整理部へ、印刷工場での新聞作り (25)

【昭和50年(1975年)  3月 山陽新幹線開通  4月  統一地方選、東京、神奈川、大阪で革新知事誕生  サイゴン政府崩壊、ベトナム戦争終結 8月 日本赤軍クアラルンプール米大使館等占拠  9月  天皇 皇后初の訪米】

昭和50年(1975年)。社内人事移動で整理部へ。浜松町にある東日印刷の工場に通うことになりました。国会の赤絨毯という華やかな場所ではなく、また学者・文化人と接触するのでもありません。新聞発刊の最終過程における重要だが地味な仕事をするのが整理部です。原稿を新聞に載せる上で誤りがないかどうかをチェックする校閲部と並んで、記事をどう配置するか、割り付けを考え、実際に活字を組み込む整理部は、サッカーにおけるゴールキーパーのようなものといえるかもしれません。

入社時の研修のくだりで触れたように、私は新聞を印刷するインクのにおいがとっても好きでした。加えて、決められた時間に向かって、必死になって単純な作業に汗を流すというのも妙にウマが合います。例えば子どものころにやったクレペリン検査なども好きだったのです。全ての工程を終えて、新聞の降版ギリギリの、あの緊張した瞬間。無事全て終えたあとの安堵感はなかなかのものでした。

新聞記者という職業に携わった中で、工場で過ごした時間は唯一と言っていいくらいの物作りの現場に立ち会った機会だったともいえます。貴重な経験でした。お世辞にも上手いとは言えなかった割り付けは、先輩の黒沢昭捷、立石清明さんらの電光石火の早業に見とれるばかり。結局はものにならないままでしたが‥‥。

この頃、仕事を終えた夜は、まっすぐ家に帰ることなく、ほぼ毎日、高等部活動や男子部活動に精を出していました。家族団欒の記憶はありません。高等部では、当時人材育成に集中的に取り組むため、藍青会(のちに御書研究会)というグループが結成されていました。一年目は東京、次の年は東北、そして更に翌年は北海道を私は担当し、月に一回、日蓮大聖人の御書講義をしながら、自分なりの激励に力を注いだものです。先生からお預かりした〝未来からの使者〟に精一杯接触することが大いなる喜びだったのです。

男女合わせてそれぞれ100人(東京)から30人(東北、北海道)のメンバー。その中から広宣流布に各地で汗を流す庶民のリーダーが次々と誕生しています。また、大新聞社の編集局長(東北)、衆議院議員(北海道)、大学教授、高級官僚、医師や弁護士(いずれも東京)など、各界で活躍する人材も。先生と彼や彼女らとの絆を強めるための補助線の役割を果たせたことは、私の青春の証であり密やかな誇りとなっています。

一方、男子部活動も、中野区北部・野方方面を主戦場として、真剣に熱心に取り組みました。野方地域は東北に哲学堂、南に新井薬師などといった名所旧跡を抱えた、下町と住宅街の混在したところです。当時、車の免許を取得してなかった私は、JRや西武線を乗り継いで歩いたり、後輩の運転する車で西に東に走りました。地方から出てきて、苦労しながら頑張る仲間たちを激励し続けました。

 

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時代を画した共産党との「憲法論争」(24)

これまで述べた経緯の後に突然、日本共産党が公明党に対して、「公明党への公開質問状」なるものを、一方的に提出してきました。昭和48年(1973年)12月17日のことです。25問からなるものでした。これに対して、公明党は、翌昭和49年(1974年)12月8日に、全てに回答。さらに、同年6月18日、7月4日に二つに分けたうえ、連続して日本共産党中央委員会に対して「公開質問状」(憲法三原理をめぐる日本共産党への公開質問状)として、70項目200余問を提出しました。しかし、これに対して共産党は正式回答を一切せず、ずーっと回答回避の状態を今に至るまで続けてきています。最初は喧嘩をふっかけてきていながら、あとは完全なる腰砕けです。[この辺りについては『日本共産党批判』(公明党機関紙局編)及び『公明党50年の歩み』(公明党史編纂委員会)に譲ります。]

この「公開質問状」の作成いっさいを陣頭指揮し、実際にペンを握って書きまくったのは市川雄一主幹と、辺見弘さんらごく少数の先輩だけでした。入社5年程度の私なんかにはもちろん出る幕はなく、固唾を飲むように遠巻きにして見ていただけです。この憲法をめぐる問題の共産党への公明党の指摘は、のちに、東西両ドイツの壁の崩壊、ソ連邦の瓦解などをもたらした社会・共産主義の破綻を見るにつけ、先鞭をつけたものとして燦然と輝いています。

市川主幹はのちに、あの一年ほどの壮絶な闘いを振り返って  、共産党の知的欺瞞と、目を覆うばかりの知的退廃ぶりに全く驚いたと語っていました。「当時、共産党みずからが、マルクスやレーニンの著作を引用して熱っぽく訴えていたマルクス・レーニン主義の原則や革命路線は、いまどういう位置付けになっているのかまったくわからない。本を絶版にしたからといって、本は消えてもそこに書かれた内容が消えたわけではあるまい。間違っていたから捨てたのか。まさかそうではあるまい」(「第三文明」04年9月号)とも。

一方、多くの識者が極めて印象深い感想を述べていましたので、代表的なものの一部を紹介します。(肩書きは当時のものです)

「(この質問状を読んで得た私の印象は)従来日本の政党でこれだけ詳細かつ論理的に日本共産党を批判した党があるだろうかというものであった。感情的な反共主義に走らず、相手の資料を豊富に用いて相手の論理的矛盾を鋭く追求するというのが論争の正道であるが、この質問状はまさしくこの論争ルールに忠実に従っている」ー志水速雄 東京外語大助教授

「自分のもっていないものを、いくら約束しても、権力の座についてたとき、これを人民に頒け与えることはできない。だからこの質問状の質問に対しても、肝心なことに答えず、反共とか自民党の手先とか得意の悪罵と一方的なレッテル張りとで応じる以外にはないにではなかろうか」ー作家・杉浦民平

「公明党は、まさしくこうした国民多数が抱いている疑問点を、国民に代わって公然と、かつ徹底的に明るみに出したのである。ここに公明党の、公党としての責任感が認められるのである」ー勝田吉太郎京都大学教授

このほか、佐藤昇氏(岐阜経済大教授)や安東仁兵衛氏(「現代の理論」編集長)ら社会主義の名だたる論客たちがこぞって、共産党の敗北ぶりと公明党の勝利を褒めそやしてくれていたことが脳裏に蘇ります。

他方、この年、昭和49年1月9日に慶大会総会が開かれていました。あの日から、6年ほどが経っていました。会場は民主音楽協会(当時は大久保にあった)でした。これには幅広い卒業生からなる「三色旗の会」も代表が合流して参加し、私も。池田先生はご長男の博正さんをお連れになって出席してくださいました。慶應義塾創設者としての福沢諭吉を心から尊敬していると言われたのが強く印象に残っています。

【昭和49年  3月ルパング島で小野田寛郎さん発見 8月 三菱重工ビル爆破事件  ニクソン辞任  フォード昇任  12月 田中首相辞任、三木武夫内閣へ】

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中道革新連合政権構想への共産党の攻撃(23)

「先日こんな体験を聞いたのよ」との明るい切りだし。参加者に優しい口調で信仰体験のすごさを語りかける柏原ヤスさん。本部幹部会などで、全国婦人部長だったこの人と、必ず話の中に自分の読んだ本について語り、そこから広布の展望を開くヒントを与えてくれた市川雄一さん。今では故人となってしまったこの二人の話に、とりわけ感動することが多かった。信仰体験と読書。高等部担当幹部時代に、この二つを車の両輪として自分を励まし、後輩たちをも激励したものです。

この頃、日本の政治は、自民党に変わりうる勢力を野党間でどう作るかという課題が、選挙協力などを巡って取り沙汰されてきていました。昭和39年(1964年)に結党され、昭和42年には衆議院に進出していた公明党は、社会、民社、共産党の野党三党それぞれと独自の関係を模索していました。そのうち、日本共産党は、各地の現場で、選挙のたびに公明党候補者のポスターへの嫌がらせから始まって、政策実績の横取りとか、様々な軋轢を公明党との間で起こしていました。

そうしたことを背景に、昭和48年(1973年)9月18日、19日に共産党の機関紙「赤旗」が公明党批判の論文を掲載しました。「公明党大会が残した『疑惑』ー問われるその革新性」というものです。ここでいう公明党大会とは、第11回党全国大会のこと。「中道革新連合政権構想の提言」というものをそこで決定していました。提言のポイントは、現日本国憲法の三原理(①国民主権主義②基本的人権の保障③恒久〔絶対〕平和主義)を将来にわたって、革新連合政権の基盤にすべきだというものでした。

さらに、共産党は「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」というものを出し、政権共闘の前提条件には、憲法問題などで先行きのことをいっさい国民に約束しないで、まずは政権につこうではないかと提案してきたのです。これはきわめておかしなことです。共産党は、本来の目標として、現憲法を変え、今のものとは根本的に違う国家機構、制度を作り、日本を「人民共和国」に変えるとの絶対的方針を決めており、党綱領上にも明記していたからです。

いつ、その憲法を改変するかは、民族民主統一戦線政府が軍隊、警察、裁判所、監獄などの国家暴力装置をはじめとする国家権力を実質的に握った時だとしていました。そこへ新たに提案してきた「民主連合政府」というものは、その憲法を改変する民族民主統一戦線政府の成立を「促進するため」の過渡的な政府とすると、明確に位置付けてきたのです。冗談じゃあありません。革新連合政権というものを一政党の都合で決められてはたまったものではないのです。

公明党は公明新聞紙上で、反論することになりました。10月1日、2日の両日付けで、「共産党は『政権共闘』で憲法問題を回避するな」とのタイトルのもと、共産党への批判を展開しました。憲法問題という国民の関心が一番強い問題で、先ゆきのことを約束しないまま、ともかく政権につくというはおかしいではないか、と。当時の公明新聞編集室は俄かに活気を帯び、慌ただしい雰囲気が漂ってきました。

 

 

 

 

 

 

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「中野兄弟会」で〝30年後の目標〟を決意 (22)

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降りしきる大雨の中での結婚式 (21)

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入社3年が経つまでは、結婚なんか… (20)

入社3年間は記者としての基本を身につけることに全力を集中せよー市川主幹の私たち新入社員への厳しい指導でした。そんな中で、とりわけ印象深かったのは、文章における「書き出しの研究」という話です。書き出しの特色として「最初から読者に興味をもたせること、全体がスラスラと効果的に書き出せる糸口であること、主題の方向を暗示していること」などを挙げて、文章の書き方の手ほどきをしてくれました。ご自身が28歳の時に『編集研究』なる小冊子に書かれた以下の文章が、見事な実例です。

ーロシアの文豪・トルストイも「アンナ・カレニナ」の書き出しには、まったく手を焼いていた。こんな逸話がある。彼が書き出しに苦しんでいたころ、彼の育ての親ともいうべき大おばが死の床についた。(中略)  かくて「アンナ・カレニナ」の書き出しの一句ーオブロンスキイの家庭は何もかもがめちゃくちゃであったーが決まった。

グイグイ惹きつけられる書き出しです。この文章の副題には、「会社の受け付けが〝企業の顔〟なら 書き出しは〝文章の顔〟といえる」とあります。早稲田大学を出た後、日経広告社を経て、聖教新聞社に転職。29歳で公明新聞の編集長に抜擢されるまでのわずかな期間に、文字通り刻苦勉励の限りを尽くしての到達域です。また、それから3年後には『週刊言論』誌上に[言論講座]なる連載を書いています。「やさしい文章教室」とのタイトルで5回にわたって。①書くことによって読書と思索が完成②借りものの文章と自分の文章③模倣から自分の文章へ④主題の決定から構想を練るまで⑤文章はしめくくりが大切ー激務のさなかに書き残された大いなる遺産です。

「入社3年」といえば、もう一つの忘れられない市川語録は、「入社3年は結婚するな」です。言われずとも、相手もいないし、当時、結婚は考えていませんでした。だいたいからして、給料が初任給26000円。帝人に就職した親友の志村 勝之など、ほぼ50000円とのことでしたから、倍です。これでは私の方は、したくても出来ません。遠い昔に初恋の人がいましたが、高校卒業の時点で夢は破れていました。その後は人並みに好きになった人は何人かいて、それなりに付き合ったのですが、何しろ肺結核を病みましたので、それどころではなくなり、付き合うのはやめました。女性と別れるのは、会わなければ自然消滅する、とのどこかから仕入れた鉄則を遵守したのです。

そこへ、社会人になって職場の最高責任者から事あるごとに、3年間はお預けと言われると、従わざるを得ません。何事もないまま、2年が経ち、やがて3年という頃になりました。ある時、聖教新聞外報部の先輩・外川進さんから声をかけられました。この人は東京外語大出身のクレバーな人で、国会の中で仕事で一緒になる機会が幾度かあったのです。「君、付き合ってる人はいる?」「いいえ、今は特に」「そうか、じゃあ、いい娘がいるから一度紹介するよ」となりました。胸騒ぎがしました。物事はタイミングです。大先輩の〝お達し〟を守った頃合いの時に、良き先輩からの声がかり。約束の日が待ち遠しかったのはいうまでもありません。

港区青山一丁目の交差点の角にあるビルの二階。指定された喫茶店で待っているところに、先輩に連れられて入ってきて、前の椅子に座った女性を一目見て、もう本当に驚きました。大袈裟に言えば驚天動地とはこのことです。

【昭和47年1月 ⚫︎日米繊維協定  ⚫︎グアム島で元日本兵 横井庄一さん発見  2月 ⚫︎米ニクソン大統領訪中 ⚫︎連合赤軍  浅間山荘事件 5月 沖縄の日本復帰  7月  佐藤栄作内閣から田中角栄内閣へ 9月 田中首相訪中 日中共同声明(国交正常化)】

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日中国交回復前夜に公園で徹夜で議論 (19)

【昭和46年  4月  大阪府で革新系知事誕生。8月 米、ドルと金の交換停止(各国、変動相場制へ)  9月 天皇と皇后、初の訪欧。10月 国連総会、中国招請、台湾追放案可決。12月 10カ国蔵相会議で円の大幅切り上げ  1ドル308円に】

昭和46年(1971年)は日本と中国の間における国交回復を願う空気が大きく高まってきていました。私は大学時代に中嶋嶺雄、永井陽之助両講師から現代中国論や現代政治学の講義を受ける一方、池田先生の昭和43年(1968年)における学生部総会での「中国問題」をめぐる講演を聞いて、中国や米国への関心を強く持つに至っていました。国際政治の動向について解説する本を片っ端から読み漁り、国会における外交・安保論戦にも注目する日々が続いていたのです。

そんななか、公明党の訪中団が中国に行き、周恩来総理と日中関係で議論を重ねる場面がありました。野党外交の先駆的展開として注目を集めましたが、団員の一人として参加された市川雄一主幹から直接、「訪問談」を聞く機会がありました。夏のある夜のこと。党本部から少し東に離れたところに公園があったのですが、そこに市川主幹と私と新田健吉さんの3人で行きました。初めて訪れた中国という国について、市川さんはあれこれ語ってくれたのです。

中国文化大革命を礼賛する気運が強かった当時の日本で、批判の論陣をほぼ一人で張っておられた中嶋嶺雄先生の影響をモロに受けていた私は、生意気にも「対中懐疑論」とでもいうべきものを受け売りしてしまいました。市川さんはそれはそれで聴いてくれながらも、あらゆる意味で〝大きい中国〟をつぶさに丁寧に描いて見せてくれました。今となっては、その中身の詳細は忘却の彼方ですが、飲まず食わずで立ったままの3人での会話。公園の電灯の明かりのもとでのシルエットがくっきりと浮き上がってきます。気がついたら白々と夜が明けようとしていました。20代の若者の書生論にトコトン付き合ってくれた大先輩の熱い思いが蘇ってきます。この時を契機に私は市川さんを一段と尊敬するようになりました。

その後、政治部から日曜版編集部に移動しました。文化欄を担当し、学者・文化人に原稿を依頼する機会が増えました。「公明党の機関紙?そんなところに書かないよ」とのっけから断られたり、頼んだ原稿を取りに伺うと、「ん?公明新聞?神戸新聞かと思っていた」と、某大学教授の〝恐るべき反応〟に驚愕したことも。勿論快く引き受けてくれた人が大半ですが、誰にどういうテーマで書いてもらうか、で散々悩みました。画家に絵でなく、文章を書いて貰う連続企画は成功談のケースです。失敗談では、頂いた原稿を紛失するという恥ずべきこともやってしまいました。現在の電子化の時代では考えられないことですが、その時ばかりは身も心も凍えました。

 

 

 

 

 

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新米記者と先輩、仲間たち (18)

【昭和45年 2月 核兵器拡散防止条約  3月 新日本製鉄設立  赤軍派学生によるよど号ハイジャック  7月 教科書裁判に検定違憲判決 光化学スモッグ問題化】

公明新聞の新米記者としてスタートした頃、市川主幹は、記者しての人間の力量が紙面に表れる。小手先の技術よりも人間として成長することだ、と繰り返していました。「日頃の闘いの中で、読書し、思索し、豊かな知性と情操を養うことが、とりもなおさず、紙面に反映するんだ」との指導を朝礼で聞き、大いに刺激を受けました。一方、机の上は綺麗に整理せよ、帰社の際には机上には何も置かない様にと、事細かな注意をしていたことが印象深く残っています。ただ、殆ど誰の机も変わらずに雑然としたままでした。

先輩にも尊敬すべき凄い記者は橋本立明、辺見弘、篠塚安彦、伊藤東男さん始め、多勢いましたが、少し遅れて入ってきた新田健吉、太田昭宏、井上義久さんらは入社の時から光り輝いていました。とくに、太田さんは会った瞬間に、この男は将来公明党を背負って立つに違いないと思わせるオーラがありました。こういう連中と切磋琢磨した入社3年ほどはかけがえのない、大学時代に続く私の第二の青春でした。

住まいは、入社と同時にいわゆる〝社員寮〟です。当時は今からは考えられないことですが、学会本部や聖教新聞の人達、いわゆる本部職員と一緒でした。最初は文京寮、それから第二富士寮、南元町寮と三回ほどかわりました。寮生活はそれぞれに思い出深いものがありますが、学会の職員全体の寮祭で、南元町寮として〝一本刀土俵入り〟を出しものとして提案、元京大相撲部の太田昭宏君に相撲取りの駒形茂兵衛役を演じてもらったのはグッドアイデアでした。あの頃の彼は人に乗せられ、演技することが上手かったと感心します。

昭和45年で忘れられないのは、いわゆる「言論問題」が発生したことです。国会の場でも、これを取り上げて、追及しようとする輩がいました。予定された委員会の部屋に予め赴き、一人だけで口の中でしばし唱題したものです。ことの本質は過剰な自己防衛反応のなせる業だったと思いますが、このことを契機に、創価学会と公明党の「政教一致」を糾弾する動きが強まってきたのです。この結果、「政教分離」が改めて鮮明になされることとなりましたが、この問題の推移を国会で見つめつつ、敵と味方を峻別することの大事さを実感した次第です。

もう一つ、印象深いのは三島由紀夫割腹自殺事件です。昭和45年11月25日。忘れもしないのは、私の25歳の誕生日の前日だったからです。市ヶ谷の防衛庁のバルコニーで、自衛隊員を前に、軍服着用の鉢巻き姿でクーデター決起を呼びかける三島由紀夫の姿は、衝撃でした。「狂気の果てに」と片付けるのは簡単でしたが、人生の長さとその中身、とくに死について、否応無く考えさせられました。「老醜を恐れ肉体的頂点での自死を切腹という形で選んだ」とされる三島の壮絶な生と死は、今に至るまで、私にとって大いなる課題であり続けています。

 

 

 

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市川雄一主幹ら猛者との出会い (17)

公明新聞に入って、最初の3ヶ月ほどは印刷工場やら、社会部で新入社員として研修を受けました。印象深かったのは、十数行の文章を読んで、その見出しを考える訓練でした。国語だけは自信があった私にとって、何を言わんとする文章かを的確に掴み、そのエキスを抽出、7-8文字にするのは大変に面白く楽しい経験です。加えて新聞の印刷工場でのインクの匂いを嗅ぎながら、短い限られた時間で新聞の割り付け、整理をしたうえで、活字を大組みするという作業(当時)も嫌いではありませんでした。また、三多摩地域の稲城市に出かけて、米軍の多摩弾薬庫を取材したりしました。ほんの10行ちょっとくらいでしたが、自分の書いた初めての記事が翌朝の紙面を飾っているのを見て感激したものです。

職場の最高責任者は、市川雄一編集主幹です。尊敬とも恐れともとれる巨大な存在でした。私とは10歳違いですから、この頃弱冠34歳。創価学会における当時の役職は参謀室長。池田先生以外でこの立場についたたったひとりの人です。それだけで、いかに凄い男かわかろうというものです。この人のもと、私が入社した時の公明新聞は錚々たる先輩たちがいました。寺島秀幸、河合一、桜井良之助、土師進、松島淑、田端正廣、小宮貢、山本昭。残念ながら殆ど故人となってしまっていますが、こういう大先輩のもとにまた様々な「侍」たちがいて、まるで水滸伝の梁山泊のごとき日常が展開されていました。

ようやく配属が政治部に決まって、机を貰った時の嬉しかったこと。ところが「魔は天界に住む」とのたとえ通り、有頂天になっていた私を〝魔女の一撃〟が襲います。よせばいいのに、スティール製の重い机を一人で持ち上げたのです。その瞬間、激痛が腰に走りました。ギックリ腰です。痛くてすぐに立てずしばらくうずくまっていました。で、整形外科や鍼灸治療などに通う羽目に。ここから私の腰痛は持病になり、長く苦しむことになります。

政治部新米記者として国会に行って間もない頃のことです。赤絨毯の上を走り回っていました。いわゆる廊下トンビってやつです。一般紙の記者クラブからのジャラジャラと麻雀の牌をかき混ぜる音を聞きながら、物珍しげに衆議院や参議院のエレベーターを乗ったり、降りたりしていました。ある時、衆議院の院内二階で、つい急ぎ足で廊下の角を回ろうとした時に、数人の守衛さんと思しきひとに囲まれて歩く人に思わずぶつかりそうになりました。実はそれは、佐藤栄作総理大臣だったのです。私が時の権力に最も近づいた瞬間でした(笑)。

 

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両親との葛藤超えて、晴れて就職 (16)

勇気を奮い起こして、二人の友の勧めてくれるままに、U大先輩を訪ねたのは43年の暮れ近くでした。恐る恐る肺結核が治りましたので、公明新聞社入社をお願いしたいとの希望を述べました。「そうだったね。治したら言ってきなさいって。分かった」との返事。しばらくして無事に念願の就職が叶ったのです。

明けて44年4月。一般採用の人とは約二週間ほど遅れて16日に晴れて入社することになりました。ですが、実はこの日を迎えるまでに、まだ一波乱あったのです。

入社に際して親の承諾書が必要ということで、父に印鑑を捺して貰うべく実家に帰った時のことです。承諾書を前に、父は「ホンマにええんか。宗教団体の作った政党。しかもその機関紙局なんかに入って。記者するんか。まともな給料貰えるんかい。男は金がないのは首がないのと同じやぞ」ー銀行員一筋の父にとって、政党機関紙の記者という職業なんか想像の外で、およそ極道みたいなものという認識だったのです。長い沈黙が続きました。判こをなかなかついてくれないのです。じっと頭を垂れたまま、数分間。暫くすると、ぽたっと涙が承諾書の上に落ちました。渋々の涙ながらの承諾でした。

一方、母といえば、私が病気が治って、公明新聞に入ると聞いて、喜んでくれると思いきや、「そんなとこ入ったかて、人に言われへんやん」と見栄を張るのです。「新聞記者いうても、朝日や毎日、いや神戸でもええんやけどなあ」「いや、公明新聞かてジャーナリストの端くれや」「そんなんいうんやったら、NHKのアナウンサーぐらいにならんと」ー就職先が決まらずに困ってたのに、この言いようはない。カチンときましたが、仕方ありません。「そんなに言いとうなかったら、『潮』って雑誌の記者になったって言うとき。当たらずといえども遠からずや」という始末でした。ただ、母はその後私の就職に観念したのか、創価学会に入会することを決意してくれました。これで、二人の姉、弟につづき、父を除く家族全員を折伏することができました。

このことを先生にご報告しましたところ、「良かった。偉いね」と言っていただき、入社祝いにと、なんとマルマンハーレーガスライターをいただいたのです。嬉しいとともに、少々驚きました。肺結核が治ったばかりの人間にライターとは、タバコ吸えってことだろうかと、しばし悩みました。ユーモア溢れる先生のご配慮だ、意味があるに違いない、と考えた結果、これは「いいライターになって、いい原稿をかくことに命を燃やせ」との理解をすることにしました。

【昭和44年1月  東大安田講堂に機動隊出動 3月東大 東京教育大4学部入試中止。4月沖縄デー各地で集会、デモ。7月アポロ11号人類初の月面着陸に成功。8月大学法案強行採決。11月  佐藤・ニクソン会談(沖縄返還・安保条約堅持)】

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