ポートフォリオワーカーの楽しさを実感する日々

異なった業種の人たちが集まっての意見交換はなかなか楽しいものです。月に一回のペースで友人と始めたこの催しはすでに50回を超えました。引退したあとの私を友人が心配してくれて、交流の場を提供してくれたことがきっかけです。毎回10人ほどの仲間の集いは様々な〝化学反応〟を伴い、友人の友人は皆友人とばかりに輪は大きく広がってきています。私は自身の「掟」として、一度呼んだ人は二回目からは声をかけないことにしています。でないと、同じ人と何度も会うことになってしまい、面白さが欠けてしまうからです■例えば、この8日にやった6月の例会では、一年前に大阪で出会ったH産業の幹部に声をかけました。彼は、以前務めていた会社の同僚の女性を誘ってきてくれました。彼女は画家であり、デザイナーでもある多彩な才能を持った魅力な人でした。また、もう一人は兵庫県の中堅職員。彼は私が付き合った某中央官庁の幹部官僚の息子。親父さんと話していて、その存在を知ることになって、声をかけたしだい。なかなかガッツのある青年でした。一方、友人も自分の友達を呼んでくれます。今回は、建設会社の幹部や、老健施設の経営者。またNPO法人で斬新な活動を展開する女性といった具合。この人たちは新たに私の友人になるわけです■こんな感じで毎月3〜4人の新たな友を呼び、この場で新たに2人、3人と友人関係を結びます。ワインを飲みながらわいわいガヤガヤは実に楽しいものです。参加した友たちは、こんな楽しい会とは知らなかったと異口同音に言います。この背景は、なんといっても場所に恵まれていること。友人の持つマンションの事務所風の大きな部屋だという点です。これが普通のお店だったら、時間とお金を気にしないといけないが、全くお構い無しとは有り難い限りです。尤も、食べ物は自前で、持ち込み。それを皆でシェアするのです。通常は揚げ物やパン類が多いが、たまにはアッと驚く珍しいものにも出くわします■こういう出会いの場を持ちながらの第三の人生は味わい深いものです。今話題の『100年時代の人生戦略』にいう、3ステージ型の仕事人生と私自身が決別しつつあることを実感します。3ステージ型とは、「教育→仕事→引退」というもので、今までの日本社会の通常パターンです。これからの〝人生100年時代〝という「LIFE SHIFT」の時代には、それとは違った生き方が求められています。例えば、エクスプローラー(探検者)、インディペンデント・プロデューサー(独立生産者)、ポートフォリオ・ワーカー(異業種同時並行従業者)などといった多彩なステージを経験することでしょうか。私は今7つほどの異業種の団体、企業と関わりながら顧問や理事をしています。これって、まさに、ポートフォリオ・ワーカーでしょう。そして同時に様々な異業種の人と交流しながら、仕事への感覚を磨いているわけで、実に楽しいことです。(2018-6-10)

 

 

 

 

 

 

 

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奥山保全へ、マロニエの苗木を植樹して

奥山に分け入るって素晴らしい体験です。私は議員を引退してからしばらくして、公益財団法人「奥山保全トラスト」の理事を務るようになりましたが、時々この会のメンバーと共に、奥山ツアーに参加します。一昨年は静岡県の佐久間トラスト地に行きました。5月27日の日曜日は、播州戸倉スノウパークの裏山にあるトラスト地を見たあと、栃の木の苗木を植樹してきました■私の家から車で北上すること1時間あまり。宍粟市波賀町にある「原りんご園」で、前日から来ていた今回のツアー参加の皆さんと合流しました。ここは、かねて一般社団法人「熊森協会」との連携のもと、熊の保護や奥山保全に尽力された幸福さんが取り仕切っておられた重要な場所です。大阪や名古屋から参加された皆さんは、いかに、広葉樹林が大事かということを改めて現地で学習する喜びを感じておられました■そこから30分さらに奥に行きますと、戸倉スノウパークがあります。今回、私は初めて妻を伴いました。というより、車の運転を差し止められている(運転が下手な故)ので、仕方なく彼女は私を運ぶために参加してくれたのです。それともう一人、5月12日の姫路城薪能の場で知り合ったフランス人のペルーさんを誘いました。彼は姫路市安富町に6年ほど前から住むマイクロソフト社の幹部社員で、在日歴は長く、奥さんは日本人ですから、日本語も達者です。森が大好きで、私のホームページを見て大いなる興味を持ってくれ、二つ返事でこのツアーに参加してくれました■「奥山保全トラスト」のツアーに参加するたびにあらためて思うことは、こうした広大な土地を購入するに際して協力してくださる篤志家の存在です。杉やヒノキの針葉樹林でなく、ブナやナラの広葉樹林を植えることで森の保水力を高めることの大事さを頭でわかっていても、それだけでは何にもなりません。自然を保護することの大事さをわかっていても、放置しているままではダメなんです。この会の凄いところは、せっせと寄付をしてくださる無名の方々の善意に支えられているということです。財力のない私などはせめてこの運動の展開にお役に立つために、行政各方面の理解を深めたいと思って来ましたが、日暮れて道遠しの感は否めません。今回、フランス語でマロニエと呼ぶ栃の木の苗木を、フランス人と一緒に植樹することで具体的な関わりができました。ペルーさんは、この地に最も近いところに住んでるだけに、時々訪れ成長を確認したいと張り切っています。(2018-6-1)

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零細市場の生き残り策はあるか

私が顧問をしているAKR共栄会の定期総会が、さる5月22日に大阪市内のホテルで開かれました。この会は、大阪、兵庫、京都の2府1県を中心に存在する小売市場に対して、共同仕入れ、共同輸送、共同保険を展開して、大手企業に対抗しようというものです。もう関わって20年になりますが、つくづく大事な試みだと自負しています。昔なら小ちゃな小売市場は、町のあちこちに見られたのですが、最近はどんどん潰れてしまっています■味のある店が姿を消すのは寂しい限りです。大手が資本力にものを言わせてのさばってくるので、小さな市場は助け合わないとひとたまりもありません。姫路でも私が選挙に出た30年ほど前に比べると、大きく様変わりしています。何とかせねばと、この会の傘下に入る市場を探してきました。幸い数年前から私の住む自治会内にある「新在家ニューセンター」という市場を新規参入させることができました。ここは今独自色を発揮しつつ頑張ってるのですが、なかなか苦戦しています■私のようなど素人がつべこべいってもらちがあかないのですが、やはり今の時代、ものを買っていただくには、工夫が必要でしょう。じっとお客が来るのを待っているだけではとても飛躍は望めません。高齢の消費者が多いので、そのためには宅配が必要ではないかとも思います。勿論、零細な企業にそこまでする力はないのですが、何とかしたいと思うのです。ちょうどそんな時に、今回の総会が終わった後の恒例の講演会では、宅配業界のウラオモテを知り抜いた方のお話を聞くことができました。元「味の素」に勤めていて、のちに東京海洋大学の客員教授になられた先生です。神戸灘生協、セブンイレブンの事業展開を通じてとても参考になる話をしてくれました■ここでのポイントは、結局消費者のニーズは個人の嗜好性に尽きるということでしょうか。大量生産、大量消費の時代から、個人それぞれに見合ったものへと消費者の期待するものは変化してきています。それを巧みにつかまえることが大事だと思われます。例えば、生協のやり方の向こうを張って、一人一人のニーズを予め掌握して、それを届けることができないかどうか。あるいは来店前に、店頭に用意できないかどうか。まだ決定打となるものは思いついていませんが、なんとか編み出して、地域に密着した市場の起死回生の手立てとしたいものと焦っています。(2018-5-31)

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公明党らしさはいつ見られるのかとの問いかけ

十六夜会と銘打っての毎月16日に開く高校同期(16回生)の連中との懇親会があり、神戸まで出かけました。話題はご多聞に漏れず健康のことから始まり、年金、働き方改革などとあれこれと拡散しましたが、私に対してはやはり政治の現状についての不満が向けられてきます。今回は安倍政権の「もり、かけ」問題対応について「いい加減にしろ」との意見があふれ出ました。安倍夫妻の振る舞いはどうみても庶民の感覚からは理解を超えているようです。執拗にこだわる野党への批判は勿論あるものの、第一義的には政府の失態を何とかしなければ、というものでした■公明党への注文は、一体いつまで安倍と付き合えば気がすむのだというものに集約されます。国会での質問も、あまりにも安倍首相に寄り添い過ぎていると非難されました。私にとってかわいい後輩たちが懸命に頑張ってるのを支援してやりたい思いは充分にあるのですが、いささか与党ズレが過ぎていないかとの指摘には苦慮せざるを得ません。先日の衆参の予算委での集中審議でも、某紙が識者の声として公明党質問への疑問を投げかけていましたが、当たっていると言わざるをえない印象を私も持ちました。「赤松が国会にいたら、もちっとはましな質問をするだろう」とか「安倍に痛烈な皮肉の一つや二つはかますだろうなあ」との声もあり、思わず悪乗りしそうになりました■またその翌日は地元で親しく付き合っている医師のM さんご夫婦と久しぶりに食事をしながら歓談しました。その際に「公明党は本来自民党と政権を組むに当たっては、内側から改革を進めるため、と言っていたはず」「一体今の場面で公明党は安倍さんや自民党をどう諫めているのですか」「改革とは名ばかりではないのですか」と真顔で突っ込んでこられました。「必ずその内には結果が出るはず」と言い返しはしましたが、「その内って、いつですか。一体いつになったら公明党らしさが見られるのですか」と追い打ちをかけられてしまいました。与党になって早いもので20年が経ちます。確かに現実政治に効力を発揮する建設的提言を盛り込んだ質問は合意形成に役立ちます。ただその一方で、政権を揺さぶるような本来の質問の醍醐味は見られなくなってしまいました■かつて私が公明新聞記者として国会を担当していた頃(昭和44年)は佐藤栄作首相でした。その後、私が初当選して政治家になった時(平成5年)の首相・宮澤喜一氏くらいまで、総理大臣という存在はそれなりに威厳もあり(例外は勿論ありましたが)、大げさに言えば質問者からの森羅万象のテーマに及ぶ問いかけに答えていたものです。それがいつの頃からか様変わりしてしまいました。小泉純一郎首相に至っては「俺がそんなことに答えられるわけがないだろう」と開き直る始末。変われば変わるものです。自民党もかつては「三角大福」といわれた時期に代表されるように、後継の人材が犇めいていました。今のような「安倍一強」といわれるようなリーダー不足が指摘される時代は稀だったのです。原因は、選挙制度から、時代そのものの変質などあれこれと指摘されましょうが、寂しいものです。自民党でいえば、私の大学後輩にあたる石破茂氏に反主流派としてもっと頑張ってもらいたいし、公明党にも政権与党内野党として、目の覚めるような活躍を望みたいと思うことしきりです。(2018・5・19)

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静寂と喧騒とー「薪能」と「ロック」連続鑑賞の妙

姫路城祭りが今年も11日から3日間、お城の周りを中心に繰り広げられました。このうち最終日は雨にたたられましたが、あとは好天気に。とはいうものの最近の異常ぎみ気象傾向もあって、いささか調子が狂ったことも否めません。特に第一日目の姫路城三の丸広場での薪能は寒かった。うっかり半袖のTシャツに軽い春向きのジャンパーを端折っただけだったゆえ、ともかく震えました。二日目は大手前ビルの地下のライブハウスでのロックコンサートに。前日の寒さがこたえたこともあり、スーツにネクタイ姿で。当然ながらその場には不釣り合い。見渡したところ私だけの場違いモードでした。ともあれ広々とした空間での静寂そのものの薪能鑑賞と、狭い地下室での喧噪そのもののロックコンサート体験。まさに両極端でしたが、その顛末のひとくさりを披露します■姫路城での薪能には、私は今回で三度目。年来の友人である高石佳知さん(骨粗鬆症と歯との関連研究で著名な歯科医)がこの催しの実行委員長でもあり、いつもお招きを頂いてきました。かつては真夏の8月に開催されていました。しかし暑すぎることから今のようにお城まつりの一環としてこの時期に開催されるようになりました。今年は姫路市北部の安富町に住む長田高、慶大以来の友人山本裕三 君を誘いました。かれはご近所に住む粋なフランス人夫婦(奥方は日本人)を一緒に連れてきました。国際交流。願うところです。そのフランス人男性に感想を訊くと「忙しい現代生活のなかで、時が止まったようにゆっくりとした雰囲気は実にいいですね」と優等生の答弁。ただし、突っ込むと「いやあ、よく眠れましたよ」と冗談っぽく。とても寒くて眠れなかったはず。げんに舞台上でシテが羽衣を羽織る場面で、彼も上着を羽織りだしたのには笑えました。加えて、静寂そのものの雰囲気の中で上空を舞っていた二羽のカラスが、演奏の合間に「かあー、かあー」と二度三度と啼いたのにも■一転、翌日は喧噪そのものの渦中に。そこは50人ほどで一杯。中野区に住むある後輩から、「姫路出身の樽本学さんが故郷で30数年ぶりにコンサートをやるので応援してあげて。私は行けないけれど中野から3人ほど行くから」と。中野は私の第三の故郷(一に姫路で、二に神戸)だけに、二つ返事で引き受けてしまいました。開会から二時間。主人公の樽本さんは吠えるがごとく歌い続ける(途中少し交替)ばかり。仲間の4人はドラム、ピアノ、ベース、ギターを弾き、叩きまくっていました。耳をつんざく大音響の連続には、辟易しなかったといえば嘘になります。なにしろ私はNHKで今放映中の「朝ドラ・半分青い」のすずめちゃんと同様に、耳が片方不自由なのです。オープン早々からの大音響に「これはやられる」と脅えました。このため演奏中は、ほぼずっと片方の健全な方の耳を手や指さきで抑え、音量を調整する羽目に。手拍子が強要(しないと悪い感じが)されたり、片手を挙げたりとか、「よいやさー」の祭りの掛け声をやれ、とか。私の人生におけるほぼ初の体験。珍しくも楽しく怖い体験でした■二日とも終了後に駅前にある行きつけの居酒屋に皆を誘って懇親会を。薪能の後は安富町の3人と。ロックの後は中野区の3人と。静と騒と、城の前の広々とした空間と狭いビルの地下の小部屋と。片やただひたすら寒い中を能を舞う人をじっと見つめるだけ。片や、ひたすら狂ったように歌い、叫び、踊る”いけいけロックシンガー”を見ながら、リズムを取りつつ身体を揺らしながら、時に叫び時に舞うがごとく。伝統芸術と現代音楽と。対照的な二つの試みに連続して接触してしまったわけです。「踊るあほうに見る阿呆」といいますように、同じことなら、ここは身体を動かす方でなければ、面白くはないかも。そういえば、お城祭りの二日目、大手前通りでは沢山の市民が踊りをしていました。老いも若きも男も女も皆お囃子に合わせて踊っていたのです。地下からあがって外に出てくると、もう踊りは終わっていましたが、あの「総踊り」の列に入るのが通常の人間の感性なのかもしれません。(2018・5・17=修正版)

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50年前の足跡を追って、”今再び”の旅に出る

今年のゴールデンウイークはみなさんいかが過ごされましたでしょうか。私は実にユニークで、意味深い二泊三日の信州旅をしてきました。それにはちょっぴりわけがあります。今からちょうど50年前に遡ります。昭和43年4月26日。人生の師匠との初の出会いをしました。22歳の春のことです。それから同年10月8日の二回目の出会いに至るまでの半年間は、私にとってゴールデンイヤーオブハーフ(黄金の半年間)でした。信仰生活を始めて3年にやがてなろうかという昭和42年12月、まさに青天の霹靂のように、医者から「肺結核につき一年入院の要あり」と宣告されたのです。闘病生活(親に内緒で下宿からの通院)を余儀なくされました。そのさなかに師と出会い、根源的な激励を受けることができたのです。まさに至福のひとときでした■「僕の人生も病魔との闘いであり それが転じて黄金の青春日記となった 君も頑張ってくれ 君自身のために 一切の未来のために」との揮毫を『若き日の日記』第二巻の裏表紙に認めて頂いたのは5月17日のことでした。この前後からのほぼ半年間というもの、まさに渾身の祈りを込めて唱題を重ねたものです。病を治すことは自分のためではない、この日蓮仏法の凄さを世界に証明するためだとの壮絶なまでの強い一念でした。その結果、夏の終りには「凄いわね。入院しないで治るなんて。よっぽどうちの薬が効いたのね」という慶応病院の看護師さんの言葉を聞くことが出来たのです。かつて肺結核で人生を棒にふる若者はあまたいました。私は幸いにもそうならずに済み、今に至るまであれこれと病に襲われはしましたが、なんとか逃げ切ってきています■そうした病との戦いを乗り切った大学4年の秋に、仲間たち8人と共に信州旅を実行することにしました。横浜の鶴見を出発点に、軽井沢から鬼押し出し、志賀高原、琵琶池、湯田中から長野、美鈴湖畔、松本、上高地、乗鞍岳などを巡った4泊5日の車による旅行でした。すべてテントを張っての野宿で、旅費は占めて5千円ぐらいだったと記憶しています。鬼押し出しの草原で皆でシートを敷いて勤行をした時に、遠くから年老いたおばあさんと思しき人が手を合わせて通り過ぎて行かれたことや、バスの中での唱題する姿に行きかう車からの不思議そうな眼差しなどが思い出されます。大正池で枯れ木にぶら下がったり、温泉宿(湯に入るだけ)での些細ないたずらなど、若さゆえの向こう見ずの旅でした。そのメンバーから、後に外交官、大学教授(経済学者)、ジャーナリスト(某テレビ局記者を経て幹部)、政治家(衆議院議員、市議会議員)、証券アナリスト、会社社長、地方公務員、団体役員などが誕生しました。その旅ではお互いの成長を誓い合ったものですが、今から振り返ると見事に結果をだしたといえます■それから50年。今年は大きな節目を迎えました。慶應義塾は卒業から半世紀を経た卒業生たちを祝って、その時の一年生の入学式に招いてくれることになっています。昭和44年に卒業した私たちはその式典を明年に控えているわけですが、かつて信州旅に挑んだみんなで「今再びの旅」に行くことを企画しました。残念ながら種々の都合で参加できないものが4人でてしまいました。結局5人で、50年目の旅をしました。二泊三日。新幹線や在来線、路線バス、ジャンボタクシーの乗り継ぎで、鬼押し出しから上高地を経て飛騨高山から帰って来るという駆け足旅行でした。当時映した記念写真やら日記を持ち寄っての旅は何とも言えぬ懐かしいものでした。我々戦後世代の在り様をめぐっては、戦後史における少なからぬ罪があります。難しいことを言いだせばキリがありません。ここはしばらくそれを措いて、ともあれ師との誓いを果たし、無事に歳をとってきたことを祝いあいました。そして人生総仕上げの闘い(私個人はこれを連続革命と名付けていますが)に向けての新たな出発をしたのです。それは50年前が何になるかを目指したとするのなら、今度は、何をなしえたかを目指すものであると銘記して。(2018・5・6)

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起業を目指す元気な若者たちとの出会い

いい大学を出て、潰れそうにない大きい会社に入るーひと時代前の若者の志向はこれだった。いや、ふた時代ももっと前のことかもしれない。いわゆる「親方日の丸」 的傾向に支配されていたのは。今やそうした憧れは全くといっていいほど見いだせない。かつての就職先の人気上位にあった銀行もメディアも今では斜陽産業。大きい企業だからいいということはなさそうだ。いやそれをいうなら国家官僚も弁護士業も歯科医も憧れの職業とは言い難くなってきている。そんな状況に呼応して新たな会社や業種を起こすという「起業」が若者たちの関心事であるようだ■先日、知人のNさんが主宰する、私にとってはなかなか珍しい会合(「コモンズくつろぎBAR」)に出席した。起業を目指す若い人たちが集まるので、何人か紹介したいので来ないかと誘われたのである。Nさん自身がまたユニークだ。事務所のシェア化を進めたり、モノを寄付する仕組みを作ったり、古民家活用を展開するなど旧来的な思考から逸脱した事業運営に幅広く取り組む女性だ。かねて私が親しくしているビジネスファーム研究所のKさんとはまた一味違う。今回の会合のお目当て、というか人寄せパンダ役は、渋沢健さん。「金融と社会課題の解決をつなぐ投信会社の会長」との見出しで、つい先日朝日新聞の「ひと」欄で紹介されたばかりの人である。ちょうど新聞にでた翌日にお出会いした。コモンズ投信株式会社の会長であるが、実は日本資本主義の父とうたわれる、あの渋沢栄一の高孫にあたる■社会全体にいま横たわる課題解決に向かって立ち上がる人々のために、必要な資金を循環させる流れを作ったという。毎年10月には社会起業家に事業内容と思いを語らせるフォーラムを開催している。また、成長のための資金を循環させ、利益を追求する営利活動とNPO やNGOなどが担う非営利活動をつないでいこうとする試みにも挑戦している。画期的な取り組みをされるひとにしては極めて穏やかで静かな雰囲気を湛えた好感度抜群の紳士だった。いつもながら一方的に喋ってしまう癖のある私の話を、しっかりと受け止めて頂いた。楽しい会話をすることができたが、早速数日後には渋沢さんの著名な「シブサワレター」なるものがメールで届いた。そこには、長期投資とは「未来を信じる力」です、との言葉が添えられていた■渋沢さんのお話の後で、少なからぬ若者たちと名刺交換したり、会話を交わしたが、なかでもS君という25歳の青年は実にパワフルで魅力的であった。台湾出身の整形外科医の父と歯科医の母のもとに京都で生まれた日本人。この3月に大阪医科大を卒業したばかりだが、予防医療普及協会の理事や医療ベンチャー協会の事務局の仕事もしながら、株式会社の代表取締役も務めるという。それでいて、名古屋の病院で勤務医をしているとか。まさに正体不明の”怪人”である。「これ読んでください」と『ロハス・メディカル』なる小冊子を差し出されたので、見ると、元参議院議員で医師の梅村聡さんと彼との対談「あの人に会いたい」が掲載されていた。その肩書には「チュージング・ワイズリー・ジャパン発起人」とある。いやはや驚いた。あれもこれもに首を突っ込んでいるエネルギッシュそのものの若者だ。これから長い付き合いになりそうな予感がする。(2018・4・29)

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空白区なくした候補者と支援者のあつい共闘ー神河町議選快勝を喜ぶ

兵庫県神崎郡神河町は、姫路からJR播但線に乗って約40分ほど北上すると寺前駅に到着しますが、このあたり一帯の森林に囲まれた田園地帯にあります。北に隣接する生野峠を越えるとそこはもう但馬地域。神河町は旧大河内町と神崎町が合併してできた人口14000人ほどの町です。数年前に話題になった増田寛也元総務相による『地方消滅』という本において、2040年には「消滅する可能性が高い」523自治体の一つに挙げられています。私が現役のころには大河内町には中島さんというベテラン町議がいましたが、この人が引退し、二町が合併してからというものずっと公明党所属の町議は不在でした■兵庫県下で唯一の公明党議員がいない町ということで、周辺地域の議員がカバーするとはいうものの、支持者の皆さんは何かと悔しい思いをしてきました。この地域に今回の町議会選挙(22日投票)で初めて候補者を擁立することになり、昨日の開票の結果、新人の小島義次さんが549票を獲得して5位で初当選(候補者16人)しました。投票率が79%を超え、新人が6人も挑戦する中での激戦を勝ち抜いたことは特筆に値します。定数12で政党公認は一人だけということも注目されましょう。農村部では無所属が殆どで公明党を名乗ることは何かと障害があることも否めません。ここでの勝利はなんといっても候補者の人柄であり、この地域における人としての足跡だと思われます■小島さんとは、私が初めて挑戦したころから交流があり、何かと意見交換をしてまいりました。小学校の教員を長くされ、最終的には校長職に。地域の皆さんに尊敬され愛される存在であった人で、私も畏敬の思いを抱いてきました。町議候補の推薦を受けて挑戦されると聞いて、電話をしたところ、この歳(昭和25年生まれ)になって議員に出させていただくことになるとはまさに青天の霹靂だと言っておられたのが印象的でした。功なり名を遂げられて、普通なら隠居の身ですが、改めて地域の最前線に立たれることは大いなる決意が必要だったと思います。これからの活躍を大いに期待してやみません■人生の総仕上げの年齢で、生まれ育った地域で、庶民大衆の皆さんのために汗をかき、力を尽くすって凄いことですよね、といって激励をさせていただいたものです。実は投票日の前日の21日に朝来市和田山町で、但馬、丹波に在住する元公明党の市町議経験者の会がありました。私はその責任者として駆けつけましたが、集まった13人のメンバーは異口同音に議員引退後の日々を元気で明るく戦ってる喜びを語ってくれていました。私はそれぞれの皆さんとの共戦の日々を思い起こし、そのご家庭を訪問させていただいたことを懐かしく思いだしたものです。82歳の方を始め皆大先輩ですが、それぞれいや増してお元気なことは頼もしい限りです。神河町の小島さんは70歳を目前にして、これから議員活動をされるわけだから、先輩の自分たちも負けてはおられないと奮闘を誓いあいました。ともあれ「ひと」の大事さを改めて痛感した次第です。(2018・4・23)

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池上彰氏の底力ーBS5夜連続対談を見ての感想

池上彰という人ほど毎日の如くテレビに出ているひとはそうざらにはいない。勿論、いわゆるお笑い芸人と称される人を、連日連夜のごとくテレビでお見かけすることも少なくない。しかし、池上氏は2時間ほどもの長時間にわたって様々な時事問題を解説するといった登場の仕方で、その影響力たるや右に出る人はいないものとさえ思われる。その彼がBSの5局、しかも5夜連続で各界の売れっ子と対談するというので、ビデオに録ってみた。一人2時間だから合計10時間は、見るだけでもなかなか大変。このほどようやく見終えたので、そこで感じたことをざっと取り上げてみたい。その5人とは、橋田壽賀子、美輪明宏、磯田道史、久米宏、ビートたけしという面々■橋田壽賀子さんは『安楽死で死なせてください』というタイトルの本を出しており、それが対談のきっかけとなった。番組の中に実際に安楽死が認められている国での、「服毒自殺」の瞬間が放映され、かなり衝撃的だった。ただ、彼女は安楽死を本当に今望んでいるというよりも、元気で生きている間はいいが、まじかに死を意識するようになったら、安楽死を選択したいという程度のものであった。印象的であったのは、彼女が池上さんの書いた本よりもテレビでの話が面白いといっていたところ。本業は文筆家であると自負する彼としてはいささか不本意そうだったが無理もない。三輪明宏さんはご存知元丸山明宏。絶世の美男子として一世風靡した人だが、その一代記はあまり知られていない。この度の番組で知り、その波乱万丈ぶりは興味深かった。作家三島由紀夫の愛人だったのでは、ということはあまねく知られている。そこいらを訊かれてさらりとかわしておられたのは、味わい深いものがあった。昨今は黄色い長髪をたびかせて妖艶さを漂わせている。池上氏が最後の解説のところで三輪さんのことをしきりに「彼女は」といっていたが、「彼」ではないのかと気になった■磯田道史さんは、若い歴史学者。この人も昨今よくテレビに登場する。最初の頃はメガネをかけていたのに、今はかけていない。コンタクトなのだろう。もっと書くことに専念されたら、などと余計なことを考えてしまう。『陰謀の日本中世史』の著者・呉座勇一氏などと比較し、少々書くものが軽いと思うのは私だけだろうか。久米宏さんは我々世代の「テレビ世界」の寵児だった。池上さんとの掛け合いは、新旧のテレビ解説の裏舞台を垣間見せてくれ実に面白かった。ビートたけしさんは妙におとなしく感じられ、普段の凄みがなかったように思われる。昨今のトラブルが影響したのかと勘ぐったりもしたのだが■池上さんの様々な場所での講演は実に多彩で、ただただその知識の深さ、幅広さに驚く。現代世界史の講義や経済をめぐる解説など色々と彼の「作品」を私はCDで持っている。以前にノート片手にそれを観たり、聴いたりしたものだが、実に勉強になる。尤も、分量が多くただ見るだけでも大変である。先年、姫路にこられた時に、会場別室で数人の方々と一緒に色々とお話を伺う機会があった。何時ものテレビでの印象と全く変わらぬ気さくな印象で、好感が持てた。くだらないテレビが多いと思われる時代状況で一層この人の果たす役割はおおきいものと思われる。(2018・4・15修正)

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「都をどり」の歴史を通じて観光の極意を知る

私は現役時代にC型、B型肝炎に悩む人たちに様々な角度から接触してきました。党の肝炎対策プロジェクトチームに関わってきていたからです。引退してからも、地域で肝炎に悩む知人を肝炎訴訟弁護団に紹介したこともあって、より一層綿密な関係が生じています。一昨年からは、弁護士、患者、厚生労働省の担当者らと懇談の機会を得ることができました。のど元過ぎれば熱さ忘れる、といった例え通りに肝炎問題は問題山積ですが、風化しがちです。改めて自分の今の立場で支援をしなければならないと痛感したしだいです■先日はそのメンバーたちと、旧交を温めると共に、「都をどり」を観てきました。京都の春を彩るこの催しに参加したことは過去にもありますが、観光を通じて地域おこしに今関わっているものとして、あらためて大いに刺激を受けることが出来ました。京都は観光地の王者の風格があります。京都駅はもとより四条通りはじめ、外国人客で市内のどこもかしこも大賑わいでした。従来の舞台は祇園甲部歌舞練場。しかし、ここは震災対策に着手するため一昨年の10月から休館となっており、去年に続き今年も京都芸術大学春秋座に舞台を移しています。ここでも観客席の一角は外国人で埋められていました。六景仕立ての演舞は「続洛北名跡巡」と題して洛北の美しい山や川、ゆかしい寺庵をめぐるものでしたが、つくづくと京都の奥深さを満喫できました■六景のうちで、印象深かったのは三景の「盂蘭盆会五山の送り火」です。かつてテレビで詳細な「送り火」の風景を観たことがありますが、現地に足を運んだことはありません。尤も、祇園祭も葵祭も観たことがないのですから、何をかいわんやですが。借りたイヤホンを通じての解説を聞きながら観ていて、つくづく京都の文化のもつ味わいを感じました。これまで京都の祭りは人ばかり多くて、と尻込みしてきた自分を大いに恥じた次第です。四季折々の風景を現地で味わうべきであったな、と。四景では、「詩仙堂紅葉折枝」と題して秋の詩仙堂の紅葉が登場、これまた惹きつけられました。詩仙堂とは、江戸初期の漢詩人・石川丈山によって建てられた山荘です。この人は徳川家に仕えた武人ですが、後に退隠の志を持ち、仏門に入り、学問に精進し詩作に励みました。90歳で亡くなるまでの30年程を詩仙堂で過ごしたと言います■実は京都好きの友人に勧められて、先年にこの詩仙堂に行ったことがあります。紅葉の季節ではなかったこともあり、訪れる人は殆どなく、まことに静謐そのものでした。中国の漢や晋、唐、宋の詩人36人の肖像が4隅の壁に掲げらていたのが思い起こされます。庭に出て散策した際に、流れる水が竹筒を動かす”鹿威し”の音に驚いたほどでした。かつて、丸谷才一さんと山崎正和さんが対談本『日本の町』で「京都は文化を売り物にしているが、金沢は文化の中に生活している」と述べていたのを読み、なるほどなあと思ったものです。しかし、静寂そのものの詩仙堂にいると、改めて京都はいいと感じ入りました。恐らく秋に行っていると、また感想は違っていたかもしれませんが。ともあれ、兵庫・淡路島へのインバウンドに今取り組む身からすると、やはり文化を売り物に出来る地はいい、と思ってしまいます。(2018・4・10)

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