Monthly Archives: 5月 2021

【26】自治会に青年部を作り、ミニ新聞も発刊へー平成28年(2016年)❷/5-31

●姫路城マラソンを沿道でサポート

平成28年2月28日。この日は姫路城マラソンが開催されました。生憎の雨模様でしたが、多数の全国からの参加者もあり、地元は大いに盛り上がりました。新在家自治会は、お城のすぐそばとあって、スタート間もなく元気なランナーが通過、2〜3時間後には疲れ切った姿で戻ってきます。励ましの声が飛び交う、最も応援しがいのある位置でした。

ランニング好きの自治会長や馴染みの議員、歯科衛生士さんらに声をかけたり、かけられたり。色とりどりあれやこれやの意匠を凝らしたコスチュームの相次ぐ登場は、まるで仮装行列さながらのようで、見るものの眼を楽しませてくれます。裏方をしつつ、メガホンや旗を振りふり、地域住民の皆さんと共に得難い経験をしました。

●青年部結成と、映画『人生の約束』と

前年初めて自治会長になって参加した秋祭りには、大いに刺激を受けていました。幼児たちが屋台の上で叩く太鼓ー目を細め見守る親。男衆の担ぐ屋台の練り合わせーしで棒で囃す女や老人たち。流石に私も興奮しました。姫路は、〝灘の喧嘩祭り〟で有名なお祭りどころ。白浜、飾磨、広畑、網干など南部の海寄り地域の人々には遠く及ばないとはいえ、お城周辺の地域でも、〝三度の飯の次ぐらい〟のお祭り好きはそこそこにいるのです。

祭りの終了直後の打ち上げの場で、私は青年部結成を提起していました。この地域には昔から少年野球を通じて培われた仲間たちが存在しており、人材には事欠かないと見たのです。リーダー向きの粋のいい男もいますし、支える脇役たちも。この年初めに中核陣を決め、呼吸を合わせていきました。新しい年と共に青年部がついに結成を見たのです。後々まで喜ばれることになる私の仕事でした。

そんな折、ひょんなことから観た映画『人生の約束』(石橋冠監督)からは強いインパクトを受けました。富山県射水市に江戸期から伝わる「新湊曳山祭り」に題材をとったもので、住民が絆を深め合うドラマチックな展開には実に胸打たれます。当時の私の心象風景にピッタリ。尤も、皆に喧伝したものの、笛吹けど踊らず、一人相撲に終わったのは残念でした。また、ミニ地域新聞(新在家自治会ニュース)も発刊に漕ぎ着けましたが、この苦労談はまたの機会に述べましょう。

●城西幼稚園や小学校の入学、卒業式での感慨

自治会長の役割の一つが、地域の子どもたちとの交流促進です。地元にある学校の行事参加から生活補導など、あれこれ取り組みました。城西幼稚園と同小学校は私の通った母校です。幼稚園の入学式で「この幼稚園を出て65年ほどになります」と挨拶で述べると、保護者の席から「ほーっ」という息遣いが上がりました。城西小学校を2年生の冬に転校した私にとって、卒業式はタイムスリップしたようで、あたかも自分が主役のひとりになったような気分になりました。『仰げば尊し』が歌えなかったのは残念でしたが。

一方、この春、第88回全国高校センバツ野球大会の21世紀枠で我が母校長田高校が代表に選ばれたのにはたまげました。私の時代は部員が9人揃わない時などもあり、甲子園など夢のまた夢でしたが、後輩たちの活躍目覚ましくとうとうその座を射止めたのです。3月24日は「初戦敗退」でしたが、嬉しい観戦でした。尤も、毎日新聞の友人を通じて内野指定席切符を手配したのは失敗。母校応援団とともに、アルプス席から応援をするべきで、それこそ「後の祭り」でした。(2021-5-31)

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【25】50歳も若い同期たちと新しい会社へー平成28年(2016年)❶/5-24

●大手コンサル会社での同期の仲間たち

70歳の新入社員ー平成27年(2015年)の暮れに、大手コンサル会社の社長、専務らと面談の結果、地域おこしに関わる部門のシニアアドバイザーとして、正式に入社することになりました。東京に本社のある企業ですから、兵庫とは遠く離れています。出勤は必要に応じて、です。他に顧問をしている団体、企業との兼ね合いを見ながら、上京する機会を作り、出社することになりました。

中途同期入社は私の他に女性2人と男性1人の合計4人。女性は2人とも20歳代前。より若い方のNさんは、大学時代から、アルティメットで鳴らしていたとのこと。身のこなしも俊敏そのものの素敵な女性。もう一方のYさんは、米国留学から帰ったばかりで、モデルのローラそっくり。男性のTさんは50代後半のイケメンで元気いっぱいの起業家。いやはや、顔を合わすだけでも楽しい仕事場でした。

私は大学を出てすぐに公明新聞社に入り18年間は新聞記者。その後、1年半の衆議院議員秘書を経て、公明党兵庫県本部での嘱託勤務という風に、代議士に当選するまで、公明党一筋。それ以外の世界はこの歳になるまで、外からは見ていても、内側に入っての経験は全くありません。見るもの、聞くもの初体験ばかりで、まるでエキストラが撮影現場に行ったときのように興味津々の連続でした。

●上京の機会に合わせて顧問業の掛け持ち

この70歳の新入社員としての上京に合わせて、幾つかの団体や起業グループに顔出しすることにしていきました。まず1月18日には、自転車及び駐輪場に新しい仕組みを導入しようという起業家のメンバーの新年の集いに出ました。場所はJR大森駅近くの居酒屋。北海道出身のアイデア豊かな起業家とその仲間たちで、大いに気勢を挙げたものです。午前中に国土交通省に太田大臣を訪ねて、O代表を紹介していたことも、預かって力をもたらしたものと思えます。

この時の上京から帰った翌20日、淡路島・洲本のNホテルで、大手旅行社の幹部を交え、淡路島の観光戦略で意見交換をする機会があり、瀬戸内海島めぐり協会の仲間と一緒に参加しました。その際に示された戦略図を見ると、JR山陽本線から南に位置する四国への観光ルートが表現されていながら、淡路島が欠落しているというお粗末さ。厳しく指摘しました。些細なミスを笑って見過ごせない、私の悪い癖が出てしまい、自己嫌悪に陥りました。

更に翌21日には、奈良県樫原市で、先の大手コンサル会社が関わる医療都市(ウエルネスタウン)構想にまつわる懇親会があり、ここにも顔を出しました。辻哲夫東大特任教授も絡んでもらおうとの狙いもあり、私の出番でもありました。また、22日には異業種交流の会があり、神戸新聞のI女性辣腕記者や関学大MBAのAさんらを誘って参加、交流を深めました。

●「安保政策研究会」に初めて参加

週明け25日には朝日新聞の社長交代に伴うお披露目パーティーが大阪であり、中西進先生と一緒に出席しました。偶々瀬戸内海島めぐり協会の用事もあり、会場のホテルの一隅で打合せの後で参加したのですが、旧知の西村陽一常務も新社長と共にきており、懐かしい出会いとなりました。彼とは番記者時代を皮切りに、アメリカ総局長時に私が訪米するなどのご縁もあり、親しい読書仲間です。

また28日には再び上京しました。新たに理事に就任した一般社団法人「安保政策研究会」の月例会です。内幸町にある日本記者倶楽部の9F会議室が会場。この会は、元NHK解説委員で内閣官房副長官などを歴任した浅野勝人理事長のもとに、10人ほどが集い、昼食をいただきながら、自由に意見交換をします。参加者が次々と時事問題や自分の専門とするテーマについて発言していきます。中々刺激に満ち溢れた2時間でした。

私は自己紹介程度で済ましましたが、終了後に、大学の先輩である時事通信の元編集局長の杉浦正章さんや、元東京新聞のO政治部長を共通の後輩に持つ同社相談役の宇治敏彦さん、かつて国会で一緒に仕事をした元防衛庁官房長の栁澤協二さんらと話を交わしました。この会の最後に、恒例となってる小冊子「安保研リポート」の寄稿について、理事長から参加への呼びかけがありました。3年前からスタートし、9号も発刊済みとのこと。その時から現在は5年経ち、既に33号に。私は欠かさずに寄稿。はや、23本ほど書いたことになります。(2021-5-26=一部修正)

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【24】相次ぐ兄弟子たちとの少々早い別れー平成27年(2015年)❽/5-17

●今も会いたいとの思い募るふたりの先輩

この年は、関西創価学会におけるかけがえのない大先輩が相次いで亡くなられてしまいました。一人は西口良三さんで3月15日に、もう一人は大西正人さんで10月31日のことでした。関西の屋台骨が揺らぐ思いを抱きました。ご両人とも私が昭和55年(1980年)の夏に、大阪にある公明新聞関西支局に勤務するようになって、本格的に知り合いました。35歳からの35年間付き合ったことになります。

西口さんは私より7歳年上。選挙に出るということになって姫路に戻った平成元年からが本格的なお付き合いが始まりました。少し前から入退院を繰り返しておられるとは聞いていましたが、訃報に接して足元が崩れるショックでした。組織を運営するリーダーとしては誠に厳しい人でしたが、個人的な繋がりを大事にされるという点では、まことに徹して心配りをされる方でした。私が個人的に大きな失敗をし、それが世に差し障りをもたらすかも、という案件に悩んだことがあります。その際の大激励は生涯忘れません。心底からの優しさを感じました。

大西さんは、倒れられる間際まで全く体調がお悪いことを知りませんでした。西口さんの葬儀に駆けつけた際に、秋谷元会長の側に寄り添って座っておられたのを見たのが最後となりました。11月6日にご自宅に弔問に行き、思い出を綴った弔意文を御夫人に渡したのですが、思い残したことが山ほどあり、心底から悔しさが募りました。その思いについては11月5日号の「後の祭り回想記」に、「孤高の兄弟子の少し早い〝長すぎる不在〟」と題して、とことん書き記しています。如何なる難局にも動じない、頼りになる兄貴分でした。

●浜松市に行き、奥山保全トラスト地を歩く

この頃、一般財団法人「日本熊森協会」の姉妹団体である「奥山保全トラスト」が公益財団法人化しました。その実現には私は大いに尽力したのです。衆議院総務委員長をしていた頃の人脈から、その道に明るい官僚を教えて貰いました。この団体は、奥山の環境を守るために、篤志家から寄付を募ったり、乱開発をさせぬための森林地買い取りを進めています。これは極めて大事なことで、私はライフワークの一つと決めて、今も理事会には欠かさず出席しています。

この年の11月1日に、浜松市の北部にある佐久間トラスト地を仲間たちと一緒に訪れました。奥深い山あいでの森林浴を兼ねた視察は最高でした。全国各地に20箇所(2300ha)ほどあるトラスト地を順次訪問することが出来たらどんなに素晴らしいか、と密かに心に期しています。なお、この日は折角浜松にきたのだから、と夜は浜松湖畔にある舘山寺界隈のホテルに宿泊。大学同期で同市内に住む親しい友人M君に声をかけ、束の間の懐かしい交遊に勤しんだしだいです。

●辻哲夫さんとの楽しい語らいの夕べ

11月18日の夜は上京し、懐かしい辻哲夫元厚生労働省事務次官と会食懇談の機会を持ちました。実は、同氏は退官後に東大の特任教授(高齢者社会総合研究機構)をされており、千葉県柏市での「地域包括ケアのまちづくり」に取り組んでいます。現役当時と変わらぬ情熱をたぎらせて、高齢社会の持つ課題を多方面から研究されています。実は、この人の研究にかねて関心を持っていた大手コンサル会社の幹部と私は知り合う機会に恵まれていました。「瀬戸内海島めぐり協会」の仕事で、関係各方面の方々と付き合ううちに得たご縁の結果です。

そのメンバー仲間と共に、ひと夜意見交換をということになり、4人で都内港区の某所でお酒を酌み交わしました。辻さんとは同郷でもあり、僅か1年とはいえ、同じ役所の釜の飯を食った仲なので、一気に話は弾みます。彼が尊敬して止まない大先輩・坂口力元厚労相のことを肴に一段と盛り上がったものです。

この時の会合前後の出会いをきっかけに、いっそのことコンサル会社で仕事をしないかとの誘いを受けました。巨大な会社ですから、全体の顧問職ではなく一部門のシニアアドバイザーという肩書きです。新しいもの好きの私にとって、70歳にして、新入社員になるのは、心ときめかないといえば、嘘になります。新しい年を前に社長の面接を受けることになりました。(2021-5-17)

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【23】歯の常識を問う本を歯科医と共にー平成27年(2015年)❼/5-11

●出版好きの歯科医との出会い

男が歳を重ねると、衰えを実感する身体の器官は言わずと知れた、歯と眼と男根です。順序はともあれ、また人によっては違う器官が割り込むことはあっても、この三つが一般的には最初に 白旗を挙げることで、男は生物的に役割が終焉に近づきつつあることを自覚するもののようです。私は歯には自信がありました。残り二つよりも。ところが、議員を辞めた頃から、何かが狂って、歯車が合わず、歯噛みする機会が増えてきたのです。

丁度そんな頃に、親しい友人が大阪からわざわざ姫路まで歯科治療に来ていることを知りました。彼も自らの歯の不都合を自覚する中で、偶々姫路の開業歯科医である河田克之氏の著作を読んだのです。「この歯医者は凄い」と思い込んだ彼は、はるばる自宅のある豊中市から1時間半ほどかけて治療に通ってきていたのです。

そんな歯科医の存在すら知らなかった私は、迷うことなく、その門を叩きました。この人の持論は、一言で言えば、歯垢、歯石を取ることに尽きます。今でこそ、多くの歯科医が歯石取りに取り組んできていますが、それは主たる仕事ではないと長く見られてきました。ということもさることながら、この先生の出版好きには驚きました。現在は参議院議員を務める、元評論家の青山繁晴氏(河田さんの親友)との共著を始め、数冊の自著があるのです。

●歯にこだわった32本の質疑応答

電子本の発刊に傾倒していた私は、治療を受ける合間に、紙の本から電子書籍への方向転換をこの先生に促していきました。しかし、いつのまにか二人で紙の本を出そうか、ということになっていったのです。歯科医と患者の関係から始まって、行政のありようを巡るものまで、とことん語り合おうと、盛り上がりました。で、最終的に、『ニッポンの歯の常識は?だらけ』とのタイトル、「反逆の歯科医と、元厚生労働副大臣、歯の表裏事情に迫る」との長いサブタイトルの本が「ワニ・プラス社」から発売の運び(11月10日発行)になりました。一から十まで、河田さんのお陰です。

まえがきは河田さん。あとがきは私。序論「すべては歯から始まる」は私が担当し、第一部は二人の対談。「今明かす歯と歯医者に関する政治の実態」とのタイトルで、「歯をめぐる最大の誤解」「歯の『常識』を疑え」「歯科医学の将来」などのテーマを、60頁ほどにわたって語り合っています。さらに第二部は、歯科医療の現状と歯医者も知らない歯の真実」と題する質疑応答編です。

「歯をくいしばって訊く教養的な話」「歯に衣着せないで訊くわかりやすい話」「歯が立たないことはない専門的な話」「歯の根が合わなくもない特殊なやりとり」との4章だてで、それぞれ8つずつの8問8答から構成しました。とことん「歯」にこだわった内容で、私が32問訊いて、32の答を河田さんが徹して解説してくれています。

●全国会議員に贈呈、アンケートも

今読み返してもよく出来てる面白い本だと自信はあります。私が魂魄留めて取り組んだ「序論」では、チェーホフの短編小説から説き起こし、阿刀田高編の『作家の決断』の中にある渡辺淳一の心情の吐露を引用して締めくくっています。かなり気合を込めて、政治家をめぐる変遷を描いています。要するに、今、政治家が尊敬されていない現実を、歯痒い思いで自省しているのです。あとがきもこりに凝って書いていますので、ぜひお読みいただきたいものです。

河田さんは、この本を全国会議員に贈呈したいと言われました。一冊1300円します。私は「そんな勿体ないことはよしましょう。どうせ国会議員は忙しくて読みやしないですから」と言ったのですが、「例え僅かな人でも読んでくれるかもしれない」と押し切られました。せっせと、両院議員の部屋に私は持って回りました。その際に、「歯についてのアンケート」を付けよう、そうすれば、多少なりとも読むきっかけになるかもしれません、との提案をしました。

その甲斐あってか、幾人かの真面目な議員や秘書さんから回答がいただけました。今から5年半前のこの奇妙な試みを覚えてくれている政治家は殆どいないでしょうが、私たちには懐かしい思い出です。(2021-5-11)

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【22】中西進先生らと「瀬戸内海島めぐり協会」設立へー平成27年(2015年)❻/5-5

●サイバー研究所の所長に中学、高校同期の友人が

この7月19日には格別に嬉しい催しがありました。垂水中、長田高校同期の木戸出正継君が京都府と京都情報大学院大学の包括協定のもと、新たに作られた、ドメイン.kyotoの事業展開をするサイバー京都研究所の初代所長になったのです。それを記念するための「ファーゴとチェロの調べ」と題した演奏会が夕刻に京都コンピュータ学院駅前校で開かれ、出席しました。これには、世界的に著名な演奏家のエーデルマン夫妻が、モーツアルトや日本の様々な美しい曲を演奏してくれたのです。その後のパーティーで出会ったのは、日頃あまり付き合いがない分野の専門家ばかり。いささか戸惑いもあったものの、新たな出会いと繋がりの拡大で充実した夕べとなりました。

彼は、京都大学修士課程を終えた後、大手電気メーカーの研究所に入り、そこで博士号を取得し、最終的には奈良先端科学技術大学の教授となった科学者です。少年期の心をいつまでも失わぬ、科学技術の先端を切り開く男に、私は畏敬の念を抱いてきました。サイバー研究所長を3年務めた後、幾つかの仕事を経て現在は、大所高所からハイテク技術の動向を見つめつつ、週末のテニスを楽しむ健康ライフを過ごしているようです。

●熊本への旅と災害の襲来

中学、高校同期でいうと、もう一人忘れられない男が越智壮君。同志社から大和ハウス工業に入り、樋口武男氏(現最高顧問)のもとで薫陶を受け、ダイワロイヤルホテルのトップになりました。西郷隆盛を小型にしたような風貌と気風の良さ、カラオケのうまさは他の追随を許しません。縁あって熊本に住んでおり、私も幾たびか訪れました。そこでも、また神戸や姫路でも彼の唄を聴いたものですが、ホントにうまい。歌う西郷隆盛ーイメージは湧いてこないと思いますが、じつに惚れ惚れする、ゼネコンの営業で鍛えた声色、節回しです。

この年の夏8月23日は一泊二日で、彼の誘いを受けて妻と共に熊本を訪れました。熊本市内から阿蘇へと足を運ぶなど、それなりに楽しい旅だったのですが、帰りに台風の直撃を受けてしまい、駅で足止めを食らったのには閉口しました。あれ以降、熊本は地震やら風雨災害などに度々襲われています。

●一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の専務理事に

明石港と淡路島の岩屋港の間を、約15分ほどで結ぶ船会社ジェノバライン。議員引退後に、私はこの会社の顧問になったことは既に述べました。その後、2年の間に、小豆島、直島、犬島などにクルーズ船を運航させることや、淡路島一周の船旅を企画、運営してきました。この間に当初からの夢が膨らんでいったのです。

その夢は、関西国際空港にインバウンドしてくる外国人観光客を淡路島に引き込み、更に瀬戸内海の各島々を巡る旅に誘おうという構想へと発展していったのです。瀬戸内海の東の入り口に位置する淡路島は、〝国生みの島〟と呼び習わされ、「伊弉諾(いざなぎ)神宮」を抱える、万葉集ゆかりの地でもあります。この島を起点にして瀬戸内の島々を縫うが如く滑る船の上で、日本の起源を語り、万葉集の世界に酔うーこんな構想を形にしたいと思ったのです。

この考えが出てくる背景には、ジェノバラインのトップと旧知の関係にあった国文学者の中西進先生及びヨットで太平洋を横断した冒険家の堀江謙一さんの存在がありました。お二人ともご高齢ではありますが、一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の会長、副会長を、青年の心意気で引き受けてくれたのです。私もその勢いに感化され専務理事を引き受け、9月22日に設立総会をウエスティンホテルの国際会議場で迎えるまでに漕ぎ着けました。 

あの日、中西先生とは宿泊先の「海若の宿(わたつみのやど)」に移動する車の中でもご一緒し、色々とお話をしましたが、テーマは主に日本の防衛と公明党の態度について。平和を強く希求される先生の〝自公政権への危惧〟がビンビン迫ってきました。思い過ごしです、とついつい反論するうちに、「瀬戸内海と万葉集」は程遠くなってしまったのです。懐かしい思い出です。(2021-5-5)

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【21】淡路島で福田元首相から中国論を聴くー平成27年(2015年)❺/4-30

●県本部の顧問を降り、大光会代表に 

議員引退後も続けていた公明党兵庫県本部の顧問職も終わる時が来ました。初当選する前から、県の代表を20年余りも続けていましたし、引退後も2年半にわたって顧問をしていました。6月20日の県本部大会で、現役のメンバーとの関わりからは手を引いて、OB議員との連携やら激励のみに専念することになったのです。寂しくもあり、ほっとする機会でもありました。

人数からしますと、現役を退いたメンバーの方が多く、懐かしい先輩仲間が殆どです。福井常三郎元兵庫県議の後を受けて、OB議員の集まりである兵庫県本部大光会の代表となり、幹事長として佐伯育三元神戸市議に補佐していただくことになりました。福井さんは公明新聞関西支局の時代からお世話になった大先輩であり、佐伯さんは、私の衆議院初挑戦の時以来支えていただいた貴重な兄貴分です。今に至るまで陰に陽に面倒を見て貰っています。奥様が韓国語の達人で、主婦の身ながら同国に留学した後、大学の講師をされているという才媛です。

このおふたりは共に生死の境目を彷徨う大病を、信仰の力で乗り越えたという強信者です。更に兵庫県創価学会の大重鎮である得田昌義参議を加えた御三方は心から尊敬しており、事あるごとに懇談激励を頂いています。日蓮大聖人の御書、池田先生のご指導を学び合い、時々の政治課題をめぐって意見交換を交わします。このひとときに、無上の喜びを実感します。有難い先輩たちです。私は密かに、その3人を賢人と位置づけ、その会を「三賢人会」と称することにして楽しみにしているのです。

●福田康夫元首相が淡路島での講演に

淡路島のウエスティンホテル・「夢舞台国際会議場」で毎夏開かれてきた「アジア太平洋フォーラム淡路会議」(兵庫県主催)は、県在住の各界のリーダーと共に、様々の課題を巡って研鑽する得難い機会です。この年は7月31日(一泊二日)に開催されました。16回目のことです。お世話になった福田康夫元総理が「アジアの未来」とのタイトルでメインスピーカーを務めるというので、出かけました。事前に控室でお会いしました。元総理は議員引退後も世界を飛び歩き、いやまして存在感を高めています。2年余りぶりの出会いとなり、束の間の挨拶が出来ました。ただ、かつてとは違ってかなり無愛想。「もう選挙はでないの?」と、だけ。

そんな事前の舞台裏とは違って、元総理のこの時の講演は、中国をどう見るかについて極めて印象に残る内容でした。福田氏は、一般的に中国を嫌う論者たちは、彼の国からの観光旅行者たちのお行儀が悪いとか、国家としての立ち居振る舞いも問題だと指摘しがちであることを述べました。しかし、それは戦後間もなき頃の日本と同じだとして、やがて個人も国家も、日本と同様に、自然に収まるだろう、と強調されました。

更に、習近平主席については、中国人民から圧倒的な支持を得ているとのエピソードを挙げつつ、かの大国を一つにまとめてくれていることだけをとってもいかにその能力が尋常でないものかと強調。「嫌中」の風潮に惑わされず、等身大の中国を見据えて、学ぶべきは学び、言うべきは言う対等の関係を築くように訴えました。この辺りについて、当時のブログ(2015-8-4号)では克明に『福田康夫論』を展開しました。通常私の周りにいる公明党支持者は大いに共感する内容でしたが、ご本人の指摘にあったように、嫌中派にとっては反論が多くでるに違いないと思われました。そのインパクトは今なお強く、記憶にしかと残っています。

●真夏の結婚披露宴で仲人を

8月2日姫路市内の結婚式場。真夏の暑さの中で、姫路市に住むM君と上郡のFさんの結婚披露宴に仲人として臨みました。半年ほど前に、私が見合いを勧めたもので、スピーディなゴールインでした。双方が母親と死別、父親しかいない環境で育ちました。生い立ちが似通っているものの、女性の方により不安が伴うのではないかと懸念しましたが、杞憂に終わりました。

二人とも強い信仰心を持ち、池田先生を師と仰ぐ信念において人後に落ちません。男女青年部の仲間たちから慕われる素晴らしい足跡を持っています。本人たちはもちろん、二人の父親にも喜んで貰える大変に嬉しい役割を果たせました。その後、二人の男の子に恵まれました。3人の兄たちに囲まれて育った彼女。その子どももまた男の子ばかり。こればかりはままならないものです。(2021-4-30 5-3一部修正)

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