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中国・大連の迎賓館での〝怖い夜〟(41)

若き日より新聞社の海外特派員になることが私の夢でした。それが曲がりなりにも、ついに叶うことになったのです。昭和59年(1984年)のこと、党の第12次訪中団の随行記者に選ばれたのです。団員の一人に市川さんが入っておられました。北京から天津、大連、上海、杭州、深圳という6都市を飛行機で10日間ほどをかけて飛ぶ豪華な旅でした。国会議員は市川さんのほかに、5-6人。秘書、カメラマンも含めて10人ほどの構成メンバーでした。

北京では中南海で、胡耀邦主席(後に総書記)に会って、豪華な食事をご馳走になりました。懇談の際に、私が神戸で育ったというと、胡耀邦氏はナイフとフォークを片手に併せ持ち、それを振りかざして、私は神戸に行ったことがある、と大げさな手振りで親しげに語ってくれたことがとても鮮烈な印象で焼き付いています。のちに彼が失脚してしまったことは残念でした。また、周恩来夫人の登頴超女史の邸に、案内していただいたことも大事な思い出です。ともあれ、中南海は日本で言えば、皇居と、総理官邸を合わせたようなところとでも言うべき場所で、公明党への温かい配慮が伺えました。

この旅の主たる目的は中国の経済特区として、初めてデビューした深圳の状況を視察することでしたが、この最終到着地までの各都市ではとても大歓迎を受けました。なかでも大連は未だ飛行場が建設に至る前の段階でしたが、『アカシアの大連』を彷彿とさせる街並みと、古くからの港街の雰囲気が印象に残っています。そして、そこで宿泊したのが、清の時代からの避暑地の名跡として知られた棒垂島飯店という名の素晴らしい迎賓館でした。

海辺で鬱蒼とした林の中にある建物。一人で歩くと迷ってしまうようなとても広くて入り組んだ佇まいです。宿泊したある夜のこと。市川さんから、夕食後に、自分の部屋で懇談しようと、誘われました。広々とした部屋で、ソファに向かい合って座って話をしていました。そのとき、どこからともなく、風がふわっと吹いてきて、カーテンがざわっと揺れたのです。

「おい、なんだか怖くないか」「えっ、怖い?単なる風ですよ」「こうも静かなときに、気味が悪いなあ」「そうですか?」「怪奇小説に出てくる場面でこんなのあったなあ」「小説読みすぎですよ。どちらかっていうと、私は人の方が怖いです」「いやあ、俺は人間は怖くない。怖いのは幽霊とか、おばけの方だ」ーそれまでもまれに、少年のような茶目っ気たっぷりの振る舞いをされ、笑ってしまうことがありましたが、この夜のできごとも印象深いシーンです。

この旅では、公明党の当時の委員長、副委員長、政審会長ら最高幹部たちと一緒でしたが、いわゆる「二階堂擁立構想」なるものが影を忍ばせていました。この構想とは、1984年に中曽根首相続投阻止のために、福田赳夫、鈴木善幸氏らが野党をも巻き込んで、自民党の二階堂進副総裁を担いでの政争を目論んだとされるものです。当時の私など知る由もなかったのですが、幹部たちは遠く中国にあって、永田町の状況が気になったと見え、情報キャッチに余念がなかったようです。同構想は結局不発に終わるのですが、党中枢への出番を待っていた市川さんにとっては、いささか気になる場面であったと推察できます。それを踏まえて、あの夜の「人は怖くない」との発言は、のちのち私には意味深長に聞こえてきたものです。

【昭和59年 (1984年)1月 全閣僚の資産一斉公開 4月 日米牛肉・オレンジ輸入割当交渉決着 8月健康保険法改正 10月 インド、ガンジー首相暗殺 11月第二次中曽根改造内閣 】

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様々な文化人たちとのあつい交流続く(40)

この頃(昭和50年代後半)の私は、仕事の上で知り合った作家、芸術家らとの交流を強めていました。小説家で、最も早くにお付き合いしたのは、源氏鶏太さんでした。それは古く昭和48年(1973年)のことです。直接の担当は、先輩の山本昭さんで、私は補佐役でした。売れっ子の直木賞作家ということで、何かと神経を使ったものです。公明新聞に掲載される連載小説は今に至るまで人気を集めるものが多いのですが、源氏さんがこの時に書かれたのは『時計台の文字盤』というタイトルのもので、この人らしいサラリーマン小説でした。

連載終了の時点で打ち上げをやろうということになって、源氏、山本のご両人と私の3人で銀座のクラブに行った時のことです。自慢ではありませんが、後にも先にもそういうところに行ったのはこの時だけ。源氏さんは着いて暫くすると、「僕は疲れてるので、ここでちょっと横になるよ。あとはおふたりで宜しくね」と言ったきり、少し離れたソファで休まれることに。残った二人は3-4人のホステス相手に悪戦苦闘。ナイスガイ・山本先輩は世慣れた人でしたから、うまく立ち振舞っていたようですが、私といえば‥‥もう。ご想像にお任せします。

作家の石川好さんとの出会いは、彼が処女作『カリフォルニアストーリー』(昭和58年=1983年)を書いてデビューした直後の頃です。新聞紙上で、欧米各国の余暇(レジャー)観を比較するとの企画を私は思い立ちました。対象国はアメリカ、イギリス、ドイツ、スペインだったと思います。石川さんにはアメリカについて書いて貰うことにしました。彼は、高校を出てカリフォルニア州に4年間住みます。いちご農園で働きながらハイスクールカレッジで学び、のちに日本に帰って、慶大の法学部政治学科を卒業するのですが、その在米体験を、二作目の『ストロベリーロード』としてまとめました。これが大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したり、映画化されるなど大当たりします。

実は彼がブレイクする前に、私は彼にアタックし、友達になったため、後々まで親しい関係になるのです。主たる研究テーマをアメリカから中国に移したり、参院選に出馬(「さきがけ」から)して落ちたり、秋田美術工芸短期大学学長になったり、民主党政権の顧問やら「北前船フォーラム」代表になるなど、あれこれと派手に活動を展開されました。その都度、それなりに連携を取り合いました。とくに、参院選には出るべきでないなどと、差し出がましいことを言ってしまいましたが、のちに、あんたが言った通りだったと呟いていました。民主党よりも公明党から出た方が良かったとは思いましたが、そうは問屋がおろさなかったのは当然です。

イギリスについては、毎日新聞のロンドン総局にいた黒岩徹さん、スペインについては、『カディスの赤い星』で有名な作家の逢坂剛さんに書いてもらいました。この人たちとはそんなに深い関係にはなりませんでしたが、彼らの著作はほぼ読破するなど、仕事を通じて知り合った人の著作を読む習慣が身についていったものです。明治時代の作家・黒岩涙香は黒岩さんの祖父だとのちになってから知って驚きました。逢坂さんが次々とヒット作を飛ばして喜んだりもしました。自分が目をつけた人たちが活躍されるのは大変に嬉しいものです。

一方、直木賞作家というと、忘れられないのが中村正軌さん。受賞作『元首の謀叛』に嵌ってしまった私は、市川さんと一緒に、公明新聞に連載小説を書いて貰おうと交渉に行くことになりました。その時に聞いた彼の受賞に至る秘話めいた話は実に刺激的でした。日本航空・欧州駐在員の頃からの着想を日本に帰った後の通勤の満員電車の中で思い起こし、それを文章にしていったというのです。電車に座れていたら恐らく寝てしまって、書くに至ってなかったろう、と述懐していました。まとめたものは押入れに放置していたといいます。しばらくして、知り合いの編集者にその辺りのことを喋ったところ、読みたいと言われ、取り出す羽目になったようです。それが、これは面白い、いけるとなり出版の運びになり、結局は受賞の陽の目をみたんだ、と言われたのです。嘘のようなホントの話でした。

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参院選に著名文化人候補。学術会議議長を担当 (39)

昭和58年(1983年)の参議院選挙は、公明党が日本中をあっといわせることになりました。

選挙制度が、それまでの「全国区制」から、全都道府県を対象とする「拘束名簿式比例代表制」に選挙制度が変わることになりました。公明党はこの選挙の比例区において、著名な学者、文化人を「公明党・国民会議」のメンバーとして、登場させることにしたのです。参議院は結党前から「公明会」の名で進出しており、常に党の先駆を切る闘いをしてきた歴史があります。この年の参院選で、公明党が党員以外から候補者を投入、当選後も党規拘束をしない、との大胆な試みは日本中を驚かせます。

その候補者たちとは、以下の4人の方々です。まず伏見康治さん。原子核物理学者にして日本学術会議議長。日本を代表する科学技術者です。ついで高桑栄松さん。北海道大学教授で、国立公害研究所長。そして中西珠子さん。ILO(国際労働機関)東京支局長。さらに和田教美さん。朝日ジャーナル編集長を経て政治評論家。皆さん、各界における名だたる専門家であり経験者です。この人たちがそれまで無関係だった公明党から参議院選に出るに当たって、どう決断したか。なぜ出馬するに至ったか。印象深いのは、高桑栄松さんが、こう語っていたことです。

全く未知の世界に関わることで悩みましたが、かねてより様々にアドバイスを受けていた武見太郎全国医師会長に相談したところ、「党議拘束もなく、自由にやらせて貰えるなんて、ありがたい話じゃあないか。素直にお受けして、やってみろ。公明党って政党は、そのうち日本を大きく揺るがす存在になるかもしれないよ」と言われ、決断に至りました。

この4人の候補者を世に知らせるために、公明新聞として、それぞれ担当記者をつけました。私は伏見康治さんの担当になったのです。これまで全く知らない、およそご縁がなかった分野です。そのトップを取材するとあって、最初にお家に初対面に向かった時は、いささか緊張しました。緊張がほぐれたのは「折り紙」でした。伏見さんご夫婦は、折り紙の研究をされていて、いつも二人で折っている、とのお話と〝実演〟をしていただいたことには心和みました。

肩書きの厳しさとは違って、心優しい老科学者で、好々爺然とした穏やかで話しやすい方でした。顔写真を撮るという段階で、同行した鈴木カメラマンの行動には驚きました。伏見さんの身繕いやお顔の様子を真剣に見ていたと思うと、やにわに近づき「先生、少し髪の毛が」と呟いて、大科学者の頭をいきなりなぜなぜしたのです。これには、ビックリすると共に笑ってしまいました。

新聞紙上で、伏見さんを推奨する人々から「期待の声」を貰わねばなりません。先生ご自身に挙げてもらいました。大勢の著名な学者、文化人の名が挙がりました。その中から、元東京大学総長の茅誠司、作家の小松左京、絵本作家の安野光雅さんらから声を頂くことにしました。未開の領域の名だたる著名人に会えることは、取材記者冥利そのものでした。

安野光雅さんとの面談で、彼から概要こう言われたことが忘れられません。

選挙があるたびに、私のところにも、公明党や共産党の知り合いが支持依頼に来られます。両党を比較すると、公明党を応援されている人は、遺憾ながらあまり政治を勉強されている風に思えないですね。毎回、候補者の名前を言われるだけで、党の政策を訴えられることは殆どありません。一方、共産党の党員さんたちは実に良く政治を勉強している。その都度、とうとうと喋っていかれる。大したもんです。ですが、党の指導者は共産党よりも、はるかに公明党の方が魅力的で力のある人たちが多いね。

安野光雅さんの共産党との党員、リーダーの比較が果たして的を射てるかどうか。言い分は色々ありました。ただし、党員・支持者の「政治教育」という、かねがね気になっていたことをズバリ指摘されて、少なからず心中焦ってしまったことは否めませんでした。

【昭和58年 (1983年)1月 中曽根首相訪米 日本列島不沈空母化の発言問題化 3月中国自動車道全線開通 5月 日本海中部地震 6月 参議院選挙 10月 ロッキード裁判 田中元首相に実刑判決 三宅島大噴火 11月レーガン大統領、胡耀邦中国共産党総書記来日 12月 衆議院総選挙 第二次中曽根内閣 】

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再び東京へ転勤。仕事に活動に全力尽くす (38)

昭和57年(1982年)には、関西創価学会にとって極めて大事な「青年平和文化祭」が大阪・長居陸上競技場で、3月に行われました。その準備が進められようとしていた矢先に、私は東京本社への復帰の辞令を受けます。嬉しいような寂しいような思いでした。わずか1年半の短い期間でしたが、実に貴重な黄金の時間を得ることが出来ました。妻と娘にとっては、それこそ生まれて初めての関西・神戸での生活は、戸惑いばかりでした。塩屋幼稚園への入園式ぐらいしか行ってやった記憶はありません。相変わらず家庭を顧みない夫だったのです。

一方、男やもめだった老父にとって、嫁と孫との新生活は果たしてどうだったか。お互いニアミスで、ぶつかることのみ多かりき生活だったのかもしれません。未だに娘は「塩屋のおじいちゃんにはお箸の持ち方を何度も注意された」ということぐらいしかいいません。母方の祖父が本当に優しくて良く遊んでくれたのに比べて、厳しいばっかりの印象が残ってるようです。そうした束の間の交流、慌ただしい親子のすれ違いだけ残して私たちは神戸を離れ、再び東京へと戻って行きました。

東京での生活の始まる前、2月27日のこと。中野兄弟会総会が東京・立川文化会館で開かれます。第10回総会です。この地で開かれるのは昭和53年に続き2回目。その時と違って、またもや池田先生が出席して下さいました。前年の昭和56年の創価大学での第9回総会に続き、2年連続、合計で5回目のご出席です。この時は、兄弟会員の人の輪の中に入っていただき、あれこれと言葉を交わして下さいました。いかに人の名前と顔を覚えることが大変であるかについて、語ってくださったことが強く印象に残っています。先生も同じ人間なんだという、ごく当たり前のことを感じたものです。

この年、私は創価学会男子部主任部長として、島根県を担当することになりました。ほぼ一年近く、飛行機でこの地に通いました。羽田空港から出雲空港へ。かつて高等部担当幹部時代に東北、北海道に通いましたが、今度は山陰の地です。面白いことに、北海道で高等部長だった西村弘己さんが、故郷の島根に帰ってこの地の幹部についており、久々の再会になりました。ご縁の深さを感じたものです。お家にもお邪魔して泊めていただき、高等部員の育成に汗をかいたお互いの日々を懐かしんだりしました。松江から江津、浜田、益田へ。幾たびか日本海沿いの国道を走りました。松江城と宍道湖の美しさと豊かさは忘れ得ぬものが今も蘇ります。

山陰というたびに思い出すのは、公明新聞の一年先輩だった加藤雅寛さんのことです。快活で豪快、人懐っこさがいっぱいの人でした。中国青年部長として東京から移動し、華々しく活躍していました。しかし、気の毒なことに、広島から鳥取への指導行脚の帰途、無残にも交通事故に遭遇。即死されてしまったのです。広布途上においての悔いが残る、かけがえのない同志の急逝です。私は彼が果たそうとして叶わなかった仕事の一分でも引き継ぎごうと、同県内を動き転戦するなかで、心に密かに期したものです。

【昭和57年(1982年) 2月 ホテルニュージャパン火災 。日航機羽田沖墜落事故 7月 中国、歴史教科書の記述が日中共同声明の精神に違反と抗議(外交問題化) 平均寿命男女ともに世界の長寿国に 10月 歴史教科書記述の是正を表明。鈴木首相退陣 11月 中曽根康弘内閣 。上越新幹線開通(大宮・新潟間)】

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安保政策の大転換に立ち会えず(37)

昭和56年(1981年)という年は、公明党の歴史にとって画期的な年になります。というのは約4年かけて党内論議を進めてきた安全保障政策が、この年の12月に開かれた第19回党大会で発表されることになるからです。実は、昭和51年の第15回全国党大会で、当時の竹入義勝委員長が防衛問題の見直しを提言していました。その背景には、与野党伯仲状況の中で、自民党の単独支配に終止符をうち、野党の連合政権を作ることで、自民党に政権交代を迫る必要があったのです。しかし、現実には与野党の間で、安全保障政策を巡って、決定的な乖離がありました。そのため、交代の障害としての溝を埋めて、対外的政治の連続性を保つことが必要だったのです。

既に述べたような、私が記者として担当した、公明がhブリッジ役となった公民、公社の連合政権構想作りでも、この安全保障政策をどう擦り合わせていくかが焦点でした。自民党がなし崩し的防衛力拡大の指向性を持つ一方で、野党第一党・社会党には「非武装中立路線」といった非現実的態度があり、両者間に横たわる壁は相当なものがあったのです。これを調整する作業が延々と続き、野党間の議論を受ける形で党内論議の詰めに約4年の歳月が必要だったわけです。

この党内論議の中核として推進力になったのは、市川雄一党安保部会長でした。共産党との「憲法論争」で見せた、憲法9条を巡る透徹した思考力、構想力がここでも威力を発揮します。渡部一郎、黒柳明両氏を始めとした党内の少なからぬ安保論客にその主張を闘わせ、調整し、まとめていきました。私はこの大事な場面の展開にあっては、遠く関西の地にいたため、遠巻きにして見るどころか、全くの蚊帳の外だったのは残念なことでした。

結果としてまとめられた「公明党の安全保障政策」の特徴を一言で云うと、国際政治の厳しい現実の中で、いかに平和を守り抜き戦争を避ける道を貫くかとの、理想と現実とのギャップを埋める大胆かつ画期的な提案でした。このうち、第一章では世界平和を目指した平和戦略を掲げています。❶核兵器の全面撤廃と軍縮の推進❷現行憲法の擁護、日本の軍事大国化に断固反対❸非核3原則の堅持、アジア・太平洋の非核武装地帯の設置といった長期的目標です。一方、第二章では、短中期的展望を示します。❶「自衛のための力」は総合的安全保障の一環として位置付けるべき❷理想は理想として掲げつつ、あくまで現実を直視し、その上に実現可能な方途を提示する必要がある❸一国の安全保障政策は国民的合意に支えられたものでなければならないといった点が強調されています。

こういったことを前提として具体論を展開。私は当時関西の地で公明新聞紙上で発表になった時に強烈な印象を持ったことを覚えています。その最大のものは、「領域保全能力」構想でした。「現憲法下において、わが国の平和的存立を守るための自衛権は認められる」としたうえで、この憲法が認める自衛権の裏付けとしての「能力」について「領海、領空、領土の領域保全に任務を限定した領域保全能力が妥当」としたのです。そして、「この領域保全能力が公明党の合憲とする自衛隊構想」だと規定しています。

この政策については、当時、菊地昌典東大教授や蝋山道雄上智大教授らが、公明党は「分裂している国民世論をまとめあげようとしている」「これだけ大きな政策転換を行うということはまさに大変なことで、戦後日本の政治史上、特筆に値する」と大きく評価する声を寄せていました。大きな誇りを持ってこれを読んだものです。

【昭和56年(1981年) 1月レーガン大統領誕生。3月 神戸でポートピア81 開催 5月鈴木・レーガン会談 ミッテラン、仏大統領に 6月 中国、胡耀邦党主席に就任。7月陸海空初の総合演習 10月 エジプト・サダト大統領暗殺 11月ロッキード裁判で小佐野賢治に有罪判決 】

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ハワイでのSGI総会へ慶大会として参加 (36)

嬉しい知らせとは、ハワイへ行くことでした。第2回SGI(創価学会インターナショナル)総会に、慶大会の代表が参加させていただくことになったのです。それこそ夢のハワイへ、仲間たちと行けるなんて文字通りの夢のような出来事でした。SGIは昭和50年(1975年)年に発足し、第一回の総会はグアムで開かれていました。池田先生は名誉会長になられていらい、SGI会長として縦横無尽の闘いを展開されてきて、この時にも51カ国の代表の前で、講演をされています。

慶大会は発足の〝あの日〟から13年が経っており、その時に集った一期生に加え、六期までの結成がなされて、全体では200人に迫る陣容となっていました。広宣流布の人材を育てようと、先生は全国各地で大学会を結成され、その都度、指導、激励をしてこられたのです。そんな中、アメリカ・ハワイの地でのSGI総会に世界のメンバーとともに参加さていただけるとは、まことに果報者という以外にありません。私は関西・兵庫の地から喜び勇んで参加しました。この時の参加者は58人。当時4年生で学内委員長だった和嶋公男君と3年生の赤羽一嘉君が現役生の代表として参加していました。二人とも快男児で、若い魅力を発散させていました。和嶋君は山形・酒田出身。高等部時代に東北担当だった私とは縁がありました。ハワイでの再会は、後の彼の人生を私がグイと捻じ曲げるきっかけとなるのですが、それはまだ先の話です。赤羽君も就職してから、我が兵庫にやってくるのですが、それが彼の運命を大きく変えることになります。

出発は8月22日4泊6日の旅でした。宿泊先のホテルはワイキキビーチのすぐそばにあり、絶好の眺望を楽しみながら、束の間の遊泳にも興じたものです。三人一部屋の同室の仲間は岡山から参加の日笠勝之、舞鶴からの阿戸與志和の二人。三人とも1945年生まれ。但し、現役合格の日笠さんは、一級上の兄貴格。夜を徹してあれこれと語り合いました。在学中、我々は「第三文明研究会」という学内組織に所属して、互いに切磋琢磨していましたが、日笠さんは、その委員長だったのです。

その当時、三田祭(慶應大学内の学生祭)に同研究会として参加したのですが、日笠さんと、女子学生の責任者だった高橋敏子さんとのツーショットが話題を呼びました。高橋さんは当時慶大法学部のマドンナ的存在だったので、羨む連中が〝美女と野獣〟と囃し立てたものです。その後、高橋さんは弁護士となり、国際弁護士と結婚して、浜四津姓となって、大きく転身します。そして日笠さんも同じ舞台で、見事に羽ばたくことになるのですが‥‥。

総会参加後、ホノルル滞在中に、真珠湾に船で見学に行ったことは忘れられない体験です。アジア太平洋戦争における日本の敗戦の年に、この世に生を受けた私としては、その勃発の地に、開戦後ちょうど40年経って訪れたことに深い感慨に浸らないわけにはいきませんでした。皆で、「戦争の世紀」の20世紀から、「生命の世紀」の21世紀への担い手足らんと、決意を固めあいました。

現地の皆さんとの交流の機会にフラダンスを見せていただいたり、またホノルル島内最先端の岬にまでバスで行って、まさに360度の眺望を見たことなど感激以外の何物でもありませんでした。ただ、残念なことに、一歳年上の先輩で副委員長的存在だった木村靖治さんが、35歳の若さで2年前に急逝されていました。小柄ながら大胆かつユーモア溢れる人で、私は様々にこの人から啓発を受けたものです。ハワイには無念の不参加となったのですが、先生からホノルルにおける記念植樹(ウリウリの木)の提案があり、滞在中に皆で植えたのです。この木が育って行くことを楽しみに、皆の成長を確認し合おうということになりました。かくほどまでに慶大会のメンバーに熱い思いを持ってくださる先生に深く厚い感謝の思いを抱きました。

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大阪府下や兵庫県中を走り回った一年間 (35)

支局記者の仕事で担当したのは京阪沿線地域。守口、寝屋川、門真、枚方、四條畷、大東市といった地域を中心に。時に応じ、大阪府議会なども取材しました。また、学会活動的には、兵庫県を中心に、時に滋賀県などにも足を伸ばして、多くの仲間たちを激励する機会を得ました。

兵庫県姫路市で生まれ、神戸で育ったといっても、20歳代からはずっと東京でしたから、関西に土地勘は殆どありません。人との繋がりも皆無でした。そんな時に一気に多くの兵庫や大阪の強者たちを知ることになります。兵庫では松本義宏、 溝渕弘志、渡部登志尋君といった身体もでかいし、振る舞いもなかなか大きい、ユニークな連中でした。特に兵庫青年部のリーダーの松本君は、長田高校の2年後輩ということもあり、それなりの親近感を抱いたものです。神戸大卒で兵庫県庁職員。既成概念に捉われぬ自由な発想でグイグイ後輩たちを引っ張っていました。彼の「自分の頭と心で感じることが大事や。人の言うことを鵜呑みにするな」との指摘は一見当たり前のことですが、その実、信仰の世界でも結構難しい。既成の権威をものともしない、オンリーマイウエイの彼の生き方はなかなかの迫力がありました。

関西支局に勤務している間に、私は少なくとも兵庫県のすべての市町村を訪れ、そこに住む後輩たちに会おうと、密かに決意しました。夜も土日の日中も、せっせと各地に足を運んで男子部員と懇談会を持ち、広宣流布へのお互いの思いをぶつけ合いました。神戸市内で、懇談のあとに、部長のM君から「子どもに恵まれないのですが」との質問を受けたことがありました。私自身の体験を通して丁寧で具体的なアドバイスをしました。しばらく経って彼から喜びの声で「出来ました」との報告が入ります。実は1-2年後に、彼はさらに二人目の子も授かり、一人娘しかいない私を追い抜いたものです。「そりゃあ君、出来過ぎや」と電話で返したものですが、今も嬉しい笑い話となっています。

一方、心に残る悲しい出来事もありました。大西正人さんの義母と義弟が火事に見舞われ、焼死されたのです。亡くなられたお義母さんは、大阪・梅田界隈でよく知られたお店の女将で、とても面倒見のいい人ということもあり、多くの方から慕われていたといいます。その突然の悲劇に皆茫然としていました。通夜が始まる前に、大西さんを激励する白木義一郎大先輩(元参議院議員)の姿が忘れられません。「あれだけ頑張った人がなあ。こんなことになるなんて‥‥。きっと深い意味があるんやで‥‥」「きっとそうだと思います」ー二人は視線を合わせず、お互いに違う方向を見ていました。信頼し合う先輩と後輩の悲しい無念の出来事に際しての、印象的な語らいをそばで見てしまいました。私には凛とした一幅の名画を見るような厳かな思いが伝わってきたのです。

また、勿論楽しいことも。関西支局の仲間たちが一度私の神戸・塩屋の家に来てくれたことがあります。皆で近くの海岸で魚釣りをして、それを料理上手な車両部の岩本さんが鮮やかな包丁さばきを披露してくれました。我が家でワイワイがやがやと食べたことは忘れられません。いらい、彼はことあるごとに支局の中で食べるものを用意してくれることになりました。それはいいのですが、ある時、くさやの干物を焼いた時には、あまりのその匂いの強烈さに辟易してしまいました。さらに、写真部の梅本カメラマンは豪放磊落そのものの人で、運転する車のガソリンの残量を気にせずに高速道を走るのです。私が載せてもらった丁度その時に、途中でガス欠で動かなくなったのには往生しました。これこそホンマの〝立ち往生〟でした。

そんな折に、またまたとっても嬉しいニュースが飛び込んできて、私は文字通り舞い上がる状態になりました。

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同日選の敗北と関西支局への転勤 (34)

実は、ハプニング解散の最中に大平首相が急逝してしまうのです。まさにダブルハプニングです。激務に生きる政治家の宿命ともいうべきものですが、志半ばの無念の死だったと思われます。私とは個人的には殆ど接点がない人でした。尤も、市川代議士がよく「赤松君の親父さんは大平首相に顏つきが似てるね」と言われていたこともあり、親しみは感じないでもありませんでした。私としては、親父は小柄だし、どちらかというと、福田赳夫さんに似てると思わないでもなかったのですが。まあ、どっちにしても両者とも男ぶりはパッとしません。ともあれ大平さんは、キリスト教の信徒として、また無類の読書家としてそのお人柄が好ましく思われていたこともあって、惜しい人の死でした。

この選挙は、まさに首相の命がけでの解散と選挙中の急逝ということから「葬い合戦」の様相となり、自民党が同情票もあって、衆議院で284議席、参議院でも69議席を獲得し、圧勝します。公明党は、社会、民社の間で、股裂状態に陥り、なんと衆議院では24議席も減らし34議席と大敗北、参議院も前回より2議席減の12議席にとどまりました。

選挙後の公明党中央委員会では、社会党の硬直した万年野党的姿勢への懸念が噴出、大枠「社公民路線」に対する疑問や批判が提起されました。こんな状況の中、私は
社内人事で関西支局への移動を命じられました。恐らく以前に要望めいたことを市川代議士(機関紙局長)に申し上げたのが、聞き入れて貰った結果と思われました。記者としての働き盛りのど真ん中で、都落ちすることには正直不安が胸中にこだましました。しかし、公明党大敗の中、出直しを全国で強いられるだけに、自分もそれに合わせて再出発を出身地の関西・兵庫からやろう、と不安を大いなる決意へと代えていきました。

関西創価学会男子部では関西副青年部長という重要な立場をいただきました。中央で主任部長兼任だったこともあるとはいえ、大いに緊張しました。西口良三関西長のもと、原田光治青年部長、大西正人男子部長以下、大阪の藤原武、京都の上田栄吉郎、兵庫の高田至郎さんら錚々たる7人の副青年部長の末席に加えていただきました。ここから私の〝関西魂〟獲得への厳しい旅路が始まります。

関西にきて一番の嬉しかったことは、大西正人さんが「お祝い」と称して、てっちりを、大阪ミナミのとあるお店でご馳走してくれたことです。庶民的なお店の構えと味は忘れがたいものがありました。この人は関西魂のかたまりのような人で、今に忘れ得ぬこういう会話をしたものです。「赤松っちゃん、君は関西男子部長と全国男子部長とどっちがえらいと思う?」「どっちかって?そりゃあ、全国男子部長でしょ」「いや、違う。そんなこと言ってるとあかんぞ。関西男子部長に決まっとるやないか」「‥‥」「先生との繋がりにおいて関西に勝る地域はないんや」

公明新聞関西支局も強者揃いでした。とりわけ支局長の福井常三郎、次長の浜西正利さんは凄腕の先輩でした。福井さんは何しろ、牧口常三郎初代創価学会会長と名前が同じ。その先生の著作である『人生地理学』を自己流で研究し続け、さまざまな機会にそれを皆の前で講義したことで有名だったのです。先輩の関西副青年部長ということもあり、兵庫在住の人ということもあって、時々一緒に車に載せて貰うなど随分とお世話になりました。また、浜西さんはかつて、池田先生と卓球をする機会があって、その際に先生に勝ってしまった、という〝剛の者〟でした。あらゆる機会に関西と池田先生との絆をこの二人を始めとする支局の仲間たちに教えて頂きました。

【昭和55年(1980年) 5月 衆議院、内閣不信任案を可決。国会解散。6月 大平首相急逝。初の衆参同日選挙(自民党圧勝)。7月 厚生省、男子平均寿命世界一を発表。鈴木善幸内閣。9月 イラン、イラク戦争。中国で趙紫陽首相就任。ポーランド自主管理労組「連帯」結成】

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衆参同日選挙と続くハプニング (33)

昭和54年(1979年)12月6日。公明党は民社党との間で、「中道連合政権構想」に合意。続いて翌昭和55年(1980年)1月10日には、社会党との間で、「連合政権についての合意」を結ぶに至っていました。これを受けてこの月の第17回党大会では、野党連合政権の枠組みとして「大枠としての社・公・民三党に新自ク、社民連を加える」との路線を決めます。つまり、ここに公明党を軸にして、左には「公社」、右には「公民」という「社・公・民」政権ブリッジ路線が実現したのです。

当時私は、政治部担当記者として、社会、民社双方との表の交渉舞台の取材をするため、会議に同席していました。共産党という先行きに不安と不審を醸し出す勢力を排する形での野党結集の軸に、公明党がなり得たことに少なからぬ高揚感を抱いたことを思い起こします。

79年10月には一般消費税導入を争点に解散総選挙になりましたが、公明党はさらに2議席増を果たし、58議席という過去最高の議席を得るに至っていました。一方、自民党は過半数割れの248議席にとどまります。このことから大平首相への批判が自民党内に高まり、主流、反主流派に分かれての、いわゆる「40日間抗争」という壮大な内輪揉めが始まるのです。

一方、母が亡くなって3年。私はこの頃、遺された父のことが気になってしようがありません。姉や弟が時々実家を覗いていましたが、70歳を超えての男の一人暮らしは想像するだに、辛いものがあります。父は「お前たちは母さんが亡くなって悲しんどるが、ワシが残った方が経済的には良かったやぞ。逆やったらどないする」と、強がりはしていましたが。

そうした折も折、市川代議士と懇談する機会に恵まれました。秘書の平子君も一緒でした。結婚から7年余り、母の死、子どものこと、父の状態など色々と、身の上話を聞いて頂きました。当選二回を果たされ、党の中堅幹部として忙しい最中にもかかわらず、真剣に耳を傾けてくれました。「一度親父さんと一緒に暮らした方がいいかもなあ」と漏らされた言葉が耳に残りました。大学入学いらい、15年余り。30代半ばは、親への思いが改めて募るものかもしれません。心の中を見透かされました。結果的に、関西支局への転勤を要望するようになってしまったのです。

尤も、時あたかも与野党の対決は、風雲襲来を告げており、政局の展開を同時進行で見たい思いは強いものがありました。大事な時に、父のために田舎に引っ込むことは敵前逃亡のように思われます。仕事を取るか、親の面倒を見るか。悩みました。

そんな状況下に大平政権は窮余の一策として衆参同日選の解散に打ってでます。前回の総選挙から半年ほど。よもやのハプニング解散です。前年の58議席の勝利に酔っていた公明党は不意打ちに戸惑わなかったといえば、嘘になります。しかし、直ちに対応。分裂気味の自民党と野党連合政権への意気上がる野党との戦いの構図は、大いに盛り上がりました。

ところが、この選挙戦の最中と終わってから、驚くべきことが公私共に起こってしまいます。

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突然の会長交代に驚きと無念さと (32)

昭和54年という年は個人的には入社10年目で、中野区青年部長として活躍出来た記念すべき年ではありましたが、一方では衝撃的なことが起こり、生涯忘れ得ぬ年ともなりました。それは、池田先生が会長を辞任されることになったのです。昭和54年4月24日付けの聖教新聞一面の所感を通じて、私たちは知るに至りました。そこには、「『七つの鐘』終了に当たって」と、あったのです。

「戸田前会長逝いて二十一年、私もおかげさまで会長就任から満十九年、あしかけ二十年に及ぶ長き歳月を、皆様方と共に苦難と栄光の歴史を綴り、今日にいたりました」との書き出し。「ここで大事なことは、広宣流布は、不断の永続革命であるがゆえに、後に続く人びとに、どのように、この松明を継承させていくかということであります。一つの完結は、次への新しい船出であります」と続けられ、「広宣流布は『大地を的とするなるべし』との日蓮大聖人の御金言を深く深く心に刻み、たゆまざる信行学の前進を再び誓い合っていきたい」と結ばれていました。

翌日付けの聖教新聞で、先生は名誉会長に、後任の会長には北条浩理事長が就任される、との発表がありました。先生は未だ51歳になられたばかり。会長職を退かれることには、宗門との軋轢があると見ざるを得ませんでした。ことここに至るまで、何やかやと不穏な動きがあったことはそれなりに知ってはいましたが、よもや先生が会長をお辞めになられるとは。不肖の弟子の一人として、ただただ自分の呑気さ加減に呆れ果てるばかりです。力の無さと、至らなさ、申し訳なさでいっぱいでした。

私としては、19歳の時に入会し、22歳の春に初めてお会いして、病気を治す力を頂き、就職の面倒まで見ていただき、折に触れ何かにつけて激励をいただくばかりの12年でした。ご勇退には深い意味があるとしか思えず、いや増して信心の力を奮い起こしてご恩返しをしていこうとの決意を強く抱きました。私の場合は前線の一幹部でしかなかったのですが、師匠のお心を慮ることの出来ないだらしない人間でした。後年になって、我々世代の至らなさを思うにつけ、身の竦む思いです。

私の身近なところで、池田先生に敵対していった恩知らずの幹部には、元教学部長のHと元弁護士のYがいました。前者は、高等部の人材グループである東京藍青会の御書講義を担当しており、私が副担当でした。後者は中野学生部の担当幹部として、幾たびか言葉を交わしたことがあります。不知恩の輩を横に見て、私が誓ったことは、高等部や学生部の後輩たちに、同じ道を歩ませないということでありました。自分こそ成長して、模範の先輩たろう、と。その熱い思いは今に至るまで続いています。

その頃、先生がご蔵書を整理されるにあたって、何人かでお手伝いをさせていただいたことがあります。膨大な本の数々が部屋の床のうえにところ狭しと並べられていました。ほんの少しだけ、足手まといのようなことしかできませんでしたが、嬉しい限りでした。二冊好きなものを持って行っていいと言われ、英書を頂いたことを思い起こします。

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