今日であの東日本大震災、原発大事故からちょうど4年。日本中の人びとが地震や災害にどう挑むかを考えています。私も自分が体験した阪神淡路大震災と東日本大震災について思いを馳せたいと思います。20年前の時も、4年前も共に国会議員をしていました。前者はなったばかり、後者はやめる少し前。国民の生命と暮らしを守ることに第一義的な責任のある仕事に従事していたわけです。この歳月を振り返るとき、それこそ「後の祭り」のみ多かりき日々なのですが、新たな地震災害が必至といわれる時に、すべての皆さんと一緒に、地震災害への対応に思いをめぐらせることは重要だと思われます▼「1・17」の時で私の最大の記憶は、当日よりも2日前の15日のことです。赤穂市で行われた新年の行事で千種川の河川敷にいたのですが、その時の寒さといえば尋常ただならざるものがありました。歯の根が合わないという経験はこれまでの人生の中でそうありませんでしたが、あの時は正にガチガチと音が立つほど酷いものでした。あれはどう考えても異常気象で、大震災の前兆だったと私は思っています。当日のあの時間帯は、学校に行くためにお風呂に入っていた(遠いために早く起きていた)娘が大騒ぎしたことが記憶に残っています。ギシギシと音を立てて揺れる天井や柱を見ながら、真っ先に思ったことは「潰れても俺の家じゃあない」ということでした。いささか不謹慎でした。我ながら勘定高さに呆れてしまいます▼「3・11」の際には、東京から姫路への新幹線車中でした。自民党の渡会紀三郎代議士の講演会に来賓として呼ばれていたのです。評論家の青山繁晴さんがゲストで来るというので楽しみにして参加しようとしていました。新横浜を少し過ぎた辺りで10分ほど停車しただけで何事もなかったように動き出したのです。あとで東京も大変だったことを知って驚くとともに身の僥倖を実感しました。このように、二つの大惨事に直面しながら、微妙にずれていたというか、真正面からの被害に合わなかったのです。そのことが今になって、心底からの災害対策に真剣に取り組んできたのかどうか、自責の念にとらわれるところです▼地震災害対策で国会議員時代にやり残したことで最大のものは、災害救助船を作りそこなったことです。超党派の議員連盟が作られ、私も公明党を代表して入ったのですが、残念ながら未だ実現していません。早稲田大の浅野教授はじめ熱心に取り組んでこられた学者や関係者に申し訳ない次第です。これからも今の立場で精一杯努力をしようと思っていますが。また、大津波で犠牲になった地方自治体の職員のことが忘れられません。住民を避難させるために最後まで逃げないで現場にいたために尊い命を失ってしまった人たちのことです。こうしたことを起こさないために、シェルターを作って沿岸自治体に常備させようという試みがあります。すでにそれを作って設置を働きかけている企業の応援をしようと、今私は取り組んでいます▼先日ある気鋭の若い歴史学者が日本では「平和ボケ」とよく言われるが、自分はむしろ「災害ボケ」だと思うと新聞に書いていました。戦争に比べて頻度が圧倒的に多い災害であるのに、のど元過ぎればすぐ忘れてしまう傾向が強いというのです。まあ、自分に直接降りかかってはこないだろう、と。ここは、安全が当たり前と思う心を「安全ボケ」と言ったほうがいいかもしれません。私自身、国会議員時代に地方政治家では経験しえないからこそ、国家に必須の「外交・安全保障」分野に習熟しようとしました。それゆえに「地震災害」対策などに手を抜いてきたわけではありませんが、胸を張れるだけの蓄積がないことに内心じくじたる思いがあるのは否めないのです。これからでも遅くないから「安全ボケ」から脱しなければ、と強く期しているところです。(2015・3・11)
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早すぎた引退をした女子マラソンランナーとの語らい
数ある私の「夢」の一つに、ホノルルマラソンに参加するということがあります。どうしてかって?あのイベントには時間制限がないと聞いているからです。ダイアモンドヘッドを横目に、突き抜けるような青い空のもとゆっくりと走ってみたい。いや、歩いてみたいという他愛もない望みです。その願いに呼応したのが私のホームドクター・飯村六十四。高校時代からの旧友である彼はアンチエイジングドクターとスポーツドクターの資格を持つ糖尿病専門の内科医です。あれこれと健康談義を展開するうちに、一緒にぜひホノルルへ走りに行こうということになったのです。行くなら70歳を記念して、2015年かな、と。彼は娘が同地で結婚式を昨年末あげた際にコースを下見してきました。帰ってきてからは、アップダウンがきついぞといささか怖気づいているようです▼そんな彼とともに、さる一日に神戸学院大学スポーツフェスタに行きました。同大学の女子駅伝競走部のコンディショニングコーチで監督代行の森田陽子さんから誘われたものです。あいにくの雨模様で、よほどパスしてしまおうかと迷ったのですが、浮世の義理には抗しがたく、明石から彼の運転する車で向かいました。さすがに雨中決行とはいかず、室内での座学になりました。森田さんの『姿勢バランス講座』から始まって、ストレッチ体操の基本やらスポーツシューズの選び方など、普段はあまり聴けないランニングに関するあれこれを約3時間かけて学びました。もともと元北京オリンピックの女子マラソンに出場した中村友梨香さんと一緒に走ろうというのが呼び物でしたが、雨のため、彼女のミニ講演と質疑になりました。彼女は2008年の名古屋国際女子マラソンに初めて出場して、並み居る先輩を押しのけて優勝したことで一躍有名になりました。ただ、オリンピック出場を勝ち取った(13位)もののその後は振るわず、昨年3月に現役を引退してしまったのです▼淡々としたしゃべりでマラソン人生を語った後、この日参加していた中学・高校生のマラソンランナーの卵たちの質問に答えていました。私も年甲斐もなく、➀長時間のランニングに耐えられる走りをするにはどういう練習をしたらいいか➁現役引退をした中村さんは今後の人生にいかなる夢と希望を持っているのかーとの問いかけをしてみました。彼女からはこれからどうするかはまだ決めていない、学校を出た後の学生の心境だとの返事が返ってきました。67歳で衆議院議員を引退した私などとはまったく違って、春秋に富みすぎる彼女のこれからが妙に気になります。控室での語らいで、「あまりこれまでの栄光にこだわらないで、まったく違う人生を歩む勇気を持った方がいいのでは」などと勝手なことを言ってしまいました。彼女は素直に「ええ、そうですね」と目を輝かせたかのように思えました▼オリンピックでのマラソン選手といえば、故円谷幸吉さんが忘れられません。東京オリンピックで銅メタルを獲得しながらメキシコオリンピックを前に自殺した彼には壮大なプレッシャーがかかっていたようです。中村さんにも大きな精神的負担があったはず。重荷を降ろした気軽さと目標が消えた儚さとがないまぜになっているのではないか、と私には思われる雰囲気がありました。もう一つの質問には、早めとゆっくりめの走りを交互にすることで持続力を高められると思います、と丁寧にアドバイスしてくれました▼さて、政治家を引退した70歳のおじいさんはこれからどうするか。死ぬまで医者を続けるしかない飯村ドクターと、帰りの車中で話し合いました。有り余るエネルギーを使うべく未来を見据えているところは中村さんと同じですが、42キロのフルマラソンにどう挑むかは、我々爺(じじい)には大変な課題です。若者たちに混じってのランニング講座が裏目に出たのか、今年のホノルルは断念ではなく先延ばしにするかっていうことになってしまいました。結局は”見果てぬ夢”が続きそうというのが結論。おそまつな一席です。(2015・3・4)
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原生林を荒廃から守り抜くための闘いにエール
NPO法人の「奥山保全トラスト」がこのたび晴れて公益財団法人の認定を内閣府から受けました。この法人の理事を務める私としては、スタッフの皆さんが設立準備にちょうど一年かけてこられた努力が実ったわけで大層嬉しい思いで一杯です。この背景には、日本最大の実践自然保護団体である一般社団法人「日本熊森協会」の存在があります。この団体は1997年に設立され、「動物たちに帰れる森を。地元の人たちに安心を」というスローガンのもと、奥山にいろんな実のなる木を植樹して、動物たちの棲める森を復元することに取り組んできました。その闘いは、放置されたままの人工林を6割から7割間伐して、林内に日光を入れ、あとは「天然更新」に任せる”奥山再生”に重点を移してきています▼この18年の闘いの結果、日本の森林はどう変化したでしょうか。多くの人たちの森を守ろうとの意識の変化はあるものの、現実は遅々として進みません。いやそれどころか、林野庁行政はさらに森林を荒廃させています。このため「日本熊森協会」は、2006年に自らが母体となって、原生林を買い取ったうえで守る「奥山保全トラスト」をNPO法人として立ち上げたのです。兵庫県宍粟市にある氷ノ山近くのブナ、ミズナラなどが生える巨木の森120ヘクタールを篤志家たちの寄付で購入するところから出発しました▼それから約10年。現在では、手に入れた原生林は北は福島県会津若松市から南は宮崎県高千穂町まで、全国12か所1944ヘクタールにまで及んでいます。最も広いもので冨山県上市町の670ヘクタールから同じく魚津市の2ヘクタールのものまで、様々です。売買に際して売主の側にはややもすると、「奥山保全トラスト」が原生林をなにもしないで置いたままにすることを理解できない向きもあったようです。何か営利を企んでいるのではないか、と。原生林をひたすらそのままの姿で守りたいだけとの意思が理解されるのに随分と時間がかかったというのは笑うに笑えない話ではあります▼公益法人化されることで、税務上の特典を得られ、ぐっと寄付がやりやすくなることが期待されます。ただ、こうした自然保護団体がトラスト地を増やしていっても、いつなんどき公共工事を理由に、国が土地収用に乗り出してこないとも限りません。そうしたことを防ぐには、英国の例などに見倣った日本版の「ナショナル・トラスト法」が必要になってきます。いったん取得した原生林を未来永劫に自然のままに保全していくことこそ強く望まれましょう。篤志家の皆さんの原生林保全にむけての素晴らしい心に報いるために、これからもトラスト運動を支援する努力を続けたいと念願しています。(2015・2・28)
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農相交代に見る安倍政権の赤信号点滅
西川公也農水相が辞任(したがって前農相と書くべきでしょう)したことから、しきりに安倍首相にとって農水省は鬼門だとの評論が目立っています。第一次安倍内閣の時に、次々と農水省が不祥事で倒れて交代を余儀なくされた悪夢が甦ってきます。その発端となったのは、故松岡利勝さんでした。たまたま私が現職時代に住んでいた赤坂宿舎の真下の階に彼はいて、首つり自殺をされたことから、辛くてわびしい思いをしたものです。今となってはあんなことで人生に幕引きすることはなかったのに、と思いますが……。後を引き継いだ赤城徳彦さんは、突然に顔に大きな絆創膏を張って登場したりして、世の不興を買ったものです。衆議院国土交通委員長を私が勤めたとき(2001年)の自民党筆頭理事が彼だったこともあり、それなりの交流がありましただけに、今はどうしているのかと思いやられます▼第二次安倍内閣の組閣時に、むしろ農相には西川氏よりも相応しいと思う親しい自民党農水族の中堅がいただけに残念な思いがしました。昨年末の衆議院選挙後に西川氏からその人に替えるべきだったと思っても、文字通り後の祭りというものでしょう。急な交代ではやはり初入閣では荷が重すぎて、ベテランの林芳正氏になったのは自然だと思います。彼は、参議院議員であっても有力な将来の総理候補ではないでしょうか。かつて防衛相時代に、あるなうての防衛官僚がいかに林氏が安保・防衛分野に卓越しているかを語っていたのが強く印象に残っています。何をやらせても卓越した知恵と知識を持っており、質問力も答弁力もぴか一だと思います▼安倍首相はここらでよほど気を引き締めないと、落とし穴にはまる危険がないわけではありません。週刊誌報道では下村博文文科相のスキャンダルも報じられており、真実ならば決して油断できないといえましょう。先日の予算委員会での岡田克也民主党代表との論戦もしっかりと見ましたが、かなり危うい場面もありました。先の総選挙において菅官房長官が選挙応援に出ずっぱりだったことを追及されてむきになってみたり、集団的自衛権問題で、限定的導入と一般的導入を混同する曖昧な姿勢を露呈するなど、今後の不安材料には事欠きません。民主党の元外相・前原誠司氏らに、野次を飛ばすことをたしなめられても、反省するどころか返って居丈高に言い返すのはどういうものでしょうか。圧倒的な多数議席を得た首相らしく、もっと堂々たる態度を望みたいものです。(2015・2・26)
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姫路マラソン参加者と沿道応援者との交流
ゴールまでおよそ1キロあまり。42キロ強を走ってきたランナーたちにとって天にも昇るような気分であるに違いないと思える場所で私は立っていました。2月22日の世界文化遺産姫路城マラソンの開催日のことです。5年余りをかけて修理をしてきたこのお城もようやく完成。来月の27日にフルオープンするのですが、それを記念して開かれたこの走る祭典に、地元自治会の一員として通過地点の沿道応援に参加したわけです。9時にスタートして15分ぐらいでトップランナーが姿を現しましたが、それ以後全国各地から参加した6千人が通り過ぎるまでおよそ1時間。いつもは習慣として早朝に走る身ですが、この日はひたすら走る人を応援し続けました▼自分の拙い経験からすると、といっても私はフルマラソンの経験はなく、わずかにハーフを走ったのが一回だけ。あとは、10キロかせいぜい15キロを走る程度のジョガーですが、走る喜びと厳しさは分かってるつもりです。ですから、スタート直後とゴール寸前ではおよそ天と地ぐらいの違いがあると思い込んでいました。しかし、結構皆さん元気で、沿道の応援者と交流すらできました。「あと僅かだよ。頑張って。ビールが待ってるよ」というと、「ありがとう」とか、「だめ、下戸だから」と色んな返事が返ってきました。また途中から雨が降り続けてきたので「雨降らせてごめん。これに懲りずに来年も来てね」の呼び掛けには「いえ、いえ。いい気分で楽しく走れました」との明るい答えもあったほど▼様々に装う人も少なくなく、楽しい雰囲気が溢れていました。動物の縫いぐるみを被ったり、お化けの恰好をしたりした人もいたし、高下駄、しかも一枚歯で走ってる(現実には歩いていた)人までもいたのには驚きました。また、伴走者と一緒に懸命に走る視覚障碍者の方も二人ほど見かけました。そんな中、三人の友人ランナーから声をかけられたのには嬉しい思いがしました。一人は私が通う歯科医院の衛生士さん。今一人は西脇市選出の自民党県議。そして最後は、大学の後輩で地元某印刷会社の幹部。いずれも当然ながら疲れてはいましたが、心から楽しそうでした▼私は60歳から本格的に走り始めてやがて10年が経つのですが、フルマラソンは文字通り高嶺の花。今年こそ、とは思うもののなかなか困難です。だいたい誰が42キロなんて決めたんだと開き直って、最近はもっぱら一時間8キロに専心しています。今朝も姫路城周辺を走ろうと向かっていると、走友である通称”走る弁護士”と出会いました。「昨日は走ったの?写真を撮ろうと待っていたのに逢えなかったね」「ええ、走ったんだけど、途中でダウンしました」「どの辺で?」「21キロ余りで」「それは残念だったね」「心肺機能が低下してるのかも。たばこの吸いすぎかな」などと会話をかわしました▼この日は走り出したのが7時過ぎ。走り終える少し前の8時頃には姫路城一帯はものすごい霞がたなびき、100メートル先は全く見えないほど。暦の上では、ちょうど二十四節気のうちの雨水次候にあたり、七十二侯では五番目の「かすみはじめてたなびく」ころとあります。まさにドンピシャの季節到来に深い感動を覚えつつ家にゴールインしました。(2015・2・23)
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この道って、どの道なの?との思い強まる
衆議院の議場を去ること2年余り。在任中何回となく聴いた首相の施政方針演説ですが、今回は久方ぶりに腰を据えてというか、耳をそばだてて聴いてみようと思いました。というのも安倍首相が昨年末に手に入れた衆院での圧倒的多数の議席をもとに、永年の懸案に決着をつけるこれからの4年の戦いのスタートとなるに違いないと思ったからです。露骨にその狙いをあらわにはしないにせよ、そこはかとなくその方向性は感じられよう、その匂いを嗅ぎたいと思いました▼誰であれ首相の演説は、いつ聴いても「あれをやります、これをやります」という”やりますのオンパレード”。これには毎度失望してきましたが、今回もおんなじ。一方でやりたいものの一覧リストを公表したうえで、国民に呼びかけたいテーマや野党と論争したいテーマに絞って演説すればいいのに、と思うことしきりです。それが出来ないというなら、”やります”編を9割に抑えて、あとの1割を論争編にすればいいのです。それがならなかったのは残念ですが、中途半端なものにせよ彼が目指そうとする政治の片りんはうかがえました▼安倍首相の今回の演説での特徴は、7度に及ぶ呼びかけです。最初は、「国民と共にこの道を、前に向かって、再び歩みだす時です。皆さん、『戦後以来の大改革』に、力強く踏み出そうではありませんか」です。最後は、「さあ皆さん、今ここから、新たなスタートを切って、芽生えた『自信』を『確信』へと変えていこうではありませんか」で結びました。首相は「日本を取り戻す」ためには「この道しかない」とのフレーズを先の総選挙でも繰り返しました。選挙時には首相のいう「この道」とは、「3つの矢」を忠実に放ち、景気を着実に上向きにすることを始めとしての、自民党の目指す政策選択であろうと思いました。今回の演説では、改めて「戦後以来の大改革」として①経済再生②復興③社会保障改革④教育再生⑤地方創生⑥女性活躍⑦外交・安全保障の立て直しの七つを挙げました▼これらを挙げたのはいいのですが、現状をどう認識していて、どう変えたいのかは必ずしも明確ではありません。これでは、「これでは、この道って、どの道なの?」との思いが強まるばかりです。明治維新の元勲・岩倉具視の「国民みんなが心を一つにして」という言葉を皮切りに、岡倉天心の「変化こそ唯一の永遠」、吉田松陰の「知と行は二つにして一つ」、吉田茂の「日本国民よ、自信を持て」に至るまで4つの言葉を強調しました。今の日本の在りようを変えたいとの意思は伝わってくるものの、どのように変えたいのかは殆ど伝わってきませんでした。例えば、殆ど最後のところで、「全ては国民のため、党派の違いを超えて」との枕詞をつけたうえで、「選挙制度改革、定数削減を実現させようではありませんか」と「憲法改正に向けた国民的な議論を深めようではありませんか」と呼びかけたのは、前後二つの不均衡もあって、いささか違和感がありました。もっと掘り下げた具体的な捉え方を示したうえで、自分の考えを示して欲しかったと思うのです▼ともあれ、来週から与野党の党首級の代表による論戦が始まります。公明党こそ真の意味での自民党政治への対立軸を示しうる政党だとの自論をもとに、しっかりと聴いていきたいと思います。そして政権交代可能な民主政治の実現のためには、「早く生い立て民主党」というフレーズが一番適切だとの思いをもって野党の皆さんの論戦をも見ていきたいと思います。(2015・2・14)
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イスラム過激派の心象風景をどう読み解くか
新年に入って続くイスラム過激派にまつわる事件は看過できない重大な問題をはらんでいます。この間に夥しい報道がなされたものをそれなりに読んでみましたが、思うこと大なるものがあります。ここではわたしにとって印象深いものをあげてみて今後の考察の出発にしたいと思います。今日ここにいたるまで、わたしがこのテーマを取り上げなかったのは、直ちに反応することに躊躇するものがあったのです。まず、フランスでの出版社への狙撃事件です▼これについては、ちょうどその気分を代弁する発言が、爆笑問題の太田光氏の「黙るということが必要な時もあるんじゃないか」とのテレビでのひとことでした。彼の気分とは正確には違うやも知れませんが、わたし的には、単純に「表現の自由」で押し通せないものを感じて、発言がためらわれたのです。フランスの歴史学者のエマニュエル・トッド氏が「フランスは文化的道義的危機に陥っている。わたしも言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続けるシャルリーエプドのあり方は不信の時代では有効ではない」と発言、併せてこうしたことはフランス本国では言えず、日本だからこそ言えると述べていたのには大いに感じ入りました。また、日本のイスラム問題の専門家である酒井啓子氏の「(シャルリーが)毎年しつこくキャンペーンのごとく(風刺画を掲載し)続けることに、イスラム教徒は自分たち全体が侮辱され差別されていると感じている」との指摘も傾聴に値すると思います。何事も中庸が肝心だと思わざるを得ません▼次いでイスラム国による後藤健二さんら二人の日本人殺害事件です。これも多くの論評を目にしましたが、最も感銘を受けたのは、これは「単純にテロという表現で済ますと反感を招くだけ」だという指摘です。現代イスラム研究者の宮田律さんのある座談会での発言ですが、意表を衝かれた思いがいたしました。日本人からすれば誰しもテロだと思っているでしょうが、「イラク人から見れば、米国に抵抗している武装集団であって必ずしもテロリストではないかもしれない」との指摘です。また、今回の人質の交渉をめぐってヨルダンを拠点にしないで、トルコにすべきだったというのはその通りだと思えます。イスラム国からすればヨルダンという国は、敵対包囲網の一角を形成しているわけだから、敵視せざるをえないわけです。こうした視点は重要です▼わたしが今回の事件を考えるときに、同じ地球上で生活をしているといっても、異時代を生きている民族や国家は相互に理解し難いということに思いを馳せざるをえないということです。例えば、東アジアでも北朝鮮と韓国、中国と日本ではかなり生きている時代状況が違います。北朝鮮は近代以前(プレモダン)ですし、中国、韓国は近代(モダン)真っ只中といえましょう。それに比べて日本はポストモダン、つまり近代以後の時間を先行しているのです。この四つの国でも相互理解は難しいものがあります。同じようにイスラム国は近代以前を強く意識した人たちで形成されているだけに、欧米各国や日本などポストモダンを生きる国々とは様々な面で受け止め方が違ってきます▼1914年の第一次大戦までのオスマントルコの支配から英国の占領下へと変遷を経て、やがて米国の進出で自分たちが生息する地域を滅茶苦茶にされたとの怨念が彼らには強いということを意識する必要があります。そういう意味では日本は二重三重に慎重な態度で挑まないと、欧米と同一視されてしまいます。テロは許されないという一点だけに寄りかかっていると、イスラム過激派の思いが理解できないことを知る必要があるということを痛感します。(2015・2・6)
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親から子へ世襲される弁護士のたたかい
暦の上でも大寒とあるだけに、寒い日が続いています。このころは鶏始乳ーにわとりはじめてとやにつく、といって七十二侯でいう最後の時候。新暦では一月の終わりになりましたが、旧暦ではそろそろ元旦。私は毎年この時期は改めて新年を迎える気分になって、思いを新たにするようにしています。そんな折、久方ぶりに地元姫路の名士たちと集い会う機会が二つありました。一つは、市長主催の新年会。もう一つはある弁護士事務所の開設10周年と所長の新旧交代式です。代議士を引退して二年。あまりこうした集いに出ることはなかったのですが、今回は気分転換もあって出席してみました▼親から息子への代替わりの場とあって、後者には心和む雰囲気がそこはかとなく満ちた楽しいものでした。実は父親の弁護士とは長い付き合いで、ほぼ毎朝姫路城周辺を走る仲間でもあります。尤も、私はせいぜい10キロ走れば十分のジョガー。彼の方は近く行われる姫路城マラソンにも出ようという本格的なランナーです。しかもスキューバダイビングも大好きな水陸両用のスポーツマンという強者です。一方、息子氏は、彼が司法試験に合格して修習生仲間たちと一緒に国会見学に来た時に会って激励したことがあります。直接会うのは、それ以来なので実に10年ぶり。見事に成長した姿を見て新鮮な驚きがありました▼姫路を中心にする播州地域には120人の弁護士がいるとのことですが、この事務所は弁護士が4人、スタッフが9人という総計13人にも及ぶ大所帯です。30歳台半ばの新所長の手腕が期待されるところでしょう。弁護士の数が多すぎるという声があります。21世紀初頭に行われた司法制度改革で増やしてみたものの、現実は想定外の展開だといいます。要するに弁護士になってはみたものの食えないという事態が起きているというのです。議会の場で法曹人口を増やすことに先鞭をつける側にいた私としては、「過渡期なのだ、一人ひとりが競争に打ち勝つ強さをもつべし」と言うしかありません▼法律に通暁して、その知識をもとに縦横に活躍するひとたちも少なくないようです。ある新聞に「豊かな地方とは」とのテーマで、『降りてゆく生き方』という映画のプロデュースをして成功を収めている弁護士のインタビュー記事がありました。上昇志向ばかりが強い中にあって発想の逆転を衝く面白い試みだと感心したものです。とりわけ団塊世代を取り扱った堺屋太一氏の小説に反発しているところが私には好ましく思えました。もう彼の考えは古いと思うからです▼政治家の中には弁護士出身者がかなりいます。わが公明党がひときわ際立っていることは周知のとおりです。現役時代の私は、弁護士は今前に横たわる法律を解釈する存在だが、代議士は今前にある現実を変えるために法律を作る存在だといって、自らを鼓舞したものです。両方兼ね備えているに越したことはないのですが、非力なわが身としては、敢えて政治家の本分は崇高なものであって、弁護士などには負けていられないという姿勢を示さざるを得なかったのです。世襲政治家の弊害が語られて久しいものがありますが、さて弁護士の世襲はどうなんだろうと思いを巡らしゆくうちにめでたい披露宴は、お開きとなっていました。(2015・1・31)
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図書館での政党機関紙の取り扱いについて
このところ姫路城のすぐそばにある市立図書館に行く機会があります。新聞全紙を見るためです。現役時代はかなり直接購読していましたし、国会内部で見る機会も多かったのですが、引退するとなかなか多くの紙面を見ることがなく、結局は図書館が一番便利なのです。ただ、毎日行くわけにはいかず、まとめ読みすることが多く、ひどいときは4紙、5紙を一週間分読むこともあり、35日分の紙面をザーッと追っかけることもあります。我ながらよくやるなあ、と感じ入ったりしています▼昨年秋頃に初めて行ったのですが、その折に気になったのは、新聞棚の上に日本共産党の機関紙「赤旗」を綴じたものが堂々と置いてあったことです。誰かが取り出したまま置き去りにしているのかあ、と思っていました。ところが、それから二、三回行ってもいつもその場所、つまり他の新聞は全て棚に入っているから目立たないのに、棚の上にある「赤旗」だけは目立つことこの上ないのです。なぜだろうか、気になりました。誰かがわざとそうしているのか、と思うとともに、「赤旗」だけを購入して置いて、他の政党機関紙は置かないのかと疑問に思いました。そこで、図書館長に会い、そのあたりのわけを訊いてみたのです▼すると、「赤旗」は、図書館が購入しているのではなく、寄贈によるものであり、個別にいれるだけの棚のスペースがないので、外に出したままになっているとのことでした。そこで、私は早急に棚を用意してそこに収納し、放り出したままにしないように、他の新聞と同様に取り扱うべきだと申し入れたのです。最初はスペースがないなどぐずぐず言っていましたが、「では公明新聞も寄贈すると、置くか」というと、しぶしぶ赤旗のスペースを作ると言うのです。公明党としてどうするのかは市議会の判断ですから私はそれで引き下がりました▼政党機関紙をどう扱うかという問題は結構大事だと思います。日刊紙としては、「赤旗」と「公明新聞」だけです。「赤旗」については、かねて一方的で偏向した記事が多く信用できないということは定評があります。「公明新聞」は、今や与党唯一の発信媒体として、各界,各方面など多くの方々から好評を得ています。出来れば、どの図書館にも置いてほしいものです。このあたり全国の図書館ではどのようになっているのでしょうか。各自治体ごとに恐らく方針は違うのかも知れませんが、姫路市も対応を検討してほしいと考えています。(2015・1・23)
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テロ、戦後70年歴史論争など上京先で議論
今年初めての上京をしました。二泊三日の滞在期間に、25人の懐かしい人びとや新しい方々との対話をしましたので、この報告をかいつまんでいたします。15日の夕刻に到着するなり六本木で行われた姫人会に。これは姫路出身で東京で活躍してきた人びととの懇親会です。私が国会議員の現役時代に交流を培ってきた仲間たちで、この日は5人が集まりました。元日経記者で今は東京工大の副学長をしているOさんや元厚生労働省の課長だったYさん、ほかに大手大企業の幹部や女性企業家です。この日の話題の一つはフランスでのテロ。テロは断じて許されないものではあるが、「行き過ぎた風刺画は果たして言論,表現の自由の範囲内なのか」ということも話題になりました。私は、同時代に異次元の世界が混在する中では、自ずと規制が必要だとの持論を展開しておきました▼二日目の16日はお昼にNPO 法人デジタルファースト出版会(出版はまず電子書籍からというもので、私が副理事長を務めている)の朽木事務局長とこれからの新事業のありかたについて意見交換をしました。大学生の文章表現力をどのように向上させるかをめぐって、電子書籍を活用しながらの方法論に議論は集中。私は懇意にしている大学准教授らの意見を求めることを約束しました。午後は、国会におもむいて公明党の政務調査会メンバーや中小企業庁の政策企画担当者らと中小企業政策で議論しました。私が顧問をしているAKR(オール小売り連合)の15年に及ぶ実績をもとに、中小企業の与信力を向上させるためにはどうするかが焦点に。どう具体化をするかを今後の課題として検討してほしいと要望しておきました▼この日の夜は、元公明党番記者たち6人との懇談会に出席しました。20年という長きに渡って付き合いを続けている仲間たちです。今回の話題の一つは、戦後70年を迎えての「歴史観」をどう捉えていくかとの点になりました。出席者から『正論』2月号の小川榮太郎氏による論考『戦後70年 火を噴く歴史戦争 偉大なる常識』が取り上げられ、故岡崎久彦氏の昭和史『重光・東郷とその時代』からいかに学ぶべきことが多いかということについて問題提起がありました。私は、岡崎氏の著作はほとんど全て読んでおり、同時に氏も一員だった「新学而会」のメンバーだっただけに、大いに興味をそそられました。この一年間の最大の課題として考えるいいきっかけを戴いたものとして捉えていこうと決意しました▼最終日の17日は昼と夜に、懐かしい先輩二人とそれぞれ食事をしながら懇談しました。一人は出版社社長のO氏。もう一人は医事評論家で作家のN氏です。O氏との議論は、出版界でいま話題になっている佐藤優氏の仕事ぶりに集中。月刊誌『第三文明』の2月号から新しく連載が始まった東日本国際大学教授の松岡幹夫氏との対談「創価学会とは何か」も対象になりました。松岡氏が日蓮仏法における僧籍を持っており、キリスト者としての佐藤氏との対談は極めて面白い内容になるものと思われます。私は佐藤氏はまさに天才だと思っているのですが、同時代に生きる宗教者同士として大いに関心を持ち続けていきたいと思っています。夜のN氏との話題は、彼が医師資格を持っていることもあり、「健康」になりました。N氏からは渥美和彦東大名誉教授の『医者の世話にならない生きかた』という本が現代人と医者の関係について、いかに本質をついているかとの話がありました。私はこの本は未読のゆえ、さっそく読むことを約束する一方、患者学の必要性を訴えました。賢い患者になるためには日常の生きかたが大事であることを強調したのです。25人の人びととの対話を思い起こしながらの新幹線の車中は疲れもあって読書はあまりはかどらなかったのは残念でした。(2015・1・18)
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