【10】顧問先トップとの対談解説電子本に次々取り組むー平成26年(2014年)❷/3-13

●電子本「10問10答早わかりシリーズ」を出版

同期の連中との対談は、あたかも私の前半生を振り返るもので、読みようによっては「自叙伝」の趣きがありました。これに気を良くした私が次に考えたのは、現役時代から関わってきた団体について、電子書籍でその実態を紹介するという試みでした。「10問10答早わかりシリーズ」と題して、私自身がQ &A方式で解説したり、各法人のトップとの問答形式というかたちをとったりしました。

例えば、一般財団法人「日本熊森協会」については、『クマと森から日本が見える』と題して、私が解説しました。力作です。一般社団法人「日本カイロプラクターズ協会」は、同協会顧問の村上佳弘さんとの対談で、タイトルはずばり『腰痛はカイロが一番』。38年間悩んだ腰痛を治してくれた恩人との競演です。さらに、『中小企業はこれで蘇る』と銘打ったのは、一般社団法人「AKR共栄会」の河田正興専務理事(当時)との対談。彼は昨年秋にコロナの犠牲になって鬼籍に入ってしまい、これが遺作となりました。それぞれ渾身の力を込めて取り組み、分かりやすく解説していきました。

この3冊に加えてもう一冊ユニークなものがあります。実は、今から10年ほど前のことですが、赤穂市に住む旧友の亀井義明氏から相談に乗って欲しいと言われて関わってきた「坑道ラドン浴」に関するものなのです。その背景には、兵庫県姫路市安富町(かつて富栖村と呼ばれた地域)にある、その昔の金鉱山からでるラドンを活用して、健康に役立つ施設を作ることで、地域振興にも貢献したいとの彼の強い志がありました。

●日本唯一の「坑道ラドン浴」のお手伝い

大量の放射線は人間を死に至らしめますが、微量のそれをピンポイントで患部に照射すると、大いなる効果を発揮するーいわゆる放射線治療は、癌患者などにとってかけがえのないものになることは天下周知の事実です。彼はその放射線が富栖の里の坑道から出ることを知っていらい、自身が経営する会社の業務と並行させながら縦横無尽の活動を展開します。オーストリアの著名なラドン浴の土地であるバドガシュタインを訪れたり、岡山大、熊本大、大阪大を始めとする大学の研究機関などを訪れ、学者、専門家に会って、研鑽を深め協力を要請していきました。

その結果を踏まえた上で、ラドン浴に供する坑道を整備していったのです。私もオープン式典に参加し、その後も度々実際に坑道で寝そべってラドンを浴び、友人、知人にも勧めてきました。当時から今に至る10年の彼の奮闘ぶりを見る時、心底からの感動は否めず、深い敬意の念を抱きます。通常の病院治療で良い結果がでない、医療難民ともいえる多くの人を激励しぬく姿はたとえようもなく尊く思えました。

大阪大名誉教授の中村仁信先生はそうした彼の熱意に共感して、さまざまな角度から支援を惜しまず、協力していただいている学者の一人ですが、この人とコラボすることを考えつきました。『みんな知らない低線量放射線のパワー 日本唯一の坑道ラドン浴 富栖の里』とのタイトルで、私が書いたものを監修していただくことにしたのです。

電子本はまだまだ認知度が低く、手にして下さる人は多くはないでしょうが、世の中に一石を投じた試みを成し得たと自負しています。結局、電子本はここまでで、その後は休刊が続いています。むしろ、紙の本への思いやみがたく、偶然の出会いからある人と共著を出すことになるのですが、それはもう少し先のことです。(2021-3-13 一部修正)

(2021-3-13)

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【9】同期の桜と対談電子本5連発ー平成26年(2014年)❶/3-7

●NPO法人を立ち上げて電子書籍出版へ

「赤松さんも電子書籍を出すといい。紙の本のように手間はかからないし、出版に要するお金も殆どただ同然。うまく当たると巨万の富を得るのも夢じゃない」こんな言葉を投げてきた伊丹市に住む後輩がいました。2014年が明けた頃のことです。私が現役時代に、『忙中本あり』を出版した背景には、インターネットで日々発信していたことがありました。その後も、続編めいたものも書いていましたし、国会での動きを追うリポートも長く続けていました。それらを読んで面白いと思ってくれたようです。

実は、大手出版会社に勤めたあと、定年退職後の時間を持て余していた学生時代からの友人がいました。気の毒なことに彼は脳梗塞の後遺症で、少々半身が不自由になってしまったのです。その彼に電子書籍の出版を手伝って貰えないか、と相談しました。キンドルから出版する過程において、私が原稿を書き、それ以外の全ての作業を彼にやって貰おうという魂胆です。うまくいけば彼の仕事になるし、私も夢が叶うかもしれない、一石二鳥の名案に思えました。

そこで、彼の以前の仕事の上司だった出版社の元社長に代表になって貰い、私が副代表、彼が事務局長になって、NPO法人を立ち上げたのです。取り敢えず第一弾の出版ということで、ネット上にブログとして書き溜めていた私の「読書録」を出すことにしました。タイトルは『60の知恵習い』。〝60歳の手習い〟をもじったのです。数多ある読書録から60ほどを選び出し、幾つかのジャンルに分けてみたのです。我ながらよく出来ていると思うのですが、残念ながら殆ど売れていません。そのうち爆発的に、と皮算用していますが、どうなることやら。

同年齢の学友たちとの対談を企画

次に私が考えたのは、小、中、高、大学の友人たちとの対話本です。そこそこ有名な人物がいることから着想しました。小学校の時の仲間からは、三野哲治。住友ゴムの社長(当時)です。温厚篤実なリーダー。最前線の「経済」やら「会社組織」を語り合うのに格好の相手です。中学校の友人からは、志村 勝之。元東京モード学園のトップ、退職後は臨床心理士をしています。一橋大で南博教授から社会心理学を伝授された本格的カウンセラー。心を巡る全てを語り合うのが狙いです。

高校の同期からは、紅一点。笑医塾塾長として健康のための笑いを振りまく女医・高柳和江。加えて神戸の猛烈医師・飯村六十四。「スポーツと健康」やら「アンチエイジング」に取り組む好漢です。鼎談にしました。大学仲間からは、慶大名誉教授の小此木 政夫。ご存知、朝鮮半島の専門家です。研究の狭間のとっておきのこぼれ話を聞き出しました。もう一人は、元日本航空の幹部だった梶明彦。天国から地獄を経験したともいえるJALで苦労した彼に、世界から日本を見る眼差しを学ぼうとの狙いです。

一人づつ呼び出して対談をすることにしました。一番苦労したのが、最も親しい関係にある志村。殆ど学者同然の博学。この分野に疎い私は毎回個人教師からレッスンを受けるようなものでした。姫路駅前のレストランや茶店を中心に5〜6回ほど対話を進め、私がまとめたものに彼が手を入れる作業を繰り返したのです。

●幻に終わった、紙の本『現代古希ン若衆』

この電子書籍による対談集は、1月から順次収録し、「とことん対談シリーズ」と銘打って5本を連発で発刊していきました。値段は一冊180円です。タイトルは、それぞれ凝りに凝りました。小此木とのものは『隣の芝生はなぜ青く見えないかー朝鮮半島研究50年の先達に謎解きを迫る』。梶とのものは、『君は日本をわかっていないー世界中を飛び回った男が全ての日本人に捧げる』。高柳、飯村との鼎談は、『笑いが命を洗いますー2人の名医が健康の秘伝を明かす』。志村との対談は『この世は全て心理戦ーカリスマ臨床心理士が勝つ極意を伝授』。三野とのものは、『運は天から招くものー大企業トップと人生、社会、政治を語る』としました。

実はこの一連の対談は、電子書籍にしたあと、紙の本にするつもりで、タイトルまで決めていたのです。『現代古希ン若衆』。「古今和歌集」や「新古今和歌集」を意識しました。ちょうど数えで70歳、古希を迎える私たちですが、その意気たるや、若衆と変わらぬとの思いを込めるつもりでした。それぞれ、多くの仲間、支援者、ファンを持つ連中だから、結構売れると、踏んでもいました。

ところが、思わぬところから横槍が入ったのです。その主はたった一人の女性。「赤松さんたちと鼎談すると、歳がばれるじゃない。私って、20歳代で通しているのよ(確かに、彼女は講演時にそう言っています。遠目には50代くらいには見えなくもないが、20代とは絶句)。古希だなんて、そんなの嫌だ。」こう言うのです。「ん?電子本で既にバレてるよ」「電子本ってみんな見ないでしょ」ーうーん。こりゃあだめだ、と思ったしだい。女性はホントどこまでも強い。(2021-3-7 文中敬称略)

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【8】〝晴走雨雲読〟の日々ー平成25年(2013年)❽/3-2

●〝コーチ付き〟で姫路市内をランニング

様々な起業家との出会いの中で、変わり種と思われたのが坂本日出明さん(70)です。積極的に時間を見つけて各地のマラソン大会に出るのが趣味といいます。本職は名刺印刷業でしたが、8年前に出会った時は自転車駐輪場に新たな仕組みを導入するプロジェクトに参画して奔走していました。60歳の時に、福知山マラソンで3時間27分の日本陸連公式記録を作ったのが誇りの人でした。彼に触発され、私は引退後一年目の平成25年は実によく走ったものです。

若い時には私も、職場近くの神宮絵画館前のコースを走ったり、国会議員時代も早朝に皇居一周ランニングに挑戦していたのです。地元に戻って様々な制約から自由になったものですから、朝起きて晴れ渡った空を見上げると、ウズウズしてきます。両足の太腿が走ろうと呼びかけてくるのです。日常的には早朝に姫路城周辺5キロほどを1時間かけてランニングしました。大阪に住んでいる坂本氏が休日にわざわざ姫路に来てコーチしてくれたことがしばしばありました。

一緒に、家から夢前町の入り口辺りまで10キロほどを伴走して貰ったり、赤穂の市民マラソンに出場しようとしたり(彼は参加。私はドタキャン)もしました。数えきれないランニングの思い出の一つが、夢乃井温泉郷を目指して走ったこと。家から約20キロほど、ひたすら温泉に浸かることだけを念頭に走ったのです。結果は、ヨレヨレ。ゴールインはしたものの、風呂場の浴槽脇で倒れ込んでしまいました。その後どうなったか。ご想像にお任せします。

参院選での民主党の大惨敗

一方、本もよく読みました。議員時代は年間100冊前後が平均でしたが、退職後のこの年は、136冊ほど読んでいます。読書メモを繰って見ると、相も変わらず軽い本ばかりを読んでいたことが一目瞭然です。「晴耕雨読」ならぬ〝晴耕雨雲読〟だったといえるのかもしれません。

ただ、本を読んで走っていただけではもちろんありません。この年、参院選が予定されており、懸命に支援の戦いに取り組みました。前年の衆議院選挙の結果、自公政権が復活、再び両党は政権に返り咲いていましたが、参議院は民主党が優位に立っていて、ねじれ現象が生じていました。これが解消されるかどうかが注目されていたのです。埼玉、神奈川に支援のために幾たびか足を運びました。

結果は、自民党が65議席を獲得するも、非改選50議席と合わせて115議席。参議院の過半数122議席に7議席及ばなかったのです。公明党は埼玉、東京、神奈川、大阪の4選挙区で完勝、比例区の7人と共に11議席獲得、非改選と合わせて、20議席となりました。この結果、自公両党で135議席になり、安定多数を占めることになりました。再び公明党が文字通り〝連立の要〟となったのです。一方、民主党は、55人の候補を立てながらも、当選は僅かに17議席、非改選と合わせても59議席で、公示前よりも27議席減となってしまいました。

前年の東京都議選、衆議院選に続き民主党は三連敗で、名実共に政権党の座を転げ落ちたのです。3年前のこの党の高揚感は、自らの身から出た錆ならぬ失政続きで、完全に地に堕ちてしまいました。

中嶋嶺雄先生ご逝去の悲しい知らせ

この参議院選のすこし前に悲しい知らせが舞い込んできました。大学卒業以来、ありとあらゆる面でお世話になった学恩深い中嶋嶺雄先生が逝去されたのです。最後にお会いした際にお顔色がいつもとかなり違っていたので、懸念していたことが的中してしまいました。東京外語大学長を辞されたあと、秋田国際教養大学の創立に関わられ、理事長兼学長として八面六臂の活躍をされていました。「中国研究」の分野で一世風靡の名声を博される一方、大学教育の改革を自ら現場に飛び込んで成し遂げられたのは実に見事でした。

同先生とは、議員になる前から、アジア・オープンフォーラムのメンバーに入れて貰って、台湾と日本の各地を一緒に回らせていただきました。当選後は、私の『忙中本あり』出版記念会の代表世話人になっていただいたり、先生の主宰された「新学而会」の場で、錚々たる専門家から隔月に一回教えを頂くチャンスも得ました。東京外大のキャンパスに市川公明党書記長と共にお招き頂いたり、3人で一緒に懇談、お酒を酌み交わしたことも例えようもないほど、嬉しく懐かしい思い出です。

晩年、しばしば、「赤松君も国会の場で、『教育改革』に取り組んで欲しいね。これからの日本を考える上で、一番大事だよ」と言われたものです。残念ながらその助言を実らせぬままお別れしてしまったことは悔いが残ります。(2021-3-2)

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【7】「顧問」という名の〝お助けマン〟ー平成25年(2013年)❼/2-25

●淡路島と明石港を結ぶ船会社の顧問に

淡路島の北端・岩屋港と対岸の明石港を結ぶ航路を約20分ほどで走る船を持つジェノバライン。この会社のトップ・吉村靜穂社長は、破格の構想力を持つ胆の座った経営者として、淡路島界隈ではつとに知られています。その吉村氏は、かねて海外からのインバウンドを受け入れる一大拠点として淡路島を位置づけ、瀬戸内海を縦横無尽に動く船会社へと飛躍させたいとの壮大な夢をもっていました。その夢を現実のものにするための構想実現化の担い手を求めていたのです。

先に大学の教員などの道を模索するもうまくいかず、いささか不本意な日々を送っていた私の前に、ジェノバの副社長であった豊田一義氏から連絡があったのは2013年の初夏の頃でした。豊田氏を通じての吉村社長からのお話は、私にとって文字通り〝渡(わたり)に船〟のラッキーなことでした。地域に根ざす船会社の顧問として、精一杯の力を発揮して、社会貢献しようと決意を固めたのです。

以後、つい先ごろまで、紆余曲折をあれこれと繰り返しながら、苦労を重ねるのですが、その辺りの細かなお話はこれからおいおい語ることになると思います。まずはともかく、引退後の主たる仕事が見つかったのです。就任後間もなくして、国交省からの支援を受けるテーマが浮上、懸命の交渉努力の末に、見事に功を奏することが出来ました。早速に吉村氏に恩返しが出来たことになり、まさに幸運以上のものを感じたしだいです。

●従来からの顧問業も着実にこなす

私が現役時代から就いてきた顧問職は、主に三つ。今も続いています。一つは、「AKR共栄会」です。これは、大型スーパーのために地域の市場が次々と姿を消してしまう現状を何とかせねばとの目的のもと、弱小の市場が共同でものを仕入れ、共同でそれを配送し、共同で保険をかける仕組みを持つ、一般社団法人です。この団体の知恵袋たる河田正興専務理事とは30年来の友人ですが、二人してまさに中小企業の守り神としての役割を果たそうと頑張ってきました。

彼は本業がビジネスファーム研究所所長で、実に様々な人々の起業のお手伝いをしてきています。私も必要に応じて駆り出され、取り組んできました。忘れ難いのは「全国防災・減災設備点検協議会」なる一般社団法人を立ち上げ、某大手運送会社と組んで防災の仕組みを作ろうとしたものです。消防庁に掛け合い、それなりに尽力しましたが力及ばず、今では沙汰闇になっているのは残念です。

実は盟友・河田氏はまことに無念なことに昨年晩秋、新型コロナウイルスのために尊い生命を落してしまいました。志半ばで逝った彼に報いるためにも、後継の若い専務理事を支えて、中小零細企業のために頑張りたいと思っています。

●熊森協会との20年こそ誇り

二つ目は、一般財団法人・日本熊森協会です。この団体は人と熊の共存こそ、森を守ることに通じるとの主張を展開している日本最大の自然環境保護団体です。熊が人里に出てきて人間との間でトラブルが起こるのは、一言で言えば、食べるものがないからです。原因は杉やヒノキといった針葉樹林ばかりが育ち、ブナやナラなどの広葉樹林が極端に少ない、昨今の森林事情に最大の問題があるのです。

私はこの団体の顧問になって、もう20年以上経ちます。最初は、「人間と熊とどっちが大事なんや、人間に決まっとるやろ」と、陰口を頂きました。しかし、私は「人間至上主義」は東洋の思想、仏教と相容れないと思います。大型動物との共存こそ、実は人間社会を破滅から救い、持続可能な地球社会を可能にするものだと確信しています。その理想を具体的に実現するこの団体に長く関わっていることこそ、私の誇りなんです。

三つ目は、一般社団法人・日本カイロプラクターズ協会です。現代人は腰痛、膝痛、肩痛を始め様々な肉体疾患と闘いながら生きています。かくいう私も社会人になると同時にぎっくり腰を患い、40年近く悩みました。ところが、ひょんなことからこの協会の存在を知ったのが幸しました。日本では鍼灸師、按摩・マッサージ師、柔道整復師、整体師などといった伝統的な東洋医学が幅を利かせています。西洋由来のカイロプラクターズは、殆ど市民権を得ていません。なんとかして欲しいとの要望を受けたのです。

そこで、わたしは自らの腰痛に効き目があるかどうか試すために、同協会の指導者・村上佳弘氏の施術を数回に渡り受けました。すると、まさに地獄の苦しみがパッと消えたかの如く、長年の腰痛が解消しました。直ちに顧問を引き受けたことはいうまでもありません。以来、今日まで、15年あまりこの協会の普及に関わっています。

 これら以外に、議員辞職後は、顧問という肩書きはなくとも、日常の人間関係の中で、頼まれるといやと言わずに次々と様々な団体、企業と関わっていくことになります。まるで「お助けマン」というわけですが、大衆の中に生きる政治家の〝嬉しくなるほど悲しい性(さが)〟とでもいうべきものかもしれません。(2021-2-25)

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【6】友達の友達は‥、異業種交流ワインを呑む会を共催ー平成25年(2013年)❻/2-19

●友達の有り難い、得難い申し出

議員退職後、さぞ赤松は無聊をかこってるに違いないと、心配してくれた〝世話焼き〟の友人がいます。明石高から早稲田大を経て、銀行マンを振り出しに神戸の経済界を〝浮遊〟し、人脈の豊富さは自他ともに認める川崎浩司氏です。見た目も中身も飛び切りのナイスガイ。もう随分前に井戸敏三県知事を介在して知り合い、馬が合うのか、かれこれ30年近い交友関係にあります。その彼が、自分の使ってる事務所を提供するので、月に一回をベースに「異業種交流ワインを飲む会」って、お互いの友人を集めて盛り上がる会をやりましょう、と声をかけてくれました。平成25年の春先のことです。

この会はスタートから既に8年を越えて開催、もうすぐ100回になろうとしています。場所も加納町から北野坂に移り、サロン風の素敵な事務所です。会費はほんの気持ちだけ。食べるものはそれぞれが持ち寄ってシェアするのです。私は、新たに名刺交換をした人を出来るだけ翌月の会にお誘いしよう、そして毎回新人を呼び、可能な限りこちらからは二度目は避けようと、自前のルールを作りました。この〝相棒〟が作ったサイトの案内を見て、来たい人は来るという仕組みにしました。そうすることで、世話がかからず、同じメンツが重なることを防いだのです。

月に3-4人ですと、年に30人から多い時は50人にもなりました。流石に最近は減り、年に新たな参入者は10人ぐらい。もちろん2人の共催ですから、お互いの交流が入り乱れ、友達の友達は皆友達との感じで、この期間に300人ぐらいの友人が増えました。大きな財産となっています。2人の共通の友人である井戸知事を巻き込んでいますから、よりグレイドアップに貢献してくれたともいえます。具体的な名前にはふれませんが、なかなかの兵庫・神戸のミニ社交場となっていると自負しています。

●「豆腐の会」や「高石会」で学んだことを生かす

実は、この会に類するものに私は二つ所属しています。一つは、神戸の老舗の牛肉屋「赤のれん」を会場にした、通称「豆腐の会」。もう一つは、姫路の歯科医で能の舞手でもある高石佳知さんの呼びかけによる「高石会」。この二つには現役時代から出席して、多くの仲間たちと交流を重ねました。

前者は、会場の経営者の畑中三生氏が私の大学同期(但し卒業は私が一年先)。このひとはまた無類の世話好き。神戸元町商店街や三宮センター街に顔が聞き、市役所にも通じることから、〝神戸の政商〟とも人は呼ぶくらい。往時は春夏秋冬、年に4回ほど彼の友人を中心に50人ほどが集まり、ワイワイがやがやと鍋をつつき、口角なんとうやらを飛ばしていました。今では考えられない風景です。

後者は、姫路商工会議所内の一室などを借りて、姫路の高石ファンが集う楽しい会でした(現在は休会中)。年に3回から4回ほどやっていました。このひとは単に歯科医というだけではなく、幅広い人脈を持っています。特筆されるのは、大阪市大の医学部の教授たちを巻き込んでの「骨粗鬆症ネットワーク」の主宰も務められています。私は両方の場に顔を出して、交遊を深めたものです。

この二つの会で学んだことをベースにして、冒頭に紹介した「異業種交流会」に発展させていったのです。

●園芸植物界の巨人との交遊

こうした集いだけでなく、私には様々な友人との交流があり、まことに賑やかなことが好きな性分です。議員を辞めて一気にその動きに弾みがつきました。交遊関係の一例をあげますと、最も巨大な存在でありながらも一般的には知られていない人が荻巣樹徳さんです。植物の種を求めてフィールドワークを世界に展開して、ご自分の名を冠した草花を数多持っています。「伝統園芸植物学者」とでも呼ぶのでしょう。先年、名高い「四川植物界名人」9人に、日本人として唯一人選ばれました。

こんな〝巨人〟と私がどうして知り合ったのでしょう。実は彼は宍粟市山崎町に関西電力傘下の企業メセナによって、ご自身が集めた園芸植物を保存する場を所有していました。その地は私の選挙区内でもあり、親しい白谷敏明町長(当時)のご紹介で懇意になりました。幾たびかの交遊を重ねるうちにこの人の大いなる〝値打ち〟を知るに至ったのです。

ところが、事情あってその地を離れざるを得なくなり、つぎの拠点を求めることになりました。それに私がひと役買おうと立ち上がっているのです。荻巣さんが山崎町を後にするというので、福元晶三市長や井戸知事、更に地元の支援者らに声をかけて、一夜送別の宴を催しました。平成25年の桜が咲き乱れる頃のことで、もう8年あまり経ちますが、昨日のことのように思い出されます。

残念ながら、結論は未だ出ず。兵庫県内を中心に触手を伸ばすも、帯に短し襷に長しというのが現状。苦労しています。荻巣さんがご進講を通じて親しくなられた皇嗣の秋篠宮殿下が、どうしてもないならうちの庭にと申し出られていると聞きますが、流石にそれには甘えられないでいます。(2021-2-19)

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【5】「安保法制前夜」でTBSニュース23に登場ー平成25年(2013年)❺/2-16

●「安保法制」大議論の先駆け

私が国会で仕事をした20年間のうち、多くの時間を割いてきたのが、「日本の安全保障」をどう安定的なものにするかというテーマでした。公明党でこの分野の先達は、市川雄一元書記長です。機関紙局長(公明新聞編集主幹)当時には記者として、数々の薫陶を受けました。その後には同議員の秘書を経て、代議士に当選してからも同様です。野党時代の公明党は市川さんを先頭に、日米安保条約体制のもとに日米同盟を堅持しつつ、憲法9条の国際平和主義を貫いてきました。21世紀に入って自公連立政権が常態となり、民主党に政権を明け渡すまでは、私が中軸になって「行動する平和主義」の側面を強めていきました。

「行動する」という言葉が冠せられているのは、座して平和を待つ「一国平和主義」の姿勢ではなく、積極的に平和を構築する担い手であるとの意味を持ちます。共産党は勿論、民主党当時の旧社会党勢力や、今の立憲民主党の中には公明党のこうした姿勢を誤解して、自民党の亜流と見る向きがあります。しかし、それは間違いです。私たちはどこまでも憲法9条を硬直化した姿勢で「縮小解釈」するのではなく、また自民党内改憲派のように「拡大解釈」するのでもありません。あくまで「適正解釈」に徹してきました。この方向性は私が辞めた後も、佐藤茂樹衆議院議員らを中心とする仲間達に受け継がれていったのです。

そんな時に、安倍首相は、新安全保障法制を作る方針を固めました。民主党を完膚なきまで打ち破り、与党勢力が圧倒的な議席を持った今こそ、永年の懸案である「集団的自衛権」の行使容認に踏み込むタイミングと決断したのです。ここから2015年5月に具体的な「安保法制」が閣議決定を経て国会提出されるまで、波乱含みの〝防衛論議の季節〟がやってきます。主舞台から離れた私ですが、まるで舞台袖で演技者たちの動きに気を揉む関係者のように、以前にも勝るとも劣らない動きをすることに。まずその先駆けは、TBSテレビからの取材依頼でした。

●TBSテレビ「ニュース23」の取材を自宅で受ける

担当記者が私の自宅まで来て取材するというので驚きました。こちらから出向くよと言ったのですが、いや行きます、と。9月4日に姫路までTVカメラを担いだ記者と二人でやってきて、狭い我が家の2階の書斎で撮影することになりました。小一時間ほどあれこれ喋ったのですが、後で放映されたのは3分にも満たずほんのちょっとだけ。雨が降っていたので、玄関先で記者に傘をさしかける場面まで収録されて、アットホームな感じが醸し出されてはいました。番組のトーンは、政府が、憲法が禁じる「集団的自衛権」を可能にしようとしゃにむに「安保法制」を準備している、これにブレーキを公明党や自民党はかけられるのかという内容でした。自民党は〝ハト派〟で宏池会のベテラン政治家・古賀誠氏でした。

この番組には重要な伏線が張られていました。あの「イラク戦争」で、無かった「大量破壊兵器」をあるとした米国、それに追従した日本政府。その誤認の主張に結果的に加担してしまった公明党の中で、積極的に論陣を張った私の深い反省です。番組の前半では、その後味の悪さが機縁となって、党の安保政策の総括文書に率直な事実を書き込んだ経緯を述べる私の姿が描かれていたのです。

●様々な反響呼んだ放映

後半部分では、私は「集団的自衛権の容認は憲法改正を必要とします」「もっともっと自民党にもの申さねばなりません。でなければ、なんのための自公政権かと言われかねない」と発言。精一杯の歯止め役ぶりを披露したものです。番組が放映されたのは、収録から二週間後の18日。偶々私は石川県へ家族旅行中。旅館の一室でテレビを見ることになったのですが、放映時間の短さに物足りぬ思いを持ちました。しかし、反響は大きく、友人、仲間から電話やメールをいただきました。

今なお覚えているのは、元フジテレビの報道局長から公明党参議院議員に転身した大学後輩の澤雄二君が、「赤松さんってこんなに〝左の立場〟だったっけ?」と電話をしてきたこと。前述の「総括文書」取りまとめの作業の仲間として、彼とはよく議論したものです。その際に、周りが右の論調だと、私は左バネを利かす発言をし、逆の場合はそのまた逆の発言をするという風に、天邪鬼的対応をほしいままにしていました。

これは、ひとえに党内議論を活発にし、真ん中の議論を生み出す狙いを持たせたつもりでした。ただし、それを周りはわかってくれていたかどうかは疑問です。澤君は一貫して「左」を貫く発言をしていましたから、時に私とぶつかったとの記憶が強く残っていたものと思われます。(2021-2-17  一部修正)

【5】「安保法制前夜」でTBSニュース23に登場ー平成25年(2013年)❺/2-16 はコメントを受け付けていません

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【4】日本の歴史と伝統を学ぶ古都めぐりへー平成25年(2013年)❹/2-9

●「海外旅行はご法度」になった妻の惨めな体験

議員定年退職後の仕事探しを気にする一方、私が模索したのは妻との小旅行です。結婚式・披露宴の日(昭和47年9月15日)が旧国鉄史上未曾有のストライキとぶつかった上、台風襲来と重なったことは既に書きました。このため、新婚旅行がボツになり、その責めを取り返すべく、30歳代は結構旅行をしたものですが、政治家の道を選んだ40歳代から30年間ほどは、あまり行く機会がなくなりました。私は議員視察で、国内外を問わず、あちこちと飛び回ったのですが。この間、妻は文字通り〝家内〟で、私の留守を預かる地域周りで忙しくしてくれていたのです。その慰労をせねば、と思うことしきりでした。

以前に、娘と二人で海外へ行ってきたら、と一度だけ私がハワイ旅行を手配したことがあります。それなりに喜んで二人は出かけたのですが、そこで、到着後すぐにとんでもないことに遭遇したのです。ホノルル空港に到着した際に、まつわりついてきた〝記念写真業者〟に、手乗り文鳥かなんかをのせて写さないかと、せがまれたのです。そこまでは良かったのですが、写した後で、法外な値段を要求されたといいます。英語がよくわからないこともあって、黙って払ってしまったのです。このショックで以後ずっとホテルにいたまま、買い物も外には出る気にならなかった、と。

「語るも涙、聞くは笑い」の惨めで可哀想な話を帰国後聞かされました。もう金輪際、海外旅行は行かない、と妻は言ってきかず、それ以来、今に至るまで一切行きません。友人の間では海岸旅行を奥さんからせがまれる連中も少なくないと聞きますから、それに比べて安上がりなんでしょうが寂しいものです。心の傷双方に癒し難く、せめて国内温泉旅行をと思うものの、せいぜい上京の行き帰りにちょっと横道にそれる程度でした。

●妻との旅を年に4回も繰り出す

そこで、引退後は、と勢い込んだのです。第一弾は、3月18日、19日。伊勢神宮に参拝した後、賢島へ。新聞広告に出ていたニュー浜島ホテルに一泊。海の見える庶民的でリーズナブルなところでした。翌日は、伊賀上野に。メナード青山リゾートホテルに泊まりました。ここは一転、山の中。中々高級感漂っていました。第二弾は、4月17日に広島・宮島へ。親しいお付き合いをしている歯科医の高石佳知さんが宮島神社の能舞台に出られる(この人は姫路城薪能の主催者)というので、それを観賞するのが主目的。天皇も泊まられたという旅館「岩惣」に一泊しました。翌18日は、宮島ロープウエーで山上へ。周辺散策をした後に、市内に足を運び、原爆ドームを見学しました。ついでに、学生時代お世話になった先輩ご夫妻と駅前で合流、旧交を温めたのです。

更に第三弾は、7月29、30日に島根・出雲神社へ。夜は、玉造温泉・長楽園に宿泊。翌日は松江城を中心に市内観光。このお城の持つ独特の風格は大いに気に入りました。特にお堀が見事で、舟遊びが楽しく、姫路城のお堀は負けているというのが偽らざる実感でした。続いて第四弾は、9月18、19の両日に石川県へ。日本一との評判が高い温泉旅館「加賀屋」に一泊したあと、金沢市内に移動、兼六園や東茶屋街を散策しました。かつて読んだ丸谷才一、山崎正和ご両人による対談『日本の町』には、京都は文化を売り物にしているが、金沢は文化そのもののなかで暮らしているといった風な意味の指摘があり、印象に残っています。尊敬する二人の碩学の言葉を味わう一日となりました。

●旧友との古都・神社仏閣めぐり

妻との旅は結局のところ神社めぐりになってしまいました。実は大学時代の親友・尾上晴久君との奈良、京都、和歌山の古都・神社仏閣詣でも、この頃に本格化したのです。彼は横浜に住まいはあるものの、三重県鳥羽市にある小久保鉄工所に単身赴任。そこで、月4回ほどの週末の休みを使って、せっせと車で古都めぐりを展開。40歳台から約30年もの間に、合計数百回もの訪問を重ねてきたというつわものです。名所旧跡に繰り返し足を運んでいて、並の観光ガイド以上に大概のところは知り尽くしているのです。

かねて、私に対して、「古都の神社仏閣を知らずして日本の歴史、伝統、文化を語る資格はない、とりわけ政治家はその道に通じていないと恥ずかしいぞ」と耳の痛いことを言い続けてきてくれたのです。共に68歳になった年に、ようやく彼の案内で少しづつ私もそうしたところを回ることにしました。初年度の平成25年は、2月2日、3日に橿原神宮を皮切りに、明日香周辺を散策しました。これには社員教育指導者で作家の畏友・寺松輝彦君も東京から参加。古代史に造詣深い二人の会話は、私の耳目をそばだてるだけの関心深いものがありました。橿原ロイヤルホテルに一泊した翌日は、畝傍山から香具山、甘樫丘、飛鳥寺などを経て、今井町へ。古き佳き奈良を十二分に堪能したしだいです。

●いく先々でゆかりの後輩をも巻き込みながら

また、6月30日には大学同級で元大阪毎日の辣腕記者・成相幸良君(八尾市在住)と合流。3人で法隆寺から矢田寺、松尾寺と回りました。あじさいが今を盛りと咲き誇っていたのが印象に残っています。この小旅行には途中から、地元紙記者のY嬢も飛び入り参加、花を添えてくれました。彼女は神戸の流通科学大の学生だった時に、知己を得たのですが、私の後半生で出会った最も粋のいい女子大生の一人です。

更に10月5、6日には、尾上、成相の3人で和歌山県へ。初日は海南市の藤代神社から熊野古道を歩き、有田川温泉に泊まりました。翌日の日曜日は、紀三井寺から名草山へ。これには私の高校の後輩で厚労省から和歌山県庁に出向してきていたM嬢を誘い出しました。この人は同省で知り合った後輩の中で一二を争う仕事熱心で爽やかな女性です。この尾上との古都めぐりは、現役時代も含めると、大小取り混ぜて30回を悠に超えています。最初の頃は宗旨が違うとか、仏像とは美的感覚が合わないなどと、つべこべ言っていました。ですが、今では彼の親切極まりない手ほどきを受けて、本当に良かったと心底から思っています。

また、11月5日、6日には大学時代の一期上の元郵政相・日笠 勝之さんから誘われて、岡山・倉敷の旅に出かけました。奥さんも一緒にどうぞと、有難い声をかけていただいたのですが、妻は残念なことにお断りしてしまいました。行き過ぎた旅に遠慮したようです。尤も、この旅の前日4日には、娘が2度目のお産で男の子を授かったのです。もし、旅に行って家を留守にしていたら、娘から相当に恨まれたはず。爺さんはひとり、初の男の孫の誕生に、岡山ゆかりの「桃太郎の唄」を口ずさみながらの旅に出かけるしだいとなりました。この旅では公明新聞の後輩で岡山に嫁いだK女史を呼び出しました。彼女はかつての職場の紛れもなきアイドル。見目麗しく情けもあり過ぎるほど素敵な女性でした。

このように引退初年度は、籠から解き放たれた伝書鳩のように、次から次へと旅に出かけ、ついでに旧交も温めまくったのです。(2021-2-9)

 

【4】日本の歴史と伝統を学ぶ古都めぐりへー平成25年(2013年)❹/2-9 はコメントを受け付けていません

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【3】幻と消えたエッセイストデビューー平成25年(2013年)❸/2-5

●自信持って「神戸新聞」にエッセイ投稿

読者による小説とエッセイの投稿ー地元紙・神戸新聞に定期的に掲載されていることは知っていました。引退してしばらく経った頃、それに応募することを私は思い立ったのです。テーマは「本を読む」という行為について。若き日に、書店の書棚に並ぶ膨大な本を前に、友人が「本って、こんなに沢山有る。どないあがいても一生に読める本は限られとう。そやから僕は読まへん」と言ったのです。その時、私は「いや、そやからこそ、僕はせっせと読むんや」と呟きました。そんなことから口火を切って、読書遍歴をなぞったあと、決定的な転機となったエピソードを折り込む‥‥。私の妻に本を読む習慣が殆どないことを、人前で披露したことに対して、怒りを込めて彼女から「この人は確かに本を沢山読むけど、なあんにも身についてないんです」と逆襲されたショック。

他方、所帯を持った娘夫婦に蔵書をやがて譲るとの話をしたら、「私たちは家に本を置く習慣って、ない。本は基本的には図書館から借りて読むので、いりません」と言われた時の驚き。喜んで頂きますと言うに違いないとの思い込みが崩れたショック。そして、今は本に興味を持っている孫娘がやがて成長した頃には‥‥。紙の本に代わって、電子書籍が横行する時代になるのかも。これまたショックに違いない。こうした三つのショックを立軸に、ショーペンハウエルの『読書について』の「ただ次々と本を読むだけでは、運動場をぐるぐる回ってるようなもの」といった警句を横軸にして、その構想を組み立て、書き進めました。タイトルは『本好きが行き着いた果てに』。本と人との関わりを、私の実人生のエピソードに絡めてユーモアを込めて描く構想です。

これは圧倒的に面白くてためになる、きっと受けるに違いないとの確信を持った私は意匠を様々に凝らし抜いて書き上げました。そして自信満々で投稿。発表を心待ちにしたのです。が、結果はボツ。佳作として名前は上がっていましたが、紙面への採用はなし。敢えなく私の夢は消え去りました。この寄稿が紙面を飾れば、これから「エッセイスト」との名刺を作るぞ、と思っていたのですが‥‥。この時のショックは今もなお引きづっているのですから、哀れなものというしかありません。

●大学教師の口はていよく門前払い

大学客員教授あるいは講師といった肩書きも魅力的でした。学問を教える、学生に講義するということよりもその肩書きを持って、あれこれ文筆活動や講演活動をするということは、かねて私が志向するところではありました。さて、じっとしていてもどこからも声はかかりません。色々思案し、考えを巡らせた挙句、高校の後輩が理事長を務める某大学にアタックすることにしました。直接、理事長にアポを取り、面会に挑みました。

私の一存では決められないので、時間をくださいとの反応の末、数日後の答えはノー。大学の教員なんて、割りの合わないしごとですよ、長時間拘束されて、報酬は僅か、何を好き好んで、そんな仕事したいですか?、とにべもない。「いや、そうではなくて、肩書きが欲しいだけ、報酬には期待していない」とは流石にはっきりとは言えず、すごすごと引き揚げました。結局、武士と同様に、代議士は食わねど何とやらで、みっともない〝猟官活動〟は止めることにしたのです。

●国会議員の仕事ぶりをチェックする機関を

この頃、私が真剣に考えていたのは、国会議員の仕事ぶりをチェックする機関を作れないかということでした。議員の「資産公開」は大事な情報公開ではありますが、それだけでは十分ではありません。選挙前には掲げる政策が提示されますが、それへの遂行状況は明らかにならないまま。いわば言いっぱなしの聞きっぱなしです。それを正すには、各委員会での議員の質疑のありようをきちっと査定する機関などができればいいと思ったのです。

これができれば、議員は緊張すること請け合いです。与党の馴れ合い質問や、野党の腰砕け質問は、どこからもチェックされないから、ダラダラと横行する。これを暴くことができれば状況は大きく変わるはず。ただし、どういう基準で査定するか。勿論、議員や政党側からは反発があることは当然です。そうこう思い続けて未だに答えが出せずにいます。昨今の政治家のまたぞろの不祥事の連発を見るにつけ、こういう機関が陽の目を見ていれば、随分違っただろうなあと思うしだいですが‥‥。

また、地域の青年たちと共に郷土の歴史を学ぶ場を作れないかとも思いました。相互の打ち合いを通じて、明日を担う青年を育てることの大事さを痛感していたからです。これは党派を超えて県議会議員らと一緒になってやろう、と呼びかける準備をしましたが、これもまた挫折してしまいました。そんなこんなで定年後の仕事は何もかもうまくいかず、路頭に迷ってしまいました。(2021-2-5)

 

 

 

 

 

 

【3】幻と消えたエッセイストデビューー平成25年(2013年)❸/2-5 はコメントを受け付けていません

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【2】元中核派幹部や円教寺住職との出会いー平成25年(2013年)❷/1-31

●「地下に潜伏」していた旧友との50年ぶりの再会

1960年代半ばに大学生活を送った私の世代は、学生運動との縁がそれなりにあります。私の高校時代の友人では、京大や早稲田大に進んだ連中に若干ながら活動家らしき仲間がいました。なかでも水谷保孝君は早稲田大中核派の一方の旗頭として名を馳せた存在です。勿論、そのことを知ったのはずっと後になってからですが、彼の活動が世間を騒がせたのは、あの米原子力空母エンタプライズの佐世保港入港阻止運動で逮捕されたことでした。しかし、新聞報道で驚きを持って知っただけ。長きにわたって気にはしていましたが、遠い存在として記憶のかなたに浮遊していました。

そんな彼が60歳の還暦を迎え、その道から〝足を洗った〟らしいとの噂が私が議員を辞める少し前に入ってきたのです。社会主義革命に殉じる人生を若き日からほぼ一貫して過ごしてきたかつての友と会うのは面白かろうと思いました。人づてに聞いた連絡先に電話を入れて、行きつけの溜池の居酒屋で会うことにしたのは1月半ばのことでした。その経歴からは全く類推出来ない普通の風貌には拍子抜けするばかり。娑婆世界に戻って8年ほどの歳月が過去の残骸を洗い流したのだろうと勝手に思うことにしました。40年近い「地下生活」のあと、友人の世話で編集者の仕事をしているとのことでしたが、落ち着いた優しい佇まいは昔のままでした。それは代議士生活20年を感じさせない普通のおっさんの私とて同じこと。客観的に面白いはずの二人の出会いは、平凡な語らいに終始したのです。彼の内心はいざ知らず、私はそれなりに熱く燃えていましたが、自制を利かした次第です。

ただ、それからしばらくして、彼が岸宏一氏と共に出版した『核共同政治局の敗北 1975-2014』は、流石にその道の活動家らしい〝筋金入り〟を感じさせる中身でした。尤も、読み物としては全く面白くなく、およそ〝革命の遺物〟そのもの。私は早速にその感想を読書録ブログに公表しています。題して「ある左翼革命家の敗北と新たなる旅立ち」。これは2015年6月17日に書いたものですが、彼への挑発の趣きもある中身でした。

【(この本では)沈黙を破って普通の人間としての生の声を書いているものと期待した。なぜ自分たちが左翼革命運動に挺身し、夢破れたかを赤裸々に明らかにしている、と。だが、ここには彼らの主たる敵である革マルへの徹底した糾弾の声のみが際立つ。革マルは「世界史的にも類例のない『現代のナチス』と呼ぶべき存在」だと口を極めて罵ることの連続なのだ。鎮魂の書ではなく、新たなる告発の書なのである。】

このほかあれこれと私は書き連ねているのですが、紙数の都合で残念ながら割愛します。ともかく、正直に彼の書いたものを遠慮会釈なく断罪しているのです。これに対して、彼は「書いてくれてありがとう」というだけで、それ以上の言及はなし。反発ぐらいしてほしかったのですが。残念なことでした。

●書写山円教寺・大樹住職さんとの出会い

姫路の観光地といえば、国宝・世界遺産の白鷺城と並んで書写山円教寺が「西の延暦寺」ともいわれるように有名です。映画『ラストサムライ』のロケ地になった経緯において、監督のエドワード・ズウイック氏が「ここには千年前の空気がそのまま残っている」とのコメントで絶賛したことが伝えられています。それだけ空気が清浄であり、静かで厳かな雰囲気が漂っていて、観光地ずれがなく「現代」に汚されていないということでしょう。現役時代は殆ど行く機会がなかったのですが、引退してからは、遠来の友を案内する機会も増え、しばしば足を運ぶことになりました。そこで、もう一つの珍しい出会いをすることになります。

その出会いのきっかけは、姫路慶應倶楽部の仲間である村瀬利浩さん(姫路経営者協会前専務理事)が、円教寺の大樹孝啓住職(第140代長吏)の娘婿だと分かったことでした。同住職とは姫路市内での重要な会合の際に袈裟衣姿を時折りお見かけしたこともあり、一度きちっとご挨拶をするべくお山に登ろうと決めていました。地元の著名な存在に会わねば、との単純な思いからです。秘書役ともいうべき村瀬さんにお願いしたところ、快諾していただき、ご対面は春3月の25日に実現しました。

大樹住職は、その名の通り大きい樹木のような人でした。しかもただ大きいだけでなく、天台宗全体のNo.2という大変な地位を感じさせない、爽やかで柔和な方でした。微笑みながらの「私に会いたいと言ってここに来た創価学会、公明党の人はあなたが初めてですねぇ」との発言から始まって、世事万般にわたっての会話をさせていただきました。今に印象深く残っているものから二つに絞ってみます。一つは我が宗派は鷹揚(おおよう)というか、いい加減なところがあってねぇ、朝お題目で夜はお念仏を唱えるんですよ、とのお言葉。心底驚くと同時にこの人から聞くと妙に納得するところがあったしだい。もう一つは、私はお風呂に入るたびに、身体中の関節を揉みほぐすのですよ、との健康法。なるほど、と感心しました。相手するものを包み込む、温かな人物の大きさを味わったのです。96歳の現在もお元気で活躍されていることは嬉しい限りです。

●次に何をするかー夢は荒野をかけめぐる

国会議員を辞めて、さて何をするかーこれには悩みました。68歳は立派な老人ですが、使いよう、動きようによってはまだまだ働けます。諸先輩、仲間も色々苦労されていますが、再就職にあたって難しいのは、やはり「元衆議院議員」という肩書きです。これが陰に陽に邪魔をしてうまくいかないのです。私の親しい創価学会の大幹部は、議員を辞めたら、ひたすらお世話になった方々のために、広宣流布のために、ご恩返しを考えて動くんだよ、とアドバイスしてくれました。それには全く異論はないのですが、その流れに専ら入るのはもう少し先でもいいと思ってしまいます。当面はやはり社会的価値のあることに従事したいし、それなりの報酬も得ないと、先行きが不安だとの思いもちらつきます。

若い人たちのために青年塾を開設してみようか、いや、大学の教員の肩書きを得て物書きをしようかなどと、文字通り「夢は荒野を駆け巡る」のですが、生来の無趣味、不器用さが災いして的が定まりません。そんな時に「小説、エッセイ募集」の記事を新聞で見るのです。心が動きました。(2021-1-31)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【2】元中核派幹部や円教寺住職との出会いー平成25年(2013年)❷/1-31 はコメントを受け付けていません

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【1】お世話になった人々、忘れ得ぬ恩人たちー平成25年(2013年)❶/1-30

●再び与野党逆転。自公が政権に復帰

2012年の年の暮れも押し迫った12月26日。第46回衆議院総選挙は投票日を迎えました。結果は、自民党が119議席から294議席へと地滑り的大勝利。一方民主党は230議席から57議席と壊滅的敗退。再度政権交代が起こり、民主党は僅か3年で下野することになりました。この間、野党になっていた公明党も与党の座に返り咲きます。21議席から10議席増の31議席になりました。この選挙では、日本維新の会が11議席から54議席になったことも特筆されます。そして、安倍晋三元首相が復活、第二次政権を担うことになりました。

この一連の動向を一市民、一前議員として見ることになった私は、先の大戦直後の衆議院選挙でひとたびは政権につきながらも、直ぐに政権を去った日本社会党を思い出していました。民主党も「一度やらせてみては」との声を背景に、政権を奪取したのですが、その政権運営の稚拙さから下野せざるを得なかったのです。これで、民主党は再び政権の座につくことは難しかろうと思いました。尤も、戦後まもない当時と今とでは選挙制度が違うので、必ずしもこの見立ては正しいかどうかは分かりません。ただ、多くの国民が抱いた失望はそう簡単に取り戻せないと思ったのです。かくいう私は、二大政党制の実現を待望し、「早くおいたて民主党」と敵にエールを送ってきただけに、少々残念な思いを持ったことは正直否めなませんでした。

新年からは、旧兵庫4区つまり姫路市を中心とした播州地域を始め、兵庫県全域へのご挨拶まわりを始めました。各地の公明党の市議、町議の皆さんの車に乗せてもらい先導していただきながら、一軒一軒回ったのです。といっても、ほぼ25年前の初挑戦の時のようなわけにはいかず、かなり間引きした形でのお礼回りになったことは残念なことでした。

●お世話になったあの人、この人に挨拶回り

平成の初めに選挙活動に入り、初当選まで足掛け5年。当選から引退までの20年、合計25年の間にお世話になった人々は膨大な数になります。引退したことをお伝えし、直接お礼を述べるべく、まずは姫路市を中心にした旧中選挙区を回りました。その行為の中で、過去の様々な出来事が思い浮かんできました。姫路市での忘れ得ぬ出来事は、婦人支持者の代表的な存在だった長瀬昭子、西本時代さんのお二人が活動の最中に車中で信号待ちされているとき、後ろからきた車に激突されたことです。幸い最悪の事態には至らずに済みましたが、この時は肝を潰しました。と同時に姫路市、兵庫県の選挙での「宿命転換」をしたのでは、と大袈裟ながら思ったのです。

と言いますのも、これまで選挙戦の最中に、候補者が交通事故で亡くなったり、事故死されたケースが散見されたからです。特に姫路市から県議に出ていた今井さんが選挙期間中に自転車で走行中に車に跳ねられて亡くなり、急遽ご夫人が出馬されたことは聞かされていました。事故にあわれたお二人は、候補者たる私の身代わりになられたと思わざるをえなかったのです。それが無事だったことは、本当に「守られた」とホッとする思いでいっぱいになりました。

姫路の県議選というと、いつも大激戦でしたが、故北川東作さんが僅か7票差で当選したことは今もなお語り草です。この人は誠実そのものの人で、車を運転されず、どんなに遠くでも自転車で移動されたようです。私の初の選挙では事務長をしていただきました。公明党の地方議員のお手本のような真面目そのものの方でした。また、元県議では難波功さんも挙げねばなりません。この人は元山陽電鉄労組幹部で、私の叔父・保男の後輩でもありました。労組で鍛え抜かれた論客でしたが、心底からの優しさを持った人です。多くの人々が選挙中に「声は高いが、腰は低い難波いさお」と称えていたのも、むべなるかなと思ったしだいです。私よりひと世代上の大先輩ですが、ありとあらゆる面で助けていただき、今もそれは続いています。

●今も瞼に残る光景の数々

姫路での選挙戦ー中選挙区での2回の選挙ーは今もなお語り継がれる大激戦でしたが、瞼に残る様々の光景から一つだけ印象深いものを挙げてみます。遊説カーで走っていたときに、遠くの道路を車イスで動いていた青年が私の姿を見て、手を振り不自由な足を上げて、文字通りころがらんばかりの振る舞いをしてくれたことです。故福田佳之助市議のご長男・佳弘さんでした。涙ぐましい応援をありとあらゆる人々から頂いたのですが、その象徴的な場面として、今もなお目と心に焼き付いています。

また、お世話になった関係者とのお別れ懇親会も数次に渡りました。例えば外務省の皆さんとは、総選挙の終わった翌12月27日にやりました。木寺昌人官房長の音頭で親しい仲間数人が集まってくれたのです。有り難いことでした。木寺さんはその後中国大使を経て、現在フランス大使をされていますが、先年私がフランス、ドイツ、ベルギーに友人と共に旅をした際に、再会できました。女性として初の同省・局長級ポジションについた佐藤地(くに)さん(当時ユネスコ大使、前ハンガリー大使)も、交友深いものがあり、パリの大使館に駆けつけてくれて、束の間の旧交を温めることになったのも忘れ難い一コマです。

人との出会いと別れについては、色々な思いが絡むのですが、積極的に出会いを求めて動きに動いてきた私です。とくに対人関係では「衆議院議員」のくびきから解き放たれたこともあって、自由奔放さが輪をかけたのかもしれません。偶然もそこに重なって、我ながら驚きのご対面をすることになりました。(2021-1-30一部修正)

 

【1】お世話になった人々、忘れ得ぬ恩人たちー平成25年(2013年)❶/1-30 はコメントを受け付けていません

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