第三部 始めるにあたって

平成24年(2012年)末の衆議院選挙に出馬せず、引退をしてから8年ほどが経ちました。この回顧録もその時点(平成24年末)で終了することにしていました。しかし、平成の残り期間を放置していては、『回顧録』も尻切れ感は否めないと指摘される向きもあり、続きを読みたいとのお声もそれなりにあって、方針を変えることにしました。第一部が衆議院議員選挙に出るまでの40数年間、第二部が初出馬から落選を経て政治家として生きた25年間を対象にしていました。第三部は、とりあえず、平成の終わりまでの残りの6年ほどを描くことになります。

この期間はちょうど安倍第二次政権とほぼ重なっています。年齢的には68歳から74歳まで。いわゆる前期高齢者から後期高齢者までの時代です。衆議院議員を公明党の内規によって定年退職してからの時間をどう過ごしたか。一般的には興味を持っていただくだけのものではないかもしれません。しかし、「日常的な奇跡」はそれなりに続いています。政治家として第一線は退きましたが、その後の動きへの興味は当然ながらあり、消えた老政治家のその後の軌跡を描き留めおくのも一興か、と思い直しています。

新型コロナ禍の蔓延は、現代文明を根幹から動かそうとしています。その一大転換期に立ち会えたことを、喜びたいとの思いが私には否定できません。この壮絶な時代を知らずに、一足先に今世から来世へと、〝あちらの世界〟に行ってしまった、親しかった先輩や仲間たちに、伝えたいとの思いもあります。その辺りは、令和編になるのでしょうが、とりあえず、平成最後の数年間をどう生きたのか、をありのままに残す責務が、ジャーナリストの端くれから政治家になり、そしてまた自由なもの書きの立場に戻った私にはあるように思われます。

現役政治家時代を扱った第二部と違って、手元に十分な資料もないので、執筆、公開にはいささか時間がかかるかもしれませんが、何卒ご容赦をお願いします。(以上 2021-1-10記す)

第三部 始めるにあたって はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

★お知らせ

回顧録『日常的奇跡の軌跡』については、昭和20年(1945年)から、平成24(2012年)までを書いて、終わりにしていました。衆議院議員を引退し、公的な役割を終えたから一区切りだと思ったのです。ただ、平成の時代はその後7年ほど続いており、この期間を空白にしておくことは、おさまりが悪いとの思いもありました。続きを読みたい、もっと書けとの親しい友人たちの声もあり、新しい年から再び、我が「軌跡」を追うことにしました。現在、新型コロナウイルスの蔓延という事態が地球を襲っています。人類にとって、文明にとって大きな転換期だと思われます。心騒ぐものがあります。しばらくの準備期間を経たのちに、改めて執筆を開始します。このコーナーにお目見えするのはいささか時間がかかると思いますが、お待ちいただければ幸いです。

★お知らせ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【101】終わりに

●「政治家が書いていいのは回顧録だけ」
私が初めて本を出版した(『忙中本ありー新幹線車中読書録』2001年)とき、先輩代議士の市川雄一さんから「政治家がものを書くのは、回顧録のみ。あとは書くべきではない」と注意されたことを覚えています。当時は反発心を抱いたものですが、確かに一般的には、書くという行為は行動する意欲を削ぎがちで、どうしても評論家めいた立ち位置に人を追いやりかねないようです。

今、平成の元年から24年までのあしかけ25年の自身の足跡を思いやった時に、新聞記者としての視点が抜き難くあることに改めて気づきます。現役の頃に、私はせっせと、国会での動きをリポートし、ブログとして公開、読んだ本を読後録として書き留めてきました。それは書く力や考える力を培いはしましたが、政治家としての力量を高めることになったかどうかといえば、大いに疑問でしょう。また、市川さんはしばしば、政治家は何をしたかどうかだ、何になったかではないとも言われましたが、つくづくその通りだと実感します。

20年間の現役期間というものを、懸命に生き抜いてきましたが、政治家としての実績は極めて乏しいことを認めざるを得ないのです。それは私が外交や防衛という国家の安全保障にまつわる分野を主たる仕事とし、憲法論議に力を注いできたことと無縁ではありません。どちらも簡単にゴールに到達出来るほど奥行きは浅くないのです。結局、大きく誇れるものを成し遂げられなかったことにいささか無力感を感じます。

「失われた20年」と呼び習わされる時代と、私が現役だった年数がほぼ重なることも残念ながら事実なのですが、時代のせいにしてはズルイでしょう。

●中道主義の本領発揮

私が議員を辞めた後、再び総理の座に返り咲いた安倍晋三さんが7年8ヶ月の務めを終えて、辞任しました。第二次安倍政権の時代がそっくり私の現役政治家引退後のそれと、またダブルのです。菅義偉新首相にバトンタッチがなされたその日に、私の100回に及ぶ回顧録平成編が終わりました。いい区切りとなりました。

昭和の時代には政治家という職業に、憧れる少年たちは決して少なくはありませんでした。昭和の20年代に小学校に入学し、30年代の終わりに高校を卒業した、私もその一人でした。あれから60年余。残念ながら、今の子供たちにとって政治家は、忌むべき存在ではあっても、尊敬の対象となるものではないようです。そのことに関与してしまい、むしろ加速度をつける役割を果たしてしまった一人かもしれないことに、忸怩たる思いがあります。

これから先、政治家に復活のチャンスはないのでしょうか。未来永劫にわたって潰えたままの状態が続くのかというと、そうではないと思います。政治家が活躍し、一般大衆から喝采を浴びるのは乱世、改革が求められる時代なのであって、非難の対象であるのは、平時、安定の時代の証拠かも、との思いがよぎります。

公明党は創立者池田大作先生の、想像を絶する深くあつい思いを背景に誕生しました。青年前期の私は先生の民衆救済を叫ばれる獅子吼に呼応し、後に続くことを深く決意しました。創立するまでは責任を持つが、後は弟子たちの自在の後継の戦いに任せる、と言われた先生。その思いに応えていく戦いは未だ道半ばです。

●新型コロナとの戦いにこそ真価問われる

自民党政治を外から変えることに執念を燃やし続けた昭和の公明党。平成になって、一転公明党は自民党政治を内側から変えるべく、連立政権に身を委ねてきました。果たして、今の自公連立政権下の政治が民衆・大衆の観点から見て、満足するに足るものかどうか。常に問い続けていかねばならないと思います。

令和の時代の本格的出発と同時に、新型コロナウイルスの蔓延という事態に直面しています。これを乗り切り新たな展望を開きゆくことこそ、今の政治に期待されているものです。安定だけを求めてきた平成末期の行き方から脱却せねばなりません。「安定の上に立った改革」こそ中道主義の力の発揮しどころと決めて、公明党には頑張ってもらいたいものです。

新聞記者から政治の現場に飛び出して25年。再び、市井の政治ウオッチャーに戻って8年足らず。人生最終盤のこれからの日々を、若き日に池田先生から受けた薫陶の言葉ー青年は心して政治を監視せよーを再び銘記し、〝革命未だならず〟の思いを胸に、ゆっくりと着実に歩き続けたいと思っています。

回顧録を終えるにあたり、これまで私を育ててくださった故郷・兵庫、関西の創価学会の皆様をはじめ、関心を持ち励ましてくださった、各界の友人、有権者の皆様方に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。(2020-9-19公開 完)

 

 

【101】終わりに はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【100】〝らしさ〟貫いた20年ー万感の思い込め引退の挨拶ー平成24年(2012年)❽

●議員としての最後の日々

「一度やらせてみたら」の結果は惨憺たるものでした。民主党政権の3年間が如何なるものであったかは今後長きにわたって語られると思います。健全な二大政党による政権交代が適宜行われる政治を望んできた私のような人間にとっては、極めて残念な結果でした。これで、旧民主党の流れを汲む勢力が政権の座につくことは、近い将来には難しいだろうと思われます。

今回限りで現役を退くことを表明してから、約2ヶ月というもの、総仕上げの思いで、あれこれと語り、動きまわりました。10月10日には、冬柴さんの後継・中野洋昌候補の時局講演会に出席するため、尼崎へ国会から往復しました。彼は東大法学部を出て、国土交通省に2001年に入った逸材です。省庁再編後の第一号入省。私が初の国土交通委員長をやった年に官僚になったわけです。若き俊英が後を継いでくれ、冬柴さんも草葉の陰でさぞ喜んでおられるに違いないと思った次第です。

11月2日には私の近畿比例区ブロックにおける後継の候補者・濱村進さんと姫路市内4カ所で街頭演説をやりました。生まれて初めての体験と言いながら、堂々たるもので、即戦力との期待に十分応えるだけの力を感じました。彼は関西学院大総合政策学部を出て、野村総合研究所で活躍していました。ラガーマンでもあり、智勇兼備の現代青年というに相応しい人物。初出馬から当選まで4年あまりかかった私からすると、出馬表明から僅かな時間しか経っていない彼には、とても感慨深いものがよぎりました。

翌3日には、神戸慶應クラブの皆さんを中心に開かれた「赤羽一嘉君を励ます集い」に出席しました。ゲストスピーカーに石破茂自民党幹事長を迎えての慶應同窓の集いとあって、全国から多数の懐かしい友が駆けつけてくれました。石破さんとは、かつて新進党で同じ釜の飯を食った仲。赤羽さんは私より13年下。未だ未だ春秋に富む強者でこれからが楽しみ、と思いましたが、その通りに成長を遂げ、今では国土交通相になっています。大したものです。

●衆議院解散の日に仲間の前で挨拶

11月16日に衆議院は解散されることになりました。最後の本会議前に開かれる代議士会で、引退議員が恒例によって挨拶をします。坂口力大先輩、大学同期でずっと一緒に議員もしてきた遠藤乙彦さん、近畿比例ブロックで一緒だった西博義さんらと共に、急ごしらえの縁台に立ちました。この時の私の挨拶は、同日付けのブログに書いていますので、引用してみます。

【もう少しで、ぶつかるところでした。新米公明新聞記者として、国会で廊下トンビをしていた私が、前をしっかり見ずにエレベーターを降りて直ぐに危うく接触しかけたのは、佐藤栄作首相だったのです。文字通り、権力に最も私が近づいた瞬間でした(笑)。それから30年あまり、今度は権力の方から近づいてきました。小泉純一郎首相が私に、廊下で声をかけてきたのです(笑)。

公明新聞記者から社会人生活を始めて、衆議院議員を6期20年務め、このたび引退するにあたり、こうしたギャグっぽい話から始めることをお許しください。佐藤栄作と小泉純一郎。戦後の総理で、最も長く在任していたのが、前者の佐藤さんで、約7年8ヶ月。後者の小泉さんは、約5年5ヶ月で第3位(ちなみにその間に位置するのは吉田茂で約7年2ヶ月)。この二人は、戦後政治を牛耳ってきた自民党の中興の祖と、それをひとたび瓦解させた張本人。昭和44年に私が記者として国会担当をした当時は、佐藤さんはもう終幕に近い頃でした。一方、小泉純一郎首相の最後の内閣で、私は厚生労働副大臣として僅か一年だけですが、その任につきました。

実は戦後から昭和の終わりまでの43年あまりのうち、その4分の3を占める32年間は官僚出身の総理大臣の時代でした。その象徴の一人が佐藤栄作さんでした。その後、平成になって、官僚出身に代わり世襲政治家がトップに立つケースが多くなりました。言うまでもなく、小泉さんは3代目の世襲政治家です。宮澤喜一首相のあと、東大ー官僚出身の宰相は絶えて久しいのです。先頃の自民党の総裁選挙の候補者5人が全員世襲政治家だったことは、記憶に新しいところです。

私が現役を終えるにあたりまして、過ぎにしかたを一言で総括しますと、55年体制が崩れゆく時代だったといえます。その体制下の主たるプレイヤーは自民党と社会党です。社会党は公明党の先輩世代の皆さんの力でほぼ消滅して、古い自民党は小泉さんの力で一度は壊れました。今再生過程にある自民党が、いかように生まれ変わるかどうかは、これからのお楽しみというところでしょうか。

民主党は、古い自民党に変わり得る勢力として、官僚政治打破を掲げて、擬似的大衆政党として華々しく登場し、政権を奪取しましたが、その結果は見るも無残なものでした。官僚出身と世襲政治家が混在して、過去の出身政党の分布を見ても、あらゆる勢力が自民党潰しへの欲求のみ共有して、雑居してきました。これでは今のようになるのは必然だったといえると思います。

これからの日本をどうするか。新たな方向性が未だ見えない中、真の大衆政党たる公明党の存在感が一段と注目されています。断じて、大衆迎合、ポピュリズムに陥ることなく、新たな日本の政治の展望を開いて行って欲しいと思います。一時代の終わりと共に、去りゆくことは寂しくないと言えば、嘘になります。めくるめく新時代を新たな視点でウオッチし続けることは決して面白くないわけではない、と申し上げて私のご挨拶といたします。】

今手元にあるこの時の写真を見ますと、左隅に市川雄一常任顧問の後ろ姿が写っています。改めて、この人を前にして、よくぞ喋ったなあ、と我ながら感心します。幸せなことに表情は分かりません。

●再び政権奪還を果たす

衆院選は12月16日投票となりましたが、自民党が単独過半数を上回る294議席を獲得。公明党は公示前の議席を10も超え、31議席となりました。小選挙区が前回のゼロから9議席に、比例区が1議席増の22議席を獲得したのです。公明党の比例区の総得票数は、投票率が戦後最低で、12もの政党が乱立したこともあって、前回より100万票ほど減らし、7116474票。しかし、得票率は11.83%と前回を0.38ポイントほど上回りました。

民主党は、なんと57議席に激減。「懲罰投票」とまで言われる厳しい結果になりました。この選挙結果を受け、12月26日には自公連立政権合意がまとめられ、経済再生と東日本大震災からの復興を最優先とする取り組みがスタートすることになりました。翌26日には第二次安倍晋三内閣が発足、太田昭宏さんが国土交通相に初入閣することになります。

投開票日と翌17日の午前は地元で、お世話になった関係各方面に緊急のご挨拶をしたあと、午後から上京し、21日まで国会議員会館の事務所、議員宿舎の部屋の片付けにおおわらわでした。東京での20年に溜め込んだ書物は、政務調査会やら国会関係の各部署、お世話になった省庁の若手メンバーなどに、全部持っていってもらいました。その数は恐らく、2483(初出馬・次点時の足らなかった票数)冊よりは多かったのではないかと推測しています。(2020-9-17公開 つづく)

 

 

 

【100】〝らしさ〟貫いた20年ー万感の思い込め引退の挨拶ー平成24年(2012年)❽ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【99】中道主義の旗掲げ続けた「公明党の50年」を検証ー平成24年(2012年)❼

●社会保障と税の一体化で三党合意

約3年間の民主党政権で、辛うじて評価の対象となるのは野田首相だけとは衆目の一致するところです。それは、6月15日に民主、自民、公明の三党で合意を見て、8月10日に成立した、消費税率引き上げを柱に、社会保障と税の一体化を目指した「一体改革法」の成立にあります。この成立経過を追うと、肝心の政府民主党が党内をまとめきれず、むしろ公明、自民に助けられて、事が成就した流れが分かります。尤も、消費税率引き上げがテーマだけに、公明党も最後の最後まで随分と苦労しました。

一体改革関連法案については、社会保障制度の全体像が示されていないうえ、低所得者への消費増税対応もなされていませんでした。このため、当初は社会保障を置き去りにした増税先行法案であると、公明党も反対の姿勢だったのです。しかし、国家的見地に立てば、党利党略的対応は許されません。自民党が政府との修正協議に応じる判断を決めたあたり(6月7日)から、方針を転換しました。民主と自民の談合対応を許さないためにも、公明党も交渉のテーブルに乗り、その主張を盛り込む方が得策だと考えたのです。

交渉の結果、公明党は「軽減税率」実施を盛り込むことに成功します。一方、民主党提案の、保険料を払っていなくても、税負担で月7万円支給するという最低保障年金を軸にした新しい年金制度は断念させました。併せて後期高齢者医療制度の廃止という民主党の目論見も取り下げさせました。共に非現実的政策対応だったからです。

この交渉について、私は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」との故事に因んだ対応だとして、様々の場面で訴えていきました。これが結果的に三党が合意に至った珍しいケースとして評価されていくことになるのです。

●卒論としての『公明党の50年ーその立ち位置の変遷と今後を探る』

この年の理論誌『公明』12月号に私は上記のタイトルで論文を公表しました。公明党の議員として総仕上げの思いで書き上げました。いわば卒論でしょうか。昭和39年(1964年)に結成された公明党がやがて50年の区切りを迎えるにあたり、総括しておこうと思い立ったのです。

前半は福祉社会の構築に向けての公明党の闘い、後半は外交安全保障分野でのものを振り返っていったのです。結党時の草創の先輩たちが、創立者池田大作先生の「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との指針を受けて、高度経済成長の波間で取り残された、大衆を救済する戦いこそ、「福祉の公明党」の名を高からしめるものとなったことを後付けました。

政局的選択として、80年代の「社公民」連立政権構想から、自民党を倒すための新進党結成に尽力し、外からの「自民党政治」改革に取り組んだ90年代。そして21世紀前後からの、自民党と連立を組んでの「内からの変革」。文字通り「手を替え品を替えての悪戦苦闘」だったことを明らかにしています。しかし、50年が経った今、眼前に広がる風景はどうかといいますと、「素晴らしき新世界」が広がったわけでなく、民・自のリーダー不在の中で、経済格差に喘ぐ最貧者の存在があります。変わらざる風景、「されど我らが日々」です。

これを変えるため、もう一度「新しい福祉社会」の構築に立ち上がろうと呼びかけています。要するに、50年経っても基本的には公明党の戦いは変わらない、眼前に苦しむ大衆救済に、「今再びの戦い」に立ち上がらねばならないことを強調したのです。

外交・防衛については「米ソ対決の脅威」から50年ー「北東アジアの不安定と中国の台頭」という国際情勢の変化に脅かされている現実を描きました。かつての不毛のイデオロギー対決に翻弄された日本から、外交力なき迷走へと変質した姿を追う中で、PKO(国連平和維持活動)などの国際貢献に尽力した公明党の戦いを宣揚しています。行動する国際平和主義こそ「平和の党」の実態であるとの認識は、一般的な評価に耐え得るものとして強く確信しています。

●朝日新聞コラム『政治段簡』にけしかけられる

「中道の公明ー一言あってしかるべし」ちょっと目を引く見出しで、11月11日付けの朝日新聞4面のコラムにまたもや私が登場しています。書き手は根本清樹編集委員。『公明』が発刊されてまもない頃、これを読んだ上で、根本さんがタイミングよく、当時の政治状況を睨み据えて取り上げたのです。

「解散風が強まる永田町で、このところ頻々と語られている言葉がふたつ。「第三極」と「中道」である」との書き出し。このふたつは共に公明党に由来する用語だという点で共通する、として「元祖、本家は公明党である」と繋げています。というのは、当時、橋下徹氏の「日本維新の会」の動きや、石原慎太郎都知事の新党がどんな極を作るのかが話題を呼んでいました。これに安倍自民党がどう関わるかを巡り、民主党が結党の理念である「民主中道」を持ち出したため、にわかに「中道論争」が起こったと、問題を提起したのです。

論考の中で、根本さんは、公明党が中道という「三極の中の一極」から、自公対民主の二極の一方を担ってきた経緯を追ったのち、「元祖第三極はいま、安倍自民党や新第三極の右への傾きぐあいに目を凝らす」と、運ぶ。そこで、私を登場させ、こう展開しているのです。

「当選6回、今期限りで引退する公明党の赤松正雄衆院議員は最近、『公明党の50年ーその立ち位置の変遷と今後を探る』との論考をまとめた。赤松氏は語る。安倍自民党の路線が先鋭化するなら『公明党はやはり一度たたずむ必要がある。大きく時間をとって、路線を変える場面に遭遇すると思う』」。

根本さんは、自身の論考の結論部分で、安倍自民党総裁が「(民主党の)中道はしょせん選挙戦術であって、政治家の理念でも哲学でもありません」としていることに触れて、矛先は民主党であっても、「中道主義そのものへの評価」だから、「ここまで言われては、本家中道からも一言あってしかるべし」と、公明党をけしかけているのです。

私はこの根本『政治断簡』が出た直後のブログ(11月14日号)で、ちょっぴり苦言を呈しています。「このコラムが出る前に、井上義久党幹事長が記者会見で文字通り、中道論議に一言提起した。その意味では、このコラムの中身はいささかズレていると言わざるを得ない。少なくとも、一言あったが、物足りないとか、遅すぎるとの記述がないと、おかしい。加えて、このコラムには肝心要の公明党が主張してきた中道論の定義が欠落している。これでは画竜点睛を欠くという他ない。」と。

先の私の記述は、仮に安倍自民党の路線が先鋭化する(右傾化を強める)なら、公明党は、路線を変える、つまり、保守・中道路線から単独の中道路線に戻るかもしれない、と言ってるのです。中道路線を捨てて、保守路線に合体するわけではなく。ここらあたりが一般読者に誤解を与えかねないと思わないでもありませんでした。

ただ、私の「卒業論文」を、朝日新聞紙上でここまで宣伝していただいて文句をいうのは贅沢というものです。根本清樹記者(現・論説主幹)からの、〝餞(はなむけ)〟だと有り難くお受けしたしだいです。この20年というもの数多の記者と付き合ってきた結果としての得難い記念碑、いや墓標となりました。(2020-9-15公開 9-16一部修正 つづく)

 

 

 

【99】中道主義の旗掲げ続けた「公明党の50年」を検証ー平成24年(2012年)❼ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【98】〝王国助け〟に貢献するという離れ業ー平成24年(2012年)❻

●沖縄タイムスで「オスプレイ」インタビュー

私は沖縄を一地方自治体として扱うのではなく、準国家的に位置づけよと主張してきました。いささかオーバーな表現ですが、これくらいのことをしないと、この問題は一歩も進まないのです。無神経な米軍の振る舞いは、危険極まりないオスプレイを否が応でも押し付けてきたことにも現れています。沖縄タイムスが「オスプレイへの対応」をテーマにインタビューをしたいとのことでした。9月5日付けに出たものから抜粋します。

【ー米軍普天間飛行場問題の基本的な姿勢について。

「普天間飛行場の問題で改めて出発点に立ち、名護市辺野古への移設計画を含めて過去に縛られずに、ゼロから見直していくという立場である。沖縄は47都道府県の中のひとつという考えを変え、準国家的な対応で向き合う必要がある。さらに米国世論は沖縄の現状について全く知らない。世論を動かすためには直接訴えることも重要になる。日本政府と国民、さらに米政府と米国民を変えるための本格的な取り組みが不可欠だ。」

ーオスプレイ配備の賛否について。

「公明党はかつては配備やむなしという立場にあった。だが、オスプレイはしばしば死亡事故を起こしている。米側が主張しているような「事故率は高くない」という主張は詭弁でしかない。何が何でもノーというわけではないが、現在のままでは反対だ。オスプレイが引き起こした事故を踏まえても、沖縄に配備し、全国に飛ばすことに反対する。」

ーこれまでの政府の対応についての考えは。

「防衛省が作成したパンフレットで、オスプレイについて『機体の安全性に何ら問題はない』と記述されたことを6月15日の外務委員会で追及した。米側の主張のままに、日本政府が無批判に安全性を断定した形になっていた。指摘受けて記述は訂正されたが、米軍側の主張を受け売りして良しとする防衛省の態度は問題だ。政府の説明は不十分。森本敏防衛相の『配備ありき』の態度は感性を疑う。」】

オスプレイについては7月12日の予算委員会で、エネルギー問題を糾したあと、野田首相に対して、沖縄に配備される前に、グアムにとどめる交渉をすべきだと、迫っていたのです。また、日本政府で独自に安全性を検証し、それで事故が起きた場合の責任は、日本政府にあるということをはっきりさせるべきだとまで主張したのです。

●食糧危機のレソト王国を助けて欲しいとの訴え

突然ですが、レソト王国ってどこにあって、どんな国か、知ってますか。恥ずかしながら私はその時まで知りませんでした。南アフリカの中に孤島のように浮かぶ、人口200万人ほどの国で、面積は30平方キロ。全ては山の中にあって、平地が一切なく、全土の標高が1400mを超えます。「アフリカのスイス」とも、「天空の王国」とも呼ばれる、世界でも最小の部類に入る小さな国なんです。農業と南アフリカ向けの繊維製品を中心とした輸出や国民の出稼ぎで支えられていると言われます。この国が異常気象の影響で、大変な食糧危機に陥っているとの話がある友人を通じて、入ってきました。

9月14日に、その国のリチャード・ラモエルツィ大使が金森尚人通商担当官とともに、国会の私の事務所にやってきて、直接実情を訴えつつ日本の援助を求められたのです。これまで、20年ほど国会議員をしていて、こうした陳情を受けるというのは、極めて珍しいことでした。どうして、野党第三党の小さい公明党の私にこんな大事な問題を持ち込むのか、と率直に聞いてみました。すると、今の政党の中で、一番きちっと話を聞いてくれて、問題解決に尽力してくれる政党だと思ったから、との答えでした。

背後には、「レソト王国」研究を進める学術者周辺に、創価学会員、公明党支持者がおられるようで、その方達の強い働きかけがあったようです。窓口として外務委員の私が選ばれたわけです。何はともあれ、頼まれた方は大いに発奮しました。直ちに、外務省国際協力局やアフリカ部に連携をとり、善処を要望し、大使との連携に汗をかいたしだいです。この問題、実はトントン拍子に事が運び、2週間後に二億円のODAが供与されました。関係者のお気持ちの総和もあり、人助けならぬ国助けという離れ業に貢献でき、嬉しい限りでした。ある意味、私の政治家生活最大の実績といえるかもしれません。

先日、同国の駐日大使館におられた金森さんから電話がありました。ほぼ8年ぶりのことです。その際、改めて「あの時の赤松さんのお力によってレソト王国は救われたんです。本当に国王始め大使ら皆感謝しています。ありがとうございました」と言われました。こそばゆいのを通り越してめまいがしそうでした。

●人助けに役立つという嬉しいできごと

雑誌「第三文明」の10月号で、福島と日本の未来を巡って、政治評論家の森田実さんと、東日本国際大学の前学長の石井英朗さん、そして東北大学大学院教授の安田喜憲さんのお三方が鼎談をされている中に、私のことが突然出てくると聞いて、驚きました。教えてくれたのは、同誌の大島光明社長。私が尊敬する大先輩です。

司会の甚野源次郎公明党福島県本部代表が、これからどう福島再生、日本再生を進めていけば良いのかと問いかけたのに対して、安田さんは、日本人被災者の温かい助け合いの姿に、世界が驚いたと述べています。そしてそのあと、こう続けているのです。

【先日、僕は京都駅で切符を買ったとき、財布を券売機のところに忘れてしまったんです。神戸の三宮で公明党の赤松正雄議員らと待ち合わせていて、時間がなかったのであせっていたのでしょう。赤松議員にそのことを話したら、「安田さん、財布はきっと出てきますよ」と言われたのです。私はそのときは半信半疑でしたが、夕方になってまた京都駅に行き、どうせもう出てこないだろうと思いつつ、一応駅に申し出たんです。そうしたら、ちゃんと誰かが拾って届けてくださっていた。現金もカード類もなくなっていなかった。そのとき、僕は感動して「ああ、日本は大丈夫だ。赤松議員の言われたように、人を信じる心を醸成すれば、日本は必ず復興できる」と思ったものです。

その後、東北大学の授業で学生たちに「落とした財布がちゃんと戻ってきた経験がある人はいますか?」と聞いたら、六人が手を挙げました。それだけ日本人は信頼し合うことができる。なぜかというと、日本人は自然を信じることを持っているからですよ。その心を僕は「アニミズム」と表現しているのですが、自然を信じ、自然の中に神仏を感じる心があるからこそ、人と人が信じ合う心も出てくる。それが、今回のような災害のときにも発揮されるわけです。】

あのとき、三宮のホテルで、遠来の共通の友人と一緒に待ち合わせていました。姫路に案内するつもりだったのです。現れた安田さんは、「財布落としてお金がないからタクシー代を立て替えてくれ」と言われました。驚きました。すっかりしょげていました。私は自分の経験に照らして、出てくる、大丈夫だと激励しただけです。信じる心を醸成すれば日本は必ず復興できるなんて、偉そうなことを言った覚えはありません。

ともあれ、財布が出てきたことがよほど嬉しかったのでしょう。天下に名だたる環境考古学者も、同じ人間だと思うとともに、物忘れに気をつけよう、と改めて自戒するのみです。(2020-9-13 公開 つづく)

 

【98】〝王国助け〟に貢献するという離れ業ー平成24年(2012年)❻ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【97】次期衆院選には出ないことを表明ー平成24年(2012年)❺

●柳澤協二氏と『公明』8月号で対談

柳澤協二さんといえば、元防衛庁官房長、内閣官房副長官補などを経て、今は野にあって幅広い活動を展開する外交・防衛問題の専門家です。私は長きにわたって付き合ってきましたが、この年の6月ごろに党理論誌『公明』で対談。8月号に『求められる日本独自の安全保障哲学』と題して、掲載されました。

彼が役人を辞めて物書きになるときに「元防衛官僚が『左』の位置から発信するとは、考えましたねぇ」と言いました。ニヤッと笑ってましたから、図星だったのでしょう。今ではまさに、八面六臂の大活躍を展開していますが、この対談は彼の新出発から間もない頃のものです。

中でも「抑止力」に関わるくだりは、読み応えがあります。日本が戦略の独自性をなぜいつまでも出せないのかとの私の問いかけに、「抑止力についての戦略的な議論をちゃんとやらなければいけないのに、やっていない」とする一方、「米国との関係は非常に重要であることは間違いないのですが、日米同盟さえうまくいっていれば他もすべてうまくいくと考えがちなところも問題です」と述べ、注目されました。

また、沖縄について、ドラマ「テンペスト」が話題になりましたが、首里城を訪れた米提督が「この美しい島に星条旗は似合わないなと感慨深く語るシーンが印象的」だったとし、「自分たちがいる場所の風土や文化に対する尊敬の念があるかどうかが非常に大事」だと、意味深い発言をしています。

実は今、一般社団法人「安全保障研究会」(浅野勝人理事長)で、二人は一緒に在籍しています。

●読売コラム「政ナビ」に、「維新前夜」の憲法論議

読売新聞のコラム「政(まつりごと)ナビ」の8月18日付は、「『維新前夜』の憲法論議」と題して、鈴木雄一記者が、書いています。ここでいう維新は、本物の「明治維新」と、「大阪維新の会」の二つの維新を掛け言葉として使っています。中身は結論部分を除き、殆ど私に触れていました。そこで、このコラムを転載してみます。

【衆院憲法審査会が現行憲法の検証作業に入った5月24日。意見表明に立った公明党の赤松正雄氏は「明治維新前夜、福澤諭吉先生は、上野の山で飛び交う(戊辰戦争の)砲声を尻目に、三田の山上で『今こそ経済学を学ぶべき』とされました」と切り出した。

社会保障・税一体改革を巡る与野党や民主党内の対立は、このころ頂点に達していて、検証作業は当初から困難が予想された。憲法問題の論客として知られる赤松氏は、政争と一線を画した議論への期待を、慶應義塾に伝わる故事に求めた。

だが、赤松氏の思いもむなしく、憲法審査会は「休講」が続いている。民主党分裂騒ぎのあおりを受け、検証作業は6月7日から2ヶ月もストップ。今月2日に再開したものの、続く9日は、内閣不信任決議案を採決する衆院本会議の影響で見送られた。審査会での議論が進むほど、民主党内での意見対立が顕在化し、同党の消極姿勢も強まっている。今国会中の作業終了は、もはや絶望的だ。(以下略)】

このコラムの結論は、大阪維新の会が、憲法改正を次期衆院選の公約の柱に据える構えを示しているから、政治情勢はまさに「維新前夜」。既成の政党は憲法論議を先送りしている余裕はない、といかにも読売新聞の記者らしい筆運びです。現実には、そういう展開にもならず、依然として、憲法論議は不発のままの事態が延々と続いている状態です。嘆かわしい限りです。

●次期衆院選に不出馬でインタビュー

上に述べた読売新聞コラムから、5日後の23日に、私は次期衆院選には立候補せずに引退するとの談話を発表することになります。かねて覚悟していたことであり、山口代表からの事前にあった〝お達し〟も淡々とした思いで受けました。党本部が次期比例現職候補を発表したことに連動したものですが、全文は以下のとおりです。

【私は現在すでに66歳。党本部の内規による、任期中に66歳を超えないことという定年制に基づくものであります。本日午前の党中央幹事会で、次期総選挙に向けての第四次公認が発表になりました。新たな布陣を明確にしたうえで、来るべき戦いに臨むべきだとの判断から、本日の発表にしたものです。

初出馬から23年半、初当選から約20年の長きにわたり、ご支援いただいた創価学会の皆さんはじめ、党員、支持者の皆様方、兵庫県及び近畿ブロックの有権者皆様方に心から御礼申し上げます。

日本国の繁栄、兵庫県の発展、公明党の更なる躍進のために、これからの生涯を捧げることをお誓いし、私のご挨拶と致します。ありがとうございました。】

型通りの引退表明です。これを受けて、在日中国人向けの中国語新聞「東方時報」からインタビューを受けたものが、9月6日付けで掲載されました。率直に本音を語っています。ここで、全文を紹介します。

【ー政治家として、最も印象に残った出来事やエピソードは?また、中国に関わる深い思い出は?

日中国交回復40年の佳節における、尖閣諸島を巡る日中の軋轢。中国に関わる思い出は、公明党第12次訪中団(84年10月)の随行記者として訪中した際に、中南海で故胡耀邦総書記らと会食したこと。フォークをふりかざしながらの同氏の日本や神戸に対する思い出を直接聞いた。

ーご自身の政治生活を一文字又は一語で表すとどうなるか?

「鳴かず飛ばず」という言葉がありますが、私の場合は、「鳴けども飛べず」。

ー歴代首相の中で最も印象が深く、最も高く評価するのは誰?その理由は?
田中角栄総理。中国との国交正常化への貢献。その背後に公明党の野党外交の展開がある。

ー日本の政治における公明党の果たしてきた役割についてどのような感想を持つか?

市民相談を通じて国民大衆のニーズを吸い上げ、政策に反映させてきたことは他党の追随を許さない。

ーこれからの日本の政界についてどのように予測するか?

橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会が旋風を起こす。小泉郵政民営化選挙とその失敗、民主党の政権交代選挙とその失敗、と「二度あることは三度ある」。さらなる低迷と混乱に政治は陥る可能性が高い。

ーこれから解決すべき課題とは?幾つか列挙を。

一つは憲法改正。まずは公明党の主張するように、合意出来るところからの加憲を。もう一つは、国会議員の資質の向上。それには様々な能力を試す試験といったことなどの導入が必要かもしれない。

ー強力なリーダーの出現が急務だと多くの国民が考えている。このような考え方は正しいと思うか?

半分正しく、半分間違い。強力なリーダーシップ待望論は、ファシズムの温床になりうる。「民主主義」という制度の中で、よりましなリーダー選択しかない。

ー政界を引退した後、何をしたいか?

まずは、中国に永く住む友人(高校時代の同級生)と、中国国内を旅したい。その後は、中国語を勉強するなど、自分自身の充電期間を経て、故郷の青年を対象に、読書塾など未来の人材育成に貢献したいと思っているが‥‥。】

最後の質問への答えだけは本音を隠して、当たり外れのない穏便なものにしたからか、見事に外れました。尤も、これは見果てぬ夢で、これからも追い続けたいとは思っています。

引退については、有り難いことに、友人や知人から「未だ未だ若いのに」「辞めるのは早すぎる、惜しい」などとの言葉をこれ以降頂くことになります。(2020-9-11公開 つづく)

 

 

 

 

【97】次期衆院選には出ないことを表明ー平成24年(2012年)❺ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【96】渾身の予算委質疑の二日後、病に倒れ又入院ー平成24年(2012年)❹

●「原発」めぐり野田首相らを追及

久方ぶりに7月12日に予算委員会での質問に立ちました。50分間、NHKTVの放映付きでした。野田佳彦首相、枝野幸男経済産業相、古川元久国家戦略担当相らが相手です。この質問では事前に衆議院調査室の協力をいつになく得て、準備を重ねた上で挑みました。冒頭、九州を襲った大雨災害にお見舞いを述べ対策を要望しました。ついで、民主党がようやく綱領的文書を見直して新しいものを作ろうとしているにもかかわらず、一向に進んでいないことを取り上げて、厳しく糾弾しました。政権交代を目標にしてきたのなら、それを達成した3年前に、直ちに新しい綱領を作るべきだった、遅すぎるではないか、との指摘です。

この日の本題は、原子力発電について、国のエネルギー計画全体の中の位置づけがいかに杜撰なものであるかを追及したことです。原発に過剰に依存することから脱却すると言いながら、その実、15%は維持していこうとする狙いばかりが顕著に窺え、再生可能エネルギーの充実には全く熱意が見られないとして、厳しく指摘しました。

併せて、国民に提示するエネルギー計画の選択肢について、原発軸だけでなく、時間軸やコスト軸など、幾つもの軸を示さなければ、国民をミスリードするということを指摘したのです。枝野、古川両大臣は、そういうご意見を踏まえて今後対応しますという始末。そんなことでは国民が今後のシナリオを考える上で戸惑うだけだと、政府の姿勢の甘さを強調しました。野田首相は、政府のキックオフのあり方の不味さを認めた上で、今後どのように進めていくかは、「宿題にさせて欲しい」と殊勝な姿勢で答えました。

この質疑は、自分の国会での予算委員会質疑の集大成とでもいうべきものになりました。各方面から、概ね高い評価を頂きました。ですが、そんな中で、福島県のご婦人から一点、電話で苦情を頂きました。自公政権も原発を推進してきたのだから、その責任について、一言詫びてほしかった、と。これには3-11以前と以後とでは、革命的な意識変化が起こったのだから、一言触れるべきであった、と深く反省した次第です。

実は、この予算委員会で、野田首相は宿題にさせて欲しいと言ったので、注目していましたが、待てど暮らせど、言及は無し。このため、私は8月3日付けのブログで「エネルギー・ベストミックスをめぐる新たな選択肢」と題し、次のような新機軸を提案しています。

【この基軸は、時間を2030年、2040年、2050年と三つに分けた選択肢であり、同時に原発は全てゼロにするというものだ。つまり、これは明白に脱原発の考え方に立脚した選択肢だといえよう。政府の選択肢が、第一シナリオに、原発ゼロを目途にしているものの、第二、第三シナリオでは、脱原発依存の方向性を色濃く出している。

私の提示した基軸では、例えば、30年後、40年後に、原発をゼロにするには、再生可能エネルギーをどれくらい充足させればいいか、また火力発電やコジュネをどれくらい用意すればいいか、との視点に立ち、明確な方向性を示している。】

脱原発と脱原発依存ー一見似ていてその実大きく異なる二つの指標。民主党政権は極めて曖昧なまま潰えましたが、後を継ぐ自公政権も目をよく凝らしていないと、同じ穴のむじなかもしれないことを注意していく必要があると思っています。

●持病の大腸憩室炎が悪化、緊急入院

予算委員会が終わってほっとした二日後のことです。議員宿舎の朝。猛烈な腹痛が襲いました。トイレに入っても便も出ず、痛みも収まりません。自分自身、「ん、これはいつものヤツだが、ちょっと通常とは違うぞ」との不安が広がってきます。通常は同居家族もいず、一人暮らしですから、こういうときは困ります。

私はかねてから、大腸の中に憩室が複数あって、時々それが悪さをするために、腹痛に悩まされるという持病めいたものがありました。そうポピュラーな病ではないので、一般的にはあまり知られていません。一年に3、4回ほど大便が出そうで、出ないという症状に苛まれ、20-30分ほどトイレで悪戦苦闘するのです。単にでないというのでなく、その間、猛烈な腹痛の上、とめどなく流れ出る汗のため、人事不省のようになることもあるのです。

議員宿舎のそばにある病院に自力で辿り着き、診て貰いましたが、詳しいことは分からず、直ちに、港区大門にある済生会中央病院にタクシーで向かいました。診察やら検査の結果、大腸憩室が腸内で破裂しているとのことでした。腸そのものが破裂すると、命に関わる大事になり兼ねませんが、憩室の損傷ということなら、点滴で対応出来るということで、ひとまずは安心しました。しかし、結果的にこの日から18日間にもわたる入院ということになってしまい、各方面にご迷惑もかけ、ご心配をおかけしてしまいました。

あの脳梗塞から一年あまり。またしても入院ということで、つくづく自分の体力のなさに恥じ入る思いでした。妻や、一緒に住む老義母も、結婚以来一度も病気を患うこともなく、元気で暮しているのに、不甲斐ないと反省することしきり、でした。大腸の大事さは様々な医療関係書にも説かれている通りです。

この時の入院に際しては、元同病院の幹部医師だった大山廉平先生を、厚生労働副大臣時代に共に仕事をした秋月玲子医官の紹介で知るに至りました。病室にお見舞い頂き、病気治療には笑いが必要と、綾小路きみまろのDVDを差し入れしていただくなど、大層お世話になりました。この先生は読売新聞社の診療所の専属医もされており、橋本五郎読売新聞特別編集委員の胃がん手術も担当、彼をして命の恩人と言わしめている名医です。私もその後今に至るまで、様々の機会に助けていただいています。

●退院直後に、外務委員会で質問。党中央委員会で「原発」に注文

7月31日午前10時に退院したあと、1時からの本会議に出ました。外務省のレクを受けるなど、翌朝の質問を考えて、質問どりに夕刻対応しました。かなりハードな準備でしたが、長い入院期間でしたから仕方ありません。同委員会では、丹羽中国大使が就任以来、5回も帰国しているのに、一度も国内の地方での交流をしていないことを取り上げました。外務省が、帰国の際には、出来るだけ地方に行くようにとの指導をしているのに、それに反していることを問題視したのです。

丹羽大使は、尖閣諸島問題で、外務省の方針と相違したことを外国誌上で発言していることで批判を浴びていました。地方交流という基本的な懸案を地道にこなすことも求められるとの観点から質問したのです。

また、原発をめぐる党の政策チラシについて、党中央幹事会で私は表現が一部適切でないところがある、として改めて党内論議を深め、決定をしなおすように求めました。午後からの政調全体会議で議論された結果、①原発の新規着工は認めない②1年でも早い「原発ゼロ社会」の実現のために、省エネ、再エネ、無駄のない火力発電に最大限の力を注ぐ③再稼働は国民が納得し、信頼できる確かな安全基準ができるまで許さないと整理しました。これで「1年でも5年でも早く原発ゼロ社会の実現を目指す」と記述することになったのです。このあたりは、私の党内における大きな闘いだったと密かに自負するものがあります。(2020-9-9公開 つづく)

 

 

【96】渾身の予算委質疑の二日後、病に倒れ又入院ー平成24年(2012年)❹ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【95】憲法の逐条審査を提案し漸く動き出すー平成24年(2012年)❸

●北岡伸一教授からの〝売られた喧嘩〟を買う

毎年やってくる5月3日の憲法記念日を前に、各メディアから公明党の基本的スタンスを聞かれたり、各党代表による座談会に出席したりしてきました。この年は、産経新聞が連載した「永田町発 憲法の焦点」の7回目に登場(4月18日付け)しています。ここでは、改めて自衛隊の役割について、日本を攻撃する勢力を水際で排除する「領域保全能力」を持つことに尽きるとした上で、非政府組織(NGO)や、国際協力機構(JICA)など官民あげての平和活動の構築の重要性などを指摘しました。

また、恒例の読売新聞主催の「憲法記念日座談会」(5月3日付け)にも出席して、自民党・保利耕輔、民主党・中野寛成両氏及び、北岡伸一(政策研究大学院大学)、大石眞(京都大学)両教授との議論に参加しました。この時の議論では、私が提案した二段階審査方式が注目されました。それは、司会の鬼頭誠記者が、「憲法審査会でこれから、何を議論すべきか」と問いを発したことに対して、私は具体的にこう述べたのです。

「2段階でやったらいい。まずは逐条的に憲法を検証する。憲法の明文改正か、法律の運用で済むのか、新たに法律を作った方がいいのかという角度からの点検は、まだ国会で行われていない。憲法を変える必要がないと言っている人たちに、憲法改正の必要性、法律を変える必要性をしっかり提示する意義がある。3ヶ月くらいの速いスピードでやりたい。第2段階では政党の試案などについて議論し、加憲の対象を絞り込む。我々は環境権を定めて環境保全を目指せば、各党の合意を得られやすいと考える」と。

これに対して、保利さんは「憲法の各条項の検討は、赤松さんが提案するやり方でもいい」と、同意を表明し、中野さんも課題整理をすべき、と大きな異論を唱えませんでした。このくだりは最後の場面でしたが、北岡さんが「日本は累積債務の問題や少子高齢化の問題など相当深刻な状況にある。平時ののんびりしたペースで仕事をしている時期なのか。審査会を護憲派の人まで納得させて進めようとすれば、永久に憲法改正はできないのではないかと危惧を感じる。」と述べ、大石さんも同感の意をを強調されました。

座談会はこれで終わったのですが、その直後に、実は北岡さんが、誰にということなく「いったいいつになったら、憲法改正に向けて国会、政治家は動くんですか。読売新聞に憲法改正試案が出て、もう20年が経つんですよ」と吐いて捨てるように言われたのです。喧嘩を売られたと勘違いした私は「読売新聞や先生は、国会や政治家の動きが遅々としてすすまないと思われるかもしれませんが、世の中の半分近くの人は、憲法改正をする必要はないとの考えを持ってるのですよ。私たちだって色々やってるんですよ」と、色をなして言い返しました。ここで中野さんが「まあ、まあ」と割って入ってとりなしてくれたので、事なきを得ました。ただ、よく考えてみれば、ストッパー役になってる民主党に憲法論議が動かぬ局面の責任があるのですから、これはまた妙な役回りではありました。

●憲法審査会幹事懇談会での赤松提案

同じこの日の読売の4面に「政治の現場ー憲法改正」の(下)が連載されたのですが、実は私の提案が結構詳しく掲載されています。「憲法審査会に改正の具体論の場をどう形成し、どの項目から手を付けるか。民主、公明両党も模索を始めている」として民主党の動きの記述がなされたあと、こうあります。関係部分を抜粋します。

【赤松正雄は、4月、衆院憲法審査会幹事懇談会で、次のように提案した。「まず全11章・103条の現行憲法を逐条的に検証して問題点を洗い出し、本当に憲法改正が必要なものと、法律で解決可能なものを整理すべきだ」

赤松の狙いは、共産、社民両党に「護憲」の主張の機会を保障しつつ、審査会の憲法改正論議の基礎を固めることにある。今国会で着手し、毎週1回、1章ごとに審議すれば3ヶ月程度で検証は終わる。検証結果を基に、今年秋以降にも憲法改正項目の具体論に入れる、と計算する。

公明党は憲法には条文追加で良いとする「加憲」を提唱する。逐条検証の作業は遠回りに見えて、改正論議を前進させる効果は大きいと、赤松は説く。自民党が賛意を示し、衆院憲法審査会はこの方式で運営される可能性が出てきた。】

この記事が出る2日前の5月1日の公明新聞に「憲法論議に新たな試み」として、私の論考が掲載されています。私の自論を全面的に展開したものを寄稿したのですが、「与野党合意で逐条検査へ」「明文改憲か立法改革か、急がば回れ」との見出しのもと、8段ぶち抜きの大きなものです。これは、自分としても魂魄を留める思いで書いたもので、出色の出来栄えと自負できます。

これ以降、現実の衆院憲法審査会では、大畠章宏会長のもと、5月24日の第1章「天皇」から、5月31日の第2章「戦争の放棄」、6月7日の第3章「国民の権利及び義務」へと進められていきました。まずは私の主張通りに進んだのですが‥‥。結局はたち消えになってしまうのです。嗚呼。

●被災地・宮城で起業した友に限りない共感

宮城県仙台市に6月2日と3日の両日、大震災からの復興状況の視察とともに、被災地で大事なことに着手する友の船出を祝うために出かけました。私の中学同窓の旧友・水谷清人さんが、被災地に新たな会社を起こすというのです。今まで、姫路を中心に営んできた仕事(漆喰工法による住宅建材の販売)を息子に任せて、自分は新たに宮城県黒川郡富谷町に一人で移り住んで、同種の会社をこの地域周辺の仲間二人と一緒に起業しようというもの。これまで彼と関係があり、これからも応援しようというメーカー、業者の代表が10人ほど全国各地から、オープニングの集いに馳せ参じました。

挨拶に立った私は、67歳という人生の総仕上げの段階で、大いなる冒険を試みようとする友人の心意気に強い共感と支援の意思を披露しました。これには同じく中学校同期で大手住宅産業の事業本部長を経て、関連企業の顧問を務める共通の友人・越智壮さんも熊本県から参加してくれていました。これまで様々なパーティに出席してきましたが、この集いには過去最高の心和む思いを抱きました。終了後の懇親会も心底からの支援を惜しまぬ皆の気持ちが漲るものとなりました。

彼とはかつて私が衆議院選挙に初出馬する際の挨拶回りで、たまたま再会しました。中学校卒業いらいですから約28年ぶりのことです。お仕着せの生徒会長だった生真面目な私と、ごんた仲間のボス的存在だった彼とは、表面的には対照的な存在に見えたはずです。男気溢れる彼は、当時のバブル景気の勢いもあって、関連企業、業者を数百人まとめて、毎年のように北陸の温泉地に招待するという〝気風(きっぷ)の良さ〟でした。それに私も参加して、多くの皆さんとの絆を結ぶことが出来たのです。いつも変わらぬ真心で、公明党を、そして私を応援してくれる姿に、心底から感謝の思いを抱きます。

この友は先年ひとまず思いを果たせたとして、地元姫路に帰ってきました。こうしたあつい心を持った人々がいっぱいいて、震災地の復興が培われていくものと信じます。(2020-9-7公開 つづく)

【95】憲法の逐条審査を提案し漸く動き出すー平成24年(2012年)❸ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【94】沖縄米軍基地で海兵隊幹部と〝大論争〟ー平成24年(2012年)❷

●NOKINAWAだ、いやDAMERICAだ、との論争
ロバート・D・エルドリッジ氏ー今でこそメディアに時々登場(読売TV系『そこまで言って委員会』など)していますから、ご存知の方は多いでしょうが、私が沖縄米軍基地(キャンプ瑞慶覧)で会った頃は全く知りませんでした。3月18日の日曜日に、嘉手納基地以南にある基地の視察(6箇所)を目的に、沖縄を訪れました。彼は在日米海兵隊基地外交政策部次長の立場でした。スキンヘッドでブルーの瞳がとても印象に残る知性溢れる軍人(に見えましたが、実は政治学者)として、私の前に現れたのです。

冒頭型通りに20分ほど、沖縄米軍基地の全貌をかいつまんで説明を受けました。そのあと、私がかねて国会でも、米国国防省でも展開してきた持論を述べたことから論争になりました。それは、ホストネーションサポートを日本は米国に対して行っているのだから、米国側はゲストネーションマナーを持たねばならないのに、全くマナーが悪いと述べたことが発端です。

彼は、沖縄における日本人の犯罪に比べて、米軍人の犯罪はかなり少ないと言い、基本的な認識が相違していると、譲りません。私の方は、そうした比較は意味をなさない、悪質な事件の持つ日米関係への悪影響を貴方たちは考えなさすぎると、やり返します。彼はまた、もっと日米関係を強める努力をして欲しい。米側が地域での友好の催しや行事への参加を持ちかけても、殆ど乗ってこないのは遺憾だと、迫ってくるのです。究極、日米地位協定の規定を直さねば、と私が言っても乗ってきません。

論議は噛み合わぬまま。予定の時間がオーバーし、続きは公明党の外交安保部会にでも来てくれれば、やろうということで別れました。のちに、彼が東日本大震災の時に、「トモダチ作戦」の企画運営を行った当の中心者ということを知りました。

実は、議員を辞めてから、私は、神戸・北野坂にある友人の事務所風のサロンで異業種交流会をやっていますが、その場所に、なんと彼がやってきたのです。今から三年ほど前のこと。驚きました。久闊を叙するのもつかの間、論争の続きに入りました。彼が沖縄はNOばかりだから、「NOKINAWAだ」というので、こっちはアメリカはダメだから、「DAMERICAだ」と言い合う始末。

またしても決着つかず。御夫人の永未子さんの仲裁で〝水入り〟になりましたが、基本的政治信条は別にして、以来、肝胆相照らす仲で、とても親しい関係になっています。縁は異なもの味なものということをここでも実感したしだいです。

●渡嘉敷島で福島の子供たちを預かる試み

沖縄には、現役時代はこの米軍基地視察を最後に、随分と訪問しています。ここでは、渡嘉敷島に行った時のことを記しておきます。2011年の6月25日に党沖縄県本部で開かれた「日米地位協定の勉強会」の終わった後、一人渡りました。沖縄本島から西沖へ32キロほど、那覇から高速船で30分あまりです。原発事故による放射線汚染やその風評被害で悩む福島県の子供たちを、夏休みの間、沖縄で受け入れようという運動を展開している人がいると聞いて、急遽会うことを思い立ったのです。

坂田竜二さん(43)がその人。4年前からこの島に移住。有機農業や学習塾を営みながら、渡嘉敷島留学「わらびや」に取り組んでいます。山村留学というのは子どもたちが大自然の中で学び、仕事をしながら、集団生活を経験する(通常は1年間)というものです。仕組みそのものは、既に40年の歴史があり、現在は100の自治体で実施されています。坂田さんは、奥さんの明子さん(35)と共に、小学校5年生から中学校3年生までの6人ほどの子供たちの里親として一緒に暮らしています。

私が訪れた時間帯は、子どもたちは学校に行っていて留守でしたが、ご夫婦で生き生きとした日常の闘いぶりを語ってくれました。東南アジアでの生活も少なからず経験している二人は、惚れ惚れするほど逞しくしなやかな生き様を感じさせてくれました。

「沖縄県民プレゼント ティーダいっぱい夏休みプロジェクト(仮称)」は、沖縄県民から支援を受けながら、福島県の300人ほどの子供たちを8月初旬から2週間ほど、県下各地(伊江村、今帰仁町、渡嘉敷村、東村)で受け入れるというもの。プログラムを見ると、牛馬の世話、ヤギの乳搾り、堆肥作り、キャンプ、シュノーケル、サバニ、稲刈り、田植え、エイサー経験など、わくわくするようなメニューがずらり。福島県の子供たちが一人でも多く参加し、沖縄との絆が深くなって、日本に大きな希望が育ち行くことを祈りました。

本島への帰り際に子供たちが帰ってきて、束の間の交流が出来ました。滑りゆく船から身を乗り出す私に、海辺から手を振ってくれた姿が未だに目に浮かびます。

●海賊対処で海上幕僚長や船長協会長らと懇談

この数年、アデン湾を中心とする海域で海賊が出没、航海途上の船舶の安全を脅かす事案が発生していました。更にまた、インド洋方面へとその幅を広げつつあるということから、自衛隊や海上保安庁が苦労をしていました。このため、日本船主協会の主催で、関係者への感謝の意を表す集いが3月26日に海運クラブで開かれ、関係国会議員も招かれました。懇談の場で、昨年の衆議院参考人質疑の際にお会いした日本船長協会の小島会長と再会しました。川崎汽船出身のこの人、実は私の小中高同期の友人の一年後輩ということが分かりました。奇遇に大いに驚いたしだい。

対話の中で、日本関連の船の乗組員がほぼ100%外国人によって占められている現状を巡って、大いなる懸念をお互いに自覚する場面がありました。日本人船員の賃金が高すぎることが原因です。先進国と途上国の賃金格差だから仕方がないでは片付けられない問題を孕んでいるといえましょう。また、杉本海上幕僚長とも意見交換をしっかり行いました。彼とは江田島にある海軍兵学校を巡って思いを交わしました。

広島や沖縄の被爆跡地や戦跡に行くだけではなく、海軍兵学校跡地に行き、若い兵士たちに声なき声や、血涙溢れる手紙を見ることも同時にあっていいことを語り合いました。私は海軍兵学校跡地を50歳過ぎて初めて訪問しましたが、少々遅かったと、心底から後悔しています。

●森田実さんという強い味方の講演会

政治評論家の森田実さんといえば、元は日本共産党の党員。かつては公明党批判の急先鋒だった、その森田さんが今や大の公明党びいきになって、全国各地を飛び回って、味のある講演を展開してくれています。4月26日に「日本再建、言わねばならぬ!」とのタイトルで行われた、兵庫県本部主催の「公明党政経セミナー」では、時代は倫理性を政治に求めており、今こそ公明党の出番だという趣旨のものでした。風雪に耐えてなお、燻し銀のごとき輝きを秘めた森田実さんは、元外務省分析官で作家・佐藤優さんとまた違った角度での公明党の強い味方となってくれていることは有り難い限りです。

実は先年、姫路在住の女流作家・柳谷郁子さん(同人誌・『播火』前代表)と森田実さんを引き合わせる役割を果たすことが出来ました。ご両人共に、ご縁を感じてくださり、介在役の私に感謝していただいています。ひょんなことがきっかけですが、友だちの輪が幾重にも広がることに無常の喜びを私は感じるのです。(2020-9-5 公開 つづく)

【94】沖縄米軍基地で海兵隊幹部と〝大論争〟ー平成24年(2012年)❷ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類