Category Archives: 未分類

【43】「イラク戦争」で悪戦苦闘の日々ー平成15年(2003年)❶

●自公間の国家戦略の違いを超えて

平成15年(2003年)の始めのこと。讀賣新聞のコラム『政治を読む』欄に「公明党」「求められる国家戦略」との見出しが目に飛び込んできました。5日ほど前に私が国会リポートで『国家観の違いをどう乗り越えるか』とのテーマで書いたものが明らかにネタとして使われていました。書いた田中隆之記者は、当時よく私の部屋にきてあれこれと雑談をしていたので、そんな会話の中から閃いたものを生かしたに違いありません。案の定、コラムの末尾には、「今国会では、米国が検討している対イラク攻撃に伴う『イラク復興支援法』(仮称)、北朝鮮の核開発問題や教育基本法改正案などが争点になる。いずれも、国家観、国家戦略といった政治の根本にかかわる問題で、『政権を共にする政党同士が大筋で一致することが望ましい』(赤松正雄衆議院議員)のは当然だ。そのための党内論議を急ぐことが、公明党の責任与党としての成熟につながるはずだ」とありました。

私の発言をアンカー的役割を持たせて使ってくれたのはいいのですが、最後の締めくくり方が気に入りません。自公両党が国家観、国家戦略で一致することが望ましいのですが、そのために、公明党が党内論議を急ぐようにしろとの結論は、私的には不満足でした。つまり、両方の党にとって大事な課題なのに、公明党だけの課題のように言われるのは本意でないと思えたのです。早速に翌日の国会リポートで「国家戦略を求められるのは誰か」と題して、自民党にもその作業を促す論評を掲載したのです。このように、私は部屋に取材にやってくる記者との対話を通じて自分の政治家としてのものの見方、考え方を磨いていきました。かつて市川さんが私を壁打ちの壁にしたと同じように、私は記者を壁にしていきました。この田中隆之記者も、その後政治部長になり、論説委員長になっています。

●イラク戦争勃発に際して関西風問答

3月20日にアメリカがイラクに攻撃を開始しました。このところ不穏な機運が高まってきていましたが、やっぱりかという感じでした。直ちに公明党は、新たな国連安保理決議がないまま、米英軍が武力行使を開始したことは、まことに残念であり、遺憾であるとの党声明を発表、小泉首相が米国などの行動に支持を表明したことについて、神崎代表がやむを得ないものだとの談話を公表しました。これについて、一部野党は公明党がイラク戦争を容認したとか、「戦争賛成の公明党」といった短絡的なレッテル貼りの攻撃を仕掛けてきました。こうした事態に、党員、支持者の皆さんの間でも動揺は否めず、党本部にも批判の声が数多く寄せられました。地方議員も問い合わせへの対応でおわらわの場面が起きてきたのです。

私は直ちに、ファックス版の国会リポートで連日のように、その考え方をオープンにしました。中でも我ながら出色の出来栄えだと思ったのは、「イラク情勢をめぐる関西風一問七答」です。

まず問いは、「戦争はあかん。なんで米国は武力に訴えたんや。フランスやドイツがいうとったみたいに、もうちょっと時間かけて調べて、イラクを押さえこむべきやった。日本も米国べったりにせんと、いろいろ注文つけて説得せんかい」という風に関西弁にしました。答えも勿論、関西弁です。

「そない簡単に決めつけはんな。これは戦争ちゅうても、自分の国の中でも、毒ガスみたいな化学兵器や生物兵器つこうて残忍な殺人をしたり、国連が査察という調査をしようとすると、嘘、妨害、拒否をさんざんぱら繰り返して滅茶苦茶あくどいことをしとう指導者をやっつける懲らしめや」ーこんな感じで、ぜんぶで七つの答えを用意して分かりやすさを第一に、延々と続けました。

すると、東京新聞が『話のタネ』というコラムで「説明責任果たしまっせ」との見出しで、書いてくれました。先にも触れた高山晶一記者です。私のホームページをアドレス付きで紹介して、イラク戦争の解説を書くに至った経緯を説明。想定質問を引用した後で、こう続けていました。

「これは『テロ撲滅介入』みたいなもんで、普通の戦争とちゃうんちゃうか」「日本はいざという時(米国に)守ってもらうことになってるんやで」「北朝鮮ちゅうめちゃな国がそばにいてる日本はのんきにしとられへんで」などと説明している。公明党支持者の間では、イラク戦争をめぐる政府・与党の姿勢に異論も根強いが、赤松氏は関西人らしいやり方で「支持者への説明責任」を果たそうとしている。国民の理解を得るためには何でも試してみるという点は、どこかの首相より、ええんちゃうか」と。慣れない関西弁で締めくくってくれたのには笑えました。

●憲法調査会でも二回にわたり活発に発言

この頃、3月20日と27日の二日間にわたって、憲法調査会が開かれ、「イラク戦争」をどう考えるかについて、自由討議の場が持たれました。その際に私は以下のような発言をしています。

「12年間に17回もの国連決議がありながら、一向に自らの挙証責任を果たそうとしないイラクによって、大量破壊兵器がテロリストの手に渡る公算が極めて高いという現実に脅威を抱くアメリカを、だれが大袈裟だと言えるでしょうか。あの9-11以降、アメリカは変わったということの重みをまだまだ私たちはわかっていないという風に思われます」

「要するに、隠す気で有れば、(大量破壊兵器を)到底探し出すことなど出来得ないということを、私たちは悟ったのです。つまり、圧倒的に小さい、少量で大量破壊、大量殺人ということが簡単に果たせるのです。査察というのは、時間をかければいいというものでもないということを改めて知りました。査察をめぐる多くの誤解があることを、視察を通じて知ったことは大きな収穫でした。」(埼玉・大宮の陸上自衛隊化学学校に視察に行き、秋山一郎校長=元国連化学兵器禁止機関OPCW初代査察局長の話を聞いた、と述べた上で)

「あのボスニアヘルツェゴビナにおける民族浄化という事態に対して、NATOが空爆してからちょうど4年。あれは人道介入と言われましたが、今度は、似て非なるものというか、いや逆に、非だが似ているもの、というべきかもしれません。テロ撲滅介入と、私は呼びたいと思います。戦争はもちろん反対であります。同時に、大量破壊兵器にも反対です。そして、このテロ撲滅介入に立ち上がったアメリカの行動に、悲しみを持ちつつ私は理解できなくはないと言いたいと思っております」

今振り返ると、言葉を大事にしたい政治家としての真骨頂が出ているのではないか、と自分を褒めてやりたい気がしてきます。(2020-5-17 公開 つづく)

 

【43】「イラク戦争」で悪戦苦闘の日々ー平成15年(2003年)❶ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【42】小泉訪朝、イージス艦派遣などで活発に発信ー平成14年(2002年)❻

●高松市で知った「小泉初訪朝」の驚き

小泉首相の北朝鮮訪問のニュース(2002-9-17)を私が知った場所は、香川県高松市でした。公明党が当時「列島縦断フォーラム」と銘打ち、地域の各種団体、商工会議所の代表、各地方自治体の首長、そして党員や支持者の代表の皆さんらと意見交換をする企画のために訪れていたのです。浜四津敏子代表代行をキャップとするグループの一員でした。その日の日程を終えて、何人かと夕食をするために大衆食堂に入った時にテレビを通じて見たのです。小泉首相の果敢な外交・行動力に驚き、深い敬意の思いがこみ上げてきました。ただ、訪朝全体についての評価は、一週間後の私の国会リポートを見ますと、今後の拉致問題の推移を見ないと定まらない、と述べています。以下、中核部分を抜粋してみます。

「最後の最後まで拉致被害者についての事実を隠してきた挙句、小泉首相ら日本側の強い抗議に対して、一転従来の態度を翻し、謝罪をしました。また、いわゆる不審船を含め、日本国民の安全に不安を与えている行為について、過去に一部の者がやったことだとして、あっさり認めるに至ったといいます」「ですが、これは返って不自然で、むしろ、次のように言ってくれた方が理解しやすいと思われます」と続けています。

「日本と北朝鮮は今なお戦争状態が水面下で続いており、日本を倒すために、工作員の侵入が必要であり、そのために日本語の習得始め工作に必要な能力を培うべく日本人を拉致した。工作船はその行為のために必要であった。しかし、これらを続けることは、もはや経済状況の悪化、慢性的食糧不足による飢餓のため、困難になった。したがって、戦争を仕掛け、危機的状況を日本にもたらすことを断念せざるをえない。国家指導者として自らの責任を痛感する」ーこう言ってくれたら分かりやすいのに、と。あの時の私の正直な気分です。

さらに、「しかし、そうではなく、皆他人事のようにいわれると、いかにも信じがたい」と述べるとともに、「実際に日朝交渉を再開するにあたって、拉致問題について誠心誠意の対応がなされるかどうかが鍵を握っています。日本の過去について謝罪が表明されているのに、北朝鮮の現在についての謝罪がないという平壌宣言の不釣合いがもたらす疑惑を解消するには、拉致被害者が生きて帰ってくることです。それがないのに、しゃにむに国交正常化に向かうことは、さらなる禍根を残すだけ」と結論付けています。この小泉訪朝での「平壌宣言」からもうすぐ20年。結局は拉致問題について曖昧な状況が今なお続いていることは無念というほかありません。

●イージス艦派遣での私の〝賛成論〟が日経社説に

11月に、政府はテロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊のインド洋での活動を半年間延長することをきめました。アル・カイーダの壊滅がなされず、ドイツなど21カ国がアフガニスタンに展開する国際治安支援部隊の活動も続いており、戦いは終わっていないのです。そういう状況にあって、イージス艦を派遣することの是非が政治課題として浮上していました。新聞記者の皆さんから、公明党の見解をよく訊かれました。私は、11月11日付けの国会リポートで、自分の考え方をこう述べています。

「公明党の神崎代表が先週の記者会見で慎重論を表明したため、今回のテロ特措法の期限延長に伴って、イージス艦の派遣をすることは見送りの公算が高いものと見られています。私などは、この一年の経験を踏まえて、隊員が不安を感じるといい、イージス艦の派遣でそれが収まるというなら、出すことに反対ではありません。日本のイージス艦によって、より高度な情報収集能力が自前で完結するからです。(中略)日本は集団的自衛権はいかなる場合でも行使しないと、政策判断で決めているとの意思ははっきりしており、イージス艦を送る送らないは関係がないと思います」

これに日経新聞が飛びつき、20日付の社説に書きました。「公明党の赤松正雄衆議院議員は、ホームページ上で、イージス艦派遣に反対でないと書き、公明党内の慎重論の理由を『自民党幹部の中にも根強い慎重論があるなかで、公明党が先走るわけにいかない』と説明する」と。新聞が社説に一政治家の名前まで挙げて解説するということは稀れです。これを書いたのは同紙で外交・防衛分野を一手に引き受けて書いていた伊奈久喜記者でした。同社説は、「結局だれも表立って反対しないにもかかわらず、派遣が決まらない」と続け、「いったん政治問題化した以上、決着させるのは政治の意思である。それが発揮されなかった」と嘆いていました。伊奈さんは蝶ネクタイが似合うお洒落な着こなしの記者で、時々意見を交わす仲でしたが、4年前の2016年に急逝してしまったのはまことに残念なことでした。遺作となった『修羅場の外交交渉術』は読み応えのあるいい本で、もっと生きて沢山の本を書いて欲しかったと思います。

●『外交フォーラム』に私の〝見立て〟が掲載

この頃、『外交フォーラム』なる外交専門誌(田中明彦氏監修 現在は廃刊)の11月1日発行分の『「新しい戦争」時代の安全保障』という特集号の中に、私のことが紹介されました。「9-11の衝撃ーそのとき、官邸は、外務省は」というタイトルの無署名論考です。

「有事法案に至る一連の流れのなかで公明党は、ブレーキ役を果たしてきた。それに変化の兆しがある。公明党衆議院議員・赤松正雄は、有事法案にテロ、不審船などの新たな事態が含まれていないと党内で不満を述べた。党執行部は、有事法案の内容は限定的にすべきだと考えており対立を生じた。しかし、公明党の歴史を見れば、安保政策の現実化の流れは明らかではある。赤松によれば、公明党の歴史は次の三期に分かれる。

第一期は1964年から93年までの長かった野党時代である。反自民の小野党時代である。第二期は93年から99年までの非自民の新進党時代、93年から一年足らず細川・羽田政権で、与党にいた時期を除けば、いわば大野党時代である。第三期が99年以降であり、親自民・小与党時代である。公明党が与党に入ったのは、ガイドライン法と呼ばれた周辺事態法を成立させるためだった。2001年には時限法にしたものの、テロ特措法を成立させた。したがって有事法案など今後の安全保障関係の法制整備に当たっても公明党は大筋で現実的な対応をしていく。赤松はそう見る」ー誰が書いたか知らないけれど、私の見立てをほぼ忠実に再現してくれています。この見方は先年の安保法制の成立に至るまで、ずっと続いていくのです。(2020-5-14公開 つづく)

【42】小泉訪朝、イージス艦派遣などで活発に発信ー平成14年(2002年)❻ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【41】アウシュビッツ訪問で受けた衝撃ー平成14年(2002年)❺

●事態対処委員会の一員としてドイツへ

既に幾度か触れたように、有事法制を巡って国会では議論がなされ、私は様々な場面で発言をしていました。そんな折、議論の主戦場たる衆議院の武力攻撃事態特別委員会として、海外調査をする機会があり、メンバーの一員となりました。8月末のことで、訪問先はドイツ、ポーランド、スイスの三カ国でした。たまたま、この年の夏は、ヨーロッパを大洪水が襲い、エルベ川、ドナウ川流域の被害が大きく、ドイツはチェコスロバキア、オーストリアなどと並んで、大きな痛手を被っていました。旅の目的は、ドイツでは、有事法制を巡っての調査、ポーランドではアウシュビッツ収容所の訪問が主なものでした。なお、この旅では個人的都合で、スイスには行かず、単身、オーストリアを訪問しました。

ドイツでは、ポツダム会談の場所となったツェツィリエンホーフ邸で、連邦議会法務委員長のルペルト・ショルツ氏(元ベルリン自由大学教授、元国防大臣)との懇談が印象的でした。有事法制についてのドイツの体験や現状だけでなく、戦後処理やイラク攻撃への対応などテーマは多岐にわたりました。

ここでは、日独の戦後処理比較について、ドイツは戦争責任を明確にしているが、日本は曖昧だとの指摘について、私は日本国内での意見を持ち出してショルツ氏の考え方を聞いてみました。それは、ドイツは全ての戦争責任をナチスのせいにしただけで、国家としての謝罪や責任は明確にしていないではないか、というものです。つまり、ドイツの戦後指導者はやり方が巧みで、日本の指導者は下手だとの見方です。ショルツ氏はそれは誤りであり、ドイツは国としての責任は認めて、イスラエルやユダヤ人への高額の補償をしていると述べました。その上で、日本とドイツの国家イメージを比較されたのは興味深いものがありました。つまり、日本は戦前、戦後で国の有り様は全く変わっていないが、ドイツは新しく国を作ったに等しい、と。これが国際社会で決定的な違いを日独にもたらしたというのです。これにはなるほどなあと思わされました。

●ベルリンでの旧友との再会

実は、このショルツ氏について、前日にベルリン在住の大学時代の友人・梶村太一郎君から「明日君たちが会う予定のエルペン・ショルツ氏は大変な人物だよ。是非、文民統制などについて意見を聞くといいね」とのアドバイスを受けていました。梶村君は同地に住むジャーナリスト。時々雑誌『世界』や『論座』誌上に戦後のドイツと日本の戦争責任などをめぐっての対応ぶりの比較などで健筆を奮っていました。慶應在学中以来、実に35年ぶりくらいで、この時に再会をしたのです。

「ベルリンに住みついてもう四半世紀になるが、ここが気に入っているのは、この国で一番都会だからね。あとは全て田舎だよ。日本に比べて全く自由だし、気軽なことこの上ないよ」と言ってたことを思い出します。在ベルリンの各紙特派員との記者懇談会にも彼は同席していました。そこで、私は、今回の我々の旅の目標は、有事法制の整備状況だけではなく、戦後処理や歴史認識についてのドイツと周辺国との関係を調べることにある、と発言しました。これは彼を十分に意識してのものでした。

●やりきれぬ思いになったアウシュビッツ訪問

この視察旅で、大事な目的の一つは「ベルリンの壁」を見ることでした。既に一部を遺して撤去されています。私はかねてヨーロッパを舞台にした冒険スパイ小説に嵌っていて、ジョン・ルカレの『寒い国から帰ってきたスパイ』や中村正軌の『元首の謀反』などを読み、「壁」を生で見たいとの思いを強く持っていました。この時に現地に足を運んでの率直な感想は、意外に壁そのものが薄かったことでした。壁の裏側には、ナチスの秘密警察・ゲシュタポについての写真が展示されており、訪れた人々の目を奪っていました。アジアからの訪問者としては、南北朝鮮を隔てている〝38度線の境界〟に想いをいたさざるをえず、ベルリンと同様に消える日の遠からんことを祈ったものです。

さて、この旅のもう一つの柱は、ポーランドのアウシュビッツ訪問でした。第二次大戦中に、ナチスによって、ドイツ占領下の各地から、ユダヤ人、ジプシーたちをはじめとして、28民族、150万人もののぼる人々が次々と送り込まれて殺害された地です。ポーランドの首都ワルシャワから空路1時間、世界文化遺産にも指定されている古都クラクフから、さらに車で西へ54キロほど走ったところに、それはありました。

当時、日本語を使うたったひとりだけのガイド(中谷剛さん)が、真っ先に人間焼却炉の前に私たちを案内し、こう言いました。「毒ガスによってここで焼かれ、灰にされたという事実を知っていただければ、あとはもう説明などいりません。これで帰っていただいてもいいくらいです」と。囚人を鞭打つ台、監禁室、移動絞首台、飢餓室、さらには立ったまま身動きが取れない立ち牢など、およそまともな神経では考えられない悪知恵の限りを尽くした拷問の展示室のようなところに足早に案内してくれ、口早の説明を受けました。通常なら半日くらい、最低でも2時間はかけないと全体像が見えないと言われるところを、1時間で回ったのです。

ナチスが収容所から没収した生活用品などがガラスのショーケースに入った形で公開された建物でも息を呑みました。おびただしい数の衣服。身の回りのものを入れてきたであろうトランク、靴やブラシ。さらには遺体から取り外されたであろう義足や義手、メガネ。また、一見何だかわからなかったのが髪の毛の山。そこには三つ編みのお下げ髪まで。これらはもちろん一部で、現実には換金されたり、カーペットなど織物に化けたりしたといいます。

廊下には収容者の顔写真が展示されていました。一様に精気を感じることが出来ないものばかり。それでも絶望やら恐怖を窺わせる表情がなかったように思われたのは、収容所に着いてすぐとったものだからでしょう。未だ一縷の希望を持っていたに違いありません。まとめて毒ガスで殺され、捨てるのに面倒だから、焼却されるとは思っていなかったはずです。

やりきれぬ胸潰れる思いになった私は帰り道に、ようやくガイドの中谷さんと話す機会に恵まれました。「ポーランドにはいつから」「旧ソ連が崩壊し、東欧が次々民主化する前からです」「この仕事には」「5年ほど前から。もちろんこれ以外の仕事もしているのですよ」「日本人は大勢訪れますか」「ええ」

終始一貫暗い表情を変えずに、淡々と事実を述べていく彼に、もう少し脱線したり、明るい雰囲気でと、つい思ってしまいました。それではここで起こったこととの落差が大きすぎます。一切余分なことを拒否する峻厳な雰囲気が彼には漂っており、今でも深く印象に残っています。(2020-5-11公開 つづく)

 

 

 

【41】アウシュビッツ訪問で受けた衝撃ー平成14年(2002年)❺ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【40】「たったひとりの反乱」騒ぎに発展ー平成14年(2002年)❹

●「連立離脱」騒ぎを引き起こす

5-27から三日間、私はホームページの国会リポートで予算委員会集中審議の模様を上中下と三回にわたって克明に報告しました。見出しを並べますと、「体調不良か、超変人かー小泉首相の不可思議」(上)、「もはや『倒閣』に加わりたい気分」(中)、「難民問題に確たる方針なき現状あらわに」(下)といった具合です。このリポートを始めて3年あまり、回数にして180回を越えていました。少々調子に乗っていたかもしれません。確かに小泉首相は前回に見たように、新聞報道でもちょっとおかしいとの空気は漂ってはいました。ですが、「もはや『倒閣』に加わりたい」というのはいささかオーバーです。しかし、書いてしまったものは取り消せません。新聞各紙が飛びついてきました。

5-29、5-30付けで各紙がいっせいに書きたてました。「倒閣」に加わりたい 首相答弁に怒りー公明・赤松氏HPで(読売)、倒閣に加わりたい気分ー公明議員、ネットで首相批判(日経)、「熱冷めた」倒閣を宣言ー公明・赤松氏 HPで首相批判(東京)、公明・赤松氏「倒閣」宣言?ー鈴木氏問題首相答弁に不満(毎日)

これだけではありません。朝日新聞は、「さえない『盟友』」とのタイトルでのたたみ記事に、小泉首相 途切れる答弁、意味不明ー疲れたまってる?との見出しで、私とのやり取りを紹介。「赤松正雄氏の鈴木宗男代議士に関する質問に、なぜか瀋陽総領事館事件を持ち出して『非常事態にどう対応するのか、心構えが必要だ』。与党の一員の赤松氏ですら、自分のホームページに『でたらめな答弁』と書き込まざるをえなかった」と書きました。また、産経新聞は、どうしたの!?小泉さんー精彩欠く答弁/マスコミにも恨み節 公明・赤松氏「倒閣したい」ー与党から失望の声、との見出しで、事細かに報道しました。

●首相から間接的謝罪の弁届く

勿論、当選3回の人間が「倒閣」云々をひとりで口にしたところで、どうにもなるものではありません。ですが、そこがIT時代の微妙な側面で、一気にメディアに材料を提供してしまったということです。産経は、「党としてではなく、私個人の『反乱』」だと私のコメントを紹介しながら、「首相と公明党の微妙な関係も印象づける出来事といえそうだ」との論評も加えたのです。

この騒ぎは、首相からの間接的発信で一件落着しました。29日の夜に、「答弁に不満があるということなら、私の不徳の致すところかな」「質問が一つではない。前段、中段、後段があって、どれに答えればいいか全体を考えているもんですから」と釈明ととれる発言があったのです。讀賣新聞が30日付けで、「記者団に答える形で陳謝した」、と一段記事で書きました。尤も、同首相は、30日の昼に、公明党の中堅、若手議員と官邸でカレーを共にしながら懇談した場で、「あの時はヤジがひどくて、それをやり返したんだ。赤松さんは勘違いしたんだ」と釈明したと、東京新聞が掲載しました。この場に私は呼ばれていず、後で知ったのですが、結局はうやむやになったというところでしょうか。

この事件も、ひと段落がついた6月半ばになって、讀賣新聞が「政界投光機」というコラムで、「連立と独自性ー公明若手の『折り目』」という記事を村岡彰敏政治部次長が書いています。

小泉首相と私との行き違いについて触れた後、「その後日談である」、とした後にこう続けています。「赤松氏は、冬柴幹事長ら党幹部に、『不満があっても表に出すものではない』と注意された。ところが支持者からは、『よく言ってくれた』『非は非とすべきだ』という激励のメールが相次いだ」と、さらに「今月7日の公明党衆院議員団会議で、赤松氏は確信を持って主張した。『政治とカネをめぐる不祥事は、政治に清潔さを求めてきた公明党の過去を消し去るほど惨憺たる状況だ。連立のパートナーであっても、言うべきことを言わないと、やみくもに自民党を守ることになってしまう』」「公明党が自民党と連立を組んで二年半が過ぎた。政権の円滑な運営のために与党の連携を維持しつつ、どう党の独自性を打ち出すかは『永遠の課題に違いない』」「ここで注目すべきは、赤松氏の言動の底にのぞく自民党観と、政治構造の流動化の予感だ」と。

村岡記者は、このコラムで、公明党の中堅・若手の描く戦略は、〈今のうちに政策や政治姿勢における自民党との違いを明確にし、いわば『折り目』を付けておく。自民党の分裂や総選挙敗北など不測の事態によって連立解消に至れば、その折り目できれいに離れ、新たに政権を目指す〉ものであると、いささか大胆な予測をしているのです。私以外の公明党の人間にも取材をしたうえで、こういう結論に達したものと思われますが、まあ、「当たらずといえど遠からず」というよりも、〝当たらぬうえに近からず〟との感想を当時抱いたものです。この村岡記者はその後敏腕ぶりを発揮して、政治部長などを経て、今では同社の経営管理担当の副社長になっています。

●有事法制めぐりNHK日曜討論に出演

この頃、国会の内外で有事法制をめぐる議論が大きな争点になっていました。NHK テレビの「日曜討論」では、反対の立場が鮮明な社共両党に私は議論をふっかけたことが印象に残っています。例えば、共産党には、「我々与党は、滅多にないことであっても、万が一、外国から攻められたら、どうするか。いわば使ってはならないものを作っておく必要があるとの姿勢だが」、と前置きしたうえで、「あなた方共産党は、有事法制そのものに、反対なんでしょうか。二年前に日本共産党は、七中総で、いざという場合、自衛隊を使う必要がある場合には、使い方を考えねばならないという趣旨の決議をされていますが、それはどういうことなんでしょう?」と。

また社民党には、(抑止論は)古臭いとの発言をされたけれど、先週この場に出られたあなた方の党の人は、要するに、何も持たないのが一番いいという言い方をされていたけれど、それこそ古い考え方ではないのですか?」といったように。

●社共両党の安保観を問いただす

また、同じ頃、衆院憲法調査会では小委員会で、自由討論をしました。5月9日には共産党議員に、6月6日には社民党議員に、それぞれの党の安全保障観を問いただしました。これは、私の国会リポートで克明に一部始終を報告しています。それぞれとの細かな議論を掲載した後で、寸評をしており、注目されます。まず、共産党については、「中立自衛で、戦力や軍隊は持たない。しかも自衛隊は違憲という。そのくせ、なくすかどうかは別途考える。これではどうも分からない」と。

次に社民党については、「非暴力抵抗は美しい。実に。しかし、現実の責任政党としての政策選択肢は、そのような非現実的路線でいいのか」と。

今では見る影もない両党ですが、当時はそれなりに存在感がありました。それだけにこういう論戦が意味を持ったと思いますし、わたし的には手応えを感じたものです。(2020-5- 8 公開 つづく)

【40】「たったひとりの反乱」騒ぎに発展ー平成14年(2002年)❹ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【39】小泉首相との真剣勝負とハプニングー平成14年(2002年)❸

●小泉首相への初質問に立つー「季節外れの大雪現象」論を披歴

小泉純一郎首相に対する質問をする機会がようやくやってきました。5月9日のことです。武力攻撃事態法案などのいわゆる「有事法制」3法案を審議する特別委員会の場で、私は二日目のトップバッターとして立ちました。これは40分間、テレビ放映されました。実は、この質問は小泉さんが首相になってほぼ一年後に実現したもので、私としては満を持しての出番でした。冒頭に大要以下のような趣旨の発言をしました。後々このくだりを、色んな場面で使うことになります。自分としてはよほど気に入っていたに違いありません。

ー小泉総理の登場は、昨年の4月26日でしたが、様々な意味で話題を呼びました。それは、あたかも季節外れに大雪が降ったようなものでした。古い自民党政治の汚さをあたかも白い雪が覆い隠すかのように思えるものでした。しかし、雪はいかに積もろうが、必ず溶ける時がきます。雪は溶けると、かえってそれまでよりも汚い姿が露出してきます。今まさに一年が経って、当時の雪は溶けてしまい、かえって汚い姿、つまり自民党の醜い政治がむき出しになってきています。それを今度は大水で流さねばなりません。総理がそうされるなら、公明党はしっかり支えていきます。ー概ねこんな感じでした。

一年前の華やかなデビューは、季節が外れてから降る大雪のようだったけれど、結局私が懸念した通り、汚い地肌が出てしまい、自民党本来の姿がむき出しになってきたではないか。ここで一気に、大水で流しさる必要がある。その場合のセーフティーネットを張る役割は公明党が果たすから、やるべきことをやれと言いたかったのです。ただし、小泉さんだから(小さな泉の意)、あまり(流れは)大きくならないか、と余計な一言も忘れずに付け加えました。

●国際情勢をめぐる三つの視点を提示

有事法制関連法案に入る前提として、私は小泉首相に❶米国に言うべきことをきちっと言うべし❷アジアへの心配りを忘れるな❸日本独自の外交を展開せよーの3点を強調しました。❶については、日本はとかく米国にはものを言わないで追従する傾向がある、と。そうであってはならない。これはあたかも自民党と公明党との関係に似ているとの声があると、日米と自公とを対比させて質問しました。小泉首相は、自席から「そんなことない、公明党は言いたいこと言ってるよ」とヤジっぽく発言をした後、答弁席に立って「日本政府は米国にもどこに対しても言うべきことは言っている」と強弁しました。❷について私は、靖国神社への首相の参拝が「対中緊張」感をもたらしているとの観点から、配慮を怠るなと言ったのです。首相は、日中互いの立場があり、靖国神社に参拝することが、「日中友好を妨げるものではない」と述べました。❸については、具体的には、公明党がかねてから国連機関を沖縄に誘致するよう提案していることを挙げ、実現への努力を求めました。首相は、難しいが検討を重ねたいと従来からの姿勢を強調するだけにとどまりました。

本題の法案審議については、福田康夫官房長官とやりとりをしたあと、小泉首相に集団的自衛権問題については、「やれること、やれないこと」の整理をきちっとするべし、との私の持論を述べたうえで、首相の見解を求めました。首相は、人それぞれ色んな解釈や考え方があり、自民党内でも様々な角度から研究して欲しいと言っていると述べました。初手合わせは、私があれこれと持論の披歴をするばかりで、あまり噛み合った議論にはならなかったとの記憶があります。ただし私としては、言いたいことを言った満足感はありました。

●ハプニング招いた二度目の首相質問

二週間後に開かれた衆議院予算委員会(5-22)で、再び小泉首相とTV中継付きで質問することになりました。ロシア支援委員会問題と瀋陽総領事館事件の二つをテーマにした集中審議でした。前者は、鈴木宗男氏のロシア支援にまつわる証人喚問などを受けてのもの。後者は、中国の武装警官が瀋陽にある日本の総領事館に立ち入り、亡命を求めた北朝鮮住民を連行した事件です。実はこの時の私と小泉首相とのやり取りは少々変でした。実はその辺りについて、日刊ゲンダイの記事(5-24 付け)が、「小泉首相 飛び交う重病説」との見出しでこう報じたのです。

小泉首相のきのう午前の国会答弁は、誰が見てもおかしかった。公明党の赤松正雄衆議院議員が、「鈴木宗男問題は特殊な人物がたまたま起こした出来事なのか、それとも他に原因があるのか」と、〝宗男問題〟について質問。小泉首相の答弁は、こんな調子だった。

「鈴木問題と、今回の瀋陽、ロシア支援委の外務省の対応は相手国も違うし、いろいろ問題もあるが、私はご指摘の対応ぶりというか‥‥(沈黙)外務省の‥‥(沈黙)大きな問題もあるとの指摘については、私は確かに指摘の点もあると思うが、要するに、普段から‥‥(長い沈黙)非常事態にどう対応するか、心構えが必要だ」いったい何を言いたいのか支離滅裂。さすがに「何を聞かれているか分かっているのか!」とヤジが飛び、質問者の赤松議員が「総理、ちょっと、お疲れのようで」と気遣ったほど。

この記事、議事録と照合しても、(見出しはいささかオーバーですが)、ほぼ正確。こうした夕刊紙に特有の誇張や誇大表現が使われているわけではありません。いやむしろ現実はもっと深刻で、新聞は少し自制を効かせすぎているとさえ思えました。なぜかというと、小泉さんは二つの問題を取り違えてしまっていました。私が鈴木宗男問題を訊いたのに、瀋陽総領事館事件についての外務省の対応ぶりを答えていたのです。私は限られた持ち時間(35分)なので、それ以上こだわることは避けようとしました。すると、後ろの野党席から「きちっと答えろ」「(質問)止めるな」「もっと分かりやすく質問しろ」と猛烈なヤジが飛び交いました。

あまりにうるさいので、私は「後ろのヤジに答えるわけじゃありませんが、もう一度今の前半部分のことにお答えいただきたい」と再質問しました。すると、小泉さんは「私ははっきり答弁しているつもりですよ。具体的に言っていただければ、はっきり答弁しますし、抽象的な点だったら、抽象的に答弁します」ーこの答弁で私は少々切れてしまいました。自分がでたらめな答弁をしておきながら、開き直って、はっきり答弁してるといい、そのうえ、「具体的に」という。要するに、私の質問の仕方が抽象的だと言わんばかりだったのです。しかし、その後は態勢を立て直して、最後まで質問しました。ですが、終わってから、私の気分が収まらなくなってしまったのです。5日ほどが経っていましたが、ホームページに心情を吐露してしまいました。それが飛んでもない波紋を呼ぶことになってしまったのです。(2020-5-6公開 つづく)

 

 

【39】小泉首相との真剣勝負とハプニングー平成14年(2002年)❸ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【38】雅子皇太子妃殿下との神戸での語らいー平成14年(2002年)❷

 ●阪神淡路大震災を記録する防災センターが完成

この年、平成14年(2002年)は、阪神淡路の大震災からあっという間に7年が経っていました。未曾有の犠牲者と大災害をもたらした、あの震災の全ての記録を残そうと、「人と防災未来センター」が神戸市内に建設されました。4月21日にオープニング式典、その前日にレセプションがあり、私も出かけました。レセプションの場に、皇太子ご夫妻がご出席されていて、参加者と短い時間ですがお言葉を交わしていただく機会がありました。お二人の間隔は少し離れた位置にあり、二筋の人の列が出来ました。私は雅子妃殿下の列に並び、順番が巡ってきた際に、二つのことを申し上げました。

一つ目の話題は、小和田国連大使(当時=妃殿下の父上)について。一度だけ飛行機内で隣り合わせになった時のことです。飛行機が離陸後、安定飛行状態に入り、食事を済ませられると、同大使はあっという間に、睡眠態勢に入られ、目的地のワシントンに着くまで、そのままの状態で眠り続けられたのには驚いた、と言うことを伝えました。旅慣れぬ私など、文字通り悪戦苦闘して、寝付けなかっただけに、極めて印象に残りましたと申し上げると、妃殿下はにっこりされて「あの人はどこでも寝られる人なんですよ」と言われたのです。

二つ目は、私の後輩の山本かなえ参議院議員が元外務省の職員だったので、同じ職場に勤務されていた妃殿下はご存知かどうか、聞いてみました。すると、「よく存じ上げていますよ。頑張ってくださいとお伝え下さい」とのご返事。まことに他愛もないことを話題にしてしまいましたが、実に丁寧にお応えいただき、嬉しい思いを抱いたことをよく覚えています。

大震災から7年。ようやく復興へのメドがついた神戸にそれまでも幾たびか足を運んでいただいたお二人の温かいお心に、心より感謝する思いを抱いたひとときでした。

●集団的自衛権問題で『世界週報』などに論文

また、この頃、集団的自衛権をめぐる議論も活発に行われ、私も様々な主張を各種の媒体に提起しました。そのうちの一つは『世界週報』4月16日号です。タイトルは「集団的自衛権を認め『やれること』『やれないこと』の明確化を」です。また、もう一つは、産経新聞の『私にも言わせてほしい』欄で「武力行使の一体化」をテーマに論考を寄稿しました。

『世界週報』の論文は、憲法を拡大解釈する勢力(いわゆる改憲派)と、憲法を縮小解釈するグループ(いわゆる護憲派)との二つの立場が、適正な解釈を妨げることになっていることを、4頁にわたってわかりやすく述べたものです。自分としては、出色の出来栄えだと今なお自賛できます。憲法の「改正」の是非を問う前に一度整理しないと、結局は「神学論争」と言われたり、逆におおざっぱな飛躍した論争だと言われてしまう、との趣旨です。

イメージ図を掲げつつ、以下のように表現しました。

憲法の適正解釈を正方形で表す。それを包む大円を描く際に、四隅にできる空間が拡大解釈部分を意味する。一方、正方形の中に小円を描くと、やはり四隅に隙間ができる。これが、縮小解釈部分を表現するわけだ。(図参照=ここでは省略)  あくまでイメージだが、これが長く日本の憲法や安保論争において取り沙汰されてきたもののポイントではないかと思う。このうち、集団的自衛権を巡って、今の憲法9条の規定ですべて認められるとすると、それは拡大解釈であろう。つまり、認められるものと、認められないものがあるということで、すべて認められないというのは、逆に縮小解釈であるということなのである。

このあと、具体的な例として、「9-11」のテロ事件に際して、NATOが発動した集団的自衛権の行使のように、アフガンに直接的な戦闘行動に参加することは、拡大解釈であり、後方地域で武器・弾薬の輸送を支援することなどを、武力行使と一体化と見なすのは縮小解釈だとしています。

産経新聞のコラムは、田原総一朗氏の「サンプロ」での発言や「週刊朝日」の記事に対する反論を書きました。周辺事態法は戦争法ではないのかとの批判に対して、「紛争に巻き込まれたら、その時点で業務を中断する、その意味では戦争に参画するものではない」と述べています。また、武力行使の一体化という概念については、「実力をもって阻止する行為そのものと、それ以外のものとは、区別した方がいい」と述べる一方、周辺事態法における対応については「憲法9条と前文の双方の精神を生かしつつ、日米同盟のきずなを強化していく『知恵』が働いている」と強調しています。

●安全保障問題議員訪米団に参加

安全保障問題を専門とする議員の訪米団の一員として、GWの只中の4月30日から4日間、ワシントンを訪問しました。これは「日米安全保障戦略会議」設立に向けての米政府関係者との意見交換と、ヘリテージ財団主催のシンポジウムへの参加などが主な目的でした。一緒に参加したのは、瓦力、久間章生、額賀福志郎、井上喜一、東祥三、末松義規氏らです。

この時のシンポジウムでの私のスピーチは、「世界同時多発テロと2つの失望」と題するものでした。一つは、ブッシュ米大統領が沖縄の米軍基地の縮小を言っていた(選挙戦で)が、「9-11」の結果、後退せざるを得ないこと。二つは、テロ対応として、これ以上の支援を日本に米国が期待されても期待外れに終わること。加えて、沖縄の米軍基地問題に触れ、日本は日米安保条約に基づき、ホストネーションサポートをしっかり行うが、米国はもっとゲストネーションマナーを弁えて欲しいと、強調しました。これは、米兵による婦女暴行問題、環境問題、軍事演習のあり方などを巡って傍若無人的行為が日常茶飯事であることを意識したものです。日米地位協定の差別的あり方に根源があるものですが、私はシンポジウムでだけでなく、米側との懇談の場でもしっかりと訴えました。

こうした言うべきは言うという私のスタンスは、少なからぬ反響を呼びました。旧知の各社現地特派員のお世辞的発言はともかく、米国に住んで40年が経つという沖縄出身のヴィクター・E・オーキムさんから、「沖縄に対するあつい心をお持ちのお話を聞かせていただき、感動いたしました。本当に嬉しかったです」との感想をいただきました。これにはこちらも感激しました。

この訪米は知日派として知られるアーミテージ国務副長官とも懇談する機会に恵まれるなど、なにかと収穫の多い旅ではありました。ですが、讀賣新聞の柴田岳特派員から、「多くの日本の国会議員が団を構成して訪米してくるけど、本当は個人で来られるべきですよ。そうでないと、実りある日米議員交流にはならない」と、きついアドバイスをいただきました。シンポジウムの時に、聴衆のひとりとして後部上方の座席にでんと座っていた彼のでかい身体に大きな懐かしい顔が、この言葉と共に、今もなお印象に残っています。(2020-5-3  公開 つづく)

 

 

【38】雅子皇太子妃殿下との神戸での語らいー平成14年(2002年)❷ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【37】鈴木宗男氏の証人喚問に立った日ー平成14年(2002年)❶

●不審船事件めぐり国交委で大議論

平成13年(2001年)の暮れに九州南西沖でいわゆる不審船事件なるものが起こりました。これについて新年早々の10日に閉会中審査(国会が休会中の時に開くこと)を行うことにしました。7党から9人の質疑者が立ち4時間かけての大議論になったのです。
不審船に対して、海上保安庁がとった行動をまとめると、次の5段階になります。①外見から外国漁船と判断②日本の排他的経済水域内において、いわゆるEEZ漁業法第5条第一項に違反して無許可で漁業等を行った恐れがあると判断③海上保安官が事実関係を確認するためにEEZに適用される漁業法74条第三項に基づき検査をするべく停船命令を繰り返した④当該船はこれを無視して、逃走したので、漁業法141条第二項に基づく検査忌避罪が成立、逮捕するため、巡視船及び航空機で追跡⑤なお、日中中間線を越えて、日本の排他的経済水域外に逃走したが、巡視船と航空機は、国連海洋法条約111条の二項及び第三条第一項第四号に基づく追跡権を行使した。

少々鬱陶しい書き方になりましたが、海上保安庁の行動がいかに法に基づいてのものであるかを改めて確認するために、詳しく記しました。これを見ますと分かりますように、海保が動いた法的根拠は殆どが漁業法違反との名目です。委員会では、これでは十分な対応は困難であるがゆえ、新たな法整備を急げとの提案やら❶領海外でも危害射撃をすべき❷海上警備行動発令前に準備命令ができるように法改正せよといった勇ましい問題提起がなされました。さらに、防衛庁と海保との共同対処についても積極的な意見が出た次第です。
私が国交委員長当時の議論ではこの問題が一番世の中の話題になりました。この時の議論で印象に残ったのは、海上保安庁の縄野克彦長官、防衛庁の首藤新悟防衛局長、北原巌男運用局長らの活躍です。

●予算委で鈴木宗男氏への証人喚問質問に立つ

この年大きな話題になっていったのが、自民党の鈴木宗男氏(当時衆議院議院運営委員長)の国後島における施設の建設工事の入札、個別事業者選定に絡んで関与したのではないかとの疑惑です。様々な経緯を経て、3月11日に予算委員会で同氏に対する証人喚問が行われ、私が公明党を代表して質問に立つことになりました。持ち時間は10分間です。この時のやりとりは5問5答だったのですが、実はその喚問に入る前提として、私は重要なことを述べています。この質疑は後々重要な意味を持つことになりますので、導入部を全文明らかにしておきます。

ー私は先の参考人質疑(2-20)における鈴木証人のお話を聞いておりまして、二つの大きな勘違いをされていると思います。それが今貴方が直面されている状況と非常に関係していると思うのです。一つは「ロシアやアフリカなどに取り組んだ政治家は自分以外にいないはずだ」と言われました。もう一つは、「自分は叩き上げであって、古いタイプの政治家だ」と言われました。しかし、これは2つながらに、ご自身誤った自己イメージを持っておられると思います。そこに、悲劇の原因があると思います。

前者については、確かにアフリカ、ロシアに関して、一所懸命にやっておられる政治家は貴方をおいていないかもしれない。しかし、同時にご自身の利権というものに対して強い関心を持っておられる。そこを優先されてるっていう政治家は他にいないだろうと思います。それから、叩き上げ、とおっしゃり、古い政治家のタイプだと言われました。ですが、貴方は、外務省の報告書を見る限り、人を叩いて上がってこられたんではないか。ご自身を叩き上げたというよりも、周りにいる人を叩いて上がってこられた人ではないかと、そういう風に言わざるを得ないのです。

こう発言したのですが、自身を叩き上げたのではなく、周りを叩き上げて上がってこられたというくだりで、予算委員室は爆笑に包まれました。本題に入って、私は様々な要職についてきた鈴木氏が人事の介入などを通じて、越えてはならない一線を越えたのではないか。感覚が麻痺してしまったのではないかとの観点からの質疑をしました。鈴木氏は終始一貫、真摯な答弁を展開しました。最後に、「ご指摘をしっかり受け止めないといけないと思っています。(中略)外から見れば、もたれあいだ、さらには癒着だと言われる構造があるかもしれません。この点重々私自身反省しながら、今後対応していきたいと思っています」と述べられたのは、印象に強く残りました。

実は鈴木宗男氏は、私の選挙の応援に陰ながら支援の手を差し伸べてくれていました。気に入った人間とは党が違っても関係構築を惜しまないという、度量の大きい政治家ではありました。また、当選後にも幾たびか懇親の機会を持つなど、私とは個人的に親しい関係にあったのです。それだけに、証人喚問をするというのはやり辛さは否めなかったのですが、手ごころを加えず、厳しい追及をしました。このやりとりは後々今に至るまで、尾を引くことになるのですが、それはまた追って触れることにいたします。

●「有事法制」巡って与党内や憲法調査会で議論

2002年の通常国会は、「有事法制」を巡って本格的な議論が展開されることになります。私はこの分野の担当政調副会長として、活発に動きました。政府当局がまとめた法案は、国会提出する前の段階で、自民、公明の議員で構成されたプロジェクトチームで揉むわけです。三月下旬に開かれた同チームの定例会では、有事(災害時も含む)に際して、国が地方自治体に指示する権限やら、物資の保管命令など私権制限にあたって罰則を設けるかどうかなどで、議論が白熱しました。加えて、大規模テロや不審船対策が盛り込まれていないことにも言及されました。この辺りのことについて、3月21日付けの讀賣新聞「スキャナー」欄で、「有事法制 はや異論」「国の権限 自×公対立の構図」などと書きたてました。しかも、「危機対応に穴」ー「『テロ』盛らず、与党内から批判相次ぐ」などの見出しで、いささかオーバーに書いています。「テロへの対処をどうして考えないのか」との自民・石破茂氏の発言と並んで、私の「小泉首相は武力攻撃に至らない事態を含めて考えろと言っていたはずだ」とのコメントも掲載されていました。

また、この案件は衆議院の憲法調査会でも取り上げられました。この当時(3月末から4月にかけて)、衆議院では4回の小委員会が開かれたり、沖縄県での公聴会を開くなど活発な議論が展開されました。とりわけ5月3日の憲法記念日の前に全委員による自由討論は盛りあがりました。この時に、「有事法制は現行憲法と相いれない」と、社共両党の議員が発言。これに対して、私は「九千九百九十九まで平和構築の努力をしても万が一、有事に直面したら努力は水泡に帰す。万が一の準備をするのが政治の責務」と、強調したのです。これは4月30日付けの朝日新聞「憲法を考える」欄に掲載されました。(2020-4-30公開 つづく)

【37】鈴木宗男氏の証人喚問に立った日ー平成14年(2002年)❶ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【36】「9-11」同時多発テロと「新しい戦争」の時代ー平成13年(2001年)❹

●生映像で見た「9-11」の衝撃

2001年の9月11日(日本時間でいうと、前日の午後9時頃)。私はNHKテレビの特集番組を観ていました。ちょうど姫路城の心柱を取り替えることの大変さを、事細かにやっていました。姫路城が築城400年で修理を始めるということで、歴史的な経緯を追っていた番組でした。なかなか見応えがある中身でした。世界文化遺産としての姫路城がいかに作られ、そしてそれを維持していくことがいかに重要で大変かを思い知った、その直後のこと。画面に突然、あのニューヨークのビルに飛行機が激突するシーンが映し出されたのです。あたかも映画の一シーンのように。何が起こっているのか。にわかに信じられない一瞬でした。これが虚構でなく、まさにリアルタイムでの実況中継になっていることに気付いて、ことの重要さに驚愕したのは少し時間が経ってからでした。「破壊は一瞬、建設は死闘」という人生の師・池田先生からいつも聞かされてきた、重みのある言葉がつい浮かんできました。

あの巨大ビルが航空機の体当たりで破壊される姿を観ていて、衝撃的で未だに脳裏に焼き付いているような場面があります。ビルから逃れるために、階段を懸命に降りて行く人々と、真逆に下から上に向かって消火活動に向かう消防士たちの交錯する映像です。暫くしてのちに、巨大なビルが崩れ落ちて行くわけですが、ほんの少し前に、誇らしげ(そう見えました)な顔つきで、登っていった勇者の姿が今もなお瞼から消えない気がします。仕事とはいえ、犠牲を厭わぬ献身的な勇姿に胸詰まる思いがしました。米国本土がこんな形で空爆の対象となるとは。本当に驚くとともに、誤れる宗教的信念に基づく、一部のイスラム教徒たちの自己破滅的行為に心底から恐怖感を抱きました。21世紀が始まっていきなりのこの恐怖。「新しい戦争の時代」の幕開けを実感したものです。

●大沼保昭先生宅でジェラルド・カーチスさんと

この「9-11」の衝撃はその後の国際政治に大きな影響を与えていくのですが、私的には、ジェラルド・カーチスさんと、大沼保昭元東大教授との懇談会が忘れられません。大沼さんとは、中嶋嶺雄先生及び市川書記長とのご縁もあり、大変に親しくさせていただきました。残念ながら先年帰らぬひととなられたのですが、東大での最終講義を聴講させて頂いたり、ご夫人や娘さんらと共に親しいお付き合いさせていただきました。この懇談会は杉並の大沼宅で事件の一ヶ月後の10月10日に開かれたのですが、当初市川さんも参加される予定でしたのに、急遽都合がわるくなり、私一人の参加となりました。

カーチスさんは、周知の通り、『代議士の誕生 日本保守党の選挙運動』で著名な米国コロンビア大学教授などを歴任した政治学者です。東大でも教鞭をとったこともあり、大沼先生とは懇意でした。お会いした三ヶ月ほど前にも『永田町政治の興亡』という新刊本を出したばかり。ここでの懇談で、極めて印象深かったことは、カーチスさんの圧倒的な怒りでした。冷静たるはずの学者とはとて思えぬ異常さでした。日本人の立場ーというか私個人のスタンスからすると、米国が狂信的イスラム教徒に狙われる理由はそれなりにわかるのですが、そんなことはとても言い出せない剣幕でした。米国の強いナショナリズムのあり様を思い知った一幕でした。大沼先生はその時も讀賣新聞からコメントを求めておられており、ファックスを通じて原稿のやりとりをされていましたが、いつも通りのこの人らしい鋭い見方を提示されていたことを思い出します。

●同時多発テロを受けて各紙のインタビュー受ける

「9-11」の米国発の同時多発テロを引き起こした事態を受けて、私は讀賣新聞と東京新聞のインタビューを受けました。10月8日、11月6日の両紙の紙面を飾ります。どちらも今なお、新鮮味を失っていない中身だと自負できます。
まず讀賣から。

ー公明党は今回、湾岸戦争当時と対応が違うが?
赤松)現代文明の利益を享受しているすべての民族に攻撃を仕掛ける相手に立ち向かうことは必要だ。実力行使には抑制的でなくてはいけないが、なおかつ国際社会で名誉ある地位を占め、一国平和主義の落とし穴に陥らないために、どうすべきかを一生懸命考えている。反文明、反法治のテロに、『ノー』という意思を早く示す必要がある。緊急対応するための特別措置法を作ることには支持者も納得してくれると思う。
ー武器使用要件の緩和と憲法の兼ね合いは?
赤松)武器の使用は重要な懸案で、同じ場所にいる外国人要員を守れない国連平和維持活動(PKO)協力法の規定は少し縛りすぎだ。(中略)憲法が禁止しているのは、国権の発動としての武力行使であり、(武器使用要件の緩和を集団的自衛権の行使と結びつけるような)厳密な『縮小解釈』は問題だ。国と国という伝統的な戦争概念を超えた『新しい戦争的犯罪』と言うべき今回の同時テロに対し、従来の自衛権に関する解釈にとらわれすぎると対応が難しいのも事実だ」ー以下略

ここで注目して欲しいのは、私が「縮小解釈」なる言葉を使っていることです。昔も今も憲法の「拡大解釈」を問題視する向きは多いのですが、「縮小解釈」という表現を使う人はいないようです。適正な解釈をせずに、厳しく縛りすぎるのは〝過ぎたるは及ばざるが如し〟のようだと、私は言っているのです。この時の讀賣新聞のインタビュアーは、穴井雄治記者。この人当時は公明党番記者でしたが、あれから20年。今では、雑誌『中央公論』の編集長になっています。

次に東京新聞。

ーテロ対策法は周辺事態法より武器使用範囲が拡大した。平和外交を掲げる公明党は変わったのか?
赤松)自衛隊員が自己の管理下に入った者を守ったり、同じ場所にいる他国の要員を助けるというのは自分の身を守るのと同じ次元の話だ。(中略)」はっきり言って公明党も変わってきている。『こんな政党じゃあなかったのに』というのは固定した見方。政党は時代に合わせて進化していかなければならない」
ー公明党が与党内で果たすべき役割とは?
赤松)紛争を起こさせないための『予防外交』に力点を置く。非政府組織(NGO)を活用したり、米国一辺倒ではなく、多方面の外交に目配りしたり、公明党が貢献する分野はいくらでもある」ー以下略

この時のコラムは、「政治家に問う『新しい戦争』と日本」というタイトル。私のものの凸版見出しは、「時代に合わせ進化する平和の党」でした。主見出しは、「武器使用縛りすぎは酷」。袖見出しは「『予防外交』で歯止め役に」。当時、ここまで言い切る公明党の人間はいなかったはず。それなりに注目されました。この時の東京新聞のインタビュアーは、高山晶一記者。やはり番記者でしたが、今は、同社政治部長。私が付き合った記者の皆さんは、みんな優秀だったなあと改めて感じ入っています。(2020-4-28公開 つづく)

【36】「9-11」同時多発テロと「新しい戦争」の時代ー平成13年(2001年)❹ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【35】国交委員会の顔として国の内外へー平成13年(2001年)❸

●衆院国土交通委員長としての闘い

衆院国土交通委員長の仕事として、通常の委員会の仕切りとは別に、道路建設をめぐる会合に出席することがしばしばありました。5月末の一週間には三回も出ました。22日に日本道路建設業協会懇談会、23日に全国道路利用者会議、25日には道路整備を求める全国大会といった具合です。それぞれ、道路舗装などの関連業者、トラック輸送などの運輸業者、地方自治体関係者によって構成された会合です。

小泉純一郎首相は就任直後から道路特定財源の使途見直しを打ち上げていました。つまり、道路を作るってことを特別視しないで、他のものにも使えるように一般財源化しようというのです。これでは道路整備を求める関連業者、自治体、そしてそれに連なるいわゆる道路族といわれる国会議員たちも困ります。勢い、私が出た三つの会合でも「首相発言何するものかは」とばかりに、従来通りの道路建設に全力あげますとの発言が相次ぎました。どういうわけか、公明党には道路建設のエキスパートが多く、22日の会合には、森本晃司、太田昭宏、井上義久氏と三人もの有力議員が来ていました。この三人も力強い発言をされたことはいうまでもありません。

23、25日の会合は、いわゆる総会方式の会合で共に委員長としての挨拶を求められました。とりわけ、25日に砂防会館で開かれた道路整備大会は熱気溢れる雰囲気の中、扇千景大臣と私の揃い踏みとなり、少なくとも私の気分は盛り上がりました。

●ユーモア忘れぬ挨拶で自己満足

扇大臣は、15本もの政府提出法案が国土交通委員長によって生殺与奪が握られているなどと、私への気配りを混ぜた、かなり長い話でした。かつてある総理大臣が「皆さん、スピーチは短く、幸せは長く、そして道路はしっかりと、です。以上、終わり」とやって大受けしたとかという小話をつい思い起こしました。私は「出来ることとと、出来ないこと」をはっきりさせる姿勢の扇大臣ですから、首相の目指すところに、どう対応されるか、固唾を飲んで見守っているとの言い方で、政府中枢に下駄を預ける無難な話をするに留めておきました。

尤もそれだけでは、私の気分はおさまりません。ちょうど同席していたのが大石久和道路局長と、この大会の新しい会長が私の地元の赤穂の北爪市長でしたから、こう締め括りました。「もし、道路建設をめぐる動きが皆さんの意に添わないものなら、大石さんのもと、赤穂の討ち入りといった事態も起こりかねないと存じます」と、ユーモア混じりのサービスも忘れずに付け加えておきました。他愛もないエピソードですが、ちょっとしたスピーチにもウイットとユーモアを忘れぬ私の姿勢を出せたことに、自己満足したものです。

●扇千景国交大臣との出会い

2001年の小泉純一郎第一次内閣では、様々な意味で話題を呼ぶ人の入閣がありました。公明党的には坂口力さんが厚生大臣と労働大臣の兼務(2000年末)から、初代の厚労大臣に就任したことが大変重要な意味がありました。医師の資格を持つ人が大臣になるのは坂口さんが初めてです。自民党的には医師会との関係から、従来医師資格を持つ人は遠ざけられた経緯があったようですが、公明党ということで実現したものと見られます。坂口さんはこのあと、縦横無尽の活躍をされていきますが、それはまた後で触れることにします。

小泉内閣の〝目玉閣僚〟の一人は、紛れもなく、女優出身の扇千景さんでした。この人は参議院議員でもあり、これまで私とは特に深い関係にはなかったのですが、実は委員長主催の懇親会で、私はこういう話をしました。

実は、私が昔に見た印象深い映画に、皆さん御覧になったかどうか、『36人の乗客』というものがあります。36人の乗客が乗っているバスの中に、犯人がいる(乗客35人と犯人1人)というもので、なかなかスリル満点の面白い映画でした。小泉博さん主演で、志村喬さんらの名優も出ていたサスペンス映画でしたが、実はそのバスの車掌役が誰あろう扇千景さん、今の大臣だったのです。その時は誠に可愛い女優さんでした。ずいぶん若い時に観たのですが妙に覚えているんです。それは脚本の出来栄えもあったのでしょうが、やっぱり扇千景さんが‥‥。

扇大臣は、「まあ、あの映画を赤松委員長は観てくださったの?」と、その場で声を上げてニコニコ。ただそれだけの話ですが、一場の座興としては上出来だったと自負しています。なお、今ではこういう委員長主催の懇親会は、予算の都合上取り止めになっていますが、当時は未だやっていました。引き出物まで出すしきたりがあり、その中身を何にするかを考えるのが委員長の役目だったのです。通常地元の名産にすることが多かったのですが、私はそれを地元とは全く関係のない「赤玉ポートワイン」にしました。何故かっていうと、与党の筆頭理事が赤城徳彦氏(後の農水相)、野党の筆頭理事が玉置一弥氏だったからです。つまり、赤城の赤と、玉置の玉と、二人の頭文字を取ったしだい。これまた一座興ではありました。従来からの慣例に身を任せるだけで、無駄使いはやめようということに気がつかず、戯れ言にうつつをぬかしてた、至らない身を恥かしながらここで告白しておきます。

●団長としてフランスからスペインへの視察旅に

国会の委員会は、数年に一度海外視察の機会が巡ってきます。実は私が委員長に就任したこの年がたまたま国土交通委員会に当たる年でした。どこへ何を調査に行くか、全て委員長に決める権限があります。私は、都市の再生に向けて街づくりをどう進めるか、高速道路網や高速鉄道網の実態はどうなってるかーこうしたことを目的に、フランスとスペインに8月24日から31日までの7泊8日の日程で行くことを決めました。

フランスは日本の新幹線とあらゆる面で競うTGVと呼ばれる高速鉄道網を持っています。そして首都パリは歴史と伝統に輝く建造物をあまた持ちつつそれを保存し、かつ同時に新世紀に相応しいものにすべく、再開発に取り組んでいる都市です。また、スペインでは、港湾都市のバルセロナは万博やオリンピックなどのイベントを通じて街づくりを巧みに展開してきた都市です。さらにこの国はAVEなる高速鉄道網を持ち、フランスと並ぶ欧州での一大観光国です。当時の日本はまだまだインバウンドにはほど遠い国だっただけに、この両国から多くを学ぼうと勢い込んで向かいました。

この視察旅は、フランスではパリのほかに、高速鉄道で2時間離れたディジョンのアルケ・スナン(サリーヌ・ロワイヤル=世界文化遺産の製塩工場)を訪れました。また、スペインではバルセロナの他に、マドリードから車で1時間かけてトレドにも行きました。ここは街全体が世界文化遺産です。この地はまさに中世そのもので、時間と空間を超えて、タイムマシンに乗って到着した素晴らしい場所でした。

この視察旅をした際の私の新国会リポートは帰国後の9月3日、6日、7日と上中下の三回に渡って報告を克明に発信しています。一番最後に、「都市再生が小泉政権にとって重要な課題に浮上している今日、様々な意味で刺激を受けることが出来ました。日本らしさや各地域の個性を生かしながら、政、官、民すべての知恵を結集してこの課題に取り組みたいと決意しています」と。(2020-4-26公開 つづく)

【35】国交委員会の顔として国の内外へー平成13年(2001年)❸ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【34】産経「書架」朝日「窓」欄などに次々登場ー平成13年(2001年)❷

●出版の余波あれこれ

2001年に発刊した『忙中本あり 新幹線車中読書録』は、新聞メディアが相次いで取り上げてくれました。掲載順でいくと、最初は産経新聞月曜版の書架欄(2月5日付け)。「HPの『読書録』で問題提起」との見出し、写真付きでデカデカと。13字詰め79行も。「本を読むことで幾重もの人生を経験できる。書店に並ぶ大量の本をみて『こんなにあるんだから読みきれない』といった友人もいましたが、だからこそ読まなければ、と思ったんです。五十代のいま、失われた四十代を取り戻しているところです」とのコメントが我ながらまぶしい。ついで、東京新聞「大波小波」欄。「見識を国政に」が見出し(5月2日付け)。ここでは、最後の数行が私にはきつくこたえました。「この人の読書領域は実に広い。駅頭などで見かけるそんじょそこらの議員センセの自己宣伝用国会報告よりも、肉声が聞かれて親近感がわく。ただし、その豊かな見識を国政に生かせなければ、本物の読書とはいえまい」ーおっしゃる通りです。

次に朝日新聞夕刊の「窓」(論説委員室から)欄(5月21日付け)。タイトルは「読書家議員」。「政界では市川氏に忠実に支えてきたというイメージが強かったが、最近は「読書家」の方が通りがよいようだ」「書評が評判になるにつれ、『本業に差しつかえる』などと心配する声が党内から出る。それには党外の知人らが『政治家こそ言葉を大事にすべきだ』と逆に励ます」ーどちらも有難いご指摘でした。エコノミストの「著者に聞く」7月24日号にも。「僕の読書録は、本を通じた『現代』の切り取り」ー「自分がどんな本を読み、そこから何を得て、何を考えているかとくことをさらけ出すことは、政治家にとって究極の情報公開だと思っている」と、聞き手の小松浩毎日新聞記者に語っています。この人は後に同紙論説委員長になる敏腕記者。彼はまた、翌年の毎日新聞「人」欄にも私を取り上げてくれました。

●日経新聞「交遊抄」や週刊紙にも登場

日経新聞エンドページの『私の履歴書』欄の下に掲載される「交遊抄」は、様々な人たち相互のお付き合いが窺える面白いコラムですが、この年の5月2日付けでは「アジア通に学ぶ」と題して、私の担当となりました。ここでは「アジア・オープン・フォーラム」を通じての恩師・中嶋嶺雄先生から始まって、一緒に台湾に行った曽根泰教慶大教授、伊豆見元静岡県立大教授らとのつながりを紹介しました。最後4人目には我が級友の小此木政夫慶大教授。「アジア研究の第一人者である方々の話は知的刺激にもなり、政策を考えるうえで参考にさせていただいている」と結んでいます。思えば、他にも朝鮮半島問題を専門とする学者や、台湾問題、中国問題に熟達した友人が私の周りにはなぜか多いのです。

中嶋嶺雄先生といえば、中国問題の碩学ですが、この頃、ある週刊紙の『私の週間「食卓日記」』なる連載コラム(5月31日号)に、私のことを書いてくださいました。その内容はある意味で衝撃の中身(笑)でした。「4月26日(木)(前略)虎ノ門パストラルで公明党代議士赤松正雄君の傑作『忙中本あり』の出版記念会。同君は私が慶応大法学部に出向していた時の教え子である。小泉新内閣に知人が何人か入閣した夜で、政界の面々や山崎正和氏、石川好氏らの旧知も多かったが、今夜は私が発起人代表なのでパーティではサンドイッチを少々つまんだ程度。帰宅後は明朝渡さねばならない新著の校正が深夜までかかり焼菓子で空腹を満たす」と。ー先生、すみません。何か持って帰って貰う気配りをするべきでしたのに。

●参議院選挙での「連合5党協」の動き

この年の夏の参議院選挙では、兵庫選挙区にちょっとした異変が起きました。1992年までは定数3だったのですが、1995年からは定数が2となってしまい、公明党は挑戦が難しくなりました。ところが、その次の1998年の選挙では共産党が一議席を奪取。このため、公明党は、2001年の選挙ではなんとしても共産党を通させまいとして、自民党を推す一方、一部民主党にも支援の手を差し伸べたのです。新進党結成当時から、自民党にとって代わる勢力の構築をということで、労組連合との相互協力も進んでいました。いわゆる「連合5党協」と呼ばれた仕組みがそれです。その背後には兵庫県の労組「連合」のリーダー・石井亮一さんの存在が大きかったといえます。彼は我が母校・長田高校の大先輩。私の同期の石井道信君の兄貴ということもあって、親しみを感じるところがありました。その上、兵庫県民主党のトップ本岡昭次さんとも私は妙にウマがあいました。というようなわけで、この年の民主党の候補者・辻泰弘氏に部分的支援をした次第でした。

そうしないと、共産党にまたもや一議席を奪われかねない恐れがありました。こんなことで、選挙直前の新聞(朝日新聞7-20付け)には、「兵庫で公明、民主に協力」ー「見返り狙い敵に塩」「非共産で利害一致」などと大きく報じられました。そこでは私の「民主というより、昨年の衆院選で支援を受けた連合兵庫が推す候補を応援するという意識が強い」とのコメントが紹介されています。選挙制度の変更で小選挙区に出られず比例区に回った私とは違って、兵庫では2区赤羽一嘉、8区冬柴鐵三の二人の小選挙区候補が、厳しい選挙を余儀なくされていました。水面下では一票でも欲しい壮絶な闘いが展開されていたのです。

こうした兵庫県独自の闘いに揉まれていく中で、のちのち花開く多くの付加価値を得ることが出来たのです。                                  (2020-4-24公開 つづく)

【34】産経「書架」朝日「窓」欄などに次々登場ー平成13年(2001年)❷ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類