍人)は、一級のシビリアン(市民)でもある」ということに尽きます。塩野七生さんは、「一級のシビリアンでなければ、戦場でも勝てないから」だとして、幾つかの理由を挙げています。勇敢で、人望があっても充分ではないとして、必要な要素を列挙しています。

補給線の確保(部下たちの腹具合への注意)、良き味方を作ること、部下たちをやる気にさせる心理上の手腕、柔軟な思考法などを挙げた上で、「軍事とは全く政治と同じに、いや他のあらゆる職務と同じに、各分野で求められる資質が総合的に発揮されてこそ良い結果につながるのです」と言うのです。「コントロールなど必要としない、一級の武人になってください。そうすれば、アレキサンダーもハンニバルもスキピオも、カエサルも考えなくてすんだ最高の難問、戦争をしないで、どうやって勝者であり続けるかとく難問の解決への道も、自ずから開けてくるのではないか」と続け、「あなた方も、明日シビリアンの世界に放り出されても、一級のシビリアンで通用するミリタリーになってください。そしてこれが、古今東西変わらない、一級の武人になる唯一の道だと信じます」と結んでいます。

この挨拶に市川さんはぞっこん参ったようで、当日の式典のあとの懇親会の場で、高く評価するスピーチをしました。さぞや懇親会では盛り上がったに違いありません。なお、私の出た卒業式で岡崎さんは、「米英というアングロサクソンとの協調の重要性」「集団的自衛権の行使が喫緊の課題」といったかねての持論を展開されました。74歳の同氏が50歳ほど年下の卒業生に、50年後の日本を託す思いが鮮烈に伝わり、これはこれで大変に印象深い中身でした。

●国民年金の未納、未加入問題で大騒ぎ

この年の国会での大きなテーマは年金改革問題でした。大型連休も終わって、関連の法案審議が本格化しようという矢先に、閣僚の国民年金の未納という問題が明らかになってきたのです。発端は3人の閣僚(中川昭一経産大臣、麻生太郎総務大臣、石破防衛庁長官)でした。当初はその3人だけが槍玉に上がっていましたが、そのうち、激しく追及していた民主党の代表、そして前代表、さらには首相、元首相ら与党の最高幹部から、果ては共産党の議員まで与野党を問わず続々と国会議員の中から国民年金未納者が明るみに出てきたのです。公明党ははじめの頃は誰も名前が出ず、ほっとしていましたが、やがて残念ながら一人、二人と出てきてしまい、みんな同じ穴のなんとやらという格好になってしまったのです。私の場合は、約18年間の公明新聞記者時代を経て、ほぼ2年間の国会議員秘書から党地方本部嘱託と都合291ヵ月間、厚生年金に加入。その後、議員になった時点から国民年金に加入(この時点で、131ヵ月間加入中)しており、問題はありませんでした。

ことの発端は、国民年金の加入を呼びかける役回りを担った女優の江角マキコさん自身の未加入問題が話題になったことにありました。やがて、国会議員はどうなんだということになって、閣僚から始まったわけです。いわゆる刑事問題などといった次元では勿論ないのですが、国民に年金加入を求める側の議員がそうした問題に無関心だったことが白日の下に晒されたわけで、何とも格好のつかない不始末でした。最終的に福田康夫官房長官が事態の責任をとって辞任することになった(2004-5-7)のです。

実はこの問題は私の周辺でも小さな波紋を引き起こしました。5月14日に姫路で「赤松正雄と夢を語る会」を開く予定にしていて、その講師に石破防衛庁長官を呼ぶべく、ご本人から内諾を得ていました。ところが土壇場になって、私の周囲の婦人層から「石破さんは、国民年金未納の3人のうちの一人だから、まずいのでは」との声が上がってきたのです。当時話題になっていた「だんご三兄弟」をもじって「年金未納三兄弟」と、石破氏も揶揄られていました。そんなことから、彼に姫路訪問を断らざるを得ないことになってしまいました。別に犯罪を犯したわけでもなく、呼んでも良かったのですが、時の空気とは怖いものと改めて思い知りました。

●「年金制度改革」で公明党が活躍

前年の衆議院選挙ではマニフェストが話題を集め、各党共に、目玉政策を組み込むことに懸命になりましたが、公明党は年金制度改革に取り組んだことは先に述べた通りです。そうしたことを受けて6月5日に年金改革法が遂に成立しました。日本の社会保障制度は、この年金改革に続き、2005年には介護保険改革、2006年は医療保険改革と三年続けての一大改革を成し遂げることになるのですが、そのトップを切った年金制度改革は、公明党が主導的役割を果たしたのです。その舞台回し役は、厚労大臣だった坂口力さんが果たしたのです。

この公明党の働きには、多くの専門家が高い評価を下しましたが、特に印象に残っているのは、堀勝洋上智大教授の「従来なら、政治が避け、先送りしてきた〝国民に不人気な政策〟を、しかも参院選前に断行した。私はこれは大英断だ、非常に勇気のあることだと思っています。この決断に果たした公明党の役割は非常に大きかった」というコメント(公明新聞2004-7-2付け)です。負担が増えて、受給が減ってしまうこうした改革については、どうしても政治は先送りしてしまうものです。それをむしろ逆手にとって、『年金百年安心プラン』と銘打って、積極的に国民にプラスイメージで投げかけたのは、身内ながら大したもんだと、その戦略の巧みさを褒めたいと思ったものです。(2020-6-4 公開  つづく)

 

 

【49】「国民年金の未納問題」が発覚し大騒ぎー平成16年(2004年)❷ はコメントを受け付けていません

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【48】「陸自海外派遣」「女性天皇」等で見解示すー平成16年(2004年)❶

●イラクへの陸自派遣めぐり独自の見解

イラクへ陸上自衛隊を派遣する問題は、党員、支持者の間でも強い疑念や反発が強く起こりました。特に婦人層に訝しく思う向きが多いので、わかりやすく、なぜ自衛隊がいかねばならないのかということについて説明してほしいとの声が強かったのです。当時、政府の説明も、自衛隊のいるところは安全だなどと、分かったような分からないような言い回しがなされたこともあって現場は混乱していました。そこで、私は平成16年(2004年)の新年未だ明けやらぬ頃に、公明新聞紙上で説明(2-2、2-3付け)をしたり、国会リポートで繰り返し解説しました。

とくに、公明新聞紙上に党外交・安保部会長として寄稿した論考では、「公明党はもはや平和主義を捨てた」との的外れな党内外からの批判について、「三つの勘違いと一つの思い込み」がある、との指摘をしました。

世の中の勘違いの一つ目は、イラク戦争を個別のものと見てしまってることです。湾岸戦争以来13年間続いていると見るべきだとしました。二つ目の勘違いは、仏独が米国と距離を置いているのに、日本は米国に肩入れし過ぎだという点です。対北朝鮮の視点から、日本が日米同盟の絆を強めることは自然だとしました。三つ目は、戦闘状態の再発が懸念される地域に自衛隊を出すことは、憲法の禁じる武力行使に追い込まれる可能性があるという点です。これは、もしそうなれば、任務を中断したり、活動地域を変えればいいと主張しました。一つの思い込みとは、国際貢献は、PKO(国連平和維持活動)までで、それ以上は踏み込み過ぎだとの捉え方です。直接戦闘が行われていない地域での人道復興支援は憲法の枠内であり、踏み込み過ぎというのは錯覚だとしました。

以上の議論をもとに、「多少危ないところであっても、秩序破壊の国際テロは断じて許さない、との決意のもとに人道的見地から、イラク復興へと行動することを、公明党は平和主義と決して矛盾するものとはとらえていないのである」と結論付けました。これで、現場は理解してくれるとの見方は、今となっては甘かったという他ありません。やがて、大量破壊兵器についてはとうとう見つからず、英国では政権が自己批判してしまいました。「どさくさ紛れにフセインが処分したか、どこかに隠した」との私の議論の破綻も自ずとハッキリしてしまいました。それでもイラクで不測の事態が起こらなかったことは、僥倖だったというべきでしょう。この辺についての〝落とし前〟は、やがて私の責任としてつけざるをえなくなるのですが、それはもう少し後になってからのことです。

●憲法調査会で女性天皇肯定論を発信する

2月5日に開かれた憲法調査会ー憲法のあり方調査小委員会では、象徴天皇制と憲法の関係を巡って議論がなされました。冒頭、参考人として招聘された横田耕一九州大名誉教授は、「伝統重視に立つとしても、過去に『女帝』は実在している。国民感情からも認める意見が多い。女性天皇を認めないのは合理的根拠がなく、憲法違反だ」との意見を表明されました。このあと、委員からそれぞれ、女性天皇をどう考えるかについての意見開陳がありました。自民党の船田元、森岡正宏氏らが反対論を述べたものの、他の政党の委員は私を含めてみな容認姿勢を示しました。

自民党の反対論者は、日本の伝統、歴史に基づく天皇制と基本的人権を同次元で議論する考えは受け入れられない」「男子の皇位継承者がいない一時的な場合を除き、女性天皇を認めるのは時期尚早」というものでした。いわゆる男系男子でなければ、日本の歴史と伝統にそぐわないというのでしょう。私は天皇制そのものが持つ理念として、女性天皇を排除することはおかしいとの立場です。ただ、小委員会の場であれこれ深入りすることは避けて、女性天皇を容認する短い発言にとどめました。

天皇制を巡っては歴史と伝統を強調すればするほど、古代から中世にかけて、天皇をめぐる血腥い権力闘争をどう見るのか、との疑念も起こってきます。勿論、時代状況のなせる業で、今とは全く時代背景が違うと言えるのですが、保守派の皆さんがあまり男系にこだわると、余計なことも想起せざるを得なくなってきます。その後、秋篠宮家に男子が誕生されたことから一時の切迫感が遠のいたやに見受けられますが、事の本質は変わっていないだけに、詰めた議論を踏まえた上での的確な対応が求められます。

●憲法9条も加憲論議の対象にすべしとの提案

憲法調査会が開かれた前日の4日に、公明党内でも憲法をめぐる議論が行われました。今と少し違って、かなり活発に党内議論を公明党もやっていたのです。座長を太田昭宏幹事長代行(当時)がやっていたこともあり、かなり賑やかに様々な学者や文化人を呼んで、意見を聞いたうえで、お互いの議論を交わしたりしていました。公明党は、当時、環境権やプライバシー権など、現行憲法施行当時には組み入れられてなかった権利についてのみ加えようとの「加憲」の方向性を打ち出していました。太田さんを中心に熱心にそのあたりについての必要性を発信したものです。

この日の党調査会では、太田座長から「加憲の対象として、環境権や、プライバシー権、知る権利に加えて、憲法裁判所や首相公選制も議論の対象としたい」との発言がありました。これに対して、私は、「憲法9条のあり方についても加憲の対象にすべきではないか」「国際貢献の必要性について、憲法に明示した方がいいのでは」といった発言をしました。これについては、翌5日付けの読賣新聞が「改憲論議本格化」との主見出しで、民主、公明両党の党内論議をめぐる話題として提供しましたが、それを基に点描すると、こうなります。

公明党については、「『加憲』9条巡り賛否」とのそで見出しで、私の9条加憲賛成論に対して、太田さんが私の意見は、個人的なものだとしたうえで、「党としては9条には手を加えないという考えでやっていきたい」と述べたと報じています。この辺については、神崎代表が同日夕刻の記者会見で、「党の従来の9条堅持という考え方があるということを踏まえながら、タブーを設けず議論する」と述べ、「(9条の条文を)変えない場合もあるし、変える場合もある」と付け加え、方向性を示すことは避けたとも伝えています。

私は加憲を言うなら、9条も含めるべきで、いつまでも議論さえしない、アンタッチャブルではおかしいとの意見でした。公明党のウイングを右に少し広げるには欠かせないと思ったのです。もちろん、左の方からの批判は覚悟の上ですが、男性諸氏には大いに受けたことも付け加えておきます。(2020-6-1 公開 つづく)

 

 

 

 

【48】「陸自海外派遣」「女性天皇」等で見解示すー平成16年(2004年)❶ はコメントを受け付けていません

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【47】衆院選で4期目の当選(名簿順位2位)果たすー平成15年(2003年)❺

●マニフェストに、年金の抜本改定案盛り込まれる

平成15年(2003年)の後半は、衆議院が前回の解散・総選挙(平成12年6月25日)から三年が経っており、選挙ムードが漂っていました。各党とも初のマニフェストをつくることに熱心でしたし、野党は民主党と自由党の合併で大きな力合わせをしようとしていました。

公明党のマニフェストの特徴は三つの柱からなっており、第一章が税金の無駄遣いをやめるための方途。第二章が、改革に伴う痛みを緩和するための機動的できめ細かなセーフティネット(安全網)づくり、第三章が新しい平和主義の宣揚です。私が直接担当したのは、第三章ですが、世の中的に注目されたのは年金制度改革での政策の打ち出しでした。当時は坂口力さんが厚生労働大臣、政府における厚生労働行政の最高責任者。そこと連携をしたうえでのものでした。

最終的には年金改革関連法は2004年の6月に成立するのですが、その原型となるものは、この前年の衆議院選挙むけのマニフェストに盛り込まれたのです。

この案の原型となったものは坂口大臣が試案として提起、それを公明党独自の財源案を組み合わせて『年金百年安心プラン』として9月4日に発表されました。ネーミングの絶妙さも相まって、このプランは大いに有権者の評判を勝ち取ることに貢献したといえます。

●衆議院選挙で公明党34議席に。4期目の当選果たす

衆議院の解散は10月10日に。小泉首相は9月20日の自民党総裁選挙で再選を果たしていました。選挙直前に自由党と合併した民主党との間で、「政権選択」が問われる選挙となったのです。11月9日の投票の結果、自民党は解散時の247議席から10議席減らして237議席に後退しましたが、公明党は、小選挙区9、比例区では過去最高の873万票を得て25議席を獲得、合計34議席となることができました。

私自身はこの時は比例名簿の二番で、無事に4期目の当選を果たさせていただきました。近畿比例ブロックの公明党の名簿順位は一番だけが、党外部候補(池坊保子さん)に固定されており、それ以外は毎回変わっていました。二番は嬉しくはありましたが、当選の感激は薄かったことは正直否定出来ませんでした。この時与党の一角を形成していた保守新党は9議席から4議席に減らし、選挙後に自民党と合併することになります。したがって、自公保三党(最終的には自公二党に)で、275議席を獲得し、絶対安定多数議席を得ることになりました。

これに対して、野党は、民主党が137議席から40議席も伸ばし、177議席としました。尤も、社民党は18から三分の1の6議席に、共産党は20議席から一気に半減し、9議席に落ち込みました。この結果で、はっきりしたのは、民主党と公明党の勝利と、社共両党の惨敗です。自民党は、公明党のおかげあったればこそ辛うじて面目を保ったといえましょう。

●イラクのサマワへ神崎代表飛ぶ

選挙戦が終わるのを待っていたかのように、イラクにおける治安状況は日々刻々悪化していき、とうとう11月末には日本人外交官の二人が、同国北西部を軽防弾車で走行中に襲撃される事件が発生しました。残念なことに二人は死亡してしまったのです。こんな最中に政府は、イラク特措法に基づく自衛隊派遣の「基本計画」を12月9日に閣議決定、18日には「実施要項」を決めました。派遣の日程については、「首相の承認を得て決定する」ことになったことを受けて、公明党としては、派遣予定地を実際に見ておく必要があるとの意向が高まりました。治安状況や支援についての現地のニーズを確認するためです。

神崎代表と遠山清彦代議士が急遽12月16日に現地に向けて出発しました。これについては、後日談ですが、外務省が「行くのは危険だからやめてほしい」「安全は保障出来ない」と相当うるさく食い下がってきたといいます。私は、行って安全を確認したことになると、その後もしものことあれば立場が決定的に悪くなるから、止めた方がいいのでは、と思ったのですが、神崎代表の決意は揺るぎませんでした。

視察日程は16日出発から22日の帰国までの6日間でしたが、実際には、経由地のクウエート滞在が長く、現地サマワは、3時間半だけでした。ですが、この僅かな時間が後々貴重な意味を持ちます。それはそうでしょう。自衛隊を危険な地に派遣するのですから、それを推進する政治の責任者のひとりとして、極めて重要な行動になったわけです。

具体的には、すでに、現地で支援活動に従事していたオランダ軍の司令官の案内で市内を視察する一方、陸上自衛隊が派遣された際の宿営地にも立ち寄りました。この現地視察を通じて、日本国内では窺い知れないさまざまな状況を確認出来て、神崎代表らとしては、「比較的安全であるとの印象を受けた」と記者会見で語ったものです。なお、小泉首相への視察報告については「政府としても緻密な調査を実施して、陸自の派遣については慎重の上にも慎重を期してもらいたい」と伝えました。

●毎日新聞、東京新聞に論評掲載

このイラク事態に私は二紙から意見を求められました。12月26日付毎日新聞と、12月30日付東京新聞に掲載されています。

毎日新聞では、「イラク復興支援で、公明党は人的貢献の必要性を認める立場から特措法を成立させた、ただ、イラクの治安が制定時に想定していた状況から格段に悪化しているのも事実だ。だからこそ、陸上自衛隊の派遣については慎重のうえにも慎重を期すべきだと主張している。私見を言うなら、他の地域と比較して安全と言えるサマワでの万一の犠牲を恐れて行動停止が許されるほど、国際社会における日本の存在感は小さくないはずだ。神崎武法代表のイラク行きには正直驚いた。現地を見たからには責任が一層重くなってくることは目に見えている。それを承知で足を運んだ責任感に、身内ながら敬意を表したい」

東京新聞では、5つの問いに答えていますが、その中で、ひとつだけ紹介したいと思います。

ー「平和の党のイメージと(今回のイラクへの自衛隊派遣容認と)合わないのでは?

私は時代に合わせ進化する平和の党だと言っている。『新しい戦争』の時代に入っている。『古い戦争』は国家と国家が戦った。新しい戰爭は、国家という形態を取らないテロリストがいつ襲ってくるか分からない。攻撃してくる主体がはっきり分からないのに、結果として受ける被害は、古い戦争の時代の局地的な被害と変わらない。そういう新しい戦争にふさわしい、新しい平和観、新しい平和主義が必要だ。それはテロを許さないために、自衛隊の活用を含め、あらゆる手立てを講じるということだ」

一方、公明党内部の党員、支持者からも強い疑念が起こってきていました。それについては公明新聞に私が大胆な見解を提示することで、理解を求めました。(2020-5-29 公開 つづく)

 

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【46】市川元書記長引退と心に残る言葉ー平成15年(2003年)❹

●後輩たちを前にした市川雄一元書記長の引退の発言

市川雄一公明党常任顧問(当時=元書記長)が政界を引退するにあたって、各メディアに取材を受け、発言をしました。それを紹介しつつ、私の思いをも合わせて記してみます。時系列的には、まず公明新聞9月27日付けのものが最初です。これは公明党の現職議員たちを前に引退の挨拶をされた際の発言が基になっています。

市川さんは、公明党書記長になって、まず公明党としての歴史観をどう持つのかを考えざるを得なかったと述べたうえで、「明治維新以来の近現代史、戦後史、東京裁判、憲法などをどう見るのか。あるいは、国家をどう見るのかという国家観、一国平和主義をどう乗り越えるのか、また公明党の平和観をどう作るのか」といったことについて、「絶えず自分の頭で考えて、本を読み、友人と語り、自分の思索を深めて、考え続け」たと強調。聞いている後輩たちに、「そういう骨太の政治家を目指していただきたい」と訴えました。私は常にこうしたことを直接聞いていながら、結局は本を読むという行為は続けたものの、自分の思索を深め、自分の頭で考えることは弱かったと認めざるを得ません。

また、市川さんは、当選した時に、尊敬する先輩から「議員であり続けることを目的にしてはいけない。議員は手段だ。議員という立場を使って何をやるのか、絶えず考えなさい」と激励されたことを引用し、「政党も同じで、存続することが目的ではなく、政党が理想とする政治をどう実現するのかという、手段としての存在が政党だ」と続けました。これを聞いていて、私は「常に何になるかを考えるのではなく、何をするかを考えろ」と市川さんから言われたことを思い起こします。そして、富士山を見て、人に仰ぎ見られる存在に自分もなろうと思うんだ、と激励を受けたことも。

最後に、自民党が長期低落傾向に陥っている原因について、「長年、政権与党で、自民党イコール政府、自民党イコール国家」だったのが、「冷戦が崩壊して、大競争の時代になったのに、政権与党でありさえすればいいと」思い続けたところにある、と強調。「今なんとかそれを改革しようとという小泉総理の真剣さに敬意を表しています」と結びました。小泉首相を就任当初はあまり評価していなかった市川さんでしたが、引退するに当たって、きちっと評価をし直されたことに、さすがだと思った次第です。

●4つの印象に残る仕事について語る

引退に際して、共同通信(10月9日)、讀賣新聞(10月10日)、東京新聞(10月10日)のインタビューに答えて以下のように発言しています。

ー公明党の果たした役割について、どう考えるか?

市川)国連平和維持活動(PKO)協力法は公明党という軸がなければ廃案だった。PKO法が周辺事態法、テロ特措法などにつながった。公明党の力が大きな道筋を与えた。(共同通信)

二大政党は、極端から極端に振れる。公明党が公明党であれば、埋没しない。国民は極端な右、左だけではない。対立軸も必要だが、合意形成の推進力は公明党に期待されている。(讀賣)

→市川さんは議員時代の自分の経験で印象深いのは、PKO 国会の他に、その前年1991年の湾岸戦争における多国籍軍への90億ドル支援と、細川政権、新進党の4つを挙げています。とりわけ、前二者の経験では、日本の命運そのものを自分が背負ったような極めて重い責任を感じたと言っていました。その当時、党内が真っ二つに賛否が割れて、衆参両院の議員が一日に幾たびも議論を繰り返し、ようやく党内の大勢が90億ドル支援に傾いたことを最も重要な思い出に挙げていました。

ー細川政権誕生の意味をどう捉えるか?

市川)自民党の単独支配を崩し、連立時代の幕を開けたことだ。それまで、ロッキード事件などカネのスキャンダルが相次いだが、自民党政権は変わらなかった。細川政権の誕生に尽力したのは、そこに何とか競争原理を導入し、政治腐敗をなくしたいとの思いからだ。(東京)

政権を取る準備をして(細川政権は)できたわけではない。そのもろさが崩壊、短命につながった。政治改革にエネルギーを全部吸い取られた感じだな。(新進党の失敗は)一つの政党になったが、そう簡単に融和できない。政権がとれなかった喪失感が求心力を失わせた。政党は選挙に勝てなきゃあだめだ。(讀賣)

→政治の活性化、腐敗防止を図るために、政党の組み合わせによる競争の原理が必要であり、それこそが小選挙区の導入に至る原因となったと、市川さんは言われた。現実に政治とカネの問題は改善したのかと、記者から聞かれて、「政治家個人への企業献金も禁止され、選挙制度改革がじわじわと効いてきた」と述べています。確かにその側面はあり、いっときよりも政治腐敗は姿を潜めたかに見えます。しかし、派閥はなくなり、かつての自民党内競争の原理が後衛に退いた感がします。しかし、その分、今度は権力の一極化による弊害が出てきていることは残念という他ありません。

●これからの政治への適切な助言

新聞社の要請を受けて、引退の弁を書いたのが朝日新聞(10月10日付)と、日経新聞(10月15日付)に掲載されました。

公明党はいま、改革のための「政治の安定」を与えている。小泉首相が立派な改革を唱えても数の安定がなければ、ガタガタする。政治への「空気」みたいな貢献なんですね。政治の安定は目に見えませんから。野党なら評論家でいいが、与党はそうはいかない。妥協もあるし、「公明党らしさがなくなった」とおしかりを受ける。だが、長い目でみれば、与党としての力量を持った政党に脱皮しつつあると思っている。(朝日)

創価学会と公明党との関係を言えば、結果責任は党にある。学会は支持団体として助言をするが、聞き入れるか聞き入れないか、という主体性は党にあるわけだ。だからその時々の執行部の力量、政党のかじ取りが非常に大事だと思う。今は憲法の議論をやった方がいい。日本人の頭で考え、書いた憲法を作る。作る過程の議論で日本の国家像が生まれてくるのではないか。結果は今の憲法とほぼ同じでも、やる価値がある。議論で政党も政治家も鍛えられ、選挙で裁かれていく、そういう時代が直前に来ている。(日経)

→「改革のための安定」を公明党が自民党に与えていると市川さんはここで述べています。この発言から17年ほどが経った今、安倍自民党はこのことの持つ意味を拳拳服膺してもらいたいものです。いつまでも続くと思うな、「親とカネ」ならぬ、〝公明党のバックアップ〟でしょう。また、憲法についての市川さんの指摘は、公明党の山口代表を始めとする後輩の皆さんにぜひ熟読玩味してもらいたいものです。例えば、動かない衆参の憲法審査会に対してあの手この手で動かす議論をするべきです。どこの政党がやらずとも公明党だけでも、と思います。(2020-5-26 公開 つづく)

 

 

 

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【45】公明党との連立讃える官房長官答弁ー平成15年(2003年)❸

●民主党と自由党の合併問題への警戒感

この年の7月23日に民主党と自由党とが合併に向けて調印をするという事態が起こりました。前年にその動きはあったのですが、両党の内部に反発する声があり、沙汰止みになったかに見えていましたが再浮上し、合意に漕ぎ着けたのです。この動きの背景は勿論、自民党にとって代わるもう一つの勢力を形成したいとの、二大政党制へのあくなき期待が存在します。より具体的かつ現実的な政治的背景を見ると、小沢一郎氏の執念が大きいと言えると思われます。新進党の失敗からしばらくなりを潜めたかに見えていましたが、ここに来て露わになってきたのです。

私はこの小沢氏の動きに対して、7月28日の国会リポートに、「警戒すべき民主・自由合併の動き」と題してこう書いています。

小沢党首の二大政党制への執念と見える試みは、私には少なからぬ衝撃です。この国にはなじまない制度との判断をしてきた身としては、小異を捨てて大同につこうとする小沢氏の挑戦には、若干の違和感を持ちつつも、大いに敬服に値するものと思います。公明党の与党入りの狙いはかねて私の言っているように、手を変え品を替えて、自民党政治の質を変えることにあります。決して自民党に無原則についていくことでもなく、ましてや与党であり続けることにのみ執着するものでもありません。その意味ではベクトルは逆ですが、小沢さんの行き方と、公明党の進み方は同じ意図を持ってるといっていいかもしれません。つまり、自民党を外から変えるか、内から変えるかの違いです。内から帰ることに失敗して、自民党を飛び出した人と、外から変えることの困難さに業を煮やして、連立を組んだ者との差は、口で言うほど簡単なものではないでしょうが‥。

問題は次の総選挙です。二大政党制に向かって収斂する方向に歩みを進めるのか、それとも再びその試みは斥けられるのか。私などは保守対リベラルの理念によって日本の政党は再整理されるべきだと考えてきました。今回のような形の自民党対民主党の対立軸では、例えていえば、「ごった煮対混ぜご飯」の対立のようで、よく分からないとくのが実態ではないでしょうか。つまりは、自民党も派閥の集合体ですが、新しい民主党も結局は旧政党の寄せ集めに過ぎず、理念、政策の隔たりは党内でも少なからずあって、似た者同士ということになります。根幹に及ぶ政策の一致を見ないと、選ぶ有権者の方は戸惑うばかりでしょう。

こう書いたあと、二大政党の対立の奔流の中で、弾き飛ばされないようにすべきだと、警鐘を鳴らしています。この見方はやがて正しかったことがはっきりするのですが、まだいささか先のことではあります。

●川戸恵子さんと国会内テレビで対談

この夏7月4日にTBSのCS放送「国会トーク フロントライン」に私は登場しました。この放送番組は国会記者会館に議員が呼ばれて、川戸恵子さんと対談するというもので、既に前年の7月19日にも出演して、これが2回目。川戸さんは少し年上の姫路出身の記者で、以前からそれなりに面識がありました。私のホームページを楽しみに面白く読んでいるなどと煽てられ、あれこれと話は弾みました。その中で、彼女がイラク支援法について、「有事法制の時と同じように、赤松さんは、小泉さんに厳しくおやりになって、小泉さんの方が完敗じゃないかっていう噂も出てるくらいです。どういうことからああいうやり方をなさったのですか?」と聞かれた。

以下、私の発言のポイントを要約すると次のようになります。

小泉首相は従来の自民党のリーダーが言わないことを言っている。本当に自民党政治を変える気があるのか、それともポーズだけなのか。この辺り、多少揺さぶって、真贋を試そうとしているのです。先だっての質問でも、公明党は与党の一員だけれども、緊張関係を持った関係でありたいということから質問を始めました。基本的には自民党のいいところを伸ばし、悪いところは直させるとのスタンスです。小泉さんには利用する価値があり、選挙になると、小泉さんでないと、与党は勝てないと思っています。そういうことから、前回の質問では厳しくやり過ぎたので、今回は少し手加減するーといった風に、使い分けしているつもりなんです。

随分、偉そうな言い方をしていますが、引き出し方のうまい女性アナウンサーにかかると、こういう発言がバンバン出てくるのでしょう。

●福田官房長官から重大な答弁引き出す

9月30日の衆議院テロ防止・イラク支援特別委員会で、私は福田康夫官房長官から重要な答弁を引き出すことができました。実は、私は質問の冒頭で、二大政党制がいいかどうかを問う前に、自公保政権を選ぶか、民主党政権を選ぶかが問われているが、感想を述べて欲しいといったのです。それに対して、同官房長官は「公明党が(連立政権に)参加してくださり、平和主義とか、国民一人ひとりの考え方を大事にするとか、弱者の視点といった自民党に不足しがちな時点で、国民のニーズを拾い上げてくれている。公明党と連合体をつくって、与党を組んでやってきたことは本当に良かった」と、実に率直に公明党の連立政権参加の効用を述べてくれたのです。

これまで様々な質疑を政府首脳とやってきていましたが、ここまでリップ・サービスをしてくれた人物は、誰もいません。私は答弁を聞いていて嬉しくなりました。思わず、次に立って、「(今の発言は)色んなところで利用させていただきます」と述べてしまいました。このくだりは、『公明党50年の歩み』の中にも引用されています。福田康夫さんとは実はこののち首相になられるまでも、なられてからも、さまざまな意味で深い仲になりました。その経緯についてはおいおい書いていきますので。

●市川雄一元書記長勇退へ

市川雄一常任顧問(元書記長)が次の衆議院選挙では出馬しないで、政界を引退するとのニュースは、すでにこの年の6月初めに明らかに(正式には9月公表)なっていました。公明党の内規である66歳定年を超え、衆議院議員の在職25年の節目を過ぎたことがその理由です。その時点で「現執行部は非常によく頑張っており、私の助言は全く必要としない」、「引退すべき時と判断した」とのコメントを出していたのです。確かに、自民党との連立を公明党が組んでからの3年ほどは、殆ど市川さんの表舞台への登場の機会は減っていました。細川政権から羽田政権への第1期与党時代ともいえる頃の八面六臂の活躍がピークとも言えました。日本共産党を憲法論争で完膚なきまでに論破し、旧社会党を翻弄し尽くす闘いをリードする中で、その日本政治史における輝ける金字塔を打ち立てられた功績は目を見張るものがありました。

市川さんはしばしば、人は得意の絶頂で失敗することが多い、高転びに転ぶものだとの意味のことを言われ、惜しまれて退くのが美しいともよく口にされていました。また、党内で多くの先輩に議員勇退の引導渡しの役割を果たしてこられた手前もあったと思います。まだまだ元気ですし、現役で力を発揮して欲しいとの声は内外に満ちていましたが、本人の強い意志で引退を決められました。

一時代の終わりを感じる寂しさが、わたしにはたとえようもなく迫ってきました。(2020-5-23 公開 つづく)

 

 

 

【45】公明党との連立讃える官房長官答弁ー平成15年(2003年)❸ はコメントを受け付けていません

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【44】政治家生活10年の節目に記念の集いー平成15年(2003年)❷

●逆風の中、統一地方選挙(兵庫)で完勝

この年の4月は統一地方選挙がありました。与党になって初めての選挙でした。サラリーマン本人の医療費の窓口負担が2割から3割へと引き上げられたり、イラク戦争の反対キャンペーンがあるなど、かなりの向い風の中の選挙戦でした。厚生労働大臣が公明党の坂口力さんであったことや、平和の党のイメージが揺さぶられる状況の中だったことなど、厳しい戦いを余儀なくされました。私は、現実政治のリアリズムから目を逸らさず、同時に未来に向けての夢を語りつつ懸命の闘いを展開しました。とりわけ、少子高齢化時代における子育て支援策について述べる際に、男女共同参画社会の早期実現を訴えました。結果的に兵庫県は完勝でき、ホッとしたものです。

ただ、姫路市長選挙は、現職の堀川和洋氏(元海部首相補佐官)に、新人の石見利勝氏(前立命館大学教授)がぶつかる選挙で、公明党など既成政党は現職の堀川氏を応援しました。新人の石見氏は政党の支援を受けないというやり方を貫き、幅広い市民の支持を掴むことに成功したのです。これはまさに予想外のことで、いかに政党という存在が市民から信頼されていないかが骨身に染みました。同時に相乗りの怖さというべきものも思い知ったしだいです。様々な意味でこの市長選挙の教訓は大きく、首長選挙の難しさをつくづく感じました。といいますのも、政党、団体が支持や推薦をしたところで、現場では個々人の好悪の感情が首長の場合は大きく働くため、一筋縄ではいかないのです。

●イラク特措法と自衛隊派遣で毎日新聞に論考

イラク特措法を巡って毎日新聞が自民、民主、公明の三党に論考を求め、石破茂、枝野幸男氏と並んで、私が登場しました。6月30日付け、見出しは、「審議通じ懸念晴らす」。まず、冒頭に小泉首相がアメリカの軍事介入に支持表明をしたことについて、公明党が理解する態度を明らかにしたのは、「国際政治のリアリズムと国益優先」がキーワードだとして挙げています。イラクの大量破壊兵器が未だに発見されていないとはいえ、フセイン政権がかつて保有し、国内での虐殺に使用していたことは疑い得ません、と断定。イラクのクゥエート侵攻から湾岸戦争が始まり、今日までの13年間国際社会を裏切り続けてきたフセイン政権に断罪することは、やむを得ないとして、法案成立に賛成を表明したうえで、国会審議を通じて、この法案が持つ懸念を晴らす、としているのです。

具体的には、武力行使と一体化と見られる任務や国際標準に合わない武器の使い方などに疑念があるとすると共に、戦闘地域と非戦闘地域の区分けの困難さや今後治安が一層悪化した際にはどう対応するかなどの徹底検証が必要だとしています。「非軍事分野での国際貢献活動を自己完結組織の自衛隊が行うことは当然」との解釈を改めて確立する必要がある、との主張が中核の内容でした。

果たして疑念を晴らせたかどうか。今振り返って内心忸怩たるものがあることは否定できません。この辺については後々まで尾を引くことになります。詳しくは後ほどに記すことになります。

●議員生活10年の記念の集い開く

衆議院議員にとって10年は大きな節目であり、乗り越えるべき重要なハードルでした。衆議院本会議場の議員席が隣同士だった太田昭宏さんと、常々激励しあったものです。彼と私は年齢が同じで、議員になる前の職場も一緒、選挙に共に出て一敗地にまみれたのも同じだったこともあって、気が合いました。10年間は落選せずに頑張ろう、を合言葉に頑張ったのです。彼は小選挙区に回り、比例区の私とは圧倒的に厳しい立場になってしまいましたが‥‥。

そういう背景もあって、10周年を記念して(当選したのは平成5年7月18日)、7月11日にパーティーを開催することにしました。その集いを名付けて「10年ひと未来」とし、同名の小冊子を作りました。その巻頭に、以下のように記しています。抜粋してみます。

「無我夢中で走り闘った10年の軌跡を、日々の新聞(掲載記事)から拾ってみることにしました。驚くほどの分量になりました。単に10年ひとむかしの過去を懐かしむのではなく、そこから新たな10年への展望を切り開く思いで抽出し、ここにまとめました。ざっと目を通していただくとお分かり頂けますように、外交・防衛、憲法と一言で言えば安全保障についての主張や発言に関するものが殆どです。  私の好きな言葉の一つに、「10年一剣を磨く」というものがありますが、振り返れば私もそれに近い10年であったと言えましょう。これから次の10年にどう立ち向かうか。長いようで短い10年ー私はこれをあえて〝10年ひと未来〟と表現し、日本が明治維新、昭和の大戦に続く第三の開国期にふさわしい国家の装いを作っていく時期ととらえたいと思っています。政治も経済のありようも憲法もすべて選び直し、新たな国づくりに向かってひたすら前へ、未来へと突き進んで行きたいーこれが私の率直な思いであります」

いやはや、随分と気合のこもったというか、肩肘張った大袈裟な言いぶりです。いかに、10年が重要なハードルであったか、今更ながら赤面する思いです。今振り返りつつ、こうした回顧録を書くにあたって重要な資料になっているのは、たとえようもなくありがたいことです。(2020-5-20 公開 つづく)

 

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