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【73】クラスター弾をめぐる福田首相と公明の連携ー平成20年(2008年)❸

●去年の熱気は何処へやら今年の憲法記念日

ねじれ国会が続いていることもあって、平成20年の憲法記念日は、国民投票法の成立を経た後の一年前と違ってすっかり低調でした。メディアも「政界改憲熱 今は昔」「首相抑制 民主も乗らず」「打開へ再編期待の声も」(朝日新聞5-2付け)と書き立てました。首相が安倍さんから福田さんへと代わったことの影響です。

福田首相は施政方針演説で、憲法については「全ての政党の参加のもとで真摯な議論が行われることを強く期待している」というだけで、明らかにトーンは前任者に比べて低いものでした。中山太郎自民党憲法審議会長は、「『私の内閣で改憲を目指す』とした安倍前首相は間違っていた」と明言したうえで、「福田首相はよくわかっていて、発言も過不足ない」と改憲にはやるのではなく、じっくり国民の意見を聞くことの大事さを指摘しています。

公明党は5月1日に、新宿駅前で街頭演説会を開き、太田昭宏代表が「憲法3原理を堅持し、環境権やプライバシー権など新しく提起された問題を加えて補強していく」と、加憲の立場を強調していました。そんな中で、私は朝日新聞にコメントを求められて、以下のように発言しています。

【国会での憲法論議は開店休業状態。解散・総選挙でもなければ、この事態は打開できないのではないか。選挙後に与党と民主党が伯仲すれば、双方ともじっとしていられなくなる。リトマス試験紙は憲法。それぞれの改憲派が衆参で一気に3分の2の党派を形成するとは思わないが、憲法にどう向き合うかは、再編の焦点になるだろう】

一方で、中山太郎氏も「政界再編の可能性だってある。このままでは終わらない」と述べていたり、前原誠司前民主党代表も安全保障をめぐる超党派の会合で「憲法改正を経ずに、政府見解の変更を積み重ねてきたのはもうそろそろ限界。与野党関係なく議論していかなくてはいけない」と発言したと報じられています。こうした当時の空気を反映して私のコメントも出したのですが、改憲論者と見られる危険性が付き纏いました。昔も今も私の基本姿勢は、今に生きる日本人がより良きものを求め続けて憲法を議論することにあり、不磨の大典の如くただ護りぬけばいいというものではないのです。

●クラスター弾禁止での見事な連携と首相の洞察力

コロナ禍中にある今では〝クラスター〟なる言葉がよく使われています。意味はぶどうの房のような、小さいかたまりを指します。兵器におけるクラスター弾とは、通称親子爆弾ともいわれるように、通常のケースに小型の爆弾が多数入っていて、爆撃と共に多方面に弾が飛び散るもので、殺傷力も高い危険な兵器を意味します。第二次大戦でも使われ、戦後長きにわたって紛争の現場で使われてきていました。日本でも自衛隊は所持していました。

しかし、大量の不発弾がいついかなる時に爆発して市民を被害に巻き込むかもしれない危険性がありました。このため軍縮交渉の中で、全面禁止をすべしとの声が高まってきていたのです。世界における流れを受けて非人道的な兵器を排除せよとの主張が公明党でも存在していました。その空気を受けて、軍縮会議で決着することになる一週間前の5月23日に、浜四津敏子代表代行が福田首相に「日本がリーダーシップを発揮して、将来的にも全面禁止に持っていけるようにすべきだ」と、電光石火の申し入れを行いました。

実は日本政府の外交・防衛当局は当初、同盟国アメリカが参加していないこともあり、慎重な姿勢を崩していなかったのです。自民党も同様の空気が支配的でした。公明党における外交・安保分野の責任者たる私も、どちらかと言えば現状肯定論者で、腰は重かったことを認めざるをえません。福田首相への申し入れに同行した際に、談半ばで首相は私の方を向いて「赤松さんはいいの?こういうことで」と言われたのです。同首相特有の皮肉を感じて、私は苦笑いしつつ「ええ、もちろんです」と答えたのです。私の心の葛藤を見抜いたかのような首相の洞察力に驚きを禁じえませんでした。こうした公明党の提案に対して福田首相は、「私がうまく軟着陸させますので、お任せください」と答えていました。

最終的に2008年5月30日にアイルランドのダブリンで行われた軍縮交渉の結果、世界110カ国が全会一致でクラスター弾を即時全面禁止する条約が採択されました。この結果に対して、新聞各社は、「首相指示で一転」(毎日新聞5-30付け)と大きな報道をしたり、その背景として公明党の申し入れの影響力が大きかったことを指摘しました(朝日新聞同日付け)。公明党が連立与党に参加したことのプラスイメージを一貫して強調してきた福田首相らしい好判断でしたが、これまでの流れと違って、唯一わたし的にはそれに乗り切れなかった事例だったのです。

余談になりますが、一つ付け加えますと、当時、前述したような「新学而会」に、福田さんをお誘いしたことがあります。すると、彼は直ちに「いや、お断りします。(新学而会は)古い学者ばかりでしょ」と断られたのです。その時は意味があまりわかりませんでしたが、同首相のその後の「親中国」的姿勢を見るにつけ、なるほどと納得したものでした。学者のみなさんもさることながら、政治家の肌合いが合わなかったこともあったのだと思われます。

●クールアースデー制定を公明党が提案

公明党青年局はユニークな提案を様々に展開してきていますが、中でも特筆されるのが7月7日を「クールアース・デー」に制定し、地球環境の大切さを認識する日にしようというものです。「ユースポリシー2008」で提案を発表、全国で署名活動を展開しました。具体的には、この年の7月7日に北海道洞爺湖で主要国首脳会議(サミット)が開催されることに合わせて、各地でCO2(二酸化炭素)を削減するべく一斉に消灯(ライトダウン)し、天の川を見ながら地球環境の大切さを全国民が認識しようというものです。

6月9日に、太田代表と青年局の代表メンバーが福田首相に署名簿と要望書を手渡しました。首相は即座にその場で採用を決断。その日の記者会見で発表しました。環境省が呼びかけ、第一回目となる2008年7月7日は、東京タワーや横浜ベイブリッジなど全国7万に及ぶライトアップ施設で一時消灯が実施されました。

提案そのものはいかにも公明党らしいものでしたが、地球温暖化にストップをかけるための一大運動のきっかけには至っていないようなのは、残念なことです。(2020-7-25 公開 つづく)

 

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【72】癒しの環境作りをテーマにさわやか対談ー平成20年(2008年)❷

●癒しの環境を広げよう

私の学校時代の友人は多彩な分野で活躍しています。70歳になった年に、私は一計を案じて、小学、中学、高校、大学で共に学んだ仲間とそれぞれ対談を試み、それを電子本(キンドル版)に5冊にまとめました。小学校時代が、住友ゴムの元会長の三野 哲治君、中学校時代が元東京モード学園校長で臨床心理士の志村 勝之君。高校時代が、内科医の飯村六十四君と元日本医大准教授で小児外科医の高柳 和江さん。そして大学時代が慶應義塾大学名誉教授の小此木政夫君と元日本航空取締役の梶明彦君たちです。

この電子本を紙の本にしたいというのが私の夢です。本のタイトルは『現代古希ン若衆』と決めています。もちろん『新古今和歌集』をもじっているのですが、一人反対する者がいます。この中で、たった一人の女性である高柳女史です。曰く「貴方と高校同期って分かると私の歳がバレちゃうわよ。嫌よ、そんなの」。この一言で私の企みはオジャン。電子書籍のままの状態で眠っているしだいです。それぞれ売れてはいますが、微々たるものです。

彼女は、1977年から10年間、中東のクウェートで小児外科医として仕事をし帰国後、1994年に「癒しの環境研究会」を立ち上げ、2005年には「笑い療法士」の認定を始めたり、現在では笑医塾塾長として全国で講演活動を展開しています。「笑いが人間の免疫力を高め、健康になる」と訴え続けているのです。あるとき、良いアイデアを思いつきました。公明新聞日曜版で浜四津代表代行との対談を企画したのです。色々準備をしたうえで、2008年3月16日付けで実現しました。

この対談はそれなりに反響を呼びました。さわりの部分を紹介します。

高柳)クウェートから帰国して日本の医療現場があたかもコンクリートジャングルのような現状であることに驚きました。この現状を変えたいと「癒しの環境研究会」を設立しました。病院に一歩入っただけで、病気が良くなるに違いないと思える、いればいるほど元気になる、そんな「癒しの環境」が必要です。癒しの環境において、「笑い」はとても重要です。

浜四津)本来、「患者のための医療」のはずが、日本では患者の苦痛や苦悩が置き去りにされがちで、病気を治す技術だけが進んできた結果、医療に歪みが生じたのではないでしょうか。人間を大切にする視点を見失いがちなのは、介護も教育も、政治も経済も同じです。公明党は「患者のための医療をめざし、懸命に取り組んできました。

高柳)今まではリラックスする方の癒しが主に言われてきました。しかし、これからは自然治癒力を高める、さらには「絶対に治ってみせるぞ」との言わば「自然治癒力」が重要です。(中略) 病院はサポートするところで、患者自身が医療に関する基本的な知識を高め、治すのは自分だと自覚し、強くなることが基本です。

浜四津)医療も福祉も教育も、そして政治や経済も人間を幸福にするためにあります。その視点から社会の制度を見直していけば、社会の質を大きく変え、より豊かな社会にできると確信しています。

私はこの時は司会役に徹しましたが、さわやかな対談の実現に大いに笑い、喜びました。後に、高柳さんを交えての電子本で行った鼎談のタイトルは『笑いが生命を洗います』です。お読み頂ければ幸いです。

●くまが住める森づくり

国会議員になって間もない頃に、三宮駅前で街宣車の上で演説をしていましたところ、前方に「熊森協会」という見慣れぬ旗が何本か翻っていました。その旗のもとで青年たちがビラを配っていたので、あとで近づき、どういう団体なんですかと聞いてみました。すると、「森林の荒廃の予兆は熊の行動に表れます。熊を大事にすることが森林を大事にすることに繋がることを世の中に訴えている団体です」との答え。「ご興味おありでしたら、ぜひ一度一緒に森林を見に行きませんか」と、迫られました。爽やかな青年たちの姿勢にほだされて、しばらくたってから宍粟市千種町の杉林(針葉樹林)と、岡山県西粟倉村の若杉原生林(広葉樹林)を比較ツアーに行くことにしたのです。

そこで見たものは大袈裟のようですが、私のその後の人生を少なからず変えました。針葉樹林の方は、昼なお暗い杉林。陽のあたらぬ状況下で、ひょろ長い樹木が全く間隔も空けずに幾重にも折り重なるように存在していました。一方、広葉樹林の方は、ブナやナラの木が明るい陽を浴びながら、谷川のせせらぎをバックミュージックのようにして豊かな佇まいで広がっていました。前者の風景は今や日本中に広く見られるもので、こんなところには大型野生動物は生息出来ず、人里に舞い降りてくるのです。後者の地域では、昔絵本で見た熊が遊ぶ〝まほろば〟を連想しました。

この時を契機に、私は一般財団法人「日本熊森協会」に強い関心を持ち、やがて顧問に就任し、熊を大事にすることが森の荒廃を防ぎ、豊かな森林作りに貢献出来るのだとの信念を持つに至りました。さらに、姉妹団体として発足した公益財団法人「奥山保全トラスト」の理事にもなり、多彩な活動の応援をしています。国会の予算委員会分科会などでの質疑の機会にも、森林を生かすためには熊を大事にしようとの主張を展開しました。そんな私の闘いを見た日経の記者が「記者手帳」というコラムに、「こだわりの政策ー赤松正雄氏(公明)  」とのタイトルのもと、「クマが住める森づくり」との見出しで紹介してくれました。同年4月10日付けの夕刊です。全文紹介します。

【なぜクマは山を下りるのか。公明党の赤松正雄衆議院議員(62)が国会内外で問いかけを始めたのは七年前からだ。衆院予算委員会で農相にただしたこともある。「理由は日本の森林政策なんだよ」。謎解きの端緒は、クマの好物、ドングリ。広葉樹の木の実であるドングリが減った結果、餌を求めてクマが人里に下りてきた▲広葉樹の減少はスギやヒノキなどの針葉樹ばかりを植えてきた国の政策に原因があるという。建材需要を見込んだが、今は輸入建材に押されて手つかず。日差しが差さない暗い森は草木が育ちにくく、保水力が低い。土砂崩れの遠因になるだけでなく、「スギ花粉」でも悪名をとどろかせる▲問題意識を抱いたのは兵庫県西宮市に本拠を置く自然保護団体「日本熊森協会」を知ってから。今は自民党の保利耕輔議員らと共に顧問に就任し「クマが住める森」を合言葉に広葉樹の森づくりを訴える。山から下りたクマは田畑を荒らすことがあるため「クマと人間とどっちが大事なんだ」との声もしばしば。「クマは森の豊かさの象徴」と理解を得るのに一生懸命だ。(理)】

書いたのは、当時公明党担当の佐藤理記者。現在は政治部次長、総合デスクとのこと。彼との付き合いも今なお続いています。信頼する敏腕記者の一人です。

なお、昨年(2019年)5月、毎日新聞「発言」欄(2日付け)に「放置人工林の天然林化」と題した論考、神戸新聞「見る思う」欄(26日付け)に「豊かな森を取り戻すために」との論考を続けて寄稿。二つの団体のサポーターとしての役割を果たしました。(2020-7-23公開 つづく)

 

 

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【71】いち難さってまた一難苦難続きの福田政権ー平成20年(2008年)❶

●ガソリン税騒ぎのてんまつ

出発直後の福田内閣が塗炭の苦しみを味わった法案が、もう一つあります。ガソリン税の暫定税率維持などを盛り込んだ租税特別措置法改正案でした。テロ特措法案を2007年秋から臨時国会でようやく処理(1-11)したのも束の間、一週間後の17日から開幕した通常国会で、「ガソリン税」問題が火を吹きます。内外両面で、まさに彼方(あちら)と思えばまた此方(こちら)と言った風に、前門の狼、後門の虎の如く苦しめられます。

この法案の狙いは、ガソリンにかかる揮発油税の暫定税率(1リットル当たり48.6円)などを10年間延長するものでした。これに対して、民主党は通常国会を「ガソリン値下げ国会」と銘打って、暫定税率廃止を真正面に掲げたのです。暫定税率廃止が実現すると、その分の税収(国税1兆7千億円、地方税9千億円)が吹っ飛びます。道路の維持、補修・建設に充てられる道路特定財源が消えてなくなると、経済の混乱やら住民サービスに大打撃がもたらされます。

国会はテロ特措法に続き、またしても与野党全面対決の修羅場と化しました。民主党始め野党の徹底抗戦の前に、衆参両議長による斡旋も功を奏しません。結局は年度内成立の期限日である2月29日に、野党三党が欠席する中、自公与党は租税特別措置法改正案の衆院採決に踏み切って可決し、参院に送ります。しかし、参院では野党側はまたもこれを棚ざらし状態に放置したのです。民主党の審議拒否戦術は、予算委員会始め徹底して貫かれました。これは3月末の暫定税率を期限切れに追い込むという当初の方針を一歩も譲らぬ意志の現れだったのです。この間に首相や与党側は、翌年度からの道路特定財源を廃止して、一般財源化するとの譲歩姿勢を示しました。さらに、修正協議を呼びかけたり、暫定税率を2ヶ月延長する「つなぎ」法案の準備もしました。にもかかわらず、民主党などは一切耳を貸そうとしませんでした。

その結果、民主党などが主張した「ガソリン値下げ」(1リットルあたり25円ほど)が遂に実現したのです。ただし、それはたった一ヶ月の間だけ。結局は租税特別措置法改正案は、政府与党の意思通り、4月30日には憲法の「みなし否定」規定によって、衆院で再可決され、再び暫定税率が復活しました。しかも5月1日からのガソリン価格は、世界的な原油高も加わり、暫定税率上乗せ分どころか一気に大幅な上昇になってしまったのです。切り替わりの4月末は、各地で誰も彼もガソリン買い溜めに走る大騒ぎとなりました。

この動きの背景には、08年から09年へと、政権奪取に向かって上潮状況にあった民主党の押せ押せムードがありました。規定方針に沿って値下げを実現させたことで、民主党の株は確かに上がったのです。道路を巡って旧来的な路線にこだわる自公与党と、多少の混乱は引き起こしてでも新たな路線を模索した民主党とでは、国民目線は後者に強い息吹を感じて軍杯を上げたというほかなかったと思われます。束の間にせよ、やれば出来るじゃないか、と。尤も、それは中期的観点の見方でした。政権獲得後には民主党はガソリン税率を廃止したものの、同時に本則税率を引き上げたのです。このため国民の実質的負担は変わりませんでした。長期的には民主党の稚拙さが、あたかも田舎演劇での役者のように馬脚を現してしまったのです。

●日銀正副総裁人事でもひと苦労

租税特別措置法改正案で揉めている最中に、もう一つの難題が政権を襲います。3月20日に任期切れを迎える日銀の福井総裁の後をどうするかの問題でした。政府与党は3月7日に正副総裁人事案(武藤敏郎総裁、白川方明、伊藤隆敏副総裁)をだしたものの、衆議院では通りましたが、参議院では民主党の不同意で挫折してしまいます。元大蔵事務次官を日銀総裁に充てるのは疑問あり、との反対意見でした。擦ったもんだの挙句、総裁空席という前代未聞の事態を招いてしまいます。4月には日銀金融政策決定会合や先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)が予定されており、切羽詰まってきていました。

このため、政府は窮余の一策として、承認されたばかりの白川副総裁を3月20日に総裁代行として指名しました。また、いつまでも「代行」で行くことは、日本の金融政策にとって不利であるとの判断も加わり、4月9日に白川氏を総裁に昇格させる案を出して、やっと認められたのです。綱渡りでした。福田首相は、内外の法案の不調整もさることながら、この日銀総裁人事の不如意には、心底から疲れたように私の眼には写りました。

●防衛省再生への提言

私が直接担当する安全保障分野でも、滑り出した防衛省の改革をめぐり喧しい議論がなされていました。石破茂防衛相が制服組と背広組の機能別再編を提案をしていました。一方、公明党でも太田昭宏代表が、中期防の見直しの中で、防衛費の削減を盛り込ませる手立てを講じようとしました。そんな頃に、世界日報4月20日付けで、「防衛省再生への提言」との連載二回目に私が登場しています。「大臣の補佐体制強化を」という見出しです。

石破大臣の提案をどう思うかとの質問に、「今回のイージス艦『あたご』の事案で運用企画局長が説明にやってきた。こういうケースで政党に説明にくるのは運用企画局長だが、詳細を知らなかった。知らずして運用の企画が出来るのか。石破さんが日常的に感じているのはそういう点だろう。参事官については、それぞれラインの仕事を持っているため、防衛大臣をサポートするスタッフとしての役割は薄くなりがちだ。参事官制度本来の役割を果たしていないということだろう。その意味で石破さんの言うところの混在させた形でやると言うのは発想としてはいいと思う」と答えています。

また、自衛隊の憲法上の位置づけをどうするか、との質問には、「必要最小限の自己防衛のための軍事力を持つのはいい、それを称して自衛隊といい、その存在を、憲法にきちっと書く。それによって自衛隊員に引き起こしているだろう葛藤を除くことになるし、様々な解釈が生まれてくることも防げるのではないかと私は思う。現状追認なら、今のままでいいとの考えが党内では主流だが‥‥」と、憲法9条3項に自衛隊明記をとの持論を展開しています。

これがのちに、安倍首相が投げかけてきた「憲法改正案」に入ってくるのです。(2020-7-21公開 つづく)

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【70】薬害C型肝炎救済で患者の皆さんと共にー平成19年(2007年)❺

●テロ特措法での混乱

私が福田首相に対して先に質問をした場がテロ特措法を審議する特別委員会であったように、この頃同委員会の理事として多忙を極めていました。このテロ特措法とは、あの2001年9月11日に起こった同時多発テロがきっかけとなって、制定されたものです。アフガニスタンを根城にするタリバンやアルカイダなどの国際テロ集団との戦いが始まり、「テロとの戦争」という時代が始まったことは周知の通りです。国連安保理事会は、直ちに安保理決議1368号を満場一致で採択しましたが、これは加盟国の個別的、集団的自衛権を前文で確認。その上で、この攻撃を国際の平和と安全に対する脅威と認定し、テロの防止、抑圧のために国際社会が一致協力することを求めたものでした。

それ以後、不朽の自由作戦(OEF)、国際治安支援部隊(ISAF)、地方復興チーム(PRT)と、大きく三つの活動がアフガニスタン及びその周辺で展開されており、OEFについては、アフガニスタン本土への派遣と海上での阻止活動(OEF-MIO)とに分かれています。日本は、このうち、海上阻止活動(当時8カ国が参加)に、インド洋上で取り組む各国艦隊に対し、燃料や水を補給していました。その実態は、純然たる対テロ警察活動への支援であり、軍事的掃討作戦や治安維持にあたるものではありません。OEF活動になんらかの協力を行なっている国は75カ国にものぼり、まさに、国際社会が一致協力して取組む貴重な試みと言えました。

それに対して「戦争に加担するものだから、参加すべきではない」という民主党を始めとする野党の態度は、「一国平和主義」の域をでない、自分勝手な振る舞いと言わざるを得なかったのです。テロ特措法は11月13日に衆議院では可決され、参議院に送付されました。しかし、民主党は露骨な審議引き延ばしで、法案は野ざらし。このため、臨時国会は二度も延長され、14年ぶりの越年国会となりました。結局、参議院に送付されてから、60日目に当たる08年1月11日に、憲法の規定に則り衆議院で再可決され、ようやく成立したのです。

このように、衆議院で可決されたものが、参議院で否決、そして衆議院で再可決されたというのは、1951年(昭和26年)以来、実に57年ぶりのことだったのです。既に11月1日にテロ特措法は、期限切れで失効していましたので、新しいテロ特措法の成立を固唾を飲んで見守る各国注視のもとの出来事でした。

●被災者生活再建支援法と政治資金規正法改正で与野党合意形成果たす

ねじれ国会の中にあって、公明党が与野党政策協議での合意形成に向け、懸命に努力して橋渡し役を果たしたケースが二つ挙げられます。一つは、11月に成立を見た「被災者生活再建支援改正法」です。自公民三党による修正協議で最終的に与党案をベースにした修正案がまとまったのです。その与党案も、また修正案もいずれも公明党の考え方が基になったものでした。被災者の救済を最優先に考えたのは、赤羽一嘉衆議院議員をはじめとする阪神淡路大震災を身をもって経験した公明党議員の政策判断力によるところが大きいといえるものでした。

またもう一つは、「政治資金規正法改正」です。これは、それまで、5万円以上の支出に限られていた政治資金の公開制度を、最終的に、人件費を除いて、一円以上の全ての支出の領収書公開をすることにしたのです。福田内閣の発足時に交わした自公連立政権合意に盛り込んだもので、自民党との協議でもこだわり続け、与野党協議でも合意への牽引役を果たしました。清潔な政治の実現に向けての公明党の面目躍如たる動きでした。

●薬害C型肝炎救済法での立ち回り

2007年の夏から秋にかけて、血液製剤「フィブリノゲン」などを投与されC型肝炎ウイルスに感染した人々が国と製薬会社を相手に起こした訴訟への判決が相次ぎました。この訴訟にあって、薬害肝炎全国原告団(山口美智子代表)の皆さんや弁護団のメンバーの要請を受けて、幾たびも国会内やそれぞれの地元でお話を聞く機会を設けました。私は厚労副大臣を辞したのち、党内の肝炎対策プロジェクトチームの座長をつとめることになり、積極的に動きました。

そんな中で、9月7日のブログでは、「治療費への公的助成に大反響」と題して以下のように綴っています。

「昨6日の公明新聞に『C型肝炎に公費助成』とのトップ記事が出たため、嬉しい反響がありました。今まで長い間議員をしていますが、こんなに喜んでもらえたファックスも珍しいともいえるものを西宮市の女性から頂きました。この方は、統一地方選挙の直前にC型肝炎が発見され、インターフェロン治療を医師から勧められたといいます。しかし、選挙が終わってからの治療開始にしたため、4月から導入された高額医療費の立て替え払いが不要になり、大助かりになったことも触れられていました。ご自身もさることながら、周辺にも肝炎で悩む人が多いことから、こうした治療に関わる費用に対して公的な助成がなされることに、多大の期待をされていることがうかがわれました。どの範囲にまで助成の手が及ぶかはこれからですので、しっかりと目配りをしていきます」

ここではC型肝炎にかかって訴訟を起こした原告だけではなく、同様の被害にあった方々も含めて全員を一律に救済すべきかどうかという問題がありました。全員一律だと、対象者が大変に多くなり、国の責任をどこまで認めるかで対応が分かれる問題が発生するわけです。渋る厚労省との間で、協議が二転三転しました。そんな中で、12月19日に太田昭宏代表が福田首相に直談判した結果、首相は議員立法で一律救済に踏み切ると決断(12月23日)しました。最終的には翌年1月11日に救済法が全会一致で成立するのですが、この年末から年明けにかけての急転直下の解決には公明党の力が大きく、後々まで関係者の間で語り草になっています。

原告団代表の山口美智子さんは「公明党は一昨年6月から何度も独自のヒアリングを開き、真剣に私たちの被害に耳を傾けてくれました。(中略) 福田首相への直接、働きかけていただいたおかげで、ここまでこぎつけられたと思っています。(一律救済へ道筋をつけたことを)本当に嬉しく思います。」(公明新聞08年1月12日付け)と、語っていました。私もプロジェクトチームの座長として、太田代表と連携を取りつつ、福田首相にアタックした身として印象に残る闘いとなりました。

であるからこそ、この時の原告団や弁護士団のグループ代表と今もなお、時々集まって思い出話に花を咲かせています。結果として、いかに壮絶で愉快な闘いだったかが分かるといえましょう。(2020-7-19 公開 つづく)

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【69】「大」の前に「小」を、と福田首相と連立論争ー平成19年(2007年)❹

●追い詰められた安倍首相、体調悪化で辞任

参議院選挙で自民党は大敗を喫し、衆参ねじれ現象を招いてしまいましたが、安倍首相は政権継続の意向を示し、8月27日には内閣改造を行いました。しかし、改造内閣発足直後に、遠藤武彦農水相の独立行政法人からの不正受給が発覚したことを始め、大小取り混ぜた閣僚の不祥事が次々と明らかになりました。9月10日の臨時国会召集時点では早くも内閣の前途に赤信号が点滅してしまう状況となっていたのです。首相は所信表明演説を行ったものの、12日の代表質問を前に、突然辞任表明をするに至ってしまいました。前代未聞のことで、私たちも驚きました。

首相自身によれば、潰瘍性大腸炎という難病が原因で、これから先の政権運営が難しいとの判断をしたものでしたが、一般的には政権投げ出しとの印象が濃いことは否めなかったのです。9月25日に内閣総辞職となり、後継首相に福田康夫さんが選ばれました。と、こう書くと簡単に運んだように思われますが、もちろんこの間に様々な動きがあり、私もほんのちょっぴりながら福田首相誕生に関与したのです。こういうと、何を戯けたことをと思われるかもしれません。しかし、実はこれまで述べてきたことでお分かりのように福田さんとは親しい関係にありました。それだけに、個人的に心の底から励まし、ハンカチを振り続けたのです。

発足した福田内閣は衆議院は3分の2の多数を擁しながら、参議院では過半数に満たず、発足後から極めて厳しい事態の連続を余儀なくされてしまいました。予算案は、衆議院の議決優先と憲法で定められてはいますが、それ以外の法案は、民主党も賛成する法案か、それとも、与野党協議によって合意形成が可能となる法案か、あるいは、参議院で否決されても衆議院で再議決して成立させるかのいづれかしかないのです。この状況の中で、福田さんは、民主党との間で、「大連立」構想なるものを模索していきます。10月30日に第一回目、ついで11月2日に二回目の福田・小沢党首会談が行われました。

●テロ対策特委で福田新首相に疑問提起

福田首相と小沢民主党の間での「大連立」構想がメディアで騒がれている状況下で、11月12日にテロ対策特別委員会が開かれました。テレビ放映付きでした。私は実は10月26日の予算委員会でも質問に立ち、こういうねじれ国会の時であるからこそ、徹頭徹尾丁寧な国会運営をすることが大切だと強調していました。そんな私には、その後の「大連立」構想騒ぎはいかにも拙速な妥協策に見えたのです。このため、この日の質問の冒頭で、大要以下のように、首相との間でやり取りを行いました。(議事録から抜粋し編集)

赤松)未だかつてない厳しい政治状況の中です。さあこれからじっくり議論をしなければという時に、与野党のトップがいきなり会談をされたというのは、ボクシングに喩えるとゴングがなると同時にリング中央で二人がクリンチする、抱きつく状態になるようなものではないでしょうか。これではあまりにも堪え性がないというほかありません。

福田)ねじれ現象では、何事も進まない状況がこれからずっと続く。だからと言って、もちろん、全て省略して連立すればいいなんてものではない。これから政策協議をするなど詰めていこうとしているのです。

赤松)「大連立」構想なるものが飛び交っていますが、大連立の前に現実に小連立が存在しているのです。地元では今でも連立のあり方に批判の声があります。4年前に私の質問に官房長官当時の首相は、公明党との連立で大いに自民党は助けられていると答弁されました。その思いは今も変わらないのでしょうか。

福田)実にもう、関係は深まっていますよ。公明党のお考えを十分に汲み上げて行こうと、自民党は常に思っています。公明党にすり寄って行っているんです。

こんな風に本音のやり取りが行われた直後、一本の電話がかかってきました。西口良三創価学会関西長からでした。西口さんは「さっきの君の質問を、今在阪中の池田先生と一緒にテレビで見てたんだよ。先生が『赤松なかなかやるじゃあないか。面白いじゃあないか』って、言っておられたよ、良かったなあ」と弾んだ声で伝えてくれました。いやあもう嬉しい限りです。国会で質問に度々立ち、様々な経験をしましたが、これほど感激したことは後にも先にもこの時だけでしょう。

新聞ももちろん取り上げてくれました。朝日新聞は、「公明やきもき 大連立『こらえ性ない』」「首相すりすり ❤️❤️ 自公連立『深まってる』」とのハートマーク付き見出しです。「『大連立』という前に、『小連立』の現在をしっかりと認識していただきたい」ー12日の衆院テロ対策特別委員会の質疑で、公明党の赤松正雄氏が福田首相にこんな注文をつけた。自民、民主両党の「大連立」構想が浮き沈みする中、「自公連立」への危機感をあらわにした形。首相は「ご心配なくお願いしたい」と火消しに躍起だったーという感じでした。

日経も、「大連立」構想公明当てこすり、との見出しで、私の質疑を紹介したうえで、「赤松氏は、『大連立』の前に『小連立』の現在をしっかり認識してほしい。地元には連立を見直すべきだとの声もある」と食い下がり、納得していない様子だった」と書き立てました。

この「大連立」構想騒ぎは結局、民主党内で小沢氏への批判が高まり、辞任を申し出る格好となります。ですが、周辺からの慰留もあり、最終的には踏みとどまりました。

●「医療崩壊」巡って小松秀樹医師と『公明』誌上で対談

この頃、私は突然、背中の腰上部分の痛みが続いたうえ、大量に血尿が出てしまいました。慌てて医師に診てもらうと、腎臓結石とのことで、直ちに入院手術をすることになりました。入院先は虎の門病院。担当医は同病院の泌尿器科部長をされていた小松秀樹先生です。彼とは退院後に理論誌『公明』で対談をすることになりました。「医療崩壊をどう防ぐか」とのタイトルで、12月号の誌面を飾りました。

この先生は当時、『慈恵医大青戸病院事件』とか、『医療崩壊』といった著作を出版され、単なる医師を超えた言論活動を展開されていました。この対談では、医療費抑制や国民の医師や病院に対する安全要求が高まっている中で、勤務医たちの「立ち去り型サボタージュ」という現象が起きていることに焦点を当て、密かに進行する「医療崩壊」を食い止めるのはどうすればいいかという問題を議論しました。

この中で小松先生は「低コストとアクセスを確保して、なおかつ高い医療の質を実現するのは難しいところに、皆が『安全、安全』と言い始めた。時間とお金を出さないで、安全をとなると、結局、勤務医にしわ寄せがきて、軋轢でいやになってやめていくというのが現状です。コストを下げるなら、アクセスを制限するか質を下げるか、あるいは医療の一部はやめるとかしないともうだめだ」と警鐘を乱打しています。

あれから事態は本質的には解決していないことに加え、新型コロナ禍の発生で、益々深刻化を深めています。お互いに日常的忙しさの中で疎遠になってしまいましたが、ピュアでハードな小松先生の切り口が医療現場や厚生労働行政との間で、軋轢を深めているやに聞いており、懸念しているところです。(2020-7-17  公開 つづく)

【69】「大」の前に「小」を、と福田首相と連立論争ー平成19年(2007年)❹ はコメントを受け付けていません

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【68】「時間の政治学」をめぐる一考察ー平成19年(2007年)❸

●朝日新聞「政態拝見」に再び登場

この年(2007年)は参議院選が予定されていました。投票日は当初は7月22日の公算が大きいと見られていましたが、国会の会期延長という事態が起こり、7月29日にずれ込みました。こうしたことから、どう影響が出るか、メディアは大いに注目していました。そんな時、6月26日付けの朝日新聞4面の大型コラム『政態拝見』欄に再び私のことが取り上げられました。タイトルは「延びた参院選」。文章の書き出しから、いきなり私の名前が出てきます。以下にそのまま引用します。

【公明党衆議院議員の赤松正雄氏がときどき使う言い回しに、「時間の政治学」というのがある。例えばこんな具合だ。全面改憲を目指すという安倍自民党と現憲法の骨格はそのままにするという公明党の関係が、「時間の政治学のなかで、どのように変貌を遂げていくか。これこそ21世紀初頭における自公連立の最大の課題である」(同氏のブログから)。時間の積み重なりが政治の展開に与える影響を予想することは難しい。そんな意味で使っていると、赤松氏は言う。

その典拠は国際政治学者、永井陽之助氏の「時間の政治学」にある。古い本だが、「政治的資源」としての時間を多面的に論じて示唆に富む。為政者の方は時間を思いのままに利用したい。しかし、時間の方がそれを許すとは限らない。さまざまに応用できそうなものの見方である。】

このコラムは前回同様に根本清樹編集委員によるものですが、「衆院総選挙の周期と、自民党総裁選挙の周期が時間的に一致していないため生じる事態」として、05年の郵政選挙で圧勝しながら、自民党総裁任期切れのため退陣した小泉前首相と、総選挙を経ずに後継首相となった安倍首相のことを対比して挙げています。「『時間』の扱いに筋を通せ」との主張です。「政治のルールの見直しは差し迫っている」と結んでいますが、安倍首相周辺は総裁任期を延長してまでルールをねじ曲げこそすれ、見直さずにその後も時間が経ってきています。現在も、自民党総裁選挙と衆院解散総選挙の時期が依然として気になるところです。

なお、引用された私のブログの課題提起も、以来15年を経て基本的に、「連立維持」の政態は変わっていないのも興味深いことではあります。尤も、安倍首相は、再登板後も改憲に意欲を見せてきていますが、公明党の山口代表が加憲派から護憲派に先祖帰りしたと揶揄されるほどの抵抗ぶりで、微妙な変貌が見られます。ここでも「時間の政治学」が働いていると言えましょう。

●参議院選挙での与党敗北という厳しい結果

安倍さんが首相に就任して、参議院選挙を迎えるまでの一年足らず、当初は支持率が70%近くあったものの、その後急速に低下しました。その最大の理由は、郵政民営化法案に反対して除名された議員を11人も復党(06年11月27日)させたことにあると見られました。小泉さんの改革路線を否定するものだと、一般の人の目には映ったのです。加えて、閣僚の不祥事(佐田行革相)やら失言問題(久間防衛相、柳沢厚労相)、事務所費問題(松岡農水相=自殺、赤城農相)などが相次いで起きました。

しかも、07年の春から夏にかけて、年金記録漏れという一大問題が発生して、日本中が大騒ぎとなってしまいました。これは安倍首相の失政というよりも、長年の社会保険庁の不作為と怠慢によるものでしたが、国民の怒りは収まらず、選挙直前の6月には30%台にまで内閣支持率は落ち込んできました。

この間、公明党は改正官製談合防止法(談合に関与した公務員への罰則を創設)に尽力したり、耐震強度偽装事件を受けての建築士制度の改革で資格区分を見直した改正建築士法成立に貢献しました。また、救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療に関する特別措置法(ドクターヘリ法)の成立にも力を注ぎました。太田、北側の新たなコンビで精一杯頑張ったのです。それもあって、4月の統一地方選では、全員当選を見事に果たす(二回連続)結果を生み出していました。

ただ、7月29日の参議院選では、自民党は6年前の64議席から37議席へと、歴史的敗北を喫し、非改選と併せて83議席になってしまいました。一方、公明党も選挙区2、比例区7の合計9議席で、6年前の13議席から4議席減となり、非改選と併せて20議席に目減りしてしまいました。これで自公両党で103議席となり、過半数の120を大きく割り込む結果となったのです。

民主党は、6年前は26議席でしたが、今回は60議席を獲得。非改選と併せて109議席になり、参議院で比較第一党になりました。自民党が他党に参議院で第一党の座を奪われたのは1955年の結党以来のことです。しかも、自公併せた与党勢力が民主党議席に及ばず、衆参ねじれ国会の構図を余儀なくされてしまいました。安倍首相は一気に苦境に立たされ、公明党も自民党の数々の問題に連帯責任をとらされてしまったのです。

●公明党の全国県代表協議会で参院選を総括

自公連立のスタートから7年が経っていました。小渕、森、小泉、安倍と4代に渡っての自民党政権との共闘も、急速な野党・民主党の追い上げもあり、かなり揺らいできていたのです。安倍首相が保守色の強い傾向を露わにしていた分、公明党内には「暮らし」をなおざりにされてはならないとの空気が漲ってきていました。

8月22日に開かれた公明党全国県代表協議会の場で、太田代表は、「閣僚の不祥事、失言が相次ぐ中、危機への対処は適切さを欠き、極めて悪いものでした。有権者は民主党に投票することで、政権の危機管理能力に怒りと不満の意思を示したのです」「国会運営では、国民の目には与党の採決強行の連続と映ってしまった。公明党も自民党と一体だと思われてしまいました」などというように述べて、頭を下げました。

さらに、参議院選について「小泉改革から派生して起きた地域格差や負担増といった『影の部分』への不満や怒りが溜まり広がっていきました」と分析し、「安倍政権は、生活者重視の政策の実現のために、これまで以上に力を注ぐ必要があります。政府や自民党に対して、もっと強くよりはっきりした意見を申し上げて参りたい」と強調したのです。

このあと、質疑応答の場面で、私は苦言を呈しました。「『言うべきは言う』というのでは弱いのではないか。言ったけれども受け入れられず、結局は何も変わらなかったというのではどうしようもない。『やるべきことはやらせる』ということが必要だと思う」と述べ、政府、自民党に結果責任を問うまで厳しく要求するべきだと力説したのです。私以外にも多くの意見が出されました。

この日のやりとりを巡っては、翌日の朝日新聞朝刊が「公明、『直言路線』に転換」「参院選総括ー『くらし』優先求める」との4段見出しで、報道しました。その記事では、私の発言が「党内には不満が強く、注文も飛び出した」との注釈付きで紹介されました。

こうしたことも、言うはやすく行うは難しで、結局は不十分なままの状態が続いていくことは、如何ともしがたかったと言わざるを得ません。(2020-7 -15公開 つづく)

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【67】「国民投票法」成立に尽力した日々と人々とー平成19年(2007年)❷

●加憲と改憲とのはざまでの変わらぬ発信

安倍晋三氏が首相になっていらい、一段と憲法改正に向けてのトーンが高まってきました。尤も世の中一般には格差是正への関心の方が高く、首相の改憲・前のめり姿勢には強い批判が付き纏っていました。2007年2月15日には、「どうするどうなる憲法9条」とのシンポジウムが東京第二弁護士会主催で開かれ、私は自民党の保岡興治さんや民主党の仙谷由人さんらと一緒に出席しましたが、ヤジが飛び交う中でのものとなりました。

実は、安倍政権発足の直後の衆議院予算委員会(2006年10月5日)で、私は先に第64回で披露したように、アメリカでの視察をもとにしたがん治療などの医療関連の質問をしました。しかし、その質問の最後に、憲法についても首相の考え方を質すことをも、あえて付け加えておきました。憲法の取り扱いを巡ってはあくまでも丁寧に運ぶべしとの主張を展開したのです。それから半年も経ってから共同通信配信の『改憲論議の底流』という連載が地方紙(神奈川新聞、岩手日報、千葉日報、山陰新聞など)を賑わしました。

【(10月5日の衆院予算委員会で)質問に立った公明党憲法調査会座長赤松正雄は、首相安倍晋三にくぎを刺した。『憲法への考え方が合わない。私たちは加憲と言っている』『護憲政党』を掲げてきた公明党。与党として改憲論の一翼を担う今も、9条見直しには慎重論が根強い。だが、独自の立場を貫けば自公連立の維持は難しくなる。『連立か、9条か』赤松のつぶやきは、現実との板挟みに悩む護憲派の一つの現状を浮き彫りにしている】

新聞記事の最後の5行(ここでは最後の1行)は、掲載当時にはいささか違和感がありました。ただ、あれから15年が経った今、赤松のところを山口に置き換えると、一段とリアルに迫ってくるのは面白いと言えましょう。

●讀賣の「憲法フォーラム」での頑張り

一方、この年も讀賣新聞社主催の記念特別フォーラムが、4月27日に東京・内幸町のプレスセンターであり、自民党・船田元、民主党・枝野幸男氏と共に参加しました。タイトルは「日本の決断ー憲法のあり方を考える」。基調講演を中山太郎さんがされ、北岡伸一東京大教授がコーディネーターでした。

ここでの議論は讀賣新聞5月3日付けで詳報が掲載されました。集団的自衛権を巡っての各党の考え方が注目され、自民党の船田氏が、「憲法を改正して限度のある集団的自衛権とするのが真っ当な方法だ」と指摘したのに対して、枝野氏は「現行憲法の条文でも問題はない」として、改憲の必要性を否定しました。私は、「集団的自衛権の行使は解釈ではならず、改正が必要」としたうえで、「行使は認めない」との公明党の姿勢を強調しました。

ただ、有識者会議が検討課題にしていた「4類型」については、「個人的には」と断ったうえで、「今の憲法解釈でも認めていいのではないか」と述べています。これは後々の「安保法制」における落ち着き先を見据えた、先駆的見解だったと自負できるものでした。

なお、基本的な公明党の憲法の考え方について述べる場面で、加憲に決めた経緯に触れたあと、「戦前、戦後といった問題を乗り越え、21世紀をにらむ未来レジーム(体制)を志向すべきだ。『普通の国』(自民党)、『一国平和主義』(民主党)ではなく、『地球平和主義』の観点でいくべきだ。9条の平和主義と前文の『国際社会において、名誉ある地位を占めたい』という方向性を両立させていきたい」と、強調しました。

中道主義の理念に基づく「地球平和主義」の重要性を訴えたのです。このフォーラムでは一般参加者も募っており、私の地元での支援者の娘さん(現在、歯科医)も姿を見せてくれていたのは嬉しいことでした。それもあって、いつにも増して気合いを入れたのです。

●「国民投票法」成立の舞台裏で

現行憲法の最大の課題は、「改正」することが可能であるはずなのに、その手続きに触れられていないことです。このため、改正の是非とは全く別に、法のルールとして改正の仕方を規定する必要性が当初から求められてきました。これは例えてみれば、旅行鞄を開けたいのに、鞄の鍵の番号が作られていず、開けられなようなものです。憲法改正をさせないためにわざと改正手続の規定を置かず、しかも長きにわたってそれでよしとしてきたのは政党、政治家の怠慢だったといわれても仕方ありません。

先に述べたように、衆参両院の憲法調査会は5年間の調査活動を終えて、報告書をまとめました。次に憲法調査特別委員会を作って、手続法を決める論議に入ったのです。2006年10月26日から国民投票法の与党案と民主党案の審議が始まっていました。私は遡ること約一年の間、厚労省に行っていましたので、与党案作成には関わっていません。公明党からは斎藤鉄夫さんが担当してくれていました。審議が始まった同日、早速私は質問に立ちました。ここでは、調査会→特別委員会→審査会の三段階の流れの中で、憲法改正草案が提出、検討されるのは少し早すぎないかとの問題を提起したのです。つまり、更にもう一段階おかねば、揉める原因になると睨んだからです。答弁に立った斎藤氏のこの辺りの認識が弱いと見て、嗜めました。その場面を見ていた旧知の専門家のひとりが「公明党内の人同士でもバトルするのですねぇ」と、驚いていました。

ともあれ、それ以来半年あまりかけて審議が進み、2007年5月14日に国民投票法は成立しました。この間、再び私は斎藤さんからバトンタッチを受けて特別委員会の公明党幹事となり、自民党の保岡興治、船田元、加藤勝信、葉梨康弘氏らと共に与党案の成立に尽力し、答弁をも担当しました。衆議院では最後の最後の場面で採決を妨害しようとした民主党議員の抵抗で危うい場面がありましたが、何とか成立に漕ぎつけた時は本当に嬉しい思いがこみ上げてきました。議場で中山太郎さんを囲んで喜び合う場面は彼の著作の扉写真に使われていましたが、感激が伝わってきます。これでようやく、「不作為の謗り」を免れた喜びに浸ることが出来たのです。

一連の作業のあと、船田元さん宅で祝宴の機会がもたれ、関係者が集まりました。船田夫人は元参議院議員の畑恵さん。元新進党で一緒だったので懐かしい人でした。畑さんとの談で偶々、白洲次郎、白洲正子の夫婦のことに及び、彼らの武相荘や兵庫県三田市にあるお墓などを巡って大いに語り合いました。こうした機会を経て憲法論議が大きく前進すると思いきや、結局は暗礁に乗り上げたまま。今の政治家たちの体たらくには、幻滅するしかありません。(2020-7-13 公開 つづく)

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【66】米軍再編問題でグアム島への視察にー平成19年(2007年)❶

●「米軍再編」に対応するためグアム島へ視察に

「米軍再編」に伴って、沖縄駐留の米海兵隊約1万人がグアム島へ移転する計画が2006年に公表され、受け入れ態勢を検討する必要から、自民、公明両党が専門家議員を派遣することになりました。2007年の新年の気分覚めやらぬ2月3日、4日の二日間です。山崎拓元防衛庁長官を団長に、自民党から町村信孝前外相、大野功統元防衛庁長官ら5人。公明党からは私と佐藤茂樹安保部会長の2人。合計7人のチームでした。

日本から2500キロ、航空機で3時間半。沖縄との距離が1600キロで、ほぼ2時間半ですから、近いといえば、近い位置にあるといえます。その沖縄の負担が減ることになるなら、いい話ではないかという単純な発想を持つ向きもありました。私はその辺りを現地で確かめようとの思いがあり、到着後直ちに開かれた会議での米側の説明のあと、直ぐにこう訊きました。「沖縄からグアムへ海兵隊が移転するといっても、所詮は分散であって、沖縄からの海兵隊の撤退を意味しないと思うのですが、間違っていますか?」

「うーん。難しい質問で、私には答えられません。将来どうなるかは、今は分からない」リーフ米太平洋軍副司令官はこう答えるのがやっとでした。「プレイボール」を宣告する始球式で、いきなり豪速球を投げたかのような質問ぶりでした。場の空気はしらけました。尤も、グアムに海兵隊が移転するといっても、沖縄の現実は変わらないとの危惧の思いをぶつけて、私としてはそれなりの自己満足感はありました。

グアムにおける受け入れについて、いかに日本側にカネを負担をさせるかに大わらわの米側。グアム移転による負担の重荷回避に躍起の日本側ー両者の思惑の狭間で、沖縄、グアムの地域住民の生活への影響が見逃されがちだということだけは明確でした。翌4日に海軍と空軍の基地をバスで視察しました。その途上、住宅、学校、病院、水道、道路など住民生活万般において日本の支援がいかに必要かが語られました。耳を傾けながら、前途がいかに多難かに思いを致さざるを得ませんでした。

実はこの問題は、その後に現地で受け入れ反対の住民運動が巻き起こっています。2012年に米軍は計画を大幅に変更、移転人数の半減などを試みようとしていますが、決着は未だつかない状況です。一方、沖縄の嘉手納基地、辺野古への移転をめぐる事態も膠着状態が続いていることは周知の通りです。

●困難を極める北方領土問題

毎年2月7日の北方領土の日が来ると、決まって関心が高まるものの、それが過ぎるとまた遠のく。私は外交安全保障分野の担当者として、毎年自らの姿勢を戒めながら気を引き締めて日露関係に思いを凝らしたものです。20世紀末から21世紀の劈頭にかけての橋本、エリツィン時代に、日露関係は一気に盛り上がって、すわ歴史的解決がなるかと期待を抱かせたりしましたが、結局あえなく潰えました。また、鈴木宗男、田中真紀子ご両人らによる外務省を震撼させたバトルもあって、この年の日露関係は膠着状態にありました。

そんな中、麻生太郎外相が北方領土の総面積を二分することで、折り合えないかとの発言が物議を醸していました。これについては私の同僚の高野博師参議院議員(外務省出身)も同じことを委員会で提案していました。彼は私にも得意然として語っていたものですが、ロシア問題の専門家の間では、至って評判が悪かったようです。着想はユニークでも、ケーキを切って半分ずつ分けるのとは違う、ということでしょう。余談になりますが、高野氏は後に落選してから米国に渡って、ハーヴァード大学の客員研究員となりました。帰国後は民主党の外交顧問になろうとしましたが、公明党の反対で立ち消えになりました。好漢惜しむらくは才が勝ち過ぎるところがあったようです。個人的には私は親しかっただけに、この振る舞いは、残念に思います。

この年の記念日の前日・6日には、「新しい日露関係・専門家対話(2007)」開催を記念するロシア代表団歓迎レセプションが開かれました。これは、かつての「日露専門家会議」を引き継いだ「安全保障問題研究会」(佐瀬昌盛会長)の主催で開かれ、通算25回目となります。ロシア側からは、ヴャチェスラフ・ニコノフ氏(ロシアのための統一基金総裁)を団長に13人が参加しました。日本側からは木村汎、袴田茂樹さんらロシア問題の専門家が多数来ておられました。私はこの場での佐瀬会長との立ち話で、同会長と中嶋嶺雄先生の総合雑誌上での領土問題を巡る論争を話題にしました。かなり機微に触れるディープなものでしたが、佐瀬さんに軍配を挙げざるを得ないと、率直に伝えました。佐瀬さんは当然ながら、ご機嫌そうでした。中嶋先生、御免なさい。

●亀井静香氏の伝聞質問を打ち砕いた首相答弁

2月13日の衆議院予算委員会での亀井静香氏(国民新党代表代行)の質問は、前半は郵政民営化解散で自民党を出たことへの恨み辛みのぼやき調。後半は、自民党と連立を組む公明党、その最大の支持母体たる創価学会への八つ当たり質問でした。誤った認識によるいい加減な質問ですが、ここでは最低限の問題点を指摘し、安倍首相のこの問題についての明快な答弁を紹介しておきます。(以下、私の2007-2-14のブログからの転載です)

【亀井質問は聞いていて、大きく三つの誤った主張がありました。一つは、「創価学会の言う通りの教育基本法を強行採決して成立させた」という点。二つは、「自民党への復党問題に、公明党が堂々と横やりを入れている」という点。三つは、「池田創価学会名誉会長に会ったとの報道がある。間違いだというなら、法的措置をとるべきだ」という点。

安倍首相は①教育基本法は、自民党と公明党で長い間相当の議論をした。自民党が100%これだったら(いい)という最初の望み通りにはいかないが、連立政権でできたベストだ②復党問題について公明党から何か意見を言われたことはない。選挙で連立を組む政党同士が協力するのは当然である③池田名誉会長にお目にかかったことはない。首相がいちいちマスコミを訴訟(の対象に)すべきではないーこう明確に答弁した。

安倍首相の切り返しは見事だった。「総理の汚名を晴らすべき」と亀井氏が言ったのに対し、「新聞報道とか週刊誌が本当だったら、亀井さんは今頃大変なことになっている」と述べたことには、場内大爆笑。

しかし、総理の「汚名」とは一体なんだろう。いずれも新聞報道や伝聞に基づく中途半端な質問。これには呆れるばかりだった。こんな質問をするようでは「亀井氏の汚名」となるに違いない。】

最近の国会ではこうした質問は殆ど見られなくなりましたが、果たして公明党、創価学会への真の理解が進んだ結果なのかどうか。「自公連立20年」の効用ではあるのでしょうが、ただ単に沈潜しているだけではないのかと、懸念を抱きます。(2020-7-11公開 つづく)

 

 

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【65】学者と政治家の勉強会で安倍首相と一緒にー平成18年(2006年)❾

 

●改正 教育基本法がついに成立

安倍首相の誕生と共にこれまでの懸案だった課題が一気に進む気配を見せました。二つ大きなものが実現しました。一つは教育基本法の改正です。もう一つは防衛庁の防衛省への昇格です。前者については、「教育の憲法」と見られるものだけに、公明党は慎重の上にも慎重を期して取り組みました。自公両党で3年の間に70回にも及ぶ協議が行われたのです。太田昭宏、斎藤鉄夫の二人を中心に熱心な議論が展開されたことを横目で見ていてつくづくその粘り腰に関心したものです。

最大の焦点になったのは 「愛国心」をどう表記するかでした。国家主義的なものに対する強い憧憬の念を抱く勢力からの要請をどうかわすか。随分と苦労があったようです。結果として、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し」という表現に落ち着きました。同時に、「個人の尊厳」「人格の完成」「憲法の精神にのっとり」などといった基本理念は堅持しながら、「生涯学習」「家庭教育」「幼児期教育」などの時代の変化に対応した新たな項目を盛り込むことが出来たのです。

民主党は、対案を出しながらも、衆議院特別委員会でのその審議を拒否しました。結果的に自らの考え方が込められた法案の議論を放棄するという無責任な態度に終わったのです。中道主義の公明党が存在したからこそ、国家主義的なものへの歯止めをかけることが出来たものと、自負したいと思います。

●防衛庁の防衛省への移行も実現

防衛庁の省移行問題は、旧来的な革新勢力は勿論、普通の市民の間でも、「軍事大国」への変身の契機になるのではないかとの懸念がありました。これを払拭するために、国会での審議を通じて、専守防衛、文民統制、非核三原則などの防衛政策の基本は揺るがないことを確認しました。そして、自衛隊の「国際平和協力活動」を「付随的任務」から「本来的任務」へと、格上げすることができたのです。

この問題でも民主党は最終的に賛成に回ったものの、衆議院本会議採決では、6人が欠席。参議院本会議でも7人が採決を棄権・欠席するなど、基本政策での党内不一致を露わにしました。

私はこの時まで複数回、目黒の防衛研究所で自衛隊の幹部候補生を前に、公明党の防衛政策を講じた(年一回各党並びで)ことがありました。忘れられないのは、私が約1時間足らず喋った後で、質問ありますかと訊いた時のことです。一人の隊員(二佐だったと思います)が、立ち上がって「公明党の防衛政策はわかりました。ですが、政治家の皆さんは一体いつになったら、我々自衛隊のことを憲法においてきちっと位置付けしてくれるのですか」と真剣な口調で述べられたのです。痛烈なインパクトでした。私が憲法9条3項に自衛隊の存在を加える規定を置くことにこだわってきたことの一因がここにあります。

防衛庁から防衛省になっても、肝心の憲法上の位置づけは、未だになされていないままです。一歩前進はしたものの、本質的な課題は曖昧なままと言わざるをえないのです。

●「新学而会」という名の勉強会で

私の学問上の師が中嶋嶺雄先生(現代中国論専攻=東京外大学長を経て秋田国際教養大学長兼理事長)であることは幾度も触れてきました。その中嶋先生がある時、「赤松君、学者仲間を中心に、二ヶ月に一回ほどのペースで勉強会をやってるんだけど、君も参加するかい」と声をかけてくださいました。私は即座に「私で宜しければ、お願いします」とお答えしました。この会は、論語の「学而時習之」(学びて時に之を習う)から着想を得た、「学而会」という既成の勉強会の新版であることから、「新学而会」と名付けられたと聞きました。

中嶋先生を幹事役にして、岡崎久彦、市村真一、鳥居泰彦、木村汎、西原正、神谷不二、袴田茂樹氏ら錚々たる学者の皆さんと、政治家では塩川正十郎さんだけが常連でした。その後、伊吹文明、町村信孝、安倍晋三、小池百合子さんらも時に応じて参加されていました。時々の政治課題やら経済問題などのトピックをテーマに報告者がリポートし、その後にあれこれ議論するという形式でした。私も一度だけ、憲法改正論議の現状について報告したことがありますが、普段は専ら聞き役に徹していたものです。

正式に会が始まる前の懇談の場では、あたかも陽気な司会者のように座を和ませる役割を果たしました。岡崎さんは市川元書記長と国会で丁々発止の質疑応答をした間柄。鳥居さんは慶應の塾長経験者で私の級友小此木政夫君の奥方が元秘書をしていました。木村さんは北大時代に私が公明新聞に原稿を依頼したものの断られたことがあるなどと、それぞれの皆さんとそれなりの関係がありました。この会を通じて更に関係が深まった方々もいます。西原さんは防大の校長でしたから、卒業式への参加をきっかけに親しくさせていただきました。神谷さんからは創価学会のことを聞かせて欲しいとの注文を受けて、二人だけで会食懇談したこともあります。

政治家では、塩川さんとは、『アジア・オープンフォーラム』のメンバーとして台湾始め日本各地に同道したものです。無類の読書家で、ドナルド・キーンの『明治天皇』上下に深く感銘したと言われ、是非一読をと贈呈していただいたことは忘れられません。安倍さんは官房長官当時から時々顔を出していました。私とは当選した年が平成5年で同じだったのですが、委員会や海外視察などで一緒になる機会がそれまで全くありませんでした。この会の他の政治家のメンバーと私は伊吹文明さんを筆頭に昵懇だったのですが、安倍さんとだけはご縁がなかったのです。

ある右翼系の団体主催の会に顔を出したときのこと。安倍さんと舞台袖で行き違った際に「こんなところへ来てて、いいんですか」と声をかけられたことを明確に覚えています。私はどんな団体でも呼ばれたら、なるべく顔をだすことにしていました。安倍さんが「こんなところ」と言った団体はおよそ〝反学会、アンチ公明党〟を旗幟鮮明にした集団だったのでしょう。お門違いの人間を発見して、わざわざ注告してくれる安倍さんは、中々親切な人だとの印象を強く持ちました。(2020-7- 9公開 つづく)

 

 

 

【65】学者と政治家の勉強会で安倍首相と一緒にー平成18年(2006年)❾ はコメントを受け付けていません

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【64】安倍首相、太田代表が誕生。予算委でがん質問ー平成18年(2006年)❽

●安倍首相が誕生。公明は太田・北側体制に

平成18年(2006年)9月26日に、自民党は約5年余の任期を終えた小泉純一郎首相に代わって、安倍晋三氏が麻生太郎、谷垣禎一両氏と闘った結果、総裁に選ばれ、首相に就任しました。

昭和17年生まれの小泉さんから昭和28年生まれの安倍さんへ。このバトンタッチには若返り過ぎとの見方もありました。このあと、福田、麻生とまた年配組に戻るので、一層その感は深いものがあります。ふた世代飛び越えたことで、私などにはいわゆる団塊の世代前後が埋没するのではないかとの懸念がわいてきました。

安倍首相誕生にあたり、9月27日の私の国会リポートには「かねてポスト小泉は、チーム力で勝負するしかないという見方を提示してきました。小泉さんのようないわゆるスーパースターは望むべくもない時代状況(安倍さんがそうなるとの可能性はありますが)のなかでは、複数の人々がチームを組んで政権の運営にあたるしかないと思うからです」と述べています。さらに「小泉さんの5年半は功罪相半ばする奇妙な時代と位置づけましたが、安倍さんのこれからは、功罪どちらかがはっきりする分かりやすい時代になるだろうとの予感がします」と意味深長な表現をしています。

一方、公明党は9月30日に党大会を開催、神崎さんに代わって、新しい代表に太田昭宏さんが選出されました。幹事長には北側一雄さんがついたのです。冬柴鐵三前幹事長は新しい安倍内閣の国土交通大臣に数日前に就任していました。太田さんと私は、若き日に同じ職場(公明新聞記者)で、仕事をした仲の同い年。初めて出会ったのが昭和46年。あいまみえた瞬間に、強いオーラを感じ、この男は将来間違いなく公明党を担う逸材だと確信したものです。あれから35年。ついに実現しました。嬉しい思いで一杯になり、微力ながら支えようと胸中深く誓ったものです。

党大会に来賓として出席した安倍首相は、「祖父も父も創価学会とは深いご縁がありました」との話をして、場内を沸かせました。加えて、もう一人の来賓・作家の堺屋太一さんも太田さんが大学相撲で鳴らしたことに触れ、「裸一貫、一発勝負で頑張ってください」と印象的なエールを贈ってくれました。政界随一との評判の高い演説力と磨き上げた哲学の深さを持つ新代表と共に戦おう、との高揚感が漲ってきたものでした。

●臨時国会から予算委員会理事に、質問にも立つ

安倍首相誕生のどよめき覚めやらぬ中、臨時国会が開かれ、私は予算委員会に所属、理事になりました。党代表と幹事長の若返りに見合うかどうかというよりも、遅咲きの私にも立法府の中での重要なポジションがようやく回ってきたのです。よし、やるぞとの気合いを込めて連日の委員会運営に臨みました。

デビュー場面は早速やってきました。10月5日の予算委員会で30分間質問に立ったのです。この場で、私はがんと闘う全ての人々への思いに渾身の力を込めました。厚生労働副大臣の11ヶ月の総決算の意味を含めて、先の通常国会で成立した「がん対策基本法」のこれからの施行をめぐる問題に集中しました。その中で、「がん対策推進基本計画」が作られる際に、❶緩和ケアと放射線治療の充実を盛り込むべし❷大学医学部における教育現場にその方向を反映させよーこの二つの主張を、柳沢伯夫厚労相、伊吹文明文科相にぶつけました。さらに、その上に、「がん登録」の全面展開を安倍首相に求めたのです。

質問に際して、私は7月の米テキサス州ヒューストンのMDアンダーソンがんセンターでの視察で得た様々の知見ーとりわけチーム医療の重要性などを盛り込みました。すでに月刊『公明』9月号に書いた、リポート「チーム医療の威力を米国に見る」や、『週刊社会保障』の連載印象記「日米がん治療の差はどこに」などで述べてきたことを改めて強調したわけです。

これに対して、柳沢氏は、拠点病院を中心にチーム医療の取り組みに力を注ぎたいと答え、伊吹氏も医学教育の現場に、放射線治療や緩和ケアなど新しい治療を取り込むべく努力するとともに、チーム医療をフォローしていきたいといった積極的な姿勢を示してくれました。また安倍首相も、がん撲滅という目標に向けて、個人情報保護に配慮しながら、「がん登録」のようなバックデータ作成に向けて努力したい旨の答弁をしました。

今振り返りますと、ショートクエッションならぬ、長口舌の見本のような下手な質問でしたが、熱意だけはテレビを通じて国民の皆さんに十二分に伝わったものと確信します。興味深いエピソードですが、私の質問が医療の細部にまつわることに及んでいたこともあり、「赤松って医者出身か、医療関係者なのか?」という疑問を持つ人がいたとか。このようなお世辞まがいの流言もどこからか届いてきたのは、お笑いぐさでした。

●骨髄、さい帯血移植専門の医療センターを

この質問ではもう一つ大きなポイントがありました。骨髄、さい帯血移植についての大規模な医療センターを作れとの主張です。柳沢氏は患者さんにとって、近くの施設に通う方がいいのではとの観点もあり、大規模な移植センターに集約することがいいのかどうか、今後必要な調整を行いたい旨の答弁をしました。

先にこの回顧録でも取り上げたように、長年にわたってさい帯血バンクのボランティア活動に取り組んできた有田美智世さんがこの質問のTV中継が終わったあとで、絶賛する電話をしてきてくれました。予め連携をとった上での質疑でしたから、当然といえば当然なのですが、やはり褒められると嬉しいものがありました。有田さんは、この時の私の質問についても彼女の「へその緒通信」に書いてくれたのです。以下引用します。

「赤松さんは、浜四津さんの代表質問(10月4日参議院本会議)のビデオを何回も見て、衆院予算委員会の自分の質問の中に、総理大臣答弁でははっきり回答がなかった『移植センター』設立について取り上げてくださり、『さい帯血移植、骨髄移植を集約的に実施する大規模移植センター設立を目指すべき』と、今度は柳沢厚労相に回答を求めたのです。(中略)  この日、厚労大臣の口から初めて『大規模移植センター』という言葉が出たのです。『この時の浜四津・赤松議員の連携が、10年遅れていると言われ続けてきた日本の白血病などの治療分野の遅れを取り戻せた』ー将来、必ずそう言わせるほどの結果を出せるように、私は関係者への働きかけをさらに強めていきたいと思っています」。

いやはや、有田さんの強い意志が明確に伝わってくる迫力漲る文章です。この人は今もなお、「日本さい帯血バンク支援ボランティアの会」の代表として懸命の闘いを続けています。「さい帯血移植」が「人生初めてのボランティア」との広告コピーが胸を撃ちます。(2020-7-7 公開 一部修正=8-30 つづく)

 

【64】安倍首相、太田代表が誕生。予算委でがん質問ー平成18年(2006年)❽ はコメントを受け付けていません

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