連立参加の具体的証しとしての神崎代表挨拶
年が明けて、2000年の1月19日。神崎公明党代表は初めて自民党の党大会に招かれて挨拶をしました。「公明党は90年代に入って、野党という立場でありながら、湾岸90億ドル追加支援やPKO問題、金融不安の解消など、日本の進路を決める局面で重要な役割を果たしてきた」「日本の危機を乗り越えて、政治の安定を果たす中で改革を断行する必要があるので、連立に参加する政治的決断をした」と、強調したのです。
こうした事実を報じるメディアを追うにつけ、昭和39年の立党から36年ほどが経って、遂に自民党との連立政権を構成するに至ったことに深い感慨を覚えました。神崎代表は検事出身ですから、統治機構の一部を元々形成していた存在の一人だったわけですし、冬柴鐵三さんや山口那津男さんを始め衆参の公明党議員には弁護士出身も多く、今ある法律を解釈する仕事に従事してきたメンバーとして、権力の側に身を寄せることにさしたる違和感はなかったかもしれません。ですが、私のような自民党政権批判一筋の政党機関紙記者出身者(昭和44年から18年間)としては、大いなる戸惑いを感じたものです。
自自公三党連立は、その後早々と4月5日になって、自由党が連立を解消するに至ります。そして、同党を離党した扇千景参議院議員をはじめとする人たちが保守党を旗揚げすることになりました。結果として、保守党には26人が参加、自由党には24人が残り、同党は分裂をしたのです。自自公連立は、自公保連立へと衣替えすることになりました。このかたちは03年11月まで続き、保守党が保守新党を経て自民党に合流してからは、自公連立となっていくわけです。一方、小沢自由党は民主党と合併する道を選んでいきます。
与党安保PTで自自両党に攻められる
2000年の春先、私は党の外交・安保委員長として多忙を極めていました。一つは、防衛庁の省への昇格問題であり、二つ目は有事法制化問題です。さらに三つ目は、PKFの凍結解除問題です。いずれも、自自両党が進めたいとするものでしたが、公明党としては慎重にならざるをえないテーマでした。問題の性質上、産経新聞が熱心に取材をしてきて、幾度か同紙の紙面を飾りました。自由党が未だ連立政権に加わっていた時は、とりわけ自自両党の間に挟まれて苦労しました。防衛省昇格問題では、3月8日の与党安保PTで、久間章生元防衛庁長官が自民党の国防部会で了承されたとの報告をしました。これについては、前年の自自公三党の政権合流に伴う政策協議で、自由党から強く「盛り込み」を求められたという経緯があります。しかし、公明党は最後まで認めませんでした。従って、私はその場で勝手に色よい話をするわけにもいかず、難しい事情を述べたものです。3月9日付の産経新聞は、この辺りについて大きく報じました。
また、有事法制化については、外国からの武力攻撃を受けた場合、つまり1分1秒を争う緊急時に、防衛のために超法規的な行動を取ろうとしても、難しいことは当然想定されます。一般市民の立場に立てば、いざという時だから、あなたの土地、家屋を自由に使わせてくれと言われても、おいそれとは同意出来ません。そういう一般大衆の側に立って、憲法に規定するさまざまな権利擁護の観点を重視するのが公明党のスタンスでした。「官邸の決断を待つしかない」(坂口力政策審議会会長)というのが精一杯でした。
PKFというのは、国連平和維持活動(PKO)の中で、軍事的行動を伴う活動をする主体を意味します。ピース・キーピング・フォースつまり国連平和維持軍です。PKOはあくまで平和的に物事を進めようとするためのもの。それに対して、PKFは軍事的役割を重視するものです。ですから、日本政府はPKFについては、初めから凍結することにしたのです。しかし、自由党はそれでは、国際基準と合わないとして、執拗に凍結の解除を迫ってきていました。公明党はそれは受け入れられないので、自民党と共同歩調をとりつつ、慎重な姿勢を固持したのです。
つまり、与党三党の安保プロジェクトチーム(PT)での私の役割は一貫して、自自両党に歯止めをかけることでした。前に前に行こうとする自由党を抑え、自民党には公明党の立場を理解してもらうことに意を注ぎました。この頃の安保関係議員の自民党の中心にいた久間章生さんや、額賀福志郎さん、そして石破茂さんらとは様々な交流をする機会に恵まれました。自由党の担当の一人は元公明党、公明新聞の大先輩であった二見伸明さんでした。この人は公明党と袂を分かってから離れてしまわれ、最近は共産党シンパのような存在です。
小渕首相、脳梗塞で死す
橋本龍太郎首相からバトンを引き継いだ小渕恵三首相は、金融危機の嵐が吹き荒れるなか、自由党との連立、そして公明党をも引き込むなど、日本の安定のために 必死の闘いを挑みます。この間の無理がたたり、結局2000年の4月1日に脳梗塞で倒れそのまま帰らぬ人となりました。その直前に小沢自由党党首の連立離脱の動きがあったことから、様々な憶測が流れたことは忘れられません。政局はこのことから一気に流動化しました。当時の官房長官・青木幹雄氏が、野中務、村上正邦、亀井静香、森喜朗の各氏を集め、次の首相に森氏を決める流れを作ります。いわゆる「密室談合」と呼ばれる一幕です。現職の首相が病に倒れるケースは、戦後ではこれまで石橋湛山、池田勇人、大平正芳の三人です。選挙最中に逝った大平首相とはまた違った意味で、小渕氏は「殉職」とでも表現したくなるような悲劇的な死でした。
衆議院本会議などで一度ならず議論をした小渕首相ですが、個人的に会うことは、エレベーターの中で偶然に会うことぐらいしかありませんでした。「政治家と健康」という普遍的なテーマを突きつけられ、自らの行く末に誰しも思いをいたさざるをえませんでした。尤も、こういうことは直ぐに忘却の彼方に忘れ去られがちです。このあと、10年ほど経って、私も同じ病に襲われることになりますが、もちろん、この時は神のみぞ知ることでした。(2020-4-11日公開 つづく)