Monthly Archives: 3月 2019

「中野兄弟会」で〝30年後の目標〟を決意 (22)

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降りしきる大雨の中での結婚式 (21)

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入社3年が経つまでは、結婚なんか… (20)

入社3年間は記者としての基本を身につけることに全力を集中せよー市川主幹の私たち新入社員への厳しい指導でした。そんな中で、とりわけ印象深かったのは、文章における「書き出しの研究」という話です。書き出しの特色として「最初から読者に興味をもたせること、全体がスラスラと効果的に書き出せる糸口であること、主題の方向を暗示していること」などを挙げて、文章の書き方の手ほどきをしてくれました。ご自身が28歳の時に『編集研究』なる小冊子に書かれた以下の文章が、見事な実例です。

ーロシアの文豪・トルストイも「アンナ・カレニナ」の書き出しには、まったく手を焼いていた。こんな逸話がある。彼が書き出しに苦しんでいたころ、彼の育ての親ともいうべき大おばが死の床についた。(中略)  かくて「アンナ・カレニナ」の書き出しの一句ーオブロンスキイの家庭は何もかもがめちゃくちゃであったーが決まった。

グイグイ惹きつけられる書き出しです。この文章の副題には、「会社の受け付けが〝企業の顔〟なら 書き出しは〝文章の顔〟といえる」とあります。早稲田大学を出た後、日経広告社を経て、聖教新聞社に転職。29歳で公明新聞の編集長に抜擢されるまでのわずかな期間に、文字通り刻苦勉励の限りを尽くしての到達域です。また、それから3年後には『週刊言論』誌上に[言論講座]なる連載を書いています。「やさしい文章教室」とのタイトルで5回にわたって。①書くことによって読書と思索が完成②借りものの文章と自分の文章③模倣から自分の文章へ④主題の決定から構想を練るまで⑤文章はしめくくりが大切ー激務のさなかに書き残された大いなる遺産です。

「入社3年」といえば、もう一つの忘れられない市川語録は、「入社3年は結婚するな」です。言われずとも、相手もいないし、当時、結婚は考えていませんでした。だいたいからして、給料が初任給26000円。帝人に就職した親友の志村 勝之など、ほぼ50000円とのことでしたから、倍です。これでは私の方は、したくても出来ません。遠い昔に初恋の人がいましたが、高校卒業の時点で夢は破れていました。その後は人並みに好きになった人は何人かいて、それなりに付き合ったのですが、何しろ肺結核を病みましたので、それどころではなくなり、付き合うのはやめました。女性と別れるのは、会わなければ自然消滅する、とのどこかから仕入れた鉄則を遵守したのです。

そこへ、社会人になって職場の最高責任者から事あるごとに、3年間はお預けと言われると、従わざるを得ません。何事もないまま、2年が経ち、やがて3年という頃になりました。ある時、聖教新聞外報部の先輩・外川進さんから声をかけられました。この人は東京外語大出身のクレバーな人で、国会の中で仕事で一緒になる機会が幾度かあったのです。「君、付き合ってる人はいる?」「いいえ、今は特に」「そうか、じゃあ、いい娘がいるから一度紹介するよ」となりました。胸騒ぎがしました。物事はタイミングです。大先輩の〝お達し〟を守った頃合いの時に、良き先輩からの声がかり。約束の日が待ち遠しかったのはいうまでもありません。

港区青山一丁目の交差点の角にあるビルの二階。指定された喫茶店で待っているところに、先輩に連れられて入ってきて、前の椅子に座った女性を一目見て、もう本当に驚きました。大袈裟に言えば驚天動地とはこのことです。

【昭和47年1月 ⚫︎日米繊維協定  ⚫︎グアム島で元日本兵 横井庄一さん発見  2月 ⚫︎米ニクソン大統領訪中 ⚫︎連合赤軍  浅間山荘事件 5月 沖縄の日本復帰  7月  佐藤栄作内閣から田中角栄内閣へ 9月 田中首相訪中 日中共同声明(国交正常化)】

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日中国交回復前夜に公園で徹夜で議論 (19)

【昭和46年  4月  大阪府で革新系知事誕生。8月 米、ドルと金の交換停止(各国、変動相場制へ)  9月 天皇と皇后、初の訪欧。10月 国連総会、中国招請、台湾追放案可決。12月 10カ国蔵相会議で円の大幅切り上げ  1ドル308円に】

昭和46年(1971年)は日本と中国の間における国交回復を願う空気が大きく高まってきていました。私は大学時代に中嶋嶺雄、永井陽之助両講師から現代中国論や現代政治学の講義を受ける一方、池田先生の昭和43年(1968年)における学生部総会での「中国問題」をめぐる講演を聞いて、中国や米国への関心を強く持つに至っていました。国際政治の動向について解説する本を片っ端から読み漁り、国会における外交・安保論戦にも注目する日々が続いていたのです。

そんななか、公明党の訪中団が中国に行き、周恩来総理と日中関係で議論を重ねる場面がありました。野党外交の先駆的展開として注目を集めましたが、団員の一人として参加された市川雄一主幹から直接、「訪問談」を聞く機会がありました。夏のある夜のこと。党本部から少し東に離れたところに公園があったのですが、そこに市川主幹と私と新田健吉さんの3人で行きました。初めて訪れた中国という国について、市川さんはあれこれ語ってくれたのです。

中国文化大革命を礼賛する気運が強かった当時の日本で、批判の論陣をほぼ一人で張っておられた中嶋嶺雄先生の影響をモロに受けていた私は、生意気にも「対中懐疑論」とでもいうべきものを受け売りしてしまいました。市川さんはそれはそれで聴いてくれながらも、あらゆる意味で〝大きい中国〟をつぶさに丁寧に描いて見せてくれました。今となっては、その中身の詳細は忘却の彼方ですが、飲まず食わずで立ったままの3人での会話。公園の電灯の明かりのもとでのシルエットがくっきりと浮き上がってきます。気がついたら白々と夜が明けようとしていました。20代の若者の書生論にトコトン付き合ってくれた大先輩の熱い思いが蘇ってきます。この時を契機に私は市川さんを一段と尊敬するようになりました。

その後、政治部から日曜版編集部に移動しました。文化欄を担当し、学者・文化人に原稿を依頼する機会が増えました。「公明党の機関紙?そんなところに書かないよ」とのっけから断られたり、頼んだ原稿を取りに伺うと、「ん?公明新聞?神戸新聞かと思っていた」と、某大学教授の〝恐るべき反応〟に驚愕したことも。勿論快く引き受けてくれた人が大半ですが、誰にどういうテーマで書いてもらうか、で散々悩みました。画家に絵でなく、文章を書いて貰う連続企画は成功談のケースです。失敗談では、頂いた原稿を紛失するという恥ずべきこともやってしまいました。現在の電子化の時代では考えられないことですが、その時ばかりは身も心も凍えました。

 

 

 

 

 

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新米記者と先輩、仲間たち (18)

【昭和45年 2月 核兵器拡散防止条約  3月 新日本製鉄設立  赤軍派学生によるよど号ハイジャック  7月 教科書裁判に検定違憲判決 光化学スモッグ問題化】

公明新聞の新米記者としてスタートした頃、市川主幹は、記者しての人間の力量が紙面に表れる。小手先の技術よりも人間として成長することだ、と繰り返していました。「日頃の闘いの中で、読書し、思索し、豊かな知性と情操を養うことが、とりもなおさず、紙面に反映するんだ」との指導を朝礼で聞き、大いに刺激を受けました。一方、机の上は綺麗に整理せよ、帰社の際には机上には何も置かない様にと、事細かな注意をしていたことが印象深く残っています。ただ、殆ど誰の机も変わらずに雑然としたままでした。

先輩にも尊敬すべき凄い記者は橋本立明、辺見弘、篠塚安彦、伊藤東男さん始め、多勢いましたが、少し遅れて入ってきた新田健吉、太田昭宏、井上義久さんらは入社の時から光り輝いていました。とくに、太田さんは会った瞬間に、この男は将来公明党を背負って立つに違いないと思わせるオーラがありました。こういう連中と切磋琢磨した入社3年ほどはかけがえのない、大学時代に続く私の第二の青春でした。

住まいは、入社と同時にいわゆる〝社員寮〟です。当時は今からは考えられないことですが、学会本部や聖教新聞の人達、いわゆる本部職員と一緒でした。最初は文京寮、それから第二富士寮、南元町寮と三回ほどかわりました。寮生活はそれぞれに思い出深いものがありますが、学会の職員全体の寮祭で、南元町寮として〝一本刀土俵入り〟を出しものとして提案、元京大相撲部の太田昭宏君に相撲取りの駒形茂兵衛役を演じてもらったのはグッドアイデアでした。あの頃の彼は人に乗せられ、演技することが上手かったと感心します。

昭和45年で忘れられないのは、いわゆる「言論問題」が発生したことです。国会の場でも、これを取り上げて、追及しようとする輩がいました。予定された委員会の部屋に予め赴き、一人だけで口の中でしばし唱題したものです。ことの本質は過剰な自己防衛反応のなせる業だったと思いますが、このことを契機に、創価学会と公明党の「政教一致」を糾弾する動きが強まってきたのです。この結果、「政教分離」が改めて鮮明になされることとなりましたが、この問題の推移を国会で見つめつつ、敵と味方を峻別することの大事さを実感した次第です。

もう一つ、印象深いのは三島由紀夫割腹自殺事件です。昭和45年11月25日。忘れもしないのは、私の25歳の誕生日の前日だったからです。市ヶ谷の防衛庁のバルコニーで、自衛隊員を前に、軍服着用の鉢巻き姿でクーデター決起を呼びかける三島由紀夫の姿は、衝撃でした。「狂気の果てに」と片付けるのは簡単でしたが、人生の長さとその中身、とくに死について、否応無く考えさせられました。「老醜を恐れ肉体的頂点での自死を切腹という形で選んだ」とされる三島の壮絶な生と死は、今に至るまで、私にとって大いなる課題であり続けています。

 

 

 

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