新年に入って続くイスラム過激派にまつわる事件は看過できない重大な問題をはらんでいます。この間に夥しい報道がなされたものをそれなりに読んでみましたが、思うこと大なるものがあります。ここではわたしにとって印象深いものをあげてみて今後の考察の出発にしたいと思います。今日ここにいたるまで、わたしがこのテーマを取り上げなかったのは、直ちに反応することに躊躇するものがあったのです。まず、フランスでの出版社への狙撃事件です▼これについては、ちょうどその気分を代弁する発言が、爆笑問題の太田光氏の「黙るということが必要な時もあるんじゃないか」とのテレビでのひとことでした。彼の気分とは正確には違うやも知れませんが、わたし的には、単純に「表現の自由」で押し通せないものを感じて、発言がためらわれたのです。フランスの歴史学者のエマニュエル・トッド氏が「フランスは文化的道義的危機に陥っている。わたしも言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続けるシャルリーエプドのあり方は不信の時代では有効ではない」と発言、併せてこうしたことはフランス本国では言えず、日本だからこそ言えると述べていたのには大いに感じ入りました。また、日本のイスラム問題の専門家である酒井啓子氏の「(シャルリーが)毎年しつこくキャンペーンのごとく(風刺画を掲載し)続けることに、イスラム教徒は自分たち全体が侮辱され差別されていると感じている」との指摘も傾聴に値すると思います。何事も中庸が肝心だと思わざるを得ません▼次いでイスラム国による後藤健二さんら二人の日本人殺害事件です。これも多くの論評を目にしましたが、最も感銘を受けたのは、これは「単純にテロという表現で済ますと反感を招くだけ」だという指摘です。現代イスラム研究者の宮田律さんのある座談会での発言ですが、意表を衝かれた思いがいたしました。日本人からすれば誰しもテロだと思っているでしょうが、「イラク人から見れば、米国に抵抗している武装集団であって必ずしもテロリストではないかもしれない」との指摘です。また、今回の人質の交渉をめぐってヨルダンを拠点にしないで、トルコにすべきだったというのはその通りだと思えます。イスラム国からすればヨルダンという国は、敵対包囲網の一角を形成しているわけだから、敵視せざるをえないわけです。こうした視点は重要です▼わたしが今回の事件を考えるときに、同じ地球上で生活をしているといっても、異時代を生きている民族や国家は相互に理解し難いということに思いを馳せざるをえないということです。例えば、東アジアでも北朝鮮と韓国、中国と日本ではかなり生きている時代状況が違います。北朝鮮は近代以前(プレモダン)ですし、中国、韓国は近代(モダン)真っ只中といえましょう。それに比べて日本はポストモダン、つまり近代以後の時間を先行しているのです。この四つの国でも相互理解は難しいものがあります。同じようにイスラム国は近代以前を強く意識した人たちで形成されているだけに、欧米各国や日本などポストモダンを生きる国々とは様々な面で受け止め方が違ってきます▼1914年の第一次大戦までのオスマントルコの支配から英国の占領下へと変遷を経て、やがて米国の進出で自分たちが生息する地域を滅茶苦茶にされたとの怨念が彼らには強いということを意識する必要があります。そういう意味では日本は二重三重に慎重な態度で挑まないと、欧米と同一視されてしまいます。テロは許されないという一点だけに寄りかかっていると、イスラム過激派の思いが理解できないことを知る必要があるということを痛感します。(2015・2・6)
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親から子へ世襲される弁護士のたたかい
暦の上でも大寒とあるだけに、寒い日が続いています。このころは鶏始乳ーにわとりはじめてとやにつく、といって七十二侯でいう最後の時候。新暦では一月の終わりになりましたが、旧暦ではそろそろ元旦。私は毎年この時期は改めて新年を迎える気分になって、思いを新たにするようにしています。そんな折、久方ぶりに地元姫路の名士たちと集い会う機会が二つありました。一つは、市長主催の新年会。もう一つはある弁護士事務所の開設10周年と所長の新旧交代式です。代議士を引退して二年。あまりこうした集いに出ることはなかったのですが、今回は気分転換もあって出席してみました▼親から息子への代替わりの場とあって、後者には心和む雰囲気がそこはかとなく満ちた楽しいものでした。実は父親の弁護士とは長い付き合いで、ほぼ毎朝姫路城周辺を走る仲間でもあります。尤も、私はせいぜい10キロ走れば十分のジョガー。彼の方は近く行われる姫路城マラソンにも出ようという本格的なランナーです。しかもスキューバダイビングも大好きな水陸両用のスポーツマンという強者です。一方、息子氏は、彼が司法試験に合格して修習生仲間たちと一緒に国会見学に来た時に会って激励したことがあります。直接会うのは、それ以来なので実に10年ぶり。見事に成長した姿を見て新鮮な驚きがありました▼姫路を中心にする播州地域には120人の弁護士がいるとのことですが、この事務所は弁護士が4人、スタッフが9人という総計13人にも及ぶ大所帯です。30歳台半ばの新所長の手腕が期待されるところでしょう。弁護士の数が多すぎるという声があります。21世紀初頭に行われた司法制度改革で増やしてみたものの、現実は想定外の展開だといいます。要するに弁護士になってはみたものの食えないという事態が起きているというのです。議会の場で法曹人口を増やすことに先鞭をつける側にいた私としては、「過渡期なのだ、一人ひとりが競争に打ち勝つ強さをもつべし」と言うしかありません▼法律に通暁して、その知識をもとに縦横に活躍するひとたちも少なくないようです。ある新聞に「豊かな地方とは」とのテーマで、『降りてゆく生き方』という映画のプロデュースをして成功を収めている弁護士のインタビュー記事がありました。上昇志向ばかりが強い中にあって発想の逆転を衝く面白い試みだと感心したものです。とりわけ団塊世代を取り扱った堺屋太一氏の小説に反発しているところが私には好ましく思えました。もう彼の考えは古いと思うからです▼政治家の中には弁護士出身者がかなりいます。わが公明党がひときわ際立っていることは周知のとおりです。現役時代の私は、弁護士は今前に横たわる法律を解釈する存在だが、代議士は今前にある現実を変えるために法律を作る存在だといって、自らを鼓舞したものです。両方兼ね備えているに越したことはないのですが、非力なわが身としては、敢えて政治家の本分は崇高なものであって、弁護士などには負けていられないという姿勢を示さざるを得なかったのです。世襲政治家の弊害が語られて久しいものがありますが、さて弁護士の世襲はどうなんだろうと思いを巡らしゆくうちにめでたい披露宴は、お開きとなっていました。(2015・1・31)
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図書館での政党機関紙の取り扱いについて
このところ姫路城のすぐそばにある市立図書館に行く機会があります。新聞全紙を見るためです。現役時代はかなり直接購読していましたし、国会内部で見る機会も多かったのですが、引退するとなかなか多くの紙面を見ることがなく、結局は図書館が一番便利なのです。ただ、毎日行くわけにはいかず、まとめ読みすることが多く、ひどいときは4紙、5紙を一週間分読むこともあり、35日分の紙面をザーッと追っかけることもあります。我ながらよくやるなあ、と感じ入ったりしています▼昨年秋頃に初めて行ったのですが、その折に気になったのは、新聞棚の上に日本共産党の機関紙「赤旗」を綴じたものが堂々と置いてあったことです。誰かが取り出したまま置き去りにしているのかあ、と思っていました。ところが、それから二、三回行ってもいつもその場所、つまり他の新聞は全て棚に入っているから目立たないのに、棚の上にある「赤旗」だけは目立つことこの上ないのです。なぜだろうか、気になりました。誰かがわざとそうしているのか、と思うとともに、「赤旗」だけを購入して置いて、他の政党機関紙は置かないのかと疑問に思いました。そこで、図書館長に会い、そのあたりのわけを訊いてみたのです▼すると、「赤旗」は、図書館が購入しているのではなく、寄贈によるものであり、個別にいれるだけの棚のスペースがないので、外に出したままになっているとのことでした。そこで、私は早急に棚を用意してそこに収納し、放り出したままにしないように、他の新聞と同様に取り扱うべきだと申し入れたのです。最初はスペースがないなどぐずぐず言っていましたが、「では公明新聞も寄贈すると、置くか」というと、しぶしぶ赤旗のスペースを作ると言うのです。公明党としてどうするのかは市議会の判断ですから私はそれで引き下がりました▼政党機関紙をどう扱うかという問題は結構大事だと思います。日刊紙としては、「赤旗」と「公明新聞」だけです。「赤旗」については、かねて一方的で偏向した記事が多く信用できないということは定評があります。「公明新聞」は、今や与党唯一の発信媒体として、各界,各方面など多くの方々から好評を得ています。出来れば、どの図書館にも置いてほしいものです。このあたり全国の図書館ではどのようになっているのでしょうか。各自治体ごとに恐らく方針は違うのかも知れませんが、姫路市も対応を検討してほしいと考えています。(2015・1・23)
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テロ、戦後70年歴史論争など上京先で議論
今年初めての上京をしました。二泊三日の滞在期間に、25人の懐かしい人びとや新しい方々との対話をしましたので、この報告をかいつまんでいたします。15日の夕刻に到着するなり六本木で行われた姫人会に。これは姫路出身で東京で活躍してきた人びととの懇親会です。私が国会議員の現役時代に交流を培ってきた仲間たちで、この日は5人が集まりました。元日経記者で今は東京工大の副学長をしているOさんや元厚生労働省の課長だったYさん、ほかに大手大企業の幹部や女性企業家です。この日の話題の一つはフランスでのテロ。テロは断じて許されないものではあるが、「行き過ぎた風刺画は果たして言論,表現の自由の範囲内なのか」ということも話題になりました。私は、同時代に異次元の世界が混在する中では、自ずと規制が必要だとの持論を展開しておきました▼二日目の16日はお昼にNPO 法人デジタルファースト出版会(出版はまず電子書籍からというもので、私が副理事長を務めている)の朽木事務局長とこれからの新事業のありかたについて意見交換をしました。大学生の文章表現力をどのように向上させるかをめぐって、電子書籍を活用しながらの方法論に議論は集中。私は懇意にしている大学准教授らの意見を求めることを約束しました。午後は、国会におもむいて公明党の政務調査会メンバーや中小企業庁の政策企画担当者らと中小企業政策で議論しました。私が顧問をしているAKR(オール小売り連合)の15年に及ぶ実績をもとに、中小企業の与信力を向上させるためにはどうするかが焦点に。どう具体化をするかを今後の課題として検討してほしいと要望しておきました▼この日の夜は、元公明党番記者たち6人との懇談会に出席しました。20年という長きに渡って付き合いを続けている仲間たちです。今回の話題の一つは、戦後70年を迎えての「歴史観」をどう捉えていくかとの点になりました。出席者から『正論』2月号の小川榮太郎氏による論考『戦後70年 火を噴く歴史戦争 偉大なる常識』が取り上げられ、故岡崎久彦氏の昭和史『重光・東郷とその時代』からいかに学ぶべきことが多いかということについて問題提起がありました。私は、岡崎氏の著作はほとんど全て読んでおり、同時に氏も一員だった「新学而会」のメンバーだっただけに、大いに興味をそそられました。この一年間の最大の課題として考えるいいきっかけを戴いたものとして捉えていこうと決意しました▼最終日の17日は昼と夜に、懐かしい先輩二人とそれぞれ食事をしながら懇談しました。一人は出版社社長のO氏。もう一人は医事評論家で作家のN氏です。O氏との議論は、出版界でいま話題になっている佐藤優氏の仕事ぶりに集中。月刊誌『第三文明』の2月号から新しく連載が始まった東日本国際大学教授の松岡幹夫氏との対談「創価学会とは何か」も対象になりました。松岡氏が日蓮仏法における僧籍を持っており、キリスト者としての佐藤氏との対談は極めて面白い内容になるものと思われます。私は佐藤氏はまさに天才だと思っているのですが、同時代に生きる宗教者同士として大いに関心を持ち続けていきたいと思っています。夜のN氏との話題は、彼が医師資格を持っていることもあり、「健康」になりました。N氏からは渥美和彦東大名誉教授の『医者の世話にならない生きかた』という本が現代人と医者の関係について、いかに本質をついているかとの話がありました。私はこの本は未読のゆえ、さっそく読むことを約束する一方、患者学の必要性を訴えました。賢い患者になるためには日常の生きかたが大事であることを強調したのです。25人の人びととの対話を思い起こしながらの新幹線の車中は疲れもあって読書はあまりはかどらなかったのは残念でした。(2015・1・18)
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毎日を自分の一番若い日として丁寧に感謝して過ごそう
ことしも早や10日余りが過ぎました。「極楽の日は短い」っていいますから、あっという間に今日を迎えたという人は楽しい日々を過ごせたということでしょう。お正月の新聞各紙を毎年じっくりと眺め比べることを習慣にしてきた私は、いつもなら全紙をまとめ買いして読んできたものですが、今年はそれを止めて図書館で読むことにしました。まとめ読みですから、多少ずれは出てきますが、静かな環境で読むには最適ですし、お金もかからず最高です▼今年は戦後70年。朝日、読売の二紙が正面からこの課題に取り組み、朝日が「鏡の中の日本」と題する連載記事の第一部を開始しています。話題の『21世紀の資本』の著者トマ・ピケティによる「失われた平等を求めて」というインタビュー記事(1日)もさることながら、私にはニーアル・ファーガソンの「西洋からの警鐘」(3日)に強い興味を惹かれました。アメリカで今若い世代の中国人が懸命に学問に励んでいる姿を礼賛している中身です。欧州もそうでしょうが、日本との差に強い衝撃を受けたのです。読売は二人の論者を登場させて戦後70年を概括させています。トップバッターは、H・キッシンジャーと御厨貴さんとの対論でしたが、久方ぶりに読むキッシンジャー氏の,「日本の役割熟慮の時」にあった⓵日米同盟継続⓶中国が存在感増す北東アジアへの接近⓷より国家主義的政策という選択肢が日本の前にあり、どれを選ぶかが問われているというものに興味をそそられました。御厨さんの「新しい時代が始まろうとしているが、なかなか踏み込めない日本」との指摘とともに、時代の転換期を実感させられました▼各紙とも正月には大型対談を企画します。大変に面白かったのは、読売の橋本五郎氏と渡辺和子さんの「本当の自由 自分との戦い」でした。人生後半を生きるにあたって、残された歳月はこうだから,その間に何をしようかといった「逆算はいけない」との橋本氏の考え方は、同世代でしかも個人的にも親しい人の弁だけに読ませました。それに対して渡辺さんの「時間を大切に、毎日を私の一番若い日として丁寧に感謝して過ごすこと」との一言がずっしりと響きました。この人は9歳の時に実父渡辺錠太郎(当時・教育総監)が目前で銃殺される(2・26事件)という経験をしているうえ、修道女として教育者としての見識に基づく幅広く深く優しい心遣いが感ぜられる注目のひとです。この対談でも随所で味のある見方や言葉を披露してくれていますが、「不機嫌は環境破壊」なる言葉にはしびれました。笑顔に裏打ちされた上機嫌こそ最高の環境なのだ、と▼日経は「働きかたNext」という連載で新年をスタートしましたが、産経や毎日同様にいつもの定番企画、つまり正月の晴れ姿よりも平服で新年を迎えたとの印象が濃かったです。とくに毎日の紙面はインパクトが弱かったのではないでしょうか。辛うじて、黒田日銀総裁の「日銀はデフレファイター 決意は浸透」とのインタビュー記事が光彩を放っていたように思います。ともあれ、新聞は世界の鑑であることには違いありません。ネット,映像の時代にも負けずに頑張ってほしいものです。(2015・1・11)
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小っちゃくておっきい「てにをは」の違い
新年明けましておめでとうございます。皆様お元気で新たな決意の年をお迎えになられたこととお慶び申し上げます。本年もよろしくお願い申し上げます。さて、新年早々細かなことでいかがかと思わないでもありませんが、私は元旦の日経新聞のトップ記事「働きかたNext」の見出しを見ていてあれこれ考えました。この記事の狙いは、職場に女性や外国人、シニア世代が増えてきたり、長時間労働や年功を前提にした働き方が限界にきている。だから慣習にとらわれない、時代にあった働き方を創ろう、その主役はあなたです、というものでした。で、見出しは、「変えるのは あなた」でした。戦後七十年を迎える今日、一人ひとりが変化を恐れず、職場を見つめ直そうというのです▼「変化」を巡っては、色々と思い出があります。上はその究極としての社会革命から身近なところでは、自分自身の変革に至るまで、まさに「変化」することは人間にとって一大事です。勿論、変わらざることが大切で、不動の姿勢が最高だとの考え方もありましょう。しかし、おおむね今の環境を変えたいということは期待値が高いものです。その場合、客体としての環境を変えるのか、それとも主体としての自らを変えるのかは、なかなか難しい選択です。今の私が到達した結論は、環境を変えるには、まず自分自身を変える、つまりは「変えるのは あなた」ではなく、「変わるのは あなた」というのが最も適切な気がしています▼「え」と「わ」、一字の違いですが、意味するところは大きく違ってきます。つい先ごろまで町中に貼ってあった公明党のポスターの字句も気になりました。「これまでも これからも 大衆とともに50年」というキャッチコピーです。50年変わらず大衆とともに歩んできた公明党らしいフレーズといえましょう。ですが、私にはこういうキャッチは、内向きで真面目過ぎないかと思えました。むしろ「これまでは これからは 大衆と共に進む公明党」といった方が、大胆で外向きには面白いのではないか、と。これまではともかくとしてこれからは応援してね、というニュアンスが含まれてきます。また、大衆と共に進む公明党の看板に偽りあり、と思ってる人たちには、公明党は自らをよく見てる、って思うでしょう。見る人がギョッとしてニヤッとできる方がポスター効果は大きいのです。このあたり、初夢っぽくて現実感に乏しいですが……▼このように「も」と「は」、で大きく違います。このように「てにおは」って小さいようでいて、文章の持つ味を全くと言っていいくらいに変えてしまいます。かつて、政治家になったばかりの頃、皆で外向けに発表する文章を作成していて、ある弁護士出身の仲間が「『てにおは』はどうでもいいよ、文章全体の論理構成が大事だから」と言ったことがありました。それはそうだが、論理構成にばかり気を取られていると微妙にニュアンスが違ってくるのだがなあ、と私は思ったものです。彼はその後落選し、弁護士に戻っていきました。私も今では引退し、言葉を大事に扱う新聞記者もどきの市井の物書きに戻りました。時の推移の中で変わらざるものを、ことしも追いかけ続けていきたいと思います。(2015・1・5)
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こんなことも、私はやってきた(下)
さて次に七月。私が現役の頃から関わっている骨粗しょう症ネットワーク(高石佳知代表)のセミナーの例会があり、参加した(三日)。これには大阪市大の医学部や大阪歯科大の関係者が毎回講師として来られ、高齢者に様々な面で参考になる話をしてくれて好評を博している。高石代表とはもう15年近く親しくしていただいている。歯に骨密度が象徴的に表れ、骨粗しょう症の予兆を見て取れるとの仮説を立て、それを解明するソフトを考案されたひとだ。他方、議員を辞めてから顧問をしている(株)クレスの社長・小田桐将彦氏が創価学会に私のいざないで入ることになった(六日)。この会社は、放置自転車などで崩されがちな都市の景観を、自転車のシェア化を進めることで大いに高めようと、全国の自治体に働きかけている意欲的な企業だ。自転車の活用促進に熱心な国会議員や地方議員に紹介したりしてきた。最初は苦戦したが、最近になって大きく脚光を浴びだしている。創造性溢れるダイナミックな小田桐氏が正しい信仰を得て大いに羽ばたくことを心底期待している▼八月。瀬戸内海の観光振興の一環として(株)ジェノバがこの夏兵庫県の南と北でクルーズを展開した。私はここの相談役を担っており、七月の淡路島・小豆島クルーズ(20、21日)に続いて、八月は但馬海岸でのシーカヤック体験(27、28日)に参加した。新温泉町の沿岸部から初めてジオパーク見学にも挑み、大自然のもつ威力の壮大さに圧倒された。瀬戸内海を日本海との比較でとらえようという試みだが、作家の石川好さんを中心に展開されて既に観光振興に大きな威力を発揮している「北前船寄港地フォーラム」との連動も考えられる。海原を目前に様々な思いを巡らせる旅になった▼九月。AKR共栄会の河田正興専務理事と一緒に兵庫県庁を訪問し、石井産業労働部長らと懇談した(25日)。AKRとはオール小売り連合の頭文字をとったもの。「共同仕入れ、共同搬送、共同保険」で、中小零細市場を大手スーパーから守る戦いを展開してきた実績を持つ。この日は、兵庫県下の中小企業信用取引の現場で,この仕組みを応用して使うことによって、売掛債権の重圧に悩む人びとを救済できると、政策提案した。後日、井戸県知事にも直接説明(10月22日)、大いに共感を得ることができた。今後のライフワークにしていきたいと決意する▼十月。現役時代に私は、衆議院予算委員会分科会でカイロプラクティックにまつわる誤った認識を糺せと、厚生労働省に迫ったとがある。一般社団法人・日本カイロプラクターズ協会(JAC)の統合医療顧問を現在している村上佳弘氏から厚労省副大臣時代に要望を頂いたことがきっかけだった。長く悩んできた私自身の腰痛も完全に治してもらった恩人だ。この村上さんらと厚生労働省医政局医事課長に会い、JACが公認するカイロプラクターズの名簿を届けることができた(16日)。いい加減なカイロプラクターのせいで、世間では危険なイメージが漂っている。その愚さを正していきたいとの思いを共有する私にとって、ささやかな一歩だが安堵することができた▼十一月。尼崎市公明党の土岐良二市議からの要請で党員支部会に出席した(6日)。彼が支部長を務める小田支部は、公明党支持者の密度が濃いところで、ある意味日本最強の地域だ。姫路以外でのこうした会合に出るのは引退後は珍しく、貴重な機会だった。彼は、私が初めて衆議院選挙にでた平成2年の選挙(次点で落選)で遊説隊長(当時姫路独協大生)をしてくれた頼もしい男だ。この日の講演で、私は衆議院解散の可能性に触れ、およそありえないと述べてしまった。わが身の不明を恥じるのはそれから10日もかからなかった。常在戦場をあらためて肝に銘じる▼十二月。総選挙投票日の14日まで、一気呵成で夜に日をつぎ走り回った。主に兵庫2区の赤羽かずよし候補を支援する戦いだった。彼は母校慶応大の13年後輩で、わが弟分になる。自民党代議士の応援を度々受けたが、小泉進次郎氏を迎えたJR新長田駅前は寒い中大勢の聴衆が集まってくださった(5日)。彼の演説は衆議院本会議で初めて聴いて以来だが、ひとの心を掴むのに長けており、ひょっとすると父親純一郎氏を既に上回っているかもしれないと思わせた。さらに、神戸国際会館での大集会開会前の名刺交換会には石破茂地方再生担当相がきてくれた(7日)。控室で20分ほど二人だけで懇談したが、今後の政局展望にとって味わい深い彼の考えを引き出すことになった。もちろん、これは明かせない。「先輩,先輩」といって、いつもおだて、たててくれる彼の前途に幸多からんことを祈る。(2014・12・31)
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この一年、私はこう動いた(上)
この12か月のわたし的活動のハイライトを取り上げて、一年の締めくくりにしてみたい。まず、一月。年来の友人からB型肝炎の訴訟を起こしたいので弁護士を紹介してほしいとの依頼を受けていた。担当してくれる玉田欽也弁護士(私の母校長田高出身)を伴って姫路市野里の福田宅へ(8日)。患者本人を含むご家族三人一緒にこれまでの医療機関とのやりとりを聴く。この患者は生来の重度身障者。すでに60歳を超えられたが、25年ほど前の私の初めての選挙いらい、いつも熱心に支援の闘いをしてくれたひとだ。なんとかこの訴訟は成功させたい、と決意▼二月。淡路島西海岸の海若(わたつみ)荘で、万葉学者の中西進先生らを招いて瀬戸内フォーラムが開催(公明党主催)された(9日)。私は、議員を辞めてから、瀬戸内海に内外の観光客を呼び集めるために奔走することに執心している。このため、裏方として参加したが、遠山清彦氏を始め党の生きのいい若手が多数参加してくれて大いに盛り上がった。必ず近い将来に大きく飛躍させたい、と誓う▼三月。今年始めから私は電子書籍の発刊に取り組んでいる。これはNPO法人デジタルファーストの副理事長としての仕事で、まず手始めに自ら友人との対談集を刊行することに。高校時代の友・高柳和江さんと飯村六十四君との鼎談(笑いが命を洗います)を皮切りに、中学校時代の志村勝之君との対談(この世はすべて心理戦)と続き、第三弾は小学校時代の竹馬の友で、今は住友ゴムの会長を務める三野哲治君と対談(運は天から招くもの)をした(19日)。これで、あとは大学時代の級友で慶応義塾大名誉教授・小此木政夫君、雅叙園社長の梶明彦君との対談へと続く。いよいよこの仕事も佳境に入り、大いに満足している▼四月。井戸敏三兵庫県知事と持田周三大阪朝日新聞代表(現、同顧問)とを合わせるために神戸の鯰学舎で会食する。知事とは同郷、同年齢とあって気が無類に合う。持田氏はかつての市川雄一公明党書記長の番記者で、私とも大変に親しい間柄。この二人、勿論相互に面識はあるが、私の仲介にのってくれ、この日の集いになった(22日)。知事は毎年の六甲山縦走に挑戦するほどの健脚。私は、姫路城周辺を毎朝一時間は走るほどの健脚。どちらが上かとばかりに,その場でスクワットで競い合ったりしてしまった。持田氏曰く「こんな70歳って,なんか変だね」と驚くことしきり▼五月。伊吹文明前衆議院議長が議長公邸に私を呼んで食事を戴きながら時局を論じた(29日)。これは、春先に偶々私が京都に出かけた際に、彼の個人事務所に立ち寄ったことから持ち上がった。伊吹さんとも長い付き合いで、大いにウマが合う。というよりも合わせてくださってきた。市川雄一先輩と太田昭宏国交大臣、井上義久党幹事長の三人も呼んでいただき、期せずして市川元公明党機関紙局長配下の仲間たちが集まった。先方は、大島理森副総裁、逢沢一郎議院運営委員長が同席。時あたかも集団的自衛権問題が山場にさしかかってきたころだったので、自公両党の腹の探り合いになった▼六月。私が顧問をしている日本熊森協会は、実践自然保護団体として極めてユニークで大事な戦いを展開している。初めてこの団体を知ってから20年近い。今、奥山保全のトラスト活動のために公益法人化が課題になっている。皆で力を合わせてこの目的成就に向けて立ち上がろうと理事会が開かれた(21日)。「クマたちの棲む豊かな森を次世代に」をスローガンに掲げるこの団体の同志たちのために私も貢献したいと立ち上がる決意をした。(2014・12・30)
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「災害文化」を発信し続け、事故死した貝原前兵庫県知事
それはまさに突然の悲しい知らせだった。さる11月13日、前の兵庫県知事・貝原俊民さんは、自動車の後部座席に乗っていて、横合いから突っ込んできたクルマに頭を強打し、亡くなった。同氏は、平成2年11月から10年8か月ほど兵庫県知事を務められた。その死を悼み、功績を称える県民葬が24日に行われ、生前に何かと交流のあったものとして私も参列させていただいた。佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団による「G線上のアリア」の献奏で始まり、途中、ご親族やその友人たちによるショパンの「別れの曲」ヴァイオリン献奏を挟んで、再び管弦楽団の「ダニー・ボーイ」の献奏で終わるという、美しい音の調べに満ち溢れた格調高い素晴らしい葬儀だった▼貝原さんを語るとき、忘れられないのは平成7年1月17日の阪神淡路大震災だ。就任されて4年余り、二期目に入られたばかりのことだった。以後、それこそ亡くなられる時まで、震災後への対応から「創造的復興」へと全身全霊を捧げられた。「災害文化」の発信において他の追随を許さない兵庫県を作りあげられた。震災直後の知事の立ち上がりが若干遅かったのではないか、とのある種”誹謗中傷”に近いような個人攻撃もあったが、その後の立ち居振る舞いはそうした論難を吹き飛ばして余りあるものだったと私には思われる▼今の知事である井戸敏三氏が私とは同い年の昭和20年生まれで、親しい友として何でも話せる仲だが、貝原さんは若干近寄りがたいものがあった。12歳、一回り上ながら父親のような厳しく煙たい存在であったのは、恐らく井戸知事も私も同様だったのではないかと思われる。しかし、それも知事を任期を一年ほど残して退任されてからはがらっと違った印象を受けた。介護を必要とされるようになった奥さんのために、その職を辞されたことを知って、大いに人間臭さを感じたものである。余力を残して第一線を退き、後方からの支援活動をすることも政治家の一生にとって極めて大事だとの教えを頂いたような気がしている▼それにしても彼の死が自動車事故死というのはなんとも痛ましい。かつて私は、兵庫県ではなぜ全国的にも稀な悲惨な事件が多いのかと悩み考えたことがある。児童の首切り事件や、死体をばらばらにして袋に入れ川に流すとか、高速道路上で死体を遺棄するなど、救いようのない事件が続出している。最近でも尼崎の家族内の連続殺人などが思い浮かぶ。阪神淡路大震災以降、ひとの心が荒んでいるからではないのか、と思うこともある。井戸知事は、兵庫県は日本の縮図だからだというのだが。知事経験者が交通事故にあうということも、県民に事故への警鐘を乱打しているように思えてならない。81歳の尊い生涯を無駄にしないためにも、災害からの安心・安全を訴え切った貝原氏の志を受け継いで生きたい。(2014・12・25)
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民衆のなかに育った党だけが持つ文化
大川清幸さんが亡くなった。公明党の元参議院議員であり、元都議会議員の重鎮だった。晩年は公明党の全国のOB議員団組織・大光会の中心者の一人だった。私も個人的にお世話になった。草創期の公明党にあって功績を残しながらも、その後の人生で様々な欲望に捕らわれて倒れていく先輩たちが少なくないなかで、常に変わらぬ熱い思いを持ち続け、戦い切られたひとだったと思う。公明党の50年を見守り、35議席を勝ち取る戦いを見据えて、その直後になくなるなんて、流石だと妙な関心をするのは私だけではあるまい。享年89歳だった。まだまだ後輩たちに範を示して頂きたかったと惜しまれる▼先日、兵庫県南あわじ市に住むある先輩OB議員が高齢者叙勲を国から貰うかどうか悩んでいるとの話を聞き、大光会仲間と3人でお宅を訪問した。日本の叙勲制度は複雑多岐にわたっているが、春秋の叙勲を授与される機会がなかった功労者に対して、年齢が88歳に達した際に授与されるものを高齢者叙勲という。公明党はこうした叙勲についてはすべて辞退をすることにしている。民衆の中から選ばれ、手弁当で熱き思いを持った人びとに当選させて貰って、その中で生き抜きそして死んでいくものにとって、国家による勲章は必要がないというのがその精神である。私はこれこそ公明党が天下に誇るべき文化だと思う。そんな話をその先輩議員にお話ししたところ、改めてその趣旨を理解いただき、こころよく辞退されることを決意された▼そのやり取りのなかで、私はある提案をすることを思いついた。国家による勲章ではなくて、我々仲間たちが先輩の88歳・米寿を祝うささやかでも心の籠った場をもってはどうか、というものだ。私が代表を務める兵庫県の大光会には200人近い先輩OB議員がいるが、そのうち88歳をすでに超えたり、近くその年齢に達するひとたちが20人ほどおられる。このひとたちは若き日に懸命の戦いをして地域に貢献されてこられた方々だ。今なおかくしゃくとしているひとは少しづつ少なくなってきている。その方たちに後輩としてお祝いの気持ちをあらわし、励まして差し上げたいと思う▼国家からの叙勲を授かるということは名誉だとの思いは、そう不自然ではない。とりわけ天皇への畏敬の念を持つ思いが強い年配の世代にとってはなおさらだ。しかし、それをご遠慮する、そこまでお気遣いをいただかなくとも結構ですというのも、また不自然ではないと思う。公明党の持つ他の党にない独自の文化は他にもある。例えば、勝手に個人的な海外旅行には行かない、どうしても必要な時には許可を求めるということもある。また、株式投資についてもすべきではないとの不文律もある。ともに、民衆のなかで戦うものにとって、普通のひとたちとの間に意識のかい離を生みださないように、との考えからだろうと思われる。窮屈ではないか、それでは自由がなさすぎないかとの批判もあろう。しかし、これも民衆の党としての文化、伝統なのだ。(2014・12・20)
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