【171】「政治改革」の酷すぎる実像━━NHKスペシャル『〝政治とカネ〟の攻防』から(上)/7-20

 NHK総合テレビが180日間にわたって政治家たちに密着取材し「なぜ政治とカネの問題が繰り返されるのか。問題の根源に何があるか」をインタビューした映像がさる14日に放映されました。前半は、岸田首相、茂木敏充幹事長、二階俊博元幹事長らが登場。また、平成の政治改革論議の際に大きな役割を果たした佐々木毅元東大総長も。たてまえと本音が入り混じっての奇妙な言説が飛び交い、様々な意味で考えさせられる番組でした。

●自民党内の責任の擦り合い

 まず、岸田首相は、政治とカネの問題がなぜ繰り返されるのかとの問いに対して、型通りのお詫びの言葉を口にしたあと、「議員や秘書の中に『何かおかしい』との違和感や問題点を感じた人も少なからずいたが、コンプライアンス意識、法律を守ろうという意識が欠如していた」からだと、〝他人ごと風的言い訳〟をしました。安倍派の元座長だった塩谷立氏は、地元での挨拶で、自らの潔白を主張する一方、収支報告にきちっと記載をすればいいのに、しないのがおかしいと述べました。自分は立場上の責任を取らされ、党全体の責任者である首相や党幹部が責任を取らないのはおかしいと、〝泣き言風のグチ〟を淡々と述べていました。

 これに対して、茂木敏充幹事長は、党の責任者として身内の責めを問うことは苦渋の決断だったとしおらしく述べるとともに、派閥解消はこれで終わりではなく、不断の改革努力が求められると、曖昧模糊とした責任回避の発言をしました。つまり、視聴者は程のいい「責任の擦り合い」を見せつけられただけでした。

●言い分け、開き直りで、変わらぬ習性

 面白かったのは、今回の一連の出来事の当事者の2人が本音を明確に語った場面です。一つは安倍派の菅家一郎衆議院議員の言動です。彼は、地元でのお詫び行脚に歩く中で、「お騒がせして申し訳ありません。一からまた出直しします」との〝定番の釈明セリフ〟を口にし、赴いた先の商店でお土産を大量に買っていました。「こうやってお話ししながら、買ってあげる。コミュニケーションが大事なんです」と。車中で、「人件費、事務所費、印刷代、通信代、燃料費などをどう捻出するか。事務所運営に追われているのが現状です」と率直に語っていました。最前線の政治家のありのままの習性と本音が語られたのがとても印象的でした。

 一方、派閥の領袖でもあり、次の総選挙では引退する二階俊博氏が歯に絹きせず語っていたのは迫力がありました。記者から平成の政治改革のときに派閥は解散されたが、その後復活しました、と水を向けられると,「それは当然です。うちには派閥ないんですなんて、そんな純粋な水みたいなのが集まってね。何かできるかって、そんなの何の力にもパワーにもならないよ。人が寄ったら派閥があるんだよ。その派閥というのをどう活用していくか。そこが大事だわね」。「派閥解消」は口先だけで、やがて復活すると言ってるわけです。

 カネがかかる最大の要因は、選挙だとして、こうも語っていました。「政治にカネがかかるってことは、我々も若いころ言われたよ。『カネはあるか」と。『今度選挙に出るそうだけど、どういう政策に力点を置いていこうとしてんのか』って、そんなこと聞く人誰もいないんだよ。みんな『カネがあるか』って、こう来るよな。腹立ったよね。そういう世界にさらされるわけだよ。いま『パーティー券何枚にしましょうか』と、パーティ券の2枚や3枚で政治になるかよ。生徒会の選挙でもならんよ」と。

 自民党政治の原風景が見事なまでに描き出されています。このあと、政治も新しい時代の進展の中で変わらなきゃあいかん、との趣旨の言い回しが付言されていましたが、付け足しのように聞こえました。

●「永遠の課題にはその都度やるしかない」と政治学者

 こうした政治家の動きについて、30年前のリクルート事件に端を発した「平成の政治改革」問題で活躍した佐々木毅元東大総長の発言が印象的でした。長い歳月の経過を物語るように、杖をついての白髪姿で登場した佐々木さんは開口一番、「一体、この30年間は何だったろうな。政治家たちが問題を真剣に議論し交渉し、改善をするというような機会がなかったままに過ぎ去ってしまった」と述べられました。痛烈でした。私も議員駆け出しの頃から今まで佐々木さんの言動を注視してきましたが、この度のテレビの画面での佇まいは、まるで罪を一身に背負う主犯のようで、哀れさを抱くばかりでした。

 「政治家たちの本音ベースは『政治とカネの問題があまり透明化され過ぎないように』という気持ちがないわけではない。これは永遠の課題で、モグラたたきゲームみたいなもんで、その都度、その都度やるしかない」と、腹の底から絞り出すように言われたのがあたかも遺言のように聞こえました。(2024-7-20  以下続く)

 

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【170】嵐の中にも厳然と━━イージス艦「摩耶」に体験搭乗して/7-16

 海の日の7月15日。朝早く、私は明石市にある住まいを出て電車を乗り継ぎ1時間ほどで、神戸市東灘区にある阪神電車魚崎駅へ。そこから歩くこと30分。「海上自衛隊阪神基地」に到着しました。ここはあの29年前の阪神淡路大震災の折に、海路からの被災地救援拠点として大きな役割を果たしたところです。どうしていま私はこの場所に行ったのでしょうか?実は、私の所属する『シニア異業種交流会』から、イージス艦(護衛艦『摩耶』)が横須賀から神戸に来るので体験搭乗しに行かないか?」との誘いがこの春にあったのです。滅多にないことだから、との気楽な気持ちで参加を決めていました。この護衛艦が世に出て4年目。普段は横須賀基地。全国で8隻保有されるイージス艦はそれぞれ担当する月に、日本海に出向きます。北方の隣国から飛んでくる弾道ミサイルなどへの対応に従事(基本的に1ヶ月サイクル)するためです。今回のように我々一般市民(350人づつ朝と昼とに分かれて参加)に公開して見せてくれることは珍しく、大いに有難い機会でした。短い時間でしたが、私はできるだけ隊員の皆さんの生の声を聞くように心がけました◆時あたかも「自衛隊創立70周年」という記念すべき年。外にロシアの対ウクライナ戦争、中国の軍事力増強のもとでの「尖閣」海域侵犯、北朝鮮の度重なるミサイル発射という挑発などがある一方で、内では信じ難いような不祥事の現状に直面しているのです。まさに「内憂外患」です。不祥事については、防衛省全体で218人にも及ぶ多数の幹部や隊員の一斉処分に踏み切ったのですが、内実は、「特定秘密」の杜撰な管理から、パワーハラスメントに至るまで多岐にわたっています。とりわけ「問われる海自の倫理観」(毎日新聞7-13付け)と報道されているように、訓練実施をしていないのに、したように申請して不正に手当を受給したり、基地内で金を払わずにただ喰いする不正飲食など、いかにもさもしい実態が暴露されています◆その一方で、海自は川崎重工業との間で裏金を捻出しての利益授受の疑いが浮上、防衛監察本部による特別防衛観察の対象にさえなっているのです。かねて防衛分野という閉鎖的な産業との関係で陥りやすい不正として懸念される向きがありましたが、「やっぱりか」との負の感慨を持たざるを得ません。こっちは年に数億単位で、10年以上にわたって架空の取引が行われていたとみられるスケールの大きさに唖然とするのです。海上自衛隊というと、さる4月に哨戒ヘリコプターSH-60K機が伊豆諸島鳥島沖合で衝突し墜落、8人が死亡した悲惨な事故が起きたばかり。更にちょうど1年前の4月には陸上自衛隊のUH-60JAヘリコプターが沖縄県宮古島沖で墜落、10人が死亡しました。自衛隊機の訓練中の事故死が伝えられると、とても複雑な思いに駆られてしまいます◆こうした現状を背景に、私は、入隊1〜2年目の新人から、20年余りの士官まで男女合わせて5-6人の隊員と、あれこれと立話をしました。尤も、いかに今回の海自の不祥事に疑問を持っていても、流石に露骨に批判の矛先を向けるわけにもいきません。やんわりと空気を探りました。その結果、彼らの常日頃の心情やら仕事への意気込みを察知できたのは収穫でした。不祥事や事故のなか、自衛隊に応募する人たちが減少する空気が高まってくるのを懸念するのですが、少なくとも今日会った隊員たちからはいかなる〝マイナスの雰囲気〟も伺えませんでした。ある士官に、かつて私が幹部候補の隊員と意見交換をした際の質疑応答を例に出しました。彼から「政治家は一体いつになったら自衛隊を憲法上で認めてくれるのですか」と問われたことです。忘れられぬ問いかけです。いらい20年あまり、憲法9条に自衛隊を明記する必要性を感じる契機になっていると伝えました。イージス艦に乗務する隊員と会話して、改めてその任務の重大さに思いを凝らすと共に、彼らの普段からの努力に応える政治であり、感謝する市民でありたいと強く思ったものです。(2024-7-16)

 

 

 

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【169】五輪を前に「戦争と平和」と「国家とスポーツ」を考える/7-7

 パリ・オリンピックが近づく。前回の2020年は1964年に次ぐ2度目の東京開催だったが、世界中がコロナ禍に見舞われ、開催は1年遅れた。「2020年東京オリンピック」は、実際には2021年の開催。感染症との戦いで、異常な雰囲気の大会となった。第二次世界大戦後で最も大会継続が危ぶまれ、あわや中止の憂き目に晒されたのは1972年の西ドイツのミュンヘンオリンピックだった。もう50年が経つのだが、原因がイスラエルとパレスチナの争いにあっただけに、今もなお生々しい。今年のパリでも類似のことが起こり得るかも知れない。感染症と戦争──人類が抱える二大病根が続け様に「平和の祭典」を襲う◆50年前の事の発端は、パレスチナ過激派集団(「黒い9月」)がイスラエルの選手、コーチたち11人を人質にして立て籠ろうとしたこと。西ドイツ政府を相手取り、イスラエルにおける自分たちの「政治犯釈放」を要求する交渉のテコにすることを狙ったものだった。さる3月19日に放映されたNHKの『アナザーストーリーズ ミュンヘン五輪事件』は、実に迫力に満ちた内容で見応えがあった。ひとたび過激派に拘束されながらも逃げ切ったレスリングのイスラエル代表選手と、過激派を罠にかけようとしながら失敗した西ドイツの警察官をインタビューで追ったものだ。前者では自分が助かった代わりに仲間が射殺された。後者では目の前で人質全員を失った。共に〝罪の意識〟に苛まれる。当事者「個人」の複雑な思いを見聞きしながら、前面に出てこない「国家」が気になった。過去に「ドイツ」を舞台に起きた「ユダヤ人虐殺」。一転、今のイスラエルとパレスチナ相互の「虐殺の連鎖」に思いは飛ばざるを得ない。50年を経て現在の泥沼化した戦争に、観るものとしてどうにもやるせ無い感情に苛まれたのである◆この事件は当時世界中で話題となった。過激派の狙いは、「平和の祭典」の影で、悲惨な現実に苦しむパレスチナからの「宣戦布告」だった。オリンピックのアヴェリー・ブランデージ会長は政治的要求によって、オリンピックが左右されるべきではないとの立場を守り、1日だけ日程をずらして予定通りスケジュールを消化する決断を下した。銃撃戦の決着でその場の火ダネは強引に消え、オリンピック続行は可能になった。当時20歳台後半の記者だった私は、実に後味が悪い結末だったことをよく覚えている。テロリストをイスラエルの人質もろとも爆破した西ドイツ政府に冷徹な〝国家の心〟を見た。もっと優しいはずの〝人間の顔〟を見たいものだ、と思った。スポーツは通常を超えた人間の持つ体力を競わせ、見るものを感動させる。オリンピックはまさにそのシンボルであろう。一方、平穏な生活を根底から覆す戦争は今再び国家間の能力を極限まで競わせる〝地獄の祭典〟というしかない◆2022年2月末からのウクライナ戦争は、ロシアによるウクライナ侵略がきっかけである。もうすでに3年目に入っている。一方、イスラエルとパレスチナの戦いも2023年10月からはや10ヶ月続く。東京オリンピック後の3年で、世界は一段と分断の様相を強め、苦悩は果てしなく続く。この状況下に、パリでオリンピックが開かれる。戦禍のすぐそばで。否が応でも「国家とスポーツ」に考えが及ばざるを得ない。スポーツ選手を丸抱えで養成している国家。スポーツに何不自由なく取り組める選手。一方、参加したくとも国家そのものを持ち得ない民族、人々。本来は人間の体力、知力を純粋に競い合う中で、人間の尊さ美しさを自覚し、平和の喜びを噛みしめるものだったはず。それがいつの日か〝国威発揚〟の場になってきた。しかも今ではリアルな戦争の轟音鳴り響く中での大会が続く。オリンピックもただ繰り返すだけでなく、なんらかの新たな仕組みを作る時に来ているような気がしてならない。(2024-7-7)

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【168】島根の友と共に、徳島・鳴門の大塚国際美術館に行く/7-1

 徳島県と島根県──四国と山陰の、共に参議院選挙での合区を余儀なくされた県です。前者は高知県と、後者は鳥取県と。つまり4県とも人口減に悩む地域ですが、私は数年前から徳島の美波町、島根県の出雲市の地域おこしにちょっぴり関わってきています。地域産業活性化支援プロジェクトマネージャーの勝瀬典雄さんと、知己を得て、私も両県の市町への関わりをここ数年強めてきたことが背景にあります。先月29日から一泊二日で、島根県の出雲市と松江市に住む友人が徳島県鳴門市の大塚国際美術館見学にやって来るというので、勝瀬さんと共に私も合流、あれこれ懇談してきました。加えて翌日は作家の玉岡かおるさんの出版記念を祝う会が神戸ポートピアホテルで開催されたので、ひとり参加してきました。玉岡さんは『われ去りしとも美は朽ちず』との作品で、大塚国際美術館建設のドラマを描いた人であり、偶然の〝重なりの妙〟を楽しんできた次第です◆島根県からやってきた友人3人は、40歳台後半から50歳台までの気鋭の経営者。この5年くらい交流を深めてきた仲間たちです。リーダー格のTさんは、松江に本社を、出雲に支店をおく、ナッツ類、スルメや魚介類などによる〝おつまみ〟を販売する商社のトップ。若き日に東京で人材派遣関連企業に勤めて、研鑽を重ねて後、生まれ故郷の島根に戻って今の仕事に取り組んできました。全国各地に営業網を広めつつ、この30年東南アジア、欧州、世界を睨んでいます。ついで、出雲市で老舗の印刷業の二代目であるNさん。3年前から出版業に触手を伸ばしてきています。この新たな事業展開に勝瀬さんが深く関与。そして私も。出雲における出版文化向上に役立てばとの思い止みがたく、拙著『77年の興亡』をこの人に託し、3年連続で本を出してきました。更に、出雲の造園業界の雄・Tさん。この人も、勝瀬さんのアドバイスのもと、日本の庭園を世界に広げる試みに取り憑かれています。コンパクトなミニ庭園を実用化し、日本から世界へと壮大な「日本文化輸出」を夢見ているといえましょう◆このメンバーたちを軸に、出雲市地域の発展に尽力しようとする試みはこの数年勢いを増しています。先年、「メタバース」(コンピューター上の仮想空間)を市場に導入しようとする動きが島根でも急速に高まったのですが、背景にはこの人たちのチームプレーがありました。今回の徳島・鳴門の大塚国際美術館見学は、これまでの地域おこしの試みを振り返り、次なる飛躍への道筋をつけるための「研修旅行」的意味合いがありました。世界の宗教的芸術や名画、彫刻などが一望のもとに出来る場所に集まって、鋭気を養い意欲を高める試みはとても重要なチャレンジでした。この美術館創設の初期段階から関わった勝瀬さんの誘いのもとに、壮大な試みの心意気に触れ得たことは、必ずや大きな実を結ぶものと思われます◆私はかねて作家の玉岡かおるさんと交流がありましたが、偶々30日に神戸で作家デビュー35年と『さまよえる神剣』の出版を祝う会があるとのお知らせをいただきました。当初は島根からの友人たちとのツアーに最後までお付き合いするつもりでしたが、急遽、予定を切り上げて、鳴門から神戸へと走ることに変更しました。私のわがまま的側面は否めなかったのですが、両方とのご縁を大事にしたいとの私流儀を許して頂いたのです。今回出版した『ふれあう読書ー私の縁した百人一冊』の下巻に玉岡かおるさんの一冊(前掲の書)を入れる予定でもあり、欠かせぬことだと思われました。作家デビュー35年を振り返る試みは、中々見応えがあるもので、播磨地域から全国まで、彼女のファンを含め多数の関係者が集う宴は大いに盛り上がりました。パーテイ現場で一人ひとりの参列者と声を交わす玉岡さんの姿勢は味わい深いものでした。私も大塚国際美術館から駆けつけたことを伝えると大いに喜んでくれたことは言うまでもありません。(2024-7-1)

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【167】沖縄戦の「記憶風化」と若者への仄かな期待──6-23「沖縄慰霊の日」をめぐって/6-24

 先の大戦の敗北を決定づけた「沖縄決戦」。これこそ現在の沖縄をもたらした大きな分岐点だと捉えられます。6-23は、戦没者を悼み、平和を誓う恒例の「沖縄慰霊の日」でしたが、この日の行事を含めて、一週間前の沖縄県議選の結果など、あれこれと考えさせられました。まず、第一には、県議選結果での本土との「逆転現象」をどう見るかについてです。自民党の派閥による政治資金集めの「裏金事件」の発覚で、21日に実質的に閉会した通常国会は、「政治改革論議」一色となりました。「政治資金規正法」〝改正騒ぎ〟に終始したのです。この動きの中で政権への批判は高まる一方で、首相への支持率はついに20%を切るまでに下落しています。先の衆議院3小選挙区補欠選挙での完敗(出馬回避も含め)など、各地の諸選挙戦での自民党の退潮傾向は覆うべくもありませんでした◆ところが沖縄県議選では、自民党と公明党が議席を前回よりも伸ばし玉城デニー知事与党の立憲、共産などが後退、「過半数割れ」になってしまいました。この結果は、自公政権への「不満と疑惑」があたかも沖縄県では消えたかのように見えます。沖縄県特有の地域事情によるもので、直接的には国政での自民党の不人気が連動しなかったのです。諸悪の根源を在日米軍基地の存在や自衛隊の沖縄県への集中傾向に求めてしまいがちな沖縄県下の野党の対沖縄選挙戦略の偏向性の結果というべきかもしれません。公明党の場合4年前は、コロナ禍がもたらした県民生活の急変を重く考え、手堅く候補者を絞って挑みました。それを今回は元に戻しただけとの見方があり、また本土での自民党の不始末の連動を極力避けた選挙選の結果ともみえます。与野党共に、沖縄県の特殊性を鑑みて、基地問題と県民生活と中央の政治腐敗などの相関関係について、綿密な結果分析が必要でしょう◆第二には。「沖縄慰霊の日」におけるテレビ番組の受け止め方の問題です。メディアは「沖縄戦」を毎年取り扱いますが、観る方はおざなりになっていないかどうか。今回もNHKスペシャル『〝戦い、そして、死んでいく〟〜沖縄戦 発掘された米軍録音記録』やETV特集『私と先生とピアノ』などが放映されましたが、私自身ビデオに録画を取り置くのが精一杯でした。ただし、過去に観た番組で強く印象に残ったものを改めて観ました。3年前の作家目取真俊氏(『水滴』で芥川賞受賞)に対するインタビュー構成の番組『こころの時代━━死者は沈黙の彼方に』です。担当記者が辺野古基地を海を隔てた場所から、「この位置から現状をどう見ますか」と何気なく聞いたことに、目取真氏は怒りを込めて、「どう見ますか?!こういう事態にしたのはあなた方日本人でしょう。安倍、菅政権がもたらしたもので沖縄人は苦しんでいるんです」などと、厳しく言い放ったことが強く印象に残っています。あの時、沖縄の抱えている問題について、本土人と沖縄人との深いミゾを痛切に感じたものでした。ややもすれば、「沖縄戦」がもたらした悲惨な事実など、今に続く「基地被害」を直視しない傾向が本土側にはあります。「意識の風化」を反省せざるを得ません◆三つ目は、23日の沖縄慰霊の日の式典での高校生のスピーチの素晴らしさです。宮古高校3年生の仲間友佑君が「これから」と題する詩を約5分ほど見事にノー原稿で朗読していました。あの沖縄戦から79年が経とうとする今、世界では依然として戦火が絶えない今をしっかりと捉えた上で、戦火が終わらないのなら、平和が地上にもたらせられるまで、僕らは祈りを繋げていこうといったものでした。聞いてるものの心を激しく打ちました。それを挟んだ知事と首相の講演が、相変わらずの中身を、ただ棒読みしているだけだったことと対比して、少なからぬ希望を抱くことができました。若者やその後に続く多くの子どもたちの未来に期待したい、との強い思いが沸々と湧き上がってきたのです。(2024-6-24)

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【166】「ヤングケアラー」を支えていこう━━伊藤孝江と高嶋哲夫と赤松正雄の鼎談/6-18

 近年、18歳未満の子どもたちを始めとする若者が両親や祖父母の世話をするために、家事や介護を余儀なくされ、学業などに支障をきたすというケースが増えてきています。いわゆる「ヤングケアラー」と呼ばれる若者、子どもたちの抱える問題を指します。私の友人で作家の高嶋哲夫さんは、ヤングケアラー問題こそこれからの日本が直面する最大の社会問題だとして小説を近く刊行、世に警鐘を乱打しようとしています。そこでこの問題に熱心に取り組んでいる伊藤孝江参議院議員と私の3人で鼎談をしました。以下、そのエッセンスを掲載します。

【赤松】高嶋さんは、つい先頃『落葉』って小説を発表され、パーキンソン病を患う老人が若者と力を合わせて世の変革に立ち向かう動きを描かれましたが、今度はまたヤングケアラー問題に注目されていますね。

【高嶋】親しい編集者と話していて、今子どもたちを襲っている問題は、家族の面倒をみる負担が大きいってことから来ている──つまりヤングケアラー問題だってことに気づきましてね。それを『ファミリー』(仮称)ってタイトルで小説を書き出したんです。(今秋刊行の予定)

【赤松】家族の絆が断ち切られることがあってはいけないってことですね。伊藤さんはかねて「ヤングケアラー問題の伊藤孝江」と言われるぐらい、熱心に国会でも取り上げてきていますが、きっかけは?

【伊藤】3年ほど前に、地元の東兵庫の女性議員の皆さんとの勉強会で大阪歯科大の濱島淑恵教授のお話を聴いてからですね。その後、まだ年端もいかない子どもさんたちや青年たちが親世代の苦労を抱え込むなかで、悪戦苦闘してるってことの大変さを身近に見たんです。で、なんとか政治の力で少しでも解消させたいって、思ったのです。つい先日(6月5日)に国会で成立した「子ども子育て支援法(改正)」って、国や地方自治体がしっかりヤングケアラーを支えていこうという法律です。

【高嶋】それは大きいですね。この問題はまだまだ世間に知られていず、ヤングケアラーって何それ?っていうのが実態ですよね(笑)

【赤松】カタカナ言葉は、どうしても年寄りには馴染まないから。「老老介護」ならまだしも(笑)ね。以前、伊藤さんに「ヤングケアラーばっかりやってないで、もっと女性全般が抱えるおっきいテーマを追わなきゃあ」なんて、ヤングケアラー問題が分かっていない頓珍漢なこと言って、ホンマに失礼しました(笑)

【伊藤】そんなことありましたっけ?わたし、先輩の忠告、どっちかっていうと、直ぐ忘れるんです(笑)。ところで、高嶋さんの小説って、どんな筋書きですか?

【高嶋】先輩の忠告すぐ忘れるって、いい習慣ですね(笑)。私の小説は、主人公が女子高生。母子家庭で母親が看護師で忙しく、交通事故で重度の障害を持つようになった兄と認知症の祖母の面倒見るため、ヤングケアラーとして生きているという設定です。そこに家族3人が悲惨な事件に巻き込まれて殺されるというとんでもないことが起こってしまいます。さあ、誰がやったか?どうして?なぜ?ってことから、物語が始まるんです。

【伊藤】いやあ、いきなり衝撃的展開ですが、面白そうですね。読みたいです〜。でも、ヤングケアラーが犯人だったなんていやですよ。どう進展して決着するのか、こっそり教えてくださいませんか?(笑)

【赤松】高嶋さんは稀代のストーリーテラーだからね。あっと驚く展開だよ、きっと。でもネタバレは厳禁だから。あとは読んでのお楽しみ〜(笑)で、その小説をもとに、どうしようっていうのですか?

【高嶋】ヤングケアラーがいかに重圧のもとに生活しているかの問題提起をして、世間の関心を喚起する一方、政治家の皆さんに本腰あげてもらうべく、一大社会運動を起こそうって企んでいるんです。

【伊藤】それは凄く大事なことですね。私もできることはなんでもしっかり協力させて頂きますよ。

【赤松】本が出版されたら、まず、公明新聞紙上や、理論誌『公明』誌上で2人で対談して貰うっていいなあ。

【高嶋】赤松さんの最新本『ふれあう読書──私の縁した百人一冊』(上)では、『首都感染』を取り上げて頂きまして、ありがとうございました。ただし、あれって古いですよね。もっと新しいのお願いします。(笑)

※以上は、6月15日の夜に神戸市垂水区の高嶋哲夫事務所で行った懇談会での話を、鼎談風に要約しました。

 

 

 

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【165】新たなる旅立ちに期す━━公明党60周年に考えること(下)/6-11

◆問われるのは「よりマシな選択」

 野党や一部新聞論調では、公明党も自民党と〝同じ穴のムジナ〟だとの声があります。衆議院サイドの議論調整の終盤になって、維新の「政策活動費の10年後公開」を自民党が受け入れたことから、ムジナが三頭になったと揶揄(やゆ)する声も聞こえてきます。確かに、あるべき理想論からすれば、中途半端で抜け穴だらけとの見方も否めないかもしれません。ただし、残念ながら今の自民党を構成する多数派がヨシとする考え方(合法的にオカネを集めるのは当然)は、世の中での通常の考え方(オカネをかけずに知恵と工夫で政治を行うべし)よりも支配的です。与野党で合意できるギリギリの妥協点を見出すしかなかったといえるのです。

 公明党の後半30年の与党としての戦いぶりを評論する際に、私は「安定」を重んじるあまり「改革」が疎かにされてはならないとの議論を一貫して展開してきました。一昨年の拙著『77年の興亡──価値観の対立をめぐって』でも、昨年の『新たなる77年の興亡』でも、徹して「安定よりも改革を」との主張を続けました。これまでの動きも前回に見たようにいささか問題なしとしません(安定が優先する傾向)でしたが、ここへきて、公明党は結構頑張ってるとの評価も見られるように思われます。

 政党の政策選択を判断する場合に、理想を追うあまり現実的な合意をそっちのけにして、空理空論に走る愚を犯してはならないと思ってきました。結論的にいえば、「よりマシな選択」をするしかないというものです。今回の政規法の改革でも、どの党が「よりマシな判断」をしたのかが問われ、次の「改革」「前進」にどう繋げていくかが大事なのです。

◆国家ビジョンを「自公」で戦わすことこそ、

 実は自民党の不祥事から湧き起こった今回の政規法改正をめぐる論議については、法改正はもちろん大切ですが、同時に私はもっと大事なことがある、そっちを忘れて、ただ法改正をしてそれでおわりではないと言ってきました。第一幕の政治改革の戦いだった30年前と、今回の第二幕目とで違う点は、自公の関係です。少なくとも以前より関係が深まったといえるはずだからです。つまり、法改正だけでなく、ものの考え方に影響を与えることが大事だということです。政治とカネは、「法改正」というハード面とともにソフト面でも、「発想の転換」が重要なのです。

 例えば私は、今回の事件の決着は本当は自民党が旧派閥ごとに分裂して新党を作るのが一番スッキリするという議論もこの欄で展開しました。また、公明党は自民党との間で、常日頃から国家ビジョンを戦わすべきであって、選挙互助会的連立であってはならないとも述べてきました。党創立者である池田大作先生が残された数々の「遺訓」を軸に、「池田思想」を自民党議員との間で議論せずして、何のための連立かとも考えてきました。

 過去の党の歴史において、〝心ならずも〟そういった創立者の思いとは裏腹に、核廃絶を曖昧にしたまま温存し、大衆の側に立つといいながら、経済的貧富の差が拡大することを許してきました。これでは、「(心)ならず者」じゃあないか、とさえ。これは背後に、私自身の強い反省もあります。現役時代に、心ならずも出来得なかったことだからです。我が同僚、後輩たちも大なり小なりそういった反省の心を共有しながら、一歩でもニ歩でも改革の道を歩んで、よりマシ選択を続けていくものと信じています。

 「60周年」後からの新たなる我々の前途には、「大きな路線の選択」が待ち受けています。それは、どういうものでしょう。私は2つの道があると思います。一つは、これからも自民党という問題含みの巨大政党を、まともな政党にすべく内側からの矯正力を強めるという生き方です。二つ目は、自民党が今回の政治改革の道をまたも踏み外し、世論の指弾を受けることがあったり、公明党と袂を分つ勢力が台頭してきた場合に、政権の座からひとたび離れるという選択です。

 もちろん未来予測、仮定の話ですから、憶測を重ねることは避けるべきでしょうが、民主主義とは政権交代が可能な仕組みを意味するものである限り、庶民大衆が望む、よりよき政治選択を求めて自在に融通無碍(ゆうずうむげ)に動く必要があります。私の「77年の興亡」論からすれば、既に第三の「77年の周期」に突入しており、悠長なことをいっている余裕はありません。〝公明党かく戦わん〟との政権構想、国家ビジョンを掲げての新出発を強く望んでやまないのです。(2024-6-11この項終わり)

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【164】「安定」に徹した後期30年━━公明党創立60周年に考えること(中)/6-8

 ◆「強弱まだら模様」の自民党との悪戦苦闘

 前回の最後に、「個人的な思いや現実は別にして」と書きました。これには複雑な思いが感じられると思います。芝居に例えると、舞台上で、ひいきの役者が反権力で戦ってると思っていたのに、いつの間にか権力に寄り添った役回りをしているのを観せられたようなものです。そんなことが起こると「金返せ」と大騒ぎになります。普通はあり得ないことが起こったので、受け止め方は千差万別のはずとのニュアンスを込めました。

 しかし、与党になることで庶民大衆の暮らし向きが良くなる方向へ転換するのなら好ましい、とのスタンスに立って21世紀初頭の連立政治に公明党は対応していきました。政権の中核たる首班の色彩は文字通り〝強弱まだら模様〟(小泉、第二次安倍の強い内閣と、森、第一次安倍、福田、麻生の非力な内閣)で、平均2年に一回は首相が交代する有り様でした。弱い政権時には「安定」におおわらわで、強い内閣時には〝歯止め役〟に必死だったというのが正直なところです。連立政権での「改革のエンジン役」と、過ぎたる右傾化への〝歯止め役〟を演じたと「正史」(『公明党50年の歩み』)にはありますが、少々自画自賛気味といわざるをえません。

 一方、外では「米ソ対決」から「米一極支配」を経たうえでの「多極化(米中対決含み)」へと目まぐるしい変化の連続です。今はウクライナとガザでの戦争を前に国連の無力と国際政治の無法化が嘆かれています。「平和の党」公明党の存在感もどこへやら、日本の「安全保障」は窮地に立たされているのが現実なのです。

 まさにその混乱時に、自民党の派閥による政治資金集めのパーティー券の処理が裏金作りと重なっていた由々しき問題が起きました。30年経って再発した「政治とカネ」の問題を前に、公明党支持者の心中は穏やかではありません。「なんだ、結局元の木阿弥じゃないか」「金権腐敗の自民党政治を公明党は変えられなかったのか」との嘆きの声が高まりました。「半端な対応は許さない」「何が自公政権だ!」との怒りでした。

 ◆「後半30年」の最後に見せた決まり技

 こうした大衆の怒りを受けて公明党はまさに乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いを強いられました。その結果、週末に政規法改正案が通過した衆議院では、公明党が最後までこだわった修正案を岸田首相が丸呑みしたことが話題になっています。当初から主張し続けてきた、いわゆる連座制の強化の導入で、会計責任者だけでなく、議員自身に対する罰則を定めたことを始め、政治資金の透明性を向上するための6項目を反映させたのです。加えて、パーティ券購入者の公開基準額を巡って、現行の「20万円超」から「5万円超」へ引き下げることや、政策活動費の使途公開を明確にすることなど、自民党がずっと渋ってきた課題を修正案に反映させることが出来ました。背後には並々ならぬ粘り強い戦いがあったはずで、精一杯、称賛したいと思います。

 尤も、野党やメディアは未だ「ざる法」だといっていますので、今後参議院での論議が注目されます。これでおしまいではなく、更に議論を重ねて一党でも多くの政党が賛同出来る様な中身にする必要があります。

 この「公明党60年」の後半30年の最後の年における政規法改正をめぐる戦いでの成果は、大相撲に例えると、土俵際に追い詰められながら、起死回生の投げが見事に功を奏したものといえましょう。相手が突然体調を壊した敵失のおかげだなどとは敢えていわないことにします。「もり・かけ・さくら」と揶揄された安倍政権下の強権的政治手法と経済格差の拡大という庶民生活への圧迫に対して、目に見える抵抗や変革をなしえてこなかった公明党にとって、一矢を報いたといえるでしょう。ですが、これで「終わりよければ全てよし」とはいきません。二の矢、三の矢を期待したいものです。(2024-6-8   つづく)

 

 

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【163】「改革」に燃えた前期30年━━公明党創立60周年に考えること(上)/6-7

 人生で60年は「還暦」にあたります。組織体でいえば生まれ変わる時ともいえましょう。「60歳になる公明党」について、つれづれなるままに考えたことを3回にわたって記してみます。

 ◆「大衆」の手に政治を取り戻す戦いへの出発

 公明党の存在を私が知ったのは1964年(昭和39年)11月17日。結成大会のニュースをテレビ、新聞で気づいたのが初めてです。高校を卒業し、大学受験浪人中のことでした。創価学会に入った翌1965年(昭和40年3月15日)よりも少し早かったのです。大学に入って4年間。信仰を我が身に取り入れつつ、区議の選挙支援活動や公明新聞の熟読など党員活動を続けました。そして大学卒業と同時に公明新聞記者になりました。これもはや60年が経とうとしています。私は、党の歴史を考える時、1993年〜95年辺りを境にして、前半30年と後半30年を分けて考えるとわかりやすいと思います。前半は、野党時代。後半は世紀末の混沌とした時期を経て与党時代という風に分けられるからです。勿論、後半には、与党になる前の第1期政治改革の嵐の中での7年ほどがあり、途中で野党に転身を余儀なくされた3年(民主党政権時)も含まれてきます。これら双方合わせて約10年間は野党だったわけですから、正確に言えば、後半は与党時代に括っても、正味は20年だったといえます。

 さて、こう仕分けすると、何が見えてくるでしょうか。公明党は周知のように、創立者池田大作先生の「庶民大衆に根ざした政党たれ」との教えを旨として、当時の自民、社会の二大政党によるいわゆる「55年体制」下のイデオロギー中心の政治打破を主たる目標に掲げました。結党当時の時代はいわゆる「60年安保」と「70年の安保」の2つの安保闘争の狭間のただなか、保守と革新の激突期にありました。公明党の母体たる創価学会的には、「大衆の手に政治を取り戻す」ことが最大の目的でした。当時の青年部は、古代中国の「三国志」になぞらえて、最大勢力の自民党を「魏」に、対抗する社会党を「呉」に、そして第3の勢力「蜀」に公明党を擬して胸躍らせたことを思い出します。

 ◆自民党単独政権に終止符を打った細川政権

 その当時の創価学会、公明党の気分は保守と革新に対抗する「第三文明」の担い手・中道との位置付けにありました。国家権力の横暴による犠牲となった牧口初代会長と二代戸田城聖会長の「仇討ち」が本心です。その戦いの先頭に立つ第三代池田大作会長への一般世間における悪口雑言、中傷の数々への〝意趣返し〟の戦いでもありました。それは「赤穂浪士」による「忠臣蔵」的感傷とピタリ一致していました。「憎っくき吉良上野介」という〝主君の仇討ち〟(具体的な人を指すのではなく、反権力をシンボライズさせたもの)に、身をやつして、江戸城下に潜みやがて目的を果たす、との故事を自分達のものとして借用したのです。

 今となっては、「遠い日の太鼓」ですが、当時の20歳から40歳ぐらいまでの、学生部員や青年男子部員はそう言った幻想的志向にはまって、我が身を鼓舞激励していたのです。公明党の先輩議員を中軸に党員支持者たちは、内外にわたる様々な〝花も嵐も乗り越えて〟「金権腐敗政治」打倒に向けて走りました。その結果が1993年の細川護煕連立政権の誕生に、ある意味で結実しました。兎にも角にも自民党単独政権を倒したのです。日本政治史上38年ぶりの快挙でした。これはその後の新生党と公明党を中核にした羽田孜政権(細川政権から社会党が離脱したため短命)へと繋がりました。個人的な感慨になりますが、その当時の政権樹立の立役者だった市川雄一氏(後の党書記長)が、若き日からの悲願達成の喜びを口にされたことを、そばで聴いた私は忘れることができません。

 それから宿敵自民党との悪戦苦闘(自社さ連立政権による公明党攻撃等)を経て、10年足らずのうちに、自由党を介在させた「自自公連立」から「自公連立」の誕生になるのです。これは、決して数合わせでも野合でもなく、公党間における連立政権の「政策合意」を踏まえたものでした。これはまた、先の〝私的比喩〟に置き換えると、「吉良」を倒し「仇討ち」を成し遂げた〝赤穂47浪士〟の気分だったわけです。つまり、その時点から個人的な思いや現実は別にして、公明党を取り巻く「政治的・歴史的局面」の空気が変わったと言えましょう。(2024-6-7  以下続く)

 

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【162】上京し、衆院議員OB、『公明』編集部、大学教授らと語らう/5月末

 先月29日から31日まで、久しぶりに上京しました。ここでは、4つの出会い(四幕)を軸に時系列順に概括的に報告します。まず第一幕は29日の正午から午後2時まで衆議院議長公邸で開かれた前議員会懇親会での語らいからです。50名ほどの前議員が集まってきていましたが、新しくこの会の会長に就かれた伊吹文明元議長に真っ先にお祝いの言葉をおかけしました。この人とは現役時代に衆議院財務金融委員会で欧米への訪問をご一緒にして以来、懇意にしていただきました。先に読売新聞紙上に掲載された回想記をまとめられた『保守の旅路』の出版について感想を述べさせていただくと共に、隣席におられた大島理森元議長にも声をかけさせていただきました。つい先日毎日新聞夕刊紙上での我が公明党の仲間・漆原良夫氏との対談について、「読みましたよ。面白かったですね」と。こうしたご挨拶のあと、元民主党政権の閣僚(T総務相、J 財務相)たちと、政治改革への議論に始まり、政治展望を巡っての核心に迫る議論をしました。さらに公明党の池坊保子さんには、娘さんの池坊専好氏のKUAS(京都先端科学大学)セミナーで私が受講した講演がいかに素晴らしいものであったかを伝えました。他に春の褒賞での公明党からの〝たったひとりの受賞者〟とも種々懇談しました◆第二幕はこの日の夜。我が党の理論誌『公明』の編集部3人と新宿で会食懇談会を3時間ぶっ通しでやりました。かつて私はこの理論誌の副部長をしていたので、人一倍の愛着があります。後輩たちの日頃の労苦をねぎらうと共に様々の意見交換をしました。事前に同誌4-6月号を熟読した上で、私なりの議論を後輩たちにふっかけてみたのです。特に、5月号の『作家高知東生さんと考える「リカバリー文化の定着で再挑戦できる社会に」』との8頁にわたる「弱者をめぐる論考」については、私の形式的な注文に対して、「もっと中身を咀嚼してから指摘してほしい」との手厳しい反論にあいました。激論の末、私の「改めて読み直すよ」という弁明でケリをつけましたが、危うく〝手負いの獅子〟になるところでした。「編集後記」の充実とか、編集企画全体の狙いを読者にわかってもらうための紙面工夫などアイディアを披歴したことについては、大いに手応えを感じたしだいです。楽しくも嬉しい〝番外編集会議〟でした◆第三幕は翌30日の朝。このたびの拙著『ふれあう読書──私の縁した百人一冊』(出雲出版)の上梓にあたり、徹底して裏支えをしてくれた慶應義塾同級の畏友・尾上晴久君との懇談です。彼はこの上巻で私が取り上げた50人をめぐる論評について、入念な吟味、チェックをしてくれました。有難いことでした。しかも出版後に仲のいいクラスメイト10人に一人づつアポを取って会いに行き、拙著を贈呈し、内容紹介までしてくれたのです。それぞれ2-3時間をかけての懇談はさぞ楽しかったと見え、克明に彼らの近況やら対談結果を報告してくれました。しみじみと持つべきは友、と感謝・感激した次第です。この日午後には遅れて上京してきた我が妻とも合流して、豊洲の「千客万来」へ「ゆりかもめ」で足を運び、飛び切り美味しいお鮨をご馳走になりました。出版祝いだと言って。お世話になったのはこちらなのに。涙が出るほど嬉しいひとときでした◆第四幕は、30日夜の新大久保での桐蔭横浜大学の阿部憲仁教授夫妻との会食懇談会です。この人とは、財団法人「日本熊森協会」のご縁で現役時代に知遇を得て以来、長い付き合いになります。その昔、私の衆議院選挙の応援に姫路まで駆けつけて演説会の応援弁士までやって貰いました。今回の拙著にも登場していただいていますが、新たに『凶悪犯 プロファイル──幼少期の家庭環境から読み解く』を出版されたばかり。常日頃、刑務所に行って凶悪犯罪者と面接をして、学問研究の取材に役立てたり、彼らの更生へのサポートをされています。この日は私ども夫婦と4人で昔話をしたりする中で、「人格形成は3歳までの家庭環境にある」との持論をお聞きしました。妻共々、大いに共感しました。以上2日間4幕5場の語らいで、今年中盤から後半戦への英気を養って、充足感を得たしだいです。(2024-6-2  修正)

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