【33】衆院国土交通委員長に就任。「読書録」出版の会も開くー平成13年(2001年)❶

●天皇陛下を議事堂広間でお出迎え

2001年が年明けて直ぐに、衆議院の国土交通委員会の委員長の任命を受けることになりました。国会の委員会の委員長というポジションは、テレビで予算委員会の中継などで、委員室の中央に座って「〇〇君!」と呼びかけ、質問者が「委員長!」と手を挙げて発する、あれです。強行採決などといった場面で、委員長席に駆け寄る野党委員とそれを阻止する与党議員にもみくちゃにされながらマイクを必死で掴む姿でも知られます。ただ、そういうことは滅多になく、通常は行司役のようなもので、与野党の調整が専らの裏方です。とは云うものの、立法府の重要な構成員として、大きい役割を担っています。

就任したのは1月31日です。天皇陛下が国会召集日に衆議院に来られますが、その際に玄関脇で衆参の全委員長が並んでお出迎えをすることが恒例になっています。少し脇道にそれますが、衆議院の正面玄関入ったところの天皇陛下のお休み処に通じる階段の下に中央広間があります。そこには、四隅に銅像台があり、そのうち3箇所には、伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像が立って(昭和13年に憲法50年を記念して設立)います。もう一箇所は台座だけ。これは将来の議会を担う人物のために、敢えて空白にしてあるとのこと。そこに佇むとあたかも明治時代に戻ったような気分になり、私が一番好きな国会のスポットです。

橋本行政改革の結果、この年から省庁の集約化が行われました。国土交通省は、それまでの建設省、運輸省、北海道開発庁、気象庁など旧4省庁を統合した巨大な官庁となりました。委員長になるにあたって、まずは所管の業務を脳裏に畳み込むために、関係部局ごとにレクチャーを受けました。その際に気付いたのは、私と同世代の局長がいたこと。特に大石久和道路局長、竹村公太郎河川局長は昭和20年生まれとあって親しみを一段と抱きました。この二人は退官後も大活躍をしていますが、とりわけ竹村さんは文明評論家として著名な存在です。この人の様々の持論の展開はまことに面白い。読まれてない方には是非読まれることをお勧めします。

●森首相退陣で、小泉対橋本の総裁選

この頃、森首相は極めて不人気で支持率は10%台を低迷する有様。自民党内に、これでは夏の参議院選挙が闘えないとの空気が充満してきました。それを受けての同党総裁選は、新たな風を求める陣営から小泉純一郎氏を推すグループと、旧来的な、数を頼むグループが押す橋本龍太郎氏の再登板をかけた闘いになっていきました。結果は新しい空気を望む側の勝ち。ここから自民党は新たな出発をします。

小泉首相が誕生した時の市川雄一さんの反応にはかなり微妙なものがありました。二人は選挙区が同じ神奈川二区。お互いに、その人間の何たるかが分かっていたはずです。市川さんの小泉首相に対する評価はあまり高くなかったと記憶します。尤も自民党でもその評価は別れていました。私にとって極めて印象深かったのは、組閣直後に国会の廊下を歩いていて、後ろから声をかけられたことです。当時、女性閣僚を一挙に5人も登場させたり、民間から竹中平蔵氏らを登用するといった大胆な人事が話題を集めていたのですが、「どうだ?今度の人事は?」って、まるで社長が中堅社員に話すかのように、得意満面に声がけされたのです。「いやあ、中々ですねぇ」と応じつつ、しばらく一緒に並んで歩きました。私とは特に委員会で一緒だったとか、海外視察で同行したわけでもありません。その気さくさに驚いたものです。

●姫路と東京で出版記念パーティーを開く

私は新幹線で姫路と東京を往復する車中で、雑誌、新聞もさることながら本を片っ端から読む習慣がありました。当選して以来、いわゆる〝金帰火来〟や〝土帰月来〟といった、週末に地元に帰り、週明けに上京するパターンの中で、一往復7時間(当初は片道3時間半かかった)は格好の読書アワーでした。幾ら忙しくても、列車の中ではジタバタ出来ません。動く読書室になりました。最初のうちは読みっ放し。そのうち、情報端末機器(シャープの「ザウルス」)を活用することにしました。今のようなアイパッドで発信、スマホなどで直接見てもらうのとは違って、支持者や有権者のお手元には、ファックスで活字を見てもらう形式をとりました。「新幹線車中読書録」と銘打ち、3冊ほどを三題噺風に2000字以内に一回分としてまとめたものと、国会での時々の動きを追った「国会リポート」の二枚看板にしました。

1999年ぐらいから開始したものが、徐々に溜まっていきました。週一回としても年間50週ですから、二年で共にほぼ100回分です。せっかく書いて発信したのだから、それを本にして出版しようということを思いつきました。政治評論はともかく、政治家が何をどう読んだのかを世に問う意味で「読書録」には意味ありと判断しました。それを今度は一冊の本(『忙中本あり』=〝忙中閑あり〟をもじって)にまとめてみようと、思い立ち、2000年暮れから論創社さんに出版をお願いして作業を進めました。そして、国交委員長になったことのお披露目を兼ねて、出版記念を祝う会もやることにしました。しかも、地元姫路は4月13日に、東京は同月26日に、と連続開催です。衆議院議員になって8年、初めての試みでした。準備や進行など、秘書君たちを始め多くの仲間、関係者の皆さんにお世話になりました。

姫路開催の日は実は自民党総裁選挙のさなか。そんな忙しい状況を割いて、野中務自民党幹事長が来てくれました。この人は、橋本さんの仲間。小泉さんをこき下ろす挨拶をされたのが印象に残っています。地元の4市6郡21町の市長や町長さんたちがこぞって来てくれたり、商工会議所会頭ら姫路の名士の皆さんもずらり顔を揃えてくれました。有り難く嬉しい思いで一杯になりました。

一方、東京でのパーティーは、東京外語大学長の中嶋嶺雄先生を発起人に、演劇評論家の山崎正和さん、『ストロベリーロード』で著名な作家の石川好さん、慶應義塾大での恩師・小田英郎先生、同じく慶大教授で同級生だった小此木政夫君、『元首の謀反』で直木賞を受賞した作家の中村正軌さんら著名な学者、文化人の皆さんに世話人になってもらい壇上花を添えていただきました。当日は残念ながら顔を見せていただけなかったのですが、アサヒビールの社長で高校・大学の先輩・瀬戸雄三氏、朝日新聞の編集幹部・船橋洋一氏らにも世話人に名を連ねていただきました。この人たちに壇上に上がって貰った風景は、政治家のパーティーとしてはかなり異色でした。何しろ登壇した政治家は市川雄一さんのみでしたから。演壇の脇にずっといた中山太郎さんが「いやあ驚いたねえ、赤松さんは政治家というより文化人だねえ」との感想を後に述べてくれましたが、確かにその雰囲気が場内には漂っていました。(2020-4-22公開  つづく)

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【32】森首相ら閣僚と予算委でIT論議ー平成12年(2000年)❹

●右足親指付け根に激痛で、途中帰国へ

ドイツからスイスを経てイタリア・ローマに入った頃から、なんだか私は右足親指に異変を感じだしていました。これまで、全く経験したことがない痛さでした。ローマの日程は、日中の視察も林大使との夜の懇談会も、前回に述べた塩野七生さんとの会見もなんとかこなしていました。しかし、段々痛くなってきて、次のフランス・パリに行くことは一行に迷惑をかけてしまう予感がしてきたのです。中山団長に不調を訴えました。団長は、すぐさま私に靴、靴下を脱ぐように言って、右足親指付け根を自分の指で触ってみてくれました。「私も医者の端くれだからね」と言いつつ。暫くすると、指で触るのを止め、鉛筆の先端に替えられるのです。「先生、どうして」と訊くと「汚いから」とにやり。これには痛いのを通り越して、笑いました。

大使館には医務室があり、医師がいます。そこで緊急に診ていただいた結果、「通風」だとの見立て。応急の薬を処方していただきました。無理をしたら最終行程をこなせるとは思いましたが、パリ行きを断念して帰国をすることにしたのです。というのも、一人だとなにかと難しかったのですが、なんと、辻元清美さんが「私も党の政調の会があるので、帰国する必要があります。サポート役しますから、ご一緒に」と。ご好意に甘えることにしました。これは助かりました。(彼女はその後天下周知の出来事に直面、2002年3月に議員辞職します。)怖いもの知らずの気が強い女性のイメージですが、日常的には実に優しい人でした。帰国後、主治医に診てもらいましたが、数値も普通。あの症状はローマでだけ。今に至るまで一切再発なし。まるでローマでキツネにつままれたような「通風騒ぎ」でした。

●閣僚に「HPやってる人、手を挙げて」と呼びかけ

森喜朗首相は内閣発足に当たって、IT(情報技術)革命を掲げて出発していました。それを受けて自民党の中にもIT議員連盟なるものが作られる雰囲気が次第に高まっていました。そんな折、9月28日の予算委員会で首相や全閣僚を相手に質問する機会を得ることが出来ました。そこで、私は森首相始め、全閣僚にHP(ホームページ)の開設をしているかどうかを冒頭に聞いたのです。「HPやってる人は手を挙げて下さい」と。予め調べたところでは、19人の閣僚のうち、6人が活用していると判明していましたが、テレビ付きの質疑でもあり、問うことにしたのです。すると、手を挙げた人は5人。一人足りません。森首相は「家族じゃあダメか」などと口にしていました。HPをやってるのに、手を挙げていないのは宮澤さんでした。「宮澤大臣はやってるでしょ」というと、慌てて挙げる始末。人任せがハッキリした面白い場面でした。

IT革命の首謀者がHPを持たないのはおかしいと思うのは自然な感情です。私はそれをネチネチといじめるつもりでした。森首相は、答弁の中で、個人での意見を公表するのはなにかと後に尾を引くことになったりして問題を招くとか、あれこれと言っていました。確かにそういう側面は否定できないのですが、やりようによってはいくらでも発信できるはずです。現に次の首相になる小泉さんはうまく活用していましたし、今では米国のトランプ大統領のツイートが世界で取り沙汰されたりするなど話題を提供、物議を醸す原因になったりもしています。私のいうようなことを受けて、やってれば森首相も良い意味での話題の人になったはずなのですが。

公明党は当時「電子立国」に向けた取り組みとして、衆参国会議員にはHPの開設を義務付け、都道府県議会の議員や政令指定都市議員にも早期に持つように拡大する予定でした。こうしたことを背景に自信を持って質問に使ったしだいです。神戸新聞はこの時の私の質問を取材して、10月4日付けに報道。私のコメントも「政治家にとって、IT革命を進めるというのは情報公開をするということ。そう思って、閣僚に自信のほどを聞いたのに、たった六人とは」と紹介する一方、「拍子抜けの様子」だと伝えてくれました。

●政治腐敗防止に向けて次々と改革が実現

森喜朗首相という人物は、体躯堂々としたいかにも〝太っ腹〟という印象です。彼が首相になって半年余りした頃、11月4日に公明党は党全国大会を開催しました。その時のエピソードを披露しますと、当日壇上脇で、同首相のお相手をする役割を私が仰せつかったのです。壇上の椅子に着席してもらうまで、いささかゆとりがありました。私は「総理、立たせっぱなしで、申し訳ありません」と述べました。すると、彼は「いやあ、僕は学校時代からいつも立たされていたからねぇ、立ちっぱなしは平気だよ」と。本当かどうか知りませんが、こういう一言がこの人の魅力なんだろうと思った次第です。

また、後年、赤坂の議員宿舎で、珍しく上京していた妻と宿舎の食堂で夕食をしたあと、ばったりと森さん夫妻と出くわしました。すかさず彼は、「奥さん、こんなところで食事せずに、もっといいところに連れて行ってもらいなさいよ」と。余計なことを言うと思いましたが、これが彼の真骨頂なんでしょう。要するに一言多いのです。尤も、私も人のことを言えた義理ではありませんが。

小渕政権では、公明党が連立を組んだ証しとして、自民党の積年の病弊である政治腐敗の防止に向けて、公明党は一連の改革を実現するべく主張を強めました。そのうち何と言っても大きいのは政治家個人に対する企業・団体献金の廃止です。それまで、一企業・団体当たり年間50万円まで受けられるようになっていた政治献金を、廃止するよう強く求めました。その結果、2000年の初っ端から実現を見たのです。また、森政権になってからも、あっせん行為(いわゆる口利き)による見返りを、政治家や秘書が得ることを禁止する「あっせん利得処罰法」を制定することが出来ました。同年11月22日のことです。(2020-4-20 公開 つづく)

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【31】憲法調査でドイツ、スイス、イタリアへー平成12年(2000年)❸

●頻繁に憲法改正をしてきたドイツ

実はこの年ー2000年の1月20日に衆参両院に憲法調査会が設置されました。初代の衆議院調査会長は中山太郎元外相です。私もそのメンバーの一員となり、様々な論議に加わっていくことになります。その活動の中で、忘れがたいことの一つは、9月10日からの17日までの7日間のドイツ、スイス、イタリア、フランスの四カ国に憲法改正の経緯事情を視察する旅に加わった(私は故あってフランスには行けず三ヶ国のみ)ことでした。メンバーは、中山太郎団長、鹿野道彦副団長、団員に葉梨信行、石川要三、中川昭一、仙谷由人、春名真章、辻元清美そして私の9人。随行には衆院憲法調査会事務局の橘幸信氏ら。そしてメデイアからは、NHK と産経新聞の記者が同行するという大掛かりなものとなりました。

調査活動で最も印象深かったのはドイツでのこと。1949年の憲法制定以来、2000年の時点で、46回に及ぶ憲法改正を経験していたという歴史的事実には驚きました。日本と同様に第二次大戦後、敗戦国としての出発を余儀なくされたドイツですが、その後の歩みは大きく違いました。一行をドイツ連邦議会で迎え、対応してくれたアルフレッド・ハルテンバッハ氏(ドイツ社会民主党=SPD法務部会長)は、ドイツにおいて頻繁に憲法改正が行われてきた最大の理由として、「国家を現実に適合させる必要があった」ことを挙げました。冷戦下に東西両陣営の最前線に立たされて、自らの国は自らで守らねばならない現実に直面して、その都度憲法を改正せざるをえなかった事実経緯を述べてくれました。

彼が語った過去のドイツが経験した三大改正とは、一つは、1956年の北大西洋条約機構(NATO)加盟の際の再軍備に伴う兵役の義務化です。更に、1968年の国家的緊急事態における防衛体制の整備が必要とされた時のこと。そして、三つ目は、東西ドイツの統一の際の改正でした。いずれも過酷な国際政治の現実の中での重要な選択だったのです。

●中山団長が挙げた三つの検討課題

中山団長はドイツ、スイス、イタリアの調査を終えた段階で、同行記者団を前に懇談して、「各国において、憲法は神聖不可侵のものではなく、社会情勢の変化に応じて、改正が極めて普通のこととして行われており、日本においても改正を念頭においた本格的な憲法論議が進められるべきです」と述べました。

その上で、ドイツとイタリアが独立機関として設置している憲法裁判所について、「議会制民主主義よりも良い判断が行われた面もあり、日本でも設置するかどうか十分議論していきたい」と強調しました。さらに、三カ国が憲法において、国民に兵役の義務とそれを拒否した場合の福祉活動など代替勤務を課していることに関連して「社会保障における労働力や個人の社会全体に対する義務を考える上で、検討に値する」と述べました。加えて、スイスが世界で初めて、憲法に遺伝子技術に関する「生命倫理規定」を憲法に盛り込んだことも、大いに参考にすべきだと発言しました。

ここに挙げた三つの発言はいずれも中山団長の個人的なものではありましたが、私を含め団員の間でも興味を惹いた内容でした。同行記者団の一人、産経の高橋昌之記者(姫路出身。先年急逝)は、9月18日付同紙に、大きくこの時の懇談内容を書いています。❶独立した憲法裁判所❷「奉仕活動」の義務化❸生命倫理規定の創設が憲法調査会の検討課題に、と。その記事には各党の代表のコメントが掲載されていますが、私も「憲法を良い方向に変えるべく、できるだけ早い機会に公明党の憲法草案を作るべきだ」とまで、勢い込んだ発言をしているのです。旅先でもあるからでしょうが、突出した高揚感が伝わってきます。同世代の仙谷由人(のちの民主党政権の官房長官)や中川昭一氏(のちの金融担当大臣)らと幾たびも議論を交わしたものです。(この二人も、もう亡くなってしまいました。)

●ローマでの塩野七生さんとの出会い

この旅での重要なイベントは、ローマ在住の作家・塩野七生さんとの懇談(9-14)でした。これは中山団長のたっての希望で、同地の大使公邸で行われました。塩野七生さんといえば、畢生の大作『ローマ人の物語』全15巻を始めとするローマ帝国に関する歴史著作で有名です。同時に歯に衣着せぬ明快な物言いで知られる人でもあります。私は少し以前に国会で彼女を招いて講演会があった際に、同僚議員が仲間を「先生」と呼んだことに対して、「国会議員がお互いを先生と呼ぶのはやめなさいよ」とビシッと指摘されたことに強烈なインパクトを受けていました。その通りだと共鳴したのですが、同時にその舌鋒の鋭さにタジタジとなったのです。これは、私一人だけではなかったはずです。

この夜も塩野さんは、「私を先生と呼ぶのはやめてくださいね。皆さん方もそうですが」と冒頭切り出され、「わざわざイタリアまで日本の国会議員の皆さん方がやってきて、私のような日本人に会おうなんて、一体どういうことでしょう。栄誉あることだと私は受け止めますが‥‥」と皮肉混じりと受け止められる言い方をされたものです。憲法については、改正に必要な国会議員の三分の二というハードル(憲法第96条の規定)を下げて、過半数にすべきだということが唯一最大の注文だと述べられたことが強く印象に残っています。

私は別れ際に、玄関先までついて行き、こう述べました。「日本の男性の多くは塩野さんのローマ人の物語を始めとする著作が大好きです。しかし、女性の多くは須賀敦子さんの著作に興味を持っている人が多いですねぇ」と述べました。実は、須賀敦子さんも塩野七生さん同様にイタリア人男性と結婚し、ローマにかつて住んでいた女流作家です(今は故人)。私はこの人の著作をある女性から勧められてほぼ全てのものをこの時までに読んでいました。それ故に、チョッピリ皮肉を込めて一矢報いたつもりでした。これくらいのことを言わねば、大作家の心を惹かないと思ったからです。しかし、あに計らんや「私も須賀敦子さんのように日本の女性に読まれないといけませんねぇ」との答え。意外でした。役者が違うというべきでしょうか。

こうして憲法調査会の欧州旅は過ぎて行ったのですが、私はローマで、またまたとんでもないハプニングに見舞われます。それが冒頭に述べた四カ国歴訪が、私は三カ国になったことに繋がるのです。これまた自業自得というのでしょう。次回のお楽しみに。(2020-4-17公開 つづく)

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【30】森政権の危うくおかしな滑り出しー平成12年(2000年)❷

●産経「私にも言わせて」欄に登場

自自公政権下、自民党、自由党との間で防衛問題の協議を進める中、4月6日付け産経新聞「正論」欄に、政治評論家の屋山太郎氏が「自民党に公明党化の恐れはないか」とのタイトルの論考を寄せました。歯切れのいい論陣をはる、名うての論客です。そこでは、自由党の政権離脱によって、安保政策の牽引車が消えてしまい、ブレーキ役の公明党が影響力を増すことから、安保議論が姿を消すのではないかと、書かれていました。論考のなかで、公明党の安保政策が、あろうことか旧社会党の非武装・中立論と似ているとの文言のくだりがありました。これは黙っておれないと、この「私にも言わせてほしい」欄に寄稿したのです。この文章全七段のぶち抜き、13字詰め104行の結構大きなたたみ記事でした。「『自民の公明化』に反論 ー安保論議消失の心配無用」という見出しです。

屋山さんは、新進党の新人コンテストで面接を担当したようです。その際に、公明党出身者が異口同音に「平和と福祉をやります」と、答えたというのです。それで、「平和はどうやったら守れるのですか」と、いたずらっ気を出して訊くと、また異口同音に「こっちがじっとしていれば安全です」といったといわれるのです。この辺り創作の匂いがふんぷんとしますが、それを受けて、彼は「公明党の平和観というのはいってみれば念仏平和」だ、と書いていました。

●屋山太郎氏の「念仏宗教観」

これに対して、私はー「念仏平和」って言葉、初めて聞きました。念仏を唱えて、戦をした人々のことではないでしょうね。居酒屋談義じゃああるまいし、こういう「いってみれば」は名だたる評論家のなさることではありませんね。(中略) 自分で勝手に、公明党の安全保障政策をかつての社会党のそれと似ていると決め、(屋山さんは)「日本は平和をいつまでも享受できると思っているのか」「解に危険なのは念仏宗教観を現実政治の中に取り入れてしまうことである」と述べています。こういう論法には、大いに疑問を感じますーと続け、公明党は、北東アジアに平和をもたらすべく、予防外交の限りを尽くす一方、必要な抑止力を持つことは当然だとの考えを披瀝しています。そして、公明党が賛成したればこそ、周辺事態法が成立したではないか、その事実をどう見られるのか説明してほしいとたたみ込みました。

この文章の最後では、「屋山さんは、いたずらっ気を出して書いたら、まんまと乗ってきたと、ほくそ笑まれているかもしれません。もっとも、連立を組む前まで、『次々と右傾化政策に賛成する公明党 』と、産経を除くメディアから攻撃されてきましたから、『正論』でのご批判は、格好の中和剤だと、私こそ喜ぶべきなのでしょう」と結んでいます。今読み返しても中々面白い文章展開だと自賛しています。いかがですか?

ところで、この後、市川さんと一緒に屋山さんとお会いする機会がありました。あれこれとお二人が議論をされていたことが思い出されますが、細かなことは忘却の彼方です。その折は流石に「うちは念仏じゃあなく題目ですよ」とも言えず、借りてきた猫ならぬ、飼い主に連れられた犬のように、大人しくしていました。

●森喜朗首相のもとで世紀末から世紀明け

小渕さんの脳梗塞入院による森喜朗さんへの交代は、4月5日。それからほぼ1年間だけ森政権は続きます。世紀末から新世紀明けまでの貴重な期間をこの人が日本の命運を担うことになったのです。自民、公明・改革クラブ、保守の実質3党による連立政権でした。公明党は、この間に①アレルギー性疾患対策を求める署名集め(約1464万人分)②中小企業全国実態調査(調査総数約22000社分)の結果を踏まえての中小企業対策ーなどを首相に提出すると共に、実施を要求しました。併せて、5月には交通バリアフリー法、児童虐待防止法、ストーカー規制法、循環型社会形成推進基本法などを矢継ぎ早に成立させることにも貢献したのです。いずれも公明党ならではの視点のもので、連立政権の一翼を担う政党らしい闘いぶりに、支持者は勿論、有権者は大いに賛意を抱いてくれました。

●衆議院解散総選挙(6-25)で、三回目の当選果たす

森喜朗首相の登場は、〝密室の交代劇〟といった批判を浴びましたが、滑り出し直後の5月15日に神道政治連盟国会議員懇談会の場での発言が大騒ぎの原因となります。同首相はそこで「日本の国は、まさに天皇を中心とする神の国であるということを国民のみなさんにしっかりと承知していただく。そのために我々(神道政治連盟関係議員)は頑張ってきた」とのいわゆる「神の国発言」をしました。これに対して、共産党をはじめとする野党は猛烈に反発し、総理大臣に不信任決議を出そうとします。これを逆手にとって首相は衆議院解散を断行しました。

当時の公明党の受け止め方は、「いかにも」という空気でした。「言わずもがな」の発言に呆れたというのが本音だったのです。神道政治連盟という集団内部での心情は確かにそういうことでしょう。ですが、それをわざわざ時の首相が、日本は神の国であると表明するというのは、不用意極まりない失言というほかありませんでした。これによって、この国の起源を巡る侃侃諤諤の議論が一時的に生み出されました。この騒ぎの直後に、テレビ朝日の人気番組「朝生まテレビ」に私は初出演しました。

総選挙は、前回の小選挙区比例代表並立制の選挙制度における初の選挙に続くもので、2回目。新進党の解体で公明党は久方ぶりの独自の選挙となりました。前回は近畿比例ブロック定数33のなかで、新進党の名簿四位で、悠々当選を果たしましたが、今回はそうはいきません。公明党としての単独名簿の当選圏内ギリギリと見られた名簿五位でした。投票日当日、最後の最後までヤキモキする危ない闘いでようやく滑り込みました。これで当選三回となったわけですが、きわどい結果に胸撫で下ろしたものでした。(2020-4-14公開 つづく)

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【29】安保・防衛論義で歯止め役果たすー平成12年(2000年)❶

連立参加の具体的証しとしての神崎代表挨拶

年が明けて、2000年の1月19日。神崎公明党代表は初めて自民党の党大会に招かれて挨拶をしました。「公明党は90年代に入って、野党という立場でありながら、湾岸90億ドル追加支援やPKO問題、金融不安の解消など、日本の進路を決める局面で重要な役割を果たしてきた」「日本の危機を乗り越えて、政治の安定を果たす中で改革を断行する必要があるので、連立に参加する政治的決断をした」と、強調したのです。

こうした事実を報じるメディアを追うにつけ、昭和39年の立党から36年ほどが経って、遂に自民党との連立政権を構成するに至ったことに深い感慨を覚えました。神崎代表は検事出身ですから、統治機構の一部を元々形成していた存在の一人だったわけですし、冬柴鐵三さんや山口那津男さんを始め衆参の公明党議員には弁護士出身も多く、今ある法律を解釈する仕事に従事してきたメンバーとして、権力の側に身を寄せることにさしたる違和感はなかったかもしれません。ですが、私のような自民党政権批判一筋の政党機関紙記者出身者(昭和44年から18年間)としては、大いなる戸惑いを感じたものです。

自自公三党連立は、その後早々と4月5日になって、自由党が連立を解消するに至ります。そして、同党を離党した扇千景参議院議員をはじめとする人たちが保守党を旗揚げすることになりました。結果として、保守党には26人が参加、自由党には24人が残り、同党は分裂をしたのです。自自公連立は、自公保連立へと衣替えすることになりました。このかたちは03年11月まで続き、保守党が保守新党を経て自民党に合流してからは、自公連立となっていくわけです。一方、小沢自由党は民主党と合併する道を選んでいきます。

与党安保PTで自自両党に攻められる

2000年の春先、私は党の外交・安保委員長として多忙を極めていました。一つは、防衛庁の省への昇格問題であり、二つ目は有事法制化問題です。さらに三つ目は、PKFの凍結解除問題です。いずれも、自自両党が進めたいとするものでしたが、公明党としては慎重にならざるをえないテーマでした。問題の性質上、産経新聞が熱心に取材をしてきて、幾度か同紙の紙面を飾りました。自由党が未だ連立政権に加わっていた時は、とりわけ自自両党の間に挟まれて苦労しました。防衛省昇格問題では、3月8日の与党安保PTで、久間章生元防衛庁長官が自民党の国防部会で了承されたとの報告をしました。これについては、前年の自自公三党の政権合流に伴う政策協議で、自由党から強く「盛り込み」を求められたという経緯があります。しかし、公明党は最後まで認めませんでした。従って、私はその場で勝手に色よい話をするわけにもいかず、難しい事情を述べたものです。3月9日付の産経新聞は、この辺りについて大きく報じました。

また、有事法制化については、外国からの武力攻撃を受けた場合、つまり1分1秒を争う緊急時に、防衛のために超法規的な行動を取ろうとしても、難しいことは当然想定されます。一般市民の立場に立てば、いざという時だから、あなたの土地、家屋を自由に使わせてくれと言われても、おいそれとは同意出来ません。そういう一般大衆の側に立って、憲法に規定するさまざまな権利擁護の観点を重視するのが公明党のスタンスでした。「官邸の決断を待つしかない」(坂口力政策審議会会長)というのが精一杯でした。

PKFというのは、国連平和維持活動(PKO)の中で、軍事的行動を伴う活動をする主体を意味します。ピース・キーピング・フォースつまり国連平和維持軍です。PKOはあくまで平和的に物事を進めようとするためのもの。それに対して、PKFは軍事的役割を重視するものです。ですから、日本政府はPKFについては、初めから凍結することにしたのです。しかし、自由党はそれでは、国際基準と合わないとして、執拗に凍結の解除を迫ってきていました。公明党はそれは受け入れられないので、自民党と共同歩調をとりつつ、慎重な姿勢を固持したのです。

つまり、与党三党の安保プロジェクトチーム(PT)での私の役割は一貫して、自自両党に歯止めをかけることでした。前に前に行こうとする自由党を抑え、自民党には公明党の立場を理解してもらうことに意を注ぎました。この頃の安保関係議員の自民党の中心にいた久間章生さんや、額賀福志郎さん、そして石破茂さんらとは様々な交流をする機会に恵まれました。自由党の担当の一人は元公明党、公明新聞の大先輩であった二見伸明さんでした。この人は公明党と袂を分かってから離れてしまわれ、最近は共産党シンパのような存在です。

小渕首相、脳梗塞で死す

橋本龍太郎首相からバトンを引き継いだ小渕恵三首相は、金融危機の嵐が吹き荒れるなか、自由党との連立、そして公明党をも引き込むなど、日本の安定のために 必死の闘いを挑みます。この間の無理がたたり、結局2000年の4月1日に脳梗塞で倒れそのまま帰らぬ人となりました。その直前に小沢自由党党首の連立離脱の動きがあったことから、様々な憶測が流れたことは忘れられません。政局はこのことから一気に流動化しました。当時の官房長官・青木幹雄氏が、野中務、村上正邦、亀井静香、森喜朗の各氏を集め、次の首相に森氏を決める流れを作ります。いわゆる「密室談合」と呼ばれる一幕です。現職の首相が病に倒れるケースは、戦後ではこれまで石橋湛山、池田勇人、大平正芳の三人です。選挙最中に逝った大平首相とはまた違った意味で、小渕氏は「殉職」とでも表現したくなるような悲劇的な死でした。

衆議院本会議などで一度ならず議論をした小渕首相ですが、個人的に会うことは、エレベーターの中で偶然に会うことぐらいしかありませんでした。「政治家と健康」という普遍的なテーマを突きつけられ、自らの行く末に誰しも思いをいたさざるをえませんでした。尤も、こういうことは直ぐに忘却の彼方に忘れ去られがちです。このあと、10年ほど経って、私も同じ病に襲われることになりますが、もちろん、この時は神のみぞ知ることでした。(2020-4-11日公開 つづく)

【29】安保・防衛論義で歯止め役果たすー平成12年(2000年)❶ はコメントを受け付けていません

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【28】自民と「連立」という画期的決断ー平成11年(1999年)❸

自自公連立政権誕生の経緯について

7月24日の臨時公明党大会で、公明党は連立政権に参加する方針を決定しました。それを踏まえて、神崎・小渕の両党首は26日に党首会談を持ち、大筋の決着を見ることになりました。ただ、小渕首相が進める、自公の連立の動きー結果的に自自公連立になるのですがーについては、自由、自民双方の中から、不協和音が聞こえなかったわけではありません。まず、自由党からは、衆議院の比例区の定数を50削減を実施すべきで、それが飲めなければ、連立離脱も辞さずとの態度が示されたのです。これは小渕・小沢会談で次国会まで継続審議とし、冒頭処理することで決着を見ました(定数削減は、最終的には20削減で決着)。一方、自民党内から一部議員が、公明党との連立に反対する強硬な姿勢を示したり、加藤紘一前幹事長や、山崎拓前政調会長ら幹部が、公明党とは閣外協力に留め置いた方がいいとの主張がなされたりしました。
そうした動きがありましたが、最終的には三党間における政権・政策協議は、10月4日に合意書を交わすに至りました。正式には5日に自自公連立政権がスタートし、公明党からは続訓弘参議院議員が総務庁長官に就任することになったのです。この間の小渕首相の苦労たるや並大抵のものではなかったことが後で分かります。公明党にとっても、長きにわたって批判の対象としてきた政党と、政権を一緒にするとの選択をした画期的な決断でした。

意味深い連立参加のインタビューに登場

当時、公明党の兵庫県本部長をしていた私に、神戸新聞社から「自自公連立 県内関係者に聞く」とのインタビューの依頼が舞い込み、9月1日付けの同紙に掲載されました。(全文は以下の通りです)

ー世論調査などで、自自公に対する有権者の否定的な見方が目立つ。
「半分は当たっているが、半分は当たっていない。自民は比較第一党の支持を得ているが、過半数ではない。他党と組まざるを得ない。どの党と組むかが(選挙などで)示されていないという批判はある。しかし、有権者は比較第一党の自民に、その選択権をあたえているとも言える」

ー公明は変わった、との見方もある。
「かつては野党結集の中核的役割を果たしたのにーという見方だ。事実、新進党という形で結実したが、内部的な問題で崩壊した。今、自民に対抗する勢力をつくるには、非常に手間と時間がかかる。仮にできたとしても、新進の二の舞になりかねない。公明は自民と組むことで、公明の主張を実現する道を選んだ。基本的には変わっていない。中道左派から中道右派へのシフトだと思っている」

ー先の国会で、重要法案が自自公の数の力で次々に通ったとの印象がある。
「自民案をそのまま通したとすれば批判もあるだろう。しかし、嫌がる自民に大幅な修正を認めさせた。公明が施した修正にこそ意味がある。中身を見てほしい。数で何でも押し通すことはしない」

ー解散・総選挙の時期は
「なるべく早く有権者の判断を仰ぐ必要はある。しかし、来年度予算編成でわれわれの政策を反映させることを考えると、最も早いケースで来年一月の通常国会冒頭だろう」

ー非自民・非共産を掲げる連合・五党協の枠組みは維持できるか
「これまでの枠組みを大事にしようという点では一致している。ただし、非自民を旗印にするのは難しい。『自民単独過半数を許さないための選挙協力』であれば矛盾しないと思う」(西海 恵都子)

この西海記者は、今では神戸新聞編集局長になっています。女性初のポジションです。このやり取りでの私の発言はなかなか良くできていると思って、自画自賛していますが、いかがでしょうか。

東ティモール問題でのインタビューにも

この頃、東ティモール問題が浮上。党外交安保委員長として、産経新聞のインタビューを受けたものが、10月30日付同紙に「PKO、PKFで5原則重要」との見出しで大きく取り扱われました。
要旨を抜粋しますと、記者から、東ティモールへのPKO 参加はあるのかと問われ、「当事国の同意がPKOの一つの精神で、紛争当事者の一方を支援することはできない。参加は難しい。PKO、PKF活動で五原則は重要だ。五原則を外せば、紛争が起こりかねない状況で出動することが可能になる」と述べ、どこまでも五原則にこだわる考え方を強調しています。その上で、どう東ティモールの復興に貢献するかについては、「傷病者治療、紛争後の国土開発への貢献が第一。第二に火の粉が降りかからない地域で避難している難民などへの人的支援だ。紛争を鎮火させるための人的貢献はすべきではない」と、同地域の平和構築のための人的支援に!どこまでもこだわる姿勢を明確にしています。

多国籍軍への自衛隊の派遣を公明党が認めるのかどうかが当時最大の(今も同様だが)焦点だったので、記者は執拗に訊いてきました。それに対して私はどこまで慎重な態度に終始しています。「武力で武力を鎮圧することに加担するのが、21世紀へのメッセージとして妥当なのか。自衛隊が多国籍軍に参加しないことがグローバルスタンダード(国際的な基準)ではないと、批判されることに国民が負い目を感じることはない」と述べたり、多国籍軍参加につながるような法整備には同意できないと強調し、あくまで憲法の枠内での後方支援の方法を模索すると訴えています。

東ティモールに私は行ったことはないのですが、この後、同国に深い関係を持つ二人の人物と大変に親しくなります。一人は元防衛施設庁長官で東ティモール大使になった北原巖男氏。もうひと方は国連職員として世界の紛争現場で調停者として活躍してきた伊勢崎賢治・東京外語大教授。北原氏が2008年(平成20年)に大使赴任する直前に三人で会って、あれこれと意見交換をしたことが懐かしく思い起こされます。北原氏は大使を辞めた後も、東ティモール日本友好協会の責任者として懸命の努力をされています。(2020-4-8公開 つづく)

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【27】自自公連立の舞台裏でネットを駆使ー平成11年(1999年)❷

インターネット上にコラムを掲載

平成11年(1999年)という年は、私にとって(いや、よほどの幼な子でない限り、誰でもでしょうが)極めて重要な年でした。20世紀末(正確には2000年がそうであるにせよ)、やはり1999という四桁は、その世紀の末尾を思わせたからです。この年の劈頭から私はインターネット上にホームページを開設して、週に一回、国会の状況を報告するコラムや新幹線車中において読んだ本の読書録を掲載することにしました。これは元新聞記者として、やむにやまれぬ性(さが)とでもいうべきものでしょうか。本来、政治家としてやるべき政策立案や調査活動をそこそこにして、〝書くこと〟を優先させてしまったのですから。しかも、そのコラムの字数を2000としたことにも企みなしとしません。1999年という世紀末に始めたからです。2000字以内という制限に記者としての矜持を持ち込んだ(今は制限なし)つもりです。ともあれ、この試みは結構話題を呼び、様々な媒体に紹介されました。

新聞各紙に紹介される

最初に登場したのは、讀賣新聞の「取材メモ」(5月18日付)。長くなりますが全文転載します。
ー 国会議員の多くは「金帰火来」と言われるように週末ごとに地元へ帰る。飛行機や新幹線での移動時間は、ひたすら眠る人、後援者へのはがき書きに追われる人、パソコンで電子メールを送る人など様々だが、ちょっと変わっているのが公明党の赤松正雄衆議院議員。
地元・兵庫県姫路市との間の往復7時間の新幹線で毎週二、三冊の本を読み、政界のこぼれ話や、時事問題に絡めて約二千字の書評に仕立て、「新幹線車中読書録」と題してインターネットの自分のホームページで毎週、公表している。登場するのは、政治や外交・防衛などの専門書からスパイ小説まで幅広い。
十七日付けの最新版では「裁かれるのは誰か」(中坊公平・錦織淳著、東洋経済新報社)などを題材に「裁判官のオタク度は高い?」との題名で裁判官の閉鎖性などを論じた。
「自自公連携」で本業も一段とあわただしくなっているが、書評執筆は「つかの間の現実逃避」で、気分の切り替えには欠かせないそうだ。(柴田岳)
これを書いた柴田記者は、当時は公明党番記者でしたが、後にアメリカ総局長から政治部長などを経て、今では同社編集局の最高幹部になっています。今も私は大変親しく付き合っています。

その他『夕刊フジ』では、「政治家もHPで情報発信」との凸版付きのもと、「達人のPC利用術」「ザウルスで秘書に原稿送信→週二回更新」「新国会リポートに新幹線車中読書録」などの見出しもふんだんに折り込んでの大きなたたみ記事となりました。8月11日付けです。また、9月20日付けの日経新聞の「あの人 この人 消息」欄にも紹介されました。そこでは「私の読書録を参考に本を買うという人や、逆に『これを読んだら』と薦めてくれるメールもあり、双方向の交流を実感している」と述べています。

「自自公」連立の流れ

この年、政治の表舞台では、後々までの流れを決定づける大きな動きが本格化していました。先に動いた自民、自由のいわゆる自自連立に加えて、公明党にも閣内協力を求めようとの流れです。最初の兆候は、5月2日の訪米中の小渕首相の同行記者団に語った発言でした。「公明党は日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法案をめぐり現実的対応をした。(中略)今回のことを通じ、自自、自公、もっと言えば、自自公という形で協力して究極の国民に対する責務を負うことができれば、これは大変大切なことだと思う」というものです。

その後、6月いっぱいの瀬踏みとでも言うべきやり取りの後、6月28日の自民党役員会で正式に小渕首相は公明党に閣内協力を求めることを表明したのです。そして7月7日に小渕、神崎両党首によるトップ会談がもたれ、首相から公明党への連立政権参加への要請がなされました。そこでの首相の発言は「昨年来の未曾有の不況の中、公明党の協力を得て、金融関連法案の成立、予算の早期成立を図ることができたこと。公明党の果たした役割の大きさは、今日の経済の回復傾向に顕著に現れていることを見れば歴然である」というものでした。

これを受けて公明党は、7月中に各種、各段階での党内手続きや支持母体の創価学会との調整を続けます。最終的に同月24日の臨時党大会で連立政権参加の方針を正式に決めました。ここで神崎代表は「日本の政治には、未曾有の難局を乗り越える政治的リーダーシップ、それを遂行するためには政治の安定が何よりも必要」と述べるとともに、「政権協議が整えば、堂々と連立政権に参画し、内閣の一員として、その責任を共有すべきだと考える」と発言しました。こういった発言に対して、党大会の席上、かなりの異論や懸念する声が出されました。

例えば、「唐突過ぎる。公明党が目指す新しい政権のパートナーにふさわしい自民党に変革したのか」「従来型の是々非々でいいのではないか」「自社さ政権の社会党の二の舞になるのではないか」「なぜ閣外協力でなく、閣内協力の選択肢を取ったのか」ーなどといった風な厳しいものばかり。聴いていてそれなりに共感を抱いたものです。神崎代表は、「公明党の中道政治を実現するいいチャンスだ。真正面から受け止め責任を分かち合うべきだ」「公明党は基本政策を明示した上で、自民党との政策協議を進めていくので、社会党の二の舞にはならない」などと、誠意を込めて、保守中道政治の展望を語っていました。

私も早速地元紙からインタビューを受けました。今振り返ると、なかなか良いこと言ってます。
(2020-4-5公開 つづく)

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【26】楽しんだ宮澤蔵相との初顔合わせー平成11年(1999年)❶

念願の宮澤蔵相に質問のチャンス

ところで、私はこの時まで自民党の橋本、小渕の両首相には本会議や委員会で質問をする機会はありましたが、宮澤元首相とは相まみえたことはありませんでした。38年間続いた自民党単独政権の最期の首相としての宮澤喜一氏は、しばしば徳川最期の将軍・徳川慶喜になぞらえられたものです。私としては、公明新聞記者時代に歴代総理大臣の予算委員会での答弁を聴いていてー佐藤栄作首相から中曽根康弘首相までー、その卓越した答弁力に深い感銘を受けることがままありました。新聞記者を辞して秘書になり、自分が候補者となり、そして落選を経て代議士になる間の首相たちー竹下首相から宮澤首相までーとは、縁がなかったのです。そんな私にとって、小渕内閣で、副総理兼大蔵大臣になった宮澤氏は、ある意味で憧れの的でした。一度は委員会質疑をしたいものだと思っていたのです。

そんな折についにチャンスが巡ってきました。平成10年12月2日。財政構造改革に関する特別委員会でのことです。今、この時の質疑を議事録で振り返りますと、冒頭に私は、小沢一郎氏と宮澤喜一氏との間の安全保障観の違い(海外における自衛隊の武力行使問題を巡っての法解釈について)といったことを訊いているのです。財政構造改革を問う場面で、その時点での同氏の所管外の問題を持ち出すとは、ホットなイッシューとはいうものの、中々大胆なことでした。で、そのやりとりたるや如何に。

宮澤さんは「小沢さんとは何回となく議論をしながら、非常に裨益をして(役に立つ、助かるという意味) まいったものですが、私自身は、我が国は外国において武力行使をしてはならないというふうに考えております」と答える一方、「小沢さんは武力行使ということについては、同じく慎重」だが、「国連ということなら別の問題だと考えておられる」と答弁されたのです。で、それ以上は踏み込まないで、「将来における日本のあり方を巡って二人の政治家がディベートしたものとして理解してほしい」と軽くいなされました。

二兎を追うもうまくいかず

本題の財政構造改革についての質問の要点は、景気悪化の状況の中にあって、いかに財政の改革を成し遂げるかという問題でした。私は、景気浮揚策と財政の構造改革という二つの課題解決を双方とも目指す、つまり二兎を追うことは難しいのだから、景気浮上という一兎に絞るべきとの観点で質問しました。宮澤さんは、これには「二兎を追うことは無理だった。そういうことでは甘さがあった」とあっさり認める答弁をしました。拍子抜けしたことを覚えています。思えば、この課題は今に引きずっているわけで、事態は一向に改善されぬままにきたっているのは困ったものです。

なお、この当時の経済企画庁長官(今で言う経済財政担当大臣)に、堺屋太一さんがついていました。経済評論家として著名な人を小渕首相は投入したわけですが、この日の委員会に出席していました。私は当時話題の「地域振興券」について、その政策的効果を問いました。堺屋さんは、「大変高度な政治判断によるものだと承知している」が、「地域振興にも期待は持てるのではないか」とのいささか含みのある答弁をしました。経済の専門家としてはしぶしぶだったことがみえみえの答弁でした。私は公明党発の発想によるものだっただけに、あまり政治判断云々を強調されるべきではない、とチョッピリ嗜めることを忘れませんでした。

統一地方選で取りこぼす

4月の統一地方選挙では、県議選で二箇所(垂水区と兵庫区)、神戸市議選で一箇所(東灘区)の合計三箇所で落選をしてしまいました。懸命の応援をしていただいた支持者の皆さんには本当に申し訳ないことになりました。垂水区の候補者は市議会議員からの転出(市議を辞めて新たに県議に挑戦)でありましたが、涙を飲むことになったのです。次回も挑戦することになるかどうか見通しは立ちません。無収入になると、たちどころに生活に困ってしまいます。当面私の地元私設秘書として働いてもらうことにしました。政治家は落選すると地獄だということを改めて痛切に味わったものです。

「朝日」にコメント、テレ朝の「サンプロ」に出演

この年の春先には新聞やテレビに登場する機会が増えました。まず、3月25日の朝日新聞には、不審船事件の「発言録」として「必要最小限の有事法制必要」とのコメントが掲載されます。また、4月1日付の朝日新聞にも、ガイドライン法案の「他党の主張をこう見る」とのタイトルで、自民・中谷元、民主・岡田克也氏らとともに、登場しています。「日本の自主性保てるか」の見出しで以下のように発言しています。

「自民党の議論は、米国を全面的に信頼することを前提にしている。これまでの日本の外交・安保政策が米国のいいなりだったという伝統からして、日本が米国に引きずられないか、自主性が保てるかどうか、疑問だ。「後方」がたちどころに「前線」になって、一歩間違うと日米安保条約の枠どころか、憲法の枠さえ超えかねない危険を感じる。米国に配慮するばかりでなく、日本国民への配慮を忘れないようにすべきだ。自由党は、船舶検査の前提とされている国連安保理決議を外すとの主張に見られるように、憲法が禁じている集団的自衛権の行使に踏み込みかねない。共産党は、安保条約否定の立場から『自動的に参戦する法案だ』などの角度から攻撃しているが、それほど米国をこけにしていいのか。社民党の主張も先祖帰りの印象で無責任で気楽な議論が目立つ」

また、5月2日の朝、テレビ朝日の人気テレビ番組「サンデープロジェクト」に出演しました。田原総一郎氏の司会です。ここでは概ねいい感じで、初出演を無難にこなしたのですが、番組の途中で、田原氏が私に向かって「冬柴さん」と呼びかけたのです。私個人の存在を認めず、幹事長の名前を呼ぶことで、公明党は誰も同じ意見だろうとの挑発を受けたという風にとれました。

コマーシャルの短い時間に、私は色をなして「似てないでしょ。いい加減にしてくださいよ」と文句をいいましたが、後の祭りでした。彼は若い議員を、時にいたぶり、時におちょくって、鍛えるという側面があるようです。真っ正直な私はその手に乗らず、その後一二回彼の番組に出演しましたが、結局は彼とは遠い関係のままに終わったようです。(2020-4-2公開=つづく)

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【25】連立政権参加前夜の波乱ー平成10年(1998年)❸

竹入元委員長の回顧録と市川氏の批判

平成10年の晩夏に、党にとって極めて残念なことが起こります。8年前の1990年に政界を引退していた竹入義勝元委員長が朝日新聞紙上に回顧録を発表したのです。その中で、創価学会と公明党との関係について、あたかも「政教一致」であったかのごとく、歪曲して中傷する一方、対中国問題での成果をほぼ自身の手柄であるかのごとく語ったのです。タイトルは、「秘話 55年体制のはざまで」。8月26日から9月18日までの間に、12回にわたって連載されました。発表と同時に、「これは一体どういうことか」との反響が党内、支持者の間から巻き起こりました。直ちに、公明新聞紙上で強い批判の声が連日のごとく掲載されていきます。

そんな中、10月28日付け朝日新聞紙上に、市川雄一元書記長(「新党平和」常任顧問)へのインタビュー「公明の竹入氏批判、なぜここまで?」が掲載されました。このインタビューは同紙の梶本章記者によるもので、批判が強すぎるのではないかとして、微に入り細にわたって問いただしています。市川氏は、それに対して一つひとつ丁寧に答えていました。例えば、「公明党と学会の関係は、政党と支持団体の関係で、それ以外の何物でもない。それを『従属』とか、『支配』と表現している点が問題だ。憲法がいう政教分離の原則は、国家と宗教の分離だ。政党と宗教の分離をいっているわけではない。同時に、憲法は宗教団体の政治参加の権利を保障している。支援団体が党に意見や注文、アドバイスをするのは当然だ。その声に党が耳を傾けるのも、これまた当然。要は、党の主体性がどこまで貫かれているかだ」と、いったように。

私は実は竹入元委員長を団長とする「第12回公明党訪中団」の随行記者として、北京を皮切りに、天津、大連、上海、広州、深圳など中国5都市を訪問したことがあります。その際に同氏のいささか首を傾げざるを得ぬ赤裸々な実態を見てしまいました。中でも、中国要人との接見の前夜に、聞くに堪えない、我が耳を疑う発言を聞いたのです。また、異常なほどのお金を使ったお土産購入の姿も見ました。つまり、同委員長の表の堂々たる言動とは別の、怪しげな裏の姿も見て、この人物に大いなる疑問を抱いたのです。

勿論、彼の功績を私は全否定するつもりはありません。梶本氏が云うように「政治外交史的には竹入氏が果たした役割は評価されうる」との指摘には首肯するところがありました。市川氏の「竹入外交とは、本質的には『御用聞き外交』だった」と云うのは少々キツすぎると思ったものです。この辺りは、私の物の見方、人物観の拙さのなせる業かもしれませんが。

当時、この事件は実に様々な波紋を呼びました。私にとって忘れられないことは、親しくしていた毎日新聞のある記者が赤坂の議員宿舎にやってきた時のことです。彼は憤懣やるかたないといった口調で、竹入さんを批判、攻撃する公明新聞の論調はおかしいと、まくし立てました。普段はどちらかといえば、おとなしい学究肌の記者だっただけに、驚きました。「竹入さんは親分肌で、いい人だった」との言い振りだったのです。公明党の番記者の間ではこういう竹入評が専らでした。ここは、記者をバカにすることが多かったとされる矢野元委員長とは違うところでしょう。尤も、中国での〝竹入裏面姿〟を思い起こすにつけ、その演技力の逞しさのなせる技かもと、思わざるをえませんが。

政治改革の嵐、新たな展開へ

ところで、私が初めて衆議院に挑戦し、落選した年ー1991年(平成3年)ーあたりから吹き始め、私が当選した年である1993年(平成5年)頃にはピークを迎えていた政治改革の嵐も、20世紀の終焉である平成10年後半には転機を迎えます。小選挙区比例代表並立制の導入や、二大政党制への胎動としての新進党結成などを経て、自民党の変質が余儀なくされていくのです。ある意味で、その象徴的出来事が額賀防衛庁長官の辞任でした。5年前の細川護熙首相の誕生で、38年間単独政権についていた自民党がその座を追われていましたが、ようやく橋本政権から小渕政権にバトンタッチされ、単独政権復帰となりました。しかし、参議院議員の議席の過半数割れで、先行き覚束ない実態を暴露したのです。

一方、公明党は、新進党に参加したものの、衆議院議員のみ全員参加で、参議院議員は半分だけ、地方に至っては全て元のままでした。その後、新進党の分裂にあって、新党平和と公明に分かれるという不規則な分裂状態にありました。こうした状況はなにかと不都合であり、元の鞘に戻ろうという動きが強まり、平成10年11月7日に、「公明」に「新党平和」が合流して、「新しい公明党(New Komei Party)」が誕生します。代表に神崎武法、代表代行に浜四津敏子、幹事長に冬柴鐵三の三氏がつきます。ちなみに、市川雄一元書記長は副代表に就任します。私は副幹事長の任命を受けました。従来の委員長、書記長というポスト名が代表、幹事長になったことに新たな時代の到来を感じさせました。

神崎公明党の新たな出発

新出発をした公明党の最初の仕事は、緊急経済対策でした。地域経済の活性化を図るために、総額7000億円規模の地域振興券(商品券)構想の実現を掲げました。これにはバラマキの極致ではないかとの批判が寄せられたものの、戻し減税的効果の意味も強く、最終的には公明党ならではの大衆福祉政策として、地域住民の支持が得られていきます。また、将学金制度や児童手当制度の拡充に加えて、緊急の少子化対策など次々と政府自民党に対しての要求を実らせていきました。予算編成権を持たない野党でありながら、掲げた「合意形成型政治」の名に恥じない闘いを展開していったものです。

また、当時大きな課題として浮上した日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法に対して、修正要求を求めて、成立に協力する方針をとりました。これは国内政治最大の緊急課題であった金融早期健全化法の成立と共に、青息吐息だった小渕自民党を救う救命ボートの役割を果たすことになったのです。加えて、組織的犯罪防止対策のための通信傍受法についても、ステロタイプ的な反権力の旗のもと旧来的な野党の反対一辺倒の姿勢を横目に、修正案を提出して成立に協力しました。こうして、国旗・国歌法や改正住民基本台帳法など国家統治の観点から重要な意義を持つ法案の修正成立など、〝合意形成の見本〟を天下に示していったのです。(2020-3-29 公開=つづく)

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【24】「金融二法」成立に公明が頑張るー平成10年(1998年)❷

新政権発足直後も銀行破綻相次ぎ、波乱止まず

小渕内閣がスタートして程なく、日本長期信用銀行の経営危機が浮上、一時国有化されたのちに、10月には経営破綻が表面化します。また、日本債券信用銀行も同じ轍を踏み、12月には経営破綻に陥ります。この年には、第二地銀の国民銀行、幸福銀行、新潟中央銀行の破綻も相次いで起きました。この当時、実は速水優日銀総裁が金融政策を決定する会合(9月9日)で、大銀行ですらデフォルト(債務不履行)を起こしかねない旨の発言をしていました。10年後の2009年1月に日銀が公開した議事録で分かったものです。

このように、金融危機は深刻化を深め、アジアの通貨危機から、火の手はアメリカに達し、ブラジルなど中南米にも波及して、「日本発の世界金融恐慌」の恐れすら懸念されていたのです。小渕内閣発足直後から10月まで開かれた臨時国会は、金融危機克服を最大のテーマに「金融国会」と称されて大騒ぎとなっていきました。この国会には、金融再生法案と金融早期健全化法案の二法案が提出されます。前者は、金融機関の破綻後の混乱を防ぐことが狙い。後者は、未然に破綻を防ぐために公的資金を投入するものでした。まず、前者については、自民党が、平和・改革(当時の公明党の衆議院での会派名)と、民主党、自由党の野党三党案を丸呑みする形で修正され、10月12日に成立しました。後者については、平和・改革の修正要求を自民党が取り入れて修正し、自民党をかなめにした与野党三党で共同修正したものを合意することができました。4日後の16日のことです。結局、野党第一党の民主党は反対に回ってしまいました。

功を奏した公明の積極果敢な政策対応

この二つの法案、とりわけ金融早期健全化法案の成立を巡る平和・改革(公明党)の動きは、紛れもなく日本の危機を救ったものとして、専門家の間で高く評価されていきます。当時、大蔵省財務官として、国際社会で〝ミスター円〟との異名をとった榊原英資氏は、後に放映されたテレビ番組で「(98年の金融早期健全化法案成立について)これが自民党と公明党の妥協で成立するんです。あそこで、平和・改革がいち早く賛成して(中略)、これで日本は救われたと思います。あれがなければ、日本はあそこで、ドーンと恐慌に近い状況に落ちていたと思います」(99年7月18日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」)と語り、公明党の対応を高く評価しました。

さらに、翌2000年の4月9日放映の同じ番組で、より具体的にこう発言しています。「98年の9月から10月というのは、世界恐慌直前だったと思います。日本も金融国会をやっていたのですが、あの時の行き方では、日本が金融恐慌に突入する可能性が極めて高かった。(中略)公的資金を破綻前の金融機関に早急にすべきだということで9月22日の日米会談を受けて、小渕さんは方針転換です。自民党はそれで行くのですが、公明党は野党共闘を組んでいたのですが、自民党に賛成するんです。今の自公体制の原型がここにある。(中略)自公が中心になって60兆円(金融システム安定に向けた資金枠)を用意した。これによって日本は救われたと思います。そこで、日本が金融恐慌に突入することが救われた(避けられた)んだ、ということは歴史的にきちっと検証されると思います」と。同氏はその後民主党のブレーンとして活躍されたことは周知の通り。その見通しの不具合ぶりを指弾する向きがないわけではありません。ですが、この公明党への評価は率直に事実関係を見抜いたものとして、私は彼を高く評価したいと思います。

本会議や安保委で質問。額賀長官を辞任に追い込む

この年、9月初め北朝鮮が弾道ミサイルを発射させるという事態が起こり、日本中を驚かせます。金融危機の最中でしたが、日本防衛の盲点を巡っても議論が闘わされました。さらに、装備品の調達を巡って防衛庁が背任事件を引き起こします。私は安保委員会や本会議で質問に立ち、小渕首相や額賀防衛庁長官の責任を追及しました。このうち、9月18日の本会議では、大手通信機器会社4社による装備品購入の製造原価水増しで、約20億円もの巨額のお金を防衛庁調達実施本部が受け取っていた問題を取り上げました。この背任及び証拠隠滅事件は、防衛庁の内部告発から表沙汰になったもので、同庁内部に巣くう問題の根の深さを想起させて余りあるものでした。

小渕首相は真摯な姿勢で詫びを表明する一方、再発防止に向けて最善の取り組みをすることを約束。額賀長官も低姿勢に終始しました。しかし、事態はそんなことでは収まらず、結局は額賀長官が詰め腹を切らせられることになりました。野党提出(10月16日)の問責決議案が参議院で可決、一ヶ月後には長官辞任に追い込んでいくのです。つい少し前まで、防衛庁長官だった人物を野党が一致して辞任に追い込むという、独特の〝爽快な達成感〟を味わってしまいました。私自身、額賀長官の責任を強く主張していただけに、手応え十分でした。(2020-3-25公開 つづく)

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