【83】母校創立90周年、文藝春秋『同級生交歓』に登場ー平成22年(2010年)❷

●社民党離脱に見る鳩山政権の悲喜劇

前年の衆議院選挙に際して、私は「麻生太郎氏の自民党か、鳩山由紀夫氏の民主党かの選択ではない。わかりやすくいうと、麻生プラス太田昭宏の自公政権か、鳩山プラス福島みずほの民社連立のどちらがいいのかの選挙だ。煎じ詰めれば、太田の公明党がいいのか、福島の社民党がいいのかなんです」と述べていました。これは、「麻生か鳩山か」ということでは、両者ともに保守の系譜を引き継ぐために、どちらでもいいということになってしまいます。それなら新しい方がいい、となりかねないので、「公明か社民か」、つまり「中道主義か、社民主義か」の選択なんだと言いたかったのです。

結果は残念ながら鳩山プラス福島の〝新しい組み合わせ側〟が勝利を得ました。しかし、それから半年余り。少子化担当相の福島氏は安全保障問題で首相との折り合いがつかず、罷免されてしまいます。挙げ句に社民党は政権を離脱、早々とこの新政権コンビは破綻(国民新党は残留)するのです。この辺りについて私は地元紙「セルポートKOBE」4月1日号での「永田町より一筆啓上」の連載コラムで、詳しく解説しました。抜粋を転載します。

【あれから半年。私の見立てどおりというか案の定というべきか、民主党は社民、国民新の二つの「民」に振り回されている。本体は、金権腐敗の実態をさらけだしたうえ、マニフェストを次々と改ざん、後退のやむなきに至っている。そのうえ、普天間基地の移設問題ではその両党に手足を引っ張られ、右往左往するだけ。永住外国人地方参政権問題でも国民新党の横槍の前に、為す術もない有様。これを「政権担当能力なし」といわずしてなんと言うのだろうか。単独政権が崩れ、連立が常態になってから17年。どんな枠組みにせよ、少なくとも国家観の共有がないと、国民にとって不幸なだけの政権になる。政権ごっこじゃあるまいし、憲法に対する姿勢のすり合わせもできていない政党のリーダーが同じ内閣に加わっているとは危ういかぎりである】

●阪神淡路の大震災から15年の母校で

私の学生時代の仲間たちの多彩な顔ぶれについては先に触れました。常日頃から総合雑誌『文藝春秋』の著名なグラビア欄の『同級生交歓』に私は関心を持っていたのですが、ある時、大学同級の青木聡君(現在GATJ社長)と話していて、彼が同社の幹部と昵懇であることを知るに至りました。これを私が見逃すはずはありません。直ちに、仲立ちをして欲しいと求めたのです。彼には色々な苦労をかけた末に、5月号で実現しました。小学校から大学までの同級生たちに思いを凝らし考えあぐねましたが、人生で最も多感な時期と思われる「高校」の仲間たちに絞りました。

同誌は、メンバーは現役であることとの条件をつけてきました。1945年生まれの私たちはこの年、既に65歳。現役を退いていたり、消息が直ちにわかりかねる仲間や遠隔地在住者もいて、選定には苦労しました。最終的には、東大教授を経て、情報セキュリティ大学院大学教授になっていた廣松毅、日本医大准教授を経て東京医療保健大学教授の高柳 和江、弁護士の蔵重信博、タクマ監査役の山原宣義の4人にしました。集合写真は母校の正門すぐそばにある創立者近藤英也先生の胸像前で写しました。以下、私が書いた文章を転載します。

【阪神淡路大震災から十五年。避難先となった母校・長田高校は創立九十周年。我々十六回生が卒業したのは東京五輪の年。「三丁目の夕日」が映えていた。昨年東大を退職した廣松は、情報分野での更なる研究に取組む。山原は国際派バンカーから転身、循環型社会の実現をめざす。弁護士稼業一筋の蔵重は、旧知の橋下知事に敵愾心を燃やす。笑いで人を癒し続ける小児外科医の高柳は今、笑医塾の全国展開に余念がない。昨夏辛くも六選を果たした私は、初心に立ち返り、哲学と政治の両立に思いを凝らす。目立たなかった五人の今は甚だ不思議との声が仲間達から聞こえてくる。(赤松)】

このグラビア・コラムから10年。今年2020年に母校は開校百周年を迎えます。確かに様々な人材を世に送り出してきた名門高ですが、後輩達の頑張りで今や県下有数の文武両道に秀でた学校と言われているのは嬉しい限りです。

●ないがしろにされる沖縄県民の意思

この『文藝春秋』が発売になる少し前の3月31日に、衆議院外務委員会として沖縄県に日帰りで行く機会がありました。辺野古基地、うるま市、ホワイトビーチなどを視察した後、県知事や県議会関係者らと会い、精力的に意見聴取や意見交換を行ったのです。鳩山首相の就任から半年余り、普天間基地の移転先を巡って、右往左往の真っ最中だったので、委員会として現場を見た上で、その声を聴こうということでした。

とりわけ、私たちが出発した当時、ホワイトビーチが移転先にあがったばかりでもあったので、同地のあるうるま市に足を運んだしだいです。同市の島袋俊夫市長は突然降って湧いたような候補地騒ぎに困惑を隠しませんでした。また仲井真弘多県知事は、懇談の場で「日本防衛のために沖縄も応分の負担はしていくが、これ以上限度を超えていくことには我慢がならない」と発言しました。私は、知事に対して「政府に要望するなら、担当閣僚が揃ったところですべき」「沖縄の負担が重すぎること、とりわけ米兵らによる事件、事故や基地公害など地位協定の不合理など、もっと日本国民全体へのアピールをした方がいい」などと強調しました。

そうしたやりとりが終わって、私たち議員団が席を立って帰ろうとすると、知事が「これ、ご覧になってください」と、地元紙のコピーを皆に配りました。そのコピー記事にはこうありました。

〈自らの郷土たる沖縄に対し、当事者であるべきはずの県民の意思がないがしろにされ、尊いものとして扱われていないという問題性の歴史的連続が、基地問題にも表れている。〉

実は、この場面のことを読売新聞の『政ナビ』欄(5月23日付け)で、政治部次長の飯塚恵子記者が取り上げたのです。「ウソをつかないで」という見出しのコラムの冒頭で、仲井真知事の動きを紹介した後に、私の発言を引用し、自身の見解を述べています。

【記事を読んだ赤松正雄公明党政調副会長は「知事は自分では言わなかったが、この一文に県民の思いを託したのだろう」と感じた。難航を極める普天間問題の根底に、〝負〟の「歴史的連続」があるのは事実だ。明治政府が廃藩置県で琉球王国を日本に組み入れた「琉球処分に始まり、地上戦で多くの死傷者を出した太平洋戦争の沖縄戦、戦後の米国占領、そして復帰後の過大な基地負担と、本土との経済格差‥‥。】

私はこの時の「問題性の歴史的連続」の言葉に、まさに本土の沖縄県民に対する「差別意識」を感じざるを得ませんでした。なお、飯塚恵子記者は、アメリカ総局長などを経て今は編集委員。私とはあまり接点はなく、この記事が唯一のものでした。(2020-8-14公開 つづく)

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【82】「日米密約検証」で岡田外相の基本姿勢を糾すー平成22年(2010年)❶

●党首討論で初の公明党の出番

民主党中心の政権になって、公明党の山口代表が初めて党首討論(いわゆるクエスチョンタイム)に立ちました。2月17日のことです。自民党との連立政権下では、残念ながら公明党の出番はなかった(今もない)のですが、同制度導入後初めてのことになり、それなりに見応えがありました。尤も質問の持ち時間は10分だけ。国会はたっぷりと時間をとって、国のかたちを巡って与野党問わずに党首が語り合う場面を作るべきではないかと思うことしきりです。

鳩山首相は、谷垣禎一自民党総裁の追及にはのらりくらりの受け答えをしつつ、逆に企業団体献金の禁止を呼びかけるという手に出ました。自民党は足元を見られた格好です。一方、山口代表が政治資金規正法改正案の提出や再発防止に向けて与野党の協議機関設置を呼びかけたことには、前向きの姿勢を示し、努力を約束してみせるなど懐の深さとでも言うべき態度を垣間見せはしました。

●予算委員会で1時間15分質問に立つ

他方、同じ日に開かれた予算委員会一般質疑には私が立ちました。1時間15分の質疑時間を、いわゆる「日米密約」問題と核政策、沖縄普天間基地問題、そしてがん対策について政府を糾しました。与党時代はせいぜい30分でしたが、野党になると質問時間はぐっと増えます。このうち、がん対策については、緩和ケア、がん登録、放射線治療などの進捗状況を確認して推進を督促する一方、がん教育の重要性も訴えました。さらに小児脳腫瘍の現状の問題点を訴えると共に、チーム医療の重要性を強調したのです。

地域別に点在するがん拠点病院に小児脳腫瘍の専門医を集約し、患者をここに誘う仕組みを作ることを提案しました。これは小児脳腫瘍と闘う患児や親御さんと接する中で、気づいたことがあれこれあったためです。特に、国立がんセンターのがん対策情報センターが発行していた「小児の脳腫瘍」と題する小冊子の記述の誤りに気づき、訂正を求めたりもしました。のちに追跡調査の結果、対応の後が見られ、ほっとしたものです。この時の答弁は、長妻昭厚労相です。彼はジャーナリスト出身で、ちょっぴり変人の誉が高い人ですが、この時の答弁を始めとして私の評価は低くはありません。

さらに、2月25日の予算委員会の分科会では、佐用町の水害問題を取り上げて対応を求めました。これは前年の8月9日に西日本を中心に襲った台風9号による大災害で、死者18名、行方不明2人という悲惨な状況でした。私が親しくしていたUさんが、衆院選の選挙協力の打ち合わせのために町の中心部に集まられていました。豪雨の中、帰宅途中に車ごと流されて生命を落とされたのです。

断腸の思いという言葉では到底言い表せない悔しく切ない出来事でした。こうした思いを魂に込めて質問に立ちました。森の荒廃という根源的な問題が山の保水力をなくしてしまっており、それこそが川の氾濫を起こしやすくしてしまっている現状を指摘しました。これは、私が顧問を務める「熊森協会」の年来の主張でもあり、力がこもった質問になりました。この時の答弁は赤松広隆農水相。彼は旧社会党の中心的存在です。昨今影が薄いようですが、もっと活躍を期待したいものです。

●スタンドプレーの色濃い民主党の姿勢

民主党政権になって、外交・安全保障の分野の中心者たち(岡田克也外相ら)は、自民党政権と米国政府との間での「密約検証」を焦点に取り上げました。保守政権の長年にわたる対米癒着を暴こうとの魂胆でした。私は2月17日の予算委員会で、「密約」を調査するというのなら、スタンドプレー的なものでなく、政府が総力あげて取り組む必要性を強調しました。そもそも密約問題とは、①1960年1月の安保条約改定時の核持ち込みに関する「密約」②同じく朝鮮半島有事の際の戦闘作戦行動に関する「密約」③1972年の沖縄返還時の有事の際の核持ち込みに関する「密約」④同じく現状回復補償費の肩代わりに関する「密約」ーの4つを意味します。いずれも大きい問題で下手すると、返り血を浴びかねず、やるなら徹底してやるべし、と言ったわけです。

このあと、3月10日、4月28日の外務委員会でも私は質問に立ち、岡田外相にその姿勢を質しました。そこでは、密約について、狭義(公表されたものと違う中身の文書が残っているもの)と広義(公表されたものと違う暗黙の了解や合意)の密約があるとの定義をまず確認しました。その上で、ほおっておくと、日米お互い暗黙の了解の中で、核が持ち込まれることが今後も起こりうることを指摘したのです。

つまり、「密約にまた新たな密約を重ねる」という一般的な懸念の表現ぶりを「暗黙の了解という名の広義の密約が続く」と言い換えたのです。結局、今の民主党政権も、前の自公政権も、核の傘を掲げる、米国に依存するという基本的立場に変わりはないのだから「非核3原則」への疑念は常に付き纏うと言いたかったのです。

「非核3原則」問題に関しては、私は公明党の政策として「新非核3原則」なるものを唱えたことがあります。それは、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という現行のものでは自制的に過ぎるから、「核兵器を持たせず、作らせず、使わせず」というように、核兵器保有国を縛る原則を掲げるべし、としたのです。ユニークなものだと自画自賛しましたが、朝日新聞が取り上げてくれただけで、非現実的だとしていつの日か消えてしまったのは残念なことです。

●「燃やさない文明」テーマに鼎談

『電気自動車ー「燃やさない文明」への大転換』ー2010年に村沢義久・東京大学特任教授によって刊行されたばかりの著作です。村沢教授は、ゴールドマン・サックス証券などを経て学者になった人で、発想が実にユニーク。電気自動車や太陽光発電などを活用し、低炭素社会を目指すパイオニアです。理論誌『公明』誌上で、党内きっての科学者・斉藤鉄夫政調会長(元環境相)と3人で鼎談を試み(3月号)ました。『太陽光、電気を生かしたエネルギー革命を志向して』というサブタイトルです。村沢・斉藤お二人の呼吸はピッタリでした。

「そもそも火を燃やさなければ、Co2自体を出さず、温暖化対策に劇的な貢献ができる」というのが村沢さんの主張です。「太陽光はエネルギー量が非常に多く、上手に使えば我々のエネルギー需要を全部賄うことも可能で」、「地球はわずか1時間の間に、世界が1年間に使う量に匹敵する太陽エネルギーを受け取って」おり、「まさに『天の恵み』で、これを最大活用しない手はない」とのスタンスです。世界におけるこの分野は、外交や防衛とも深い関係を持つことから、私も舞台回し役を兼ねて加わった次第です。

村沢さんは「ガソリン自動車を全部電気自動車化すれば、日本のCo2排出量を20%削減できる」との見立てに基づき、自動車業界が既存のものから電気自動車メーカーへと雨後の筍のように、変わっていくことを「スモール(小さな)ハンドレッド(100)の時代」の造語で表現していました。日本中の中古車を電気自動車に改造する呼びかけを全国に展開しようというのです。自動車産業界の大転換を予感させるものでした。(2020-8-12公開 つづく)

 

 

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【81】事業仕分けの旋風吹き荒れるー平成21年(2009年)❺

●孫崎享さんと『公明』で、安保政策めぐり対談

外務省出身の評論家や物書きで懇意にしてきた人は、岡崎久彦さんを筆頭に何人かいますが、孫崎享さんもそのひとり。太田昭宏さんが代表当時に、ユニークな外交専門家がいるので一度関係者で会おうとの誘いを頂き、お会いしたのが初対面でした。『日米同盟の正体』を出版されたばかりの頃だったと記憶します。以来、交流を深め、党理論誌『公明』9月号で対談をしました。衆院選前の特集の一環として、「責任ある安保政策とは」というタイトル。そで見出しには、「平和観を積極的に生かす外交戦略を」とありました。

この時の孫崎さんの発言で注目されるものをひとつだけ挙げますと、英国BBCがWorld Public Opinionとの共催で、世界で行った世論調査「どの国が世界でもっと発言力を持って欲しいか」との問いに、「日本」との回答が圧倒的に多かったということです。孫崎さんは、日本が国際的に尊敬を得る地位を獲得するという点で極めて有利な位置にいながら、米国の求める軍事的支援への偏りが目立つことに疑問を投げかけていました。

加えて、アメリカンフットボールに例えて、それぞれのポジションごとに必要とされる役割は違うのと同じように、国家の役割も国によって違うのだから、日本はやれる範囲内での国際貢献でいいのだと指摘していました。私はかつて、55年体制下の日本の与野党は、攻守が裁断されていることから野球に例えられ、その後の新党ブームを経ての連立政権下では、攻守が瞬時に入れ替わるサッカーに似ていると、述べたものですが、二人の視点はいささか違っていました。

孫崎さんは、政権が民主党に移ったのちに、なんと鳩山由紀夫首相の個人的政策アドバイザーになられました。のちに重大な問題に発展する、「最低でも県外」発言などを始め影響を与えられたものと思われます。今では鳩山元首相肝いりの「東アジア共同体研究所」の所長をされ、UIチャンネルなどでしばしば共演されています。私が対談した際には、現在のような立ち位置になられるとは、もちろん想像だにしませんでしたが、月日の流れとは面白いものだと妙に感心している次第です。

●最初は好評だった「事業仕分け」

民主党は政権の座につくや、事業仕分けを打ち出し、大いに好評を博していきました。元をただすと、これは「構想日本」の加藤秀樹代表を中心に、数年前に打ち上げられ、公明党が最初に導入すべく動いたという経緯があります。ただ、政権のパートナーの自民党には受け入れられずに、時間が経ち、民主党が採用したわけです。一言で言えば、「公開の予算査定」で、これまでの〝密室の予算編成〟に比べれば、オープンなところは評判は悪くなく、いっときはフィーバーぶりを発揮しました。私の中学校同期の50年来の友人が大いに評価していたことを思い出します。

私は12月3日のブログでこんな風に書いています。

【昨日は、午前中に外交安保部会を開き、外務省と防衛省から事業仕分けの結果を聞いた。事業仕分けについては、賞賛の対象となるのは、やはり情報公開による予算決定過程の透明化だろう。一方問題点は、進め方、手法の乱暴さに尽きようか。細かい検証はこれからではあるが、政治主導に名を借りた財務省主導の側面も否定できない。そういったことを踏まえたうえで、外務省の事業仕分けで、注目を引いたのは、国際情報誌『外交フォーラム』をめぐってのやりとり。

この情報誌は歴史家の山内昌之氏が編集委員に名を連ね、編集顧問には元中央公論の編集長で著名な粕谷一希氏の名も。私もそれなりに愛読していた。しかし、この情報誌は買い上げ、無料配布がほとんどであったことが、事業仕分けの場を通じて、明らかになっていった。およそお役人の営業で、企業努力はゼロだったとわかった。

一方、防衛省関連では、国際平和協力センターが「教育・訓練は必要・重要だが、箱は不要。既存施設の最大有効利用を考え、教育を行うべき」などの意見が出され、廃止の方向とのこと。カナダのピアソンセンターのようなPKO教育センターが欲しいということで、私などが中心になって進めてきた事業だけに、葬り去られるのは惜しい。規模縮小はあってもいい。是非とも復活させるべくこれから尽力したいと考えている。】

前政権のやってきたことを否定し、新たな視点の導入を持ち込むことそれ自体は新鮮でしょう。口惜しさはあるものの、こういうところに政権交代の醍醐味も窺われると正直思った当時の感慨がしのばれてきます。

●官僚答弁ゼロが何をもたらすか

事業仕分けと並び民主党政権になって顕著なことは、委員会質疑において、官僚答弁がゼロになり、大臣始め副大臣ら政治家が答えることになった点です。このところ続いた自公政権においては、残念ながら褒められない閣僚答弁も散見されました。その分、民主党政権の閣僚諸氏は、中身はともかくなかなか頑張ってる印象は強いように見受けられました。

そのあたりについて、11月5日のブログにはこう書いています。

【官僚は答弁ばかりか、各省庁の政策立案の分野においても、大臣や副大臣、政務官ら政務三役が指示するものに限って対応するだけ、といったことが起こっているという。創造的な仕事が出来ず、ただ政治家の下請け機関に成り下がってしまった、これではもう仕事をする魅力もなく意欲もわかない、との声も聴く。かつての自公政権の正反対だとまでは言わないが、あまり無理をすると、あれこれ不都合をきたすのではないか、と懸念するのは余計なことだろうか】

基本的にはこの流れが今に至るまで続いているものと思われます。功罪相半ばするものはあるでしょう。それが政治家の能力を高める結果になってるならまだしも、どちらも地盤沈下している様子が否めないということでは困ったものです。

●台湾より旧友来り、意見交換

台湾の許世楷・前台北駐日経済文化代表処代表が久方ぶりに訪日され、公明党の関係議員と交流するために10月末に国会に来られました。かつて同氏は大阪を訪れられた際に、私の選挙区・姫路に足を伸ばされ、姫路城に一緒に登ったことが懐かしく思い出されました。

国会での懇談の場で、私は民進党から国民党への台湾の政権交代の実態やNHKによる偏向報道(シリーズJAPANデビュー①)の反響、さらに台湾の国連及び国連機関参加問題について意見を求めました。その際に、同氏は、同年5月に台湾は永年の希望であった世界保健機構(WHO)へのオブザーバー参加を中国の同意をもとに、実現させることができたと報告され、感謝の意を述べられました。

これは私が厚生労働副大臣時代に要望を台湾当局から受けて尽力したテーマ。ようやく陽の目を見て、喜んで頂けたことは大層嬉しいことでした。実は、昨年仕事で台北を訪れることがあったので、事前に許世楷さんの東京でのご自宅を訪問し、旧交を温めました。また、当時の秘書官・陳銘俊さんが現政府の高官になっておられると聞き、台湾総督府で再会を果たすことも出来ました。日本での交流やら国民党政権下の雌伏の頃に思いを起こし、隔世の感を強めたものです。(2020-8-10 公開 つづく)

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【80】鈴木宗男氏とのあの日以来の再会ー平成21年(2009年)❹

o●介護総点検など公明党の立ち上がり

政権交代を許してしまい、下野した自公政権。とりわけ公明党にとってどう立ち上がるかが全てでした。新たに党代表になった山口那津男さんは、弁護士出身。太田前代表までの公明党のリーダーと違って、創価学会の組織経験がほぼないことが、この人の弱みであり強みでもありました。就任当初はやや線の細さが気にならなくもなかったのですが、それはほんの最初だけ。瞬く間に力量を発揮していくことになります。

山口代表は、最初の代表質問で、「福祉、教育、平和、環境」をこれから公明党が目指す基本的政策の旗印とすることを改めて表明しました。その中でも、「安心社会を実現するための年金、医療、介護、子育てを柱とする新たな日本型福祉社会」を構築することに力を注ぐことを鮮明にしたのです。さらに「介護」問題を最も優先されるべき課題として挙げた上で、具体的には❶施設、在宅サービスの整備・充実、介護人材の慢性的不足への対処❷地域包括ケアシステムの構築などの重要性を強調。公明党として「介護」総点検運動の展開を掲げたのです。かねてより、公明党は「総点検」をその政党活動の「一丁目一番地」に置いてきているだけに、全国の党員、支持者は奮い立つ思いを抱きました。

なお、井上義久幹事長は私にとって太田さん同様に公明新聞で机を並べた文字通り懐かしい同志(2年私の後輩)です。東北大工学部出身の理系政治家の先駆のひとりとして注目されてきていましたが、いよいよ満を持して表舞台に登場との感が強くありました。太田さんが落選し、組織経験がない山口代表を支える好適任者と見られたのです。

●外務委員会での質問の際に、鈴木宗男委員長への〝弁明〟

民主党が政権を奪取したこの時の選挙で、かの鈴木宗男氏は新党大地の代表として2回目の当選(通算8期目)を果たしていました。いわゆるムネオハウス事件に端を発した一連の疑惑がもとになり、衆議院予算委員会で証人喚問されたのが2002年3月11日。その後、議員として最長の437日ものあいだ拘置されたり、自民党を離党、落選も経験するなど様々の遍歴を経て、この年の9月16日に新党大地が与党会派入りしたことによって、翌17日には衆議院外務委員長として復活することになったのです。私は、当時同委員会の理事でしたので、実に8年ぶりに顔を合わせることになりました。

証人喚問の際に私が公明党を代表して質問に立った時のことは既に述べた通りです。私としては、以前からの二人の関係もあり、再会に際してそれなりのリアクションがあって当然と思っていました。つまり、彼の方から、「あの時は言いたいことを言ってくれたよなあ」とか、皮肉の一つも投げかけられて当然だと覚悟していました。ところが、そんなことはもとより、彼から愚痴の一つも出て来ません。理事会の場においても、通常の委員長職をこなすことに終始するだけ。私としては無視されたようで、拍子抜けしたのですが、大いに感ずるところがありました。

そうした流れの中で、11月17日に委員会が開かれます。私が質問に立つ機会が巡ってきました。岡田克也外相らへの質疑に先立ち、私は次のように発言をしたのです。以下、関わりある部分を議事録から全文引用します。

【私一つだけ申し上げますと、あのとき、大変失礼な言い方でございますが、たたき上げの鈴木宗男代議士は、自分自身をたたかれるんではなくて、周りをたたかれてのし上がってこられた方だというふうな言い方をしてしまいましたけれども、その後の、ご自身の法廷闘争だけではなくて、外務省との闘い、さまざまな面で教えられるところが多い。

また、佐藤優さんとそれから鈴木宗男代議士との何といいますか、例えようもない友情というか、そういうものを、さまざまな著作を通じて、一生懸命読ませていただいて、教えられるところが多い。このように申し上げさせていただきまして、回答は要りませんので、私の感想とさせていただきます。】

正直に言って、私は証人喚問以後、鈴木宗男、佐藤優両氏が書いた本を徹底して読みました。とりわけ佐藤氏の本には心底から魅せられたのです。この発言をすることで、私は自身のわだかまりとでもいうべきものを清算した思いでした。公的な場面で発言したことへの決着は、やはり公的なところでけりをつけるべきとの私流の始末の付け方でした。ところが、ほぼ一年後に鈴木氏の実刑が確定する判決が出ます。公民権停止となり彼は議員を失職、委員長も辞任することになります。その後、ほぼ忘れかけていた時に、この時の発言が改めてクローズアップされることになるのです。それは佐藤優さんの著作の中に登場しました。後日談とでもいうべきものですが、あえてここで触れることにします。

●佐藤優氏の『創価学会と平和主義』

実は、5年後の2014年に発刊された彼の『創価学会と平和主義』(朝日新書)なる本の138頁から140頁にかけて、以下のような私に関する記述が出てくるのです。

【かつて、私は鈴木宗男氏の疑惑に関連して、共産党、社民党や民主党議員から激しいバッシングを受けた。公明党も鈴木氏を「クロ」だとする立場だったが、公明党の議員は、鈴木氏に対しても私に対しても、人間的な誹謗中傷行わなかった。

国家策動への対応

その後、鈴木氏が国会に戻り、衆院の外務委員会の委員長に就任した。2009(平成21年)11月18日の外務委員会で、公明党の赤松正雄代議士が質問の最後に、付け加えた。(議事録からの引用は前述通りなので略します)

赤松氏だけではない。公明党や創価学会の関係者に会うと、「よくあの状況で鈴木宗男さんを裏切りませんでしたね」と言われることがしばしばある。こういう発言が出てくるのは、創価学会や公明党のもつ、組織の文化だと思う。国家が何か策動しているときに、一歩引いて状況を観察する。国家権力の論理とは別の価値観で動いているのだ。これは決して失ってほしくない価値観である。】

実は、佐藤優さんは、このくだりの直前に「日蓮仏法の理念を現代社会に反映させ、反戦平和と大衆福祉の実現を目指す政党だと自身を規定し直す」ことを提案しています。そうすることで、党の輪郭が明瞭になって、ある種のうさんくささが消えるというのです。そしてその結果、「無党派層が投票先を考えるときの選択肢の一つとして認知されるようになる」と断言しています。

宗教政党だという側面をもっと積極的に前面に押し出せということでしょう。この著作を出版して以後、彼は堰を切ったかのように、「公明党論」をこのスタンスで展開しているのです。創価学会に対する深い理解、池田先生への熱い尊敬の眼差し、公明党への大いなる期待ぶりには心底から感動を覚えます。私などには、昨今の「安倍一強」がもたらす自民党の宿痾とでもいうべきものへの嫌悪感があります。このため、ややもすれば公明党への厳しい視点を隠さないのですが、佐藤優さんはもっと高く幅広い視点と包容力で自公政権を見ているものと思われます。(2020-8-8公開 つづく)

 

 

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【79】落選しながら当選という〝おかしなおかしな大奇跡〟ー平成21年(2009年)❸

●近畿比例区順位五番を自ら申し出る

衆議院議員の任期切れが近づいていくなか、前哨戦ともいうべき東京都議会選挙が7月12日に投開票を迎えました。その結果、民主党が54議席を獲得。前回を15議席も上回りました。それに対して自民党は38議席と、前回よりも10議席も減らして、第一党の座を民主党に譲りました。公明党は前回同様の23人全員当選で面目を施したことになります。自民党の都議会第二党への転落は、都議会史上歴史的な〝黒い霧解散〟となった昭和40年(1965年)以来のものです。実はこの年に大学に入ると同時に創価学会に入会、公明党員にもなった私としても選挙権は未だなかったのですが、忘れがたい出来事でした。

この自民党大敗の翌日13日に、麻生首相は7月21日に衆議院解散をし、8月30日に投開票することを表明します。首都での大敗北の余韻覚めやらぬなかでの衆議院選挙日程の公表。なんとも気勢の上がらぬことおびただしいものがありました。加えて、解散当日の自民党両院議員総会の場で、同首相は反省とお詫びを口にするなど、タイミングの悪い遅すぎる釈明を行うのです。野党民主党にとっては、好都合この上なく願ってもない上昇気流に乗る追い風ムードがグングンと漂いました。

実はこの総選挙では後々に至るまで私の記憶に残ることが三つもありました。一つ目は、私の比例名簿順位のことです。これまでの比例区での4回の総選挙では、事前に何ら打診めいたこともなく、公示当日に党から順番が伝えられるだけ。ところが、この時に限って支持団体のトップ・西口良三総関西長から呼び出しがあったのです。7月20日夕刻のこと。神戸でお会いした(兵庫の得田昌義さん同席)のですが、近畿比例区の五番目の話では、との予感がしました。面談が進むも、本題らしきことに中々触れられないので、私の方から頃合いを測って、「名簿順位五番目にしていただくことで、結構ですよ」と発言しました。

西口さんは「そうか、そう言ってくれるか。それはありがたい」と、ホッとされた顔で言われました。私は続けて「落選中の竹内譲君をぜひ当選圏内に入れてやってください。私は五番で構いません。兵庫県の同志の皆さんにはご苦労おかけしますが、五番目でも必ず通してくださるものと確信します」と不思議なくらい強い口調で断言しました。加えて、「比例区の選挙って、本当に面白くも何ともないですね。自分の名前で出られる小選挙区の方が大変でも、やりがいがあります」と、いささか余計なことも口にしたのです。西口さんは「そうか。面白くも何ともないか」と言いつつ、「名簿順位五番でも必ず当選させるから」と激励してくれました。

●民主党政権の座へ、自民、公明は大惨敗

二つ目は、投票日の三日ほど前のことです。「あなたの当選は恐らく間違いないですよ」と、ある親しい記者から電話があったのです。実は、選挙期間中の世論調査で民主党の圧倒的強さが報じられていました。この総選挙は、「政権選択」に焦点が絞られ、自民党への逆風は猛烈に吹き荒れていました。民主党に対して「一度やらせてみては」との空気は日に日に強まっていきました。自民党を中軸に据えた長期連立政権は制度疲労的現象を随所に抱えていたのです。

そんな状況を背景に、メディア各社は事前に当落予想をします。その予想結果を秘密裏に教えてくれた記者からの電話でした。民主党が小選挙区で圧勝するが、比例区の候補者数(民主党)が足らない、そのため、公明党に議席が回ってくる公算が強いというのです。民主党が圧倒的に強いということは、自民党、公明党の小選挙区候補が弱く、落ちるということが前提です。これはもう素直に喜べない極めて困った結果予測です。仲間が落ちた時のみ自分は通るー複雑怪奇な気持ちを持ったまま、奇妙奇天烈な三日間を過ごしました。

投票日当日の30日。不安は的中し、続々と民主党は当選、自公候補は次々と落選する結果となったのです。地滑り的勝利との表現が相応しく、民主党は308議席を獲得。なんと、公示前の3倍にも及ぶ伸びを示しました。一方、自民党は公示前の300議席から119議席に激減。公明党も8小選挙区で、太田代表、北側幹事長、冬柴元幹事長ら8人全員が枕を並べて討死する結果となりました。尤も比例区は805万4007票で、辛うじて21議席を獲得し、前回より2議席減らしただけで済みました。

三つ目は、私はひとたびは落選と報じられたのですが、一夜明けると当選していました。開票日の夜、近畿比例区の公明党は4議席で決まり、だったからです。ところが、民主党の比例区候補者数が3人足らず、2人が自民党、1人が公明党へと議席が回ってきたのです(いわゆる比例復活ではなく)。おかしなおかしな選挙制度です。足らないならその分を空席にせず、相手方から回して埋めるというのですから。自民党の繰上げ当選者は小選挙区に出ていて次点だった人たちです。私の場合は単独比例候補です。こういうケースは全国で私だけ。まことに〝奇跡〟という他ない〝摩訶不思議な勝利〟だったのです。真夜中に、冬柴、赤羽両候補の落選という沈痛な事態を横目に、落ちたのに通るという、6回目の当選を果たしました。喜んでも喜びきれない、悲しいなかでの喜びという正直いって、複雑な心境でした。

●鳩山首相が誕生。公明党は山口、井上の新体制に

民主党の大勝利で、新しい首相に鳩山由紀夫氏が就任(9月16日)しました。民主、社民、国民新党の民民民の三党連立政権です。政権交代がついに実現した、という高揚感が国中に溢れました。それから40日も経ってからようやく所信表明演説が行われました。私はその日のブログに、「情緒に流れすぎ、具体的政策提案がないのに、なぜか聴かせた首相演説」と持ち上げています。そのくだりを以下に、引用してみます。

【(鳩山首相の演説は)率直に言って悪くはなかったとの感想を持つ。情緒に流れすぎて(「あの暑い夏の日」といったフレーズの繰り返し)おり、具体の政策提案がなさ過ぎる(「日米間の懸案を解決する」との発言)など、言葉だけとの批判は十分なされる余地はある。しかし、今までの自民党の総理大臣の〝総花的政策の羅列〟に比べれば、かなり聴かせる中身ではあった。

民主党の政権運営の切り口は、今のところ鮮やかであることは認めざるを得ない。徹底した政治主導による予算における無駄の排除をはじめとして、前の政権の全てを否定するかのごとき手法には恐れ入る。(中略)鳩山首相や小沢幹事長の政治資金をめぐる疑惑を強調しても、そんなことよりもこれまでの政治の仕組みを変える方が先決だろうとの空気が巷には充ちていると思われる。自民、公明はよほど気合を入れて取りかからねば、KY(空気が読めない)と言われかねない。首相の演説の区切りごとに、沸き起こる耳をつんざく大拍手に手で耳を押さえながら、これからの対処に思いを巡らせた】

一方、 公明党は、9月8日に臨時全国県代表者会議を開催。新代表に山口那津男政務調査会長、幹事長に副代表の井上義久氏を選びました。清新なコンビによる新たな出発です。(2020-8-6 公開 つづく)

【79】落選しながら当選という〝おかしなおかしな大奇跡〟ー平成21年(2009年)❸ はコメントを受け付けていません

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【78】銀行の惨めな運命と私だけの感慨ー平成21年(2009年)❷

●麻生首相就任から3ヶ月で早くも末期的症状

この年は9月に衆議院が任期満了となるため、解散・総選挙含みの一年の幕開けでした。前年に襲った経済危機もあり、チャンスを見出せぬままに年越しとなりました。麻生首相はその発言が常に物議を醸すことが多く、まるで穴の開いたカバンを持ち歩いているようで、行く先々で失言やらブレる発言を繰り返す有様でした。そのうえ、あいも変わらぬ閣僚の不祥事が後を絶たない事態も続いたのです。

就任直後の中山成彬国土交通相の問題発言(成田空港、日教組)も驚きましたが、新年明けやらぬ2月のイタリアでの先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では、国民誰しも我が目を疑う事態が起きました。中川昭一財務・金融相が閉幕後の記者会見の場で、ロレツ定かならぬ酩酊状態を曝け出したのです。目も当てられぬ醜態に、何か特別なことが彼の体内に起こってるのではないか、との不吉な予感すらしました。さらに、もう少しあとのことですが、首相の盟友・鴻池祥肇官房副長官が女性問題で辞任することになるのです。

既に前年暮れの世論調査では、内閣支持率は大きく落ち込み20%台という状況になっていました。自民党内においても、しだいに〝麻生下ろし〟の動きが出てきて不穏な空気に包まれ、混乱の様相を深めていました。スタート時点では、この人独特の明るさに期待する向きもあったのですが、予算委員会の場などで漢字も読めない場面を見せられ、墓穴を掘る雰囲気も重なり末期的症状は覆うべくもない有様でした。

●西川善文氏とのご縁と出会い

そんな状況を横目に、私は総務委員長として日本郵政の問題と格闘していました。小泉首相捨身の大技の結果として導入された郵政民営化ですが、その後の具体的展開の課題として、当時浮上していたのが先にも触れた「かんぽ」をはじめとする日本郵政の課題でした。

鳩山総務相との間も険悪な状況が続くのですが、そうした問題とは別に、私は西川善文氏(この頃は日本郵政社長ですが、元々は銀行家)に特別な感情を持っていました。と言いますのは、私が銀行員の息子だということに起因します。父は私が政治家になる前に他界していましたが、都市銀行の末端にあった神戸銀行に長く勤めていたのです。神戸銀行は父の死後、有為転変の末に、三井住友銀行(SMBC)のなかに吸収されていきます。その銀行の頭取をし、「最後のバンカー」と言われた西川氏ということになると、私としては大いに語り合いたい思いを持ちました。親父の仲間のように思えなくもなかったからです。

もちろん、私の父は岡崎忠・神戸銀行頭取を師とも親分ともボスとも仰いでいましたから、筋違いではあるのですが、当たらずといえど遠からずの関係と言えたのです。委員会で参考人として出席された際に、ぜひ一度じっくりとお話の機会を、と誘いました。更に実はもう一つ大きなご縁が西川さんとはありました。私の高校同期と一級下に二人の仲間(共に京大卒の俊英)がいて、彼らが西川門下とでも言うべき存在だったのです。この二人を交えてぜひ4人で一献傾けたいのでというと、まさに二つ返事でした。西川さんにとって、この二人は彼の銀行員生活の中でも特筆されるべき鍛え甲斐のある優秀な部下だったと言います。

同年5月13日の夜は楽しいひとときでした。話題は、阪神タイガース(彼は筋金入りのファン)から始まり、銀行員稼業の厳しさということに落ち着きましたが、父が私を銀行員にさせたがった経緯(私は関心度ゼロ)があるだけに、感慨一入のものがありました。聞いてみると、西川さんも元々は銀行には入りたくなかったとか。その後の銀行を襲う宿命的事態や、風前の灯火に直面する銀行家の怒涛の人生を思う時に、むべなるかなとの感情も沸き起こらざるを得ませんでした。国会での厳しい追及に晒されていた西川さん。その苦しい日々の中で、私たちとの語らいが、砂漠の中のオアシスの役割を果たせたのではないかと思ったしだいです。

●民主党小沢代表の辞任と須磨区での党会合

この頃、小沢民主党党首の第一秘書が西松建設の問題で逮捕された問題が燻り続けており、結局は同代表は5月初めに辞任するに至ります。その後の党首選挙を経て、鳩山由紀夫さんが党首に選ばれていきます。そんな状況下で、忘れられない人のお家を訪問しました。神戸市須磨区に住むSさんという当時87歳の女性です。と言いますのは、ちょうど一年前の同区での講演会でのこと。私が自公連立政権と民主党のどっちがより民衆の役に立っているかなどと話したあと、質疑応答の時間をとりました。

会場の皆さんから、最近の自民党は酷いとか、民主党はもっとあかんとか議論百出、ちょっぴり乱れました。その時にこのSさんがやおら立ち上がり、「自民がどうの、民主がどうのというたことは、みんな公明新聞に書いてある。公明新聞はええ新聞や。とくに連載小説の『安国寺恵瓊』がええで」と言われたのです。場内は一瞬で笑いの渦となり、盛り上がりました。この発言のお陰で、私は急場を救って貰った思いがしました。

これがきっかけとなって、私はこの小説の作家・火坂雅志さん(同年のNHK大河ドラマの『天地人』の作者)から色紙にサインをいただき、それを届けるために、家庭訪問をしたしだいです。「これまで生きてきてこんなに嬉しいことはないわ」と喜んでいただき、当方も嬉しい思いをしました。こういう熱心な支持者がいたるところにおられ、公明党を支えてくださってることを生涯忘れてはならないと、心の底から誓ったのです。

●自治体病院協議会の総会でほほ笑みの挨拶

「私は新型インフルエンザが初めて国内で発生した神戸が地元。皆マスクをしていますが、今日のこの会合では、皆さん元々良いマスクをしておられる方ばかりですから、マスクはとくにかけなくともいいのですね」ー5月21日に開かれた「全国自治体病院協議会定期総会」に招かれ、衆議院総務委員長としての来賓挨拶をこう切り出しました。ジョークは無事に理解されたようで、笑いも起こり和んでいただきました。新型コロナウイルスの蔓延で苦しむ現在からすれば、いささか寒くなるかもしれませんが、11年前のことです。

この協議会のトップは、赤穂市民病院の邊見公雄院長。長年私とは親しい人とあって、つい肩に力が入りました。自治体病院は地域における基幹的な医療機関として大きな役割が求められていますが、過疎の深刻化や医師不足などで、環境は厳しくなるばかり。多くの病院は経営状況が悪化、医療体制の維持も厳しいものが強くあります。

この日の会合には、議員連盟の会長として青森県選出の津島雄二代議士も出席していました。青森県といえば、先に述べた私の高校同期の高柳和江さんが主宰する「癒しの環境研究会」が活躍して、「笑い療法士」による〝ほほ笑みプロデューサー〟が沢山育っている地域。会場の津島さんを意識して、この青森ネタも紹介し、病院治療における笑いの大事さを強調しておきました。しかも、邊見さんは同研究会の世話人でもあり、盛り上げの材料には事欠きませんでした。(2020-8-4公開 つづく)

 

 

 

 

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【77】B型肝炎救済などで積極果敢に動くー平成21年(2009年)❶

●「国家戦略」をめぐる私の発言

2000年代最後の年の本格的幕開けは、バラク・オバマ米大統領の就任式(1-20)と共に始まりました。米史上初の黒人大統領の誕生とあって全世界の注目するところとなりましたが、私も深夜のテレビ映像を通じての就任式の一部始終に深い感動を覚えました。とりわけ、連邦議会議事堂前からワシントン広場一帯を埋め尽くした聴衆。寒空の中にこだまするオバマコール。その前での独唱、四重奏、宣誓、演説と続いた式典はまことに見応えがありました。

彼の演説の巧みさは、04年の民主党大会での基調演説「大いなる希望」や、08年8月の指名受諾演説「アメリカの約束」、同11月の勝利演説「アメリカに変化が訪れた」などで裏付けられてきました。ただ、就任式の演説は約20分間に及ぶ聴かせる演説でしたが、期待していた劇的なフレーズはなかったように思われました。

一方、この年早々に発刊された『検証 国家戦略なき日本』(読売新聞政治部)は、様々な角度から注目されました。時あたかも、前年の参院選での自民党の大敗、野党の多数議席獲得からのねじれ現象で、政治の中枢で物事が何も決められない状態が起きていたのです。そこへ起きたリーマンショック。迎え撃つ本場・アメリカでのオバマ旋風に比して、麻生自公政権はいかにも非力に見えました。読売新聞が、同紙上で連載し、警鐘を乱打していたものですが、この本の中に私のブログでの発言が引用(336-337頁)されていました。

【赤松正雄衆議院議員は自らのブログでこう記した。「読売新聞政治部が先に出版した『検証 国家戦略なき日本』は、政治を動かした貴重な仕事だと言える。科学技術、海洋政策、エネルギー、安全・安心、知的基盤の五つの分野でいかに日本が立ち遅れているかについて、克明に追い掛け、政治の対応を迫ったものである。2年前に読売紙上で連載が始まった頃に話題になった。(中略)  このほど、海洋基本法案が衆議院を通過したが、これも読売の連載に刺激を受けた与党有志議員による議員立法の色彩が濃い。かくのごとく政治の現場に影響を与えた新聞連載も珍しい気がする。」(2007年4月24日 赤松正雄衆議院議員のブログより)】

この後、執筆者は、「記者冥利に尽きる話だ」としながらも、「どうしてこうも気が晴れないのだろう」と危惧の念を表しています。〝引きこもり病〟ともいうべき姿を見せている日本を憂えているのです。記者たちの懸念は的中し、10年を超えた今もなお冴えない状態が続いていると見られるのは残念というほかありません。

●肝炎救済などで必死に動く

「かつて国が注射器の使い回しの禁止を徹底していれば、こんなにも蔓延することはありませんでした。注射器の使い捨てや徹底した消毒など、経費を惜しまずにきちんと予防していたら、今こんなに医療費がかかることもなかったのです」ー2月18日に公明党の肝炎プロジェクトチームの座長である私のところに来られたB型肝炎訴訟原告団の方たちの声です。一緒に来られた肝臓友の会や、C型肝炎訴訟原告団の方々と共に、肝炎患者支援法(仮称)の早期成立を要望されました。

B型肝臓ウイルスの感染によって起こるB型肝炎は、感染経路としては母子感染のほか、注射器の使い回しや輸血が原因とされています。昭和の終わりころまでは予防接種で感染が起こったとされています。既に予防接種に関し国の責任が問われたB型肝炎訴訟では、国の過失が最高裁判決で認められ賠償が命じられています。

3月4日に開かれた公明党肝炎対策PTでは、肝炎インターフェロン治療の医療費助成制度について議論しましたが、終了後に、申請者数が伸び悩んでいる現状について、業界紙の「メディファクス」の記者から訊かれました。私は「肝炎という病気がまだまだ正しく知られていないからではないか」と述べて、治療費の助成制度に加えて、普及啓発の必要性を強調しました(2009-3-4号)。さらに、3月11日に開かれた同PTでは、治療費の自己負担限度額が1万円となる対象者の拡大が話題になりました。ここでも取材を受け、「(自己負担限度額)3万円を払っている人のうち、もう少し(枠を広げて)1万円にしてもいいのでは」と述べています(3-12号)。現行制度では自己負担限度額が3万円となる対象者のうち、一定水準の低所得者は1万円に下げる必要性を指摘していました。

このように、B型肝炎の患者さんたちとの交流を国会や地元で広げて、積極的に支援の活動を展開していました。

●総務委員長の仕事で東奔西走

他方、総務委員長として各種の会合で挨拶をする機会が滅法増えました。全国の町村議会や首長の集まる場で、生活支援のための定額給付金について説明したり、新たに設けられる地方財政健全化法の趣旨や、第二次地方分権改革についての国の取り組み姿勢などを述べ、町や村の行財政基盤の拡充に尽力することを強調しました。(2-16 「町村週報」)また、3月19日の放送記念日式典では、NHKのありようについて基本的な考え方を挨拶で述べています。(3-19「日本放送協会報号外」)かつて、NHK予算の審議に際して、選挙速報の在り方を巡って厳しい追及をしたことも過去にある私ですが、さすがにこの場面は形式的なご挨拶に留めました。

一方、3月8日の日曜日には、地元赤穂市内での国会報告会や挨拶回りの合間に、赤穂「かんぽの宿」を視察しました。総務委員会ではこの頃、しばしば「かんぽの宿」にまつわる問題が取り上げられました。日本郵政がオリックスに対して、かんぽの宿の一括譲渡を決断した経緯など、幾つかの疑問点も指摘されています。これまでの国会審議を委員長席で聞いていると、西川善文日本郵政社長は防戦一方。次々とボロを出し、答弁の修正やら変更だけでなく、要求された資料について平気で誤ったものを出す有様でした。

また、3月初めの国会で開かれた「異状死死因究明制度の確立を目指す議員連盟」主催の会合は極めて興味深いものでした。実は私はこの問題に強い関心を持っていて、前年の衆議院予算委員会(2007-2-13)一般質疑の場で、泉信也国家公安委員長や舛添要一厚生労働相に、解剖を進める体制作りを求めていたのです。これは、医師で作家の海堂尊さんが『死因不明社会』という本の中で、CTスキャンを使っての画像診断を解剖の前段階で導入すべしと主張していたことに影響を受けていました。

海堂さんといえば、『チーム・バチスタの栄光』で一世風靡した人ですが、私はこの本を読書録『忙中本あり』で紹介しました。ご本人が神戸での講演に来られた際にお会いすると、先方から「私のあの本を真っ先に書評で取り上げていただいた上、厚生労働省内でも宣伝していただいて恐縮です」と礼を言われました。律儀な人だと驚きました。(2020-8-2公開 つづく)

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【76】総務委員長として経済危機乗り切りに全力ー平成20年(2008年)❻

●「緊急保証制度」と「定額給付金」打ち出す

9月29日に麻生太郎首相は衆議院本会議で所信表明演説をして、その施政舵取りのスタートを切ります。同じ日に私は衆議院総務委員長に選任されました。2001年の省庁再編成で、旧自治省、郵政省、総務庁が一体化され総務省になりましたが、その役所に関わる課題を議論する常任委員会の中心者となったのです。新しい委員会が出来て7年、ずっと自民党の委員長が続いていましたが、初めての公明党所属の委員長ということになりました。総務行政のトップは、鳩山邦夫大臣。この人はご存知、後に首相となる由紀夫氏の実弟。鳩山一郎首相、薫子さんのお孫さんです。私は当選以来なにかとご縁があって、親しい関係にありました。

厳しい経済情勢の中での出発となった麻生首相のもとで、公明党は「非常時の経済対策」を訴えます。与党一体となって次々と政策を打ち出していくことに貢献したのです。最大のものは中小企業の資金繰りを助ける「緊急保証制度」の創設でしょう。10月16日に成立をみた、この年最初になる第一次補正予算に盛り込みました。実際には10月31日にスタートを切るのですが、融資の相談、申し込みが凄まじい勢いで全国に広がっていきます。太田代表を先頭に、公明党の全議員が一体となって、地域の零細・中小企業者のもとに足を運んで、この新たな制度の活用を訴えました。

公明党主導のもう一つの柱となる政策が「定額給付金」です。10月30日に発表された「緊急生活対策」の目玉でした。これは、総額2兆円規模で、全世帯を対象に①ひとりあたり12000円を支給する②18歳以下と65歳以上には8000円を加算するーというものでした。こちらの方は、第二次補正予算に盛り込まれ、現実には翌年1月27日の成立を待たねばなりませんでした。生活者の家庭に行き届くのはさらに遅れ、2009年3月から半年ほどの期間になります。

この一連の作業を扱うのが総務省。私が委員長を務める総務委員会で11月13日に集中して議論をしました。そこでは、野党とりわけ民主党の委員から、この定額給付金が最終的に地方自治体に丸投げになったのはけしからんとの批判が相次ぎました。同党はこの定額給付金構想それ自体を認めず、最後まで反対をするのですが、委員長席でやきもきする日が続きました。

●麻生首相批判をブログで

ちょうどこの頃、麻生首相が3年後に消費税引き上げを明言するとの記者会見(10月30日)をしました。このことへの波紋は少なからずあり、地元でもあれこれと批判の対象となりました。11月2日、午前中は建設会社の安全大会から、特別擁護老人ホームの秋祭りに出た後、午後には母校長田高の同期会に出席しました。そういう場で聞いた「麻生批判」をも受けて、その日のブログで私は以下の様に書いたのです。

【先日の記者会見で麻生首相が、3年後に消費税を引き上げるとしたことの波紋は少なくない。至るところで、批判めいた意見を頂くことが多い。麻生さんも、明確に決めたわけでもないくせに余計なことを言うものだ。太田代表は、少なくとも3年は消費税をあげないととらえるべきだと言っているようなのだが、いささか苦しい。首相自身の口から、もっときちっとしたメッセージを発信すべきだろう。こうした政策課題にせよ、肝心の選挙に期日にせよ、麻生さんは、公明党幹部との意思の疎通を正直欠きすぎだ。ここまで連立のパートナーを裏切っては、関係基盤も先行き不透明なものになりかねない。】

このブログにメデイアは飛びつきました。朝日、毎日、読売三紙が「連立パートナー 裏切った」「公明・赤松氏、ブログで首相批判」と書いたのです。私としては普通の当たり前の思いを発しただけなのですが、いささか本音を正直に言い過ぎたかもしれません。とくに身内の太田代表にもちょっぴり刃を向けたことのリアクションが党内にありました。意思疎通を欠いていたのは、むしろ私と代表、幹事長との間であったろうことを後々反省することになります。

●熊森協会の青年たちと環境相へ要望に行く

日本最大の実践自然保護団体である「日本熊森協会」に私が出会った経緯などについては既に述べました。1997年に設立されましたから、もう20年を超えており、会員数も20000人になろうとしていました。私は一段とこの会及び姉妹団体の公益法人「奥山保全トラスト」の守護者たらんことを深く決意しています。そんな私がその意思を固めるに至ったのにはそれなりの訳があります。それは2008年12月5日のことでした。

同協会の森山マリ子会長(当時)から、このまま狩猟、有害駆除の対象にクマがされ続けていると、一気に絶滅に向かってしまうので、ぜひ所轄官庁である環境省に要望に行きたいとの希望を聞いていました。偶々斉藤鉄夫環境相は、公明党出身の仲間でもあるので、ちょうどいい機会とばかりに、この日、仲立ち役を引き受けました。同会長以下熊森協会の青年部6人ほどと一緒に斉藤大臣及び黒田大三郎自然環境局長らと会うことが出来たのです。

今、山奥から人里にクマが降りてくるのは、森がクマの生息地として相応しくなくなってきていることが原因です。森が荒れていることは、保水力をなくしていることの現れであり、昨今の大雨による鉄砲水の出現に見られるように、やがてはすべての集落、都市が破滅に向かうというのが熊森協会が抱く危機意識です。この日の面談で、青年たちはこうした問題意識のもと、必死に「国がすぐにクマの狩猟禁止に向けて動いてくれないと、クマが滅びてしまう」と訴えました。

しかし、斉藤さんは「これからいろいろな人に議論してもらおうと思います」と、だけ。そのため、青年たちは「今、緊急事態なのです。その地域にとって、取り組みが半年、一年遅れると、取り返しのつかない結果を引き起こしかねません。今や狩猟は、スポーツ、レジャーなど遊びの道具になっています。まずはそれだけでも禁止してください。今日、ここで大臣の見解を聞かせていただかないと帰れない」と食い下がりました。

すると、斉藤さんは困った顔をして、黒田局長の顔を伺います。同局長は、「クマを狩猟獣から外すかどうかは、環境相の権限ですが、西日本のように、個体群の存続が危ぶまれているところもあるが、そうでないところもあるので、難しい」と、否定的見解を述べました。そこで、森山さんが、「熊森協会のように、多数の優秀な研究者の指導のもと、17年もの間、必死にクマと森の問題に取り組んできた本気の団体を国の審議会などに呼んで意見を聞いて欲しい」と強調しました。斉藤大臣は「検討します」と言ったのに、横あいから黒田局長が「ご意見はパブリックコメントでお願いします」と全否定する始末。森山さんは、これまで何回も応募したが、全く聞き入れられない状況を説明、「国が意見を聞いたというポーズのために、我々に無駄な労力を使わせて疲れさせないで欲しい」と厳しく返しました。

私は黙って終始聞いていましたが、これまでの政治家生活で最も屈辱感を味わった場面でした。(2020-7-31公開 つづく)

 

 

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【75】リーマンショックの嵐の中での麻生内閣ー平成20年(2008年)❺

●首相問責決議から持ち直したかに見えるも‥‥

先に見たように、衆参両院がねじれている状況は次々と困難な事態を福田政権にもたらしました。ついにそれは、「首相問責決議案」の提出、可決にまで至ったのです。現行憲法施行下で初めての出来事は6月11日に起こりましたが、与党側は直ちに衆議院での信任決議を可決し、民主党の狙う政治的効果に水をかけました。7月7日から9日までの北海道洞爺湖サミットを無事に乗り切った福田首相は、8月2日に内閣改造に踏み切ります。この内閣は、留任、再入閣が多くて新鮮味はないものでしたが、公明党の斎藤哲夫氏の環境相と自民党参議院議員の林芳正氏の防衛相の初入閣に、私は注目しました。二人とも政治家としては若く優秀な逸材で、大いなる期待が持てました。特に林防衛相は、私の親しい防衛官僚が「これまで幾人もの防衛庁長官や大臣を見てきたが、こんなに頭の回転が早く、防衛問題についての蓄積も豊富な人は初めてだ」とベタ褒めしていたことが強く記憶に残っています。

また、8月29日には、政府与党は「安心実現のための緊急総合対策」という名の緊急経済対策を打ち出します。この中では、「定額減税」の年度内実施、老齢福祉年金の受給者などに対する「臨時福祉特別給付金」の支給などが盛り込まれていました。ところが、その僅か三日後の9月1日に福田首相は辞任を発表してしまうのです。実はこの日は、朝から神戸市内で開かれた全建総連兵庫県本部の大会に出て挨拶をする機会がありました。出席者は民主党関係者ばかりで与党からは私一人。そこで、私は「早く追い立て民主党」との持論のさわりを述べたりして、上京しました。

この日の夜は、東ティモールに大使として赴任することが決まった北原巌男(前防衛施設庁長官)さんと、紛争調停人の異名を取る東京外語大の伊勢崎賢治教授を引き合わせる懇談会を持っていました。東ティモールで任務にあたったことのある伊勢崎さんから、同地の状況を聞くことが狙いでした。ところが、赤坂宿舎に帰り着くやいなや待ち構えていた記者たちから、福田首相辞任というビッグニュースを聞きます。慌てて会見をテレビで確かめると、同首相はあの「私は貴方とは違うんです。客観的に見れるんです」との後に物議を醸す発言をしていました。

その発言までの流れを追うと、記者団からは、唐突な辞任について幾度も繰り返しなぜかを問うていました。仕方なきことと思います。それに対して、首相は熟慮の末、そうすることが日本にとって一番適切だと思ったとの意味のことを繰り返し述べています。これまた、福田首相としては、あらゆる観点から考えてそれしかないとの決断だったと思われます。そこへ、最後に手を挙げた記者が、「(発言が)他人ごとみたいだ」と言ったことに対して、飛び出した発言です。首相の決断を巡っては、米国の執拗な要請に業を煮やした結果だとか、民主党の攻勢の前にほとほと疲れた果てたからだとか、選挙の顔としてはいかがとの突き上げが自民党内にあったとか、さまざまな憶測が流れましたが、全ては謎のままです。

●麻生氏が後継の総理・総裁に

謎に包まれた部分が少なからずあった福田首相辞任のあとを受けて、9月24日に首相の座についたのは麻生太郎氏でした。そこに至る自民党総裁選挙には、麻生氏の他に石破茂、石原伸晃、小池百合子、与謝野馨氏ら5人が出馬しました。同日の衆参両院の本会議では、衆議院では麻生氏を、参議院では小沢一郎氏を首相に指名する(2回目の決選投票の結果)というねじれ結果を招きましたが、憲法の規定に則り、衆議院の議決に基づいて麻生氏が首相に選ばれたのです。

この時の空気で忘れられないのは、公明党の中から浜四津敏子代表代行が早々と麻生氏支持を打ち上げたのには驚きました。北側一雄幹事長も同じような支持発言をしたのにも戸惑いを感じた人は党内に少なからずいたのは事実です。恐らく、麻生氏の明るさというプラス面を買ったのでしょうが、公明党としては珍しいフライング発言でした。その分だけ、早晩行われる総選挙への期待感と焦りがない混ぜになっていたものと思われます。

これと合わせて、総選挙の時期を巡っての憶測が飛び交いました。10月下旬から11月初旬にかけて総選挙が必至だとの情報が乱れ飛んだことは、私でさえ信じたものです。具体的に名を挙げることは差し控えますが、年内総選挙間違いなしと見込んだ人もいました。ともあれ、公明党にあって、今なお失敗談として語られるほど、この頃は皆浮き足立っていたのです。

●リーマンショックの嵐吹き荒れる

さて、米国の四大証券会社四番目のリーマン・ブラザーズが経営破綻をするという事態が起きたのは9月15日のこと。サブプライム住宅ローン危機に端を発した米国の金融情勢はこの日を機に急速に悪化、さらに第三の証券会社・メリルリンチがバンク・オブ・アメリカに吸収合併されてしまう始末。また米国最大の保険会社AIGの経営危機説まで急浮上しました。米下院が金融危機の拡大を防止するための公的資金投入の緊急経済安定化法案を否決するに至って、ニューヨーク株式市場は一気に大暴落してしまいます。2週間後の9月29日(現地時間)の終値は、前週末比777ドル安で、史上最大の下げ幅を記録。「1930年代に起こった世界恐慌の再現」とまで言われました。

これを反映して、東京の10月16日の株式市場は、日経平均株価の終値が前日比1089円2銭安の8458円45銭となり、「ブラックマンデー」(1987年10月)に次ぐ、史上二番目の11.41%の下落率を記録しました。10月28日には株価は一時6000円台に下落し、1982年10月以来の26年ぶりの安値を記録しました。日本経済は以降、消費の落ち込みや急速なドル安・円高が進み、輸出産業が打撃を受けて、大幅な景気後退過程へと突入してしまうのです。

麻生首相は10月30日に、世界的金融危機に対応し、景気対策を最優先させるため、衆議院解散総選挙を正式に先送りすると表明しました。

ところで、リーマンショックについては、当時から12年後の今に至るまで、種々の論評がなされていますが、注目されるのは、当初喧伝された「米国経済の破綻」論や、「資本主義の機能停止」論の不具合ぶりです。現実には、米国はその後、急速に金融危機を克服し、5年後の2013年末にはほぼ影響を払拭。米国経済は見事に急回復を示すのです。野口悠紀雄氏(一橋大名誉教授)らによれば、その背景には、米国が古いタイプの製造業依存からの脱却に成功したことが挙げられます。それに比して、日本は米国の住宅価格バブルに乗っただけの「偽りの回復」だったことに気付かず、古い産業構造に依存したままで、改革を怠ってしまったというのです。このことが今になって深い傷となって響いてきているのだと思われます。(2020-7-29 公開 つづく)

【75】リーマンショックの嵐の中での麻生内閣ー平成20年(2008年)❺ はコメントを受け付けていません

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【74】医療制度で毎日「発言席」に。産経「本棚」にもー平成20年(2008年)❹

●毎日新聞の「発言席」に寄稿

「高齢者医療制度」については、二年前の小泉政権の最後で私も厚生労働副大臣の立場で改革に尽力したことは既に触れました。その後動き出した新制度をめぐり、様々な意見が飛び交い運用に混乱の様相を呈してきたのです。このため、制度樹立時の責任の一端を担うものとして、改めて世に問う必要性を感じました。その思いを込めて「毎日新聞」発言席に寄稿。8月10日付けに「骨格の変更は許されない」との見出しで、掲載されました。

以下全文を転載します。読みやすさを考えて小見出しは新たにつけました。

【 □米国医療の暗部と日本の近未来像□

失業中の患者が治療費を払えないため、足の傷を自分の手で縫うー米国医療の暗部を衝くマイケル・ムーアの映画『シツコ』の冒頭シーンだ。以前に観た映画「ジョンQー最後の決断」は、心臓移植を息子に受けさせたくとも、医療保険が使えぬとあって、病院を占拠してしまう父親の姿を描いていた。世界最高の医療技術を持ちながら、貧しい人々は無保険中であえぐ。日本の近未来像だと恐れる人は少なくない。

発足から半世紀。国民皆保険制度を誇ってきた日本の医療も危うい。この4月に導入された高齢者医療制度は起死回生の一打はずだった。2年前に副厚生労働相としてかかわった私は、批判の嵐のなかで原点への回帰に思いを馳せたものだ。

貧しい老人は死を待つだけとの時代を経て「老人医療費無料化」から「老人保健制度」の導入へ。この流れから「病院待合室のサロン化」「ハシゴ受診」「検査・薬漬け」などと称される課題が浮き彫りになってきた。各種の病に見舞われがちな老人世代に、どう手立てを講じるか。老健制度に代わる制度を模索する中で様々な議論がなされた。散漫な治療から、集中的に一人の医者がひとりの患者をかかりつけで診ていく。病院へ、医療機関へとやみくもに向かいがちな老人を、地域社会、在宅での診療に振り向けられないか。過剰な医療費投入を抑制しながら、老人が人間らしい尊厳を持って最終章を迎えるにはどうすればいいか。

□三つの骨格□

長期的な視点に立った理想が勝ち過ぎて、現実に受け入れられるかとの懸念もあった。だが、生死を見据えた医療のビジョンを育て、定着させたいとの思いがまさった。今回の制度の骨格は三つ。すなわち、世代間不公平(加重する現役世代の負担増)、世代内不公平(一人暮らし老人と被扶養者老人の差)、地域間不公平(住む市町村による違い)を公平なものに近づける狙いを持った骨格である。75歳以上を切り捨てる発想などでは毛頭なく、現役世代とOB世代とが手を携えて、共に自立を目指す仕組みである。これらの構想の本質が正面から語られることなく、「姨捨て山にするのか」「75歳以上の高齢者は死ねというのか」などとのヒステリックな感情論が目立つのはまことに残念だ。法成立以後、年金をめぐる社会保険庁のずさんな体たらくが発覚した。このため、不信と不満の渦中に、新制度も巻き込まれた不幸があるにせよ、骨格の理念の方向性はもっと強調されてよい。

ー□余りに無責任な反対勢力□

例えば、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實氏は、総合雑誌上で、全体的には辛辣な批判を展開しながらも、かかりつけ医制度や出来高払いから包括払い制度への転換が、「医療崩壊」を乗り切るための「大きな仕掛けになりうる」し、「救世主」になる可能性を論じていた。このくだりには干天の慈雨を感じ、我が意を得た思いがした。

老人保健制度に代わる新たな制度の創設をかつて唱えた勢力が一転、先の国会の最終盤で、自ら否定したはずの元の制度に戻せとした。あまりの無責任さに呆れ果てた。ともに、声高な反対論を前に、法律を作った側にたじろぐ姿勢が散見されたのはいささかみっともない。制度の運用改善は当然なされるべきだ。ただし、骨格にかかわることまでが変更されてはならない。新しい制度導入にあたり、政治家の本領は、確たる信念を持って国民にあるべき道を提示することに他ならぬと銘記したい。】

この原稿を寄稿するにあたり、倉重篤郎・毎日新聞編集委員(当時。その後政治部長、論説委員長などを経て現在はサンデー毎日特別編集委員)にお世話になりました。彼の厳しいチェックを経て、いい文章になったものと思います。この「発言」には厚労省で一緒に仕事をした辻哲夫元次官をはじめ、関係者のみなさんからからよくぞ書いてくれたとの言葉をいただきました。

●産経「私の本棚」には読書日記が

一方、同じ年の9月7日付けの産経新聞の【読書・私の本棚欄】には、私の読書録が掲載されました。ここでは抜粋します。見出しは、遠藤誉『中国動漫新人類』「アニメ隆盛と反日解く鍵」。

【8月24日 元秘書の結婚披露宴のため上京。新幹線車中で、芥川賞、楊逸の『時が滲む朝』を読む。天安門事件と青年の社会変革への挫折を、中国人が日本語で描く。少々薄味が気になるのは、当方がユン・チュアン的な〝際物〟に毒されているからか。芥川賞とくれば、柴田翔『されどわれらが日々』を思い起こす。東京五輪の年、私は18歳。革命が未だ現実味を持つ中で、「政治と文学」に身を焦がした。あれから44年。世界から共産主義は後衛に退き、ついに五輪が北京で。その閉会式が夜に。テレビ中継を横目に、遠藤誉『中国動漫新人類』を読む。日本のアニメの隆盛ぶり。反日のはざまを解くカギが綿密に。産経新聞連載中に読み飛ばしていた伊藤正『鄧小平秘録』も「剛腕の独裁者」を克明に描き、飽きさせぬ。併せ読み一段と面白さが増す。「嫌中」と「親中」の葛藤。

8月25日 地元への車中で、浅羽通明『昭和30年代主義ーもう成長しない日本』と橋本治『日本の行く道』を併読。浅羽も橋本も昭和30年代以降の日本に懐疑的。橋本に至っては、高層ビルを壊せとまでいうから驚く。作家・半藤一利の「日本社会40年周期説」に私はかねてはまっている。その時代認識と分析は興味深い。明治維新から「日露」勝利、大戦の敗北、バブル絶頂から崩壊と40年周期で興亡は繰り返す、と。だから戦前の富国強兵から戦後の経済至上主義と続く国家目標に替えて、「文化立国を目指せ」は、私の持論。「もう成長しない」のだからGNPをGNH(国民の総幸福度)に変えよなどと、今枝由郎『ブータンに魅せられて』でのブータン国王のようなことは言わない。しかし、日本経済は「凋落の10年」(堺屋太一)に向かうとの予測もあるのが現実だ。

8月29日 地元への車中で福田和也『昭和天皇』第一部を。近代日本の核心に迫る心意気。国民の目線と、国家の枠組み、と。古くて新しい命題に思いをはせる。『悪の読書術』での彼の水先案内人ぶりは出色だ。「コンサバなワンピースとしての須賀敦子。最高最強のドレスは白洲正子。そして星のごとき存在としての塩野七生」ー言い得て妙と感心する。それぞれの代表作もいいが、須賀『遠い朝の本たち』、白洲『おとこ友達との会話』、塩野『人びとのかたち』も印象深い。】

こんな調子では、政治家としての仕事はどうなっているのか、との心配をされても仕方ないかもしれませんでした。先日、国会の本会議場や委員会室で読書をしている不埒な議員の批判が書かれていました。私は読書は、新幹線車中にこだわり続けたことを改めて断っておきます。(2020-7-27 公開 つづく)

 

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