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【26】公明党の「自己開示力」の弱さへの懸念━━参院選の結果から(下)/7-23

 「比例票 自公激減」「自民 党勢衰え顕著」━━新聞の見出し、報道の流れを見て時代の転機を否が応でも感じる。と同時に、自民党と公明党が連れ立って下降線を辿っていることに複雑な思いを禁じ得ない。単独政権から連立政治が常態になって30年。一転、多党政治の時代に突入したかに見える。今、その時に公明党に求められるものは何か。

⚫︎公明党の比例区票の激減と党のイメージ

     今回の選挙の比例区における公明党の得票数は521万票強。3年前の前回の参議院選から100万票ほど減らし、改選7議席から4議席へと後退した。自民党は1281万票足らず。前回の1825万票から545万票ほど減票した。まるで公明党分の政党がまるごと消えてなくなったほどの激減である。しかも、自民党と公明党の間に位置する三つの政党の得票数が、762万(国民民主)、742万(参政党)、739万(立憲民主)と踵を接して並んでいる。そこから200万票ほど離れて下に位置するのが公明党だ(維新、共産はもっと下)。結党60年の区切り直後に起きたこの現実は、天の啓示と受け止めたい。

   比例区選挙制度は、参院選には1983年から、衆院選は1994年から導入された。この仕組みは、選挙区選挙と違って、より一層「政党そのもの」が問われる。中選挙区で公明党候補として初当選(1993年)していた僕が2度目の選挙(1996年)では新進党から、そして3度目は再び公明党から出た。以来4度当選したが、襷(タスキ)はいつも個人名ではなく、政党名だった。「候補者としての政党」を代表する個人候補者の自分が「素の個性」を出し辛いことのジレンマを幾たびも感じたものだ。

 比例区候補者として出て落選した多くの同志も、悔しさと惨めさの混交した複雑な感情を抱いて散ったに違いない。比例区の選挙戦略の有り様としては、名簿搭載者の個人的能力の総和としての「候補者公明党」をどう訴えるかの工夫が足りなかった。公明党の実績は見えても、個人候補者の個性との具体的な絡み合いが分からない。比例区公明党チームの構成員の「顔」をもっと前面に出すべきだろう。

⚫︎政党の「自己開示」の究極としての党代表選挙の実施

 今回の歴史的大敗を受けて内外から様々な総括が出されている。内側からのものとしては、伊佐進一前衆議院議員のサブチャンネルの「なぜ公明党は負けたのか 6つの提言」と松田明氏のWeb第三文明の「公明党再建への展望━━抜本的な変革を大胆に」の2つが注目される。伊佐氏のものを肯定的に踏まえた上で、松田氏が①公明党は顔が見えない②「支持拡大」は党が主体的にすべきなどと重要な問題提起をしていて興味深い。

 僕もお二人の主張に全面的に賛同した上で、若干違った角度で「自論」を述べたい。一つは、公明党は「自己開示力」をもっと持とう、ということであり、その手段としての党代表選挙の実施である。個人的人間関係でも秘めごとがある相手とは付き合いづらい。政党も自身を大きく開いて見せる度量を持たねば世間は安心しない。どこで決まった分からない経緯を経たトップの選考よりも、白昼堂々と互いの意見をぶつけ合う公明党代表選挙を見たいものだ。

 数年前のこと、僕の友人のある大学の教授が「日本の政党で最もよく分からない、暗いイメージを与えるのが公明党だ」と、ゼミ学生の意見が一致したと、きついことを伝えてくれた。今は違うと思いたいが、あまり自信はない。すでに伊佐氏の努力で公明党の「自己開示力」はそれなりに立証できた。あとひと息だ。彼が現役の時に今のようにやっていたら落ちなかったのにと思うのは早とちりだろうか。

 二つ目は、自民党と連立政権を組むのなら、相互の間で政策、ビジョン論争を本格的にすべきだということである。出自も育ちも違う政党が与党として一緒にやるのに、どういう国にして行こうとするのかが見えないのでは有権者も困る。いざとなったら戦争をしない方向に舵を切る政党だから、「公明党は危ない」と保守層からは見られている。一方、公明党の伝統的支持者は、そのケースで真逆の選択をする政党として「自民党は危ない」と見ている。これでは、呼吸の合うはずがない。もっと率直に、もっと丁寧に議論をして、合意を目指し、これも公開すべきだ。10年前の安保法制論議も肝心の自公論争が闇の中では、危ない。

⚫︎歴史の分岐点で問われる「若い世代」の選択

 最後に、「公明党の60年」を知っている者として、付言しておきたい。公明党の歴史はざっくりと前半30年と後半30年に分かれており、この2つの道は異なる政党のように違うということだ。若い世代は前半つまり20世紀の公明党をご存知ないだろうが、僕を含めて旧世代は21世紀も4分の1が過ぎた今もなお草創の思いが消えない。その思いの最たるものは、公明党は「自民党政治」つまり大衆から遊離した政治を終わらせるために出現した党だということである。

 前半30年では外側からつまり野党の立場で、自民党政治を変えようとした。それがうまく行かず、後半30年では内側から与党としてそれをやろうとした。それが失敗した。違う道に進む時だ。いや未だ継続中だ。これからも自民党を内側から変革する戦いをやる。この究極の選択の結論を出す時が今めぐってきている。僕を含む古い世代は前者を取るものが多い。若き世代よ。さあ、どうするか。答えを出せ。(2025-7-23)

 

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【25】公明党の選挙広報戦略の硬直性への懸念━━参院選の結果から(中)/7-22

 大激戦の末に兵庫は勝った。いや勝たせて貰った。一方で埼玉、神奈川、愛知の三選挙区が涙を呑んだからだ。全選挙区が勝って喜び合いたかったとの思いが日々募る。以下、兵庫選挙区の喜びを抑えて、全国的観点からあえて異形の私的感想を述べてみたい。

 ⚫︎選挙区の厳しさへの変化に臨機応変さが必要

 公明党的に今回の選挙で最大の激戦区とされたのは、高橋光男の兵庫選挙区であった。機関紙上で連日、異常と言わざるを得ないほど危機が叫ばれた。機関紙の宿命として全候補平等とはいかず、自ずから差をつけなくてはならない。7人の候補のうち、一頭抜いて兵庫に力が入っていたと見えた。その理由はひとえに定数が兵庫が3(他に福岡選挙区も)で、他は4(他に大阪も)であることが挙げられよう。しかし、ここに選挙戦略的に見て無視し得ないミスが潜む。

 選挙報道の枠組みの強弱が「定数の差」という一点に縛られることの危うさである。兵庫は泉房穂が無所属で出馬すると決めた段階から超有力視され、選挙戦に入るとダントツに票を集めるに違いないと見られてきた。過去3回にわたって自公維三党が独占してきた経緯が兵庫にはあるものの、「泉参戦」でその構図が崩れ、現職が弾き飛ばされることは必至と見られてきた。だが同時に、「泉暴風」は投票ラインの低下を招く。低い得票数でも当選可能との「異形予想図」が浮上してきていたのである。

 それを想定して臨機応変に対応する必要が党中央にはあった。選挙区の事情変化に支援の強弱を振り分けずして、何のための選対本部か。一旦決めたら、方針は変えてはならぬのか。戦略の有り様を云々する資格は当方にはない。だが、選挙期間中の報道如何は支援者の心理を大きく揺り動かす。難事中の難事に口挟む非礼を知りながら、敢えて苦情を提起したくなる。

 先の都議選でも超激戦区よりも、その周辺区が憂き目を見た。今回も同様に見える。公明党の選挙報道の陥穽ではないのか。パターン化しているなどとは言わない。だが、かえすがえすも惜しまれる。

⚫︎候補者の実績、存在感を取り巻く広報のバランス

  兵庫選挙区は蓋を開けると、案の定というべきか、泉が80万票を越える票を掻っ攫い、2位の高橋以下とは50万票もの差がついた。高橋の票は恐るべきことに20万票ほども前回までより激減した。そんな折に、多くの友人から「兵庫は凄いですね、おめでとうございます」と言われても、素直に喜べない。泉の大量票獲得のおかげで、当選ラインが大幅に下がったゆえの当選なのだ。

 高橋の幸運さはそれだけではない。「令和の米騒動」も、県知事選に絡む「維新の失態」も、大いに味方した。前農水政務官としての立場を如何なく発揮した。備蓄米を放出するお膳立てを党をあげてやって貰った。石破首相や小泉農水相に対し、わざわざ高橋光男「必勝シフト」を敷いて貰う発言を他幹部が迫ったほどだった。これは何も高橋の僥倖を羨んでいるのではない。激戦区候補であるが故の手立てが度を越していたのではないのか。つまり他地域の候補とのバランスを欠くほどのものだったとの気がするということなのだ。

 選挙戦は候補者の実績を軸にした存在感というものがとても大事である。かねて高橋に僕らは、ひとりででも50万票を得るぞとの心意気で挑むことの大切さを問いかけた。組織支援に甘えるなと、訴え続けた。彼はそれらをしっかりと踏まえ、「百万人たりとも我行かん」との心意気で、呼応してくれた。

 また政府自民党の積年のコメ行政の悪弊に囚われることへの危惧を周囲は感じた。与党であるがゆえの「お側用人化」を恐れたのだ。もっと厳しく政府をチェックせよとの辛口アドバイスも複数の議員OB仲間と共にやった。これらに彼は敢然と応えた。謙虚さと執念を持って乗り切ってくれたのだ。

 これらを通じて、惜敗を喫した議員たちの存在感の薄さが気になる。これは遠く離れた地域の議員への勝手な見立てだ。だが、3地域の落選候補者の訴え、アピールは、高橋の浴びた脚光よりも弱かったように思える。他方、福岡選挙区の下野六太の教育問題における強烈な存在感も印象深い。こういった観点からも激戦区対応にバランスを欠いていたことを指摘せざるをえない。以上あえて偏見を承知で、思いにままに心情を吐露した。(敬称略 つづく 2025-7-22)

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【24】公明党の来し方行く末への懸念━━2025参院選の結果から(上)7-21

 暑い夏の熱い熱い闘いだった。20日の投票を終えて公明党は目標の14議席に遠く及ばず、選挙区4、比例区4の8議席に終わった。比例区票は512万票強。現時点では正確な選挙の総括をするだけの材料が十分ではないが、これまでの僕の見立てを中心に内外の様々な意見を踏まえ、率直な思いを述べてみたい。

 ⚫︎自公連立政治の欠落部分を突いた国民、参政党の急伸

   21世紀の幕開けと共に本格化した自公政権。結党から61年が経つ公明党にとって20世紀後半は野党であり、21世紀前半は与党として闘ってきた。もはや野党時代の公明党を知る人間が少なくなってきたが、僕のような旧世代(1945年生まれ)は、どうしても過去との比較、「本来あるべき論」に惹かれてしまう。今回の選挙を前にして、僕が主張してきたことは、2022年に出版した拙著『77年の興亡』と、翌年の続編と基本的に変わらない。それを一言で要約すると、自公政権は、どういう国を作りたいのかという国家ビジョンを明確にすべきであるということに尽きる。それを曖昧にして当面する政治課題の処理にだけ取り組んで、選挙のたびにお互いをサポートするのでは、幅広い国民各層の支持を受けられないというものだった。

 今回、国民民主党と参政党の二つの政党が大きく議席増を果たした(前者17、後者14議席)のだが、僕にはこの結果に極めて象徴的な意味合いを感じてしまう。それは自公両党が本来のそれぞれの党の「らしさ」を失ってきていることの裏返しに思われることだ。国民民主党は旧同盟系労働組合の影響下にある党として働くもののスタンスに依拠してきた。公明党が自民党と連立を組んできてほぼ25年。どうしても政治姿勢が自民党寄りにならざるを得ず、その分、政策の立地点から公明党らしさが失われてきた。その辺り、国民民主党のフットワークにお株を奪われたと言わざるを得ないのは僕だけだろうか。

 一方、参政党の急伸の背景には、自民党の保守色が公明党のリベラル性によって薄められてきたことがあると思われる。「日本人ファースト」のキャッチコピーに込められた「外国人排除」の政策タッチには、欧米における移民排除的空気を微妙に反映していよう。世界的な傾向である「自国第一主義」を持ち込み、日本「分断」の空気醸成に大きな役割を果たした。そこには、自民党の保守色が公明党との連立で色褪せてきたことと無縁ではあるまい。20世紀後半の保守と中道の老舗党2つが共に連携をする中で「らしさ」を失っていったケースと見られる。

⚫︎公明党の来し方に痛烈な疑問投げかける論考

僕はかねて中長期の視点から、この国の方向性を自公間で議論することの重要性を説いてきたが、残念ながら受け入れられてこなかった。確かに与党となることで、野党時代には見られなかった支持層を広げることができた。ライトウイング(右翼)に公明党は羽を大きく広げることが出来た。だが、それと同時に、本来持っているはずの大衆性を損なう面があったと言わざるを得ない。選挙戦の本格化と同時に世に出た党理論誌『公明』8月号の論考(写真左)がその辺りの課題を見事なまでに突いている。

 先崎彰容『苦難の道を進む米国、打ち出のこづちを追う日本』というタイトルのものだ。実は看板は中身と違って、「『大衆とともに』と大衆との乖離」と、「公明は心の荒廃を戒めよ」という2つの「中見出し」がずしりと刺さってくる。この人は、かねて「公明党よ、行く道を間違えるな」と厳しくも涼しい忠告を投げかけてきてくれている思想家(社会構想大学院大学研究科長・教授)である。

   この論考では、公明党がかつての党と違った道をすすんでいることをリアルに「公明党はだったのではないか」という言い回しを使って明らかにしている。全部で4カ所でてくるが、それを箇条書きにしてみる。①陰の部分に敏感に反応し、「大衆とともに」あることを自負してきたのが、公明党だったのではないか②公明党の政治観とは、本来、民主党系の米国左派とは大いに異なる方法で、社会の陰に寄り添い、言葉にし、政治の世界に届けることだったはず③偽善的とは全く異なる政治手法と言葉を駆使することができる政党、それが公明党だったはず④公明党は政治の世界において、人々の心が荒んでいくことを戒める政党、寛大と余裕を持った政党であるべきだ。公明党の「平和主義」も、ともすれば自尊心をくすぐる類いの、根拠なきナショナリズムを諌めることにあったはず。いずれも耳が痛い。

 「戦後80年」を振り返り、これからを考える4つの論考の中に、これが登場する。政党が自らの軌跡を機関誌に自省的に取り上げることは珍しい。僕は公明党の理論誌が敢えて厳しい論評を掲載するところに、政党の言論人の良心を感じる。(つづく 2025-7-21)

 

 

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【23】『ふれあう読書』出版記念交流会を終えて/7-13

⚫︎辛口甘口渋い口━━様々なる感想

 選挙戦の最中に拙著『ふれあう読書━━私の縁した百人一冊』上下巻の出版を記念するイベントを『交流会』と銘打って、7月12日に西明石のホテルキャッスルプラザで行いました。炎暑の中、多くの皆さんが集ってくださり、賑やかに楽しく意義ある会合になりました。

 9-11日の三日間予定原稿を上中下で掲載しましたが、中々予定した通りにはいかず、かなり端折った中身になりました。ただ、予定稿には入れていなかったことも喋りましたので、ギリセーフと言うべきでしょう。友人たちも、井戸敏三、宮家邦彦、岡部芳彦、新聞社社長らといった国際政治、国内政治に精通した専門家から、玉岡かおる、高嶋哲夫といった小説家、経済人をはじめ庶民大衆の代表に至るまで多彩なメンバーが120人ほど。皆さんに興味あることを話そうとすると、どうしても平易で面白いことを話さざるを得ず、自ずと雑な話にならざるをえませんでした。

 皆さんの率直な感想は赤松の人脈がまことに多彩で実に多方面に及ぶこと、「交流会」と謳っていただけあって色んな人たちと名刺交換して、交歓、交流の場が持てたことを喜んでくれる中味が専らでした。一般人の皆さんは、僕の話ぶりが元気に満ち溢れ多くの刺激を得られたとか、僕が挙げていた本を職場の読書会に使いたいとの感想もありました。

 尤も、専門家の感想は、僕の国際政治・外交評は国内政治に比べて物足りない(井戸)とか、もっと小説の書評を読みたい(玉岡)とか、赤松という人は最初は甘かったが、付き合うにつれて、苦く、渋い味がする(石川誠)といった、思い当たる節のする辛口評が目立った。しかし、いちばんきつかったのは、我が家人の「眠たかった」でした。全く言いたいこと言ってくれるよ、というのが僕の率直な思いです。

⚫︎選挙戦だからこそじっくり日本、世界を考える

 冒頭の挨拶で、僕は選挙の最中にこういう会合を開くことについて、福澤諭吉の有名な慶應4年5月15日におけるウエーランド経済学講義の故事を話しました。戊辰戦争の勃発で上野での砲声を遠くに聞きながら塾生に講義を諭吉がしたのは、目先のいくさにとらわれず、学問の研鑽を怠るなという目的からでした。僕は、ちょっぴり格好つけて、この故事に倣って、現代日本の行き詰まった政治の有り様を今こそ考えようと投げかけたつもりでした。

 僕の常日頃の言動を知ってる人が大半ですので「今日は時節柄、選挙は比例区は公明党を、兵庫選挙区は高橋みつお候補をよろしくとは申しませんが」と笑いをとって、約40分間話しました。そこには問題山積だが、よりマシ選択は中道主義の公明党だとの思いを鎮めたものでした。

 僕が衆議院議員を辞めたあとのブログ活動の所産としての『77年の興亡』正続編と『ふれあう読書』上下巻の合計4冊の出版は、20年間の政治家生活から得た独自の視点が底流に横たわっています。前者2冊は、自公政権および野党の体たらくを嘆き、政治がもっとしっかりすべきだと叱咤する内容です。後者2冊は、これまでの僕の人生で袖擦り合わせた他生のご縁ある人々との交流読書録です。上巻ではテーマ別に、下巻では職業別に、それぞれ7章50人ずつの50冊を取り上げました。ありとあらゆる興味深い中味を網羅したつもりです。

⚫︎「77年の興亡」の第三ステージへの楽観、悲観的展望

 事前の講演メモに予定しなかったのに、本番で話したのは、これからの第三の「77年の興亡」がどうなるのかという未来予測でした。もちろんそんなことはわかるわけなく、単なる予測展望です。僕は経済的側面では今話題の投資コンサルタントの齋藤ジンさんによる『世界秩序がかわるとき』が一つの楽観的予測として注目されると言いました。この本の見立ては、米国が中国を意識して、日本を再びパートナーとして持ち上げる時が近くにくるというものです。

 もう一つは、宮家邦彦さんが今年の産経新聞新年号での「正論大賞対談」で、「今世界は戦間期の終焉にさしかかっており、戦争前夜とみられる。これは日本がかつて第一次世界大戦で勝ち組に入っていながら第二次大戦で負け組になってしまったのを、逆転させ今再びの勝ち組に回れるチャンスを掴めることを意味する」と述べたことを紹介しました。要するに、日本外交の展開如何でどうにでもなるという見立てなのです。

 宮家さんご本人の目の前でこう話したことは彼への大サービスでした。僕は中々そういう振る舞いを日本が取れることには悲観的で一つ間違うと奈落の底に落ちかねないと見ますが、厳しい国際情勢を自分の頭で考え抜いて、国民に提起しようとする彼の努力を買って、あえて紹介しました。

 最後は、福澤諭吉の『学問のすすめ』を通して、人間にとって最も大事なことは「交際」であるとの記述に我が意を得た気分になったとの話をして終えるつもりでしたが、時間の不足でいささか尻切れになったかもしれないことは気がかりでした。皆さんとの写真撮影や交歓ののちに4時過ぎに会場を出ました。今夏は蝉の声も未だ全く聞こえず、選挙スピーカーの声も全くなし。SNSの世界での空中戦が激しいのかどうか。不気味なムードが漂う週末でした。(文中敬称略 2025-7-13)

 

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【22】『ふれあう読書』出版記念交流会での僕の講演(予定)要旨(下)/7-11

⚫︎本を読むことの大事さを売りものにした珍しい政治家

 さて、次に今回出版しました『ふれあう読書』上下2巻について語らせていただきます。実は僕が21世紀の冒頭、今から25年ほど前に「書評本」を出すと決めた時に、止めとけと言った友人は「人が本をどう読んだかなんて、だれも興味なんか持たない。だから売れない」といい、弟は「新幹線の中で本を読み、それをまとめた書評を本にするなんて、庶民受けしない、反発される」と批判してくれました。

 それを押し切って出版すると、今度は半藤一利さんから「あなたはくだらない本をいっぱい読む人ですね〜」と言われたり、東京新聞「大波小波」のコラムニストからは、「確かに政治家として本をよく読んでるが、果たしてこの人物が政治の現場にどう活かすのかが問題だ」と書かれました。また、先輩政治家からは、「政治家が書いていいのは辞めてからの回顧録だけ。こんな本は二度と書くな」と言われたものです。僕はこれらを全部無視して初心を貫徹しました。書けない先輩の嫉妬に違いないと(笑)。

 ただ、半藤さんはくだらないと言われたのですが、くだるかくだらないかは人の判断に帰着しますし、古典ということになると、あまたの人がアプローチして書評的なものもいっぱい書いています。僕としては、正直に告白しますと、元々いわゆる読書家ではありません。むしろ本を通して書いた人物に迫りたいとの思いが強かったのです。そういう意味では読書通を装って、「本を読むことを売り」にした政治家なのです。つまり〝戦略的読書人〟が正確な言い振りで、まともじゃあないまやかし的存在です。

 世に政治家は本を読まないと言われています。年柄年中選挙ばっかりやっていて、確かに落ち着いて本なんか読めません。そういう意味では、僕の言った「忙中本あり」は至言なのです。忙しければ忙しいほど選挙区に帰る往復の新幹線時間が増え、ゆとりのある時間ができるというパラドックスに見舞われるからです。姫路はちょうど往復7時間。ひどい時は一往復半で1日10時間乗ってたこともザラでした。

⚫︎福澤の「学問のすすめ」は実は『交際のすすめ」

 『ふれあう読書━━私の縁した百人一冊』は、多くの皆さんからお褒めの言葉をいただきました。実例を一二あげますと、「コラムも含めて4頁という少ないスペースにきちんと収めるのは難しいことと思います。多彩な人脈と豊富な読書の蓄積が生み出した稀有の読書ノートだと改めて感銘を受けました。平易でありながら達意の文章に感じ入りました」というご評価が最も平均的なものでしょうか。「公明党の30年について、御厨貴、芹川洋一の2人が同じ感想=公明党の役割の低さ、を持つのは2人が東大同期で極めて親しいからではないか」とか、「公明党の果たしてきた役割を無視せずに、今後の課題について精緻な分析に基づく評論を展開することが必要だと思う。『77年の興亡』をもう一度読まねばと思った」といったものが一番嬉しかった感想です。これをくれたのはNHKの荒木裕志元報道局長です。

 また、電通大の名誉教授の合田周平さんを上巻に取り上げて、本を送りました。早速に電話をくれました。「いやあ嬉しいなあ、コロナで死にかけてたけど、生きててよかったよ。君にこんな風に書いてもらえるなんて。最近80前に亡くなるバカがいるんだよな」などと捲し立てれらました。この人は天風会の理事長でしたが、台湾で出会って、元天風会の僕と盛り上がったのです。彼の『晩節の励み』って本を評論したのですが、文字通り晩節に彩りを添えられて、とても嬉しい思いに浸れたものでした。

 最後に、実はこの間、福澤諭吉の『学問のすすめ』を再読しまして、感動しました。今までこの本にいくたびか挑戦したものの、あまり面白くなかった。というのは前半が明治維新直後の時代状況を反映した〝お説教タッチ〟だからです。しかし後半は違ってきます。最後の最後は学問ではなく、まるで「交際のすすめ」でした。「交際の範囲を広くするコツは、関心をさまざまに持ち、あれこれをやってひとところに偏らず、多方面で人と接することにある」━━このようなくだりを読んで、まさに我が意を得たりです。福澤先生から直接お前はよくやったと褒められたような気がしています。嬉しい限りです。

 僕の学問上の師匠は中嶋嶺雄先生なんですが、晩年に「君もそろそろ教育をやらないといけないね」と言われたことが気になっています。先生は日本だけでなく、世界中が中国礼賛に走っていた時に、ひとり中国文化革命批判をされた人ですが、最終的に秋田国際教養大学の設立運営に携わられました。私はかねて80歳は、還暦から20年で、真の意味で人間になる時だと思ってきました。尤も、そんなこと言ってると、死ぬまでゴールに辿り着けず、さまよい続けるだけかも知れません。(終わり 2025-7-11)

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【21】『ふれあう読書』出版記念交流会での僕の講演(予定)要旨(中)/7-10

 ⚫︎『77年の興亡』に込めた日本政治への批判

    ではこれから今日の本題に入りますが、まずこの図表をご覧ください。「77年の興亡」なるものの概念図を表したものです。1945年の日本敗戦の年を起点にしまして、遡ること77年前が明治維新の1868年です。一方、敗戦の年から二つ目の77年間が経った時が2022年になります。これまで、様々な学者たちが近代日本の歴史を概観して、「分析的見立て」を論議の俎上に乗せてきましたが、そのうちの代表的なものです。つまり、第一の77年は、1905年を一つのピークにして近代日本が天皇中心(菊の御紋を御旗)に「軍事力増強」路線を走ってきたと位置付けられています。その結果、日清、日露戦争に負けなかったアジアの後発国日本が、先進列強に伍する位置を開国から40年ほどで勝ち取ったといえるのです。

 これはもっと細かくいうと、軍事力拡大だけでなく、ほぼ20年ごとに普遍性路線と土着性路線とを交互に繰り返してきたと見る説(加藤周一氏)もあります。①のいわゆる文明開花、自由民権運動の時代②その反動としての教育勅語の時代③それから大正デモクラシーの時代④またも暗黒の軍部独裁の時代と流れて敗戦に行きつくといった風に、4つに分けられるとの捉え方です。中々味わい深いアプローチです。

 これが前半77年を集約した見方ですが、一方後半の77年間はどうでしょうか。この時代は、戦前と違って、戦敗国として米国に占領され、いわば星条旗の下での不自由な半独立国家、半民主主義国家としての77年が続くのです。ざっといいますと、こっちは、軍事力を米国に預けた格好にして、経済力至上主義の道を歩みます。占領期の7年を含む40年後の1985年がプラザ合意の年で、その後1990年代初頭のバブル絶頂期を迎えることになります。要するにこの40年は、高度経済成長とその余波の時代だったのです。この頃には日本がGDPでアメリカを脅かすような位置にまで成り上がり、ジャパンパッシングという名のアメリカによるいじめ、懲らしめにあう契機になっていったと見られています。

 表にあらわしましたように、戦後期前半の40年は、大きな政府(つまりケインズ主義)的政策展開で日本は経済的に繁栄を謳歌していくのです。ただ、この辺りからのち後半は一転、世界の経済秩序が変化していきます。「新自由主義」なる名の下に、小さな政府による政策展開が主流となっていきます。政治的には、ソ連の崩壊、9-11の世界同時多発テロによる米一極の時代から米中対決を経て多極化の時代へ。日本は、バブル崩壊と共に、あらゆる意味で収縮期に入ってしまい、少子高齢化のどん底へと落ち込みましたが、現実にはそれに加えてコロナ禍、ウクライナ戦争、ガザ紛争などが続いてきているのです。

⚫︎「朝日」「毎日」のサイト版に12本の寄稿で大論争を提起する

 実は拙著『77年の興亡』は、正確には看板に偽りありで、本の中身は図でいうところの戦後史のうち、公明党誕生以後のこの60年の変遷に力点が置かれており、戦前の77年はおろか、戦後の77年も正確には書かれていません。書いているのは、いわゆる「保守対革新」の一昔前の「自民対社共」といった〝イデオロギー対決〟の政治により庶民大衆が忘れ去られているとの観点で、公明党が結成された背景から説きおこしています。つまり、昭和39年(1964年)からの日本の政治が60年経ったけれども、本格的な政治改革ができていない、いったいどうしたのかという、日本政治の根本的批判を公明党の見地から書いたものです。一言で言えば、こんなことでは公明党の看板である「中道政治」が泣くぞという叱咤激励の内容でした。

 そして続編としての『新たなる77年の興亡』は、2022年の1年かけて、朝日新聞のサイト版『論座』と、毎日新聞の『政治プレミアム』に交互に1本3000字〜4000字づつ6本の合計12本寄稿したものを集めたのです。これは、よくやったぞと自分自身を褒めてやりたいと思っています。両社の幹部を知っていたこともあるのですが、よくぞ掲載してくれました。「書くも書いたり載せるも載せたり」でした。

 何を書いたか。一言で言えば、自公の政権与党はこの国をどうしたいのかとの国家ビジョンを明らかにすべし、国家論なき「選挙互助会的連立政権」ではダメだということに尽きます。両党が、そして国民が、憲法について、国家のありようについて、皆んなで大論争を起こそうという提案をしたのです。しかし、残念ながらほとんど反響はありませんでした。世に問うたという意味では「自己実現」ではありましたが。(つづく 2025-7-10)

 

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【20】『ふれあう読書』出版記念交流会での僕の講演(予定)要旨(上)/7-9

 7月12日に僕のこれまでの出版に関して「記念交流会」を持つことになりました。出版元と、その支援者たちによる熱心な要請を受けたものです。ここでは、宮家邦彦、玉岡かおる、岡部芳彦さんら10人ほどの執筆者の皆さんをお招きしていますが、僕が冒頭に少々お話をさせていただきます。参院選真っ只中の開催になりましたが、特に選挙を意識したものではありません。強いていうなら「戊辰戦争」の最中、慶應4年5月15日に福澤諭吉先生が上野の砲声を耳にしながら、塾生たちにウェーランドの経済学の講義をし続けたという故事に見倣ってというべきかもしれません(笑)。ともあれ以下のような話をするつもりですが、事前に公開いたします。(実際にこう話すかどうかは本人も分かりません)。

⚫︎新聞記者根性抜けずに30年

 今回の出版で2022年より出雲出版から毎年一冊出して、4冊目になります。80歳を前にしての連続出版には3つほどの企みというか狙いがあります。①地域起こし②世代起こし③自分起こしの3起こしです。①は出雲市に関わって来られた勝瀬典雄(関学大大学院非常勤講師)さんとのご縁です。②は定年後世代へのエールです③は自分自身への励ましです。実は僕の出版は今に始まったことではありません。衆議院議員に当選(1993年)した7年後のこと。『忙中本ありー新幹線車中読書録』なる本を東京の論創社から出しました。出版祝いの会を東京と姫路の2ヶ所でやりました。実は政治家で選挙以外の本を出す人は殆どいません。ある意味「7年目の浮気」で、新聞記者根性が頭を出してきたのです。結局本を出すのはそれきりにして20年間代議士を勤めあげました。ですが、ブログという名の出版(読書録と国会リポート)をずっと続けたのです。これが今日の活動の伏線になったといえると思います。

 ここで、政治家生活20年について、ざっと振り返ってみます。僕は1993年に初当選しましたが、大学を出て18年間を新聞記者(政党機関紙)をし、その後衆議院秘書や公明党県本部職員などを5-6年ほどしました。1969年からの25年間ほどのことです。この間の日本の政治はずっと自民党単独政権でした。佐藤栄作氏から宮沢喜一氏の時代(12人)ですが、この後、細川護煕さんからはずっと連立政権になっていきます。途中の民主党政権下の3人を外すと、自民党を軸にした連立政権はざっと石破さんまで13人目です。連立政権時代に突入した頃からの30年間がちょうど僕の政治家時代と重なるのです。この間に何をやったかと言われると恥ずかしいのですが、①憲法②安保③健保(けんぽう、あんぽ、けんぽ)の3つの分野です。主に憲法審査会、安保委員会などに所属しすると共に、厚労副大臣を1年だけやりました。専ら本を読みつつ国会の動きを解説し続けた20年だったと告白します。それでもミニ歴史に残る国会質問もしています。とりわけ印象深いものは①小泉首相に対する「季節外れの大雪現象」質疑②福田康夫首相への「大連立批判」質疑③鈴木宗男氏への「証人喚問」の3つでしょうか。3つ目は上巻に出てきます。

⚫︎引退後に一社、財団法人活動などから電子本を出版

 2013年暮れに引退して、約10年間は電子本の発刊に挑戦しました。最たるものが、小中高大の友人たちとの「とことん対談」シリーズです。住友電工から住友ゴム社長になった小学校同期の友人と「運は天からの授かりもの」をだしました。中学校同期の臨床心理士の親友とは「この世は全て心理戦」。高校同期の医者2人とは「笑いが命を洗います」と題して。そして大学同期の朝鮮半島問題専門家の小此木政夫とは「隣の芝生はなぜ青く見えないのか」といったようなものを出したのです。これらを全部まとめて『現代古希ン若衆』(「新古今和歌集」のもじり)という本にしようと企画したものの、一人の女性から猛反対を受けて敢えなく沙汰闇になりました。「万が一ベストセラーになったりすると、私の歳がバレるからヤダ」っていうのです。まったく、「たまるか!」です。涙を呑み諦めたのが70歳の時でした。

 その後も、ここに映像にあるような「10問10答」シリーズと称して、「日本熊森協会」や「カイロプラクターズ協会」やAKR、坑道ラドン浴など一般社団法人、財団社団法人や公益財団法人など僕が関わってきた活動の電子本をせっせと出したり、「安保政策研究会」のリポート寄稿なんかをずっと続けてきたのです。そんな状況の中で、常々考えてきたのが「日本社会の転換」や「時代のサイクル」ということでした。一番ひっかかったのが半藤一利さんの「40年日本社会転換説」でした。それらから1945年を軸にすると、「前後77年の2サイクル」ということに気づいたのです。そこで、安保研リポートにずっと書いてきた政治評論を国際、国内編に改めてまとめ直して分類することにしました。以下この著作に表した『77年の興亡』について述べてみます。(つづく 2025-7-9)

 

 

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【19】僕の新刊本『ふれあう読書』の読みどころ━━官僚編/7-6

⚫︎官僚における師弟関係と先輩・後輩関係

  次に第6章、官僚編です。上巻では外務省の岡崎久彦さんと宮家邦彦さんを取り上げました。両者ともに僕の筆致は冴えていたと自己満足していますが、さて実際はどうでしょう。宮家さんが今年の産経新聞新年元旦号で、第40回「正論大賞」を受賞されたことを記念してBSフジの報道番組「プライムニュース」のキャスター反町理さんと対談をしていました。この中身に関しては既に一部取り上げた(7月2日付け)のですが、今回は宮家さんと岡崎さんの師弟関係の発端といえるくだりについて触れてみます。

 それは、第11回の同大賞を岡崎久彦さんが受賞されていたことに関連して、宮家さんが岡崎さんのことを深く尊敬されている様子が明らかにされます。米国に留学していた宮家さんが当時、戦略国際問題研究所(CSIS)で客員フェローを務めていた岡崎さんから、安全保障をやるのなら歴史の勉強をせよと言われたことが出てきます。当初宮家さんは、その意味がすとんと落ちなかったようですが、外務省を辞めてから初めてわかったことを披瀝しています。「岡崎さんのアドバイス(外交には歴史観が必要)がなければ、今の私はありません。最初の恩師です」とまで。二人の歳の差はほぼ20年。頷ける思いがします。

 僕のかつての仕事上のボス・市川雄一さんも岡崎さんを深く尊敬されていました。年齢は5歳違いでしたが、政治家と外務官僚の域を超え畏敬の念を抱かれていたように思えました。僕には『陸奥宗光とその時代』『小村寿太郎とその時代』『幣原喜重郎とその時代』『重光・東郷とその時代』『吉田茂とその時代』や『百年の遺産 日本近代外交史73話』を読めと〝強請〟されました。懐かしい思い出です。

 もうひとり、官僚編で取り上げた元厚労省事務次官の辻哲夫さんに触れてみます。僕が厚労省に一年だけお世話になった頃の事務方トップが辻さんでした。厚労行政のイロハも知らない僕でしたが、実に親しく付き合って頂きました。忘れえぬ恩義を感じています。その背景には、この人が公明党の大先輩である坂口力元厚労大臣を深く尊敬されていたことがあります。つまり「大先輩の七光り」という余波を僕は受けて、ひたすら大事にして頂いたのです。力もない存在に勿体無いことだったと今は思います。

 つい先日のこと、僕が副大臣だったころに秘書官として支えてくれた宮崎淳文総括審議官が次期官房長に昇格することが判明しました。最高に嬉しいニュースだったので、その喜びを分かち合って貰おうと東大特任教授の辻さんに知らせました。すると、「宮崎さんという大変優れた方が着任され、赤松さんと共に私も心から嬉しく存じます。少子化対策を含む社会保障政策は、超高齢人口減少社会における不可欠の地域再分配を含んだ公共事業ともいえます」と書かれていました。僕が厚労省を離れて既に20年。今も当時の関係を大事にしています。それを辻さんは喜んでくれ、こちらもまた嬉しいのです。

⚫︎人の見方さまざま、官僚の生き方もさまざま

 元英国(アイルランドも)大使だった林景一さんは、帽子の良く似合う英国風紳士です。いつも穏やかで理路整然と外交を、国際政治を、国際法を語ってくれました。僕が下巻に取り上げた『アイルランドを知れば日本がわかる』についても、うまくまとめていただきありがとうございますとの連絡を頂きました。その林さんが過去の対話の折に、色をなして反論されたことがあります。外務省出身の著名な外交評論家のことを僕が肯定的に述べた時です。世間での評価は分かれるものの能力は凄い、と思うって。

 彼は記憶力には目を見張るけれど、国際情勢分析においておよそ公平さを欠いているといった趣旨のことを述べられ、落ち着いた議論にはならなかったのです。外務省の正統派からすると、どこまでもその評論家は異端にみえる存在なんだと、妙に感心したことを覚えています。僕の国会における発言が発端になり、世間での評価も高まった人(という側面なきにしもあらず)だけに、複雑な心境になります。

 国交省最高幹部だった大石久和さんからは、「小生の著作もご丁寧にご紹介頂き感謝に堪えません」とのお礼状を頂きました。その後に「(大石は)国民の貧困化に危機感のないオールドメディアの批判を続け、講演活動、執筆活動も懸命に行っています」とあり、B5用紙2枚に、3000字ほどの小論考「亡国の『改革』に専心した日本」(多言数級245)が同封されていたのです。政権批判の色が濃い文章でした。

 今日ここにまで庶民生活を貧苦の底に追い込んだ「政治の流れ」とでもいうべきものに、大石さんは怒っています。2001年の省庁再編に端を発した「大蔵省解体」の動きと「財政健全化」という方向の定着がもたらした、今に続く自公政権の負の元凶が綴られています。この論調、今の選挙戦の底流に淀んでいます。政権の屋台骨を揺るがせているようにも思われ、深刻に受け止めざるを得ません。(2025-7-6)

※これでこの連載は終わります。第7章政治家編は省略します。

 

 

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【18】僕の新刊本『ふれあう読書』の読みどころ━━ジャーナリスト編/7-5

⚫︎日本の各地で貴重な仕事に取り組む人々を描き出す営み

 この本の出版直後に、当の出版元の存在する出雲市から、「知ってる人が出ている」との報がありました。驚きでした。総合雑誌『潮』の編集記者を経て月刊誌「理念と経営」の編集長をされた背戸逸夫さんのことでした。取材を受けたことがあるという会社の関係者からの知らせでした。日本中の企業経営者の人物像を描き出す仕事を、ジャーナリストとしての人生の総仕上げにした背戸さん。新聞記者を振り出しに、政治と社会を見続けてきた僕にとって、同じ業界のうるさい先輩でした。「本出した?俺のこと書いた?大丈夫かよ」と、冷やかされたかのような錯覚を抱いたものです。

 僕の人生と新聞の関係は、少年時代に「新聞の題字」を切り抜き集めていたことがきっかけかもしれません。昭和20年代後半から30年代初めの神戸市垂水区塩屋町界隈で流行っていたのです。そんなの幾ら集めてもタカが知れてるのにと、今では思うのですが‥‥。やがて、「新聞配達少年」になり、「記者」に憧れて、配る側から書く側に回り、初めてそれが記事になった日の甘酸っぱい感動。まるで自分の娘の幼稚園に初参観して、お遊戯の輪の中に見い出した時のような、複雑な感覚でした。

 元毎日新聞記者の大森実さん(母校長田高の先輩)の講演(ベトナム戦記)を聞いたことが、僕の人生を決める発端、誘因になったことは、この本の上巻に書き留めた通りです。実は、「匠の世界」を描き切った元神戸新聞の内橋克人さんも永く憧れた郷土出身のジャーナリストでした。上巻の第4章(経済と生活)の頭に彼を置き、第5章(社会と人間)のトップに大森さんを配置したことは、僕の職業選択と後の伴走役へのお礼の意味合いを込めたつもりだったのです。

⚫︎広がる本を愛する読者仲間の輪

 下巻ではジャーナリスト編として、冒頭に述べた背戸さんを先頭に7人の面子を並べています。以下、残る人たちのうちから4人を紹介します。

 議員を引退後、東京に行く機会がほぼなくなり、めっきり交流する場面も減りました。そんな中で唯一、安保政策研究会のみが大事な繋がりです。理事長の浅野勝人(元内閣官房副長官)さんは元NHKの解説委員でした。その豊富な人脈を活かして集まったメンバーによる『安保研リポート』も50号を超えて活気を呈しています。浅野さんは『ふれあう読書』下巻を、ご自身の『宿命ある人々』から目を通したのちに「こんなに的確に解読してくれた人はおりません。こんなに深い評論をしていただいて嬉しい。家内が読んで感動しました。著者同士の長い、いい付き合いが絆の深い友情で繋がっているから、こんな好意ある公平な評論になったに違いない」とのメールを届けてくれました。

 50人の著者たちから感謝していただく声が相次いでいますが、奥方からの声は浅野夫人のみです。最後に総括して50人の書評のトップをあげたら、迷うことなく、とご自身の著作を挙げておられたのは微笑ましい限りでした。

 公明党の議員になる前から機関紙記者をし、市川雄一元書記長の秘書をしていた僕だけに新聞記者との付き合いも数多くあります。その中で縁が深かったのが、「朝日」の西村陽一さんでしょう。本の中でもふれましたが、彼の処女作『プロメテウスの墓場』は実に読ませました。先日も本好きの慶應の後輩に拙著を贈呈したところ、まず西村さんの本から購入して読んでいるという返信を貰ったのには〝同好の士〟を得たようで、とても嬉しかったものです。

 西村さんと並ぶ俊英ぶりの印象が濃い記者は共同通信の太田昌克さんです。最近はテレビのコメンテイターとしての登場が多いようですが、雑学に流されないで、本業である「外交・安全保障」分野での発信を忘れぬように願いたいと思うのは老爺心が過ぎるでしょうか。この分野でもリベラルの潮流が劣勢で、リアル優先のために、保守の基調が強まり過ぎている傾向があるように見えてなりません。その意味でも『偽装の被爆国』はとても大事な本だと思えました。

 最後に神戸新聞の武田良彦さんについて。僕が書評集下巻をものするにあたって、紛れもなく楽しみながら読み続け、指先によりをこめて書き上げたのは骨董品をめぐる彼のエッセイ集『骨董病は治りません』でした。出来栄えも悪くないはずです。武田氏本人も「今年の芋煮会にはぜひ」と僕が喜ぶセリフを忘れていません。ところが僕の大学同期で骨董品に入れ込んできたO君が、この書評にほとんど関心を示さない。謎です。一番喜んでくれるはずと思い込んでたのに。なぜかくも骨董品を愛好してやまない記者の経験談に冷たいのか。深まる疑惑を解明しようと近く直談判を決めています。(2025-7-6)

 

 

 

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【17】僕の新刊本『ふれあう読書』の読みどころ━━自然科学者編/7-4

 前回は本の中身というよりも「他生のご縁」の拡大版のようになってしまいました。上巻を出版してから1年余。それなりに人気を集めているのは、著者と僕とのエピソードのようですから、仕方ないかも。あまり気にせず、今回も続けます。

 自然科学者編は、8人が登場していますが、大雑把に分けて、前半の4人が泰然自若としたおおらかな性格の研究者タイプ。後半4人がどちらかといえば、自身の原理原則に相手を合わせようとする厳格な指揮官タイプ。勝手な僕の見立てを許していただくと、そうなります。まずは伏見康治さんから。

⚫︎泰然自若としたおおらかな研究者タイプの4人

 伏見さんについては本文にも書きましたように、日本学術会議議長をつとめられた原子核物理学者。今考えると、よくぞこういう巨大な自然科学分野の大物を公明党は政治の世界に引っ張り出したものと思います。結局一期6年(1983-89)で参議院議員を辞められ、今日後継の流れの痕跡すらないことは、学者の政治家への登用が成功しなかったケースなのかも知れません。

 伏見さんが引退された4年後に政治家になった僕としては、先輩たちの先見性を推奨するくらいがせいぜいですが、国家的見地からは惜しまれます。伏見さんと短い時間だけどお付き合いをした僕が、議員を勇退された後の伏見さんと付き合っていればなどと、後悔しても遅きに失するというものでしょう。

 帯津良一さんについては一度講演を聞いただけですっかりファンになりました。作家・五木寛之氏との一連の健康対談を始め、その著作の殆どを僕は読んでいます。生き死にのあり方から、リアルな健康指南ぶりの卓越性はつとに知られていますが、法華経へのご理解は希薄なように見受けられます。一度お会いして〝お手合わせ〟していないと、また後悔する羽目になりそうな予感がするのですが、さて。

 網本義弘、福岡秀興のお二人は、この本での登場をとっても喜んでくれました。網本さんは大病を患われ、このところ入院状態が続いています。そんな中で、先日も母校への図書贈呈の労をとってくれました。僕としては校長始めルートは幾らでもあるのですが、先輩のご好意に甘えたしだいです。福岡さんからは、胎児期の栄養と疾患の関係をめぐって国際学会の招聘に成功したとの嬉しいニュースが入ってきました。さてどうなるか。僕としては彼の研究が更に前進を示されるよう強く望んでいるものです。

⚫︎原理原則で挑む厳しい指揮官タイプの4人

 さて、ノーベル賞受賞者の大隅良典さんからの4人はいずれも厳格な雰囲気を湛えたリーダーに見えます。ただし、大隅さんは一度講演を聞いただけ。しかも小中高校生ら子どもを中心にした会合。で、なぜ泰然自若のグループに入れなかったのでしょう。その理由はただ一つ。「いま議論の虚しさを感じさせる場面は国会かもしれない。議論が破綻していることは誰の目にも明らかだ。日本の政治の劣化は著しい」というくだりを本の中に発見したからです。これ一つで僕には十分な彼の厳しさが伺えるのです。

 あとの森山まり子、荻巣樹徳、中川恵一のお三方はいずれ劣らぬ骨太な精神の持ち主。勿論お人柄は皆さん優しく、僕の〝仕分け〟に異論を唱えられるかもしれません。しかし、ご自身の信念を貫かれる姿勢において微塵も妥協しない場面を幾たびか見聞きしてきた僕の確信は、断じて揺るがないのです。

 森山さんについては先日もある著名な政治家が「森山さんは本当に妥協ということを知らない、まるで宗教団体の指導者みたいだ」と語っていました。聞いてた僕は吹き出しそうになりました。この政治家、宗教団体云々は決して僕の周辺の人を指しているのではありませんし、例え方は適切とは思えません。ですが、彼女と幾たびか熊と森の関係を語り合って、断じてブレない姿勢には、つくづく呆れてしまった経験があるのです。もう少し、引くことをしないと、合意形成は難しいのにとしばしば思います。それでいて、その頑固さにはなんとも言えぬ純粋な精神が張り付いていて清々しさをも感じるのです。

 その純朴そのものの優しさと厳しさは、荻巣樹徳さんにも共通しています。荻巣さんとは長い付き合いがあり、幾度か議論もさせていただきました。紛れもない植物学における天才であり、その存在は「日本の宝」だと思います。過去の種々の議論の中で、昨今の世間の俗物的風潮の蔓延に異議を唱えられる時の厳しさたるや、怖いほどの迫力を感じます。

 それは中川さんも同じだと思われます。ただ、世間一般が天才的感覚を持った科学者や医学者の厳格な姿勢を分からぬことが多いのかもしれません。近寄りがたい怖さを感じる旨の発言を散聞することがあります。そういう人だとわかっているつもりの僕が、今回取り上げた『がん練習帳』の面白さにはたまげるほどでした。読まれた人にはどういう意味かお分かりでしょう。実に見事な両面性ぶり発揮とは僕の誤解でしょうか。(2025-7-4)

 

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