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【196】久しぶりの政治家のパーティーで感じたこと/12-24

 先日、公明党の参議院議員である高橋光男さんの講演会に友人と共に参加した。姫路駅前の日航ホテルに数百人の人々が来られて、盛会だった。国会議員を辞めて12年が経つ私にとって、様々な意味で「考える材料」があった。この日の会合は、会費1万円でバイキング風の飲食を伴う形式で行われた。コロナ禍、「政治とカネ」問題で、公私共にしばらく遠ざかっていた政治家のパーティーだけに、意義深いものを感じた。

●後輩政治家を叱咤激励

 まず来賓の挨拶で感じたことから。自民党所属の元大臣の挨拶については、彼なりの衆院選の総括が聞けるものと期待したが、全く触れられなかった。加えて公明党から支援を頂いたおかげだと言うような謙虚さも感じられなかった。発言の中で、立憲民主党や維新は「大嫌いだ」との表現を用いていたのは、いただけなかった。政治家としての見識や節度を感じさせる微妙な言い回しが欲しかったのだが、配慮が感じられなかった。この辺り、彼の降壇後に直接指摘しておいた。他党批判はもっと気をつけて発言した方がいいよ、と。

 いいところをいっぱい持った優秀な後輩政治家だけに、現役時代からガンガン物申してきた間柄だ。彼の長所は人の話を聴く耳を持っているところだろう。翌日早速電話がかかってきた。私の方からも失礼な物言いになってしまったと詫びた上で、「彼は昔の彼ならず」(この場合の彼とは私のことを指す)だからね、と述べた。君は昔のままだねと皮肉を込めたわけではないけれど、もっと、自民党批判を聞きたかった旨のコメントを添えた。私はあれこれと持論を述べて、「分かってくれる?」と訊くと、「少しだけは」との反応だった。

 もう1人の来賓は、姫路南部地域の介護福祉にまつわる企業のトップを長年務めておられ、私の現役時代からずっと公明党支援をしてくださっている方だった。高橋光男議員のこれまでの6年間がいかに大衆に寄り添ったものであるかについて具体的な実例を挙げて褒めて頂いた。その上、開会前に控室で昔話をしたこともあって、きちっと私のことにも触れて頂いたことには恐縮した。こういう支援者のお陰で公明党はあるのだと思い知ったしだいである。

 飛び入りで挨拶に立った歌手の山本リンダさん(上の写真右)は、過ぎ去りし歳月を感じさせぬ若々しさで、持ち前の熱っぽい支援の弁を語りまくられたのには「困っちゃう」ほどだった。かつて、私の応援に大手前公園に駆けつけて来てくれた彼女を前に、私はあいにくの雨模様に一瞬たじろぐ風を見せてしまった。その時彼女は「候補者は雨なんか気にしないでみんなの中に飛び込むのよ」と背中をビシッと叩かれたことを思い出した。

 応援に隣県岡山から駆けつけてくれた谷合正明参議院公明党会長(右写真左)は、いわゆる政治家とは思わせぬ、まことに若々しくさわやかで軽やかな話ぶりだった。参議院のトップというと、私のような古くからの公明党を知っている者にとっては、黒柳明、二宮文造といったいにしえの大先輩を思い出す。彼我の差に茫然とすることは禁じ得なかったが、新時代の公明党を感じさせるに十分な振る舞いだった。宴たけなわの合間に、スマホで私とのツーショットを撮ってくれ、翌日のFBに上げていたようだ。これまた昔とは様変わりの風景といえよう。

●後生畏るべしを実感

 高橋光男議員は、6年前のデビューの時から一段と磨きがかかってまことに逞しい存在を感じさせた。できたばかりの斉藤代表との連名ポスターを使って政治家としての自分の目標を折り込む話をしたり、自分の話をずらして開宴中にしたことの意義を語るなど〝藝の細やかさ〟を感じさせた。実は私が驚いたのは彼のリーフレットに「中央大学法学部卒」との肩書きがあったことだ。彼は大阪外語大中退(外務省入省のため)だったはずなのに、と訝しく思った。恐らくこの1期6年の間に、通信教育課程に挑戦して取得した学歴に違いない。驚いたのはそのことに全く触れずに演説を終えたことだった。「後生畏るべし」をあらためて実感したしだいである。

 この日の会には、私の友人である〝電器商と小説家との二足の草鞋〟を履く、諸井学さんを連れて行った。彼は明年春には『リスボンから』という新刊小説を出すという。リスボンとはポルトガルの首都。ポルトガル語を外交官として操った高橋さんには是非会わせて、紹介したいと思ったからだ。案の定2人の出会いは実り多いものだった。この会には私がお世話になった数多の友人、知人が来られていて、まことに有意義だった。おまけに、帰途に着いた時に、姫路在住でウクライナの専門家である岡部芳彦神戸学院大教授が飛び込んでこられた。これ幸いと、諸井さん共々近くの馴染みのお店に二次会に誘った(写真=右奥が岡部氏。左手前が諸井氏)。

 加えてその場に、大学後輩の市役所の若い職員(写真手前右)も呼び出した。テレビでの解説に引っ張りだこの、今をときめく岡部さん。そして、日本古典文学(とりわけ和歌文学)とポストモダン文学の二刀流で売り出し中の地元作家の諸井さん。ふたりの話を私だけが独占せずに、若い人に聞かせたいという私の〝深い先輩心〟に、彼がいたく感激してくれたのはいうまでもない。(2024-12-24)

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【195】「いじめ」をなくすために━━私教育の立場からの提案を聞く/12-18

 先週末は、土曜日の公明党の県本部大会に次いで日曜日には、「いじめ」をめぐる私教育関係者の講演会が神戸であり、友人を誘って参加してきました。二部構成のこの会はとても面白い内容で、大いに考えさせられました。

「いじめ」をめぐる重要な対応提案を聞く

 幾たびか小欄でも紹介してきました作家の高嶋哲夫さんは、いま学校教育の現場での「いじめ」や「ひきこもり」による不登校の激増について、強い関心を持って世間に対応を迫る一大運動を起こす構えでいます。私に対しても協力要請があります。先日は2人だけのミーティングをやり意見交換をしました。その際にこの日の会合で彼が講演をするとことを聞いたのです。

 主催はAJC(全国学習塾共同組合)で、一部が『夢の話をしよう。でも夢じゃない』〜私教育を一つの力に〜とのテーマで高嶋さんが担当しました。二部は、『「いじめ」のメカニズムについて』で、学校法人神戸セミナーの喜多徹人校長が講師でした。集まった人たちは、県下各地で私塾の経営者や、予備校の関係者の皆さん30人ほどでした。

 高嶋さんの講演は、日本の教育現場がいま、子供たちが抱える、いじめ、不登校(ひきこもり)、虐待、ヤングケアラーなどの問題によって、極めて深刻な状況にあることを指摘するところから始まりました。その一方で、いわゆる「詰め込み・暗記重視型」の受験教育の結果は悲惨なもので、創造性豊かな個性溢れる人材群を輩出する米国の大学教育の成果とは比べるべくもない差を生み出すに至っていることを強調。その原因は、公教育を司る文科省の旧態依然とした杜撰な方針や展開にあるとしました。このため、今求められているのは、この現実を認識した上で、私教育に取り組む者たちが団結して、国民、政府を動かしていく大きな運動を起こすべきだとの持論を披歴されたのです。

 具体的には、「いじめをなくす」との共通の目的に向けて、「いじめを考える日」を設定した上で、適切な映画を作って、全国の学校でみんなが一斉に見ることなどを提起されたのです。そこには、高嶋さんの著作『ダーティー・ユー』(2001年)の映画化が考えられており、この映画を観ることをきっかけとして、子供も大人もみんなで、「いじめ」について考えようというわけです。ここから始めて、日本の教育の歪んだ側面を糺しつつ、創造性を取り戻す変革に向けての大きな運動を起こそうという壮大な計画の一端が述べられました。

 さて、どうするか。高嶋さんの提案を聞いて私は今思案投げ首の最中というのが偽らざるところです。

「いじめ」のメカニズムについて

 一方、二部の喜多さんの講演は、「『いじめる側』『いじめられる側』『保護者』への関わり方」とのサブタイトルが示すように、彼の経営する学校法人の現場の実践に基づいた極めてリアルな内容でした。

 まず、まじめで忠実な生徒ほどとても忙しい状況に直面していることを具体例を挙げながら語っていきました。繊細な感性を持つ、周囲に気を遣う子供ほど「いじめられる」ケースが多いというのです。喜多さんは、人には、それぞれ「個性」があり、「得意」「不得意」があるのは当たり前だとして、「所属組織の文化に合わない」「文化的に少数派」だと見られると、「問題化」することになるケースが多いと述べました。その中で、HSP(ハイリーセンシティブパーソン=感受性の異常に高い人)と発達障碍の差異を述べたのですが、なかなか興味深いものでした。

 また、「意図されないいじめ」から「意図されたいじめ」や「犯罪」としての「いじめ」に至る、「いじめ」のメカニズムについての話には引き込まれるに十分なものでした。現実的には、「意図されないいじめ」が多く、一人ひとりの生徒の感じ方でいじめが生まれるとのメカニズムの解明は納得がいくものでした。こうした分析を通じて、最終的な対応の基本は、①「事実はどうか」や、「正しいか、正しくないか」から入ると、対立が生まれる②「当事者間の話し合い」は避けるべき。「巻き込まれない」ことが大切③保護者への対応は、「関係性の構築」と、「目標の共有」を目指すこと━━だとしました。私教育の現場では、「仲裁は一切しない。巻き込まれてはいけない」という原理原則は極めて印象的でした。

 この話の合間に、喜多さんは斎藤元彦兵庫県知事の事例に触れ、論理的思考は極めて得意だが、情緒的思考は理解できないタイプであるとの趣旨を示されました。かねて、知事の性癖に病的なものを感じてきた私としては大いに納得したしだいです。(2024-12-18)

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【194】就任後初の兵庫入りした斉藤新代表とのやりとり/12-14

 師走12月もあっという間に中旬となってしまいました。このところ、来春に出版予定の『ふれあう読書━━私の縁した百人一冊』の出稿作業に忙殺されてしまい、『後の祭り回想記』が滞ってしまいました。今日やっと書こうという気力が漲ってきました。テーマは、「60周年を迎え終わった兵庫県公明党の今」です。といっても、抽象的になってしまうので、14日に開催された県本部大会の内容から、最新の「公明党の空気」を追いつつ所感を述べてみたいと思います。

 年4回ミニ新聞を作成し地域全戸に配布した市議の活動報告

 兵庫県公明党は実は日本一の党勢を誇っていると言っても過言ではありません。何しろ、全県下各市町で空白区がゼロなんです。つまり、あらゆる議会に必ず1人は公明党所属の議員がいるということです。これって凄いことだと思います。しかも、国会議員が衆参合わせて2人づつで合計4人もいます。今回の衆院選で残念なことに大阪が4人の小選挙区で全敗したため、参議院議員の2人だけになってしまいましたから、兵庫が人数でトップになりました。このあたりのことについて、新代表として就任後初めて兵庫にやってきた斎藤鉄夫氏が挨拶の中で、紹介してくれて改めてその値打ちを確認したしだいです。

 今回の大会で圧巻だったのは、高砂市議会の春増勝利議員の活動報告でした。彼は小学校の校長を定年で終えた後に初出馬した人です。当選直後の2年半前に前任者の砂川辰義さんに紹介されて会いましたが、その清々しいお人柄に魅入られたものでした。この日参加した議員や代議員(県下各支部から選抜された党員代表たち)も異口同音に「凄い」「大したもんだ」「みんなが見倣えばいい」と語っていました。

 中でも年に4回開かれる議会に全て質問に立ち、毎回40分の質問を重ねてきたことには驚きました。しかもその都度、「はるます通信」というミニ新聞を作成して、担当エリアの約1000世帯の家庭に自ら一軒づつ配布してきたと言います。なかなかできないことです。それをやり続けたと言うのですから、地域住民との絆は相当に深まったに違いありません。私は終了後、彼に原稿を貸して貰い、その場で写し撮った上で、続けることの大事さを強調して激励しました。その際に「砂川先輩にいつも厳しくも温かく励まされたおかげです。これからも頑張ります」と言っていました。結党60周年を飾る嬉しい活動報告でした。

斎藤代表の選挙総括に感想と提案

 赤羽県代表(党副代表、元国交相)の挨拶で印象的だったのは、公明党の中で小選挙区で8回当選し続けてきた(落選は一回)のは自分だけだと述べたことでした。確かにこれは凄い。その背景には、地域党員支持者の皆さんの涙ぐましい支援活動の展開やら自公選挙協力の積み重ねなどがあるのですが、並大抵のことではないとつくづく感じ入りました。彼が大学生の時から私はよく知って(13年後輩)いますが、そのタフガイぶり、挑戦の姿勢には感心し続けています。更に、大臣を経験し、一段と質問力や答弁力に磨きがかかってきました。

 斎藤代表の挨拶では、今回の選挙の総括を全国の県代表から吸い上げた結果として、共通する3点を挙げていたことが注目されました。一つは、選挙戦開始と同時に自民党非公認の候補者を公明党が推薦したこと。二つは、公明党が全世代社会保障に力を入れていることが、結果的に若い世代に力を入れていないと誤って捉えられたこと。三つは、公明党もSNSに力を入れてきたが、今一歩有効な手段となっていなかったこと。いずれもその通りです。ただ、自民党への批判が全く聞けなかったことに物足りなさが残りました。

 終了後、私は同代表に、メールで、「斉藤さんの明るさがいいですね」と率直に褒める一方、ぜひ今後は自民党との間で、この国をどうするかを巡って国家ビジョンを戦わせる場を設けるべきだと持論を強調しておきました。その際に、池田思想の何たるかを自民党に訴えることの重要性をも付け加えました。でなければ、世間から、自公政権が結局は「選挙互助会的協力に過ぎない」と見られるだけだ、とも。

 実は、この日会場に到着した斉藤さんを玄関で待ち受けていた私は、慰労と励ましの言葉を投げかける一方、「安保研リポート」55号を手渡し、「兵庫県知事選についての私の見解を書いてるので読んでね」と手渡しました。これに対し、彼は「いつも赤松さんの書かれるものを見てますよ」と言ったのです。果たしてどこまでかは疑問なしとしませんが、まずは、ほっとしたものです。それもあって、心からの〝追いかけメール〟を送った次第です。(2024-12-14)

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【193】大光会前後に、大使経験者、厚労省幹部、姫路出身の経済人らと懇談/11-28

 翌日24日は、東京に2日ぶりに舞い戻った。鴻巣駅から乗車したのだが、この場所が「こうのとり有縁の地」であることに、兵庫県人として大いに感じ入った。ただし、宿泊先のホテルのフロントの2人の女性も、お世話になった我が友人夫妻も、「豊岡のこうのとり」については全く知らず、ちょっぴり残念だった。午後は、前ポーランド大使の宮島昭夫さんと会った。現役時からお付き合い頂いた懐かしい人だ。なお、少し前にポーランドを訪れていた参議院公明党の谷合正明会長にも同席してもらった。宮島さんからは、ウクライナからの避難民受け入れに奮闘した彼の国の実態をつぶさに聞くことが出来た。明年春に開戦3年目を迎えるウクライナ戦争について、同氏から避難民受け入れ、定住支援について、継続して支援をしてほしい旨の要望があり、谷合氏からは必ず対応するとの回答がなされた。私はその際にウクライナ問題に詳しい岡部芳彦神戸学院大教授との連携を強調し、直ちに電話をして関係を強化できた。宮島さんは、7年ぶりに帰国した感想として「活気漲るポーランドに比べて、日本はあまり元気がない」と話されたのが印象的だった。私は「77年の興亡」に起因する持論に触れて、日本の立ち位置を説明した◆夕刻には、人形町のホテルで、元英国大使の林景一さんと、サミュエル・ベケット研究の第一人者である岡室美奈子早稲田大教授の3人でひさしぶりに会った。この3人は私がアイルランド訪問をした2005年以来のご縁で、時に応じて集まり懇談する仲間だ。この日は先年亡くなられた林夫人を悼む目的もあり、遺影を囲んでの集いにもなった。話題は、林さんが退官後に最高裁判事を経験されたため、その期間の思い出を聞くことから始まった。最も彼が関心を寄せたのは「袴田事件」だと言われたことから、種々議論が展開された。テレビドラマ研究でも著名な岡室さんは、女性初の弁護士、裁判官としても活躍した三淵嘉子さんをモデルにしたNHKの朝ドラ『虎に翼』について、とてもよくできた見応えのある中身だったと述べられた。また、脚本を書いたのが教え子ということから、部分的にはこなれていないくだりを指摘されたことなど、面白いドラマ論議になった。また、女性の社会進出について未だ未だ日本が遅れていることについての問題指摘が興味深かった。私からは、姫路での小説家の諸井学氏の出版祝いの模様について触れた上で、岡室さんにぜひベケットにまつわる単著を書いて欲しいと頼んだ。何とか書きたいと考えているところだとの返答があったことは、嬉しい限りだ◆25日は、お昼に創価学会SGI副理事長の寺崎広嗣さんと会った。彼は中野区在住でかねて私とは昵懇の間柄。「核廃絶の問題」で世界を駆け巡っての活躍ぶりはまさに目を見張るばかり。この日も話題は世界の核問題から国内政治の現況まで、大きく深く広がった。私からは、先の衆院選の最中に日本記者クラブでの各党党首の合同会見で、来年3月の核兵器禁止条約会合に、日本のオブザーバー参加について、今一歩積極的発言をしなかった公明党代表についてこだわった。あの場面は、石破首相の方に身を向けて「総理ぜひ参加しましょうよ」と述べる一大チャンスを逃したのは惜しい、と。その後、中野桃園町から西新宿へと、昔からの中野区の仲間2組と、明年の都議選に向けての対応などを種々話し合った。夜は、溜池山王の料理屋で私が厚労副大臣時代の宮崎淳文秘書官が総括審議官に就任したことに

姫路出身の経済人たちと(11-26)

伴うお祝いの会を、かつての仲間たちと一緒に持った。それぞれ成長を如実に物語る話に聞き入りながら、歳月の持つ意味を強く感じた◆翌26日は、今回の上京の目的である公明党大光会の全国県代表世話人会が正午から開かれ、出席した。冒頭、斎藤鉄夫新代表から、これからの党再建に向けての決意が述べられた。彼とは「核」や「原発」問題で激論を交わした仲だけに、党内議論を積極的に起こし、この党を大きく変える役割に貢献してもらいたいと切に望みたい。夕方5時からは、西麻布の霞会館で、在京姫路出身者有志による「姫人会」に出席した。この会は有難いことに私の上京時に合わせて7-8人が集まってくださる。この日は私が衆院選の時に知り合った電力総連政治部の俊英と、私のいとこの長男である農水省の役人という40歳台の若い2人と、総合商社丸紅出身の70歳台の熟練の先輩が初参加してくれた。話題は、未熟児出産問題の権威である福岡秀興医学博士の現状報告に始まり、私の兵庫県知事選挙の経緯説明に至るまで、広範囲に広がった。このように、4泊5日の闘いを終えて新幹線のぞみに乗って、西明石に着いたのは深夜11時40分。79歳の誕生日はこうして暮れた。(2024-11-28)

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【192】晩秋の南紀から宇都宮、行田へ、友との熱き語らい/11-25

壮絶な戦いだった衆院選と兵庫県議選を終えて、久方ぶりに束の間のお休みを得ることが出来た。11月1ヶ月のうちに、あれこれと動き、多くのひとと旧交を温める一方、初めての地での新たな出会いをも経験出来た。ここで時系列を追って、かいつまんで報告したい。

 まず、11月9日から一泊2日で南紀・白浜温泉に行ってきた。毎年恒例の関西連合三田会による各県持ち回りの企画である。関西各県から200人近い人が集ったが、姫路慶應倶楽部からも仲間10人ほどが参加した。伊藤公平塾長はドイツでの大学学長会議のため欠席されたが、現役生たちの学問、スポーツ両面での活躍をビデオで印象深く伝えてくれた。またいつもながら、大学への寄付の重要性が例年にも増して強調された。何とか応えねばと思ったしだい。夜は、アドベンチャーワールドのサファリテーマパークへと移動して、サイに餌を与えたり、ライオンや虎などの肉食動物の実態をつぶさに見た。夜間の動物の生態を見るのは珍しく、忘れていた自然の凄みを感じた◆11月16日は、姫路での「諸井学氏の出版を祝う会」に参加してきた。このひとは電器商を営む一方、小説を書く。しかも、日本古典文学(特に和歌文学)と、ヨーロッパ現代文学(特にポストモダン文学)に精通する。いわば〝二足の草鞋を履く二刀流の使い手〟と言ってよい。このたび上梓された『マルクスの場合』は、古代ローマ帝国時代の第16代賢帝マルクス・アウレリウス・アントニウスの名前を拝借したという「犬」にまつわる奇想天外な物語を描いたもの。姫路の著名なドクター石川誠先生の呼びかけで開催が実現した。私もかねてからの友人として世話人に名を連ね、遠くは東京、横浜、広島、徳島など親しい仲間10人に声をかけた。中でも中野時代以来の後輩・林光政君は京都・祇園の舞芸妓とお茶屋の女将を連れて参加してくれ、会場を一段と華やいだものにしてくれた。また、大学以来60年の盟友・尾上晴久君は歌舞伎の名場面を再演する十八番を披露して会場を沸かせてくれた。他にも、『首都感染』で知られる作家・高嶋哲夫さんや神戸学院大の相島淑美教授らも錦上花を添えてくれたことは忘れ難い◆11月22日は、東京三田で、昭和44年卒業の同級生13人が懐かしい慶應仲通りの中華店に集まった。卒業後55年が経ったが、この30年あまり毎年集まってきたメンバーが今年も元気に姿を見せた。私は「欠席」と事前通知していたが、選挙が前倒しとなって無事に参加出来た。「近況報告」では皆身体の不具合を訴えるケースが目立ったが、得意のギター演奏を披露してくれる者がいたり、明治維新での幕臣の隠れた立役者のひとり「小栗忠順との出会い」を語った、歴史好きの仲間もいて、大いに盛り上がった。私は求められるままに昨今の政治情勢を語った。終わって、三田祭の賑わい

慶應義塾大学図書館前で級友たちと(11-22)

さんざめく中を、慶應義塾図書館旧館2階に足を運び、「福沢諭吉と近代日本の歩み」を常設展示する「慶應義塾史展示館」を観に行った。帰りに旧知の福澤諭吉研究センターの都倉武之准教授と久しぶりに会うことが出来た。この人からは姫路で幾たびか福澤先生の人物像を語って貰ったことがある。その日は夕刻に、大隅一興君と、尾上君と3人で宇都宮に移動して、夕食を共にしながら、〝我らが60年の人生〟を語り合った。彼らは拙著『77年の興亡』を読み込んでくれており、行き詰まりを見せる目下の内外の情勢を巡って、むしろ今こそ中道主義の公明党が立ち上がるチャンスだと励ましの言を述べてくれた。「与野党伯仲の再現」は、〝合意創出の公明党の出番〟だというわけである。昭和40年慶應入学以来の公明党員としての私の動きを知ってくれている〝同期の桜〟たちの激励はたまらなく嬉しかった◆翌23日は、宇都宮市内を走るLRTに30分乗ったあと、車で「大谷資料館」に向かった。ここは地下奥底深くに掘り広げられた神秘的空間ともいえる。このような大谷石の歴史を初めて知って、まさにたまげる思いを抱いた。午後は宇都宮名物の餃子入り出し汁のうどんを食べたあと、埼玉県行田市へ。その地に住む中野時代から親しい関係が続く後輩・大塚俊彦君夫婦と再会した。彼らに、埼玉古墳群の二子山古墳やさきたま神社、水城公園周辺を案内して貰ったのち、先の衆院選・埼玉14区での選挙戦の総括と次なる戦いの展望を語り合った。その結論は、一言でいえば、「自前能動」。キャッチコピー風に言えば、「楽しく面白くなければ選挙活動じゃない」というところか。50年来の同志の心温まる歓迎を胸いっぱいに受け止めながらの語り合いは、何よりもの栄養源となった。(2024-11-25)

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【191】問われる県議会、既存メディアへの信頼━━兵庫県知事選の結果/11-18

 「いったい全体どうなっているの?兵庫県は」━━当初、毎日の新聞やテレビを観てきた人は、概ね齋藤元彦前知事が再選されるとは、思っていなかったはず。それがあれよあれよと言う間に、ぐんぐん形勢は変化していきました。ネット、ユーチューブなどSNSで、興味津々な舞台裏を日々観てきた人びとにとっては、まるで出遅れたランナーが見事に逆転する姿を見るようだったのです。実は私には、今回の知事選に至る状況の一部始終を追い、街頭演説の現場にも足繁く通った、〝妙に暇で粋な友人〟がいます。彼による連日の報告をあたかも実況中継のように聞いてきました。齋藤候補の街頭の演説には、話を聞き終えて握手やサインを求める人たちが列をなしており、涙ぐむだけでなく泣きだすひとたちもいたことを日々聞かされてきたのです。この人たちは恐らくSNSで知った「裏話し」を確認するために、現物を見に足を運んだものと思われました◆この逆転劇の背景には〝一つの伏線〟と「一つのシナリオを描いた人物」の存在があるように思われます。一つ目の伏線とは、知事不信任案が全県議会議員の賛成によって成立したことです。百条委員会の場で、まさに被告を査問するかのような辛辣なやりとりが見せつけられました。厳しい追及に対して、殆ど感情を露わに見せず淡々と答える知事の姿が極めて印象に残りました。前知事の頑ななまでの一途な姿勢をどう見るか。自分を文書で批判した県幹部の自死については、最小必要限のお詫びに留め、ひたすら県政の改革に努めたいとの意思を貫き通しました。当初は異常に思えた風景が選挙戦が進む中で、〝作られた知事批判〟へと変化していったのです。もう一つのシナリオを描いた人物とは、「NHK党」の立花隆志氏のことです。彼はユーチューブを駆使して、〝はめられた齋藤元彦〟を描き出す役割に徹しました。選挙戦に出馬して、自分が当選したいということではなく、前知事を応援するために、今回の選挙に至る背景を露わにしていったのです。キワモノと見られがちな人物の、もう一つの事実を描く手法に、県民の多くは驚き、翻弄されながらも、高揚感を持っていったといえそうです◆私が観たユーチューブでの極め付けは、『齋藤を貶めた主犯格』でした。一部県議たちの動きを実名で批難するもので、ことの真偽はともあれ、中々迫力あるものでした。こういう映像からは、新聞、テレビの既存メディアが報じるものと全く違ったストーリーが浮かび上がってきます。作った側の意図、検証の有無など考察を必要とするテーマが幾つもありますが、〝一見は百聞に如かず〟の威力は抜群なのです。しかもそれを解説する人物が複数出て、選挙戦最中に語るとなると効果は的面でしょう。加えて、前知事と対立した候補の背景をなす勢力がその「物語」に関わっているとなると、ことはおだやかではありません◆この事態の背景には、既成メディアと政治家への不信が相乗作用と効果を発揮しているように思われます。速報性で劣るだけではなく、「一点集中」というよりも〝多数混濁〟に傾きがちで、しかも〝各種しがらみ〟への忖度に縛られがちな既成メディアは、SMSに太刀打ちできないと言えそうです。また、今回の事案での県議会各政党の動きは、日頃の主義主張とはまるで裏腹に、多様性を微塵も感じさせないほどの〝一致団結ぶり〟は見事なまでの〝非民主主義的〟なものと言わざるを得ませんでした。寄ってたかって前知事を叩く風景は、あたかも学校現場でのいじめを見るようで、聴衆の「判官贔屓性」を呼び覚ますに充分だったのです。「真面目に県政改革を叫ぶ齋藤さんが可哀相」と。ここには選挙時とは違って、日常的には有権者を顧みようとしない〝特権階級の議員体質〟とでもいうべきものへの反発も含まれているように思われます。勿論ここで述べてきたような〝現実とは違う事実〟も幾らでも指摘できます。選挙戦終盤のこだまする「齋藤コール」の響きは、対立候補の無念の呻きと共に、これからかなり尾を引きそうです。(2024-11-18)

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【190】架空鼎談「僕らの夢の行方」━━「原点回帰」の意味するもの/11-11

「自公惨敗」に衆院総選挙が終わって2週間。今日からは、特別国会が始まる。安倍晋三政権が復活して以来10年余り続いた政権の安定が脆くも崩れた。「政権交代」が寸止めに留まったものの、極めて不安定な国会状況になった。常々「与野党伯仲」が望ましいと広言してきた私ゆえ、文句を言う資格はない。この事態をどう見るか。3月のこの場での爺さんと息子と孫娘の架空鼎談を再現して、考える糸口を見つけたい。

●「与野党伯仲」での緊張の効果

孫)今度の選挙の結果、お爺さんがいつも言ってた「伯仲状況」が実現したけど、国会は何もかも大騒ぎ。緊張感が漲ってはぃるけど、こんなことでいいの?

爺)公明党が小選挙区で全員勝って、比例区も改選前ぐらいに留まっていて、自公両党でギリギり過半数だったらいいと思ってたんだけど、やっぱり、そうはいかなかったね。改めて「民意」って凄いなって思うよ。

父)どう考えても、「旧統一教会」や「政治とカネ」の問題で、自民がデタラメなことをやってきてたってことが明白になったのに、その対応ぶりがいまいち釈然としなかったからね。〝天罰てきめん〟って、とこだよ。

爺)公明の立ち位置も難しかったなあ。こちらを立てればあちらが収まらず。野党の意見を自民に飲ませるかなという場面もあったけど、結局は尻つぼみ。公明って、「自民のお助けマン」との印象だけ残ってしまった。

孫)しょうがないよ、一緒に政権組んでるんだから。私が物心ついた頃からずっと与党だよ。「あちらと思えばまたこちら」っていう風に与野党間を調整に飛び回るなんて、現実的には無理よ。「自公同罪」なんだし。

★「古い体制壊し」のせめぎ合い

父)さてこれからどうするかだけど、代表が新しくなったばかりで落選してしまった。それだけでなく、小選挙区で落ちた人たちはいずれも党のこれからを担うエース級。前途は厳しいよ。どうするつもりかなぁ。

爺)そういうことも勿論あるけど、もっと根本的なことは、公明党の夢って何かであり、みんなそれを見失ってることに深刻な問題があるって思うよ。わしらの若い頃は、「55年体制打破」つまり、「自民党一党支配」を崩すことに情熱を燃やしたもんだよ。公明党の草創期は夢や物語と共にあったというのが正直なところだね。

孫)ああ、それって、忠臣蔵の赤穂浪士を公明に見立て、自民のトップを吉良上野介に据えてみたり。また、中国の三国志を日本の戦後政治に当てはめて、魏蜀呉を自公社に見立てて、勝手に夢膨らませたって話ね。

父)何度もオヤジから聞かせられたよなあ。でも、仇討ちって発想は古いし、公明が与党化した時点でジ・エンドとなった物語じゃあないの。でも、それに代わりうるなんかが欲しいよね。

爺)遂に気がついてくれたか(笑)。立憲民主の連中は、自公政権がほぼ確立した「99年体制」を打破することに執念燃やしてるって聞いたぞ。彼らも物語に生きてるはず。人間って夢に情念を掻き立てられるもんだよ。

●「失われた30年」との戦い

孫)公明は「原点回帰」って言ってるけど、それじゃあダメなの?創立者の掲げた大衆に政治を取り戻すってことに帰着するものなんでしょ?野党とか、与党とかじゃあなくて。ただ、それにプラス何か今の私たちにグッとくるお話が有ればいいわねぇ。

父)党が創立されて今年で60年だけど、前半の30年と後半の30年はまるで党が違ったように見える。前半は敵だった自民が後半は守るべき存在になってるし。後半の戦いの厳しさと複雑さに公明が手を焼いてるっていう風に見えるかもしれないね。

爺)公明が連立に加わって、自民政治を政権の内側から改革するというように方針を変え、再出発してから25年ほどが経った。実はその少し前の1995年辺りから、「失われた10年」という形容のされ方で、デフレ不況が問題視され、それが20年、30年と10年づつ積み増されてきた。この問題の絡み方がコトをややこしくしている。

父)それって、単に経済の問題だけでなく、社会全体の構造の変容に深く関わっているんだよね。そういう時代社会の没落傾向に向かって公明が立ち上がったんだけど、いつの間にか押し流されているって感じかなあ。

娘)今回の選挙でも、「れいわ新選組」なんかが「失われた30年」を取り戻せってしきりに叫んでいたけど、若者中心に共感を呼ぶところがあるわね。公明が「原点回帰」という場合、そういう時代の変化にマッチした取上げ方を加えていくと、より一層現実味を増すように思えるわ。

爺)うん、いいこと言うなあ(笑)。公明の60年の歴史のうち、前半30年はおおよそ高度経済成長期だった。一方、後半30年はほぼ低度経済混迷期だったといえるよね。その日本社会全体の苦闘の時期は、自民だけでは抗し得ない状況下でもあったんだけど、公明が必死に頑張ってきた。そこんとこの捉え方だろうね。

父)「原点回帰」と聞くと、イデオロギーでなく、大衆という生身の人間を大事にする政治に戻ることだと思うけど、今はかつてのようにイデオロギーはのさばっていない。でも大衆は相変わらず大事にされていない。

孫)うん。だから戦いを続けなくちゃいけないっていうことなんだろうね。でもそれには大衆の多様化による日本社会の変質、国際社会における内向き思考、分断の激化などという、内外環境の変化を考えないとね。ともあれ、「原点回帰」と一言で済ませられない多くの問題があるってことよね。(2024-11-11)

 

 

 

 

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【189】発想の大転換こそ━━60年の節目は「三度目の77年」の出発(下)/11-3

●「組織依存」から議員(政治家)の独り立ちへ

 小選挙区が全敗した15年前のこと。近畿比例区の公明党候補者として名簿順位5番だった私は落選しました。ところが一人勝ちだった民主党の名簿登載者が3人分ほど足らず、うち一つが公明党(あとは自民党)に回ってきたのです。公明党の人間が民主党のミスのお陰で〝繰り上げ〟当選することになりました。必死に応援して頂いた支援者がもたらしてくれた「奇跡」として受けとめました。奇妙な選挙制度のせいですが、以来、選挙の当落は、候補者の運不運に関わり、支援者の果報は流した汗に比例するとの思いを持つに至っています。

 昭和40年大学入学と同時に公明党員になった私は、卒業と同時に党機関紙局に就職しました。ほぼ結党当時から公明党の盛衰を見てきたことになります。19の歳から79歳の今年まで数多の選挙に関わってきました。いつでもどこでも懸命に応援してくださる創価学会員、支援者の献身的な姿が思い浮かびます。選挙は候補者自身が己が一人の力で、当選に必要な票を稼ぐ決意をし、実際に築いた人脈を掘り起こすことに尽きます。過剰なまでの「組織依存」は、結果的に浮動票層を投票行為から遠ざける側面が強いのではないでしょうか。

 公明党の原点は「大衆と共に」の旗印ですが、同時に目指すべき目標は「世界平和、大衆福祉」でした。当時の政治はイデオロギー偏重で、大衆を忘れ金権腐敗にまみれていました。そうした支配的状況を打開するべく立ち上がった公明党大衆は「政界浄化」がゴールで、自前の「政権戦略観」は希薄でした。「政治のプロ」の歪みを糺し、本来の姿を取り戻せば、「政治の素人」は誇りを持って退場するとの筋書きだったのです。

●公明党の前に横たわる3つの選択肢

  結党からの前半30年はしゃにむに「自社55年体制打破」に走りました。それをほぼ成し遂げてからの後半30年はひたすら「自公連立政治の安定」に尽力してきました。連立道半ばの15年前の挫折は、自民党は余力を残して病で中途退場した安倍晋三氏の復活で見事に立ち直り、「自公大小分業政治」も持ち直しました。今、15年目の「自公再びの惨敗」は、連立政権に舵取りを切ってほぼ30年間の公明党が迎える〝初めての転機〟ともいえます。さて、これからの公明党にとっての政権選択とは何か。大まかに3つほどが考えられます。

 一つ目は、従来通りの「自公政権の存続」です。既に早々と両党首の間で政権合意の確認がなされたのは周知の通りです。これは総選挙後の国会での首相指名選挙結果を待たねばなりませんが、自民、立憲民主による多数派工作の推移が注目されています。公明党は今まで同様に自民党と意気を合わせ、政権安定に寄与する勢力との政策合意(既に国民民主党を加えた三党間で協調確認済み)を軸に進めようというものです。かつての「自公民路線」(自民、公明、民社)を想起させます。現状では最も普通の「安全運転」に見られます。

 二つ目は、自公連立から離脱して、〝孤高のひとり旅〟を選択する道です。今の時点でこれを持ち出すことは、一般的に理解不能で、荒唐無稽な選択に取られるかもしれませんが、自公政権への世論の不人気さを鑑みればあながちそうとも言い切れません。政界再編への引き金となり、天下大乱を招きかねず、それはまた、「60年目の転機」に相応しい道かもしれないのです。60年前の党のスタート時に戻る選択と言えます。

 三つ目は、野党第一党の立憲民主党と歩調を合わせる路線です。様々なシュミレーションの一つとして、同党からの呼びかけめいた動きが永田町にこだましているようですが、二つ目の選択と同様に理屈の上では十分に成り立ちます。自民党を糺す奥の手です。かつての反自民・社公民路線(社会、公明、民社)を思い出します。

 二、三は共に危険で無謀な運転に見えますが、各政党の動き如何という変数によって状況は変化してきます。ここでも大事なことは、公明党大衆だけでなく、多様な価値観を秘めた国民大衆の声なき声に耳を傾けていくことだと思われます。

 ●〝踊り場での知恵比べ〟に勝つこと

  拙著『77年の興亡』で、私は〝みたびの興亡のサイクル〟を前に、国民的大論争を起こそうとの問題提起をしました。政党の単なる数合わせではなく、政党・党派の量的差異を越え、世代間の感性の違いを超えた忌憚なき意見の交換が明日の日本を作るはずです。15年前の問答無用のごとき「政権交代」ではなく、「与野党伯仲」状況という〝踊り場での知恵比べ〟の機会を天が与えてくれました。これをそれぞれの党の建て直しにどう生かすのか。大事な局面です。

 何もかもが変わりました。世の中の風景は60年前とは違うし、30年前とも、15年前とも異なっています。見倣うべき前例はありません。ここから先は、既成の、ありきたりの古びた発想をかなぐり捨てて、自らが大胆な転換をするしかないのです。その主体・自身の変化からやがて客体・環境の変革が起こり得るに違いないのです。この党をどうするかの議論をまず国会議員の間から起こして欲しいと思います。(2024-11-3 この項おわり)

 

 

 

 

 

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【188】立ち返るべき原点を改めて問う━━「大衆」の意味の多様性を考えつつ(中)/11-1

●「15年前の敗北」の再来の意味
今回の選挙結果を前に思い起こされるのは15年前の衆院選です。民主党旋風にあって、公明党の11小選挙区候補は全滅。比例区は21人の当選でした。小選挙区は今回はまだしも4つ勝ちました。比例区は近畿ブロックで民主党候補者の数が足らずに1議席が公明党に回ってきた結果でした。今回も北関東ブロックで同じことが起こったため、20議席とはいえ、実力は19議席といえます。15年前とほぼ同じでしょう。

 「政権交代」という前回の敗北を受けて、公明党は総括を行いました。社会保障と安全保障の二つの分野に分け、前者は坂口力氏、後者は私、赤松正雄が担当して徹底的な議論をした結果をまとめたのです。そのうち、前者を要約すると、「家計が悪化する中で社会保障の自己負担増を強いられることになった生活者の声を政治に反映するという公明党に期待された力を十分に発揮することが出来なかったことは反省しなければならない」でした。

 「与野党伯仲」という結果を招いた今回の選挙は「政治とカネ」、そして「旧統一教会」の2つが争点でした。後者は選挙期間中殆ど表に出て来ませんでしたが、底流では問われていたのです。共に、自民党という政党の存立基盤を揺るがすものでした。これから、公明党内議論がなされることになるでしょうが、自民党のしでかしたことの煽りをくった側面はあるにせよ、「貰い事故だった」とだけで片付けることはあってはなりません。それでは、公明党自身の「反省」と繋がらないからです。

●変わらぬ大衆レベルの生活の苦しみ
公明党が原点に帰るという場合、それは党創立者池田大作先生が発足にあたって投げかけられた《大衆と共に》との「指標」です。イデオロギー論争の前に顧みられることが少なかった〝生身の人間大衆を忘れるな〟とのあつい思いが溢れていました。その後、ほぼ30年前のリクルート事件を契機に起こった「政治とカネ」の論争を経て、自民党の弱体化と共に、「連立政権の時代」が常態化しました。前回に見たように、その時代に公明党は自民党を内側から変革しようとしたのです。もちろん、その戦いの原点には常に《大衆と共に》がありました。

 連立の相手である自民党にパートナーの精神が理解されてきていたかどうか。真っ当な意味で理解されていたら、今回のような今再びの「政治とカネ」の問題は起こらなかったはずだし、ましてや「旧統一教会」問題のような「社会ルール違反」に汚染されていなかったはずです。

 この60年間で、公明党が目指した政治はどこまで進歩したのでしょうか。イデオロギー競争でニッチもさっちもいかないという事態は、「社会主義の崩壊」と共に遠のきましたが、庶民大衆の生活は相変わらず苦しい状態が続いています。貧富の差は60年前よりもむしろ拡大したとの見方もあり、大衆の悩む課題が変化したことにも気づく必要があります。学校教育現場のいじめ、引きこもりなどによる子どもたちが抱える苦痛、各世代に幅広く浸透する「こころの病い」が示す生きづらさの悩みなど、社会全体の澱みが指摘されています。大衆の持つ悩みの多様化です。「公明党の60年。されど我らが日々」とのフレーズが頭をよぎります。こうした時代の空気の変貌にどう挑むのでしょうか。

●連立時代における「大衆と共に」の原点

  公明党にとって連立の時代は当然、「自民党をどう変えるか」が課題であり続けます。それはまた、自民党にとっては公明党をどう変えるかの問題のはずです。そのせめぎ合いの第2ラウンドの15年間は、公明党にとって不十分な結果だったといわざるを得ません。「選挙協力第一」の連立政治が再考を必要としているのです。もっと、日常的にこの国の在り方を問い、自公間で目指すべき国家像などについて議論する場を持つべきでした。かつて、両党間で教育基本法の改正をめぐっての激しい論議や、安保法制をどうするかの大激論をしたように。

 今回の敗北にあたり、そういう次元にまで立ち入らないで、選挙総括が「他損事故」のおかげとか、選挙戦略的なことのみに終わってはならないと思います。自民党という政党がどこまで大衆を大事にする目線を持ち続けて行くのかを問う作業をせねばならないと思うのです。

 自民党が総裁選挙をやっている間、立憲民主党も代表選挙をやりました。公明党の代表選挙は石井啓一氏しか立候補者がいず、実質的には行われませんでした。私はせめて各党のトップ選びの間に、「連立の有り様」をめぐっての党内議論をするべきだと訴えました。自民党との連立政権合意を早々と用意するのではなく、なぜ今この自民党なのか。どうしてこの自民党と組むのかとの徹底した議論がなされるべきだと思ったからです。9日の臨時公明党大会までにそれをやるべきです。(2024-11-1  この項つづく)

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【187】陽はまた昇ると信じて━━「公明党の敗北」をどう見るか(上)/10-29

 2024年秋の第50回衆院総選挙で公明党は議席を公示前の32議席から24議席へと減らした。11小選挙区に挑戦し、勝てたのは4つ。比例区票は596万余。3年前の前回より大きく減らして、過去最低となった。この結果をどう見るか。結党60周年の節目を目前にして、私なりの捉え方を明らかにしてみたい。

●「公明党の自民党化」の必然的帰結

 まわりくどいことは後回しにして、結論を先に言います。今回の惨敗の結果は「公明党の自民党化」の必然的帰結です。「政治とカネ」をめぐる自民党の惨憺たる実態を前に、寄り添ってきた公明党が国民の猛反発を受けざるを得なかったのです。最も象徴的な出来事は、自民党で非公認になった、いわゆる「裏金」候補者を、公明党として推薦したことでした。党員、支持者にとってもこの衝撃は大きく、石井啓一代表が3条件を示したところで虚しく響くだけでした。九仞の功を一簣(いっき)に虧く(かく)とは、まさにこのことでした。「政治とカネ」をめぐる自民党の構造的欠陥を正すべく、折角闘ってきていながら自ら壊してしまうなんて。「情け深さ」にも程があるというものです。

 公明党はこの11月に結党60年を迎えます。その節目を直前にして、この事態。「捲土重来を期す」との言葉が聞こえてきますが、ことはそう簡単ではないと思われます。公明党の60年の歴史はほぼ30年で真半分に分けられますが、その「2つの30年」は一見まるで違う政党のようです。前半は野党で「打倒自民」に傾注、後半は与党で「自民支援」に奔走してきました。その60年間に一貫して流れているのは、「政治を大衆に取り戻すために闘う」ことでした。その前提には「大衆」と遊離した自民党という存在があるとの認識です。そのため前半は自民党を「外から破壊」しようとしました。だが叶わず、後半は一転、「内から改革」するべく方針転換をしたのです。勿論、その背景には苦境に陥った自民党からの「助けてくれ」との要請がありました。

 注意すべきは、後半30年が真半分の15年ずつに分けて捉えられることです。前半15年は小淵氏から麻生氏への6人の自民党政権の時代。「自公政権」の定着が目指されました。一方、後半の15年は民主党政権の3年から第二期安倍政権を経て今日に至る流れです。第一期政権での失敗に鑑みた安倍第二期政権が強権的な姿勢で「安定」を志向。ちょうど15年の間、伴走することになった山口公明党も、民主党政治の混乱と不安定から脱却するために、「安定あってこその改革」の旗印を掲げざるを得なかったのです。

 ●「自民党の公明党化」は道半ば

  山口氏が率いたこの15年の公明党は、懸命に国民大衆の「小さな声を聞き」、それを与党の政策選択に反映し、かたちにしてきました。民主党所属から自民党に転身したある議員が今回の選挙戦で「公明党推しの理由」というユーチューブを発信しました。そこでは、①児童虐待対応②低出生体重児問題③片目失明の人への保険適用など身近な問題に取り組む中で、公明党議員が力強く支援してくれたというものでした。「外交・防衛」といった〝大きい政治〟の場面では自民党の独壇場と見えるものの、庶民の生活に密着した、こまやかな政策提言から実行に至る過程は公明党の活躍を抜きには語られないとの指摘でした。民主党の栄枯盛衰を内から見てきた末に、自民党に移り「自公政治」の内実を知った率直な語り口に、真摯な政治家の一面を見たしだいです。

 本来、公明党は「自民党の公明党化」を目論んで政権を組んだはずです。有権者大衆の小さな声を聞かずに、大言壮語を吐きがちな多くの与野党政治家に対して、大衆と共に歩む公明党に見倣えと。この自公による「大小分業政治」が道半ばにして壊れてしまうのはとても残念なことです。毎回の衆院総選挙で、200議席を大きく超えてきた自民党と、過去に50議席を超えたのが一度だけで、支持率も一桁台半ばを中々越えられない公明党が政権を組んで30年足らず、いよいよこれからという矢先の挫折です。

 さてこれからどうするか。私は2年前に拙著『77年の興亡━━価値観の対立を追って』で、三たびの転換期にさしかかった日本の歴史を振り返って、次なるサイクルの方向性を展望する試みに挑みました。それは結論すると、弛緩し切った政治から緊張感漲る政治への変革を目指して、「国民的大論争を始めよう」というものでした。また、今回の選挙戦直前には、「与野党伯仲」政治で、相互に知恵を競い合う状況をもたらすことの大事さを訴えました。政権交代の是非を問うのはその後のことだ、と。長短期の政治の予測がほぼ見立て通りになって、嬉しいような寂しいような複雑な心境です。

 引き続き、自民党政治の内からの改革を続行するのか、どうか。結党60年。後半30年の終わりを迎えて、今こそ党内大論争を起こすべきことを提案したいと切に望みます。それあってこそ、沈んだ陽はまた昇るのです。(2024-10-29  つづく)

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