岸田首相が目論んでいた早い段階での「衆議院解散から総選挙」というシナリオが崩れました。最大の要因は政権への支持率の低さです。それもそのはず、財務副大臣が税金滞納の常習犯であったり、法務副大臣が自分の選挙区における区長選挙に関連して違法な報酬を配ったり、などとおよそ呆れ果てる出来事が相次ぎました。その上、自民党の各派閥の政治資金収支報告の不正記載が発覚したのに、「もう訂正しました」だけで済まそうとする。こんな体たらくでは、もう何をかいわんやです◆この状況下で、野党第一党の立憲民主党の元首相・野田佳彦氏は先般の予算委質疑において、同期の岸田首相を徹底的に叩きました。おカネの問題もさることながら、普く党内に染み渡った「世襲議員の蔓延」について、ルパンでさえ3世までと、ユーモアを交えての批判ぶりには痺れた人も多かったはずです。しかし、それとて所詮は〝退役将軍〟の個人芸。とても首相退陣に追い込む力たりえません。また野党第二党の「維新」は、与党質問かと見紛うほどの穏やかな質問の連続でした。かつて公明党ならば、従来のイデオロギー過剰な対立一本槍の野党の姿勢を変えるべくメリハリの効いた野党「改革」に取り組んだものでしたが◆今与党に転じて20年(途中、民主党政権下の3年を除く)が経ちました。日本の政治が自民党一強で政権奪取の意欲なき野党という、昔ながらの「55年体制」に逆戻りしたとの風評が漂ってきています。コロナ禍からウクライナ戦争、パレスチナでの虐殺の応酬へと続く激動する国際情勢の中で、国民生活が厳しい物価高で喘いでいます。こんな時に自公政権は何をしているのかとの非難の声は高まる一方です。公明新聞では連日補正予算に盛り込まれた公明党らしいきめ細かな経済対策の解説が展開されていますが、一向にメディアではそうした動きが報じられず「減税の是非」ばかりに見え聞こえます◆公明党が与党に転じたのは、大衆が喜ぶ政治にするための変身ではなかったのか、その姿があまり見聞きされないとの愚痴も出てきます。高木陽介公明党政調会長は、28日に発信されたユーチューブでは、「公明党が提案した総合経済対策の知恵が今回の補正予算に反映されているのに、岸田首相の説明があまりに下手なために国民に伝わっていない」と嘆いていました。せっかくの公明党の「与党改革」の〝あの手この手〟をメディアが報道しないのでは確かに残念です。明年は結党60周年。その歴史の内実は、前半の30年が「野党改革」、後半は、「与党改革」の30年だったと、心底から評価してもらえるように、ここは、議員、党員一丸となって頑張る場面だと思います。(2023-11-28 一部修正)
【131】「人生の師」の逝去の報に接して我が胸に去来すること/11-20
●病気、親の信心、就職問題など解決への助言
池田大作先生が亡くなられたとの報に接して、2日目の朝があけました。いつかはこの日が来るということは念頭にありながら、きっと創価学会創立100周年を迎える2030年までお元気でいてくださると、勝手に漠然と思い込んできたのです。先生と直接お会いした懐かしい日々のことを思い出しています。
直接私が先生とお会いして言葉をかわせた機会は、全部で7回ぐらいでしょうか。1回目は昭和43年4月26日。「慶大会」発足の日のことです。肺結核闘病中だった私は率直に悩みを吐露しました。それに対し、①100万遍の唱題②温かいものをを食べる③夜更かしをしないなど具体的なアドバイスをご自身の体験を交え話して頂きました。未入会だった両親のこと、就職問題など悩みを洗いざらい披歴した私に懇切丁寧に指導して頂きました。肺結核を経験した女医さんに直接会うように手配もしてくださいました。2回目は、同年10月8日の第2回慶大会で。歓談中に先生が私の顔を見て、「元気になったじゃないか。いい顔色してる」と言っていただき、「ありがとうございました。(肺結核は)治りました」と報告できました。3回目は、本部職員(党機関紙局)に採用していただいた翌44年4月16日のこと。偶然たまたま本部玄関前でお会いし、入社出来たこと、母親が私の折伏で入会したことを報告出来ました。聞いて下さった先生は「そうか。それは偉いじゃないか」と、喜んで下さり、入社祝いに「マルマンハーレー・ガスライター」を頂きました。この一連の顛末はすべて詳しく回顧録に書いていますが、私が23歳、先生40歳の1年間のことです。
4回目は、昭和52年の中野兄弟会の際に、私が参加者への挨拶の中で「昭和48年の結成時には役員として裏方をしていましたが、今は区男子部長になりました」と報告したところ、ご自分の席から「おーっ、それは凄いじゃないか」と、声を挟んでくださったのです。はっきりと耳に残っています。
衆議院議員に推薦を受けて出馬する直前に「関西は当選させてくれるよ」との励ましを受け、一転落選して再挑戦することになったときには、「今度こそだな」との優しい言葉を頂きました。そこからさき、当選してからの三回ほどの出会いの場面は、恥ずかしいことばかり。要するに、私のいたらぬ人間性、生意気な姿勢などについて徹して厳しいご指摘の連続でした。お褒めの言葉を頂いたのは、衆議院予算委員会での福田首相とのやりとり(2008年)の直後でした。関西来訪中だった先生がテレビでこの放映を偶々ご覧になって、「赤松の質問は面白いじゃないか」と言われていたというのです。そばにおられた西口良三さん(当時総関西長=故人)から電話でお伝えいただいたのですが、後にも先にもこの時の電話に勝るほど嬉しいものはありませんでした。
●トインビー博士から先生が託されたバトン
先生とお出会いしてから53年ほどの間で忘れられない最大のことの一つは、小説『人間革命』第4巻「疾風」の章を通して、まさに御書と本の一節を身で読んだと実感できたことでした。伸一青年が若き日に経験したこと━━親が信心反対の身で肺結核を患ってしまい、親には言えない、言うと師を恨むに違いないと悩んでいた。その時に『開目抄』の一節を読み、現在の自分を大聖人から肯定していただいた思いがした。━━と全く同じ体験をして、しかも、冒頭に述べたように、その悩みを先生に直接話せたのです。「父母の家を出て出家の身となるは、必ず父母をすくわんがためなり」との日蓮大聖人の開目抄の一節。聖教連載中の小説のそのくだりを読みながら、自分は先生から今の自分を肯定していただいた思いになり、感涙にむせびました。「煩悩即菩提」とはあの日の喜びそのもののことでした。それこそその後の私のすべてを決めたできごとだったのです。
両親、姉弟3人の5人家族全員を私の折伏で入会させ、その連れ合い、子どもたちもみな会員に誘いましたが、これは大きな私自身の生涯に渡る誇りです。
「これからの7年」が私たちだけでなく、地球上の人類にとっての勝負の期間であることは言うまでもありません。個人的には、小説『新・人間革命』第16巻「対話」の章でのアーノルド・トインビー博士の言葉を拳拳服膺して生きることだと誓っています。お2人の対談の最後の場面で、博士はこう語っています。
「したがって私に言えることは、これだけしかありません。━━ミスターヤマモトと私とは、人間がいかに生きるべきか、見解が一致した。あとは、あなたが主張された中道こそ、今後、あなたが歩むべき道なのです。一言一言に魂の重みがあった。伸一は、〝私の分まで行動してほしい〟と、博士からバトンを託されたような思いにかられた」
今度は私たちが先生からバトンを託されたような思いにかられています。
博士から先生が託されたバトンとは、日蓮仏法の中道主義を指していると思いますが、私は、公明党の政治家のひとりとして、中道政治をどう実現するかについても含まれていると、解釈を広げています。具体的な自分の使命は、後輩たちの後押しをすることだと自覚しています。と同時に、先生が我々にかつて指し示して下さった政治的理念━━「地球民族主義」「等距離中立外交」「人間性社会主義」など━━の具体的肉付けを着実にかたちにしていくことだ、と思っています。(2023-11-20)
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【130】兵庫大光会の総会と堺市での「三田会」に行き、語らったこと/11-13
衆院解散・総選挙の気運が大きく後退する雰囲気がメディアの報道で漂っています。ただ、そうはいってもいつ突発的な展開があるやもしれません。「常在戦場」という言葉、私はあまり好きではないのですが、万全の対応をすべく、先週末も動きました。10日金曜日は、兵庫全域の元地方議員のメンバーの集い(大光会)が神戸市内で開かれ、太田昭宏同会代表が出席してくれました。丹波、但馬の北兵庫エリアからは代表参加のみで、それ以外の兵庫3カ国(摂津、播磨、淡路)から、多勢の仲間が集まってきてくれました。冒頭の県代表世話人の私の挨拶のあと、兵庫2区、8区の2人の元県議から活動報告があり、太田代表の講演等へと続きました。私は、党結成60年の佳節を迎える明年(2024年)の意義を強調しました◆すなわち、1964年から前半の30年が「野党改革」に取り組んだ期間だったとするなら、1993年からの後半30年は、「与党改革」の時代といえる、との分割的捉え方を示したわけです。しかも、公明党が実際に政権の一角を占めるようになった2000年から、支援団体の母体である創価学会が創立100年を迎える貴重な年・2030年までは、ちょうど30年です。あと7年でその節目を迎えることになると、それまでの闘いの重要性を訴えました。「野党という存在」が従来、対決一辺倒だったものを、庶民サイドからの提案を繰り返すことによる変革ぶりを強調。その後、与党になってからは、政権運営における改革に取り組んでいることについて、意識して友人たちに訴えることの大事さを指摘しました◆太田代表は多面的な角度から、我々の日常についてのアドバイスを力説しました。なかでも、地域の友人、知人と会う際に、ただ会釈しあいさつするだけでは足らない、あと10秒でも20秒でも言葉を交わすことが大切だと言われたのです。いかにも太田さんらしい、極めて率直でわかりやすい助言です。どうしても、忙しさにかまけてさっと行き交うだけで終わってしまうことの多い我々の弱さを指摘されたようで心に残りました。また、人生の総仕上げにあたって、師弟の絆の重要性を述べられる一方、それぞれの原点に立ち返って、若き日のこころざしに思いをいたすことを訴えられたことも骨身に沁みたしだいです◆12日の日曜日は堺市内で開催された関西合同三田会(慶應義塾大学卒業生の集い)に出席しました。これは14ある地域三田会が毎年持ち回りで開くことが恒例になっているのですが、2020年に開催予定だった泉州三田会がコロナ禍を乗り越えようやく3年ぶりに開かれたのです。大阪16区の支援に行くいい機会だと捉えた私は、姫路慶應倶楽部の一員として勇躍参加してきました。伊藤公平塾長の世界の大学を意識した現役塾生の奮闘を支えるリアルな闘いを促進してほしいとの訴えや、堺市博物館の白神典之学芸員による「古墳と戦国時代の都市町の成立」から、たった1人の堺生まれの総理大臣・鈴木貫太郎の終戦時における奮戦ぶりの話は極めて印象的でした。終了後は、堺東に住む20代前半の親戚の女性を呼び出して、会場近くの居酒屋で懇談しました。彼女は1年前に大学を出て、今は堺市内企業で3DCGを使った設計に従事するIT技術者です。孫ほど歳の違う若くて現代センスに満ち溢れた女性との語らいは、つい現実政治を忘れるほど興味深々の中身でした。別れ際に「山本かなえ」の魅力をしっかり語りましたが、もっと突っ込んで切り結ぶべきだったとチョッピリ反省をしたしだいです。(2023-11-13)
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【129】「この38年」から「あの38年」を思いださせた尼崎駅頭演説/11-6
老いも若きも男性も女性もそこかしこにいっぱい。JR尼崎駅北口のロータリーとそれを覆う歩道橋は鈴なりの人たちで溢れていました。昨11月5日の午後3時半のこと。公明党の中野ひろまさ衆議院議員の駅頭演説に集まってきた党員、支持者とその友人たちです。恐らく二千人は超えていたでしょう。尼崎に生まれ育ったという顧問先のY事務局長を誘って、私もその場に駆けつけました。公明党のこうした演説に参加するのは初めてという彼はその数の多さに驚いていたことはいうまでもありません。そこでの登壇者の話から、私は〝2つの38年〟に思いを馳せました◆一つは、昨日がプロ野球日本シリーズ第7戦の当日に当たっており、阪神タイガースのオリックスバッファローズとの最終戦を3時間足らずに控えて、「38年ぶりの優勝」を口にしていたことです。38年前というと、西暦1985年(昭和60年)。その年は西武ライオンズとの戦いでした。あの年の阪神は開幕から凄まじい勢いで4月17日の対巨人戦で、当時のバース、掛布、岡田のクリーンナップトリオがバックスクリーンに連続してホームランを叩き込むなど今や伝説となった強さを発揮したものです。子どもの時から、「アンチ巨人」だった私など、1959年(昭和34年)の巨人に4タテをくらわせた南海ホークスの活躍が忘れられません。日常的にはセリーグで巨人の風下にあり続けた阪神よりも印象が遥かに濃いかったのです。誤解されるのを承知で言うと、戦後の大阪、兵庫の青少年たちは、「巨人、東大、自民党」が東京を代表する3本柱で、倒すべき対象だったのです◆二つ目は、その自民党が独走的一党支配の座を降りたのが、1993年(平成5年)であり、自民党が誕生してから38年ぶりだったことです。細川連立政権がその座を奪いました。「55年体制」の崩壊でした。その年に衆議院議員に初当選をした私など、遂に自民党単独政権を倒すことに貢献できた喜びで感涙にむせんだものでした。中野衆議院議員は、故冬柴鐵三元公明党幹事長の後継者です。今をさる12年前の冬柴さんの急死に伴う葬儀で実行委員長を仰せ使った私は、親交のあった小泉元首相ら大勢の参列者の前で挨拶をしました。その次男である小泉進次郎元環境相の冬柴後継の中野氏への応援演説は、当時を知る私には感慨ひとしおのものでした◆阪神の「この38年ぶりの優勝」を前にして、「あの38年ぶりの自民党一党支配打破」を思わざるを得なかった私は、2つとも、かけがえのない長い年月を経た上での偉業であると言いたいのです。プロ野球の世界では1965年から73年までの巨人のV9という金字塔がありますが、そこまでいかずとも明年以降の2連覇、3連覇を望むというのが人情でしょう。一方政治の世界では、38年ぶりの一党支配打破に代わって、連立政権が常態になって、もう30年が経ちました。単独政権と連立政権のどちらがいいのかは、もちろん一概に断定出来ません。連立といっても、組み合わせにもよります。野球は応援するファンが喜べばすみますが、政治はそれではすみません。一政党の支持者にとどまらず広範囲な国民の支持を得てこその政治だからです。30年の連立政治のうち、自公連立が20年を超えました。野球に例えると、自公混合チームは20連覇を達成したといえます。果たしてそこに気の緩みはないのか。真に国民大衆が喜ぶ政治になっているのかどうか。謙虚に顧みる必要があると思われます◆こうした思いを抱きながら、友人と共に近くの喫茶店に入ると、そこで明石のSさんご夫婦と、尼崎の親戚ご夫婦との計4人の方々と偶々隣席になりました。直ちに和やかな歓談になったのです。尼崎での街頭演説を聞いた後のひととき。政治談義の楽しさを十二分に味わって帰ることができたことは嬉しい収穫でした。(2023-11-9 一部再修正)
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【128】奥山保全トラスト地ツアーで焼岳のふもと・奥飛騨へ/10-30
公益財団法人・奥山保全トラストの主催による毎年恒例のトラスト地ツアーが28-29日の両日あり、参加して来ました。今年で9回目になるツアーの目的地は、岐阜県高山市の奥飛騨温泉郷にある焼岳の麓。第一日目は少し雨模様で肌寒い天候でしたが、2日目は見事な秋晴れで最高の登山日和。昨年の石川県にある白山トラスト地ツアーに続き、素晴らしい紅葉を堪能できました。参加者はスタッフや地元支部メンバーも入れて大阪、兵庫などを中心に約20人。これには私も友人を2人誘いましたが、共に喜んでくれました。なかでも初参加の60年来の大学の級友は、これまでの人生経験の中で10本の指に入るほど実り多い体験だったと絶賛してくれたのには疲れも吹っ飛びました◆それというのも、今回の原生林ツアーの行程は起伏も激しく狭い山道を片道1時間余りかけて登ったのちに同じ道を降りてくるもので、とてもきつかったからです。特に下山の際には、不覚にも幾たびか転んでしまいました。幸いなことに崖っぷちの道ではなかったので、事なきを得ましたが、2度ほどは大怪我をするのではとの危機意識が瞬時頭をよぎったほどでした。一度は右足首が道に埋め込まれていた金属製の標識に絡まり、前方にドーンと倒れてしまいました。もう一度はずるっと滑った時に、左足首が捻れてしまったのです。顔面や手足を強打せず、捻挫もしなかったのは不思議なほどでした◆登山に際しては、事務局の2人の青年が丁寧にブナやナラの木にまつわる説明をしてくれ、生い茂る草花の葉に関する知識などを披歴してくれたのですが、正直こちらはそれを聞き取る余裕がなかったというのが現実でした。寄る年波に抗しきれないというのか、いささか反省することが多いツアーでした。尤も、高山市の飛騨産業の岡田贊三会長(熊森協会初代岐阜支部長)が特別参加してくれ、節つき家具を考案し大成功するに至った苦労談義を聞かせてくれたことは大収穫でした。この人と私は10年近く前に共通の友人を介して一度出会っており、旧交を温められたのはとても嬉しいことでした。また、宿泊先のペンションでは、この地ならではの露天風呂を味わい、美味しい地元料理に舌鼓を打つことが出来ました。これまでは日帰りだっただけに、温泉付きのツアーはまさに〝忙中交あり〟で、絶好の友人作りの機会でした◆この公益財団法人については、発足時から私は関わり、内閣府や総務省への働きかけにもそれなりの尽力をしてきたので、愛着があります。現時点で、全国に22ヶ所2535ヘクタールにも及ぶトラスト地を擁するにまで至っています。森林の荒廃が懸念される状況の中にあって、微力とはいえ、森林保護に汗を流す活動を支援出来ることは喜びです。岐阜羽島駅までの帰りのバス車中でのあいさつで、ロシアとウクライナの戦争や、イスラエルとパレスチナのハマスとの争いが危惧されている今日に、熊が人間を襲うことが話題になる日本はある意味で幸せだと述べる一方、熊と森林の保護に尽力出来ることに誇りを持とうと呼びかけました。(2023-10-31 一部修正)
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【127】「くまもりカフェIn宍粟」で見聞したこと考えたこと/10-23
昨22日は朝から兵庫県の西の端・宍粟市に行きました。日本熊森協会が全国で展開している「くまもりカフェ」に参加するのが目的でした。同協会が発足して27年。スタート直後にひょんなことから関わってきたわたしとしては、今や議員引退後の最もやりがいのあるボランティア活動の一つになっています。熊を守ることの大事さを訴え続けているこの団体は、日本最大(会員数約2万人)の実践環境保護団体。昨今、熊と人間の遭遇が不幸な出来事になるケースが頻発しており、一段と正しいクマへの理解が求められています。この日も周辺各地から20数人が参加され、極めて有意義なひとときとなりました◆私は2人の友人を誘いました。1人は南隣の安富町に住む高校同期の親友Y君の奥さん。定年後に首都圏から夫の生まれ故郷に共に帰ってきて20年近くなろうかという人ですが、地域の種々の活動に積極的に参加しています。この日も集いの中身をあまり説明もせずに誘ったのですが、「関心を持ってきた環境保護にとても刺激になる話をいっぱい聞けて最高だった」と感想を述べていました。今1人は、北隣の佐用町に住む元公明党佐用町議のI氏。かつて私が熊森協会の活動について話すと、「人間と熊とどっちが大事なんや。我々の田畑を荒らす熊は許せない」と、くってかかってきた人です。せっかく熊森の室谷会長や、水見研究員が説明してくれるいい機会だからと呼んだのです。残念ながら、他の用事で到着が会の終了間際になってしまったのですが、雰囲気は伝わり次回の参加を約束してくれました◆この日の挨拶で、私はウクライナ戦争やパレスチナ・ガザ地区での悲劇など戦乱絶えない世界の現況に触れた後、熊と人間の衝突が話題になるだけの日本がいかに幸福かについて言及しました。国家と国家の間や、一つの国家の中での「分断」が一段と鮮明になる中で、自然を人間が収奪し、大型野生動物を殺戮することは次元が違ったもう一つの「分断」であり、共存することの重要さを強調したものです。この会合には、県立長崎大の名誉教授や、地域を流れる揖保川の水質保全に取り組む人々から、小学生に至るまでの老若男女が集まり、和気藹々と意見交換する素晴らしい機会でした。終了後はMさんが営む丹波の枝豆栽培地に赴き、数人の参加者と共に枝黒豆を引っこ抜く実体験をして、収穫物を頂いて帰りました◆姫路までlさんの運転で車で送って貰い、車中あれこれと政治談義を繰り広げました。姫路駅南での食事後、西明石に帰り着くと、テレビで、この日投開票があったばかりの衆院長崎4区と参議院徳島・高知選挙区の補選結果が報じられていました。自民党候補(公明推薦)と野党系候補の一騎打ちで注目された両選挙でしたが、結果は1勝1敗の相討ち。尤も、元々自民党の議席だったところですから、自民党にとって痛手となったことは否めません。岸田首相は益々窮地に立たされ、当初思い描いていた2勝して一気に衆院解散総選挙に持ち込むとの戦略は破綻したかに見えます。かねて私は、今は落ち着いて日本の政治課題を議論するときで、選挙はすべきでないと主張してきました。新聞メディアなど世の中の風潮も選挙ムードを煽らず、腰落ち着けた議論に耳傾ける秋にしていってほしいものです。(2023-10-23)
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【126】大論争の呼びかけに真っ先に応えてくれた〝令和の巨人〟/10-16
年号「令和」の名付け親といえば、国文学者の中西進先生。私が国会議員を勇退した(2013年)少しのちに、知己を得ました。一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の専務理事の立場を頂いた時に、代表に就任されたのが同先生だったのです。活動の拠点だった淡路市内を始め、先生が名誉館長を務めておられた京都の右京区中央図書館などで幾たびかお会いしました。公明党の政治選択をめぐって激論を交わしたり、同図書館での月に一度の名作映画の「解説」に聞き惚れたりしたものです◆コロナ禍の影響もあって、お会いする機会は殆どなくなってしまいましたが、総合雑誌『潮』の巻頭を飾る、毎月のずいひつ「波音」での健筆を拝読してきました。一番最初に寄稿されたものへの感想を届けました。大層喜んで頂いたことは懐かしい思い出です。「こころを聴く」と銘打たれたそのエッセイもこの11月号で95回目。やがて執筆満8年になる寸前に、何とこのたび出版したばかりの拙著を取り上げていただいたのです◆『新たなる「77年の興亡」』は、昨年始めに出版した『77年の興亡』の続編とでもいうべきもので、この一年の間に大手新聞社のサイト版に寄稿した文章をまとめたA4版の小冊子です。何人かの親しい方々に送ったのですが、同先生から9月初めにおはがきをいただきました。お礼の言葉と共に、「ご提言が広がるといいと思います。『潮』11月号にふれました」と、添書きがありました。いらい同誌を手にするまで、まさに一日千秋のように待っていたのです◆私の著作では明治維新から77年後の昭和の敗戦、そして77年後のコロナ禍、ウクライナ戦争に喘ぐ日本という2度の惨状を踏まえた上で、次の2099年までの第3期の77年への「提言」をちょっぴり書きました。とはいえ、その内実は現実的な「政治」に限定したもので、本格的なことは棚上げしたというほかありません。サブタイトルに「連立政権のジレンマ解消へ国民的大論争を起こそう」と、いわば下駄を世論に預けたのですが、中西先生が真っ先に、口火を切っていただいた格好になりました。まさに持論を世に問うた甲斐があったというものです。〝物書き冥利〟に尽きる喜びをひとしきり味わっているしだいです。(2023-10-16)
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【125】市議8期32年、自治会長半世紀の先輩の〝壮絶な戦死〟/10-10
つい先日、親しい先輩が亡くなった。伊藤孝さん。享年86歳だった。29歳の時に姫路市議に初当選していらい8期32年間もの間その職にあった。同時に、ご自身の住まわれた地域の自治会長も務め、勇退されてから20年ほどずっと続けていた。つまり50年、半世紀余を超えて地域住民の面倒を見続ける立場にあったのである。その人が秋祭りの準備の最中に自治会仲間と一緒に地域を回る中で不慮の死を遂げられた。地域住民の幸せのための戦いに従事しきったひとの〝壮絶な戦死〟だった◆亡くなられる10日ほど前に私は出会う機会があった。このブログ123に書いた石川誠医師の祝賀会で、同じテーブルを囲んだのだ。地域医療の発展に渾身の力を込めてきた石川先生と、同じく最前線の住民の健康維持に奔走してきた伊藤さんとは、深い信頼の絆で結ばれていたに違いない。私の席とは対面とはいえ、やや離れていた。後輩の国会議員や県議と隣りどおしの席だったが、談笑場面は見られず、笑顔がなかったのが妙に気にかかった。選挙間近しかもしれぬが、もっとこの場を楽しまれるといいのにと正直思った。死魔が忍び寄りつつあったのかもしれない。会場内を動きまわって挨拶に余念なく、伊藤先輩と私は目配りするだけで終わったことが悔やまれる◆私が伊藤さんと初めて会ったのは30年ほど前。衆院選に出馬するべく帰郷した時だった。いらい、幾たびもの共戦を重ねてきた。姫路の様々の地域の名士と会うたびに、友人・伊藤市議の名が出た。その都度、先輩の戦いの痕跡の広さと深さに驚き、尊敬の度を強めてきたものだ。思い出を辿るにつけ、どの場面でも笑顔が印象に残る。〝苦節足掛け5年〟の末に私が初当選をした時は、顔をくしゃくしゃにして喜んでくれたものである。晩年は体調を崩された老妻の車椅子を押され、通院しておられたとも聞いた。その場面を直接見た太子町のKさんが、かつて創価学会の幹部として座談会で御書講義や信仰の指導をしてくれた伊藤さんの真面目で優しい姿についても語ってくれた◆というのも、偶々8日の日曜日に、コロナ禍前に私自身が自治会長を務めた(僅か2年だけ)地域で、秋祭りがあり、明石から遠路参加した。懐かしい仲間たちと昼ご飯を一緒し、屋台の練り合わせを見たのち、Kさんと姫路駅前で懇談する機会を持ったからだ。その際に伊藤さんの死を伝えたところ、悲しむと共に思い出話が堰を切ったように出てきたのだ。公明党の議員は地域住民の「息遣いや心音」を最も身近で見聞きして、懸命にその人たちの要望解決に動く存在だと確信する。伊藤さんは紛れもなくその最先端を歩き続けてきた。公明党は明年で結党60年を迎える。その日まで、〝勝利の連続〟で元気に生き抜こうと誓いあっていた。その矢先の〝悔しい中断〟は無念だ。しかし、水が流れるが如き、先輩のひたぶるな献身的姿を、残された後輩たちは継承しゆくしかない。(2023-10-10)
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【124】「改革の先送り・安住」は政権交代に直結/10-3
日本の政治をめぐって、かつての「55年体制」がいまに蘇ったとする議論は少なくない。しかし、これまでの論壇では、ここ10数年の維新、公明両党が果たしてきた役割を踏まえたうえでの旧、新2つの「55年体制」を論じたものはあまりなかった。しかし、境家史郎東大教授の『戦後日本政治史ー占領期からネオ55年体制まで』は、本格的に「新55年体制」に論及したものとして注目されている(私は未読)。1日付けの日経新聞「風見鶏」は、「政界を覆う新55年体制」と題して、その境家氏の議論を引用して展開している。このコラムの結論は「自民党が必要な改革を先送りして、『新55年体制』に安住すれば、政権交代を招くのも歴史の法則」としているところが見逃せない◆一言で「旧55年体制」というが、その実態は、公明党が野党の中核として本格的に登場する1980年代「以前」と「以後」とではかなり違う。「以前」では、与野党のイデオロギー対立から、特に安保論議は「不毛の対決」に終始したが、「以後」では第三の勢力・公明党の合意形成への努力のおかげで、PKO 論議の一部始終を振り返ると分かるように様相は一変したのである。一方、「新55年体制」では、維新が野党の中にあって、保守のスタンスを鮮明にしており、安全保障をめぐる対立が再来したとはいうものの、「共産党を含むリベラル勢力がまとまれなくなった」という現実がある。現状では、新旧55年体制の実態は、自民党の優位性において、〝非で似ているもの〟といえよう◆ここでは、そういった事情に自民党中心の政権が安住するかどうかのカギを握るのが公明党だと敢えて言っておきたい。公明党が過去20年余の間、自民党と連立を組んできて、どこまで改革の実を上げてきたかは、評価の分かれるところだが、安全保障分野においては、旧体制前期のような世界観の相違から一歩も議論が前に進まないということはなくなった。尤も、以前に比べて前に進むようになったことをつい忘れて、憲法の原理から逸脱しがちなのが自民党である。例えば、つい最近に麻生自民党副総裁が公明党代表らを「ガン呼ばわりした発言」は文字通りその典型と言えよう。安保法制における集団的自衛権の解釈をめぐって、自公両党は〝玉虫色の決着〟(両者の言い分を盛った)をしたことを、麻生氏は知っていながら、罵詈雑言めいたことを口にしたものでマナー違反と見られよう。これには「論評は差し控える」とした公明党代表の大人ぶりが光った場面だった◆私は公明党の人間として、冒頭に触れたコラムの結論における、「自民党」という活字をそっくり「公明党」と置き換えてみたい。政党の大きさにおいて格段の差はあれど、与党として国民への責任は全く同じであるからだ。改革を進めずして、政権に安住すれば、やがてその座から降りねばならぬということは自明の理だと強調しておきたい。政権交代あってこその民主主義である。公明党はこのところの選挙で、「衆院選は政権選択」の選挙だと位置付けてきて、「政権安定のために自公を」と主張してきた。それがもはや通用しないということを多くの国民が気付くにいたっている。政権選択ではなく、改革志向の選択が問われていることを見誤ると、近い将来の失敗に繋がりかねない。(2023-10-3)
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【123】友の友は新たな我が友を実感━━尊敬する医師の褒賞祝賀会に参加して/9-27
兵庫県民間病院協会の会長を務めておられた医師の石川誠さんがこのほど瑞宝双光章と、日本医師会最高優功賞を受賞されたことを記念する祝賀会が神戸市内のホテルで開かれました。9月24日のことです。長年親しくお付き合いをさせていただいた私も喜び勇んで参加してきました。同先生のお人柄を反映して、医療分野を始めとして政財界など幅広い分野から、600人を越える人々が集まっての極めて楽しい集いでした◆この人の凄いところは多彩な趣味やら研究へのご関心です。ゴルフ、乗馬、囲碁を始め、思想、哲学、宗教、文学などに対する造詣の深さときたら、並の人の追従を許さぬ幅の広さと奥行きに計り知れないものがあります。私はこれまで幾たびとなく、座談の場に同席させて頂きましたが、その都度、古今東西の知の蓄積が無尽蔵というほど、その頭脳から泉のように湧き出てくるのに驚嘆したものです◆こんな凄い人と私が、なぜ知己を得るに至ったのか。同郷(姫路出身)ということもさることながら、公明党の大先輩・渡部一郎、通子ご夫婦とのご縁が大きいのです。このお二人は若き日に創価学会学生部、男子部長、女子部長として活躍された上、のちに衆議院議員、参議院議員として夫婦揃って数多い足跡を残されました。そのご夫婦の魅力がいかに石川さんを捉えて離さなかったかを、繰り返し私は聞かせて頂いたものです◆また、この日の会で、友人代表として挨拶された三木英一さんは、元高校の校長先生で、論語の研究で著名な方です。挨拶の締めに漢詩を吟詠されたお声は今も私の耳朶に印象深く残りました。詩吟っていいなあと強く思いました。5歳の年齢差を感じさせぬ、お二人の交友は互いのリスペクトが根底にあるものだけに、遅れて歩むものたちの模範という他ありません。石川さんの培われた〝人脈の渦〟の中を溺れぬように泳ぎまわり、数々の再会を重ねるうちにお開きの時間がきてしまいました◆終了後は私が数年前に石川さんにご紹介した作家の諸井学さんの高校時代の友人2人と一緒に、場を移して語らいあいました。友達の友はまた我が友です。新たなたくましい友がまた増えました。人の友好の輪は無限のように続きます。人の世は人間同士会って話すことで、より味わいを増し深めることをあらためて痛感した一日でした。(2023-9-27)
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