【54】交遊60年の親友との「再生旅」を「等伯」ゆかりの七尾で/12-5

 いつの間にやら、金沢からの早朝の列車の中は高校生ばかりになっていた。誰しもが真剣な顔つき、眼差しでノートや参考書風のものに向き合っていた。通常、電車の中はスマホに〝指っきり〟が多いのに。向学心溢れるこの風景は妙に嬉しくなった。僕は興味を唆られる場面に出くわすと、居合わせた人につい声をかけたくなる。だが、この時は思いとどまった。やめとけとの無言のシグナルが連れからあったからである。どうせ、「どこの高校?」「試験なの?」「頑張ってね!」が関の山だったに違いない。つい先日、齢80を迎えたばかりの僕が60年来の親友と金沢で東西から合流して、二日間を過ごした後、向かった先は七尾だった。小説家と弁護士の後輩3人を交えての「金沢5人旅」のあと、初めての地への日帰りの「傘寿旅」にふたりだけで行ったのである◆七尾駅前では等伯の銅像が出迎えてくれた。この地が生み出した絵画芸術の巨人「長谷川等伯」については、安部龍太郎の小説『等伯』を読むまでは全く知らなかった。安部は等伯の法華信仰の核心について、仏教学者の植木雅俊に教えを乞うた。そのエピソードを、日経文化欄で知ってから僕はやっと関心を抱いた。それに比して旧友の等伯への造詣は年季が入っている。先年彼と一緒に京都に行った際に智積院や本法寺に誘われ、あれこれと蘊蓄を傾けられた。ともかく彼は日本の歴史の所在、伝統文化に果てしなき興味を持ち、現に詳しい。この日も、等伯ゆかりの長壽寺に立ち寄って、住職との語らいに時間を割き、「知的貯蔵」を増やしていた。手作りの大きめの彼の名刺の裏には等伯の「松林図屏風」の模写が鉛筆で書かれており、呆れた。一方、駅からのタクシーで同寺に行く際に、七尾との縁が深いという「八百屋お七」のことを、僕は彼に「どんな話なの?」とつい訊いてしまった。彼は待ってましたとばかりに井原西鶴に始まり歌舞伎、浄瑠璃へと繋がる物語の顛末を、スラスラと答えた。で、運転手に「これでいいですか?」と聞く。「はい、それで十分です」との返事が即座に帰ってきた。二人の呼吸が鮮やかだったのには笑えた◆七尾でのもう一つの楽しみはお城だった。といっても僕はこれまた行くまで何も知らず、日本の五大山城の一つということも麓の「城史資料館」で初めて知った。世界文化遺産に輝く姫路城のすぐそばで生まれ育った身には、「百名城」などものの数に入らない。というのも災いのタネかもしれないのだが。7つの尾根筋に作られた〝戦屋敷〟のまるで隠し砦のような姿をビデオで見て、築城した畠山家の凄さを思い知った。金沢でしこたま感じた前田利家、まつの英姿と共に、北陸の強者たちの底力に感じ入ったしだいである。この後、駅近くの一本杉通りが震災の被害が大きかったと聞いて、向かった。随所に倒れたままで放置された商店跡や復旧を急ぐ建物を見た。被災からもうすぐ2年が経つのだが、復興未だしとの状況が十二分に伝わってきた。胸が痛んだ。七尾からの支線に乗り換えると、20分くらいで先日逝った俳優・仲代達矢の「無名塾」に行けるというし、さらにその先には、若き日存分に付き合った後輩の故郷・穴水や姫路の自治会の友人が育った珠洲など行きたい場所があったのだが、時間がなかった◆土地の人には80歳の2人連れが珍しかったと見え。羨ましがられた。どうしたらあなた方のように友人に恵まれるのかと聞かれた。確かに長続きする友は得難い。その秘訣は、お互い尊敬し合うことだと思われる。彼は僕の交友関係の広さを常に愛でてくれるが、僕は彼の貪欲なまでの知識欲にいつも惚れぼれする。傘寿の次に目指すは、85歳であり、米寿だ。尤も、幾ら長生きしても健康でなくては意味がない。「ヨレヨレ寝たきり」ではダメで、目指すは「ピンピンころり」に違いない。いつまでもお互い元気で、また新天地へ旅しようと、別れた。彼はひとりで次の宿泊先の富山・高岡へと向かった。こっちは翌日大阪・生野区に住む草創の大先輩宅に行くために、真っ直ぐ家路についたのだった。(敬称略 2025-12-5)

 

 

 

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【53】変わりゆくものと、変わらざるものと━━晩秋の傘寿を東京で(下)/11-30

⚫︎「世界宗教」の研究者との出会いから━━第二日目

 大井町━━この10年余り、東京の朝はここのJR駅前にあるホテルから出発する。25日は朝8時半、京浜東北線に乗り東京駅を経て中央線で信濃町へ。10時から、創学研究所の蔦木栄一研究員に会った。同研究所は、「信仰と理性の統合を目的に掲げ、創価学会の信仰の学を探究する研究機関」として2019年4月に設立された。この6年間で『創学研究』という名の研究書を、第三文明社から3冊出版。Ⅰ「信仰学とは何か」Ⅱ「日蓮大聖人論」に続いて、このたびⅢ「世界宗教論」が出たばかりである。知的面白さが横溢しているこのシリーズを僕は大好きだ。

 蔦木さんは僕より30歳ほど若いが、様々なご縁が重なりとても親しい。キリスト教哲学者で九州大学名誉教授の谷隆一郎氏が僕の高校同期だと知って、大いに喜んでくれた。久方ぶりの出会いで話は様々に飛び交ったが、ユダヤ、イスラムの宗教実態を研究する彼に、その学びの所産を披瀝して頂き、興味深かった。読み終えたばかりの佐藤優氏の「核戦争の危機と東西対話」(創学研究Ⅲ)と併せて「ガザの悲劇」を考える手がかりの厚みが増した。

⚫︎古き良き時代を知るテレビ記者との懇談

 午後は四谷のホテルに移り、元日本テレビ政治部長で今は「安保政策研究会」の仲間である菱山郁朗さんと会った。この人はかつての公明党番記者だが、年次が少し上で直接の面識はなかった。ところが、安保研で一緒のメンバーになり、慶應同期で日テレの記者だった、今は亡き石井修平の友人だと分かった。この日は石井を偲びつつ、昭和から令和への日本政治を振り返る機会となった。この人は、かつて日中関係の基礎を築いた公明党訪中団に同行された。

 僕らは「三角大福中」と呼びならわされた自民党の派閥の領袖たちの時代をほぼ出発点にして、「永田町」で生きてきた。当時と比較して今は何がどう違ってきたのか。僕は先に読んだ浜崎陽介『日本人の作法 高貴さと卑小さ』の政治家篇やら、座談の際の僕のオハコである「日ロ10人のトップ比較ギャグ」を通してその悲惨さを語った。菱山さんも同意された。ともあれ「日本の政治と政治家」の60年を見てきた者同士の話は尽きない。今後の安保研リポート誌上での「競筆」をお互いに誓い合って2時半に別れた。

⚫︎公明党論を戦わせた記者との語らい

 同じホテル内の喫茶店で3時前から4時半まで、今度は社会調査研究センターの平田崇浩さんと会った。彼は僕の現役時代に付き合った記者だが、引退後も交流を重ねる数少ない友人のひとりである。この人との最大のご縁は、毎日新聞紙上での「市川雄一氏を悼む」の執筆を依頼されたり、週刊エコノミスト2022年3-1号のコラム『東奔政走』に、拙著『77年の興亡』をとりあげてくれた。前者は「恩人の逝去」に僕が「思いの丈」を込め、後者は彼から公明党への「嘆きの丈」をぶつけられた。「明治77年と戦後77年 『第2の敗戦」避ける知恵を』と題された論考は、中々手厳しいものだった。

 僕は、公明党の人間でありながら、引退後の10年余り、「苦言」を放ち続けた。その集大成とも言うべき著作への「苦稿」を前に、ほろ苦さは混じったものの、妙な甘美さを味わったことを思い出す。この日に彼と会ったのは、立場の違いを超えて、日本の未来にとって漸く一つの「光明」が見えるに至ったことを確認したかったからだ。「連立」が「自公から自維へ」と変わったことは、価値観の混交状態を整理し得たことに繋がる。その「偶然性」をめぐっての対話は中々興味深いものだったといえよう。

 夜は西麻布の霞会館で開かれた姫路出身在京仲間たちの「姫人会」に参加した。僕の上京に合わせて開いて頂く恒例の催しだが、毎回とても刺激を受ける楽しい集いだ。この日の参加者は全部で8人。いつもながらの多士済々の面々たちの談論風発は心地よかった。ただし、ここ数年の兵庫県政の混迷ぶりについては暗さが募った。N党の「立花孝志」の逮捕をシオに収束を期待する向きもあったが、大勢は否定的。悪意と虚報による世論操作で「虚像の知事」を当選させた男と、それを可能にした兵庫県民。この「誤作為と不幸の連鎖」への「嘆きの連続」に、責任ある政治家の一人として聞く身は辛かった。

⚫︎公明新聞の大先輩からの励まし━━第三日目

 翌26日は公明党のOB議員で構成される大光会の県代表者会が南元町の党本部で昼過ぎに開かれた。朝早くにホテルを出て、中野区のカネコ理髪店に足を運んだ。ここに通い始めて43年余。懐かしい店主も寄る年波に勝てず、とうとうこの月末で閉店することになった。最後のカットに涙する思いだった。

 大光会には全国各地から〝往年の名選手〟たちが集ったが、構成年齢層は幅広い。多くの共戦の友としばしの歓談をしたが、姿の見えない仲間が増えてきたのは寂しい。全てが終わって帰神する前に、公明新聞社に立ち寄った。そこでは同社を84歳の今も支え続ける邊見弘さんが待ってくれていた。市川主幹のもとで共に訓練を受けた得難い大先輩である。「数多いる引退議員の中で一番活躍しているね」と褒め過ぎられたのは恥ずかしい。市川さんの価値を骨の髄まで知る数少ない人の励ましを胸に、貴重な情報交換もそこそこに、18年間の「学び舎」を辞した。(この項おわり 2025-11-30)

 

 

 

 

 

 

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【52】めでたくもあり、せつなくもあり━━晩秋の傘寿を東京で(上)/11-29

 とうとう僕も80歳になった。傘寿は「おめでたい」というべきか、それとも「せつない」とみるべきか。偶々この記念すべき日・11月26日に、東京で公明党関連の行事が行われることになった。これを機に26日をゴールに、24日から2泊3日の予定を組み立て、上京した。3箇所での集いを設定し、自ら呼びかけもした。一方、懐かしい人7人に個別に会いたいと声をかけた。目いっぱい動き回って、充実した対面懇談をしてきた。しめて37831歩。距離にして26481㍍。朝は8時から夜は10時まで。よく喋ってよく歩いた。ちょっぴり疲れた。以下はその顛末。上下2回に分けて報告したい。

 ⚫︎始まりは、田町・慶応仲通りの中華店から━━第一日目

 JR田町駅から慶應義塾のある三田山上(山というより丘だが、なぜかそう呼ぶのです)までは、僅か10分ぐらい。そこに至るにも近道があって「慶応仲通り」と呼ばれる。飲食店を中心にした商店街で出来た狭い脇道である。ここを昭和42年4月から44年3月までの2年間、僕らは人それぞれ曲がりながらもせっせと通った。

 24日正午に中華飯店に集まったのは9人。クラス会も往時は30人ほどは集まったが、近年は少なくなる一方で、ついに一桁台になった。やってくる面子はやはり逞しい。ギターを抱えて『ベサメムーチョ』を唄うT君はアイ・ジョージを彷彿とさせたし、歌舞伎「弁天小僧菊之助」の浜松屋出店の一幕の口上を滔々と誦じ続けたO君(写真中央)など、見た目はともかく頭脳年齢は働き盛り。若さが漲る。他にも「古文書研究」に精を出すA君は、老後の嗜みを遥かに超えたプロ級の腕前とか。好奇心は果てしない。

 僕は「近況報告」の際に、今年出版した『ふれあう読書━━私の縁した百人一冊』下巻の話をした。福澤諭吉が文明開化の手ほどきの書として著した『学問のすすめ』に触れて、この書物が実は『交際のすすめ』でもあるとの自論を強調した。福澤は「言語容貌も人の心身の働なれば、これを放却して上達するの理あるべからず」と、顔色、容貌、そして言葉が「人間交際」にとって最も大事なことだと、巻末で訴えている。交流のあり様を百人に分けて論じた僕の企みとの一致。諭吉先生との不思議な一体化。我が80歳の年に、「人生の卒論」を塾の創始者に認めて貰った気がした。『学問のすすめ』をそう「改読」したのである。

⚫︎海外駐在の若手銀行マンとの懇談

 午後3時からは、帝国ホテルに移り、畏敬する後輩H君と会った。彼は若き日より僕を慕ってくれた得難い男だが、苦節の日々を乗り越えて、企業人として相応の成功を収めていることは嬉しい限りだ。彼は愛息を同伴してきてくれた。30年近く前に彼の自宅で会っていた。幼な子は凛々しい若武者へと成長を遂げていた。銀行マンとしての〝戦場〟が香港からニューデリーに移るという。再会は残念ながら慌ただしかった。

 「生命の世紀」と21世紀を位置づけられた池田大作先生のもと、「世界平和」実現の幕間と捉えてきた僕らにとって、現状は極めて厳しい。後事を青年世代に託すほかなく、できるだけ若者に会おうと僕は決意している。その意味でも良き機会を作ってくれたH君に感謝をしつつ束の間の会話に力を注いだ。香港、インドという現代アジアの最先端地域で、腕を奮い知恵を試す場に挑む青年に微力ながらのアドバイスの言葉を費やした。だが、刺激は若者よりも、当方が存分に受けたに違いない。

⚫︎往年の番記者たちとの久方ぶりの出会い

 夕刻6時からは新橋の中華料理店で。先年、市川雄一党書記長を偲ぶ会をやった際に尽力してくれた番記者諸氏男女5人が集まってくれた。当時30代前半だった皆は時の流れと共に新しい道に進んでいる。変わり種は、女性放送記者から大学教授(兼広報部長)に転身して数年が経つYさん。最近の大学生気質や、大学経営の大変さを語ってくれた。

 また、中学校での数学の授業を理解することが難しい生徒のために、個人教授ボランティアをやっているAさんの苦労談はとても新鮮だった。どうしても分からなかった問題がわかるようになって、試験もうまくいったとの体験は感動を呼んだ。「テレビの世界」を続けながらの彼の「余技」に皆が感激した。「リカレント教育」の大事さをふと思った。

 「連立離脱」という選択決断に至った経緯や、いわゆる極中道や真中道といった路線にまつわる質問が僕には向けられた。「安保研リポート」に書いた論稿を皆にラインで事前に見せていたので、それを読んだ上での問いかけもあった。久方ぶりに党広報局長をやっていた昔むかしを思い出した。ついつい乗ってしまっての長話。それを我慢して辛抱してくれた「聞き上手」たちに、感謝するしかなかった。(以下続く 2025-11-29)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【51】船出してから1ヶ月の新政権と公明党/11-25

 高市早苗新首相が誕生してほぼ1ヶ月が経った。新首相は大きな期待度に概ね応えているとのメディアの評価はあり、支持率もかなり高い。先日、斉藤鉄夫公明党代表に別件で電話をしたところ、「首相の支持率は高いのに、私(斉藤)や公明党の方はどうも」と、ぼやき気味の言葉が飛び出した。それには、「そんなことないですよ。代表の評判も中々いいよ。ご心配ご無用」と励ましておきました。首相の1ヶ月は、当然のことながら野党公明党の1ヶ月でもあります。

⚫︎消費税率下げへの対応に見る「中道政治」の真骨頂

高市首相のこの1ヶ月の動きは目まぐるしいものがあった。中でもトランプ米大統領の訪日という巡り合わせは印象に残った。米艦艇上でのツーショットには、「はしゃぎ過ぎ」との〝お咎め評価〟もあったものの、明るさや陽気さは高得点に結びついている。国会での当意即妙の受け答えもユーモア度も含めて概ね評判は悪くない。ただ、立憲民主党の岡田克也氏の「台湾海峡有事」をめぐる質問に対しての答弁は明らかに〝勇み足〟だった。ユーチューブでの「能力が低過ぎる。ポンコツとしか言いようがない」(白井聡京都精華大准教授)といった、あけすけな批判は極端過ぎるものの、「一つの中国」っていう国家の機微に触れるテーマについて、不用意で余計な問題発言だった。事態が収まるまでには「75日以上」の時間がかかることは必至と見られる◆この発言について斉藤代表は「従来からの国の基本方針を堅持する姿勢があるのか、疑問だ」といった厳しい見方を示した。首相が持ち前の「対中強硬姿勢」を弄ぶことは国家を危うくすることに繋がりかねない。仮にこういった事態が与党公明党のもとで起こっていたら、「対中パイプの出番」ということになったやもしれない。一方、「戦争の終結」に向けて、トランプ氏は極めてウクライナにとって承認し難い〝打開案〟を持ちかけるなど〝危うい調停人〟ぶりを発揮している。「世界の平和」への真摯でダイナミックな動きを、公明党には期待したい◆一方、物価高対策について、政府は21兆円強規模の総合経済対策を講じようとしている。だが、これで効果が上がるかどうか大いに疑問である。公明党の対応について、23日付けの公明新聞では、①納税者ほぼ全員に1人2万円〜4万円の減税で所得を増やす②ガソリンの暫定税率廃止で1リットル25円の負担軽減など━━が見込めるとし、公明党が訴えたこと━━国民民主党との差異が不明だが━━が実現すると強調している。これはこれで一定の役割を果たすことになるといえるものの、現実的な生活実態からすると決して満足できない。先日も私の顧問先の団体(AKR=オール小売連合)での会議で、「消費税率下げ」が話題になった。消費税率の変動に伴ってレジの機能替えが追いつかないという国会での議論についてである。ものの1時間もあれば対応は可能なのに、政治家は消費の現場を知ってるのかとの批判の声だった。消費税率下げをしたくない側のタメにする議論だとの指摘は聞き流せない◆公明党はこの26年間、自民党と政権を組んで、中道の立場で保守勢力の自民党を補完してきた。欧州では中道政党が、極右政党を支える状況が注目されており、「極中道」の定型パターンと呼ばれるている。実は、連立離脱に至るまでの公明党の動きについて、私は、日本における「極中道」的スタンスになりかねないものとして懸念してきた。国民大衆の生活を守るために、取り得る政策の選択幅を自在に変えることが大事なのに、自民党に寄り添い続けるというのでは、選択肢を自ら制限するに他ならなかったからだ。異常なまでの物価高に対して、消費税率をそのままにしておいていいのか。緊急時対応がなされないようでは、結局「極中道」という他ない。大衆の求めに応じて自在に政策選択を取り替えることこそ「真中道」の政党のあり方だといえよう。(2025-11-25)

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【50】銀行マンから小説家へ転身の原点━━江上剛さんの講演会から/11-20

⚫︎神戸マラソンのゴール近くで開かれた「文藝講演会」

 小春日和の昼下がり。16日の日曜日に僕はJR神戸駅を降り立った。お目当ての催しは開場まで少し時間があった。周辺散策を思い立ち南口から地下の商店街に潜ってみた。今夏に逝ってしまった親友のことが突然に思い出された。彼は人に会う時はいつも1時間ほど早く待ち合わせ場所に赴いて、周辺を歩くのを習慣にしていた。ギリギリに駆けつけてしばしば遅れるのが常の僕と正反対だった。地上に上がると、そこは大勢の人だかりで賑わっていた。晩秋の名物となった「神戸マラソン」のゴール近く。最後の力を振り絞って駆け込むランナーと、その姿に声援を送る見知らぬ市民たち。それを眺める僕の胸中に、満足感が湧いてきた。

⚫︎「井伏鱒二」との出会いが遠因で小説家に

 この日の講師・江上剛さんは、早稲田の学生だった頃、作家・井伏鱒二氏に会いたいと電話した。直ぐに「いらっしゃい」と言われた。自宅に向かうと、丁寧に優しく応対してくれた。20歳前だった江上さんと70歳代の井伏先生。恐らく早大同窓という共通点が2人を結びつけたに違いない。表札はなく、代わりに名刺が押しピンで刺されていた。よく盗まれるからだ、と。見知らぬ学生からのいきなりの電話に直ぐ呼応した作家の人となりが目に浮かぶようだ。この出会いがのちに江上さんが小説を書く遠因になった。こんな話から始まって1時間あまり、次々と繰り出されるエピソードはへんちくりんなものばかり。田舎の親に無心する手紙書きが文章力向上の源泉だと聞いて、あれこれと試みたという与太話は極めつきだが、ここで書くのは憚れる。勿論、ものを書く仕事をするのは朝に限るとか、一日に書く分量を決めて取り組むべしなどといった真面目なアドバイスもあった。そして、「古典を読め」との定番じみた忠告も。締めは、世のため人のためでなく、専ら自分のために書いていると偽悪者風のものいいだったが、後味は悪くなく妙に爽やかだった。

⚫︎銀行マンからの「華麗なる」転身

     僕と同世代に「車谷長吉」という姫路出身の作家がいて、かつて姫路文学館で講演を聴いたことがある。「最後の文士」と言われたように、小説を書くために普通の人と全く違う苦労をわざと買い続けたように思われる人物だった。江上さんのような銀行マンとして得た経験や知見を活かして書くタイプとは全く違った。車谷氏と僕は、同郷で同年齢であったし、通った大学まで同じだった。だが、その佇まいは異様さが仄見え近寄りがたかった。江上さんとは、年齢も大きく違うし、兵庫生まれではあっても丹波と播磨で、大学も異なるのだが、妙に親しみを感じさせた。恐らく銀行員出身というところに原因があろう。我が親父と同じ〝支店長経験者〟。「第一勧銀総会屋事件」に遭遇したということも、「山陽特殊製鋼倒産事件」と関わった我が父と近い。兵庫の片田舎で生まれ育って東京に出て大学に行き、銀行マンで活躍したのちに、脱サラして小説家になった人と、政党機関紙記者から政治家になった僕とは似て非なる存在だ。更に似ているのは、若き日に巨大な存在の人物に出会い、影響を受けたことだろう。

⚫︎師弟関係あってこその人生を実感

 「 神戸エルマール文学賞」━━エルマールとはスペイン語で「海」のこと。近畿圏の同人雑誌に掲載された作品の中から優れたものを顕彰するための文学賞だという。友人で作家の高嶋哲夫さんが理事長を務める団体がこの賞を世に出してきた。僕は姫路の同人誌については、諸井学さんやその師たる森本穫先生の活躍を熟知しているが、エルマール文学賞についてはあまり知らずにきた。師弟関係の重要さは言うまでもないことだが、冒頭で触れた亡き友・志村勝之も大学で教えを受けた社会心理学者の南博先生を師と仰いでいた。定年後に目白大大学院で学び直しをした後に、自宅で臨床心理士として開業していたが、恩師への思い止みがたきものがあった。江上さんも大学一年生の時に知己を得た井伏さんに折に触れ報告し励まされていた。僕には人生の師を始め、学問の師、政治家の師といったように分野ごとに3人の師がいた。既にお三方とも異界に旅立たれてしまった。歳をとるということは親を失い、友を失い、師を失うことだが、心の中に命の中に存在し続けている。亡くなった友人は多いが、僕には党広報局長時代に付き合った記者たちが少なくない。今日20日には元北海道新聞の記者だった相原秀起君が、仕事で行った鳥取の帰り道、神戸へやってくる。『1945  占守島の真実』『クナシリ 愛と悲しみの島』など〝北の最果ての群像〟を描き続ける男との「33年ぶりの再会」が待ち遠しい。(2025-11-20)

 

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【49】卑小さ際立つ「政治家の無作法」/11-15

 「読書の秋」は「食欲の秋」でもあり、僕にとっては「面談の秋」でもあるとばかりに、このところ旺盛に人と会って、食事やお茶をしながら本の話や政治、文化、宗教の話題などに熱中しています。ここでは、老若ふたりの学者との出会い(10日)から、大学教員に転身した懐かしい政治家との語らい(12日)を通して、気鋭の文芸批評家の書『日本人の作法』のさわり部分に絡めて、あれこれと考えてみました。

⚫︎秋の夜長に博士ふたりとの懇談

 この秋口に嬉しいメールが亡き旧友の息子・久保健治君から届きました。念願の商学博士の学位を大阪市大で取得出来たというのです。彼は経営学者兼コンサルタントとして観光分野を中心に歴史学を活かした経営戦略に取り組んでいます。才能豊かな「行動する学者」として高く評価されています。この慶事を祝うためにかねて尊敬する数学博士の枡田幹也(大阪市大名誉教授)を誘い、3人で懇談しました。分野は違えど学問の道を極めようとする2人の博士の話は、横で聞いていて刺激的で楽しいものでした。

 御多分に洩れず学生時代に数学が苦手だった僕は、老いて友人に数学博士を持つという巡り合わせに不思議な思いがします。姫路で自治会長をしていた頃に聴いた枡田さんの「数学小噺」が面白くてタメになったゆえに、エッセイを書かれるべきだとけしかけています。この夜は固辞された上で最近上梓された専門書について「はしがき」だけでも、せめて見て欲しいと「逆襲」されてしまいました。

 異業種の人達との懇談の際に、私は政治家の端くれとして政局観や漫談風政界小噺を披瀝し、自己満足しているのが常です。ただし、この日ばかりは些か己が気持ちに迷いが生じたように思われました。

⚫︎遅れてきた文芸批評家の「昭和の論客」への視線

 というのは、直前に浜崎洋介『日本人の「作法」』という本を読んでいたからです。この本は、現代政治家の「卑小さ」を、思想家の「高貴さ」との対比を通して見事に描いています。自身を含め政治家の有り様について改めて深く思いをめぐらせざるを得ない境地になったのです。

 福田恒存、西部邁、江藤淳ら名だたる「昭和の論客」について、著者は遅れて来た文芸批評家として、自身の思想的遍歴を惜しみなく絡ませながら丁寧に捌いてみせています。と共に、安倍晋三、菅義偉、岸田文雄、石破茂の4人を完膚なきまでに「料理」しています。思想家と政治家の差異を見せつけられるまことに切なく悩ましい本というほかありません。

     例えば、著者は福田恒存について「戦後日本を跋扈した軽重浮薄な『主義』達が過ぎ去り、ポスト・モダニズムの浮かれ騒ぎもようやく落ち着いた現在、静かに、そして孤独に、福田の言葉に耳を傾けられる時が来ているのだと思う。来るべき新時代の未知なる地平など信じる必要はない、確かなのは『私』の歩幅だけである」と述べています。福田との出会いを「宿命」と捉える著者の心意気がうかがえる重要なくだりです。著者の深い洞察力に貫かれた思索が続き、めくるめく思いに引き摺られます。

⚫︎4人の首相経験者への辛辣極まる評価

 政治家4人への論及は辛辣で厳しさに満ちています。例えば安倍晋三については、かの橋本五郎による『回顧録』をもとに、縦横無尽に批判した最後に、「どこまでが譲れる線で、どこからが譲れない一線なのか‥‥そんな自己の輪郭を自覚する努力だけが、安易な理念主義と、安易な無限包容から、私たちの「実践」を守る営みであるように思われる」と「匕首」を突きつけています。安倍が「加憲」論で公明党に譲歩したことについて「サヨク以外の誰をも寛容に受け入れてしまう安倍晋三の『器』は、ついに『国家百年の計』をも狂わせる可能性があった」とも。まさに安倍のこの「譲歩」ゆえに、彼の「大らかさ」を評価し、その連立を「ハイブリッド的連立」と名付けた者として、複雑な思いに駆られます。

 菅義偉は、「取り消すことのできない自己」の感覚(内面生)を持たず、「その自己を生かしてきた「ふるさと」(日本)の感覚を理解できない人間だと、決めつけられています。岸田文雄は、現実の「困難」に立ち向かおうとせず、当たり障りのない答弁と、「敵」を作らない姿勢で「いかに困難を回避してすり抜けるか」を考えているだけ、と容赦なしです。さらに、石破茂については、「私たちが努力すべきことは、この小児病者の弄ぶ『抽象的・文芸的な政治理論』に引き摺られることなしに、彼の『やってること』━━椅子の座り方、おにぎりの食べ方から、その政治的振る舞いまで━━を真正面に見据えること」だと木っ端微塵の扱いです。ここまで言われて、菅、岸田、石破の3人に反論あるやなしや。嗚呼。

⚫︎落選後も日本の社会保障のあるべき姿を学生に論じる政治家

 そんな折もおり、かつて参議院議員を2期(兵庫選挙区2001-2013)勤めた辻泰弘さんから、久方ぶりにお誘いを頂き、懇談しました。彼は旧民社党の政策審議会出身の人で、僕より10歳若い人です。58歳で落選後、某企業の役員をしながら、東京医療保健大学客員教授として教鞭をとられているようです。

 再会前に、彼が著した『みんなの社会保障』(2025年度版)いう本を戴きました。7章184頁に及ぶ課題を分かりやすく丁寧に一頁づつに収めた見事な教科書です。私見を抑え事実に忠実に正確を期した内容でした。この本を使って週に一回学生たちにあるべき日本の社会保障を講義しているのです。うーむ。

 首相たちの無惨な立ち居振る舞いをことあらだてられたあとの一陣の爽風。そう感じられました。(一部敬称略 2025-11-15)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【48】その魅力丸かじり━━野崎歓、宮本陽一郎『映画芸術への招待』を読む/11-10

★放送大学の名講師2人による映画の教科書

 映画館に足を運び、ビデオ屋で手を伸ばし、テレビの映像を居間で観る━━映画好きは〝忙中の閑〟に「憩」を求めて迷い動く。ここにとりあげるのは、過去からいまに至る由緒正しき映画にまつわる歴史を押さえるためにうってつけの本だ。いや正真正銘の「映画の教科書」である。

 かねて僕は放送大学の講座をフラフラと覗き見する趣味を持つ。定年後のささやかな喜びである。中東問題の権威・高橋和夫さんの工夫を凝らした授業に痺れて葉書を出してみたり、アメリカ政治史のエキスパート渡辺靖氏の巧まざる講義に憧れてビデオで繰り返し観たりしてきた。中でも野崎歓、宮本陽一郎の両講師による映画の解説コーナー『231オーディトリアム』は、この数年の秘められた楽しみである。とりわけ『天井桟敷の人々』や『怒りの葡萄』などをそれぞれ放映する前後に解説してくれた10本ほどは、お宝というほかない。

★米仏両国の戦争映画に見る好対照

 『映画芸術への招待』は、15回の講義のうち13回分を野崎、宮本のお二人が分担して書かれたもの。映画ファンにとってはこれほど堪らない贈り物はない。「待ってました!」とニンマリした。真っ先に第8章「映画は戦場だ━━世界大戦の時代のスクリーン」(野崎歓)の頁を開いた。この標題はサミュエル・フラー監督の「映画とは戦場のようなものだ。それは愛、憎しみ、アクション、暴力、死、一言で言ってエモーションだ」との言葉に由来する。全人間存在を揺さぶる感動ってことに違いない。

 『世界の心』(1918年)がハリウッドの戦争映画の伝統の礎だという。残念ながらこれは未だ観ていないので、その後に続くものとして掲げられた『ディア・ハンター』『地獄の黙示録』『プライベート・ライアン』『硫黄島からの手紙』などおなじみのものから類推するしかない。これらは数十年の刻を超えて〝興奮の余韻〟が我が身心に染み込んでいる。

 他方、フランスの戦争映画の代表作としての『霧の波止場』(1938年)と『大いなる幻影』(1937年)はハリウッドものとは対照的である。前者は「厭戦的気分の濃厚なもの」であり、後者は「平和思想」や「戦争による解決」が「幻想に過ぎない」ことを訴えかける。米仏両国の戦争映画の色合いの違いは、第二次世界大戦以後から今に至る〝二分化された世界〟を表象する潮流として興味深い。

★燃え尽ききらないアメリカ人の「共同幻想」

 一方、第7章「リックのカフェにて━━亡命者たちのハリウッド」(宮本陽一郎)は、映画『カサブランカ』を通して、欧州各地からの移民たちによる多国籍的なアメリカ像が描かれる。ハンフリー・ボガード演じるリックのカフェでの独仏両国歌の衝突は〝愛国者たちの歌合戦〟として大いに印象的だった。このテキストで紹介された俳優たちの出自の「眩暈がするほどの錯綜ぶり」には驚くほかない。そのややこしさにこそ、生まれた国の違いにこだわり、争うことの無意味さを突いているように思われる。

 また、宮本さんは第11章から第13章まで50頁も割いて「『市民ケーン』を読む」を取り上げる。名優オーソン・ウェルズが制作、脚本、監督、主演したこの映画は、「難解であると同時に、分析が容易な作品でもある」とする宮本さんは、同時に「アメリカ人をアメリカ人たらしめてきた様々な共同幻想が燃え尽きていく物語である」と位置付ける。公開後80年。トランプ氏の再登場でアメリカは一段と〝赤青2色の二分化〟が激しい。そんな折に、同大統領から「極左」「反ユダヤ」のレッテルを貼られたインド系ウガンダ生まれのゾーラン・マムダニ氏が新しいニューヨーク市長に選ばれた。これは僕には燃え尽ききっていないアメリカ社会での「共同幻想」への新たなる火種のように思われる。

★映画『宝島』から見えてくる日本の「平和」と沖縄の「戦争」

 こんな風に標題作を読み終えたばかりの僕は、同時にもう一つの戦争映画『宝島』を小説と共に味わっていた。戦後第一世代として『宝島』という映像に狂おしいまでに心掻き乱された。「沖縄戦」で、「故里」を「基地」として「アメリカー」に毟り取られた「琉球」は、「戦後」も「戦火アギヤー」という名の〝復讐戦〟を挑み続けていた。それこそ「失われた大地と心」を取り戻さんがための〝琉球人の戦さ〟であった。中盤での妻夫木聡演じるグスクへの壮絶で執拗な拷問場面。終幕近くの数十分に及ぶ「コザ暴動」の映像。米兵の、米国の理不尽さと琉球警察の、日本の曖昧さに怒り狂う琉球の人々。そのみつどもえの攻防のリアルさはありきたりの邦画には類例を見ない。あまりの迫力に釘付けになった。

 興行的には映画『国宝』の静かなるブームで『宝島』の劣勢が伝わってくる。どちらも日本映画界の現在の水準を刻印するに相応しい。2つながらに、日本の「平和」と沖縄の「戦争」の今を存分に考えさせられた。(2025-11-10)

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【47】「トランプ訪日」の晩秋に東京を駆けめぐる/11-5

 先月の26日に埼玉・東秩父村での熊森協会主催の会合が終わったあと、ひとり東京に向かいました。この期間の東京はトランプ米大統領の訪日と重なっていて、混雑を危惧しましたが、それほどでもなく、元気に3泊4日の全行程の後半を過ごしました。以下、晩秋の東京を駆け回った軌跡を報告します。

⚫︎安保研の定例会で公明党の連立離脱めぐる質問攻めに

 一般社団法人「安保政策研究会」は、浅野勝人元外務副大臣を理事長に、官僚、メディア出身者ら25人ほどで構成されており、ほぼ毎月の定例会の開催と、リポート誌が隔月に発刊されています。東京在住ではない私は年に1-2回ほどしか定例会には出ていません。今回は私の上京に合わせて10月27日に開いて頂きました。時あたかも高市早苗首相の誕生、公明党の「連立離脱」という時期に重なりました。このため、冒頭1時間ほど私からの報告と質疑応答に当てられました。

 私は今回の「連立離脱」について、まず公明党が自民党の新執行部から「政治とカネ」の中心テーマである企業献金廃止にむけての前進が見られないので斉藤鉄夫代表が決断した経緯を述べました。一方、無遠慮な自民党人事などにも原因があることを指摘しました。その結果、これまでの自公政権が抱えていた〝政策的ねじれ〟が解消されることになり、両党ともに「スッキリ」したことになったと率直な感想を述べたしだいです。

 これを受けて出席者から①「連立離脱」で公明党の安保政策や憲法をめぐる姿勢は「自民党離れ」になるのか②来る衆院総選挙では公明党の自民党への選挙支援は一切ないのか③これまでのストッパー役が放棄されることを懸念する向きがあるがどう考えるかなどの質問がありました。これに対して、私は①基本的にはそうだ。公明らしさが顕著になる②従来からの人間関係があり、一気に離れるとは考え難く、あくまで人物本位だ③内からの歯止めではなく、外からの歯止めに徹する━━などと答えました。

 また、この26年自民党と共に「政治の安定」に寄与する方向性を堅持してきたが、これからは「中道改革路線」のもと、かつての〝社公民路線〟とは似て非なる手法で、古い自民党政治を変えるために全力を上げるはずとの公明党の立場を強調。「極中道」から「真中道」への路線転換を解説したのです。

⚫︎厚生労働副大臣時代のスタッフと旧交を温める

 「安保研」定例会の前日夜には、東京駅そばの居酒屋で、東京近辺に住む私の3人の甥たちとの懇談会を久しぶりに開催、叔父(伯父)らしさを発揮しました。3人とも父親が既に他界しており、私は親父代わりを自負。それぞれ40、50、60代の3人は、大企業勤務、薬科大准教授、IT起業家と道は異なりますが第一線で活躍中。AIの活用などをめぐって刺激的なやりとりができました。

 27日夜には西麻布の霞会館で、私が厚労副大臣時代(2005-6)に支えてくれた、同省幹部6人の仲間たちと懇談(写真)しました。厚労省勤務は僅か1年間でしたが、20年間の議員時代で最も印象に残っています。というのもこのメンバーと濃い関係を持てたからです。当時の秘書官がつい先ほど同省官房長になったほか、医薬局長、生活衛生課長も誕生、20年の歳月の重みを心底実感しました。この間、彼らの人事上の進展があるたびに集まり自分の直接の部下であるかのように激励してきましたが、今回は大きな区切りなだけに、一段と嬉しい機会になりました。

 安保研例会と厚労省仲間の集いの前の時間帯には新宿にて、川成洋・法政大名誉教授(英文学者にしてスペイン研究家)と、これまた久しぶりに懇談しました。この人とは公明新聞時代に「原稿依頼」してからのお付き合い。最近では「書評」を通じて親交を深めている間柄です。今回は数年前に紹介した慶大同級の畏友・尾上晴久君も同席、3人であたかも恩師とゼミ生との語らいのような場になりました。川成先生の教え子や息子さんの話題から始まって、テーマは多岐にわたり、時の経つのも、我が身の丈をも忘れるほどの濃密な会話の連続でした。

 帰りには、西洋音楽の世界で大いなる足跡を残したハンス・フォン・ビューローの伝記本(アラン・ウォーカー著、川成洋監修)を、「奥さんに」と言ってお土産に頂きました。これには三重の意味で驚きました。一つは、同先生が600頁にも及ぶ大部の本を監修され、これが今年4冊目の出版になること━━83歳にしてこの猛烈な仕事ぶり。二つは、ピアニストまた指揮者として生涯に3000回を越えるコンサートを全世界で開くなど、西洋音楽の巨人たる人物の〝生涯と時代〟のことを全く私が知らなかったこと━━音楽の世界への我が無知ぶり。三つめは、川成先生が私の妻が元ピアニストを志していたことを覚えてくれていたこと━━記憶力とお心遣いの細やかぶり。果たして私たち夫婦がこの本を読めるかどうか。ずっしりと重い宿題を戴いたようで、帰り道がいつもにも増して遠く感じられました。(2025-11-5)

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【46】熊はなぜ町中に現れ人間を襲うようになったのか?/10-30

 10月26日に埼玉県秩父郡東秩父村の「和紙の里」で、日本熊森協会埼玉県支部主催の『熊森イン秩父』のイベントが行われました。これに室谷悠子会長と共に同会顧問の私も参加して来ました。同県下を始め東京など周辺地域から多数の市民の皆さんが集まって、熱心に同会長の講演を聞き、懇談会に参加されていました(写真)。同協会は、クマの生態動向は、「森林崩壊の予兆である」との警告を、創立いらい28年ほど一貫して訴えてきています。実は、この日の催しに先立って、前日25日午後に飯能市、当日午前中に小川町の2地域で、いま進んでいるメガソーラー建設の現場周辺を見て来ました。そうしたリアルな現地の実態を踏まえて、なぜクマがいま奥山から降りてきて里山から町中にまで出て人間を襲うようになっているのかについて考えてみます。

 ⚫︎長い年月で徐々に追い詰められた〝クマたちの逆襲〟

   このところ連日にわたって、クマによる人身事故が報じられています。28日には秋田県の鈴木健太知事が、クマ対策のために自衛隊の派遣を求める要望書を小泉進次郎防衛大臣に手渡すといった事態にまで発展しました。国家、国民を守る役目を担う防衛省、自衛隊がついにクマから人間の生命を守るために出動する可能性が高まっていることに、クマと人間の関係について深い悲しみと哀れを抱かざるをえません。

 本来は奥山にひっそりと暮らしてきたクマにとって、森林は生息の質を決定づける住環境です。それが第二次世界大戦後の経済需要から木材の速成供給の道としてスギ、ヒノキなど針葉樹の大量造林に繋がりました。それに比例してブナやナラなど広葉樹林の消滅へと傾斜していったのです。豊かな陽光を想起させる天然広葉樹林から、陽が差し込まず下草さえ貧弱な人工針葉樹林へ━━林業を取り巻くこの政策転換が、大地の保水力を弱める一方、クマの住環境を決定的に破壊したのです。その結果は、川の氾濫を容易にし、クマの里山への出没を促しました。また、クマの食生活に欠かせぬどんぐりの不作が一段と拍車をかけたといえます。何も好きでクマは山を降りたのではなくやむを得ず、なのです。

 ただでさえクマが住みづらくなった奥山に決定的な影響を与えたのがメガソーラーや風力発電などの再生可能エネルギーへの需要です。あの福島原発を襲った東日本大震災以降、急速に高まった代替エネルギーへの期待。これに群がった関連開発企業群は瞬く間に全国各地に広がり、森林を襲う開発にせいをだしたのです。これらの動きがクマの住環境に決定的な打撃をあげたことにこそ我々人間が思いを致す必要があります。今目の前に展開している事態は、この30年ほどの間に追い詰められた「クマたちの逆襲」なのかもしれません。

 ⚫︎奥山の生態系を壊し尽くす新エネルギーの乱開発

  ウクライナやガザを始め世界各地で人間同士が殺し殺される場面が日常的に映像として流される日々に、日本ではクマに怯え慄く姿が報道されています。この事態を見て多くの人々は「クマは恐ろしい動物だ。可哀想だけどクマは駆除しないといけない」と思っています。しかし、熊森協会のある幹部は「本来クマはベジタリアンだったのに、放置されたままの、人間が殺した鹿や猪などの肉や、様々な異種の食べ物を漁っているうちに食習慣が変わったのかもしれない。気候変動の影響で冬眠のタイミングも狂うなど異常な状況が起きて来ている」と嘆くのです。

 メガソーラーの林立する飯能の山奥にある市有地(写真)を見に行った際に、緑滴る森林に最も相応しくない風景に心曇る思いがしました。各地で市民による反対運動が起こっていますが、その反対の理由に、森林の乱伐は景観を損なうというものは上がっていても、クマとの因果関係に気づかせるメデイアの主張は殆ど目に留まりません。同時に、クマに殺された人間を悼む記事やニュースの中に、なぜクマが最近街中に出てくるようになったのかの背景に、メガソーラーや風力発電建設に伴って棲む地を追われたクマたちの身の上を慮る考察は殆ど見当たらないのです。

 クマを恐れ、被害を嘆き、自衛隊の出動にまで踏み切ろうとすることは、所詮対処療法であり、その場しのぎにしか思えません。モグラ叩きならぬ〝クマ叩き(殺し)〟が日常的になっても事態の根本的解決には繋がらないのです。県境を越えた各地のクマたちがまるでお互いにメールで連絡を取り合って人間を襲撃しているかのように見える現状は示唆的です。〝俺たちの住まいを元に戻せ〟と言っているかのように思われてなりません。この現状を打破するには、国民全体がことの本質を見抜き、中途半端な「人間中心主義」ではなく、「生きとし生けるもの主義」に立脚する必要があると強く思わざるを得ないのです。(2025-10-30)

 

 

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【45】悪戦奮闘の「自公選挙協力」の幻影━━兵庫県のケース/10-25

 公明党の連立離脱の余波は続く。その最大のものは、これまでの「自公選挙協力」はどうなるのかであり、それが野党との関係に何をもたらすかであろう。長年苦労して培ってきた人間関係が簡単に断ち切れるものかどうか。また逆に対野党とのケースも複雑だ。私の住む兵庫県では他県にない特殊な歴史的所産もあり、単純ではない。この例を通して全貌を推し量る一助としていただければ。

⚫︎公明党嫌いの自民党議員との選挙応援演説のエピソード

 「自公選挙協力」といっても当然のことながら参議院と衆議院とでは随分違う。兵庫県の場合、法改正で参議院の定数(改選選挙時)が1995年に1減の2になった。それ以後残念ながら不戦敗を余儀なくされた。だが、21年後の2016年に、また元の3になり今に続いている。9年前から今年までの3度の選挙では、公明党は自民党と、共に政権与党内候補として、文字通り組んずほぐれつの選挙戦を繰り返してきた。

 実はその狭間での定数2で公明党が候補をださなかった時代において、自公連立政権を組んでからというもの、公明党は自民党候補を応援することになった。この参議院選挙協力をめぐって私には忘れられないエピソードがある。今回の高市早苗首相誕生の隠然たる立役者が麻生太郎氏だったことから改めて思い出した。麻生氏といえば、鴻池祥肇(こうのいけよしただ)氏(兵庫選出の政治家=故人)。この2人はJC(青年商工会議所)幹部当時からの盟友。天下御免の兄弟分(麻生氏が一個歳上)として知られていた。

 2007年の参院選での三宮駅南での街頭演説でのことである。鴻池氏は自分の演説の際に聴衆に向かってこう切り出した。「皆さんの中で公明党の人、創価学会の会員の人おるか?あんたら、ワシのこと応援せんでええで。そんな応援してもらわんでもワシ通ったるから」。県公明党を代表して応援演説をするべく並んでいた私は、その発言は無視して、こう演説した。「皆さ〜ん。鴻池祥肇さんは、神戸一中(現神戸高校)出身、僕、赤松正雄は神戸三中(現長田高校)出身。鴻池氏、早稲田大学出身。赤松、慶應大学出身。鴻池さん、垂直思考、赤松、水平思考。鴻池さん何かと派手で目立つ。赤松はしぶくて地味。(大笑い)皆さ〜ん。我々2人は何もかもがこんなに対照的で食い違っています。しかし、一点だけ共通することがあります。それは何か。それは民主党(当時)や共産党候補には断じて負けたくない。この一点なんです(拍手)」こう大声でぶったものです。ところがこのあと、鴻池さんは2人だけになった時に「あんたのさっきの演説はなあ、大事なことが抜けとるで。あんたとワシとは憲法観が違うんじゃ」ときた。

 鴻池さんは、こんな例を出さずとも公明党の理念、成り立ちに対して反発され、嫌悪感をお持ちだった。これを変えさせることも叶わず、永遠の別れ(2018年逝去)をしてしまったのは悔やまれる。麻生さんも鴻池さんと同様に、公明党との連立は早く解消すべきだと思ってこられたことは想像に難くない。

⚫︎「小選挙区は自民、比例は公明」のまぼろし

 一方、衆院選挙での相互支援はもっと複雑だった。小選挙区比例代表並立制が導入されて、兵庫の場合は定数1の全12小選挙区のうち、2区と8区に公明党が候補を立て、それ以外の10選挙区は自民党だった。その10小選挙区の自民党候補を公明党が支援する代わりに、「比例区は公明党へ」と自民党陣営は応援してくれるというのが建前であった。この変型バーターは中々困難を極めた。全国でも、うまくいったケースや難しいケースなど様々であったと思われる。小選挙区候補者の人物にもよるものの、長年の自民党支持者が「公明党」と書くということに抵抗は大きかった。逆も同様なのはいうまでもない。

 兵庫の場合でも12小選挙区のうち、1選挙区の候補者が公然と相互支援を拒んだことがあり、ギクシャク感は濃淡の差はあれ付き纏い続けた。それでも20有余年の歴史の中で、公明党にそれなりのシンパシーを感じてくれる候補者も少しづつ増えてきていた。中には、引退してからも現役時代同様に自身の後援会名簿や関係者のリストをたくさん提供してくれる得難い人物もいることは特記する必要があろう。

 近未来に行われる総選挙では、公明党は小選挙区での選挙協力を人物本位で行うものと見られる。これまでの自民党との関係を御破算にして野党候補にスンナリ行くことは考えづらい。それぞれの地域ごとでの候補者個人の人となりや政治家としての力量によるというほかない。野党との関係でいえば、兵庫県ではかつて労組「連合」を軸にして「連合五党協議会」(略称、五党協)が結成(1994年)された。この枠組みのもと、ポスト自民党の受け皿作りに腐心したのだ。ちなみに結成された時の五党とは、社会党、民社党、新生党、日本新党と公明党である。公明党以外の党は全て消え去ってしまった。

 発足当時の連合兵庫のトップ石井亮一氏が私の出身高の先輩(弟君が同期生)だったこともあり、親近感を抱いたものである。あれから30年が経った。日本維新の会の前身である大阪維新の会が大阪自民党から分裂して誕生したのは2010年。15年前のことだ。「時間の政治学」と〝人の世の交際術〟とが興味深い交錯の彩を見せるときがきた。明治維新(1868年)以来の日本の歴史に、敗戦(1945年)を経て、二度刻印された「77年の興亡」。三たびのサイクルが動き始めた年(2022年)から3年。コロナ禍、ウクライナ戦争、ガザの悲劇と続きゆく一大転換期が日本でも本格的な幕開けの刻を迎えたようだ。(2025-10-25)

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