分岐点としての2030年と、そこに至る10年間(上)

2020年は、カルロス・ゴーン被告(元日産自動車社長)のレバノン逃亡という事件で幕を開けました。何が起こるかわからない、という時代の空気をそのまま反映させた衝撃が日本中に走り、今なお余韻が燻っています。国際社会では、昨年来の「米中衝突」や「北朝鮮の暴発」に加え、「イランと米国との一触即発」など相次ぐ不安要因が顔を覗かせています。内外共に先行き不安だらけというのが実態です。こんな年の初めに、あらためて聴こえて来るのが、2030年は地球と人類がこのまま存続出来るのか、それとも滅亡の一途を辿るのかの分岐点だということです。つまり、あと10年が生き残りへの対応策を講じる最後の10年間だとの認識です▼「持続可能な社会」(SDGs)に向けての国連の試みは、本格的には2016年から(問題提起的には20世紀最終盤から)始まり、2030年までの15年間に人類が取り組むべき課題解決に向けての17の目標を掲げてきました。しかし、この問題設定(代表的なものは❶気候変動❷貧困❸人口爆発❹テクノロジー❺食料、水不足など)は人々の胸にうまく届いているでしょうか。これまでのところ、ノーとしかいえないような状況が続いてきています。その原因の一つは「持続可能」という言葉にあるように私には思われます。ここは「滅亡する地球・人類」とストレートにいった方が分かりやすいといえるに違いありません。その意味で、新年早々のNHK総合テレビのNHKスペシャルが放映した『未来への分岐点』は、観た人々の心に確実に届く衝撃的な響きを発信していました▼「今地球が不安定化する瀬戸際にあることは科学的に明らかです。これからの10年間が地球と人類の未来を決めるのです」(科学者 ヨハン・ロックストローム)「世界は限界に近づいています。今すぐ行動に移さなければ手遅れになってしまいます」(ジャーナリスト トーマス・フリードマン)ーこの番組の冒頭を飾った二人の言葉は極めて印象深いものがありました。とりわけ地球温暖化による気候変動は、北極と南極の氷の融解による気温上昇と海面上昇によって、地球が〝灼熱地獄〟への待った無しの危機的状況に追い込まれることを見事なまでに物語っていました▼スタジオのコメンテイターたちのうち、私が耳をそばだてたのは、シニア世代を代表した宇宙飛行士・毛利衛さんの「高度成長時代を牽引してきたシニア世代を攻撃しようとしているのでは」との冗談めかした本音発言でした。今のシニア世代すなわち団塊の世代の老人たちは確かに高度経済成長時代に苦労はしたものの、美味しい果実をそれなりに享受して後衛に退こうとしています。一方、その子どもや孫たちであるジュニア世代は、とんでもない希望なき不安を押し付けられつつ前面に立たされようとしているのです。若者を代表した20歳の青年がこれからの10年をどう生きるかと問われて応えた言葉がとても印象に残りました。あらゆる事態に「見て見ぬ振りをしない」といったのです。これこそ、これからの10年のキーワードだと同感します。この言葉は、今私が行動に起こそうとしていることと、文字通り共振したのです。(続く=2020-1-16)

 

仏教への誤解がもたらす「平和」像ー公明党の二枚看板の検証❸

「平和安全法制」成立に見る到達点

前回に見た変遷を経て、平成27年(2015年)9月に「平和安全法制整備法」が成立した。これは私が議員を辞して約2年後のことであった。憲法第9条が禁ずる集団的自衛権を「容認」するに至ったとして、内外各方面から批判が巻き起こった。しかし、この「容認」は、「発動新3要件」として❶日本または他国に対する武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある❷ほかに適当な手段がない❸必要最小限度の武力行使にとどまるーこの三つの条件を満たす場合ににのみ集団的自衛権の行使は容認される、との厳しい条件付きのものであった。安倍首相自身からすれば必ずしも満足出来ないものであったと云えるものの、花より実を取ったと云えなくもなかった。公明党からすると、個別的自衛権の延長線上ものであり、憲法が許容する限度ギリギリの範囲内と見ることも出来た。自公の直接交渉役としての高村正彦副総裁、北側一雄副代表両氏の弁護士コンビの知恵が功を奏したとの見方が玄人筋の通り相場だと思われる。

例えば、ジャーナリストの田原総一朗氏は、「公明党は現実とギリギリ妥協しながら『戦争をしない国』としての日本の姿を守ろうとした。これは僕は〝ブレーキ役〟として実に見事な態度だったと思います」(『宗教問題』vol28 季刊2019年秋季号)との高い評価を与えている。また、御厨貴東京大客員教授は、「自民党の当初案に相当厳しい制限を加えた形で平和安全法制が成立しました。自民党とケンカすることなく、冷静に法案の問題を指摘し、ギリギリのところで妥協点を見出す。与党化の歩みを進める歴史のなかで、公明党は初めて『統治する政党』としての自覚を強く持ったのです」(『潮』2020年1月号)と、これまた鋭い認識を示して注目される。

私が厚生労働副大臣の拝命を受けた平成17年(2005年)のこと。実は舞台裏を明かすと、私は当時の冬柴幹事長とのやりとりを通じて、防衛副大臣を希望したのだが、国家の中枢のポジションを公明党には渡せないとして、自民党中枢からは受け入れられなかった経緯がある。御厨氏の発言の背後を読み解くに際して、ここでもまさに隔世の感がしてならない。「統治する政党」としての公明党を、初めて自民党が認めたと云う意味で。

私は仲間たちの選択と決断に際して、当時も今も高い評価を下すのにやぶさかではないのだが、一点だけ云わせて貰っているのは、自公両党の間での交渉経緯を公表すべきだという点である。国家の安全保障の基本をなす法制定に当たって、与党内の議論であるにせよ、いやそうであるからこそ、議論の中身を知りたいと思う。かつての安保論議が不毛の与野党対立の温床であっただけに、新たな時代にあっては、合意を得た交渉の全貌が明らかにされるべきではないのか。立憲民主党に〝先祖帰り〟の気配が漂うだけに、世界観を同じくするもの同士の健全な安全保障論議を天下に示して欲しい。

仏教・維摩経に見る菩薩像の意味するもの

こうした「平和安全法制」に対して、一般的には、つまり素人筋的には、「『平和主義』の公明党の名が廃る」とか、「看板が泣く、もうそれを降ろせ」と云った様々な批判が寄せられた。先に見た高い評価との落差はどこから来るのか。

既に見たように、現実的安保観と理想的安保観の違いとの説明が出来ようが、より根本的には世の中に定着している仏教の平和主義に対する誤解が影響しているものとも見られる。すなわち、「十字軍戦争」の例に見るように戦争と深い関わりを持つキリスト教や「聖戦」と常に裏表にあるイスラム教などに比べて、戦いにまつわることを一切否定する宗教としての仏教観がある。しかし、それは本当に正しいと云えるのだろうか。

実はNHKのEテレの人気番組『100分de名著』に登場(昨年再放送)し、法華経を解説した仏教思想家の植木雅俊さんの近著『今を生きるための仏教百話』を読むと興味深い仏教の「戦争と平和の行動論」に出くわす。『法華経』のサンスクリット語全訳に続いて、『維摩経』の現代語訳をも成し遂げた植木さんは、同経では、菩薩の積極的で具体的な利他の行動が列挙されていると指摘しており興味深い。疫病、飢饉、戦争などの現実問題に対して、座して瞑想に耽るのではなく、行動に立ち上がる菩薩像が綴られていると云うのである。特に「戦争の際の行動は目を見張るばかりだ」とまでも。

サンスクリット語の鳩摩羅什訳では、「当事者のところを行き来して」「和平の締結を目指す」として、「積極的な平和行動に取り組むことを述べていることが注目される」と。結論的には「原始仏典から帰結されることは、仏教は本来、平和主義的性格であり、国王に対しては戦争の放棄を勧めるものであった」と、仏教学者・中村元氏の言を引いてまとめている。

こうした記述から、日本のかの「戦国時代」にあって、対立する両陣営相互間を行き来する僧侶を想起するのにさほど時間はかからない。本来的には「行動する平和主義」「積極的平和主義」とでも呼べるものは仏教に固有のものであった。しかし、現代日本では、戦争と平和の相克の中で、戦争にまつわることはいかなることにも手出ししないのが仏教だとの見方が定着しているかに見える。明らかに誤解だといえよう。

「憲法改正」にどう挑むか

令和2年(2020年)の幕開けを飾る新聞各紙を見ると、国内政治的には「憲法改正」に向けて安倍首相がどう動くかが関心を集めている。昨年産経新聞のインタビューに答えて、私は今の国会議員による憲法論議の停滞に幻滅を感じるとした上で、❶憲法改正に向けての事前の国民投票の実施❷有識者による憲法改正草案のまとめ❸国会における2年間の限定付き特別憲法議論チームの結成ーなどを提案した。こうしたことでもしなければ、結局は安倍首相の強行突破を招きかねないと思うからである。公明党の山口代表は、憲法改正への機熟さずとして、さらなる議論を求めている。私があのインタビューで云いたかったのは、公明党が自民党と野党の間に立って、合意形成に向けての汗をかくべきではないのかとの一点だった。安倍首相が9条3項に自衛隊の存在を明記する加憲を提起してきたことを受けて、更なる議論をと云った風に結論をただ先延ばしにするのではなく、積極的に妥協点を探るために動くべきではないのか、と。

憲法については従来から、全面的な改憲論に立つ自民党と、一切触らせないとの旧社会、共産党などの対立があった。今は、野党第一党の立憲民主党は安倍自民党の元では改憲はしないとの含みを持ったスタンスである。そうした立ち位置を放置しているのではいたずらに時が経つだけである。今こそ憲法のどこをどう変えるか、あるいはどこについては変えずとも済ませられるかの詰めの作業を、公明党こそ党内議論の中で推し進める使命がある。その一方で、改憲に前向きな自民党や日本維新の会と、後ろ向きな野党との間に立って、本来の役割を果たすべきだろう。

「平和安全法制」で見せた合意へのギリギリの知恵を、憲法についても公明党が発揮して貰いたい。護憲に戻るのではなく、加憲にこそ、膠着状況を切り開くチャンスがあるのではないか。そこにこそ中道主義の本領発揮を見たいと云うのが私の本意である。(続く=2020-1-4)

 

「理想」と「現実」の立ち位置でわかれる「平和」観ー公明党の二枚看板の検証❷

安全保障にまつわる議論の変遷

伊藤元海将の云う「一歩ずつの前進」は、立場の違いによって「一歩ずつの後退」であったり、時に「大幅な後退」と写る。以下に、安全保障にまつわる法整備の変遷を追ってみたい。

思い返せば、平成元年(1989年)11月のベルリンの壁の崩壊による冷戦の終結が、まさに時代を画する出来事だった。束の間の和平感は漂ったものの、翌2年(1990年)8月のイラクのクウェート侵攻で敢え無く崩れさった。冷戦期を通じてずっと動かなかった国連による「集団安全保障措置」がここから.動かざるをえなくなり、半年かかった末に、米国を中心とする多国籍軍の「武力制裁容認」が決議され、湾岸戦争が始まる。平成3年(1991年)1月のことだ。

当然ながら日本も激動の時代を迎える。米国から多国籍軍への「ひと」の支援協力としての自衛隊派遣を求められ、当時の政府自民党は、「国連平和協力法案」の成立を目指す。しかし、公明党を含む野党がこぞって反対、廃案に追い込んだ。代わって「かね」による協力をせめてもせねばということを自民党が決断する。当初の40億ドル支援から90億ドルを追加、合計130億ドル支援をすることになった。公明党は党内大議論の末に、賛成に回る判断をした。私は当時落選中で議論には直接参加していないが、当時の市川書記長が内外の舞台回しの役割をこなし、与野党を通じての実質的牽引者となった。このスタイルはPKO (国連平和維持活動)法が成立に至る平成4年(1992年)6月まで続く。

公明党的にはこの間、「平和5原則」を法の中に組み込むことを提案するなど、終始一貫して国民的合意を掴む努力を展開した。戦争に加担するのかとの内外の批判に対し、紛争が終わったあとに再発を防ぐために派遣することは国際貢献に他ならず、傍観者的態度こそ「平和」に反するものだとの論陣を張った。反面、「牛歩戦術」と称して審議妨害をした旧社会党、大反対のキャンペーンを展開した朝日新聞などは、これ以後凋落の道をたどって行く。大きな分かれ道だった。

pKO法以後の「安保」風景

PKO法成立以後の日本の安全保障政策の展開は、あたかも同法がお手本となったかのように、その手法がなぞられることで、乗り切ることになっていった。節目となったのは以下の三つの法律の成立である。

一つ目は、平成11年(1999年)5月の「周辺事態安全確保法」である。これは遡ること3年前の平成8年4月の橋本龍太郎首相とクリントン米国大統領の首脳会談での「日米安保共同宣言」が発端となった。そこでは「日米同盟の再定義」がなされ、「日米防衛協力の指針」(日米ガイドライン)が見直された。その焦点は、「日本の平和と安全に重要な影響を及ぼす事態」としての「周辺事態」であった。立法化作業は3年かかったが、その経緯の中で徐々に頑なな世論が変化をしていった。

それには、平成10年(1998年)8月に日本上空をテポドンが通過した事案や、翌11年(1999年)3月の能登半島沖での不審船事案に対して、海上自衛隊に初の「海上警備行動」が発令されるなどといった北朝鮮の脅威が現実のものとなってきたことが影響したといえよう。

「対テロ戦争」の時代の到来

二つ目は「テロ対策特別措置法」である。21世紀に入った途端に(平成13年=2001年9月)起きた、米国同時多発テロは、それまでの「平和」がかりそめのものであったことを世界的規模で一気に暴露した。NATOや豪州は直ちに集団的自衛権を発動、米国を中心とする有志連合軍の編成のもとに「対テロ戦争」が始まった。日本もそれらの国々とは一線を画するものの、24人の犠牲者をだした国として、独自の支援に立ち上がった。これが、インド洋上などで動く多国籍軍に給油などの後方支援をする「テロ対策特別措置法」の成立(平成13年)を求めるものとなっていった。これにも「戦争に加担する」「戦争に巻き込まれるのではないか」との懸念に基づく批判が巻き起こった。しかし、人道上の観点から後方支援をすることには問題があろうはずはない。公明党は、紛争の当事者とならぬよう、いざという時には撤退するとの条件をつけることなど成立に向け尽力した。明らかに「PKO平和 5原則」の応用であった。

三つ目は、15年(2003年)に成立した、有事法制の基本的な枠組みとしての「武力攻撃事態法」である。これには野党第一党の民主党も賛成に回った。かつての防衛論議とは様変わりの様相を呈したのである。自・民・公の三党の防衛関係議員の間でしばしば協議がもたれ、最終的に合意を見たことは、隔世の感を抱くものであった。

以上に見たように、平成に入って約15年の間の安全保障政策は、憲法9条の制約のもとに、いかに国を守るために現実的な対応をするかの選択と決断の連続であった。ことが起きるたびに、いわゆる「理想」を追う反米の左勢力と「現実」対応ありきの米国追従の右勢力がぶつかり合った。その狭間で、中道主義の公明党は懸命に合意を形成する努力を積み重ねていったのである。(2019-12-31 =次回に続く)

 

 

 

 

 

 

見損なわれがちな「平和主義」ー公明党の二枚看板の検証❶

「平和」の擁護と「大衆福祉」の実現

公明党は「平和」の擁護と「大衆福祉」の実現を二枚看板として、この55年の間、前半は野党として、自民党政治を変えるべく闘ってきた。後半の20年は民主党政権下の3年ほどを除いて、自民党と政権を組む与党として、同党の政治の足らざるを補いながら、その軌道を修正しつつ基本的には支えてきた。ある意味で〝離れ業〟としかいいようがなく、その評価は立場によって分かれよう。その歴史のウオッチャーとし、またある時はプレイヤーとして生きてきた私は、当然ながら肯定的に評価したい。この劇的な公明党的手法はあくまで「中道主義」の本義から滲み出るものであって、決してその根本的スタンスを捨て去り、自民党政治に迎合するものではなかったと確信する。

21世紀も5分の1の時が流れ、中盤に差し掛かろうとする今、改めて日本の政治・経済の置かれた状況を吟味する必要があると考える。時あたかも、国際政治にあっては、米国のトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」なる言動に代表されるごとく自国本位主義が世界を覆いつつある。そして、経済におけるグローバリズムは国境の垣根を超え、奔放な動きを一段と強めている。他方、国内政治・経済は、富めるものは益々富み、貧しきものは一段と貧しい、「分断社会」の様相を明瞭にさせている。私のような先の大戦直後生まれが見てきた、米ソ対決から米国一極といった国際社会の見慣れた風景はもはや遠影に退いた。世界第2位を誇った日本の経済力も遠い昔の語り草になり、そのあとを建国70年余の中国が襲っているのだ。

こうした内外の激しい変化にも関わらず、私たちが旧態依然とした視座しか持たず、古い固定観念に捉えられていたとしたら、どうなるのだろうか。ここでは、連立与党のパートナー公明党の「平和」主義と「大衆福祉」主義の立ち位置を検証する中で、その方向に過ちがないのかどうか、思わぬ陥穽にはまっていないかどうかを見ていきたい。

幾重にも歯止めかけた「中東への海自派遣」

2019年末に安全保障分野で久方ぶりに話題になったのは、中東地域への海上自衛隊の派遣問題である。与党の中でも賛否両論がぶつかった。有志連合には参加せず、日本独自の取り組みとして、防衛省設置法に基づく調査・研究を目的に護衛艦1隻とp3c哨戒機1機、約270人規模の隊員をとりあえず1年派遣する。延長は1年ごとに更新するが、公明党との折衝の末に、最終的に「閣議決定」とし、国会に報告することで合意をみた。報道によると公明党の主張に配慮して、自民党が当初の方向性から譲歩したとされる。こうした経緯を知るにつけて、かつての歩んだ道を思い起こす。防衛費のなし崩し的膨張に歯止めをかけ、自衛隊の海外派遣には幾重にも条件をつけ、兵器に直結するものは輸出の対象としないーカネ、ヒト、モノにわたる軍事との距離の設定ーいずれも公明党の取り組みだったのである。

それでいて、いわゆる左翼的な軍事拒否姿勢とは一線を画してきた。「55年体制下」では、左右勢力による合意形成は殆ど見られず、ただただ「不毛の対決」のみが繰り返され、国際社会での異端児とされてきた。それではならじと、「憲法9条の枠の中」との自制を課しつつ、現実的対応に苦慮して匍匐前進してきたのが公明党の防衛政策だった。市川雄一、冬柴鐵三の両先輩の後を継いで安保部会長の任につき、神崎武法、太田昭宏、山口那津男と続く党代表の下で、仕事をしてきた者として、誇らしく思う。

その辺りのことについては、この20年余りの歳月における防衛政策をめぐる推移、変遷を論評した元海将の伊藤俊幸・金沢工業大虎ノ門大学院教授の発言(2019年5月14日付け産経新聞『正論』)が本質を突いている。彼は、「安全保障法制に見る政策の変遷」と題する論考の結末部分で、「鳥瞰するならば、平成とは冷戦が終わり、脅威が顕在化しているにもかかわらず根強い反対勢力が存在する中、安全保障政策を一歩ずつ前進させてきた時代だった」と規定しているのだ。「一歩ずつ前進」との表現に、公明党と自民党の防衛関係者による辛抱強い交渉の現れを見ることが出来よう。(一部修正=次回に続く)

 

 

 

 

 

 

高校生パワーが炸裂ー第7回全国高等学校観高サミットに参加して

高校生ってなんて眩しい存在かを思いっきり感じさせられた二日間でしたー全国から7つの高校の生徒たちが集まって徳島市の四国大学で第7回全国高等学校観高サミットが開かれ(13-14日)、これに私も初めて参加してきました。テーマは「地域観光の未来を拓く高校生の取り組み」。北海道ニセコ高校、石川県立金沢商業高校、宮城県松島高校など7高校の生徒たちがそれぞれ数人で、15分以内のプレゼンテーションを競い合うもので日頃の研鑽を発揮する見事な内容でした。最優秀賞を獲得した金沢商業高校のものは、「訪日外国人観光客向け企画旅行の作成」。同校は株式会社王座金商を運営、株式会社日本ツアーシステムと旅行代理業契約を結んで、毎年生徒が考案した金沢周遊バスツアーを代理販売しているといいます。今年度は、ツアーのターゲットを外国人に設定して企画を作成。シンガポールの専門学校・テマセクポリテクニック校を訪問して、外国人が好む観光の嗜好についての調査も行ったとのことでした▼私は一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の専務理事として、内外の観光客の淡路島、瀬戸内海各島への誘致や、観光人材育成の仕組み作りに取り組んでいます。そういう中で、徳島商業高校の鈴鹿剛教諭と知り合いました。この人は現在48歳ですが、これまで約8年ほどの期間、同高生徒に対する観光教育を手がける一方、学内会社「COMCOM」を作って、高校生に実際に観光に動く場を提供してきました。今ではNPO法人雪花菜(おから)工房を設立、教え子を理事長に据え、地域起こしに貢献するなど多彩な活動を展開しています。現在はカンボジアとの交流を高校生と共に勤しんでいるというから驚きです。特に私が関心を持ってきたのは、全国の実業高校の教師たちとネットワークを組んで、今回のような高校生の観光のための集いを開いたり、教師たちの学びの場を設けていることなどについてです▼明年の東京オリンピックを前に、観光庁も観光人材の育成に力を注いでいますが、なかなか即戦力の育成に結びついていないのが現状です。そこで、この鈴鹿先生たちの既存のネットワークを活用することがその目的に大いに役立つものと着眼しました。これまで観光庁当局に幾たびか直接的に要請の場を設けたり、公明党を通じて政策提案も試みたりしてきました。未だそうした努力が実を結び、仕組み作りが実現するには至っていませんが、今回ようやく観光庁が加藤審議官を派遣してくれました。大いなる前進が期待されています▼二日間にわたる大会をつぶさに見た結果を同審議官も講評の中で、高校生たちが実地に学んだ「観光」を通じて、それぞれの郷土に誇りを持つとともに、世界に発信する力が培われることに、大きな期待を寄せていました。学校教育の現場で、観光を学ぶ機会など古い世代では皆無でした。だが、この大会に参加した高校生たちはその成果を着実に生かし、それぞれの全人的成長に役立てるに違いないことを確信します。北は北海道、南は大分県の高校生たちが「観光」の発信をした後、相互の交流をする姿(入り乱れてそれぞれ7人の話し相手を探し、対話を試みるゲーム)を見ながら、若いパワーの秘められた力を実感しました。こうした草の根的な観光教育の現状をさらに拡充させ、現実に役立てるために私のような者も闘う必要があります。観光日本の前進にもっともっと貢献していきたいと、新たな決意が漲ってきました。(2019-12-16)

もし今公明党が野党だったらー臨時国会の閉会に思う

12月9日に臨時国会が幕を閉じました。その直前の6日に一般社団法人「安保政策研究会」の定例会が開かれ、久方ぶりに参加しました。そこでは、日韓関係を巡って寺田輝介元韓国大使からの基本的な問題提起がなされた後、座長役の浅野勝人元官房副長官や登誠一郎元OECD大使、星野元男元時事通信台北・北京特派員らを中心に種々意見交換がなされました。私としては大いに触発されましたが、気になったのはその前段での議論です。国会における野党の「桜を見る会」に対する追及の杜撰さが指摘されました。その中で、こんな野党の体たらくでは、好悪を別にして安倍4選もありうるとの杉浦正章元時事通信編集局長の発言が耳に残ったものです。今は与党ですが、かつては野党だった公明党出身の私としては大いに胸騒ぐ場面でした▼世に「大山鳴動鼠一匹」と云いますが、終わってみれば色々と問題が出てきたものの、結果的には安倍自民党はビクともしなかったとの印象があります。野党の存在とは一体何なのかと、虚しさのみが残ります。第一に、菅原一秀、河井克行二人の大臣の辞任。問題が発覚するやいなやさっさと辞めてしまいました。こういう大臣には以後元経産相とか元法相といった呼称を取り去ることが求められます。人の噂も何とやらで、残るのは大臣の肩書き。例え数日とは云え、任命されたという事実は重いのです。それ故に職に固執して恥の上塗りをせず、元大臣の呼称を後生大事に持つために直ちに辞めたのでは、と勘ぐりたくなるのです。「桜を見る会」問題では、首相のやりたい放題を支える与野党の議員たちの屈折した心理が伺えます。大勢の議員たちが参加したとの事実があるゆえ、どんなに首相を攻撃したところで、以後気をつけますで済んでしまうのが関の山なのです。これをターゲットにした立憲民主党以下の野党の戦略の拙さのみが残ります。議論を聞いていて、もし公明党が野党だったら、との詮無き思いがふと浮かんできました▼外側からの自民党政治の改革は困難を伴うから、内側から変えていくのだとの論理を、「自公連立」に当たって、私などは使ったものです。たしかにその後、常に弱者の側に立った公明党の視点を取り入れての自民党政治の展開は、枚挙にいとまがありません。加えて、民主党政権誕生前後5年ほどに日本が経験した政治の不安定さを、公明党が自民党側に加担することで安定化をもたらしてきた、と云えるでしょう。しかし、問題はその「政治の安定」で失われたものはないか、という点です。御厨貴東大客員教授が「平成から令和へーさらに増す公明党の存在感」という論考(『潮』1月号)の中で、「『統治の党』としての性格が強まるにつれて、今後どこかで平和主義や生活主義と矛盾する局面が訪れるかもしれません」と述べる一方、「自民党と決して馴れ合いにならない自覚と緊張感を、公明党はこれからさらに大事にして欲しい」と強調しています。わたし的にはこの御厨氏の言葉が大いに気になります。「統治の党」としての「政治の安定」が謳われるそばで、既に随所で「生活主義」が脅かされている現実があると思うからです。経済格差に喘ぐ庶民大衆に一体どういう手を今の政府・自公両党は差し伸べていると云えるのでしょうか▼今の事態を見ていると、もう与党として自民党を支えるよりも、野党に戻って、新たな政治改革の道を再び模索した方がいいのではないかとの思いすら抱いてしまいます。絵空事と自覚しつつそんな風に思ってしまうのは誠に嘆かわしいことです。時に与党として、またある時は野党として、公明党がひとり二役ならぬ〝一党二役〟ができぬものか。白熱した外交論議の最中に、そんなよしなし事の発言をすることは憚られると、思わず言葉を飲み込んでしまいました。いつにない後味の悪さを引きずって会場のプレスセンターを後にした次第です。(2019-12-9 一部修正)

新たな社会保障の仕組み作りに一石投じる動き

結党記念日の直前に、11月15日、16日の両日にわたって、公明新聞に掲載された『2040年問題  新たな社会保障への一考察』と題する、公明新聞・ビジョン検討チームによる「安心の制度構築への提言」は、なかなかの力作だった。党そのものには改革に向けての姿勢が薄れてきてるのではないか、などと苦言を呈した私だが、この提言には諸手を挙げて賛同しておかねば、後輩たちに申し訳ない思いがする。公明党が誕生して55年。経済格差の波にさらわれ、最低限の生活の保障すら覚束ない人々に、今こそ目を向け、手を差し伸べねば、何のための公明党かという他ない。自民党と与党を組むということは、まさにこうした状況に陥っている人が多いとの現状を打開するためのものでもあるはずだからだ▼実はこの論文を目にする直前に、地元兵庫の最北部に位置する但馬地域の村岡町(合併後は香美町)に住む後輩から一本の電話があった。阪神淡路の大震災のあった平成7年に村岡町議に当選して二期8年の間、その職責を務めた西井秀一氏(62歳)である。畜産関係の仕事をしながら、獅子奮迅の議会活動を展開した勇姿は目に焼きつき心に長く留まっている。諸般の事情から議員を辞して、はや15年余りが経つ。その間、気にはなりつつも会う機会は絶えてなかった。その彼からの突然の声の便りは嬉しかった。「疲弊する中山間地域、停滞する日本に喝を入れ、多くの大衆を蘇らせるための唯一の手立てを考え抜きました」ー久闊を叙するのももどかしげに、懐かしい電話の声は弾んでいた。現在はトマト栽培など農業を幅広く手掛けているとは聞いていたが、日本の蘇生のためにどうすればいいかの政策を考え続け、戦略を練っていたとはつゆほども知らなかった▼「ベーシックインカムの導入です」ー山ほど障害はあれども、長年に渡っての試行錯誤の思索の結果は、これしかないというのが彼の結論だという。つい先日姫路で会い、懇談をした際に彼が考える導入への戦略の一端を聞いた。ベーシックインカムとは、政府が全ての人に必要最小限の所得保障を定期的に給付するというもの。膨大な財源を必要とすることやら、労働への意欲を削ぐのではないかとの観点から批判的な向きが一般的だが、ここ数年改めて注目を浴びてきている。政党では、旧民主党の一部に根強い支持の動きがあったり、小池都知事の肝いりで話題となった「希望の党」がその政策に入れ込んだことがある。西井氏はそうした点を全て分かった上で、いかに困難であれ、この施策を導入することで日本社会の窮状に悩む大衆一般を救うことが可能になるはず、と意気込む。そう簡単にことが運ぶと思うほど私も甘くはないが、嬉しかったのは彼の真っ正直な姿勢が持続していることであった。議員を辞めてからもひたすら大衆救済のために考え続けてきていることは凄い▼実は、公明新聞に掲載された「一考察・提言」の中にも、最後の結論部分に、最低生活保障が触れられ、「ベーシック・インカム」にまつわる考えが披瀝されている。ここでは、慶應義塾大の井手英策教授の「ベーシック・サービス」構想が取り上げられていて興味深い。現金給付が持つ難点、とりわけ社会的弱者の線引きが結果として社会的亀裂としての分断を生み出すことへの対策が述べられている。つまり、現金ではなく、医療、介護、育児、教育、障害者福祉といった「サービス」を、必要とするすべての個人に無償で提供しようというものだ。公明新聞チームは、弱者の明確化を掲げた自らの提言と方向性は異なるものの、敢えて井手構想は検討に値するとして評価する姿勢を取っていることは好ましい。井手氏は旧民主党のブレーンとして名を馳せた人だけに、今後の去就が注目されているが、幅広い国民的合意を培うために公明党政調、公明新聞チームとも議論の場を持って欲しいものだ。このあたりについて、西井氏も共鳴し、お互いにこれからの情報キャッチ、支援グループの構築などで協力し合うことを約束して別れた。何はともあれ、公明新聞記者や元地方議員という後輩たちに、格差社会打開に向けて懸命に頑張る姿が見えることに大いに勇気づけられている。(2019-11-26)

 

改革精神が薄れていないかー公明党結党55周年に寄せて

昭和39年(1964年)11月17日ー今日は、公明党が結党された記念すべき日です。今年はちょうど55年目になります。その年は初めての東京オリンピックが開催された年であり、東海道新幹線がスタートしたことに象徴されるように、敗戦後の日本が高度経済成長を経て、見事に再建を果たした年と言われています。そうしたことから日本社会が転換を遂げた年とも位置づけられているのです。そんな躍動する時代を背景に公明党は誕生しました。当時の公明党に期待されたのは、「社会の繁栄と個人の幸せ」が一致するように、大衆福祉の実現を果たすことであり、そのためには世界の平和がベースになければ、ということでした。今に続く「福祉と平和」という二枚看板がその時から目標として掲げられたわけです。以来、半世紀余り。公明党の先輩たちは立党の精神「大衆と共に」を合言葉に、懸命の努力を続けてきました。今では、安倍自民党政府の一員として与党の一角を形成しています。ここでは、今の公明党がどういう位置にいるかを中心に見ていきたいと存じます▼まず、最近の時事的問題から。安倍晋三首相が公的な催しを私物化してきたと批判されている「桜を見る会」に、残念ながら公明党の議員も無批判に参加してきていたという事実です。これは、民主党政権の鳩山由紀夫首相の時も開催(菅、野田政権時は震災のために自粛)されてきており、政界全体が無神経だったとの側面があります。ですが、それで免罪にはならず、野党時代の公明党ならもっと敏感に反応したはずです。尤も、私は現役時代に一切この会には参加しませんでしたが、問題意識は薄かったことを認めます。赤坂御苑で開催される園遊会に参加すれば事足れりとの態度でした。今与党という立場にせよ、この問題について公明党の側から、誰も反省の弁を述べていないという風にしか聞こえてこないのは残念という他ありません▼安倍首相に対する批判を自分のものとして受け止める姿勢がないとしたら、よほど与党ボケ、感覚が麻痺していると言えるのではないでしょうか。今日17日付の公明新聞1面の「党声明」(幅広い国民合意を形成し 大転換期の扉 力強く開く)にも全く触れられていません。党の歴史と伝統からすれば些細なことで、立党の原点にまつわるような、ことの本質には関係がないことだと言えるでしょうか。私は、いかに小さなことに見えようが、大衆の疑問、懸念には敏感でなければならないと思います。先の参議院選挙で、公明党は第一に「安定」を掲げましたが、それは自民党のスローガンであって、公明党にはもっと「改革」を訴えて欲しかったと思います。「小さな声を聞く」ことはもちろん大事ですが、大衆は今、経済格差に喘いでいる人たちが圧倒的に多いのです。「安定」あってこその「政治・経済」ということは否定しません。しかし、「改革」を後衛に退かせることでは、中道主義の旗が泣くと思うのです▼公明党が結成された当時の政治・社会状況と今の状況を比較すると如何でしょうか。確かに日本全体としては豊かになっており、かつてのような病気や貧困に悩む人々は表面的には強く浮かんできているようには見えません。しかし、貧しいひとはドンドン貧しく、恵まれたひとはどんどん豊かになっている側面が強くなってきていると言えます。病という面でも、今は鬱病など精神的疾患が多く、人生の先行きに不安を持つ人は過去最大と言われています。恵まれた側に身を置くと、そうした面が見えてこない危険があります。公明党は今こそ、側に倒れている人、希望を失っている人に手を差し伸べねばならないと思います。自民党と一緒に与党を形成していることから、安倍首相やその周辺に遠慮をしていることはないと、私は信じています。ですが、もっと改革精神を発揮して、今の政治状況を揺さぶってくれないと、「自民党政治の安定」にこそなれ、「大衆のための政治の安定」には繋がっていかないことを憂えます。(2019-11-17=11-18一部更新)

自公連立20年とこれからー懸念される中道主義の存在感❹

皮相的な「30年一回り」論

実は、この「30年一回り」論は、芹川氏だけが唱えているものではない。同じ日経新聞社の企画刊行で注目される『平成三部作』(『平成の政治』『平成の経済』『平成の経営』)における、御厨貴東大名誉教授との編著『平成の政治』において、芹川氏が「同論」を披瀝したことに対して、御厨氏も何の異も唱えず、その通りだと同調しているのだ。この本では流石に、公明党について無視せず、5頁ほどにわたって触れられている。例えば、御厨氏は、国交相を公明党の指定席にしたことで、透明性がましたこと、安全保障論議での公明党議員の本気度と熱心さを評価している。一方、安保法制問題以降、「公明党議員と支持者との間で隔たりが生じている」こと、「社会性を巡って議員と創価学会中枢との間の関係に矛盾が発生している」ことなどを挙げて、今後の課題としていることは注目されよう。

この本におけるコロンビア大名誉教授のジェラルド・カーチス氏も加わっての鼎談で、印象深いのは三者における「自公の一体化」との認識である。「公明党なくして自民党もない」(カーチス氏)、「渾然一体化」(芹川氏)、「もう離れられない」(御厨氏)などといった具合である。こういう見方をされるのは論者の自由だが、政治学者や、ジャーナリストなら、皮相的側面だけで見て欲しくない。保守と中道の一体化が今の日本の政治に何をもたらし、これからどう変化することが予測されるかといった辺りに踏み込んで欲しいものである。

問われる中道主義の真価

本来の民主政治の在り方は、与野党による政権交代にあると確信する。それがあってこそ、政治の活性化も起こり、民主主義の機能も健全に働くからだ。それゆえ、自公連立がこれからもずっと続くことを期待することは矛盾を引き起こす。やがては自公に代わって政権担当能力を持つ野党の台頭が望ましいと私は思う。かつて、私は「早くおいたて民主党」と事あるごとに、語ったものである。政権交代がないと、どんな権力も腐敗すると思ったからだ。しかし、同党の体たらくは語るに落ちるもので、今となっては我が身の不明を恥じるだけだ。

では、どうするか。公明党こそ自民党に代わる政権党たろうと、かつての先輩たちは目標に置いたものだが、今となっては「遠い砲声」という他ない。しかし、諦めてはならない。中道主義の旗を掲げて55年。今に至る20年の自民党との連立で、埋没してしまうような存在であっては断じてならないと思う。先の公明新聞紙上に掲載された論考での最後のくだりに私は心から賛同する。すなわち、「公明党が今後とも引き続き与党の一員として国民の負託に応えていくためには、党の議員力、行動力、政策力、判断力‥‥といった党の政治的力量アップが求められ、何より中道への支持拡大が欠かせない」と抑制を利かせた主張をしたうえで、「中道の理念、中道の政治路線の原則を踏まえつつ、日本の政党政治全体の立場に立って行動し、政治判断し、国内政治の向上・発展を期するものである」と結んでいるところだ。①政治の左右への揺れや偏頗を防ぎ、政治の安定に寄与する、②賛成と反対だけの不毛な対立を避け、国民的な合意形成に貢献する、③新しい課題に対しては、創造的な解決策を提案するーこの中道の政治路線の原則が、いや増して発揮されるときはいまをおいてないということをどこまでも強調したい。(この項終わり=2019-11-5)

自公連立20年とこれからー懸念される中道主義の存在感❸

改革へのリーダーシップの発揮を

それにつけても、私が不満なのは、連立20年の公明党の存在感が滅法薄いことである。この20年の政権の実態を公明党の側から分析した鋭い論文『連立20年の自公政権』(公明新聞党史編纂班=10月4日、5日付公明新聞)が先に発表された。これを読めば、中道主義の公明党が自民党との連立参加に当たって掲げたスローガン(政治の安定と改革のリーダーシップ発揮)が看板倒れではなく、いかにうまく展開されてきているかが手に取るように分かる。多くの党員、支持者が溜飲を下げたものと想像するに難くない。一般的には「政治の安定」ばかりが強調され過ぎ、「改革のリーダーシップ」が見えないではないかとの指摘が少なくないからである。

上述の論文では、まず第一に、自民党の安全保障政策に対する抑制を、改革の内実として挙げている。具体的には先の安保法制決定に至る過程で「法案に大きな修正をかけたこと」や、「憲法改正問題に関して公明党が重視する国民的合意形成の重要性を自民党側も受け入れている点」を挙げている。次いで、社会保障や教育の分野で、弱者救済の政策が積極的に実現されてきたことを指摘している。「消費増税に付随して食料品等に軽減税率を導入したり、幼児教育や私立高校の授業料を無償化することなど」が具体例である。そのほかにも、「高齢者や障がい者など弱い立場の人たちに対するきめ細かな施策」を始め、「命を守る防災・減災対策の拡充、自然・文化の力を観光立国化」などが羅列されている。いずれも独りよがりの論法ではなく、有識者たちの評価をきちっと掬いあげている。これを読めば、「保守・中道」の二つの政治的立場が相補う形で、「抑制と均衡」という関係を維持し、結果として自公連立の耐久性を高めてきたことが分かる。

論及されぬ連立での公明党の役割

しかし、平成の時代が終わって、その時代を振り返る各種論調の中で、残念ながら自公連立の”妙”を分析したものは目にすることは現時点で、ほとんど見当たらない。それどころか意図的に無視したとしか思えないような疑いすら抱くものが散見される。一例を挙げると、日経新聞社の芹川洋一シニアフェローによる『平成政権史』である。政権の流れを丹念に追っているものと見たので、腰を落として読んで見たが、連立政権における公明党の役割めいたものに触れられたくだりは全くない。「政権史」と銘打たれたからには、連立政権の実態や功罪について論及されるのが当然と思うのだが。かねて芹川氏の手になる著作『憲法改革』を高く評価してきた私だけに、ご本人に直接、苦情を申し上げた。「何も公明党を褒めよと言ってるのではありません。なぜ評価をせずに、無視するのですか」と。

とりわけ私が首を傾げざるをえないのは、この本の「まとめ」で、「30年たって政党の体制がもとにもどってしまった」としているところである。非自民連立政権から始まって、自自公、自社さ、自公連立などを経て、民主党政権を挟んで、再び自公連立政権へと目まぐるしく動いてきた経緯の末に、政党の体制が元に戻ったとはどういうことか。芹川氏に言わせると、55年体制の頃の、自民・社会・公明・民社・共産の5党による基本的枠組みが、「かりに立憲民主党を社会党、国民民主党を民社党と想定すれば、まったく同じである。30年たって一回りということだ」と述べて、今も変わっていないとされる。確かに、政党の分布を見ればその類似性の指摘は当たっている。しかし、政治の質という面では、明らかに変わってきている。いや、変わっているはずと見てしまうのは公明党の人間による僻みだろうか。その辺りの分析がなされずして、形だけの捉え方が先行してしまうと、「政治の真実」を見損なってしまいかねない。(続く)