《43》プーチンの「核」の挑発の背後に浮かぶ地獄の選択(上)/5-13

 ロシアのさる9日の「対独戦勝記念日」におけるプーチンの演説が注目されていた。「唯一の正しい決断だった」と述べ、全体的な印象としては、対ウクライナ戦争の戦果を誇るわけでもなく、犠牲者への追悼など、むしろ弁明に聞こえる内容だったように思われる。ただ、東部から南部にかけて侵略の結果として、略奪した地域の既成事実化を狙う一方、戦争決着を急ぐなかでの核兵器使用が一層懸念されていることに変わりはない。そんな状況下に、私はつい先ほど、『核兵器について、本音で話そう』を読んだ。ここでは、「核廃絶」の理想追求に立つ、共同通信社の太田昌克編集委員に対して、「核抑止」に立脚する兼原信克元国家安全保障局次長、高見澤将林元軍縮会議日本政府代表部大使、番匠幸一郎元陸上自衛隊西部方面総監の1対3というリアル派優勢の議論だった。ここから、改めて『核兵器』の現在と揺らぐ国際秩序の行く末を考えてみたい★ここでの議論の最大の読みどころは、兼原が戦術核の話について、「『お互いに怖いから撃たない』へ持っていくための議論だと思います。軍事力一般にそうですが、戦いを始めないために万全の準備をするということです。構えていないから戦争が始まってしまう」と述べたところである。それに対して、太田が「その論理は分かるのですが、そういう局面に持っていかないような他の努力、外交戦略があってしかるべきではないか。なぜそこまで究極のシナリオを考えてそこまで突き進んでしまうのでしょうか」と言い返す。ーこの対論は、戦争をめぐる従来の二つの立場がくっきりと現れている。ここで、太田はもう一歩進めて、「構えていても戦争は起こりますよ」というべきだった。言わなかったから、兼原に「それは逆だと思います。最悪の究極シナリオを考えて、その地獄が見えるから、小競り合いの段階からやめようというのが、核抑止の議論です。柔軟反応戦略も、小競り合いがエスカレーションの階段を上ることになり、最後に核の応酬につながるから、最初から喧嘩はやめようという考え方です」と突っ込まれてしまう。で、太田は「そこはそうかもしれませんが‥‥」と、あっさり兜を脱ぐ★今ウクライナの情勢は、紛れもなく「小競り合い」であり、「エスカレーションの階段を上りつつある。兼原のここでの言い振りは見事に破綻している。私は、この場面は、一番若い太田が、多勢に無勢の状況下で、不本意ながら屈したと見る。ことここに至るまでの「外交戦略の欠如」として、西側の「ロシア追い込み」の失敗もあり、ことここに至っては、後の祭り以外の何ものでもないのだが‥‥。戦後77年の日本から見た、究極のテーマとしての「核」の国際政治の現実は、力には力で強者が弱者を抑え込むか、話し合いの外交展開で平和構築に向かうか、に帰着すると言えよう★今、国連常任理事国の一角を占めてきたロシアによって、これまで国際社会が営々として築いてきたと錯覚してきた国際秩序が、積み木崩しのように壊された。そして、もう一つの常任理事国の中国が虎視眈々と主導権取りを窺っていると見える。民主主義国家群対専制主義国家グループの地獄の選択が現実化しようとしているのだ。かつて20世紀始めにイギリスを始めとする欧米日に陵辱され辱めを受けた中国の復権と、20世紀後半に自ら帝国の崩壊を余儀なくされたあと、NATO 諸国に追い上げられ昔日の面影なく、風前の灯火であるロシアの復活の「復讐のタッグマッチ」といえようか。さて、ここからどうするか。(敬称略 2022-5-13一部修正 以下続く)

 

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《42》北前船フォーラムー沈滞する日本を撃ち破る壮大なプロジェクト/5-7

 GWに入ったばかりの5月1日に、古い友人である浅見茂氏(「北前船交流拡大機構」専務理事)が仙台から伸子夫人同伴で西明石にやってきてくれました。夕刻から4時間に及ぶ懇談。皮切りは『北前船寄港地フォーラム』(以下『北前船』と略)です。彼がおもむろに取り出したのは、秋田魁新報の4-9付け企画特集号。『北前船寄港地フォーラムin秋田』(3-19付け)の記事が大きく踊っていました。『北前船』とは、北海道・函館を起点に、日本海沿岸沿いに南下し往時のルート上の各地でイベントを重ね、地域おこしに役立てようと企画されたプロジェクトです。彼がこの団体の裏舞台から運営の一切を取り仕切っていることは知っていましたが、落ち着いて聴くのは初めて。改めて『北前船』が日本の沈滞を撃ち破る可能性を秘めていることを確信するに至りました★実はこの『北前船』を着想したのは、作家の石川好さん(元秋田公立美術工芸短期大学学長)。浅見さんとの東北・秋田の地での縁が今日の発展を紡ぎます。実は石川さんと私との関係は、私が公明新聞記者時代に彼に原稿依頼した昭和40年代後半に遡ります。懐かしいご縁の数々が蘇ってきます。そんな私ですが、2007年にスタートした『北前船』と旧知の2人の関係を知ったのはずっと後のこと。その存在を強く意識したのは、私が議員を引退(2013年)してから暫くして取り組んだ一般社団法人『瀬戸内海島めぐり協会』の専務理事になってからのことです。当時は身の程知らずにもライバル視していました★2015年ごろだったでしょうか。この協会の運営に悪戦苦闘するなかで、国交省に大臣を訪ねました。その際にショックを受けます。瀬戸内海の発展を期す上での我が協会の目論見について自信を持って伝えましたが、担当のM課長は暖簾に腕押し。『北前船』のような地域との連携を積み重ねることが先決ですと、にべもなく。屈辱でした。当方はトップに日本を代表する知識人や副代表に世界的な冒険家を擁していましたから。尤も仕組みがボロボロ。『北前船』は、会長に国交省の元事務次官を据え、鉄道や航空会社など交通機関の幹部をずらり揃えた布陣。それこそ近代兵器に竹やりで対抗するようなもの。完敗を自覚するのに時間はかかりませんでした★5年前の2017年に淡路島の洲本市で第19回の『北前船』が開催された時には、対抗心も失せていた私も駆けつけました。この時に、『北前船交流拡大機構』なる組織の重厚な仕組みとその展開のリアルさを目の当たりにしました。かつて大学で机を並べた航空会社のK元幹部が重鎮の評議員として参加していたり、また浅見氏を支える懐かしい仲間がずらり参与としてくつわを並べて。いずれも寄港地周辺地域を熟知した組織運営の手練ればかり。たまげました。この秋にはフランス・パリのルーブル美術館で、第31回目のフォーラムを開催するとのこと。「料理と芸術の都パリ」で、昆布を主軸にした日本の和食のデモンストレーションをしようというのです。この辺りをたっぷりと聞くうちに時間が経つのも忘れました。コロナ禍やウクライナの暗雲の成り行きは気がかりですが、『77年の興亡』の一大転機に相応しいイベントになることに胸膨らみます。旧友健在を心底感じた一夜でした。(2022-5-7)

 

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《41》GW前一週間の動きを「点描」するー2022参院選❷/5-1

 ゴールデンウイークまで一週間を切った26日の朝刊を見て胸詰まる思いがしました。コロナ禍、ウクライナ戦争の記事に代わって、知床岬の遊覧船の浸水転覆による犠牲者発見の1面報道もそうですが、24面にひっそりと出ていた一段記事に眼が留まったのです。「元政策秘書に懲役2年求刑」の見出し。違法融資仲介初公判で公明党のS元政策秘書らが起訴内容を認めたとの報道でした。この秘書は、W元代議士の秘書を長年務め私も現役時代からよく知っている、〝やり手〟でした。T元代議士とは別ルートで「感染」したかのように、違法な行為に着手しています。「魔がさした」だけではすまず、まったく残念です。こんなことにへこまず、前進あるのみを誓うだけ。以下、25日からの私の対話活動の一端を報告します。

●自民党県議らや異色の小説家らと懇談

 25日は、夕刻から神戸のK事務所で自民党兵庫の県議3人と懇談しました。新知事が誕生して8ヶ月。兵庫県議会自民党の分裂後の経緯を推し量ることがこちらの狙いのひとつでした。冒頭、斎藤知事の発信力があまり窺えないことに私は懸念を提起しました。先方は一年間は試運転的期間であるゆえと、こちらの指摘を認めた上で、新年度予算の方向性で自ずとその力量は分かるはずと応答。この夏以降の活躍に期待を求められました。その成否に私は疑問を抱かざるをえず、少し応酬。気になる自民一本化の可能性は予測不可能で、今後の県政に課題を残し、終えました。ただ相互理解には役立ったと、確信します。

 26日の夕刻は、雨の中姫路に足を運び、2人の文学愛好家と懇談しました。1人は川端康成研究で著名な大学教授兼文芸評論家。もう1人は電器商を営みながら、日本の古典文学解説からポストモダン小説にまで手を伸ばす気鋭の小説家。このおふたりは師弟関係にあり、私は両者の大ファンです。この日はそれぞれが出版したことを一緒に祝うのが目的。勿論、コロナ禍、ウクライナ戦争など昨今の厳しい内外の情勢や参院選などにも話題は波及し、「政治と文学」という古くて新しいテーマを巡る意義深いひとときになりました。

●北野坂のインフォラータ、熊森協会25回全国大会に参加

 29日朝も雨の中姫路へ。東京からやってきた古い友人H氏と駅で合流。姫路城前から城西地域を経て、田寺の飲食店Hを訪問しました。ここは彼が深い繋がりを持った旧友が通った店とのこと。互いの旧交を温めつつ〝夏の戦い〟を語り合いました。その後、神戸・北野坂でのインフォラータに。恒例のKサロン風事務所での異業種交流会に参加。ここは催し会場をテラスから真下に眺められる絶好のシチュエーション。尤も、生憎の雨と冷風のため室内で交歓。夕刻から事業家、小説家、医師、政治家、農業者、新聞記者、元オペラ歌手、銀行員ら多彩な面々が次々と集っての和気藹々のときを過ごしたしだいです。話題は文字通り、世事万般。そんな中、東京から参加したH氏のトークが光っていました。

 30日は午後から尼崎駅前のホテルで開かれた「第25回くまもり全国大会」に参加しました。私は、1部の最後の挨拶を担当。明年の総会に向け❶大幅会員増を目指す❷再生エネルギー増の名の下に進む森林乱開発を阻止する❸公益法人化の実現に向けて力を注ぐーなどを強調しました。併せて、明治維新から先の大戦までの77年が日本「近代化」の時代とするなら、そこから今年までの77年は「民主化」の時代であり、更にこれからの新たな77年は、「共存化」の時代にせねば、との歴史認識を大胆に展開しました。時代は自ずと人間と大型野生動物やウイルスとの共存、各国・異民族・異人種間の共存が求められてくると述べ、実績を持つ団体「くまもり」が果たす役割が極めて大きいことを力説しました。

 夜は三宮で翻訳家でK大学准教授のAさんと、一対一の対話。彼女がこのほど出したマーケティングの本(11人による編著)の出版祝いを。そこで、勿論「伊藤たかえ」の訴えをも。(2022-5-1)

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《40》〝夏の嵐〟を迎え撃つ動き「点描」ー2022参院選❶/4-24

 「コロナ禍とウクライナ戦争」。日本近現代史「77年の興亡」の第二期が終わる2022年。私たちは〝疫病と戦争〟という〝人類の二重苦〟に今直面しています。その只中で行われる参院選があと77日(7-10投票と想定)ほどに迫ってきました。風雲急を告げる動きを追いつつ、私の個人的活動の一端をご紹介します。まずは選挙情勢から。

 全国の7選挙区選挙(東京、埼玉、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡)に、公明党は候補を立てて挑みます。この中で、兵庫・伊藤孝江候補が群を抜いて厳しいと見られています。なぜ、兵庫が厳しいか?一言で言えば、1議席を公明、立憲、共産の3人の女性候補が争う構図だからです。自民(文科相)、維新(元NHK記者)の両党候補が過去2回の選挙結果から断然強く、選挙前から実質的に「当選」は確実です。一方、立憲は、民主党時代とはいえ、12年間5回連続で当選(1998-2010)。共産も一度補選で自民を破って議席を獲得(1998年)したことがあります。定数2の時代(1995-2013年)に不戦敗だった公明に対して、この両党が強い地盤に力を持っていることは忘れられません。以下、GW前の動きをかいつまんで。

●皮切りは福岡行きから

 15日はお昼過ぎに福岡・博多に行きました。前回このコラムで報告したように、一般財団法人「日本熊森協会」の馬毛島問題の要望に顧問として同行したのです。終了後は、一行4人(全員兵庫県在住者)と駅前のホテル喫茶コーナーで懇談。更に天神に飛び、市内に住む高校同期のO(大学理事長)氏と、先輩のA(大学名誉教授)氏と、ミニ同窓会をNホテルのラウンジで3人で。私の『77年の興亡』と先輩の『発想考楽』を「本々交換」し、話に花を咲かせました。福岡選挙区の秋野公造候補は、姫路白陵高卒、長崎大医学部から厚生労働省の医官経験者です。2人に直接紹介することを約束しました。

 夜には、博多駅近くに戻り、その昔交流があった防衛官僚(女性)と食事を。この人は東京外大仏語科出身。自衛隊制服組の英語教官をしていたチャーミングな「語学の達人」です。今は、隊員募集に知恵を絞っているとのこと。仕事や趣味の数々をこなす合間に九州各地を旅している様子が窺えました。このエリアには九州大元教授や歯科医ら高校同期が6人も。初夏には再度訪問を密かに期し、最終新幹線に乗ったしだい。

●遠来の友次々と来る

 19日午後は、北海道・札幌から畏友H氏が姫路に。参議院選のたびに応援に来てくれる強者です。まず函館の酒店の取引先・H商店へと。ここは兵庫県でも有数の酒醸造会社。五代目の新社長直々の「酒講義」を受けた後、製造工場に赴き、実地見学。細かくお酒の出来る過程を学びました。一転、その後はM道路営業所と工場へ。ここでは従業員を前に超ミニ講演会を。政治の「安定」には、「改革」を目指す公明党が必要と、訴えました。

 21日は、新神戸駅そばのKホテル内の貸事務所の一室を借りて、11時から顧問先のHACCPのライン会議。食品衛生をめぐる月一回の打ち合わせを行ったあと、関東からやってきた元参議院議員のK氏と実に久方ぶりの懇談。参院選伊藤支援のため北区に行く途中に立ち寄ってくれたもの。「伊藤」「公明」をどう訴えるかで、OBの視点を交わしました。帰り際に貸事務所の女性オーナーと事務員と懇談したところ、事務員さんは関大卒、西宮在住。「伊藤候補と同窓」を既に十分意識してくれていました。有難いことです。

 23日午後は三宮国際会館前のビル地下へ。京都からやってきたIさん親子と。ご子息がこのたび、兵庫県下の灘高から京大医学部に見事合格。そのお祝いの昼食会を。Iさんとは、肝炎訴訟弁護団グループのメンバーの一員との繋がりから懇意になりました。選挙権を得たばかりの19歳の若者を交えての70台、50台と世代を越えた対話。お互い明日への刺激になったと確信しています。(2022-4-24)

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《39》馬毛島の野生動物を守ろうー「熊森協会」と九州防衛局へ/4-18

 鹿児島県の種子島や屋久島に隣接して浮かぶ馬毛島。長い歴史と経緯を持つものの、いまは無人島。そこを政府は、海空自衛隊の訓練基地及び米海軍の空母艦載機着陸訓練(FCLP)などに使用するべく、取り組みを進めてきています。国の防衛のためとはいえ基地施設移転には地元自治体も反対の声をあげ、マゲシカなど絶滅が危惧される野生動物保護の観点から環境保護団体も厳しい眼差しを向けてきています。そんな状況の中で、一般財団法人「日本熊森協会」の室谷悠子会長、森山まり子名誉会長らと共に、同会顧問を務める私は、去る15日の午後13時半に、九州防衛局に伊藤哲也局長を訪ね懇談、要望をしてきました◆要望の中身は、①かけがえのない馬毛島の自然を残すことは、生物多様性条約を批准している日本としての国際的な信用、評価に関わる。マゲシマをアンブレラ種とする馬毛島の生物相、生態系を必ず守って欲しい②1987年いらい馬毛島の生態研究を続けてこられた立澤史郎北海道大助教授らに、早急に入島許可を与えて調査研究を再開してもらい、防衛局の今後の基地づくりに助言して貰ってほしいーというものです。要望懇談では、マゲシカの絶滅を防ぐには、島の半分の面積が必要とされること、とくに、中央部の森林環境と水を飲める場の保全確保が大事だと訴えました。更に、工事に当たって、外来種が島に入らないように細心の注意をすべきことも強調しました◆馬毛島の自然は、他のシカの生存する地域に見られるような天敵もいず、大雪も降らないため、マゲシカの生態系がどのように保持されてきたかを研究できる重要なフィールドです。ところが2000年以降、入島が禁止されたため、研究者による生態研究は途絶えてしまっているのです。これまで中心的に研究を進めてきた立澤氏にその場で連絡をし、電話で直接伊藤局長に本人からも要請をして貰いました。伊藤局長は、現在のところ環境影響評価を実施しているところで結論が出るまで今しばらく時間がかかるとした上で、調査のための同島上陸については、本省に相談し、前向きに結論を得たいと答えました。同局長の終始一貫した誠実な対応に、我々は感謝の意を表明しつつ、強く実現を要望したしだいです◆同島の地形を写真資料などで概観すると、あたかも航空母艦の甲板のような平面部分が多いように見えます。基地として使われるべく整地されていくならば、同島のマゲシカの生存は極めて困難になっていくことは否めません。「基地をとるか、マゲシカをとるか」といった二者択一になると、どうしても不毛の論争になり、「自然破壊、軍事優先」になりがちです。ウクライナ戦争が連日報道される中で、我々の眼も心も大きく揺さぶられています。今こそ、生きとし生けるものへの慈しみを持つことが大事です。人間だけではない、全ての生物生命尊重の観点に立ち、安全保障と自然保護の両立を図る知恵を絞らねばならないでしょう。今後も事態の推移をしっかり見守り、成り行き任せにならないことを決意して、防衛局を後にしました。(2022-4-18)

 

 

 

 

 

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《38》政治的価値観と外交的価値観の違いー宮家邦彦氏の問題提起について(下)/4-10

 私の「アメリカに身を寄せて、中国と張り合う選択が日本の自滅に繋がるように思える」との記述について、前回宮家邦彦氏の否定的見解を紹介した。宮家氏は、その論考のうち、私の著書にまつわる記述の前段で、「中道」をS極とN極という磁場における小さな鉄球に見立てた。その上で、確たる磁力を持たないと、その鉄球はどちらかに引っ張られるから、第三の磁力を持たぬ限り、「中道」の貫徹はおぼつかないとしていた。さらに、「中道」を「中立」に置き換えると、国際政治の流れにも通じるとの興味深い指摘をしていた。つまり、軍事力という磁力を持たない勢力は、所詮自力では立ち行かないということを述べていたのだ。従って、結論部分で、私の「アメリカから離れる選択」に疑問を呈したに違いない◆「中道」政治の困難さは、もとより承知である。国内政治にあっては、磁力に当たるのは、国際政治の軍事力に匹敵するものとしての議席数であろう。かつての自社体制のもとに、遅れて登場した公明党は、第三の勢力構築を試み、自民党に対して、「外からの改革」を「内からの変革」に切り替えて、中道政治を展開してきた。一定の議席力を背景に、時に大きい勢力に身を寄せたり、また、野党から与党へと立場を変えながら。こうした動きの根底には、大衆救済への熱情があった。一方、国際政治においては、国家間力学の基本は軍事力であることは認めるものの、「人間の安全保障」への視点を常に忘れぬ外交力の駆使を求めることが、中道政治の真骨頂だとしてきた◆「ウクライナ戦争」以前の国際政治にあって、中国をいたずらに敵視して、アメリカを中心とする対中包囲網を築く勢力に身を置き続けることは、世界の破滅をもたらす行為だと位置付けた。中道主義の政治は、外交においては中立を志向する、との観点からの選択である。例えていえば、ロシアをして、ウクライナ戦争にかき立てたのは、NATOの東方拡大戦略だったことは、あのゴルバチョフ元大統領でさえ認めている。西側には軍事拡張一辺倒でなく、穏健かつ良識的な近隣外交の継続が求められたのである。つまり、ロシアを中国に置き換え、NATOをQuadに置き換えれば、似て非なるものとはいえ、同じような風景が東アジアにも起こらないという保障はない。それゆえの私の冒頭の見立てでもあった◆しかし、舞台は変わった。「ウクライナ戦争」を経験した世界は、専制主義国家と民主主義国家に明確に二分されようとしている。これまでは、ロシア、中国の民主化に一縷の希望を持っていたが、プーチンのロシアと習近平の中国の緊密化で、限りなくその期待は水泡に帰そうとしているのだ。民主主義に基盤を置く可能性があった時に、わざわざその相手を包囲し敵視する政策は取らないのが中道主義の政治である。しかし、専制主義対民主主義の対立構図では、「中立」はありえない。民主主義陣営に与するのは当然なのである。という意味では、「中道」を「中立」に置き換えて考える宮家氏の論法は、適切でないといえよう。政治姿勢の全体に関わる概念と、外交における手法とでは、自ずと次元を異にするからである。(2022-4-10 この項終わり)

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《37》アメリカか中国かの選択ー宮家邦彦氏の問題提起について(上)/4-5

 さる4-2の毎日新聞の有料サイト版「政治プレミア」での〈宮家邦彦の公開情報深読み〉で、外交評論家の同氏(キヤノングローバル戦略研究所研究主幹)が、私の『77年の興亡ー価値観の対立を追って』を取り上げていた。ウクライナへのロシアの侵略についての英国『エコノミスト』誌の「分析ユニット」と抱き合わせて論じてくれていたのだ。先に私が読書録ブログ「忙中本あり」において彼の『米中戦争』を論評したことへのお返しだと思われる。これまで20年余にわたって、読書録を書いてきたが、友人との間で、お互いの著書をそれぞれ論評するのは初の経験である。ここでは、宮家氏が投げかけていた問題提起について、考えてみたい◆宮家氏は結論部分で、「ウクライナ」後の世界を予測したうえで、「国際・国内政治での二極化が進む中、『中道』『中立』を貫徹することの難しさを暗示している」と述べている。その上で、私が著書において「従来通り、身をアメリカに寄せて、中国と張り合う道を選択することは、結局日本の自滅でしかないように、私には思えてならない」と書いたことについて、「果たしてそうなのか。正直、分からないことが多い」と結んでいる。日頃の彼のテレビの討論番組での言い回し、論考での強気発言からすると、ソフト口調に戸惑うが、恐らくは「老師」への遠慮ゆえかと思われる◆注意を要するのは、引用箇所は「ウクライナ情勢」勃発前の私の見立てであることだ。当時の私の国際情勢認識は、躍進する新興国家中国を、G7と称される資本主義国家群が包囲し、追い込むような事態が続くことは好ましくないとの判断が基底にあった。その訳は、日本が77年前に戦争に敗れ、7年間の占領を経て独立(沖縄は更に20年後)したとはいえ、不完全で歪な内実を持っていることへの抵抗感があるからだ。つまり、擬似被占領国家であるよりも、小さくとも独自の動きが出来る存在でありたいとの「願望」である。そこには、明治維新直後の日本が持っていた国家像への憧れめいたものがある◆ここでいう「小さくとも独自の動き」が、従来的な「対米従属」ではないことは言うまでもない。この選択が今直ちに出来るとは、私としても勿論思わない。せめて日本の敗戦から100年後(2045)辺りには、そうあって欲しいと思い続けてきた。いわゆる「1955年体制」は、国際政治の米ソ対決の構図が国内政治において、自社対決という〝代理戦争〟を意味した。上部構造的枠組みが崩壊した今となっても、一方の側に与し続けるのはおかしいとの判断である。いつまでも米国に付き従うだけでは、「独立日本」の名が廃るとの思いだ。つまり、政治思想における「中道」の外交選択は、基本的には「中立」志向におちつかざるをえないということになる。しかし、それには条件がある。(2022-4-6 一部修正 つづく)

 

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《36》『77年の興亡』の反響から「中道主義」を再考する/3-29

●新聞、雑誌の5メデイアで取り上げられる

 私が昨年末に『77年の興亡ー価値観の対立を追って』(出雲出版)を上梓してから3ヶ月あまり。1-14に「産経」のサイト「ニュースマガジン」で取り上げられていらい、2-3の「読売」、2-23の「日経」(ポリテイカルナンバー)、3-13「道新」の大型コラム「時代は変わる」へと続きました。その間、週刊エコノミスト3月1日号(2-21発売)のコラム『東奔政走』では見開き2頁にわたって大きく論じられもしました。

 同著は、明治維新を起点に、先の大戦における敗戦を挟み、今日までの77年という二つのサイクルを、価値観の対立を基軸に振り返ったものです。特に後半のサイクルにおける中道主義・公明党の政治選択を具体的に追うことに主眼をおいています。『東奔政走』で平田崇浩氏(毎日新聞世論調査室長兼論説委員)は、私の「自民党の公明党化を狙っていながら、気がついたら公明党の自民党化が進んでいたと言われてはいないか」「改革よりも安定を叫ぶ選挙は明らかに目的を取り違えている」との発言を引用しつつ、「13年に政界を退いた後も発信を続け、第2サイクルの終わる節目に、中道主義の原点に戻れと公明党を叱咤する著作の出版に踏み切った」と紹介してくれました。過不足ない最小必要限の発言の引用であり、私の出版の背景も見事に切り取った展開ぶりは、さすがに現役バリバリの論説記者らしく鮮やかなお手並みでした。

●中道主義価値観への疑問を提示したコラムへの「反論」

 その上で、彼は「赤松さんには申し訳ないが、公明党の中道主義が価値観対立のフェーズを変えるとは思えないし、政治の安定を叫ぶ公明党にその気概は感じられない」と、バッサリ切っています。この見方は残念ながら概ね「世の常識」でしょう。ただ、一方で保守主義、革新主義、リベラルの現状が日本の大衆救済の価値観たり得ていないということもまた、「世の流れ」だと思われます。つまり、現状はどっちもどっち、〝いずれも同じ秋の夕暮れ〟ということではないでしょうか。

 だから、今の政治に、政党に、政治家に期待はできないと、いわゆる無党派層に投げやり的共感を抱くのは時期尚早だと思われます。中道主義の政治選択は私が自著で紹介したように、この20年それなりの結果を出してきました。福祉政策における子育て・初等中等教育への経済的支援は目を見張るものがあり、高齢者対策の遅滞を補って余りあるといえます。また、外交・防衛分野では「匍匐前進」ではあるものの、残酷な国際政治のリアルに対応してきました。自民党の暴走を止める一定のブレーキ役をも果たしてきたといえると思います。この辺りについては、2-16毎日新聞サイト『政治プレミア』や、3-20の朝日新聞サイト『論座』で私が述べた通りです。特に『論座』では詳しく触れました。

 作家の佐藤優氏が、公明党は宗教政党としての側面をもっと顕在化させるべきだとのアドバイスを以前にどこかで書いていました。この角度からの指摘に、公明党は真正面から答えずに、保守自民党と一緒に政権与党を組み続けることは、いささか分かりづらいと私には思われます。自公政権20年でうまくやってきたのだから、余計な波風を立てずともいいとの判断があるのかどうか。そのことが結果として「政権の安定」をもたらしてはきていたとしても、国家運営のジリ貧状態を招いているのかもしれないことが懸念されます。

●「理想主義の色濃い現実主義」こそ中道の本質

 この国をどういう方向に持っていくのか、との自公両党間の議論を真正面から行うーこのことによって中道主義の効用が自ずと鮮明になるはずと言うのが私の見立てです。中道主義、特に日蓮仏法に淵源を持つ中道主義は誤解を恐れずに言うと、理念的には、リベラルで、政治行動の上では保守に傾きがちです。これは言い換えると、理念は理想主義的で行動は現実主義的ということかもしれません。敢えて言えば、従来の価値観とは次元が違って、旧来の価値観をケースバイケースで使い分け、それぞれを生かす異次元のものだともいえます。例えば、異なった個性を持つ子どもたちの特徴を伸ばし育てる親の知恵のようなものだといえましょうか。

 具体的な政治行動は、時々の課題にイエスかノーで迫られるわけですから、二つの中間と言うものはなく、どちらかの色合いを強く持ったものに帰着していくのです。私はそれを「理想主義の色濃い現実対応」だと表現したいと思います。足して2で割る中間主義ではなく、〝自然と共生する人間観〟に基づく人間主義が私たちのいう中道主義であり、その視点を持った政治の展開こそ今最も求まれれているものだと思います。

 今の世界を見渡したときに、これからの時代を開くに違いないと期待し得る価値観だと私は思います。であるがゆえに、後輩たちに自信を持ち、誇りを持って、中道主義に立ち帰れと叫びました。この点、平田氏のいう「気概が感じられない」かどうか。これからしっかりと見定めていく所存です。

 ロシア・プーチンの対ウクライナ侵略で、「目には目を」のごとく、戦争拡大に一方的に走るのではなく、また「無理が通れば道理が引っ込む」のように、座して傍観するのでもない対応こそ、中道主義の出番だと、私は確信します。自公両党が展望を持った真剣な議論をしたうえで、国際社会に積極果敢な平和に向けての提案をして、ロシアの悪虐非道を押さえ込む外交を展開すべきです。第三次世界大戦に突入する一触即発の環境は残念なことに醸成され続けています。早急な対応、行動が今ほど求められている時はないのです。(2022-3-29)

 

 

 

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《35》自公「相互推薦」をどう考えるかー誤解を防ぐために/3-20

 急転直下で元通りーさる3月10日に首相官邸で開かれた自公党首会談で、山口那津男代表は岸田文雄首相と、両党の結束を更に強化する方針で一致した。これを受けた翌日の幹事長、選挙対策委員長会談で、今夏の参議院選に向けた両党の協力を強化していくことで合意した。具体的には、公明党の5選挙区(埼玉、神奈川、愛知、兵庫、福岡)の予定候補に対して、自民党が推薦するべく、党として正式に決定したいと、茂木幹事長が強調。さらに、公明党が予定候補を擁立していない38選挙区では、両党の地方組織間で、協議をスタートし、合意できた選挙区から順次、自民党の予定候補に公明党が推薦を出すことで合意したというのである。これらを踏まえて13日の自民党大会に出席した山口那津男代表は、コロナ禍やウクライナ情勢といった未曾有の困難に対して自公両党が結束して対応することの必要性を強調。岸田首相も、公明党と共に、参院選に勝利し政治の安定を担うことの大事さを訴えることで、応じた◆この一連の報道に接触するまでは、自公間で不協和音が取り沙汰されてきた。自民党の側からの推薦の対応の遅れに対して、公明党側が業を煮やして、今回は相互推薦はないとの見方が急速に浮上してきていた。私は幾つかの新聞や雑誌での記者からの質問に応えて、党が違うのだから、相互推薦などない方がむしろ自然で、真っ向勝負で勝ちたいと、兵庫選挙区の勝利に向けての決意を語ってきていたものだ。しかし、ここにきて一転、これまで通りのスタイル、構図になるという。これに対して、「やっぱりそういうことか」「当初から疑わしく思っていた」「駆け引きの行き着いた末のことか」などといった憶測を挟むことは避けたい。自公両党にとって双方が選挙に勝つことが大事であり、野党をいたずらに利することはするべきではない。その上で、「相互推薦」の意味するところがなにかを改めて明らかにしてみたい。一般的にみて誤解があるように思われるからだ◆「相互推薦」というと、各選挙区ごとに自公両党が相互に推薦、応援し合うかに思われるが実はそうではない。兵庫県を例に挙げると、ここでの相互推薦とは、まず選挙区選挙で自民党が公明党の伊藤たかえ候補を推薦して、応援をしてくれることを意味する。公明党は自民党の末松信介候補を推薦はしても、応援することはない。公明党の自民党への応援は公明党が候補を出していない38選挙区での自民党候補支援に尽きる。過去2回の選挙で兵庫県自民党の陣営が不満を漏らし、公明党に脅威を感じたのは、この一点であった。つまり、よその県で公明党からいくら応援を貰っても、兵庫県では自民党票が公明党に流れるだけでは不公平だというものである。しかし、兵庫県公明党からすれば、自民党票を具体的に分け与えてくれなければ、単独ではとても野党候補には勝てないという目算であった◆そんなことから、これまでは〝暗闇の中の手探り〟のように、自公両党の保守中道層の票田を奪い合い、競ってきた。しかし、それでは、本当に応援してくれているのかどうか分からず、お互いの疑心暗鬼が募る一方だ。衆議院選挙の場合は、兵庫県下で公明党の小選挙区は2議席。その小選挙区内の自民党票を貰う代わりに、残り10の小選挙区で自民党候補を公明党が応援し、かつ比例区票も貰うという建前である。参議院の場合は兵庫一県が選挙区のために、バーターがうまくいかず、相互推薦は言葉としては存在しても、実質的な中身は「片務支援」で、兵庫県自民党の票の「一部分配」を意味する。このため、県下の団体をどう自公間で分配するか。自民党の末松後援会のどの部分を公明党に分け与えてくれるかーこういった協議が重要になってくる。それをしなければ、ただ単に、自公2人の候補をお互い推薦します、といっても絵に描いた餅の奪い合いに終わるだけなのである。こうした厳密な協議が果たして出来るかどうか。できなければ、相互推薦は名ばかりで〝ガチンコ勝負〟ならぬ、〝泥仕合勝負〟になってしまいかねない。(2022-3-19)

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《34》ロシアの「原発」攻撃と「日常的思考習慣」からの脱却/3-14

 ロシアがウクライナの原子力発電所を攻撃したーこの事実を前に今に生きる人間としてどう考え、どう対処すればいいか。その悪虐非道ぶりをなじり、喚き立てるだけの我が身無力さを恥入る。呆れてものも言えず、ここまでやるかと思考停止に陥るのも、能がなさ過ぎる。同世代の論客としてかねて注目してきた科学史家の山本義隆氏の警鐘をネットで読んだ。「戦争と原発ーロシアのウクライナ侵攻めぐって」という論考である。ここで同氏は、かつてイラクに攻め込んだ米英と、今回のウクライナに侵攻したロシアとの間に本質的な差異はないことを強調する。にも関わらず、前者に比べて注目のされかたが大きいのは、アジアのイスラム教徒の国と、欧州のキリスト教徒の国という被害国の違いにあることに、穿ち過ぎを恐れつつも、元学生運動家らしく触れていく。その上で、原発を攻撃したロシアの悪虐ぶりを非難しており、私は強く共鳴した◆ウクライナの北部チェルノブイリ原発の事故当時(1986年)は、ソ連邦内国家だった。忘れようにも忘れられない出来事だった。今回、南部にせよザポロジェ原発が砲撃を受けて火災、爆発を起こせば、どうなるかプーチンのロシアわからないとは到底想像し難い。にも関わらず、そこを攻撃する(万が一ピンポイントでなくても)命令をプーチンが下したことは、もはや普通の人間の感覚を失っているとみるほかない。だから、どうするのか。どうしたら、普通の人間でもはやなくなったリーダーの行為を防げるのか。その手だてが見当たらないことに世界中が、苛立っている。これに〝目には目を〟的対応をすれば、第一次大戦や第二次大戦の轍を踏む。それを非ロシア国家群が今は思いとどまっているというのが、現在の状況だと思われる。何もできないはずとプーチンは高を括っていると見るのは、悔しいが当たっていよう◆約5年前に大阪地裁に福井県の関西電力高浜原発3-4号機の運転差し止めを求めて、裁判を起こした人がいる。大阪・高槻市の水戸喜世子さん(86)だが、山本論考では、彼女の「心配していたことが現実になって寒気がする」との嘆きの声を、東京中日新聞3-5付けを引用しながら挙げている。原発の危険性は、侵略する側がことの発端に必ずその制圧を狙ってくることが必至だという点にある。水戸さんは当時からそのことを取り沙汰してきたが、改めてその正しさが証明され、北朝鮮の金総書記が真似をすることが恐ろしいという。14日の参議院予算委でも取り上げられており、かつてのような「具体的な危険があるとは思えない」と、ごまかすことはもはやできなくなった◆チェルノブイリと福島の事故の類似性を思う時に、ザポロジェの事態を見て、日本のどこかの原発が襲われる可能性を想起しない方がどうかしていると言えよう。慌てて警備体制を強化することを笑えない。今そこにある危機を防ぐ努力は当然だ。だが、今回の事態で、日本はもっと根源的な対応を迫られていると見た方がいいのではないか。コロナ禍で、人類は国際社会の相互協力の必要性を学び、経済至上主義から「脱成長」の方向性が仄みえていることを察知した。ウクライナ原発へのロシアの攻撃で、人類は原発の持つ根源的な危うさを再認識し、経済至上主義から「脱原発」の方向性を見るべきかもしれない。つまりは、「日常的思考習慣」からの脱却である。そんなバカなことはできない。とんでもない飛躍だと言われるだろうか。もし、「脱成長」「脱原発」が可能になったら、プーチンの悪虐非道も効用なしとしないのだが。(2022-3-15  一部修正)

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2022年3月14日 · 5:14 PM