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《9》迫られる選挙制度の見直しー衆院選公示で思うこと/10-21

衆議院選挙が公示されて3日。思うことは多い。一つは、選挙期間の短さ。衆議院は12日間。参議院選、県知事選挙の17日間より5日短く、14日間の市長選挙より2日短い。長ければいいというものではないが、その立場の重要性、位置付けの大きさからすると、この逆転現象は異様に思える。かつてあった立ち合い演説も今はない。そうした衆議院選挙の簡素化の主要原因は、「小選挙区比例代表併用制」の導入による、一つの小選挙区の区域の狭さである。以前の一選挙区の半分くらいに減ってしまっているケースが殆どである◆この選挙制度の最大の問題は、選挙戦を通じての候補者個人の政策論争、候補者比較が見えにくいことだ。中央の党首間での議論はあっても、地域における候補者同士の姿が一般有権者には見えにくい。それぞれ個別に街頭や駅頭、公共施設での政談演説会などで一方的に「支持者」を前に話すだけ。これでは、普通の市民には比較のしようがないだろう。公示から投票日まであっという間に終わる。これでは投票率が低いのは当たり前ではないか◆加えて、比例代表についてはもっと問題が多い。重複立候補が許されており、小選挙区で落選した候補者が惜敗率の高い順に復活するというのは、やはり割り切れなさが残る。一方、単独比例候補者は政党の予めの順位付けによって当落順が決まることについても同様である。一般有権者の側に、選ぶ契機が皆無で、全くといっていいほど顔も姿も分からない人が突然選ばれる。政党関係者内部では知られていても、部外者には無縁のままである◆選ばれる側からも、単独比例区候補者というのは物足りないこと夥しい。政党名を書いて貰って、その票数から政党の取り分が決まり、それにしたがって、名簿順から選ばれるというのは、候補者個人が無視されているようでまことに切ない。比例区候補者同士の論争があってもいいように思う。例えば、比例ブロック内で、名簿上位5人が各党ごとに、論争する場面があれば面白い。少なくとも今のような、敗者復活者と全く有権者に無名の存在が知らぬ間に当選する事態よりマシではないか。ともあれ、選挙制度、運用のあり方など見直すべき時にきていると思うのは、私だけではないはずと思われる。(2021-10-21)

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《8》改革迫られる本会議質疑ー岸田首相との代表論戦を聴いて/10-13

岸田首相誕生後の国会での所信表明演説、それに対する各党代表質問が終わりました。衆議院選挙直前というこもあり、テレビ、ラジオでほぼ全部の質疑を聴きました。その結果思ったことを書き連ねてみます。国会の場に身をおいたものとして、改めて強く思うのは、十年一日のごとき本会議での代表質問のやりとりの退屈さです。こんなことをいつまでもやっていないで、新しい質疑方法を考え出すべきではないか、としきりに思います。原稿を書いたものを読む質問、それに対して予め書かれたものを読む答弁ー改善の余地はないのかどうか◆これは予めそれぞれの党が紙で質問して、それに対して、答弁を紙で出すということで済むはず。その上で、足らざるを質疑応答するということにすればいいのではないか。予算委員会のように一問一答方式でなくても、事前のやりとりをした後、議場での質疑によって深めることが出来ると思います。今のようなやり方では議場で聴いてる方も気の毒です。首相ばかりが答弁に立ち、あとの大臣はほぼ全て聴いているだけ。眠りを堪えるのがやっとという姿もあり、見苦しいばかり。議場の議員はもっと悲惨に見えます◆私が20年間の経験で、最も良かったと思えるのは、衆議院憲法調査会での「自由討議」でした。これはまさに自由に議論をする機会で、質問を浴びせたい議員に色々議論をふっかけて、溜飲を下げたものです。全ての委員会とはいかずとも、国会はもっとこういう方式を取り入れるべきでしょう。それにつけても、今回の三日間の議論を聴いて思うのは女性議員の元気さです。質疑内容は、いささか言い過ぎではないかと、その嗜みを疑わせることなきにしもあらずのものでしたが、耳をそばだたせられるものもありました◆岸田首相は、真面目さを感じさせたものの、読み間違いが多かったのは気にかかります。これもひとりで読み上げることからくるものだと思われます。まるで〝早口読み上げ競争〟みたいでした。それぞれの代表者が一番訊きたいものを一、二本に絞って、とことん質疑する方式に変えたらどうかと思います(それ以外は紙で事前にやりとりしておく)。答弁者は首相と担当大臣のペアにするのも一案です。ともあれ、今のやり方を抜本的に見直さないと、政治への関心が一段と薄れるだけ。もっと「見える化」「見せる化」しないといけないのではないでしょうか。まずは、本会議の質疑のあり方そのものから変えるべきだと強く思ったしだいです。(2021-10-15  一部修正)

 

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《7》緊急事態明けに出雲から広島へ様々な出会い/10-7

 コロナ禍の緊急事態が全国一斉に解除され3日が経った10月4日。前日に地域おこしの仕事絡みで訪れた出雲市から中国山脈を縦断して、広島市に入った。実は、9月中旬に訪問する予定だったのが、緊急事態が続くことになり、延期していた。ようやく私が広島に来た日は、この地から「総理大臣岸田文雄」が誕生した日と重なったのである。と同時に、この地から初めて衆議院小選挙区に立つ、斎藤鉄夫氏が国交相に就任した。自公連立政権誕生から20余年、同じ県から自公両党の首相と大臣が揃うのは初めてのことである▲私の世代は、岸田氏の所属する自民党宏池会には好感度を持つ向きが少なくない。同党におけるいわゆる鳩派とも最近ではリベラルとも称されるグループだということが大いに関係する。池田勇人、大平正芳、宮澤喜一という同会に所属した首相たちは、いずれも官僚出身だが、いかにも学者っぽい。よく公家集団と揶揄されるが、それは武闘派と称される人々の僻みが多分に含まれているように思われる。香川の大平氏を除き皆広島が生み出した逸材である▲この日私は、広島3区に住む高校同窓の仲間3人と会うべく久方ぶりに同地を訪れた。うち、高校同期のA君は残念ながら、昨年病気で他界していた。この春に電話で夫人にお悔やみを述べた際に、とても喜んで頂いていた。実際に会って話すと、不思議なことに、生前亡き夫君が親しくしていた友人3人がいずれも私の懇意にしている同期ばかり。しかも彼女がその3人をとても良く知っていたのには本当に驚いた。亡夫が私を呼んでくれたと更に喜んで頂いた。共通の友たちに話題が弾み、お互い本当に縁を感じたしだい。「斎藤支援」が更に固まったのはいうまでもない▲その後安佐南区内2軒を、同区に住む大学同期の親友F君の運転で回った後、安佐北区に住むH先輩を呼び出し3人で旧交を温めた。ここでは「これから日本の進むべき方向」について、50年前に青春を共有した者たち同士のみが知る、熱い語らいを行なった。懐かしくも、有意義だった。夜は、地元某メディアのトップ及びその後輩と4人で会って情報交換をした。その人はかつての公明党番記者。私とは一緒に議員会館脇の卓球場で汗を流した仲。先年彼が福岡から広島に転勤となった際に、大阪の某新聞社の社長になった共通の友人の就任祝いを姫路で3人でしたばかり。会うなり一気に話は弾んだ。「斎藤」は 急浮上の勢いが出たものの、厳しい情勢に変わりがないとの見方で一致した。同地の美味い地酒『雨後の月』を頂き、ほろ酔い気分で新幹線車中の人になったのは8時過ぎ。出雲から広島へ、〝いい日いい旅〟の地域おこしと選挙支援の二日間を終え、私は心底から満足感で一杯。広島から岡山、西明石への車中の人となった。(2021-10-7) Continue reading

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《6》岸田氏に「歴史の区切り」に立つ首相の自覚を問う/10-5

 岸田文雄氏が伊藤博文以来100代目の総理大臣になった。伊藤の就任は1885年(明治18年)だから、136年前のこと。44歳。それ以来四度首相を務めた。彼の評価は分かれるが、紛れもなく、今の日本の礎を作った人物のひとりだということは間違いない。岸田氏も当然ながら「区切り」を意識していると思う。いや、してほしい◆実は、明2022年(令和4年)は、先のアジア太平洋戦争での敗戦の年1945年(昭和20年)から77年になる。そして、その年は明治元年の1868年から77年経っていた。つまり、明治維新から「二つの77年」が日本の歴史上経ったわけだ。その時の国のリーダーが岸田氏ということになる。この77年の区切りは意味深い。一つ目の77年は、天皇のもと「近代日本」へ必死に取り組み、遅れてきた資本主義国家としての「興国」に取り組んだ挙句、欧米諸国と戦ってひとたびは「滅亡」の憂き目にあった◆二つ目の77年は、米国に占領された後、焼け野が原から必死に立ち上がり、米国に並ぶ「経済大国」に上り詰めた。そして今、中国にGDP2位の座を奪われ、IT万能の時代に台湾、韓国の後塵を拝してしまっている。前者が「軍事の興亡」の歴史だったとすると、後者は「経済の興亡」だった。コロナ禍という未曾有の疫病に襲われて2年。世界同時多発のパンデミックとはいえ、日本が受ける「区切り」の衝撃は重い◆岸田氏はそうした歴史の分岐点に立つ。新たな時代は全くこれまでと性格を異にする大きな課題が待ち受ける。一つは、少子高齢化の行き着く果てとしての人口減社会。働き手が急速に減っていく。二つは、「気候変動」による大災害の時代の深刻化である。大地震、河川の氾濫などがいつでもどこにでも襲ってくる。三つは、コロナ禍の定着である。この三つの危機に加えて、中国の動向が危惧される。「自由と民主」を基本におかない隣国の、国境を意識せぬ傍若無人の立居振る舞い。三つの危機と一つの危惧。これにどう立ち向かうのか。自公政権の真価が問われる。(2021-10-5)

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《5》自民党総裁選で〝見えたもの〟と〝見えないもの〟の落差/9-30

自民党総裁選挙が終わった。いつもながらのショーまがいの光景が延々と続く中であれこれ感じた。ひとつは、名乗りを上げた4人の立ち位置の「見えた」部分と「見えない」部分の変化の落差である。岸田氏は、安倍元首相の過去から今に続く「諸疑惑」を問題視するように見えて、変えた。河野氏は、「原発」でこれまでの主張をあっさり下ろして「現実対応」へと、変えた。男性二人に比べて、女性陣は、その主張を変えていないように見えた。しかし、高市氏には見えないところでの支配者の影が見えた▲この与党第一党の舞台を見て、野党第一党の枝野氏は自民党は「変わらないし、変われない」と切り捨てた。一国の首相選びが結局は第一党の内輪だけで決められることの不可解さ。総選挙が間違いなくすぐ後に控えているだけに、自民党に対する〝下駄の高さ〟が気になった。メデイアもそこは意識して野党の動きを並行して追っていた。しかし、これがかえって両者の違いを浮き立たせた。立憲民主党も代表選挙をぶつけるぐらいでないと目立たない。変わらぬ「立憲」を感じただけだったのである▲さて、公明党である。この期間一切といっていいほど、メデイアは報じなかった。辛うじて最終盤で、山口代表が自公両党における「連立政権合意」について発言したことが取り上げられたぐらいだ。これは歯がゆい。総裁選の諸場面でメディアが公明党との関係を候補者に聞くということはなかったように記憶する。始めに連立ありき、ではないはず。どちらの党にも本音と建前はある。それを剥がして「見える化」しようとしないメディアでは面白くない。保守、リベラル、革新の鼎立の狭間で中道の存在感がないのは心残りだ▲それにつけても、この「総裁選び=首相選び」の仕組みは気がかりである。尤も、米国のような一年かけて大騒ぎの大統領選がいいのかどうかは、疑問だが。かの国が結局は南北戦争さながらの、民主・共和の争いで「分断国家」の憂き目にあっているからだ。民主主義のありようがいわゆる先進諸国家で問われている。一方、中国のような「専制国家」がスピード力を持って国家経営に取り組んでいる。これからの日本をどうするのか。与野党の政治家は〝長過ぎる眠り〟から覚めて、仕事をして欲しい。(2021-9-30)

 

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《4》B型肝炎救済に立ち向かうー被害者弁護団との連携に力/9-21

「とっても長く裁判が続いているから、ここらで被害者を適切に救済する手立てを講じてみてはどうか」(趣意)ーこんな粋な判決を下した人は三浦守裁判長。さる4月26日のB型肝炎をめぐる最高裁でのこと。B型肝炎訴訟とは、幼少期の集団予防接種の際に、注射器の使い回しなどが原因と見られるケースでその後に肝炎を発症したりしたことから起こされた裁判のことである。国と被害者弁護団との争いは既に10年を超えて続いている▲三浦裁判長の判決に喜び、一気にここで救済の手が差し伸べられるよう、動きたいとする弁護団から相談があった。実は、私が現役の頃に党肝炎プロジェクトチームの座長としてC型肝炎、B型肝炎と双方の訴訟に関わる機会があり、弁護団のメンバーや被害者らと接触した。前者では、福田康夫首相(当時)の英断もあり、見事な政治的決着を見た。後者でも問題を残しながらも一定の成果はあった。それから10年あまり、B型肝炎について残った大課題が引き続き存在してきた▲それは除斥問題である。B型の場合、解決には発症から20年の間に限り、肝炎訴訟の救済対象とするとの規定がある。つまり、時効である。一旦治ったと見えても再発することも多く、「20年規定」を杓子定規に用いようとすると、泣くに泣けない人が出てくる。そこで、三浦裁判長の示したような手立てが必要となり、〝政治の出番〟となるわけだ。国はーここでは直接担当する厚生労働省だがー一律に除斥の基準を講じることで、損害賠償を低く抑えようとする。これを覆すべく公明党の力を貸して欲しいというわけである▲私のところには、この10年あまり共闘してきた少壮の弁護士がやって来た。被害者の実情を改めて訴えられた。是非、政治の力、公明党の戦いを期待したいとの声に動かされた。山口那津男代表に直ちに連絡をした。同代表によると、三浦裁判長は司法修習生の同期だとのこと。司法と政治と、道は分かれたけれど、彼の被害者救済の温かい心配りに感動したという。言葉の響きに共闘の思いを感じた。「落ち度がないのに、苦しむ人たちを救済する」との司法の原点に立ち返って、動くことを約束してくれた。さあ、夢よもう一度。肝炎対応で、苦しむ被害者のために、私ももうひと働きしようと決意している。(2021-9-22  一部修正)

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《3》20年が経った「9-11」ー中東の今と世界をどう見るか/9-11

2001-9-11ー21世紀が始まった年のあの日の出来事の衝撃は、20年が経った今も忘れ難い。直前までNHK総合テレビで、姫路城改築工事に伴う、心柱をめぐる興味深い番組を家族と共に観ていた。その番組が終わるやいなや流れた臨時ニュースだった。米ニューヨークの中枢に聳え立つ世界貿易センタービルに、乗っ取られた旅客機が直撃している瞬間とは思いもよらず、たちの悪いフェイク番組でも見せられているような気がした。それが嘘でも夢でもないと知って、ただならぬ奇妙な恐怖が走った。〝世界戦争〟の予感がしたのである▲しばらくして、アメリカ人の怒りがいかに大きいか、直接聞く機会があった。つい先年亡くなった大沼保昭さん(東大名誉教授)のご自宅に、一緒に招かれていたジェラルド・カーチスさん(当時、政策研究大学院大客員教授)の話を聞いた時のことだ。草の根分けてでも首謀者を探し出す、イスラム原理主義者を許さないし、戦争をも辞さないなどと、冷静なはずの学者らしからぬ憎しみに満ちた〝報復の言葉〟が次々に口をついて出てきた。あれから20年、米軍のアフガニスタンからの撤退を巡るニュースに接して、結局はすべて元に戻ったとの感が強い▲アフガニスタンでの戦争と比較して語られるのがベトナム戦争である。あの頃、西側陣営が恐れたのは、共産主義の「ドミノ倒し」であった。べトナムで食い止めないと、東南アジア一帯が赤化する、との恐怖であった。確かにベトナム、ラオス、カンボジアが対象となったが、大勢に影響はなくて済んだ。今、アフガニスタンが再びタリバンの支配下に戻り、中東地域では、テロの「ドミノ倒し」が恐れられている。イラクを筆頭に、候補国は枚挙にいとまがない。ベトナム戦争の頃、老いも若きも抱いた怒りや関心。それが今の日本には不思議なほどない▲米軍が去ったアフガニスタンに〝忍び寄る中国の手〟との報道もある。テロとの二重の脅威が、中東と西側諸国の双方を覆う。ことここに至った背景には、「米国の世界観に流れているある種のおごりの問題」(田中浩一郎慶大教授。毎日新聞9-6付け夕刊)にあるとの見方が強い。西欧製「自由と民主主義」の価値観をもとに、勝手な国づくりを押し付ける手法は、既に数多の失敗を重ねてきた。では〝警官なき地の無法〟に目を瞑り、新たな〝ならず者の横暴〟を許すことになっていいのか。ベトナム戦争終結(1975年)から約46年。事の本質は何も変わっていず、自分も皆も何も分かっていないことに気付くだけである。(2021-9-11)

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《2》パラリンピックと自民党総裁選びそして立憲民主党/9-6

東京パラリンピックの中継をテレビで見たり、新聞で読むうちに、一応「健常者」である私は様々なことを感じた。ひとことで「障がい」といってもまことに数多く、多種多様であることへの驚きに始まり、どの競技者もそれらのハンディを全くと言っていいほど気にせず(そう見えた)、堂々と力強く戦っていたことなど、感嘆し、驚嘆し、羨望も勿論覚えた。いわゆる五体満足の身体でなくとも、今ある身体の全部位が頑健でありさえすれば、どんなことにも挑めるものだと分かった思いがした(ただし、こころの病いの場合は除かざるを得ないだろうが)▲75歳になってからというもの、身体のあちこちが不都合をきたしてきた。〝足腰立たない〟状態ではないまでも、四肢に止まらず、どの部位を動かすにつけても痛みを感じる。かつて歳はとりたくないもの、との言葉を吐く先輩諸氏を見聞きするにつけ、同情を禁じ得なかった自分が愛おしい。目がかなり近眼で、耳は片方が聞こえず、歯に部分入れ歯が入っている自分を〝障がい者〟だと規定して、一歩近づいたと満足していたことを思うと、恥ずかしい。パラリンピックを見ていて、どちらが本当の障がい者か分からない様に思われた▲そんな中で、毎日新聞紙上(8-29付け)で、元自民党総裁だった谷垣禎一さんの記事(『迫る「これが障害者」体で知った』)を読んだ。この人は同じ昭和20年生まれ(但し早生まれだから学年的には一つ上)とあって、現役時代にそれなりに親しい思いを持って接してきたが、自転車事故で頸髄を損傷するという不幸に直面された。だが、その辺りについて「(障害を)割り切ったわけではないけれど、割り切るよりしょうがない」と、元気に生きておられる姿には勇気をいただく。彼がもし健在なら、優しくて品格あるクレバーな背筋のスッキリした、いい総理大臣になったかも、と勝手に思った▲それから一週間を経ずして、菅義偉首相が次の自民党総裁選挙に出馬しないと、表明した。これには、実はあまり私は驚かなかった。後出しジャンケンよろしく、ああだった、こうも思ったとは言わないが、その予感がしていた。この一年の推移、とりわけコロナ禍対応の無惨さは、およそ褒められたものではなかったと、言わざるをえない。勿論、「小さな声を聞く党・公明党」に身を寄せ続けた姿勢など評価するのにやぶさかではないものの、全体像評価は辛口になってしまう。退任にいたる数日間は、打つ手が次々裏目に出て、まるで「秋の日のつるべ落とし」のように、その信頼感は失われていった▲さて、総裁選のゆくえはどうなるか。これで、恐らく自民党の惨敗はなくなったと、敢えて楽観的予測をしてしまう。総裁選挙直後には支持率がそれなりに高くなるのは過去の歴史が証明しているからだ。安倍政権の負の遺産を全部抱えたまま菅首相が姿を消すからと言って、決して自民党が変わるわけではないのだが。自民党ひとり総裁選挙で騒ぐ中で、世間の耳目は集中し、多くの人々はさも変わるはずと錯覚する。そこで野党第一党の立憲民主党の振る舞いが気にかかる。この場面、指を加えて見守るのみか、外野席から騒いでいるだけでは、結果は目に見えている。代表選をせよと言わないまでも、それに代わる動きを見せて欲しい。せめて自民党総裁候補と枝野氏ら執行部との対談、対論を申し込んでみてはどうだろうか。(2021-9-6)

 

 

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《1》「テロとの戦い」に負けたのかーアフガニスタンからの米軍撤退/9-2

アフガニスタンからの米軍撤収のニュースに接して思うことは多い。元を正せば、20年前の「9-11」に米国本土が「同時多発テロ」の標的にされ、多くの犠牲者が出たことが発端だ。そのテロの首謀者と見られたビンラディンをアフガニスタンのタリバン政権が匿ったために、米国が同国を攻め、10年後に彼を殺害した。ことの因果関係からすれば、これで区切りとして米軍が撤収してもよかったはずである。しかし、そうならず、今日まで更に10年間も駐留が続き、多くの犠牲を双方が重ねた▲その間の米国側の大義名分は、「テロとの戦い」という〝新しい戦争〟が拡大する事態の温床にさせない、というものであった。更に、戦争が始まった当時は、アフガニスタンを含む中東地域一帯は、世界や米国にとって〝石油の宝庫〟との位置付けであった。安定した石油供給源としての地域の保全のためにもこの地を睨む必要があったのである。ところが、その後、シェールオイル源が米国内に見出され、事態の様相が変容した。そこらで手を引く機会もあったのだが、結局ここまで引き摺ってしまった▲この地を巡る歴史を遡ると、米国の前にはソ連が進出した末に、手を焼き尽くす経緯があった。今また20年の歳月の間に米国が失ったものはあまりにも多い。20世紀後半におけるベトナム戦争の例を挙げずとも、「歴史の教訓」を学ぶ必要性は言い尽くせぬほど大きい。ベトナムは米国を撤退に追い込んだあと、見事なまでの変身を示し、その復興ぶりは世界史に特筆される。それに比べて、アフガニスタンでは、タリバンのみならずイスラム国(IS)の跋扈も見逃せず、とても一筋縄ではいかない。この集団は、今回の米国撤退の直前にカブール空港での凄惨な自爆テロも引き起こした。まさにアフガニスタンは日本中世における「戦国時代」もどきの状況下にあるとさえ見る向きもある▲ソ連から米国へとこの地での巨大国家の不始末の連続から、「帝国の墓場」と呼ばれるそうな。そこへ、中国が急接近しているとの報もある。中国は先をゆく新旧ニ帝国の失敗の轍を、またも踏むことにはよもやなるまい。今回の撤退を、覇権国家米国の衰退の象徴であり、世界の警察官の役割からの後退となるのかどうか。一気にはいかずとも、ゆっくりとその流れが進むことにはなろう。これが米国の同盟国からの駐留軍の撤退に繋がるやも、との見立てを提起する老評論家もいる。日本もその場合の対応に備えることは大切だと思われる。(2021-9-2)

※今回でこの『後の祭り回想記(回走記)』も、400回を超えます。これまでナンバーを振ってきませんでしたが、これからは500回を目指して一回ずつ数えるようにします。

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横浜市長選結果と〝岡目八目風〟解説もどき/8-27

横浜市長選が終わって一週間。兵庫からは遠く離れた地域の市長選。この結果から何が読み取れるか。世に溢れる岡目八目風の解説もどきを、みんな立ち去った後の井戸端会議録のようだが、あえて付け加えてみたい。切り口は余りにも多い。横浜市は、時の首相が政治家としての基盤を長年にわたり培ってきた地域。彼の政治家としての師匠筋の息子が閣僚の座を投げ打って挑戦した。しかも、その前大臣は、カジノを含む統合型リゾート(IR)に賛成していた立場をも捨てて、反対に転じた。これを自民党も、勿論現在のトップである首相もかつての立場もどこへやら、黙認した。それもこれも中央政治における対立軸が横浜市に持ち込まれることを恐れたからだろう。いい面の皮が、IR導入賛成の立場をとって4選目に臨んだ市長である▲この市長選に挑んだ面子がまた多彩極まる顔ぶれだった。大学医学部教授データサイエンス科長の立場をかなぐり捨てた人。元小説家で、元県知事で、元代議士の人。元代議士で、元県知事で、参議院議員だった人。それぞれの選挙戦での語り口をも吟味せずに、勝手に論じるのは心苦しい限りだが、横浜市への愛着、思い入れよりも違う目的があったのでは、と勘繰ってしまう。物足りないのは、IR賛成の主張を声高にする候補者が現市長以外にいなかったこと。落選が決まった夜、同氏は市民からいかに嵐のような批判に晒されてきたかを語った。お気の毒に思うと同時に、哀れを催した▲一方、落ちた前大臣は、これからは選挙には関わらないという意味の発言をした。ことそこに至った経緯を見れば、むべなるかなとの思いは禁じえないが、爽やかさはこの顛末で、唯一救いだった。首相とのやりとりを訊かれて「ありがとうございました」と述べたのに対して「お疲れさんでした」とだけ。言わぬが花とはいうものの、愚痴のひとつも聞きたいし、言わせたかった。二人の元県知事の敗戦の弁は、兵庫には聞こえてこないが、尼崎市選出の元代議士の顔すらテレビに映らなかったのは寂しい限りだった▲ひとや明けて、一地方自治体の首長の選挙結果は国政に影響なしとか、影響は深く静かに甚大極まるとか、予想通りに喧しい。一番悔しいのは首相のほかにいないことは歴然としている。衆院選での自民党の議席減は相当なものになることは必至である。彼が首相になって、行われた選挙はことごとく負け続き。唯一勝ったとされるのが、自民党分裂騒ぎを経て、維新の支援を受けた候補の兵庫県知事選だけだったというのも哀れを通り越す。これだけの惨状を前に、首相交代論も起きないし、次期衆議院選での野党勢力との政権交代の声も起こってこない。自民党筋から聞こえてくるのは、「衆院選での議席減は織り込み済み、仮に過半数を割り込むようなら一部野党を抱き込めばいい、むしろ、勝負は明年の参議院選」との声。来夏までに流れが好転しなければ、初めてその時に顔のすげ替えが起きる、という。横浜市長選が提起した日本の政治の問題点はあまりにも多すぎる。兵庫も横浜でも自主投票にした、IR賛成の公明党の立ち位置も含めて、岡目八目的解説が憚られるのは辛すぎる。(2021-8-27 一部修正)

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