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【193】大光会前後に、大使経験者、厚労省幹部、姫路出身の経済人らと懇談/11-28

 翌日24日は、東京に2日ぶりに舞い戻った。鴻巣駅から乗車したのだが、この場所が「こうのとり有縁の地」であることに、兵庫県人として大いに感じ入った。ただし、宿泊先のホテルのフロントの2人の女性も、お世話になった我が友人夫妻も、「豊岡のこうのとり」については全く知らず、ちょっぴり残念だった。午後は、前ポーランド大使の宮島昭夫さんと会った。現役時からお付き合い頂いた懐かしい人だ。なお、少し前にポーランドを訪れていた参議院公明党の谷合正明会長にも同席してもらった。宮島さんからは、ウクライナからの避難民受け入れに奮闘した彼の国の実態をつぶさに聞くことが出来た。明年春に開戦3年目を迎えるウクライナ戦争について、同氏から避難民受け入れ、定住支援について、継続して支援をしてほしい旨の要望があり、谷合氏からは必ず対応するとの回答がなされた。私はその際にウクライナ問題に詳しい岡部芳彦神戸学院大教授との連携を強調し、直ちに電話をして関係を強化できた。宮島さんは、7年ぶりに帰国した感想として「活気漲るポーランドに比べて、日本はあまり元気がない」と話されたのが印象的だった。私は「77年の興亡」に起因する持論に触れて、日本の立ち位置を説明した◆夕刻には、人形町のホテルで、元英国大使の林景一さんと、サミュエル・ベケット研究の第一人者である岡室美奈子早稲田大教授の3人でひさしぶりに会った。この3人は私がアイルランド訪問をした2005年以来のご縁で、時に応じて集まり懇談する仲間だ。この日は先年亡くなられた林夫人を悼む目的もあり、遺影を囲んでの集いにもなった。話題は、林さんが退官後に最高裁判事を経験されたため、その期間の思い出を聞くことから始まった。最も彼が関心を寄せたのは「袴田事件」だと言われたことから、種々議論が展開された。テレビドラマ研究でも著名な岡室さんは、女性初の弁護士、裁判官としても活躍した三淵嘉子さんをモデルにしたNHKの朝ドラ『虎に翼』について、とてもよくできた見応えのある中身だったと述べられた。また、脚本を書いたのが教え子ということから、部分的にはこなれていないくだりを指摘されたことなど、面白いドラマ論議になった。また、女性の社会進出について未だ未だ日本が遅れていることについての問題指摘が興味深かった。私からは、姫路での小説家の諸井学氏の出版祝いの模様について触れた上で、岡室さんにぜひベケットにまつわる単著を書いて欲しいと頼んだ。何とか書きたいと考えているところだとの返答があったことは、嬉しい限りだ◆25日は、お昼に創価学会SGI副理事長の寺崎広嗣さんと会った。彼は中野区在住でかねて私とは昵懇の間柄。「核廃絶の問題」で世界を駆け巡っての活躍ぶりはまさに目を見張るばかり。この日も話題は世界の核問題から国内政治の現況まで、大きく深く広がった。私からは、先の衆院選の最中に日本記者クラブでの各党党首の合同会見で、来年3月の核兵器禁止条約会合に、日本のオブザーバー参加について、今一歩積極的発言をしなかった公明党代表についてこだわった。あの場面は、石破首相の方に身を向けて「総理ぜひ参加しましょうよ」と述べる一大チャンスを逃したのは惜しい、と。その後、中野桃園町から西新宿へと、昔からの中野区の仲間2組と、明年の都議選に向けての対応などを種々話し合った。夜は、溜池山王の料理屋で私が厚労副大臣時代の宮崎淳文秘書官が総括審議官に就任したことに

姫路出身の経済人たちと(11-26)

伴うお祝いの会を、かつての仲間たちと一緒に持った。それぞれ成長を如実に物語る話に聞き入りながら、歳月の持つ意味を強く感じた◆翌26日は、今回の上京の目的である公明党大光会の全国県代表世話人会が正午から開かれ、出席した。冒頭、斎藤鉄夫新代表から、これからの党再建に向けての決意が述べられた。彼とは「核」や「原発」問題で激論を交わした仲だけに、党内議論を積極的に起こし、この党を大きく変える役割に貢献してもらいたいと切に望みたい。夕方5時からは、西麻布の霞会館で、在京姫路出身者有志による「姫人会」に出席した。この会は有難いことに私の上京時に合わせて7-8人が集まってくださる。この日は私が衆院選の時に知り合った電力総連政治部の俊英と、私のいとこの長男である農水省の役人という40歳台の若い2人と、総合商社丸紅出身の70歳台の熟練の先輩が初参加してくれた。話題は、未熟児出産問題の権威である福岡秀興医学博士の現状報告に始まり、私の兵庫県知事選挙の経緯説明に至るまで、広範囲に広がった。このように、4泊5日の闘いを終えて新幹線のぞみに乗って、西明石に着いたのは深夜11時40分。79歳の誕生日はこうして暮れた。(2024-11-28)

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【192】晩秋の南紀から宇都宮、行田へ、友との熱き語らい/11-25

壮絶な戦いだった衆院選と兵庫県議選を終えて、久方ぶりに束の間のお休みを得ることが出来た。11月1ヶ月のうちに、あれこれと動き、多くのひとと旧交を温める一方、初めての地での新たな出会いをも経験出来た。ここで時系列を追って、かいつまんで報告したい。

 まず、11月9日から一泊2日で南紀・白浜温泉に行ってきた。毎年恒例の関西連合三田会による各県持ち回りの企画である。関西各県から200人近い人が集ったが、姫路慶應倶楽部からも仲間10人ほどが参加した。伊藤公平塾長はドイツでの大学学長会議のため欠席されたが、現役生たちの学問、スポーツ両面での活躍をビデオで印象深く伝えてくれた。またいつもながら、大学への寄付の重要性が例年にも増して強調された。何とか応えねばと思ったしだい。夜は、アドベンチャーワールドのサファリテーマパークへと移動して、サイに餌を与えたり、ライオンや虎などの肉食動物の実態をつぶさに見た。夜間の動物の生態を見るのは珍しく、忘れていた自然の凄みを感じた◆11月16日は、姫路での「諸井学氏の出版を祝う会」に参加してきた。このひとは電器商を営む一方、小説を書く。しかも、日本古典文学(特に和歌文学)と、ヨーロッパ現代文学(特にポストモダン文学)に精通する。いわば〝二足の草鞋を履く二刀流の使い手〟と言ってよい。このたび上梓された『マルクスの場合』は、古代ローマ帝国時代の第16代賢帝マルクス・アウレリウス・アントニウスの名前を拝借したという「犬」にまつわる奇想天外な物語を描いたもの。姫路の著名なドクター石川誠先生の呼びかけで開催が実現した。私もかねてからの友人として世話人に名を連ね、遠くは東京、横浜、広島、徳島など親しい仲間10人に声をかけた。中でも中野時代以来の後輩・林光政君は京都・祇園の舞芸妓とお茶屋の女将を連れて参加してくれ、会場を一段と華やいだものにしてくれた。また、大学以来60年の盟友・尾上晴久君は歌舞伎の名場面を再演する十八番を披露して会場を沸かせてくれた。他にも、『首都感染』で知られる作家・高嶋哲夫さんや神戸学院大の相島淑美教授らも錦上花を添えてくれたことは忘れ難い◆11月22日は、東京三田で、昭和44年卒業の同級生13人が懐かしい慶應仲通りの中華店に集まった。卒業後55年が経ったが、この30年あまり毎年集まってきたメンバーが今年も元気に姿を見せた。私は「欠席」と事前通知していたが、選挙が前倒しとなって無事に参加出来た。「近況報告」では皆身体の不具合を訴えるケースが目立ったが、得意のギター演奏を披露してくれる者がいたり、明治維新での幕臣の隠れた立役者のひとり「小栗忠順との出会い」を語った、歴史好きの仲間もいて、大いに盛り上がった。私は求められるままに昨今の政治情勢を語った。終わって、三田祭の賑わい

慶應義塾大学図書館前で級友たちと(11-22)

さんざめく中を、慶應義塾図書館旧館2階に足を運び、「福沢諭吉と近代日本の歩み」を常設展示する「慶應義塾史展示館」を観に行った。帰りに旧知の福澤諭吉研究センターの都倉武之准教授と久しぶりに会うことが出来た。この人からは姫路で幾たびか福澤先生の人物像を語って貰ったことがある。その日は夕刻に、大隅一興君と、尾上君と3人で宇都宮に移動して、夕食を共にしながら、〝我らが60年の人生〟を語り合った。彼らは拙著『77年の興亡』を読み込んでくれており、行き詰まりを見せる目下の内外の情勢を巡って、むしろ今こそ中道主義の公明党が立ち上がるチャンスだと励ましの言を述べてくれた。「与野党伯仲の再現」は、〝合意創出の公明党の出番〟だというわけである。昭和40年慶應入学以来の公明党員としての私の動きを知ってくれている〝同期の桜〟たちの激励はたまらなく嬉しかった◆翌23日は、宇都宮市内を走るLRTに30分乗ったあと、車で「大谷資料館」に向かった。ここは地下奥底深くに掘り広げられた神秘的空間ともいえる。このような大谷石の歴史を初めて知って、まさにたまげる思いを抱いた。午後は宇都宮名物の餃子入り出し汁のうどんを食べたあと、埼玉県行田市へ。その地に住む中野時代から親しい関係が続く後輩・大塚俊彦君夫婦と再会した。彼らに、埼玉古墳群の二子山古墳やさきたま神社、水城公園周辺を案内して貰ったのち、先の衆院選・埼玉14区での選挙戦の総括と次なる戦いの展望を語り合った。その結論は、一言でいえば、「自前能動」。キャッチコピー風に言えば、「楽しく面白くなければ選挙活動じゃない」というところか。50年来の同志の心温まる歓迎を胸いっぱいに受け止めながらの語り合いは、何よりもの栄養源となった。(2024-11-25)

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【191】問われる県議会、既存メディアへの信頼━━兵庫県知事選の結果/11-18

 「いったい全体どうなっているの?兵庫県は」━━当初、毎日の新聞やテレビを観てきた人は、概ね齋藤元彦前知事が再選されるとは、思っていなかったはず。それがあれよあれよと言う間に、ぐんぐん形勢は変化していきました。ネット、ユーチューブなどSNSで、興味津々な舞台裏を日々観てきた人びとにとっては、まるで出遅れたランナーが見事に逆転する姿を見るようだったのです。実は私には、今回の知事選に至る状況の一部始終を追い、街頭演説の現場にも足繁く通った、〝妙に暇で粋な友人〟がいます。彼による連日の報告をあたかも実況中継のように聞いてきました。齋藤候補の街頭の演説には、話を聞き終えて握手やサインを求める人たちが列をなしており、涙ぐむだけでなく泣きだすひとたちもいたことを日々聞かされてきたのです。この人たちは恐らくSNSで知った「裏話し」を確認するために、現物を見に足を運んだものと思われました◆この逆転劇の背景には〝一つの伏線〟と「一つのシナリオを描いた人物」の存在があるように思われます。一つ目の伏線とは、知事不信任案が全県議会議員の賛成によって成立したことです。百条委員会の場で、まさに被告を査問するかのような辛辣なやりとりが見せつけられました。厳しい追及に対して、殆ど感情を露わに見せず淡々と答える知事の姿が極めて印象に残りました。前知事の頑ななまでの一途な姿勢をどう見るか。自分を文書で批判した県幹部の自死については、最小必要限のお詫びに留め、ひたすら県政の改革に努めたいとの意思を貫き通しました。当初は異常に思えた風景が選挙戦が進む中で、〝作られた知事批判〟へと変化していったのです。もう一つのシナリオを描いた人物とは、「NHK党」の立花隆志氏のことです。彼はユーチューブを駆使して、〝はめられた齋藤元彦〟を描き出す役割に徹しました。選挙戦に出馬して、自分が当選したいということではなく、前知事を応援するために、今回の選挙に至る背景を露わにしていったのです。キワモノと見られがちな人物の、もう一つの事実を描く手法に、県民の多くは驚き、翻弄されながらも、高揚感を持っていったといえそうです◆私が観たユーチューブでの極め付けは、『齋藤を貶めた主犯格』でした。一部県議たちの動きを実名で批難するもので、ことの真偽はともあれ、中々迫力あるものでした。こういう映像からは、新聞、テレビの既存メディアが報じるものと全く違ったストーリーが浮かび上がってきます。作った側の意図、検証の有無など考察を必要とするテーマが幾つもありますが、〝一見は百聞に如かず〟の威力は抜群なのです。しかもそれを解説する人物が複数出て、選挙戦最中に語るとなると効果は的面でしょう。加えて、前知事と対立した候補の背景をなす勢力がその「物語」に関わっているとなると、ことはおだやかではありません◆この事態の背景には、既成メディアと政治家への不信が相乗作用と効果を発揮しているように思われます。速報性で劣るだけではなく、「一点集中」というよりも〝多数混濁〟に傾きがちで、しかも〝各種しがらみ〟への忖度に縛られがちな既成メディアは、SMSに太刀打ちできないと言えそうです。また、今回の事案での県議会各政党の動きは、日頃の主義主張とはまるで裏腹に、多様性を微塵も感じさせないほどの〝一致団結ぶり〟は見事なまでの〝非民主主義的〟なものと言わざるを得ませんでした。寄ってたかって前知事を叩く風景は、あたかも学校現場でのいじめを見るようで、聴衆の「判官贔屓性」を呼び覚ますに充分だったのです。「真面目に県政改革を叫ぶ齋藤さんが可哀相」と。ここには選挙時とは違って、日常的には有権者を顧みようとしない〝特権階級の議員体質〟とでもいうべきものへの反発も含まれているように思われます。勿論ここで述べてきたような〝現実とは違う事実〟も幾らでも指摘できます。選挙戦終盤のこだまする「齋藤コール」の響きは、対立候補の無念の呻きと共に、これからかなり尾を引きそうです。(2024-11-18)

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【190】架空鼎談「僕らの夢の行方」━━「原点回帰」の意味するもの/11-11

「自公惨敗」に衆院総選挙が終わって2週間。今日からは、特別国会が始まる。安倍晋三政権が復活して以来10年余り続いた政権の安定が脆くも崩れた。「政権交代」が寸止めに留まったものの、極めて不安定な国会状況になった。常々「与野党伯仲」が望ましいと広言してきた私ゆえ、文句を言う資格はない。この事態をどう見るか。3月のこの場での爺さんと息子と孫娘の架空鼎談を再現して、考える糸口を見つけたい。

●「与野党伯仲」での緊張の効果

孫)今度の選挙の結果、お爺さんがいつも言ってた「伯仲状況」が実現したけど、国会は何もかも大騒ぎ。緊張感が漲ってはぃるけど、こんなことでいいの?

爺)公明党が小選挙区で全員勝って、比例区も改選前ぐらいに留まっていて、自公両党でギリギり過半数だったらいいと思ってたんだけど、やっぱり、そうはいかなかったね。改めて「民意」って凄いなって思うよ。

父)どう考えても、「旧統一教会」や「政治とカネ」の問題で、自民がデタラメなことをやってきてたってことが明白になったのに、その対応ぶりがいまいち釈然としなかったからね。〝天罰てきめん〟って、とこだよ。

爺)公明の立ち位置も難しかったなあ。こちらを立てればあちらが収まらず。野党の意見を自民に飲ませるかなという場面もあったけど、結局は尻つぼみ。公明って、「自民のお助けマン」との印象だけ残ってしまった。

孫)しょうがないよ、一緒に政権組んでるんだから。私が物心ついた頃からずっと与党だよ。「あちらと思えばまたこちら」っていう風に与野党間を調整に飛び回るなんて、現実的には無理よ。「自公同罪」なんだし。

★「古い体制壊し」のせめぎ合い

父)さてこれからどうするかだけど、代表が新しくなったばかりで落選してしまった。それだけでなく、小選挙区で落ちた人たちはいずれも党のこれからを担うエース級。前途は厳しいよ。どうするつもりかなぁ。

爺)そういうことも勿論あるけど、もっと根本的なことは、公明党の夢って何かであり、みんなそれを見失ってることに深刻な問題があるって思うよ。わしらの若い頃は、「55年体制打破」つまり、「自民党一党支配」を崩すことに情熱を燃やしたもんだよ。公明党の草創期は夢や物語と共にあったというのが正直なところだね。

孫)ああ、それって、忠臣蔵の赤穂浪士を公明に見立て、自民のトップを吉良上野介に据えてみたり。また、中国の三国志を日本の戦後政治に当てはめて、魏蜀呉を自公社に見立てて、勝手に夢膨らませたって話ね。

父)何度もオヤジから聞かせられたよなあ。でも、仇討ちって発想は古いし、公明が与党化した時点でジ・エンドとなった物語じゃあないの。でも、それに代わりうるなんかが欲しいよね。

爺)遂に気がついてくれたか(笑)。立憲民主の連中は、自公政権がほぼ確立した「99年体制」を打破することに執念燃やしてるって聞いたぞ。彼らも物語に生きてるはず。人間って夢に情念を掻き立てられるもんだよ。

●「失われた30年」との戦い

孫)公明は「原点回帰」って言ってるけど、それじゃあダメなの?創立者の掲げた大衆に政治を取り戻すってことに帰着するものなんでしょ?野党とか、与党とかじゃあなくて。ただ、それにプラス何か今の私たちにグッとくるお話が有ればいいわねぇ。

父)党が創立されて今年で60年だけど、前半の30年と後半の30年はまるで党が違ったように見える。前半は敵だった自民が後半は守るべき存在になってるし。後半の戦いの厳しさと複雑さに公明が手を焼いてるっていう風に見えるかもしれないね。

爺)公明が連立に加わって、自民政治を政権の内側から改革するというように方針を変え、再出発してから25年ほどが経った。実はその少し前の1995年辺りから、「失われた10年」という形容のされ方で、デフレ不況が問題視され、それが20年、30年と10年づつ積み増されてきた。この問題の絡み方がコトをややこしくしている。

父)それって、単に経済の問題だけでなく、社会全体の構造の変容に深く関わっているんだよね。そういう時代社会の没落傾向に向かって公明が立ち上がったんだけど、いつの間にか押し流されているって感じかなあ。

娘)今回の選挙でも、「れいわ新選組」なんかが「失われた30年」を取り戻せってしきりに叫んでいたけど、若者中心に共感を呼ぶところがあるわね。公明が「原点回帰」という場合、そういう時代の変化にマッチした取上げ方を加えていくと、より一層現実味を増すように思えるわ。

爺)うん、いいこと言うなあ(笑)。公明の60年の歴史のうち、前半30年はおおよそ高度経済成長期だった。一方、後半30年はほぼ低度経済混迷期だったといえるよね。その日本社会全体の苦闘の時期は、自民だけでは抗し得ない状況下でもあったんだけど、公明が必死に頑張ってきた。そこんとこの捉え方だろうね。

父)「原点回帰」と聞くと、イデオロギーでなく、大衆という生身の人間を大事にする政治に戻ることだと思うけど、今はかつてのようにイデオロギーはのさばっていない。でも大衆は相変わらず大事にされていない。

孫)うん。だから戦いを続けなくちゃいけないっていうことなんだろうね。でもそれには大衆の多様化による日本社会の変質、国際社会における内向き思考、分断の激化などという、内外環境の変化を考えないとね。ともあれ、「原点回帰」と一言で済ませられない多くの問題があるってことよね。(2024-11-11)

 

 

 

 

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【189】発想の大転換こそ━━60年の節目は「三度目の77年」の出発(下)/11-3

●「組織依存」から議員(政治家)の独り立ちへ

 小選挙区が全敗した15年前のこと。近畿比例区の公明党候補者として名簿順位5番だった私は落選しました。ところが一人勝ちだった民主党の名簿登載者が3人分ほど足らず、うち一つが公明党(あとは自民党)に回ってきたのです。公明党の人間が民主党のミスのお陰で〝繰り上げ〟当選することになりました。必死に応援して頂いた支援者がもたらしてくれた「奇跡」として受けとめました。奇妙な選挙制度のせいですが、以来、選挙の当落は、候補者の運不運に関わり、支援者の果報は流した汗に比例するとの思いを持つに至っています。

 昭和40年大学入学と同時に公明党員になった私は、卒業と同時に党機関紙局に就職しました。ほぼ結党当時から公明党の盛衰を見てきたことになります。19の歳から79歳の今年まで数多の選挙に関わってきました。いつでもどこでも懸命に応援してくださる創価学会員、支援者の献身的な姿が思い浮かびます。選挙は候補者自身が己が一人の力で、当選に必要な票を稼ぐ決意をし、実際に築いた人脈を掘り起こすことに尽きます。過剰なまでの「組織依存」は、結果的に浮動票層を投票行為から遠ざける側面が強いのではないでしょうか。

 公明党の原点は「大衆と共に」の旗印ですが、同時に目指すべき目標は「世界平和、大衆福祉」でした。当時の政治はイデオロギー偏重で、大衆を忘れ金権腐敗にまみれていました。そうした支配的状況を打開するべく立ち上がった公明党大衆は「政界浄化」がゴールで、自前の「政権戦略観」は希薄でした。「政治のプロ」の歪みを糺し、本来の姿を取り戻せば、「政治の素人」は誇りを持って退場するとの筋書きだったのです。

●公明党の前に横たわる3つの選択肢

  結党からの前半30年はしゃにむに「自社55年体制打破」に走りました。それをほぼ成し遂げてからの後半30年はひたすら「自公連立政治の安定」に尽力してきました。連立道半ばの15年前の挫折は、自民党は余力を残して病で中途退場した安倍晋三氏の復活で見事に立ち直り、「自公大小分業政治」も持ち直しました。今、15年目の「自公再びの惨敗」は、連立政権に舵取りを切ってほぼ30年間の公明党が迎える〝初めての転機〟ともいえます。さて、これからの公明党にとっての政権選択とは何か。大まかに3つほどが考えられます。

 一つ目は、従来通りの「自公政権の存続」です。既に早々と両党首の間で政権合意の確認がなされたのは周知の通りです。これは総選挙後の国会での首相指名選挙結果を待たねばなりませんが、自民、立憲民主による多数派工作の推移が注目されています。公明党は今まで同様に自民党と意気を合わせ、政権安定に寄与する勢力との政策合意(既に国民民主党を加えた三党間で協調確認済み)を軸に進めようというものです。かつての「自公民路線」(自民、公明、民社)を想起させます。現状では最も普通の「安全運転」に見られます。

 二つ目は、自公連立から離脱して、〝孤高のひとり旅〟を選択する道です。今の時点でこれを持ち出すことは、一般的に理解不能で、荒唐無稽な選択に取られるかもしれませんが、自公政権への世論の不人気さを鑑みればあながちそうとも言い切れません。政界再編への引き金となり、天下大乱を招きかねず、それはまた、「60年目の転機」に相応しい道かもしれないのです。60年前の党のスタート時に戻る選択と言えます。

 三つ目は、野党第一党の立憲民主党と歩調を合わせる路線です。様々なシュミレーションの一つとして、同党からの呼びかけめいた動きが永田町にこだましているようですが、二つ目の選択と同様に理屈の上では十分に成り立ちます。自民党を糺す奥の手です。かつての反自民・社公民路線(社会、公明、民社)を思い出します。

 二、三は共に危険で無謀な運転に見えますが、各政党の動き如何という変数によって状況は変化してきます。ここでも大事なことは、公明党大衆だけでなく、多様な価値観を秘めた国民大衆の声なき声に耳を傾けていくことだと思われます。

 ●〝踊り場での知恵比べ〟に勝つこと

  拙著『77年の興亡』で、私は〝みたびの興亡のサイクル〟を前に、国民的大論争を起こそうとの問題提起をしました。政党の単なる数合わせではなく、政党・党派の量的差異を越え、世代間の感性の違いを超えた忌憚なき意見の交換が明日の日本を作るはずです。15年前の問答無用のごとき「政権交代」ではなく、「与野党伯仲」状況という〝踊り場での知恵比べ〟の機会を天が与えてくれました。これをそれぞれの党の建て直しにどう生かすのか。大事な局面です。

 何もかもが変わりました。世の中の風景は60年前とは違うし、30年前とも、15年前とも異なっています。見倣うべき前例はありません。ここから先は、既成の、ありきたりの古びた発想をかなぐり捨てて、自らが大胆な転換をするしかないのです。その主体・自身の変化からやがて客体・環境の変革が起こり得るに違いないのです。この党をどうするかの議論をまず国会議員の間から起こして欲しいと思います。(2024-11-3 この項おわり)

 

 

 

 

 

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【188】立ち返るべき原点を改めて問う━━「大衆」の意味の多様性を考えつつ(中)/11-1

●「15年前の敗北」の再来の意味
今回の選挙結果を前に思い起こされるのは15年前の衆院選です。民主党旋風にあって、公明党の11小選挙区候補は全滅。比例区は21人の当選でした。小選挙区は今回はまだしも4つ勝ちました。比例区は近畿ブロックで民主党候補者の数が足らずに1議席が公明党に回ってきた結果でした。今回も北関東ブロックで同じことが起こったため、20議席とはいえ、実力は19議席といえます。15年前とほぼ同じでしょう。

 「政権交代」という前回の敗北を受けて、公明党は総括を行いました。社会保障と安全保障の二つの分野に分け、前者は坂口力氏、後者は私、赤松正雄が担当して徹底的な議論をした結果をまとめたのです。そのうち、前者を要約すると、「家計が悪化する中で社会保障の自己負担増を強いられることになった生活者の声を政治に反映するという公明党に期待された力を十分に発揮することが出来なかったことは反省しなければならない」でした。

 「与野党伯仲」という結果を招いた今回の選挙は「政治とカネ」、そして「旧統一教会」の2つが争点でした。後者は選挙期間中殆ど表に出て来ませんでしたが、底流では問われていたのです。共に、自民党という政党の存立基盤を揺るがすものでした。これから、公明党内議論がなされることになるでしょうが、自民党のしでかしたことの煽りをくった側面はあるにせよ、「貰い事故だった」とだけで片付けることはあってはなりません。それでは、公明党自身の「反省」と繋がらないからです。

●変わらぬ大衆レベルの生活の苦しみ
公明党が原点に帰るという場合、それは党創立者池田大作先生が発足にあたって投げかけられた《大衆と共に》との「指標」です。イデオロギー論争の前に顧みられることが少なかった〝生身の人間大衆を忘れるな〟とのあつい思いが溢れていました。その後、ほぼ30年前のリクルート事件を契機に起こった「政治とカネ」の論争を経て、自民党の弱体化と共に、「連立政権の時代」が常態化しました。前回に見たように、その時代に公明党は自民党を内側から変革しようとしたのです。もちろん、その戦いの原点には常に《大衆と共に》がありました。

 連立の相手である自民党にパートナーの精神が理解されてきていたかどうか。真っ当な意味で理解されていたら、今回のような今再びの「政治とカネ」の問題は起こらなかったはずだし、ましてや「旧統一教会」問題のような「社会ルール違反」に汚染されていなかったはずです。

 この60年間で、公明党が目指した政治はどこまで進歩したのでしょうか。イデオロギー競争でニッチもさっちもいかないという事態は、「社会主義の崩壊」と共に遠のきましたが、庶民大衆の生活は相変わらず苦しい状態が続いています。貧富の差は60年前よりもむしろ拡大したとの見方もあり、大衆の悩む課題が変化したことにも気づく必要があります。学校教育現場のいじめ、引きこもりなどによる子どもたちが抱える苦痛、各世代に幅広く浸透する「こころの病い」が示す生きづらさの悩みなど、社会全体の澱みが指摘されています。大衆の持つ悩みの多様化です。「公明党の60年。されど我らが日々」とのフレーズが頭をよぎります。こうした時代の空気の変貌にどう挑むのでしょうか。

●連立時代における「大衆と共に」の原点

  公明党にとって連立の時代は当然、「自民党をどう変えるか」が課題であり続けます。それはまた、自民党にとっては公明党をどう変えるかの問題のはずです。そのせめぎ合いの第2ラウンドの15年間は、公明党にとって不十分な結果だったといわざるを得ません。「選挙協力第一」の連立政治が再考を必要としているのです。もっと、日常的にこの国の在り方を問い、自公間で目指すべき国家像などについて議論する場を持つべきでした。かつて、両党間で教育基本法の改正をめぐっての激しい論議や、安保法制をどうするかの大激論をしたように。

 今回の敗北にあたり、そういう次元にまで立ち入らないで、選挙総括が「他損事故」のおかげとか、選挙戦略的なことのみに終わってはならないと思います。自民党という政党がどこまで大衆を大事にする目線を持ち続けて行くのかを問う作業をせねばならないと思うのです。

 自民党が総裁選挙をやっている間、立憲民主党も代表選挙をやりました。公明党の代表選挙は石井啓一氏しか立候補者がいず、実質的には行われませんでした。私はせめて各党のトップ選びの間に、「連立の有り様」をめぐっての党内議論をするべきだと訴えました。自民党との連立政権合意を早々と用意するのではなく、なぜ今この自民党なのか。どうしてこの自民党と組むのかとの徹底した議論がなされるべきだと思ったからです。9日の臨時公明党大会までにそれをやるべきです。(2024-11-1  この項つづく)

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【187】陽はまた昇ると信じて━━「公明党の敗北」をどう見るか(上)/10-29

 2024年秋の第50回衆院総選挙で公明党は議席を公示前の32議席から24議席へと減らした。11小選挙区に挑戦し、勝てたのは4つ。比例区票は596万余。3年前の前回より大きく減らして、過去最低となった。この結果をどう見るか。結党60周年の節目を目前にして、私なりの捉え方を明らかにしてみたい。

●「公明党の自民党化」の必然的帰結

 まわりくどいことは後回しにして、結論を先に言います。今回の惨敗の結果は「公明党の自民党化」の必然的帰結です。「政治とカネ」をめぐる自民党の惨憺たる実態を前に、寄り添ってきた公明党が国民の猛反発を受けざるを得なかったのです。最も象徴的な出来事は、自民党で非公認になった、いわゆる「裏金」候補者を、公明党として推薦したことでした。党員、支持者にとってもこの衝撃は大きく、石井啓一代表が3条件を示したところで虚しく響くだけでした。九仞の功を一簣(いっき)に虧く(かく)とは、まさにこのことでした。「政治とカネ」をめぐる自民党の構造的欠陥を正すべく、折角闘ってきていながら自ら壊してしまうなんて。「情け深さ」にも程があるというものです。

 公明党はこの11月に結党60年を迎えます。その節目を直前にして、この事態。「捲土重来を期す」との言葉が聞こえてきますが、ことはそう簡単ではないと思われます。公明党の60年の歴史はほぼ30年で真半分に分けられますが、その「2つの30年」は一見まるで違う政党のようです。前半は野党で「打倒自民」に傾注、後半は与党で「自民支援」に奔走してきました。その60年間に一貫して流れているのは、「政治を大衆に取り戻すために闘う」ことでした。その前提には「大衆」と遊離した自民党という存在があるとの認識です。そのため前半は自民党を「外から破壊」しようとしました。だが叶わず、後半は一転、「内から改革」するべく方針転換をしたのです。勿論、その背景には苦境に陥った自民党からの「助けてくれ」との要請がありました。

 注意すべきは、後半30年が真半分の15年ずつに分けて捉えられることです。前半15年は小淵氏から麻生氏への6人の自民党政権の時代。「自公政権」の定着が目指されました。一方、後半の15年は民主党政権の3年から第二期安倍政権を経て今日に至る流れです。第一期政権での失敗に鑑みた安倍第二期政権が強権的な姿勢で「安定」を志向。ちょうど15年の間、伴走することになった山口公明党も、民主党政治の混乱と不安定から脱却するために、「安定あってこその改革」の旗印を掲げざるを得なかったのです。

 ●「自民党の公明党化」は道半ば

  山口氏が率いたこの15年の公明党は、懸命に国民大衆の「小さな声を聞き」、それを与党の政策選択に反映し、かたちにしてきました。民主党所属から自民党に転身したある議員が今回の選挙戦で「公明党推しの理由」というユーチューブを発信しました。そこでは、①児童虐待対応②低出生体重児問題③片目失明の人への保険適用など身近な問題に取り組む中で、公明党議員が力強く支援してくれたというものでした。「外交・防衛」といった〝大きい政治〟の場面では自民党の独壇場と見えるものの、庶民の生活に密着した、こまやかな政策提言から実行に至る過程は公明党の活躍を抜きには語られないとの指摘でした。民主党の栄枯盛衰を内から見てきた末に、自民党に移り「自公政治」の内実を知った率直な語り口に、真摯な政治家の一面を見たしだいです。

 本来、公明党は「自民党の公明党化」を目論んで政権を組んだはずです。有権者大衆の小さな声を聞かずに、大言壮語を吐きがちな多くの与野党政治家に対して、大衆と共に歩む公明党に見倣えと。この自公による「大小分業政治」が道半ばにして壊れてしまうのはとても残念なことです。毎回の衆院総選挙で、200議席を大きく超えてきた自民党と、過去に50議席を超えたのが一度だけで、支持率も一桁台半ばを中々越えられない公明党が政権を組んで30年足らず、いよいよこれからという矢先の挫折です。

 さてこれからどうするか。私は2年前に拙著『77年の興亡━━価値観の対立を追って』で、三たびの転換期にさしかかった日本の歴史を振り返って、次なるサイクルの方向性を展望する試みに挑みました。それは結論すると、弛緩し切った政治から緊張感漲る政治への変革を目指して、「国民的大論争を始めよう」というものでした。また、今回の選挙戦直前には、「与野党伯仲」政治で、相互に知恵を競い合う状況をもたらすことの大事さを訴えました。政権交代の是非を問うのはその後のことだ、と。長短期の政治の予測がほぼ見立て通りになって、嬉しいような寂しいような複雑な心境です。

 引き続き、自民党政治の内からの改革を続行するのか、どうか。結党60年。後半30年の終わりを迎えて、今こそ党内大論争を起こすべきことを提案したいと切に望みます。それあってこそ、沈んだ陽はまた昇るのです。(2024-10-29  つづく)

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【186】あと3日となった選挙戦━━激戦兵庫からのリポート/10-24

 衆院選挙も残すところ3日となった。選挙のたびに思うことは、政党関係者の熱量ほどには世の中の反応は弱いということであろう。今回のように、自民党が旧統一教会の問題と政治とカネの問題で、前代未聞の不祥事を起こしていながら、その批判の矛先が鋭く向かっていないかのように思われる。しかし、それも果たして実際にはどれほどのものか、蓋を開けて見ないとわからないというのが本当のところだろう。さる18日、神戸のホテルオークラで開催された公明党の赤羽かずよし候補の個人演説会には自民党の隣接選挙区候補が4人も顔を揃えた。4者4様で自身の選挙情勢の厳しさを伝えつつ、赤羽候補へのエールを送っていた。「もう一度一から出直します」「やましいことは何もない」「ご迷惑をおかけして申し訳ない」などなど。これらの弁明めいた発言を聞きながら「政治家の反省」とは何かを考えざるを得なかった◆20日には、公明党の山口那津男前代表と石破茂首相が「赤羽」の支援にJR新長田駅前にやってきた。石破首相の演説で印象に残ったのは、冒頭での「テレビで見ると怖い顔と言われますが、現物は意外とそうでもないでしょう?」との切り出しで笑いをとり、ゆっくりと語りかける口調は好感が持てた。とりわけ赤羽氏が三井物産、自分は三井銀行と三井繋がりのうえ、大学も同じ慶応大学法学部政治学科でほぼ同期(首相が年齢は一個上)の政治家であることを強調したあたりは親しみを感じさせた。ただ、演説の中身はいささか物足りなかった。というのは、今有権者が一番関心のあるのは物価高と所得減に象徴される「暮らしづらさ」に他ならないのに、そこへの言及がなかったのだ。経済格差の拡大は、安倍晋三元首相の主導したアベノミクスに起因するというのは衆目の一致するところである。首相自身兼ねてそういう発言をしてきていたのに、ここへきてそれを封印しているかに見えたのには、訝しく思わざるを得なかった◆22日の夜は元町の飲食店で、かねて私もメンバーの一員である異業種交流の趣きを持つ懇親会が開かれたので、顔を出した。この日は20数人ほどが参加して和気藹々の懇談の場となった。常連である「維新」の著名な現役国会議員も私とツーショットで挨拶に立った。彼は今回の選挙が維新にとっても逆風で、県下各地で厳しい戦いを強いられていることを嘆いてみせた。私は、現役を引退した議員として、与野党が政党の枠を越えて、日本が抱える課題を巡って、大論争を起こす時だとの持論を〈起・承・転・結〉の4点に分けて展開した。拙著『77年の興亡』を著した2年前の2022年が日本近代を画する大きな転機だったとの導入部【起】から始めて、【承】は、明治維新からの77年、昭和の敗戦からの77年に次ぐ「第三の77年」が①少子高齢化②コロナ禍③ウクライナ戦争という危機に見舞われて始まったという現状を述べた。そこから【転】として、第1期の77年の「軍事力」、第2期の「経済力」に代わる、第3期の国家目標に「文化・教育力」を掲げて新たな国づくりをすべきだと展開した。【結】として、そのために、今こそ国民的大論争を起こそうと訴えたのだが、与党・自民党と野党・「維新」の〝不祥事連発の二重奏〟で、それどころでない現実は残念という他ない◆選挙は未だ3-4割の人たちが投票先を決めかねており、投票所に足を運ぶかどうかさえ迷っているとの見方が専らである。ここにどう切り込むか。人間心理として、選挙公示前は未だ早いという意識が走り、投票日前はもう遅いとの気分が漂う。つまり、相手よりも自分自身の「気持ちの壁」に左右されるのが〝人の世の常〟である。そこを一票、また一票と積み重ねる「一念の強さ」こそ、「勝利の要諦」に違いない。無党派層の気ままさを、我が手の届かぬ〝雲の上の秘め事〟と諦めず、〝自家薬籠中の物〟とするのも、また「強き一念」に帰するに違いないと思われる。選挙は大きく捉えれば、現代の「国取り物語」だが、個人に当てはめれば、自分の弱さとの戦いであり、懐かしき友との再会や、新しき友との出会いをもたらす「人脈開拓のお祭り」に直結するといえよう。新たな希望の夜明けに向けて出発するのは今をおいて他にない。(2024-10-24)

 

 

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【185】吉と出るかはたまた凶と出るか━━全ては選挙での国民の判断に委ねられた/10-10

 石破茂氏が自民党総裁に選ばれてから、2週間足らず。国会召集から首相指名、所信表明演説。それへの各党代表質問を経て、85分の党首討論。そして衆議院解散。あっという間の出来事だった。この間の猛スピードぶりや、首相発言の中身に対して、野党は勿論、メディアの評判もいたって悪い。それらに共通するのは、総裁選挙を通じての発言とあまりに違いすぎる、まるで手のひらを返したようだということだろう。私も大いに落胆した。所信表明への代表質問に対する答弁が専ら棒読みで、ご本人の口癖だった「自分の言葉」が殆ど出てこなかったからだ。ひどい出来栄えに見えた。ずっとテレビの前に座っていたわけではないので、不確かなのだが、イメージ先行の捉え方をすれば、その印象が否めなかったのである。ひな壇の先頭席での首相は、照れ隠しのような彼独特の含み笑い的表情で、臨席の林芳正官房長官の端正な顔つきとの違いが際立った。衆参2日間の〝セレモニー出演〟は、お世辞にも褒められたものではなかったというのが率直なところだ◆ところが、昨日の党首討論はうって代わって「良い面」が見られた。勿論、ここで「良い面」というのは少々意味合いが違うかもしれない。過去の自民党の首相は、野党の追及に対してすり替え答弁をしたり、はぐらかしたりして、まともに答えない場面が常態であった。ところが昨日の首相は認めるところはそれなりに認めていた。前日2日間の棒読みとは違って堂々と自分の言葉で述べていたように見えた。たとえば、政策活動費について、石破幹事長時代の2年(2012-14)に、どういう使い方をしたかと問われて「国会でいろんなご議論を賜るときに、それを円滑にするため」に使ったと述べたり、「いろんな選挙区でいろんな事情もあり、厳しいところも当然ある。そういうところで、適法な範囲内で今許されている政策活動費を使うことは、可能性として否定しない」と述べたりした。彼らしい正直な答弁だったといえよう。一連のやりとりを見聞きしていて、立場の違いが錯綜する中で、隠さず述べるところは好感が持てた。尤も、ここはせめて「近い将来には、政策活動費はきっぱり廃止する」と明言すべきだったろう。自民党の総裁候補者間に廃止論が出ていたし、公明党も廃止を明確にうち出すよう求めているのだから、物足りないというしかない◆また、政治資金収支報告書に不記載があった12人の議員らを、石破自民党は公認しないと公表した。野田佳彦氏はこれでは少な過ぎると追及した。首相は「そういわれるが、よくよく判断をしたうえでのことで、最終的な判断は主権者たる国民に任せる」といい、非公認の候補者が当選した場合、「(追加公認については)主権者たる国民が判断された場合、公認することはある」と、ここでも正直に発言していた。つまり、問題だらけの考え方を堂々と誠意を込めて正直に語っていたというのが率直な印象だ。これをどう国民が判断するか。吉と出るか、凶と出るか━━選挙での有権者の判断にすべて委ねられたのである◆この問題に関連して衆議院小選挙区で、自民党が公認した予定候補のうち、174氏の推薦(第一次)を決定した上で、無所属の小選挙区予定候補2氏の(兵庫9区の西村康稔氏と埼玉13区の三ツ林裕巳氏)推薦も決めた。これには驚きを持って聞いた人も多いと思われる。兵庫9区の明石に住む私のところにも、何故かとの問い合わせが幾つもあった。この2人の選挙区と隣接する選挙区を重ね合わせると自ずと分かってくるというものだろう。党中央の発表(西田実仁幹事長の昨9日の記者発表)によると、今回の判断を下した基準は①地元の公明党員、支持者に謝罪し、説明責任を果たしたか②公明党との協調に貢献したか③地元の党員、支持者の納得を得られたか━━であるという。推薦決定にあたっては、地元の意思を最大限に尊重したとされる。私は、西村氏については彼の初陣の時からよく知っているが、識見、人柄共に卓越していると評価してきただけに、今回の不始末には驚きもし、残念にも思ってきた。既にブログにも「『ゼロから出直す』というなら、秘書を公設秘書3人プラス私設秘書1〜2人に絞って、大所帯の秘書団は廃すべし」と、差し出がましいことも書いた。また、推薦に際しては、「自公連立政権合意」の徹底を候補者に求めるべしと言わずもがなのことも言った。本人のためにはいらぬ情けは不必要に思われるが、それは門外漢の無責任な妄言なのだろう。(2024-10-10)

 

 

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【184】「空文化」は許されない━━2024「自公連立政権合意」を前に/10-4

 私の目の前に2つの「自公連立政権合意」を報じた記事がある。一つは、3年前の11月2日の岸田・山口両党首によるもの。もう一つは、このたびの石破・石井ご両人が交わしたものである。前者が世に出た頃はコロナ禍真っ盛りとあって、当日の写真は2人ともマスク姿。冒頭に「我々は一層気を引き締めて、国民の声を聞き、謙虚な姿勢で真摯な政権運営に努めていかなければならない」とある。山口氏は党首会談後に記者団に対して、合意文中冒頭にある「一層気を引き締めて」という言葉が「連立政権の心構えだ」と強調していた。しかし、それからほどなく、「政治とカネ」にまつわるいわゆる「裏金事件」が表沙汰になった。安倍派を中心にした、派閥ぐるみでの脱税紛いの不祥事がかねて自民党の底流で渦巻いていたのである。それに「統一教会問題」も加わって、自民党の屋台骨を揺るがし、存立基盤が問われる嵐となった。連立政権のパートナーである公明党も大きな余震、余波を蒙ったことは言うまでもない◆新しい党首同士による今回の政権合意書には当然ながら、その「危機意識」が滲み出ている。前回は猛威を振るった「コロナ禍」への対策が先頭で、「政治改革」は、ほぼ末尾に2行だけしか触れられていなかった。それが今回は冒頭に「政治改革」が掲げられている。まず、「政治の信頼回復を図るため、政策活動費の透明性の確保や、『政治資金に関する独立性が確保された機関』の設置、政党交付金の交付停止などの制度創設など不断の政治改革に取り組む」とある。加えて「調査研究広報滞在費の使途の明確化、使途の公開、未使用分の国庫返納などに取り組むとともに、当選無効となった議員の歳費返納などを義務付ける法改正の実現を図る」と続く。これをどう見るか。まだまだ手ぬるい、これでは再発必至との懸念もあろう。いや、第三者機関設置による監視機能が整えば、大きく前進するはず、その実現に期待するとの見方もある。ともあれ政治改革に「不断に取り組む」との一言を信じたい◆欲を言えば、「国民各層の厳しい目線を意識して」とか「大衆本位の政治に更に一段と立って」とか、短くてもいいから、「あゝ反省の気構えが伺えるな」と思える感情のこもったくだりが欲しかった。でないと、結局自民党は、「政治とカネ」の問題に深い反省はしていないと見られ、公明党はそれを見逃すのかと責められるに違いない。総選挙が近づくにつれ、裏金議員の公認をめぐって不審や懸念が取り沙汰されており、石破首相の対応が注目されている。公明党的には自民党候補が推薦に値するかどうかの見極めが必要となる。その際に、各候補者がこの「政権合意」をどう認識しているか、実現への熱意が問われてこよう。今までの「政権合意」の位置付けは、両党が目指す最大公約数的な枠組みに過ぎなかった面は正直否定できないかもしれない。しかし、今度は違う。自公政権の本気度が試される。石破、石井両党首誕生からわずか数日の余裕しかないままの「政権合意」作成だった。急拵えのイメージを払拭するためにも石破、石井両党首肝入りの「政権推進課題検討チーム」を作って議論を重ねていってはどうか◆例えば、今回の総裁選挙で石破氏がいくつかの「新基軸」を打ち出した。公明党として直ちに賛同できるものも、できかねるものもある。これらをめぐって、早期に首相の考え方を丁寧に聞いておく必要があろう。うち続く災害への対応としての、防災省設置の提案や、地方創生への首相構想なども両党ですり合わせたい。さらに、憲法に自衛隊の存在を明記することをめぐっては、石破首相の本意は自民党の主流の考え方と異なる部分があるように思われる。また原発についても、政権合意にある「安全性が確認され地元の理解が得られた原子力発電所の再稼働」との記述には違和感がある。原発にどこまで依存するのかの〝線引きの合意〟がなくて、とりあえずは再起動を目指そうとしているかに読める。そんな曖昧な合意でいいのか。この辺りも含め、連立政権の中長期的展望やビジョンについても積極的な議論を開始する必要があろう。(2024-10-4)

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