革命的な3人の歯科医たちの挑戦

凄い人がいるもんだとあらためて深く感心した。27日のNHK総合テレビで放映されたプロフェショナル 仕事の流儀 『ぶれない志 革命の歯科医』で取り上げられた熊谷崇さんのことである。ご覧になった方も多いに違いない。見損なった方は、なんらかの手段で見られることをお勧めする。番組での世界屈指の歯科医との触れ込みも決してオーバーではないと思われる。35年にわたって取り組んでこられた予防歯科治療は今、山形県酒田市で大きく実り、全国に広がろうとしている▼歯は痛くなったら歯医者さんに駆け込み、痛みが取れたらそれでいい、しばらくは行かない、という人が大半だろう。しかし、痛むようにならないための治療に取り組む熊谷さんは、患者のそういった安易な姿勢を許さない。痛み止めの応急措置はするものの、口腔をきれいに清掃してからでないと、直接的な歯の治療はしないのである。およそ27もの治療室はすべて個室で、歯科衛生士は20人もいるという。歯垢をとるために歯の間をフロス(糸で摩擦)したり、唾液検査もするという徹底ぶりだ▼歯はその人の人生そのもので、歯科医師は患者のパートナーにしか過ぎず、どこまでも患者本人のメンテナンスをする姿勢に健康な歯はかかっているという。実はこうした基本の考え方を持つ凄い歯科医は私の住む姫路市にもいる。河田克之さんだ。ジャーナリストの青山繁晴さんと淳心学院中高等部での同級生同士の間柄で、昨年対談本『青山繁晴、反逆の名医と「日本の歯」を問う』を出版した。この人も徹底した歯石取りを進める。歯磨きだけで事足れりとする姿勢を改めることを強調し、歯周病菌が歯槽膿漏の原因ではなく、歯周ポケットにたまった歯石にあるというのだ。歯石取りを習慣化しない歯科医界の現状やそれを放置する厚生労働行政に警鐘を乱打している▼わが姫路にはもう一人凄い歯科医がいる。既に何度も紹介してきたが、高石佳知さんだ。この人は、歯に骨密度が集約的に表れ、骨粗鬆症の予兆は歯に出てくるという仮説を立て、ついにそれを裏付ける検証を行った。海外で学術論文を発表し、高い評価を受け、今では骨密度を測るためのソフトも開発した。かつて私はご本人から事情を聴いたうえで、衆議院予算委員会分科会で質問にたち、厚生労働省に注目を促した。こういった方々の主張や研究をもっと多くの歯科医や内科医が注目する必要がある。どんな世界でもそうだが、出る杭は打たれる傾向にある。この人たちの試みが大きな潮流になることを強く期待している。(2014・10・29)

高校卒業50年の同期会の席上考えたこと

先日、高校を卒業してことしは50年になるので記念の同期会があった。わが母校は兵庫県立長田高校。旧制でいうと神戸三中。昭和39年の卒業だ。後輩たちの頑張りで今や兵庫県下でも有数の受験校として知られているのはうれしい限りだ。しかも運動や文化活動にあっても決して他校の後塵を拝するばかりではなく、結構有名をはせている。その卒業の年は、いうまでもなく東京オリンピックが行われ、東海道新幹線が開通した。そしてわが公明党も結党された。文字通り食べるのにも事欠いた戦後に一区切りがつき、高度経済成長への道を驀進し始めたばかりの頃といえよう。同世代の歴史家・松本健一氏に言わせると、「1964年(昭和39年)は日本社会が転換した年」だ。我々の親からすれば戦後16年が経って子どもたちを高校に進学させ、3年後に卒業させたということで、本当にホッとした時期だったと思われる▼生まれた年はまさに先の大戦のただ中で、その数たるや少なかった。少し前の世代が産めよ増やせよの世代で、すぐ後が団塊の世代というわけで、ちょうど瓢箪のくびれ部分のような少子化の年代である。それだけに競争という観点からすると、かなりゆっくりした世代であったといえる。つい先ほど世代論を取り上げていたNHKのテレビ番組「オイコノミア」によると、1950年代からはしらけ世代,新人類世代、そしてバブル世代と続き、1970年代からは団塊ジュニア世代、1975年ぐらいから10年間ほどは氷河期世代といわれ、その後はゆとり世代から、この20年ぐらいに生まれた子どもたちはさとり世代と呼ぶようだ。要するに、生まれたときから不景気続きで、「世の中そんなものと悟っている世代」だというのだ▼そうした若い人たちの苦労を横目に、右肩上がりの経済成長のただ中で生きてきた我々世代はまことにラッキーだったというほかない。私は今年の前半期に、小中高大の同期の友人たちとの対談を電子書籍として出版した。そのうち、小学校の竹馬の友で、現在住友ゴムの会長をしている三野哲治君とは『運は天から招くもの』というタイトルで対談をしたが、要するに我々の生きてきた時代は幸せだったということを、関西経済界を代表する一人の経営者として語っていた。また、長田高校時代の同期の高柳和江さん(笑医塾塾長、元日本医大准教授)と、飯村六十四君(内科医)とは『笑いが命を洗います』との題で鼎談をした。ここでも3人は高度経済成長期と重なる躍動感に充ちた青年前期を語り合った。そんな世代と比べると、後に続く若者たちはまことに経済的には苦労が多いように思われ、先輩世代は彼らからすると、罪深く映るはずだ▼時代の甘い汁だけをたっぷりと吸い尽くして,遅れてきたる世代に何も残さないとすれば、確かに問題は少なくない。少し前の総合雑誌での世代間討論が妙に記憶に残っている。それは、そこそこの年金を貰って退官しようとする団塊世代の大学教師に、年金に将来期待が持てない今の大学生が「先生、逃げるのですか」と厳しい追及の矢を放つという中身だった。ともあれ恵まれた時代の子としての我々世代も、ついに齢70を迎える。その時代の意味を自覚したものたちが遅れて来るものたちに何を残すか。その真骨頂が問われるなあと、50年ぶりの再会場面で考えた。(2014・10・25)

 

秋祭りの屋台をちょぴり担いだ肩の痛み

この一週間、両肩が痛い。先週の日曜日の地元の秋祭りで、屋台をほんのちょっぴりながら担いだためだ。これまでの人生で初めての経験である。今まで地域の自治会絡みのことはすべて家内に任せてきたのだが、今年からどうしても自治会副会長を引き受けざるを得なくなってしまった。粗大ごみの分別、整理など、あれこれと地域行事のお手伝いやらお世話をさせていただいているが、秋祭りでは格別の経験をさせてもらったのだ▼太鼓を叩く小さな子ども4人を含めて、屋台なるものは、およそ1000キロ、1トンはありそう。それを4、50人で担ぐ。一人当たり25キロから20キロの重みが肩にかかってくる計算だ。ところが、その人数を集めるのが年々難しいという。今年は40人を切ってしまった。一段と重くなってくる。私は担ぐ役回りではなかったが、つい見るに見かねて、飛び入りしてしまった。いやはや重かった。というより角棒が無性に痛かった。足はもつれてしまい、危うく転びかねない危険すら感じた▼一瞬、屋台が横転し大惨事になるという悪夢が頭をよぎったことも。時間にして5分間ぐらいだったが、貴重な経験をさせていただいた。若い男たちが力を合わせ屋台を担ぐのを、女や子どもや老人たちが囃すーこの他愛もない行為が持つ、浅からぬ因果関係に思いが及んだ。大げさながら、この構図が地域連帯のカギを握っているのかもしれない、とさえ。遠巻きにみているだけで、われ関せずの住民が殆どで、ごく一部の人だけが取り組む祭りの現状を変えていく必要を感じた。自ら屋台を担ぐことで、である▼昨日は、「人権を考える会」が催されるというので、小学校の体育館に足を運んだ。同じ町に住む子どものいじめを、見て見ぬふりをしていた新任の自治会副会長が、地域交流の大事さに目覚めるという短編の人権啓発映画『ヒーロー』が上映された。なんだか身につまされ、苦笑いやら涙ぐむことをも禁じ得ない作品で、印象深かった。また「公民館活動と人権とのかかわり」と題する講演も、小学校の校長を定年で辞めたあと、公民館館長をすることになったという人の体験談で、なかなか聞きごたえがあった。ヘイトスピーチが横行する現代社会を草の根から考え直すいい機会にもなった。肩の痛みが心なしか心地よく感じられてきたのはいささか不思議なことではある。(2014・10・19)

黒澤組の職人が作った私好みでない映画

映画『蜩ノ記』を観た。観る前に、あまり感動しないのではないかとの予感がしていたが、案の定と言えなくもなかった。というのはこの原作小説がわたし好みの映画には向かないと思っていたからである。映画は、一にも二にも激しい動きを持って是とする、というのが持論。活動写真というのに、静かな映像で理屈が多くては相応しくないと思う。加えて映画にはカタルシスが不可避だ。辛い、苦しい、怒りに震えるような映像の連続が続き、途中でそれが一気にはね返されてスッキリするといった流れがないとつまらない。それはお前の好みだろうと言われればそれまでで、まったく違う好みの人もいよう▼残念ながら、これはもうわたし好みの映像ではなかった。ある罪のために10年後の切腹と自宅での藩史執筆を命じられた侍・戸田秋谷とその監視役として送り込まれた若侍・檀野庄三郎。静謐そのものの物語りの展開。主人公の役所広司は凛としており、助演の岡田準一もきちっとしすぎの観が強い。全体的に悪役が充分に描かれておらず、抑圧されたものが一挙に解消されるという筋書ではない。もっともっと理不尽な状況がしつこく前半で描かれないと、後半のスッキリ観が薄れてしまう。中途半端が否めない映画であったというのが私の率直な印象である▼尤も、先日の日経新聞の特集によると、この映画は黒澤明のまな弟子であった小泉堯史の6年ぶりの新作らしく、本物志向を貫く職人たちによる黒沢組のDNAを引き継いだ作品だそうだ。登場する家譜や日記の類は、すべて本物の書家がきちっと書いた。そう指摘されてみると確かにきれいな文字の羅列が印象深い。役所、岡田の二人が並んで書を書いている場面も幾度かあるが、書道の練習が課せられたというだけあって様にはなっている。それはそれで結構なことだが、肝心要の筋書がドラマティックな運びでないと、苦しい。というか、そうしたものが生きてこないのではないか▼原作について私は登場人物が眩しいほど立派すぎるというような感想を持った。映画はその原作に引きずられすぎたのではないか。確か、黒沢組には橋本忍という類まれな脚本家がいて、原作を大きく書き換えてみるといったような試みがなされたことが大きな役割を果たしたと記憶する。偉そうなことを書いてしまったが、あくまで私の視点だ。この映画にケチをつける気持ちはないのであしからず。黒澤映画に欠かせなかった三船敏郎や仲代達矢らの印象が私にはあまりにも強いからなのかもしれない。(2014・10・13)

 

植村直己は高所恐怖症だったという謎

台風18号の足音が響き近づく中で、かねて予定していた山と海への旅を強行した。山とは、蓬莱山。大学時代の親しい友二人と、1174mの山頂から眺める琵琶湖の眺望は素晴らしかった。尤も、JR湖西線志賀駅から蓬莱山の隣に位置する打見山までは日本最速のケーブルカーで一気に登れる。だから歩いたり登ったのは二つの山の稜線をちょっぴりだけ。しかしそれでも、蓬莱山の山頂から小女郎峠までは山登りに慣れぬ者にとっては厳しかった。何よりも、台風の余波を受けてか、かなり風速が強く、一瞬でも油断すると谷底に落ちてしまうのではないかと恐れる場面もあった。過去10年ほどの間に同じ仲間で、奈良や和歌山、京都の山々を一シーズンに一回ほど登ってきたが、一度ならず遭難しかけたこともあり、毎回が命がけといっても過言ではない▼海の方は、山陰・浜坂海岸から船で行くジオパーク見学。私が今相談役として関わる企業が企画したモニターツアーに同行した。この旅は二回目。およそ珍しい岩肌や奇岩や洞窟などをたくさん見ることができるので何回も行きたいと思い、再度挑戦してみた。この日は残念ながら台風の余波でかなり海は時化ており、船上見学は30分間がやっとだった。フル行程は90分間なので、ほんのさわりだけ。というよりも入り口だけで引き返したというのが相応しい。船は大きな揺れに襲われ、船酔いをする人が出る寸前だった。陸上ではいかにも屈強で元気に見えても、海上での波にはからきし意気地がない人も散見でき、改めて海の怖さを知る思いだった▼そんな経験をした後、向かったのが植村直己冒険館。日本を代表する世界的冒険家・植村直己さんは、兵庫県日高町に生まれ、豊岡高校を出るまで、兵庫北部の但馬地域で暮らした。明大山岳部を出てから20年間で数々の冒険を敢行したが、43歳で世界初のマッキンリー冬期単独登頂に成功したのちに消息を絶った。この冒険館には、彼が使った数多くの装備品や世界各地で集めた品々が展示されている。また冒険行の記録映像なども見られるなど、感動を新たにした。会場では彼が担いだリュックサックが置いてあり、どうぞあなたもおぶってくださいと書いてあったので、背負ってみた。25キロだったが、思わずよろけてしまい、とても長時間は歩けない重さだった▼「僕は高所恐怖症です。今でも高いところは怖いし、高い山に登ると足が震える」ーこれは植村さんの言葉だが、とても信じられない。高所恐怖症といえば、選挙で支援要請のために高層マンションに行くのが嫌だった私のような人間に相応しい。モンブラン、キリマンジャロ、アコンカグア、マッキンリー、エベレストと世界初の5大陸最高峰登頂者には使ってほしくない。なぜこういったのか謎めいて聞こえる。南極,北極へ犬ぞりで単独行をしばしば敢行するなど、この人はおよそ冒険家とか探検家などという言葉では表現しきれない、壮絶な人格の持ち主だと感心する。山と海とでほんのささやかな怖さを,私自身が実感した後だっただけに余計に植村さんの凄さが感動を持って迫ったきた。冒険館で彼の書いた『青春を山に賭けて』を購入したが、いま早速読んでいる。このタイトルは、青春ではなく、生涯ではないのかと思う。10年間だけで死に別れることになった奥さんの公子さん(現在77歳で東京に在住とか)のことなど、知りたいことがいっぱいある。これらを親友だったという豊田一義さん(株式会社ジェノバ副社長)に訊いてみたいと思っている。(2014・10・8)

徒労に終わった13年後の仇討

先日、親しい先輩から「なかなか良かったよ」と勧められたこともあって『柘榴坂の仇討』なる映画を姫路市内で見に行った。平日の3時過ぎに入場したこともあったが、観客はわずか5人くらい。おかげでホームシアターを満喫できた。この映画は、浅田次郎の同名の短編小説から脚本を書き起こしたもので、日経映画欄などを見る限り前評判は悪くない。中井貴一、阿部寛、広末涼子、中村吉右衛門らが出演している。警護の役割を持ちながら主君井伊直弼を暗殺され、自害も許されぬまま13年間にわたり、宿敵水戸藩の刺客の生き残りを探しゆく一人の彦根藩士の物語りだ。井伊大老暗殺事件そのものは明治維新の夜明け前の一大事として広く知られており、私も吉村昭の小説『桜田門外ノ変』で読んだ。襲撃後に、真っ白な雪の上に真っ赤な血とともに、指や鼻など人間の体の一部がむやみに残されていたとの記述が妙に印象に残っている▼その後日談ともいうべきものを描いた映画がこれだが、本の方は未だ読んではいない。『五郎治殿御始末』の中に収録されているというので近く読むつもり。映画と本はどちらの出来栄えも良いというのは意外にお目にかからない。その伝でいうと、本は面白いかもしれない。つまり、この映画は、一言で言うと「静かで、暗すぎる」というのが私の見立てだ。二時間ほどの上映中、”どっと”きたところは僅かに一か所、”くすり”ときたのが二か所ぐらい。笑いが少ない映画というのはいかにも寂しい。まあ、仇討がテーマだから仕方がないのだが、暗すぎるというのは好みではない▼この映画は深刻ぶらずに、ブラックユーモアの味だと見るといいかもしれない。というのも、13年間も追い続けてきて、ようやく仇討の相手を見つけたその日が太政官令によって仇討禁止となったというのだから。これを笑うのは不謹慎だろうか。最後に追い詰めた場面で、「殺せ」と開き直る相手に、亡き大老の言葉を持ち出して主人公は諭す。死んではならぬと説得をする場面には、変におかしな感じがこみ上げてきた。そんな大事な言葉を思い起こすのが遅すぎないか、と▼260年続いた江戸幕府下のおよそ封建的な侍の生き様と、明治維新後の大いなる生活の変革との対比は、極めて興味深い主題ではある。笑いを誘った唯一の場面の前段に感動的なくだりがある。消えゆく侍魂を維新後も持ち続ける男たちが、理不尽なやくざもののある侍への罵倒に耐えられず、次々と加勢に名乗りでていくところだ。このシーンは忘れがたい。あのあたりをもっと強く押し出すほうがわたし的には好ましい。惚れた夫にどこまでもついていく妻の愛しい姿勢や男女のからみよりも▼ところで、13という数字は何故か鋭い響きを伴っていて、小説的なふくらみを連想させるのに合うのかもしれない。山本周五郎の主従の絆の深さを描いた小説『蕭々13年』、高野和明のミステリー小説『13階段』、池上彰一郎の傑作脚本『13人の刺客』などが思い浮かぶ。そういえば、”江沢民の13年”というのもあった。彼がかの国のトップにあって半日教育に執念を燃やした歳月を指す。これは日中両国にとって本格的な悲劇の始まりだった。(2014・10・3)

子どもたちの叩く太鼓の音から生命力を

先月に続き上京した。今回の目的はかつての市川公明党書記長の番記者たちとの懇親会に元広報局長として同席することや国交省、経産省への要望ごとなどだったが、たまたま26日の夜に昔の仲間が阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロンでライブコンサートをするというので出かけることにした。30歳代半ばに別れたきりだったから、およそ30年ぶりの再会だった。6歳ほど年下だから団塊世代の最後だろう。早大で学んだことは知っていたが、テナーサックス奏者になったことは知らず、また奥方がピアノを弾きながらソプラノの美声で唄う音楽家だということもつゆ知らなかった。お琴と横笛など和楽器を見事に演奏する女性奏者も加わっての3人のライブは夏の終わりの夜を過ごすに相応しいものであった▼大学時代に教師から、なんでもいいから生涯を通じてやる運動を一つ持てと言われ、加えて演奏出来る楽器も一つもつといいと教わった。しかし、どちらにも縁遠かった。辛うじて60歳からジョギングをやり始めた程度。楽器となるとからきし出来ない。それどころか元々ピアニストとなるべく3歳から英才教育を受けていた妻を、長じてピアノから遠ざけてしまう因を私が作ってしまった。代議士の妻とピアノ弾きは両立出来なかったのである。お琴を弾く女性に憧れた若き日の思いを、記憶の闇から手探りで手繰り寄せながらの一時間余りはあっという間だった▼一転、姫路に帰ってからは自治会の秋祭りの準備で子どもたちによる和太鼓の練習に付き合う羽目になった。付き合うといっても練習会場の公民館に待機するだけで、何か非常のことが起こった際の対応要員に過ぎない。ところがそれが思わぬ機会になった。小学校1年生から6年生までの男女20人ほどの子どもたちの生態は滅多にお目にかからぬものだけに、一挙手一投足が面白い。ワイワイガヤガヤ、まことに落ち着きがなくうるさいことおびただしい。練習用に用意された古タイヤをバンバン叩きながら、「エンヤコーリャ、ドッコイ」「ヨイサー」などなどの掛け声をあげていく。当方は、観察するだけなのだが不思議なほどの生命力が漲ってくる▼教えるのは自治会の年配の幹部。年季が入っているというのか、まことに子どもの扱いがうまい。「何をへらへら笑おうとるんや」「もっと真面目にやれ」「やりたくないんやったら、やらんでもええで」「皆の真剣な姿や音にお父さんやお母さんは元気が出るんや」などと巧みに指導する。子どもたちも段々と真顔に。そんな合間に就学前の幼児や保育園児などがギャーギャーと歓声を挙げながら辺りかまわず飛び駆け回る。そんななかでじっとしているというのも決して楽じゃあない。しかし、ぼーっとしてるわけにもいかないので、本を開き読むことにした。かつて「忙中本あり」と銘打って静かな新幹線車中での心騒ぐ読書に没頭した私も、今では子どもたちの叩く太鼓の音や幼児たちの挙げる歓声や走り回る音のさなかにあって、心穏やかに読んでいるのだ。(2014・9・30)

瀕死の小さな命を救った大きな医力

「未来ある幼い命を救うことが出来て本当に嬉しい」「過去のすべての手術で最も難しいものだっただけに、今正直言ってほっとしている」ー昨24日肺区域移植を国内最年少肺移植患者(2歳児)に施行して、実質的に世界で初めて成功させた岡山大学病院の大藤剛宏准教授の言葉だ。嫌な暗いニュースが飛び交う中で、飛び切り明るい話題をなまでお届けする。実は、この患者の父(H・Tさん)と私は、議員引退後に仕事を通じて付き合ってきており、親しい仲だ。その彼から息子が「特発性間質性肺炎」というとても難治性の高い病気に罹ってしまい、困っているとの連絡を受けたのはこの7月初めころだった。いらい、2か月近くの紆余曲折を経て、8月31日に移植手術実施、そして冒頭に紹介したような担当医による記者会見を迎えることができた。ささやかながら支援をさせていただいた私にとっても心和む場面だった▼実は昨日の岡山大学病院での肺移植チームのチーフである大藤先生の記者会見を前にしたレクチャーを、現場でH・Tさんと一緒に聴かせていただいた。約一時間の懇切丁寧な説明はまことに分かり易く、感動を誘う素晴らしいものだった。何といっても手術実施に至るまでがスリリングだった。意識がなく、気管内挿管・人工呼吸器でようやく呼吸を保つという瀕死の状態だった患者を、当初入院していた埼玉の小児医療センターから岡山まで運ぶねばならない。自衛隊機を使って緊急搬送したものの、感染を併発し一刻の猶予もならず、移植予定日を繰り上げて緊急生体肺移植に踏み切ったという。勿論そこに至るまでには肺という臓器を提供するドナーが必要だ。小さな乳幼児にはそれに見合った小さな肺が相応しいのだが、残念ながらそういうものはない。家族内で探した結果、母親のものだけが適合するということになった▼患者の小さい胸に大きな母親の肺の袋を入れるには区分けするしかない。ドナーの母親の体内で一つの袋(下葉)を二つの区域の塊に分断し、それを息子の両肺に移植する手術だ。数ある血管や気管支を傷つけないように区域の境を電気メスで切り離す作業は、想像を絶する難作業だったに違いない。この辺りは医療知識も乏しくかつ手先が全く不器用な私など解説する資格も何もないので、詳しく立ち至ることは勘弁してほしい。大藤先生以下30人を超えるチーム・スタッフの懸命の戦いは聴いていてもハラハラどきどきするほどであった▼この場に私が臨もうと思ったのは、親しい知人の息子の世界初という手術の実際を知りたいということもあったが、もう一つは現職時代に導入された臓器移植法に強い関心があったからだ。乳幼児の脳死ドナーからの臓器提供が全くない日本にあって、乳幼児患者への肺移植は不可能とされてきた。実際に多くの患児が命を落としている。そういった現状にあって今回の手術が画期的なのは、肺として機能する最小単位である一区域(18分の1)を切り出し、移植・生着させることが示されたことだ。これはこれで世界に誇れる偉業だと思われるが、一方で乳幼児の脳死ドナーをめぐる問題をどうするかが残る▼臓器移植法の採決に当たって、私は反対した。脳死を人の死とみて臓器を取り出すことには、他人の死を期待する風潮を助長するし、そもそも他人の宿命を帯びた臓器が全く異質の体内で機能するかどうか疑問だと思ったからだ。この考えには今も根本的には変わりはない。しかし、今そこで失われようとしている小さな命を救うためには、なんらかの手が施されなければならない。今回の手術の成功は新たに違う道を切り開く大きな意味がある。それゆえに、私のような主張者にとってもホッとする出来事だ▼この子の胸に入った母親からの移植肺が、体の成長に連れてそれ相応に見合うようになるのか心配する向きもある。大藤先生は成長の度合いにもよるが、再移植は必要はないと激励してくれていた。尤も、その必要が出てきたら、今度は父親の出番だと私は言っている。これは内緒の話なのだが、父親がなぜドナーたり得なかったか。実はコレステロールが高すぎたからだというのが真実(笑)らしい。個人情報だから伏せられたようだが、本人には体をコントロールして子どもと一緒に父親も伴走することが大事だと強調しておいた。そして岡山大の医力をはじめ多くの方々のお世話になって貴重な命を授かった子どもに、そのご恩を忘れてはいけないことも。立派な青年に育つよう私も他人ながら見守っていこうと誓っている。(2014・9・25)

 

“超ド級の諸天善神”の講演に深い感銘

「この場に私が立つ資格があるのかどうか悩んだし、とても今緊張しています」と開口一番切り出し、「私はプロテスタントのキリスト教徒ですから」と続け、場内から爽やかな笑いを誘った。関西創価学会にとって忘れようにも忘れられぬ大阪市中央公会堂、いわゆる中之島公会堂で9月20日に開催された潮出版社主催の文化講演会は開場と同時に続々と詰めかけた聴衆の人々で満員の盛況だった。佐藤優氏の『「地球時代の哲学」ー池田・トインビー対談を読む説く』を聴くために、私も姫路から一時間半かけて参加した。東京の友人が応募してやっとの思いで得た入場整理券を、彼が急な不幸のために参加できなくなったので、譲ってもらったのである。あだやおろそかに聞き流しては行けないと、こちらも緊張して臨んだ▼ピタッと一時間のお話を聴き終えて、深く感じるところがあった。その著作の大半を必死になって追いかけてきた私にとって、この人物はまさに現代の巨人の一人に数えていいと思っているのだが、その見立てにいささかの狂いもなかった。参加した学会員の庶民感覚とでもういべきものを、見事なまでに自家薬籠中のものにした鮮やかな弁舌だった。池田先生とトインビー氏との対談については、その著作の中でも強調されているように、親子ほど年下の池田先生が師匠であり、名だたる歴史家のトインビー氏が弟子であると改めて明言していた。対話の名手である池田先生が様々に意匠を凝らし、深い思いやりの心を駆使して対談を進められたことは、連載中に雑誌を読み、単行本で二回読んだものにとって自明のことだけに、まさにストンと落ちる言い回しであった▼先生の対ソ民間外交40年の経緯における見事なまでの展開ぶりの評価は、かの国のすべてを知り抜いた彼だからこそ言えるもので、一段と重みがある。重ねて池田先生の凄さを教えていただいた思いがしてただただ恐懼するばかりだった。また、あの大阪事件において先生が官憲の歪んだ追及の前にひとたび罪を認められたのは何故か、という問題についての言及も迫真の重みがあった。それは戸田先生を亡きものにし、戦時中に獄死せられた牧口先生に続き、二代続けて創価学会の会長を死に追いやることで、創価学会を滅亡させようとする権力の魔性と断固闘うためであった、と。この指摘をあの大戦の戦時下のキリスト教との比較で語られたあたりも、キリスト教に精通している人だからこその深い響きがあった▼21世紀が東洋の思想なかんずく仏教の時代になるということは、いや増して真実性を帯びてきているのだが、その仏教各派のなかでの優劣の差異という点が気に懸らないでもない。親鸞人気や参禅への不変の流れ、後絶たぬ四国八十八か所巡り等々。それにも佐藤氏は、SGIのように世界各国に深く根ざしている仏教がどこにあるか、と一刀両断。一方、集団的自衛権問題を巡っても、随所での彼のコメントの鮮やかさぶりは、他を圧しているが、この日も繰り返し公明党の見事な闘い、と称賛してくれた。私など、「公明党の完勝だとあんまり強調しないでくれ」と思っている。交渉事なのだから、自民党がやきもちを焼くではないか、との小賢しい思いからなのだが…。学会員がどういえば喜ぶかを知り抜いた目線を保っていることはただ呆れるばかりだった▼かくほどまでに池田先生を尊敬し、学会のファンだといっても、「だからといって入会はしないでしょう」というくだりをさりげなく挟み込むのも小憎らしいほどの心配りがうかがえた。外に身をおいているからこそ,佐藤氏の言論を通して、世の人々が創価学会への見方を変える可能性があるということだろう。最後の方で、「政教分離の行き過ぎ」を指摘されたり、物言わぬ公明党議員の消極性をやんわり触れられたところなど、身が縮む思いさえした。これからは「言論出版問題の本質がどこにあったか」などについて取り組みたいと述べられていた。あれやこれや山盛りの講演で、あっという間の一時間だったが、つくづくと、”超ド級の諸天善神”の登場だなあ、と感じ入ったしだいである。(2014・9・21)

 

7千人を看取ったクリスチャン・ホスピス医

テレビの番組を録画してあとでまとめて観るというのは実に楽しい。早送りしたり、途中で止めたりするなど自在にできるため重宝でもある。最近二つの番組を深夜にじっくりと観て、いたく感じるところがあった。どちらもNHKだが、一つは『こころの時代』で『人生最後のおもてなし』(9・14放映)というもの。クリスチャン・ホスピス医の下稲葉康之さん(76)の心温まる話し方に深い感動を覚えた。この人は九州大学医学部時代にドイツ人宣教師に感化を受けてクリスチャンになった。その後42歳の頃にホスピス医になっていらい、今日までの35年ほどの間に7000人を超える人々を看取ってきたという▼不治の病に罹った16歳の少女が死を受け入れるまでの経緯には、いずまいを正さざるを得なかった。死ぬのが避けられないことを悟った彼女が、最期にウエディングドレスを着た写真を撮って欲しいと願い出るところなど涙なしでは観られない。彼は、様々な患者さんたちと接する上で、心に期しているのは,医者としてではなく人生の後輩(死を未だ経験していないという意味で)として、痛みや苦しみを<傾聴>し、<共有>させてもらうことだという。やせ衰えた患者さんから「病気になったからこそ、この病院にはいれて、先生に会えたのだし、イエス様を教えていただいた。本当に嬉しい」との言葉を聞くにつけ、震える思いがする、と▼一方、人気番組『知恵泉』は毎週欠かさず観ているのだが、自動車産業・ホンダの創業者、故本田宗一郎氏の生涯(「人がほれ込むリーダーとは」9・9放映分)は破天荒で、実に痛快だ。よく部下を怒ったというが、「私心で怒るな」がモットーだったし、怒った後の心配りがまた泣かせた。「人の心に棲め」というのが心憎い。最も感動的だったのは、「素直に負けを認める」という姿勢。部下たちから言行不一致を指摘されるや、自身の衰えを自覚し引退を決意するなんて実に潔い。巧みな演説上手も舌を巻くほど。人の心を鷲掴みにして、ほれぼれする。何よりも私が驚いたのは、社長を引退してから全国700か所の現場を回ったということ。社員一人ひとりに「お世話になった」と握手をしていったというのだが、なかなか出来ないことだ▼下稲葉さんと本田さん。牧師でホスピス医と自動車産業の創業者。分野を異にする二人の生き方をほぼ同時にテレビで観て、大いに共鳴した。キリスト教への批判的まなざしを正直私は持っていた。非現実的な神様への信仰についてステロタイプ的な見方をしていたのだが、ホスピスをし続けてきた人の、偽らざる優しい佇まいに圧倒される思いを抱いた。また、自動車産業の総帥たる存在といえば、現場から遠く離れた雲の上の人と思いきや全く違った心暖かい優しい現場の人だった。ともあれ、いいテレビ番組でいい人を観て大いに満足している。(2014・9・18)