遂に肺結核は完治。就職には悪戦苦闘 (15)

先生との出会いの後、病のことは当然ながら親には伝えました。医者から肺結核と言われたが、大したことはない。薬飲んでるし注射もしてる、大丈夫だ、と。母は驚き、涙声でただただ心配し、オロロするだけでした。父は、お前を東京に出すと、共産党か新興宗教に入るのではないかと懸念していたが、早々と創価学会にはいってしまい、今度は肺結核になったのか、と絶句しました。夏から秋へと猛然と題目をあげ、薬を飲みつつ、下宿界隈で食べられる一番の安い栄養源・トンカツを食べまくりました。

そんな中、9月下旬頃に慶應病院で診察を受けた結果、肺の影が消えている、もう治ってる、大丈夫、との診断を受けました。看護師さん曰く、凄いねえ、入院しなさいというのも聞かないで、自宅療養で治すなんて、よっぽどうちの薬が効いたのねえ、と。思わず笑いを嚙み殺しました。発病通告から約半年、1年入院の宣告を覆して治したのですから。お題目プラス医の力の勝利です。

ちょうどその頃、10月8日に2回目の大学会が開いていただけるとの連絡がありました。病気を治した上で、先生と再会出来る嬉しさはたとえようもありません。本当に感謝しました。同期の仲間たちと、卒業記念の信州旅行をしようとの話が持ち上がって、レンタカーを借りて二泊三日の、鬼押し出し、上高地、乗鞍岳方面の野宿旅に出たのもその頃のことです。なお、当時この仲間たちで世界の南北問題を研究し、リポートに何とかまとめたことは慧眼だったと自負しています。その仲間からのちの経済学の大学教授や外交官、政治家、テレビ記者らが誕生したことも。

10月8日、二度目の慶大会。会場は信濃町の学会の建物・女子寮。カレーをいただいたあとの懇談会でした。今回は、発言したい者が募られる方式でした。「希望者!」との声のもと、みんなが手をハイ、ハイと挙げます。なかなか指名してもらえず、焦っていると、突然先生が私の方を向かれて「オー、いい顔色してる、元気になったな」と声をかけてくださいました。「ありがとうございます。おかげさまで、治りました」と元気いっぱいに答えたものです。すかさず「おめでとう。よし、飲めよ」と、先生が手元に置いてあったジュースを差し出してくださいました。ぐーっと飲み干そうとすると、「全部飲んじゃあダメ」と、取り返されました。皆大笑いです。

この日を境に、就職活動を本格化させました。ただ、肺結核の病み上がりというので、どこもまともに取り扱ってはくれません。一転、今度は就職難の悩みに襲われました。父にコネを頼み、いくつか当たりましたが、やはりマッチングは出来ません。行き詰まって悶々とする日々が続きました。

そうした折に、同期の仲間の大曽根清君と福島和宏君の二人が下宿先の深澤宅まで来てくれたのです。肺結核が治ったんだから、先生に公明新聞に入れて下さいと改めてお願いすべきだと言うのです。私は一転、自分が厚かましくも就職を先生に頼んでいたことを恥ずかしく思うようになっていました。自分には資格がないと殊勝な気持ちになっていたのです。しかし、幾たびかの応酬の末、二人の熱い激励に負けました。公明新聞に君が入らないと、将来付き合えないぞ、とまで。持つべきは友、とこの時ほどしみじみ思ったことはありません。

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僻む心に、厳しい一言 (14)

「ダメだよ。治してからだ。でないと、死んじゃうよ。そうだろ」先生は周りの幹部に、同意を求められます。「はい。そうです」と、私にとっては恨めしい声が次々に。「入れてあげるから、治せ」との答えを期待していた私は、当てが外れてしまいました。「では、次の人」と、無情にも私の番は終わったのです。

父親のいないS君にはお母さんを大事にするんだよ、と。また、落第していたK先輩には、大学はきちっと卒業しなさいといった風に、それぞれが抱えてる課題を見抜かれた上で、個別に懇切丁寧な激励を続けていかれました。凄まじいエネルギーです。ただただ圧倒されて聞いていました。ですが、その間、私はずっと、就職が出来ない、どうしようとばかり考え、先生を少し恨みながら僻む気持ちで見ていたのです。全体に目配りされながら話される先生と幾たびか目線が合いました。気落ちした私の心中を見抜かれていたに違いありません。

全てが終わって、「また会おうな。みんな元気で」と握手を求めるみんなの円陣の真ん中で、「痛いよ、強く握ると」と言われながら、なおも激励を続けておられました。少し気持ちが萎えていた私は先生を囲む輪の一番外側にいました。そこへ、「じゃあ、帰るよ」と言われて歩いてこられた先生と、輪が解けた流れの中にボーッと立っていた私と、目線が合いました。「しっかり信心するんだよ。でないと、死ぬよ」ー厳しい口調でした。すれ違いざまに言い置いて帰られたのです。身に余る激励を受けながら、甘い考えでいた私は頭から水をかけられたかのようになりました。ようやく正気になったのです。

「先生が、君にお医者さんを紹介してあげるようにと、帰り際に言われた。場所を教えるから明日行って来なさい」と、終了後に有難いお話をU大先輩から伝え聞きました。元に戻っていた私は涙が溢れるほど先生のご配慮に感激しました。

翌日、大塚にあるIクリニックへ、大先輩が書いてくれた手書きの地図を見ながら探して、行きました。なんと、着いた先は、産婦人科でした。内科とばかり思い込んでいた私は驚きました。大きいお腹をした妊産婦さんたちを横目に、診察室横の部屋に入っていくと、I女医が待っていてくれました。「驚いたの?池田先生は、私が肺結核を経験した医者だから、あなたに体験を話したうえで、アドバイスするように、って言われたのよ」と、にっこり。有難くも嬉しいご配慮でした。

劇的な出会いから約半月。U大先輩から下宿先に電話がかかって来ました。「先生からご本を君に戴いたから取りにいらっしゃい」と言われるのです。喜び勇んで本部へ。先生の『若き日の日記  第2巻』でした。その裏表紙をそっと開けると、鮮やかなペン字で、こう書いてあったのです。

「僕の青春も 病魔との戦いであり、それが転じて黄金の青春日記となった 。君も頑張ってくれ、君自身のために  、一切の未来のために 赤松正雄君  5月17日」

ーこの病気を治すのは自分のためだけではない、一切の未来のためなんだ。唱題の力を世に証明するために。もう、感激の極致でした。

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怖いもの知らずで〝体当たり〟 (13)

池田先生にお会いするにあたっては、なんとしてもお話しを直接交わしたい、ただ話を聞いているだけでなく、自分が今肺結核で悩んでることを聞いて貰いたいと強く思いました。そのためにはどうきっかけをつくるか、ありとあらゆる角度で考え、題目をあげにあげ抜きました。

昭和43年4月26日。渋谷のすき焼き屋「いろは」が会場でした。メンバーは、現役中心に約50人ほど。詰襟学生服で参加しました。先生との懇談の場面では嬉しいことに、一人ひとり名前が呼びあげられたのです。40歳の先生は輝くばかりの存在感です。力そのものに見えました。私の番がやってきました。私が喋ろうとした瞬間、先生の方から声が発せられたのです。「似てるなあ。そら、グループで歌うコーラスメンバーの人に。どうだ?」と、周りの幹部に訊かれたのです。機先を制せられた感じで私はただビックリ。あれこれと品評されたあとで、ダークダックスの“下駄さん”か、“象さん“だったと分かりましたが、私は終始、うわの空でした。

開口一番「先生、私はいま肺結核なんです」と言いました。先生は「そうか。私もそうだったよ。肺結核は汗が綺麗なんだよなあ」と言われながら、周りにいた幹部の何人かに「君も結核だろ、そう、君もだ」と。そして私をじっと見られて「みんな克服して立派になってるよ、君も大丈夫だ」と断言されました。そして、「題目だよ、今この瞬間から百万遍を決意するんだ。それからあったかいものを食べて、今日中に寝るんだよ」と優しい口調で。「下宿じゃあ無理かなあ」とも。

そのあと、「先生、私は親に結核のことは言っていません」とやや誇らしげに言いました。聖教新聞の小説『人間革命』第4巻疾風の章のことが頭にあったからです。すると、先生は「ん?どうして言わないんだ」と。「先生は親には言わない方がいいって仰ってるではないですか。『人間革命』の中で」「いいんだよ、君の場合は。もう言いなさい」「いえ、学生部長に指導を受けましたら、言わなくていいと」ーいやはや、よくぞ言ったり。怖いもの知らずです。先生は、すぐ横に座っていた篠原誠学生部長に向かって「いいんだろ。もう」と。直ちに、篠原さんは「いやあ、もう、結構です」と。

「先生、私は新聞記者になりたいんです」「なりゃあ、いいじゃあないか、勝手に」「いや、なれないんです」「ああ。そうか、肺結核じゃあ、なれないよなあ」ーその瞬間に私は「先生。公明新聞に入れて下さい」と大きな声でお願いしたのです。実は、私の前で、親しい同期の二人が、一人は聖教新聞、もう一人は学会本部に入れて下さいとお願いし、「分かった」と即決の返事を貰っていました。だから、「よし、俺も」とばかりに、私はこうお願いしたのでした。「分かった。入れてあげるよ。だから、治しなさい」との答えが返ってくるものと思い込んでいたのです。

 

 

 

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人生の師との運命の出会いへ (12)

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肺結核を発病、親に内緒の闘病生活 (11)

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日吉から三田へ、奇妙な青春 (10)

【昭和41年1月戦後初の赤字国債発行。2月全日空機東京湾に墜落。この後、航空機事故相次ぐ。5月中国文化大革命。昭和42年総選挙、公明党進出】

慶應大学の1、2年時は横浜市の日吉キャンパスに通った。早稲田沿線の鷺宮から通うと1時間を超える道のりだった。学問的には、非常勤講師として慶應に来ておられた東工大の永井陽之助、東京外語大の中嶋嶺雄のお二人に傾倒してしまった。共に本塾の石川忠雄先生(後の塾長)の招きで来られた売れっ子で、前者は『平和の代償』、後者は『現代中国論』を著されたばかり。この二人の講義に目くるめく思いで聴き入り、文字通り虜となったものである。

クラブ活動は当初、合気道愛好会に入った。紺色の袴姿に惚れ、「合気」という呼吸の間合いを活かしたいと思い込んだのだが、結局は3ヶ月ぐらいで退会してしまった。準備のランニングに音をあげてしまったのである。加えて、創価学会学生部活動が忙しくて、クラブ活動も、当時の多くのクラスメイトが取り憑かれていた麻雀にも、見向きもせず、都内を西に東に走り歩いたものである。

日蓮大聖人の仏法を勉強するつもりで気軽に入った私だったが、様々な会合に出て多くの先輩に出会う中で段々と深みに嵌っていった。真っ先に姉を折伏した。家庭と子供の問題で悩んでいた姉は直ちに入会した。私の折伏第一号である。更に、信仰の真髄を覚知するには題目と同時に折伏をする必要があると知って、遮二無二友人達に挑んだ。慶應に一年前に現役で入学していた高校時代のY君や、クラスメイトのO君、中高大と同期のA君、そして高校同期の東大のY君兄弟らといったように、次々と折伏し、入会に誘った。私より3ヶ月後に入会した姉は、初心の功徳を得て、見る見る明るくなっていき、家庭の問題も解決した。これには心底驚き、嬉しかった。これが初信の功徳だと実感できた。

一方、中学時代の友人の西園寺健弘君(故人)から誘われて財団法人「天風会」にも入会した。文京区護国寺にあった本部で、ご健在だった中村天風先生に出会ったこともある。一年生の夏に六甲山で開かれた鍛錬研修会に参加して、クンバカハ法や思念力の強化など取り組んだりしたが、先輩から「利根と通力によるべからず」と諭されて、やがて辞めた。

フランス語を第二外国語として選択していたものの、全く勉強せず、福澤諭吉先生の孫である福澤進太郎教授から、このままだと君は赤点だぞと言われ、落第に怯えたものだ。英修道、加藤寛、中村菊男、小田英郎先生ら今に蘇る先生の顔は思い浮かぶもののしっかり勉学に励んだ記憶はない。同じクラスから、小此木政夫、梅垣理郎と二人もの法学部教授がのちに誕生したのだが、この二人を始めとする優秀な仲間たちに比べると、私は完全な落ちこぼれの学生だった。だが、胸には確かな充実感があった。昭和40年4月から42年12月まで奇妙な青春の3年間だった。だが、12月に驚天動地の重大なことが起こった。

※大学時代のことは、クラスメイトの小此木 政夫(慶大名誉教授)との、電子書籍対談本『隣の芝生なぜ青く見えないか』と、同じく梶昭彦(元日本航空取締役)との『君は日本をわかっていない』(共にキンドル)の2冊が詳しい。

 

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大学入学と同時に創価学会に入会 (9)

一浪したあとの昭和40年の大学入試では国立、私立とあちこち受けたものの、片っ端から落ちてしまった。受かったのは辛うじて慶應義塾大の法学部政治学科のみ。父母は合格したと言っても最初は信じなかったぐらい。よほど諦めてたのかも。おまけに、慶應ってどんな大学か二人とも知らなかったというのだから、恐れ入る。あとで、入学金や授業料が高いと知って驚くのだが、時すでに遅し。ともあれ、3月に上京、まず下宿を探すことに。前述の志村君を頼って、彼の下宿先の中野区鷺宮の深澤宅に向かった。

この深澤さんとの出会いが運命の別れ道となった。この人・深澤久恵さんは昭和2年生まれ。当時38歳。小学校の先生をしていた。夫君とは離婚、男女二人の子供を育てていた。創価学会婦人部のバリバリ。志村の借りていた4畳半の 離れに、到着した夜、早速やってきた。折伏に、である。あれこれ議論した末、明日二人の合格祝いをしてあげる、とのことで、その夜は物別れになった。

翌日、二人はボウリングをしたりして、夕方下宿に戻った。母屋の玄関には一杯の靴。大勢の老若男女が集まっていた。なんのことはない、創価学会の座談会の場に舞い込んでしまったのである。話が違うと、私は色をなした。いや、終わったらね、と深澤さんは笑いながら隣の部屋の襖を開けた。お膳に夕食の用意がされていた。もう、観念するしかなかった。それから約2時間。人は過去からの宗教で、如何なる人生を歩むかは方向付けられているとの観点で、攻められた。四箇の格言である。浄土真宗(一向宗)の家に生まれた私は、優柔不断で、無間地獄に堕ちる、と。一方、法華経はいかに凄いか、といった賛嘆する話が体験談の形で参加者から次々と語られた。

実姉の抱えていた家庭不和の課題や自分の内向的性格から、思い当たる節が無きにしもあらずだった私は、これからの人生が宗教的理由で予め決められているということを認めることは到底出来なかった。そこへ、貴方は何になりたいの、と深澤さんが訊いてきた。私は間髪入れず、新聞記者に、出来れば海外特派員になりたい、と言った。それに対し彼女は「なれるわよ!」と即座に。創価学会は校舎なき総合大学と言われてるのだから、新聞記者に必要な素養は入れば身につくのよ、という。あまり論理的ではない言い回しだったが、確信溢れるこの人の言い方に、私は試してみようかという気が少し起きて来た。

人生は、生まれながらにして、絶対的に不平等であるー肉体的、精神的に差異があるのは何故かーとの根本的な問題意識を持っていた私は、日蓮大聖人がどういう経緯、思索を経て、法華経が、そしてその究極のエッセンスとしての南無妙法蓮華経が、絶対であるとの結論に到達したかを知りたくなったのである。つまり勉強してみようという気になった。その時に深澤さんがやってみようよ、って手を差し伸べてきた。その瞬間に握り返した握手が、皆からの拍手に代わった。

【昭和40年2月、防衛庁極秘文書「三矢研究」が国会で問題化。6月日韓基本条約。8月佐藤首相戦後首相として初の沖縄訪問。この年、米国のヴェトナム爆撃が本格化。ベ平連の反対デモも高まる】

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輝く受験浪人時代の昭和39年 (8)

【昭和39年(1964年)は東京五輪開催の年であり、東海道新幹線が開通した年でもある。のちに日本社会変革はここから始まったとも言われる記念すべき年。約8年続く佐藤栄作内閣もこの年の11月にスタート。世界的にはソ連・フルシチョフが失脚し、ブレジネフ時代へ。中国が初の核実験に成功した】

昭和39年初頭は大学受験に悉く失敗し、一年間の受験浪人を余儀なくされました。当時の心境はこれを機会に、翌40年の受験では東京へ出ようとの思いが強まっていました。甲南予備校という名もない寂れた予備校に通いましたが、ここは学生運動に片足突っ込んでる者やら、バイト生活に余念のない奴とか、受験高校出身はごく僅かという、要するにあぶれ者の集まりといったところでした。ここで受験勉強一筋とは縁遠い妙な一年を過ごしたのですが、親の脛を齧ってるだけの自分が恥ずかしくなり、夏以降は早朝に新聞配達のバイトをしました。せめて受験料だけでも稼ごうという殊勝な心になったのは、この予備校での友人たちの姿を見たおかげです。

一方、中学時代の友人の志村勝之君が東京へ出て、一橋学院なる予備校に下宿して一橋大学を目指したというのは発奮材料でした。よし俺も、という気にはなったものの、前途遼遠です。焦る思いを抱きながら机に向かった時に、近所に住むのちの宝塚歌劇の大スター・鳳蘭の歌声が聞こえてきたというのも不思議なことでした。彼女の母親とわたしの母が親しかったようですが、当人同士は顔を合わせたことはなく、彼女の大きな鼻歌めいたものを一方的に聞くだけで、遂に無縁のままでした。

志村君が夏に帰郷してきた時に、東京の話を聞かせてくれと、垂水の喫茶店で会いました。その時に、彼から下宿先のおばさんに創価学会の話を聞かされた(折伏を受けた)と打ち明けられました。彼は大学に入るまでは、と言って断ったとのことでしたが、「お前は将来入るのではないかとの予感がする」と言ったのです。数ヶ月後にその通りの展開になるのですが、この時はそんなことあるもんかと聞き流しました。

印刷したてのインクの匂いを嗅ぐのが大好きだったわたしは、必ずや将来は新聞記者になって記事を書くようになろう、出来れば、海外特派員になるんだと、未来への夢を育みました。それでいて、地に足つけた勉強は手につかず、高校時代から引きずった倉田百三『出家とその弟子』やら阿部次郎『三太郎の日記』などの文学や、実存主義の哲学などに興味を持って、松浪信三郎の『実存主義』や『サルトル』に手をつけたりしていたのですから暢気なもんでした。

 

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本物に触れた長田高校での三年間 (7)

戦争の年に生まれて15年あまり。昭和36年4月に神戸市長田区池田にある長田高校に入学しました。小学校を卒業する頃に私立灘中受験に失敗、後年、大学も次々と落ちて浪人を余儀なくされた私が唯一すんなりと合格出来たのが高校受験だったのです。この3年間は、日本の高度経済成長の上昇期と符合しており、大いに青春前期を満喫しました。とはいえ、根が真面目に出来てる私ゆえ、別に羽目を外したわけではありません。ジェームス山の家から山陽電車に乗って東へ。西代駅から高校への通学路を往復しただけの日々でした。

今何を思い出すかと問われると、第一に一流の講師陣による講演に接したことです。恐らく企画を決断したと思われる厳格そのもののお顔をされた岩佐修理校長とともに、猪木正道(京大教授)、大森実(毎日新聞記者)、五十嵐喜芳(オペラ歌手)、平岡養一(木琴演奏者)氏らの話や演奏に直接触れたことは後の私の人生に強い影響を及ぼしました。特に猪木さんの「米ソ冷戦構造」にまつわる解説は、国際政治への強い関心を持たせましたし、母校の先輩(旧神戸三中出身)大森さんの「ベトナム戦争」を巡る報道についての講演は、私に新聞記者になりたいとの希望を募らせました。若き日に本物に触れることのかけがえのなさだと思います。

第二に、生徒会活動です。私は書記をやったに過ぎませんが、仲間たちとワイワイ言いながら、フォークダンスの企画等に興じたことが思い出されます。当時の担当教諭だった林歳明先生が猛烈な愛煙家で、お箸で短くなった煙草をつまみながら吸っておられたことが印象的でした。第三に、英語部(ESS)に所属して、暗唱大会(兵庫高校との対抗戦)に参加、その時覚えたリンカーンのゲティスバーグ演説はいまだにほぼ全文口ずさめます。尤も、それは殆ど余興の領域のことなのは、お笑い草です。

修学旅行での九州までの瀬戸内海の船旅は生涯忘れられぬものして今に鮮明です。神戸港から別府港まで、夕焼け雲を追って小島を縫うように滑っていった船の旅は、我が人生の輝けるプレリュード(前奏曲)でした。別府の地獄めぐり、熊本・阿蘇山の草千里、宮崎・日南海岸、鹿児島・桜島を経て、西鹿児島駅からの列車旅、どれもこれもが懐かしい思い出です。

長田高校時代の我が勉学の所産は、理数系が苦手で、文系で辛うじて贖えることが出来る程度でした。三年生時に、優秀な女性連中と一緒のクラスに編入されたことは屈辱感を持って今に蘇ります。男子で理数系の良くできる連中との差別化は、教師陣への恨み心をもたらせました。立派な先生たちだったことを後年知るにつけ、我が身の不甲斐なさを思い知ったものです。

※高校時代の様々な思い出は、同期の高柳和江(笑い塾塾長、元日本医大准教授)と飯村六十四(内科医)両氏との鼎談・電子書籍『笑いが命を洗います』(キンドル版)に譲ります。それなりに面白い内容だと自負しています。

【昭和35年7月の岸内閣総辞職を受けて成立した池田勇人内閣は以後、39年10月まで続く。この間、経済的成長の影で、公害問題と住民運動が勢いを増す。世界的には、キューバ危機(1962年)で震撼】

 

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「安保」騒ぎに胸躍らせた中学生時代 (6)

【昭和33年日米安保条約改定に向けて第一回の日米協議。警職法改正で混乱。昭和34年11月全学連と労組員ら国会乱入事件。昭和35年1月新日米安保条約調印。同年6月に成立。この間、反対運動が空前の規模で。東大生・樺美智子さんの死。一方、U2型機スパイ飛行機事件。米ソ対決の空気高まる。同年7月に岸内閣退陣、池田勇人内閣へ。】

昭和33年4月に神戸市立垂水中学校に入学。入学式の日に満開だった校庭周辺の桜は忘れられないほど見事なものでした。塩屋駅から電車に乗ること10分、垂水駅を降りてから高台にある学校まで歩いて30分ほど、家から小1時間の通学は初めての体験。帰校時に垂水銀座の商店街にあった小さな書店に立ち寄ることが楽しみでした。若い夫婦二人が初めて出店されたもので、その熱心な仕事ぶりが子供心に印象深いものでした。後年、歳とった店主と思い出を語り合ったものです。

学校生活では、昭和35年に生徒会長に選ばれました。最大の思い出は、隣接する朝鮮人学校生とのトラブルを解消するために両校生同士で協議会を持ったこと。新聞に報道されるなど、チョッピリ話題になりました。昭和34年の伊勢湾台風を巡って校内弁論大会で二位に(優勝は女性徒)なったことも。また校庭隅に土俵が併設されたことを記念して、大相撲の立浪部屋一行が来校、記念校内対抗相撲大会が開かれました。取り組み中にある友人のマワシが外れ、大事なものが露出したことが忘れられない出来事です。瞬時、初恋の女性に自分のを見られた気がしたのは、切なくも面白い思い出です。

初めての英語の勉強に胸ときめかせ、必死に取り組み、親に録音機を買ってもらい勉強したものです。三宮のYMCAに行って学んだことも。おかげで発音には自信がつきました。一年時の担任が音楽、二年時が英語、三年時が社会を専門とする教諭でしたが、音楽だけが三年間を通じて評価が5にならず、悔しい思いをしました。しかし、卒業寸前に遂にオール5になったことは忘れられません。これはもう音楽の隅田先生のお情けだったと確信しています。

英語と数学は垂水におられた他校の先生のお家に行き、「家庭教師」をしてもらいました。特に数学は苦手な科目でしたが、清土和夫先生の人間味溢れる抜群の教え方で、そこそこ力がつきました。私含め4人の生徒(うち2人はすでに他界。勿論先生も)が到着する前に、机の上に鉛筆が綺麗に削って並べてあったことが鮮やかに蘇ります。

この頃テレビが我が家にも。それまで隣家の竹中恒夫邸(後に参議院議員=2期=になった日本歯科医師会長)に大相撲など見せて貰いにいっていましたが、それが自宅で見られる喜びたるや大変なものでした。また、我が家に泥棒が入る騒ぎがあり、母が縛られ幾ばくかのお金が取られました。勿論、新聞沙汰でしたが、危害はなく無事で安堵しました。更に父が伝染病に罹り入院するなど多事多難の時代でした。

昭和35年ー15歳となる中学校三年の頃は、日本中が「安保改定」で大騒ぎでした。当時反権力の象徴だった『朝日ジャーナル』を買って、読む真似をしてみたり、旺文社の大学受験講座のラジオ講座に耳を傾けもしました。昨今、作家・佐藤優さんが書いて話題を集めている『十五の夏』には遥かに及ばない私のかわいい背伸びの季節です。私の夏は家で海水パンツに着替えて、ジェームス山の家から一目散に塩屋の海岸に駆けつけて飛び込んだことぐらいです。

※中学校時代のことについては、畏友・志村勝之君との対談電子本『この世はすべて心理戦』(キンドル版)の中に、ちょっぴり書いていますので。

 

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