Category Archives: 未分類

【61】秩序崩壊、分断の世界をどうする━━元旦社説読み比べ(下)/1-6

 次に全国紙、地方紙の社説を読み比べたい。既に新年も一週間ほど経っているが、年の初めに日本の言論機関が何を考えているかをおさえておく価値はあろうかと思うので、遅ればせながら論じたい。新年早々にトランプ米大統領の差配で、ベネズエラの大統領が拘束されるとの史上稀に見る事件が起こった。米国の国際法を無視した「主権侵害」は否めず、その無法ぶりに世界中が驚いている。この事件から、4年前のロシアのウクライナ侵略が思い起こされ、近未来の中国の台湾軍事侵攻などが懸念されている。まずは国際秩序をめぐる課題を取り上げた三紙から追ってみる。

★世界秩序の崩壊をどう食い止めるか

 「読売」が例年のことだが、通常の倍ほどの分量で、「知力、体力、発信力を高めたい━━世界秩序の受益者から形成者に」との論考を掲載した。この論題から読み取れるように、混沌として見える国際社会の秩序を大国任せにするのではなく、日本が積極的に動いて、秩序を形成する側に立つことを迫っているのだ。ただ、戦後日本は長きにわたり、米国の伴走者として、追従姿勢が明確なだけに、方向転換は容易ではない。新年早速起きたベネズエラ事案にどう立ち向かうか。易々諾々と米の後追いするだけではならない。そのあたりの「読売」の知恵が欲しいところだが、一向にうかがえないのは残念だ。

 「日経」も、海図なき時代に「米中に翻弄されぬ多国間外交導け」という。対中関係において、「脅威への抑止力を高めながら、あらゆるパイプを駆使して対話も重ねるしたたかさを求めたい」としている。正論だが、これまでの戦後の長い歴史の中で、こういう注文が受け入れられたためしがない。ロシアに続き米国の大統領が傍若無人の振る舞いを展開する中で、どう日本が翻弄されずに動くか。心許ないという他ない中身だ。

 「産経」は、論説委員長による特別編で「『台湾有事の前年』にしないために」との主張を展開している。ここでは、高市首相の「台湾有事」をめぐる発言に、内閣支持率が「微動だにしなかった」として、国民の大勢が「左派の空想的平和主義、専制国家中国を喜ばせる危うい言説に影響されなくなったのは極めて喜ばしい」と大仰に賛辞を表明している。「あらゆる分野で対中関係の仕組みの大幅な見直しが求められる」というだが、どう見ても危険な反中国包囲網の音頭取りと言わざるをえず、見苦しい。

★民主主義の危機をめぐる対応

 「朝日」と「毎日」は、それぞれ「退潮する民主主義 『分断の罠』に陥らぬように」、「『ポスト真実』超えて 未来を描き社会を変える」といった見出しで社説を掲げ、日本の現在における民主主義の危機やSNSをめぐる諸々の社会現象にどう対応すればいいかとの課題を取り上げている。

 「朝日」は、結論として「意見や立場は異なっても互いを尊重し、対話を通じて妥協点と繋がりを見いだしていく」という。これでは抽象論というほかない。これに対して、「毎日」は、岩手県矢巾町が10年前に導入した「将来人」としての議論の場の例を挙げたり、フューチャーデザインを提唱する学者の声を引用しており、具体性がある。両紙のこの違いは大きい。

 ★喧嘩の防ぎ方や排外主義への具体的対応策

     他方、ブロック紙の「東京」の「怒を恕(じょ)に変える」は、ユニークな中身だった。米ドラマ『一流シェフのファミリーレストラン』からの一場面を引用して、喧嘩の場面を巧みに一呼吸おくことで回避した話を導入部にしている。さらに後半で、ある書道家親子が、諍いごとが起こりそうになったら「恕」と言うことにするとの取り決めをしたとの話も面白い。

 似て非なる2つの漢字をめぐって書道家同士が取り交わす約束事は微笑ましく、印象に残った。いつもの同紙の社説と違って鋭くないと批判する向きもあるようだが、私は全く逆に、ほっこりしてくるいい社説だと感じた。個人と国家間との争いは同列に論じられないが、原型として顧みる価値はある。

 一方、地方紙の雄・神戸新聞の社説は「排外主義にあらがう 地域の『小さな輪をつないで」は読み応えがあった。高市自維政権は「外国人を規制の対象としか見ないような政策に前のめりだ」との位置付けのもとに、規制一辺倒に偏りがちな国の取組みを批判すると共に、地方の対抗策を紹介している。

 冒頭に挙げられた豊岡市の芸術文化観光専門職大学における舞台「もう風も吹かない」は、国際協力機構「JICA」の具体的な活動をテーマにしたもので、自国第一主義がいかに世界における人助けと逆行しているかを考えさせられた。また、ネパールなどの外国人が急増している神戸市東灘区でのケースでの「顔の見える関係づくり」や、認定NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸の「世界とつながるカフェ」などは、小さな輪に過ぎないものとはいえ、貴重な一歩として注目される。(2026-1-6)

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【60】AIの未来にどう向き合うか━━新年の新聞各紙の論調から(上)/1-5

 2026年新年の全国5大紙の特集、トップ記事のテーマ、は大きく2分されていた。一つは、人間とAIの関係をめぐる企画特集(朝日と日経)であり、もう一つは、対外的な危機としての「中国」を扱ったもの(読売と産経)と、国内政治に内在する「政治とカネ」の問題に関わるニュース(毎日)である。一方、各紙は社説で、国際社会の秩序の大変動について取り上げていた。以下、要点をまとめてみた。

★AIと人間を区別するものは「目の虹彩のあるなし」

  「AIの時代」(朝日)の初回は「あなたは人間ですか」という問いかけで始まる。人間が人間であることは目の「虹彩」で証明される、との着眼である。「オーブ」と呼ばれる端末をのぞくことで、虹彩が読み取られ、本物の人間として「認証」され、IDが発行される。現在既にこの仕組みを持った「オーブ端末」は世界で約1千台。そのうち、日本では約240台が稼働している。目玉が、指紋や顔よりも本人の証(あか)しを示す精度が高いというのである。世界における登録者数は昨年12月で約1800万人になったというのだが、これからどう進展するかについては、やや疑問視されていることがうかがえる。

 同紙2面では、図や絵を入れてAIの歴史を分かりやすく解説している。1956年に人工知能(AI)が誕生してから20年余で、第二次のブームが、さらに2000年代に入って第三次ブームが起きたとされる。そしてチャットGPTが公開(2022年)され、AI開発者がノーベル賞を受賞(2024年)し、米IT 大手4社(グーグル、アマゾン、メタ、マイクロソフト)の設備投資額が約37兆円(2024年)から、約57兆円になった(2025年)との歴史を持つ。この数年の歴史しか知らない者にとって、「世界変える力 ビッグテックの手中」との見出しが目に染みわたる。

 担当した編集委員は「AIの時代は、国家ですら管理できない力と向き合う時代になりうる。進化はまだ緒に就いたばかりだ。AIに何を託し、何を託さず、どんな社会を目指すのか。その分岐点に私たちはいる」と、世界を変える力が手の届かないところにあることを率直に認めている。今頃になってことの重大さを知った者には、すこぶる印象深い。

★AIを生まれながらに使いこなすα世代と市場の未来

 一方、日経の『α(アルファ)  20億人の未来』は、経済紙らしい切り口で、2010年頃以後に生まれたα世代が、これからの人類の命運を握るとの見立てのもとに、未来予測を試みる。生まれながらにデジタル端末やSNSに囲まれて育った世代は20億人に達しており、人類の変革期における主役にならざるを得ない。この世代の特性は、多様性や持続可能性、グローバルな視点を重視する価値観を持ち、消費面では、ブランドや所有志向よりも「体験」や「タイムパフォーマンス」を重視する傾向性がある。

 やがてこの世代は、1960年〜80年ごろに生まれたX世代や、81年から95年ごろのY世代、96年から2009年ごろのZ世代にとって代わる運命にある。その時代には、中国やインドが後衛に退き、代わりにアフリカが前面にでることになり、人類はより厳しい気候変動や地域紛争に悩まされるはずとみる。その際に、人類は様々な難題を乗り越えて、より豊かなステージに立ち得るかどうか。α世代は、その鍵を握ることになるというのだ。

 日経紙は想像される未来に向けて、その時代を考える上での「言論空間」を提供する役割を若者たちと共に果たしたいとする。だが、そこで待ち受けるのは、「低成長時代」。右肩下がりの、実質GDPの潜在成長率を予測するグラフが紙面に掲げられている(写真の左端グラフ)。自ずと多難な前途を想起せざるを得ない。

★人間の内面生活の強化に向けての考察こそ重要課題

 AIを論ずる二紙の書き手たちは、奇しくも孫の世代の未来予測に思いを馳せている。彼らは恐らくチャットGPTとの接触を通じて、AIの威力を思い知ったはず。かく言う僕自身のAIとの出会いがそうだった。投げかけた問いかけに瞬時膨大な資料が提示され、それこそ目を丸くするだけだった。AIの持つ能力を前にして自他の差異に驚き続ける者は、二紙の書き手たちの紙背にまるで我が影をみたような覚束なさを感じざるを得ない。

 孫たちの行く末に不安を抱く老爺婆たちに、いま必要なものは何か。それは、人間の内面により深い関心を持つことだろう。AIとは?AIとどう向き合うべきか━━そう考える前に、人間とは何か、自己自身とどう向き合うのかの、古いテーマに改めて目を向けるべきだろう。そして今、人間一人ひとりに必要なものは、自己から離れた「遠心力」ではなく、自己自身の内なるものへの「求心力」であるに違いない。そう思った時に、AIという2文字が「愛(あい)」という1字に読めた。(2026-1-5)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【59】「複合危機」の今こそ国際協力の渦を━━JICAの先達とのご縁/12-28

 2025年(令和7年)もあと数日で幕を閉じます。去り行く年も僕はよく人に会い、話をし、ご縁を結びました。26日には、神戸で恒例の異業種交流会があり、冒頭の30分間、「国際協力」をテーマにした勉強会がありました。講師は、独立行政法人「国際協力機構(JICA)」の木村出(いずる)・関西センター長。実はこの人は姫路西高を経て東大教育学部に学んだ俊英ですが、なんとまた僕の友人である電器商にして小説家の諸井学(本名・伏見利憲)さんとそれなりの関係のある人でした。お会いするまでは全く存じ上げなかったのですが、僕の「姫路はどちら?」との問いに「的形です」との答え。「ン?電器屋サン知ってますよね?」「ああ、伏見電機さんですね」ときた。世界を股にかける国際協力のスペシャリストが、2足のわらじを履いた二刀流の使い手(日本古典文学とヨーロッパポストモダン文学)と、旧知の間柄だったとは。いやはやこのご縁も有り難く、お話もめっぽう興味深いものでした。講義を聞く耳も一段とそばだったことは言うまでもありません◆講義は分かりやすい手作りのレジュメ(写真左)をもとに展開されました。まず、現在の世界が100年に一度と言われる「複合的危機」(①社会システムの危機=紛争(ウクライナと中東)②生命システムの危機=感染症(コロナ、インフルエンザ)③物理システムの危機=気候変動、気候変動に由来する激甚災害)にあるとされました。そのうえで、脅かされる「人間の安全保障」の実態を丁寧に述べられたのです。例えば、世界各国の政治体制、生活水準、国力の位置付けが、一人当たりGDP の縦軸と、自由民主主義度の横軸によって一目でわかる図表は、瞬時我が目を疑いました。この30年で、日中両国の国力の関係が逆転してしまった姿が、見事に描き出されていたからです。知ってはいても改めて比較されると、ショックでした◆そうした国際的状況の変化の中で、日本政府の国際協力の実施主体としてのJICAの役割をわかりやすく説いていかれました。「信頼で世界をつなぐ」というビジョンのもとに、国内外での縁の広がりを作っていく。それぞれの「国づくり」に立ち合うことが、いかに難しくてもやりがいあるかが語られていきました。この人が前半生をかけて取り組んできた仕事の醍醐味が鮮やかに浮上してきたのです。現役時代に外務委員会に所属して、JICAについてもわかっていたつもりでしたが、海外拠点が97ヶ所にあり、国内拠点が15ヵ所にあって、職員数が1979人、協力対象が145ヵ国・地域だということや、世界からの受け入れ研修員、留学生が13083人(累計約70万人)に及ぶことから、専門家や海外協力隊の派遣人数が8731人(累計約27万人)にも達していることまで、新鮮な驚きの連続でした◆こうした講義の合間に、ご自身の自己紹介を写真で披瀝しつつ巧みに織り込まれたのですが、これがまことに興味津々。軟式野球部に所属した東大時代から始まって、社会人3年目にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に留学して教育学博士号を取得したこと、フィリピン、インドネシア、イラク、アフリカなどの地域担当を経て(これまで51カ国を訪問)、この3年関西センター長をしてきた経緯などを楽しそうに語られたのです。関西時代の最大の思い出は、兵庫県立大学で「国際関係論入門」の講座を非常勤講師として担当されたことのようでしたが、さぞ魅力的な講義だったに違いありません。さらに、海外に留学中も、海外駐在中も、姫路の秋祭りには一時帰国して、屋台を担ぎ、昔の仲間との語らいで「根っこ」を確かめたとか。神戸新聞の記事(2025-10-5)の法被姿の写真には、びっくりするばかりでした。姫路出身とはいえ、本格的な祭りとは縁遠い地域(城西校区)の身としては、ちょいとした羨望感が込み上げてきました◆昨今の日本では「外国人との軋轢」がむやみに取り沙汰され、「日本人ファースト」が妙に呼号されています。気になるのは、「外にお金をだすよりも、内に出せ」とばかりに、海外援助への無理解が目立ってきていることです。「失われた30年」で、「日本人の矜持」までが損なわれてきているとしたら残念です。木村さんの豊富な体験にねざした麗しい「国際協力の手ほどき」を聞きながら、新たな知恵をめぐらせる必要を感じました。定年後に有り余った世間のパワーを活かすために「リカレント教育」の新展開を試みようとの動きが私の身近にあるのですが、それとの合流です。ともあれ、年の瀬にまるで一足早いお年玉を頂いたような気分になりました。木村さんは、新年から関西勤務を終えて、東京に栄転されるとのこと。「転勤を前に神戸で最後の仕事をさせていただき、いい思い出ができました」との声がとても爽やかでした。(2025-12-28)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【58】ウクライナとニッポンと━━戦争の「被害と加害」2つの展示から/12-25

 戦争勃発後4年が経とうとしているものの、ウクライナの情勢は依然として終結を見そうにない。「プーチンのロシア」に寄り添う「仲介役」のトランプ米大統領への不信感やら欧州各国の分断に傾いた動き。事態は混迷の度を増すばかりである。そんなさなかのさる18日に神戸市のポートアイランド内の神戸学院大キャンパスにあるウクライナ名誉領事館でのイベントに参加する機会があった。先の大阪・関西万博のウクライナ・パビリオンでの展示物を移転させ、「永久展示」するセレモニーが行われたのである◆パビリオンでは、戦時下の国民生活を、最新のIT技術を駆使して再現していたことが話題になった。子供たちの犠牲を物語るおもちゃや、反戦デモに使われたマイク、企業の生産物の数々が「NOT FOR SALE (非売品)」のテーマのもとに掲げられていた。そのうちから、戦闘で使われた兵士のヘルメットや銃弾痕が生々しいホームセキュリティシステムの操作盤などが移転展示の対象となっていた(写真左)。式典では、パビリオン館長のインナ・イリア氏や名誉領事の岡部芳彦神戸学院大教授が「新たな息吹が吹き込まれた展示から、ウクライナ国民が民主主義のために戦っていることを感じて欲しい」「百年後の世界中の人たちに、こんな戦争があったことを伝え続けるための永久展示だ。戦時下でウクライナの人々がどのように生きてきたかを観てほしい」などと挨拶。美しいガラスケースに整然と並べられた品々からは戦争の残酷さは殆ど伝わってこない。これが率直な印象だった◆他方、たまたま翌19日のテレビで10年前に放映された『〝医師の罪を背負いて〟 九大生体解剖事件』の再放送(『時をかけるテレビ』=写真)は、とても衝撃的だった。同事件に関与した1人の医師(無罪釈放)の詳細な記録を残すための地道な動きをまとめたものだった。実は、1945年5月5日に大分県山中に日本の攻撃を受けて米軍のB29機が墜落した。この時に捕虜となった8人の米兵の生体解剖実験(片肺除去、代用血液など)をしたというまことに痛ましく惨虐な行為が行われたのである。軍部からの要請で医学部第一外科の石山福二郎教授以下、軍医や看護婦ら14人が手をくだしたのち隠蔽した事件は戦後、駐留軍によって裁かれた◆事件当日の5月17日に偶々現場に居合わせたひとりの医学生(東野利夫氏)が一部始終を目撃していた。彼は自ら罪に向き合い続けた末に産婦人科医の道を選んだ。その間、迷い悩み心も病んだ。やがて、世に事実を語り継ぐしかないと決意し、事件に関わった人たち、その家族らから聞き取り調査をし続けた。30年の歳月をかけて、事件の真相を膨大な資料にまとめた。この所産は、九大内施設(医学歴史館)のなかで展示すべく挑戦が試みられたが彼の存命中は叶わなかった。自身が営む医院の中で披露(4週間)したりもした(写真右)。彼は2021年に95歳で亡くなったが、ようやく戦後80年の本年になって九大医学部は東野氏の資料展示に踏み切ったという。僕は映像を追いながら、軍の命令に逆らえなかったでは済まされない医師たちの「心の闇」を覗き見る思いだった。歴史を刻む、手作りの展示物から切々と伝わってきたのは戦争加害の残酷さと人間の弱さだ。それをありのまま開示して見せた1人の医師の勇気に深い感動を覚えた◆戦争の被害と加害の実態とをどう後世に伝えるか。今なお進行中の戦争被害を未来に伝えようとする展示と、過去に行われた戦争での残虐行為を個人の努力で明らかにした展示と。2つの展示の切り口は全く異なり、同列には論じられないが、「戦争」を考える新たなきっかけとはなる。(2025-12-25)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【57】いつまで続くもの珍しさと危うさと━━臨時国会の総括とこれから/12-20

 自公政権から自維政権へ。2025年の日本政治の大変換は、58日間の臨時国会で、これまでとは様変わりの様相を随所で見せた。ここでは、高市政権の舵取りの危うさを追うと共に、野党公明党の滑り出しについての課題に迫ってみた。

⚫︎日中関係悪化の背後に潜む高市首相の杜撰さ

 「台湾有事」をめぐる立憲民主党の岡田克也氏の質問(11月7日衆院予算委)に対する首相答弁について、中国が反発し日中間に大きな不協和音をもたらしている。これは臨時国会を通じて最大の外交問題を惹起したが、収束のメドは立っていない。ただ、世論調査(毎日新聞)を見る限り、首相を擁護する意見は多い。問題とは思わないとの回答が50%を占め、内閣支持率も65%台と依然高水準を保つ。ただし、首相自身が自らの発言が軽率であったと認める「反省の弁」めいたものを述べたことからすると、「勝負あった」と言う他ない。首相周辺は、一般世論に味方をする声が多いからと喜んでいる場合ではなく、国家間に横たわる原理、原則をしっかり踏まえていないと禍根を残すということを銘記すべきだろう。

 日中間では、1972年の平和友好条約条約締結と共同声明で、一つの中国(台湾は中国の領土)を日本も認めているのだから、それを無視するかのような発言をすると、「内政干渉だ」との今回のような批判を招くのは当然である。従来から、「曖昧さ」を保ってきた「日本の知恵」をそれなりに踏襲すべきであるのに、つい「本音」を口にしてしまう同首相の危うい性癖が表面化した。新米首相だから仕方ないとはならず、不用意な発言癖で終わる話でもない。外交、安全保障の基本が分かっていないのかもしれぬ。

⚫︎いつまで続くか維新の与党的日常

    一方、内政をめぐって争点となったのは、維新の強い主張であった衆議院議員の定数削減問題であり、企業・団体献金の扱いをめぐる与野党の3法案の取り扱いであった。いずれも決着を見ず、来年の通常国会へと持ち越された。この問題は、政権運営における維新の決断に関する最大の懸案だったが、すんなりと成立への流れに向かうとは予測されていず、持ち越しは既定の範囲だったといえよう。来年の通常国会における予算審議に絡んで、連立政権の命運がかかったままで推移するのは必至で、維新の筋書き通りに行くかどうかは、他の政党との関係もあり、予断は許されないとの見方が自然であろう。

 吉村共同代表の本音は、「副首都構想」の実現であり、それ以外のものは「おとり」とも見られている。幾つもの犠牲を積み重ねたうえで、中核中の中核をゲットしたいとの見方が的を射ていよう。それを見据えた上で、自民党は野党との個別の政策的駆け引きに取り組む姿勢に違いない。そう見ると、国会閉幕後の国民民主党との178万円の年収の壁をめぐる合意の思惑も透けて見えてくるというものだ。

⚫︎野党公明党が真骨頂を発揮することへの期待

 12月初旬に発刊された公明党の月刊理論誌『公明』一月号は「公明党の新出発と政治潮流」との特集を組んでいる。斉藤代表の党県代表協議会での挨拶を除けば、4人の学者、知識人の興味深いインタビューや論考が掲載されている。現時点での公明党という政党への真っ当な評価が満載されており、多くの人が読まれるように勧めたい。その中で共通する点の一つは、ブレーキ役としての公明党が後衛に退いたことへの不安であり、もう一つは野党公明党への新たなる期待である。

 この2つを象徴的に浮上させしめたのが、対中関係での首相の失言に対する斉藤代表の質問主意書提出であろう。首相が軽いノリで不用意に述べたことについて、従来からの政府の基本方針に変更のないことを確認させ、見直しや再検討の必要性がないことを表明する場を作ったのは鮮やかな対応だった。野党に転じた直後に、公明党が事態鎮静化の役割を果たし得たことは評価されよう。

⚫︎「保守改革」ではない「中道改革」の方向性を明確に

 自公政権の課題として、私が事あるごとに指摘してきたのは、両党間での国家像をめぐる協議の場の設置という点だった。政権を担う上で大まかな方向性が一致することは大事である。26年間の歴史の上で、「教育改革」と「安保法制」の2点で両党が鎬を削る議論をしたことは私の記憶に残るものの、一般的には印象が薄い。連立政権を担うもの同士の本格的な議論が少なかったと言う他ない。

 公明党は政権離脱と共に、中道改革勢力の中軸たらんと、旗を掲げた。かつて、日本の政治における公明党の役割は「改革」であり、「安定」を叫ぶのは自民党に任せておけばいいと私はいい続けてきた。だが、自民党との政権から離れたとはいえ、いずれ復帰するとの見方も内外に根強い。自民党との政権に愛着を持つ向きは、「政治とカネ」が主因で別れたのだから、その原因がある程度排除されるなら障害は除去されたとみるかもしれない。しかし、果たしてそれでいいのか。

 この際、改めて自公政権26年の功罪について、しっかりと総括する必要がある。単に「安定」志向だけであってはならない。例えば一例だが、「失われた30年」の中核を形成したアベノミクスが、今日の日本の経済格差や沈滞をもたらした遠因であったのではないのかといった根本的課題への掘り下げが必要であろう。「中道改革」というからには、保守改革路線とは違うメリハリをつける必要がある。(2025-12-20)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【56】現代の義士とは何か━━「赤穂義士祭」を前に考えたこと/12-15

 

 現代日本における「義士」とは一体なんだろうか?小春日和に恵まれた12月14日。恒例の「赤穂義士祭」に僕は観客として参加して、あれこれと考えた。これには、ひとつの「きっかけ」と「伏線」とでもいうようなものがあった。やがて、すぐ身近に現代の義士というべき存在がいたことに気付いた。

⚫︎「松村義士男」という引き揚げの神様

 「義士」を改めて考えるきっかけは、12月8日にNHKBSテレビで放映された『昭和の選択━━引き揚げの神様と呼ばれた男』を観たことだった。驚いた。こんな人物がいたとは知らなかった。その名もズバリ、「松村義士男」(1911-1967)という。先の大戦が1945年8月15日に一応の幕を閉じた後のこと。満洲を始めアジア全域に進出していた民間人たちの引き揚げのドタバタ劇が始まった。戦闘が終わったとはいえ、日常は変わらない。震災後の余震が続くように、絶え間ない悲劇の予兆が人々を駆り立てた。

 朝鮮半島38度線の北から南へと脱出せねば、生命が危ういかもしれない、と。無秩序、無政府状態の中で、知恵の限りを尽くして、艱難辛苦を乗り越えて数万人ともいう人々の引き揚げを実現させたのは、左翼運動家・松村義士男(日本窒素興南工場勤務)によるところが大きい。奇跡の連続だった。歴史学者・磯田道史の司会で、元外交官の藪中三十二と駒沢大教授の加藤聖文が口を揃え、この人物を抜群の交渉能力、企画力を持つと、褒めちぎっていたが、僕は初めて聞く史実に圧倒されるばかりだった。

 「神様」と呼ばれるに至った経緯については、城内康伸の『奪還』に詳しい。義士と聞くと、「義を見てせざるは勇なきなり」との論語の一節が思い浮かぶ。目の前に苦悩に沈む人を見て救済に立ち上がる人こそ義士に相応しい。隠された昭和史の一面を見せつけられて考えるきっかけとなった。

 ⚫︎「大石内蔵助」という赤穂義士の神様

 さて、「赤穂義士」である。戦国の世が徳川三代の手によって収まる機縁となった関ヶ原の戦いからほぼ百年。元禄14(1701年)年の江戸城・松の廊下で起こった、浅野内匠頭による吉良上野介への刃傷沙汰は、些細な事の発端とは裏腹に歴史に衝撃を与え、「時代の空気」を揺さぶる。大石内蔵助以下47士の動きは「忠臣蔵」の一大ドラマを作っていった。大石は当初、浅野家復興と吉良家処分を狙ったが、共に叶わず、やがて決死の討ち入りへの準備の1年半にと変化して行く。この過程の中で、浪士が義士へと変化して、やがて内蔵助は神社に奉られる「神様」になった。

 この歴史をどう見るか。僕が赤穂にまつわる出来事を考える際の伏線を形成してきたのが福澤諭吉の主張である。赤穂事件から150年ほどのちに、近代日本の幕開けに際して、冷静極まる眼差しで時代の行く末に光をあて、成り行きを解説し、大衆の生き方にアドバイスをし続けたのが福澤諭吉だった。その福澤は赤穂義士をめぐる世間の捉え方に異論を唱えた。

 それは一言で言うと、主君の仇討ちという価値観は近代化の流れのそぐわないということである。「明治維新」という日本史の一大転換期に、『学問のすすめ』で大衆の蒙を開き、『文明論之概略』で支配層を刮目させた福澤は、個別の事象に種々の問題提起を投げかけたのだった。この異論もそれなりの位置を占めるものの、忠臣蔵の人気の前に、徒花であることは如何ともし難く、混戦状態が続く。

⚫︎病苦に悩む人に坑道ラドン浴という救済のメス

 「松村義士男」をきっかけに、「赤穂義士」にまつわる時代を超えた賛否両論を伏線にした僕の考えは、どう収束していったか。言い換えると、300有余年前の「赤穂義士」と、80年前の「松村義士男」から、何を学ぶかに落ち着く。義士祭の大名行列や、動くトラックの上にしつらえられた、討ち入りから切腹にいたる名場面が動かぬ姿で展示されていた(写真左)。これを見ながら、考え続けた。今に生きる僕らが必要とする「義士」は、どこにいるのか、と。

 こう思ってると、灯台下暗し━━その具体的人物は、僕のそばに厳然といた。近きが故に見逃していた。45年ほど前に知り合って以来昵懇にしている亀井義明がまさにその人だ。彼は生まれも育ちも赤穂の人間だが、15年ほど前から、姫路市北部の安富町富栖の里にある旧金山跡地に、坑道ラドン浴施設を作ろうと着眼した。いらい一意専心努力し続けてきている。60歳を越えて数年後、一企業家としての身から、少量の放射線が健康にいい影響を与え得ること気づき、岡山大や熊本大などの専門分野の学者に次々とアタックし、連携を強めつつ遂に日本で唯一の施設を作り上げた。

 この施設を利用することで健康増進を果たせたとの体験を持つ人たちは数多い。このたび、映画『ラドンの奇跡』を制作し、県下各地で上映、明年は全国へと広げていく構えだ。様々な原因不明の病に対して、西洋医学に限界を感じる向きは多い。私財を投げ打って取り組もうとする彼の熱意に賛同する声は引きも切らない。この間、彼の献身的な振る舞いを見続けてきた僕としてはただ頭が下がる思いだ。

 彼には紛れもなく赤穂義士から出発して、大義に生きる精神が宿っていったに違いない。過去の歴史から学ぶことにも増して、日本の今に生きる人々の中に義士を見出すことはもっと重要であると、僕は考えるに至った。身近に有意義な存在を発見し得て、満足度は高い。(敬称略 2025-12-15)

 

 

 

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【55】捕殺するだけではクマ問題は解決しない/12-10

 さる12月5日付けの毎日新聞のオピニオン欄に「論点 クマと向き合う」という企画記事が掲載されていた。3人の専門家が、捕殺中心のクマ対策の意見を述べている。一方、その2日後に神戸で開かれた「日本熊森協会」主催の講演・パネルディスカッション「捕殺だけでは解決しないクマ問題」では、違った視点で興味深い主張が展開された。両者の比較からクマ問題を考える。

⚫︎「山は豊か」なのか

 毎日新聞の記事の中で、横山真弓兵庫県立大教授は、「今も岩手県や秋田県には『クマを殺すな』というクレームが寄せられるという。『人間のせいで山が荒れ、餌場を失ったクマが里に下りた』というが、現実は逆だ。(中略) 野生動物からみれば今、山は昔よりはるかに豊かになっている。結果、まずシカが増え、次にイノシシ、そしてこの十数年でクマが増えた。山の生存競争が激化し、弱い個体が町におしだされている」という。

 この人の言い分では、「豊かになった」山で、動物同士の争いが増えて、「弱い個体」が町におしだされているというのだ。さしづめクマが「弱い個体」に該当するというのだろう。さて事実はどうか?

 次に鈴木正嗣岐阜大教授は、「相次ぐクマ出没で自治体職員は疲弊しきっている。全国町村会の要望書通り、国が主体となり、講習や出没対応訓練を実施し、より効率的で効果的な捕獲技術を開発することが求められる。全国統一的な教育カリキュラムの策定や、テキストやマニュアルの作成・改定も急速に進めるべきだ」と、国主導の野生動物管理が必要だと力説している。管理という名の補殺の勧めだ。

 さらに、北海道の羅臼町のガバメントハンター田沢道広さんは、公的機関がクマ対策を担う動きは歓迎するとした上で①危険性②地域生③財政支援の3つをポイントとしてあげ、クマ対策のために、ライフル銃に習熟する前に、「わなや散弾銃、追い払いのためのゴム弾や花火弾が扱えるだけでも十分だ。今から人材の裾野を広げていくことが重要だ」と、クマを捕殺できる人材の強化を強調している。

 この3人の主張からは、「クマとの共存」という観点が全く伺えず、横山氏の「政府は人とクマのすみ分けを掲げるが、現体制では不可能だ」の言葉がいみじくも象徴しているように、いかにしてクマを殺すかで共通している。「緊急対応」は分かるものの、あまりにも刹那的な対策に殺伐とするばかりだ。

⚫︎クマと人間の共生共存の道を探れ

 2日後に「日本熊森協会」主催の講演・パネルディスカッションの会場である神戸商工貿易センターに向かった。この場で講演し、討論に参加したのは、主催者を除くと、日本森林生態系保護ネットワーク代表の金井塚務氏、信州大学特任の泉山茂之氏、花巻市猟友会の藤沼弘文会長の3人。詳しくは同協会のHPを見ていただくこととして、三者の主張の中核に絞る。金井塚氏は総括的に「メデイアが森林政策の失敗に触れない」ことの誤りを指摘した上で、「経済優先から生活優先へ、自然を取り戻す」ことの重要性を訴えられた。これには我が意を得たりの思いだった。

 泉山氏が述べた「錯誤捕獲の残虐性」は世の盲点を突いていた。猟銃よりも遥かに多い「わな」による捕獲によって手足を傷つけられたクマの実態は一般的にはあまり知られていない。また、藤沼氏の発言で強い印象を受けたのは、クマが肉食系と草食系とに分化しているとの見立てだった。人間を見て逃げるクマは草食系で、ヒトに向かってくるクマは肉食系だとし、前者は見逃し、後者は撃つべしとの判断基準を示された。クマは「優しい草食系動物」から変容したとみるべきだろう。

 またディスカッションで、「森にとって最も大事な尾根筋を切ってしまう風力発電は危険」「国交省は森林整備に殆ど関心がない」などといった発言も重要な着眼だった。総じて、この場での発言は、クマと人間の共生共存を考えることの重要性が強く印象に残った。その上で、なぜクマが人を襲うようになったのかが分からないとの茂山氏の発言は、率直な疑問で印象深い。

⚫︎問題解決に繋がらない捕獲中心の補正予算

 熊森協会の室谷会長は、補正予算におけるクマ対策費用の大半が捕殺中心であることに疑問を投げかけた。「ワナ」による捕獲が急上昇しているが、集落周辺にワナを仕掛けることがクマを呼び寄せて、定着化を促しかねないと指摘。クマの数を減らせても、クマの学習に繋がらないうえ、共存できないやり方だと批判した。さらに注目されたのは、人とクマの棲み分けに「犬を活用」していく提案である。

 政府がまとめたクマの被害対策パッケージなるものは、緊急対応と、短期・中期的なものとの3段階で構成されているが、いずれも捕殺が目的である。要するに、そこにはクマと人間の共存を目的とした施策は伺えない。それでは、問題の根本的解決には繋がらないというしかない。(2025-12-10)

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【54】交遊60年の親友との「再生旅」を「等伯」ゆかりの七尾で/12-5

 いつの間にやら、金沢からの早朝の列車の中は高校生ばかりになっていた。誰しもが真剣な顔つき、眼差しでノートや参考書風のものに向き合っていた。通常、電車の中はスマホに〝指っきり〟が多いのに。向学心溢れるこの風景は妙に嬉しくなった。僕は興味を唆られる場面に出くわすと、居合わせた人につい声をかけたくなる。だが、この時は思いとどまった。やめとけとの無言のシグナルが連れからあったからである。どうせ、「どこの高校?」「試験なの?」「頑張ってね!」が関の山だったに違いない。つい先日、齢80を迎えたばかりの僕が60年来の親友と金沢で東西から合流して、二日間を過ごした後、向かった先は七尾だった。小説家と弁護士の後輩3人を交えての「金沢5人旅」のあと、初めての地への日帰りの「傘寿旅」にふたりだけで行ったのである◆七尾駅前では等伯の銅像が出迎えてくれた。この地が生み出した絵画芸術の巨人「長谷川等伯」については、安部龍太郎の小説『等伯』を読むまでは全く知らなかった。安部は等伯の法華信仰の核心について、仏教学者の植木雅俊に教えを乞うた。そのエピソードを、日経文化欄で知ってから僕はやっと関心を抱いた。それに比して旧友の等伯への造詣は年季が入っている。先年彼と一緒に京都に行った際に智積院や本法寺に誘われ、あれこれと蘊蓄を傾けられた。ともかく彼は日本の歴史の所在、伝統文化に果てしなき興味を持ち、現に詳しい。この日も、等伯ゆかりの長壽寺に立ち寄って、住職との語らいに時間を割き、「知的貯蔵」を増やしていた。手作りの大きめの彼の名刺の裏には等伯の「松林図屏風」の模写が鉛筆で書かれており、呆れた。一方、駅からのタクシーで同寺に行く際に、七尾との縁が深いという「八百屋お七」のことを、僕は彼に「どんな話なの?」とつい訊いてしまった。彼は待ってましたとばかりに井原西鶴に始まり歌舞伎、浄瑠璃へと繋がる物語の顛末を、スラスラと答えた。で、運転手に「これでいいですか?」と聞く。「はい、それで十分です」との返事が即座に帰ってきた。二人の呼吸が鮮やかだったのには笑えた◆七尾でのもう一つの楽しみはお城だった。といっても僕はこれまた行くまで何も知らず、日本の五大山城の一つということも麓の「城史資料館」で初めて知った。世界文化遺産に輝く姫路城のすぐそばで生まれ育った身には、「百名城」などものの数に入らない。というのも災いのタネかもしれないのだが。7つの尾根筋に作られた〝戦屋敷〟のまるで隠し砦のような姿をビデオで見て、築城した畠山家の凄さを思い知った。金沢でしこたま感じた前田利家、まつの英姿と共に、北陸の強者たちの底力に感じ入ったしだいである。この後、駅近くの一本杉通りが震災の被害が大きかったと聞いて、向かった。随所に倒れたままで放置された商店跡や復旧を急ぐ建物を見た。被災からもうすぐ2年が経つのだが、復興未だしとの状況が十二分に伝わってきた。胸が痛んだ。七尾からの支線に乗り換えると、20分くらいで先日逝った俳優・仲代達矢の「無名塾」に行けるというし、さらにその先には、若き日存分に付き合った後輩の故郷・穴水や姫路の自治会の友人が育った珠洲など行きたい場所があったのだが、時間がなかった◆土地の人には80歳の2人連れが珍しかったと見え。羨ましがられた。どうしたらあなた方のように友人に恵まれるのかと聞かれた。確かに長続きする友は得難い。その秘訣は、お互い尊敬し合うことだと思われる。彼は僕の交友関係の広さを常に愛でてくれるが、僕は彼の貪欲なまでの知識欲にいつも惚れぼれする。傘寿の次に目指すは、85歳であり、米寿だ。尤も、幾ら長生きしても健康でなくては意味がない。「ヨレヨレ寝たきり」ではダメで、目指すは「ピンピンころり」に違いない。いつまでもお互い元気で、また新天地へ旅しようと、別れた。彼はひとりで次の宿泊先の富山・高岡へと向かった。こっちは翌日大阪・生野区に住む草創の大先輩宅に行くために、真っ直ぐ家路についたのだった。(敬称略 2025-12-5)

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【53】変わりゆくものと、変わらざるものと━━晩秋の傘寿を東京で(下)/11-30

⚫︎「世界宗教」の研究者との出会いから━━第二日目

 大井町━━この10年余り、東京の朝はここのJR駅前にあるホテルから出発する。25日は朝8時半、京浜東北線に乗り東京駅を経て中央線で信濃町へ。10時から、創学研究所の蔦木栄一研究員に会った。同研究所は、「信仰と理性の統合を目的に掲げ、創価学会の信仰の学を探究する研究機関」として2019年4月に設立された。この6年間で『創学研究』という名の研究書を、第三文明社から3冊出版。Ⅰ「信仰学とは何か」Ⅱ「日蓮大聖人論」に続いて、このたびⅢ「世界宗教論」が出たばかりである。知的面白さが横溢しているこのシリーズを僕は大好きだ。

 蔦木さんは僕より30歳ほど若いが、様々なご縁が重なりとても親しい。キリスト教哲学者で九州大学名誉教授の谷隆一郎氏が僕の高校同期だと知って、大いに喜んでくれた。久方ぶりの出会いで話は様々に飛び交ったが、ユダヤ、イスラムの宗教実態を研究する彼に、その学びの所産を披瀝して頂き、興味深かった。読み終えたばかりの佐藤優氏の「核戦争の危機と東西対話」(創学研究Ⅲ)と併せて「ガザの悲劇」を考える手がかりの厚みが増した。

⚫︎古き良き時代を知るテレビ記者との懇談

 午後は四谷のホテルに移り、元日本テレビ政治部長で今は「安保政策研究会」の仲間である菱山郁朗さんと会った。この人はかつての公明党番記者だが、年次が少し上で直接の面識はなかった。ところが、安保研で一緒のメンバーになり、慶應同期で日テレの記者だった、今は亡き石井修平の友人だと分かった。この日は石井を偲びつつ、昭和から令和への日本政治を振り返る機会となった。この人は、かつて日中関係の基礎を築いた公明党訪中団に同行された。

 僕らは「三角大福中」と呼びならわされた自民党の派閥の領袖たちの時代をほぼ出発点にして、「永田町」で生きてきた。当時と比較して今は何がどう違ってきたのか。僕は先に読んだ浜崎陽介『日本人の作法 高貴さと卑小さ』の政治家篇やら、座談の際の僕のオハコである「日ロ10人のトップ比較ギャグ」を通してその悲惨さを語った。菱山さんも同意された。ともあれ「日本の政治と政治家」の60年を見てきた者同士の話は尽きない。今後の安保研リポート誌上での「競筆」をお互いに誓い合って2時半に別れた。

⚫︎公明党論を戦わせた記者との語らい

 同じホテル内の喫茶店で3時前から4時半まで、今度は社会調査研究センターの平田崇浩さんと会った。彼は僕の現役時代に付き合った記者だが、引退後も交流を重ねる数少ない友人のひとりである。この人との最大のご縁は、毎日新聞紙上での「市川雄一氏を悼む」の執筆を依頼されたり、週刊エコノミスト2022年3-1号のコラム『東奔政走』に、拙著『77年の興亡』をとりあげてくれた。前者は「恩人の逝去」に僕が「思いの丈」を込め、後者は彼から公明党への「嘆きの丈」をぶつけられた。「明治77年と戦後77年 『第2の敗戦」避ける知恵を』と題された論考は、中々手厳しいものだった。

 僕は、公明党の人間でありながら、引退後の10年余り、「苦言」を放ち続けた。その集大成とも言うべき著作への「苦稿」を前に、ほろ苦さは混じったものの、妙な甘美さを味わったことを思い出す。この日に彼と会ったのは、立場の違いを超えて、日本の未来にとって漸く一つの「光明」が見えるに至ったことを確認したかったからだ。「連立」が「自公から自維へ」と変わったことは、価値観の混交状態を整理し得たことに繋がる。その「偶然性」をめぐっての対話は中々興味深いものだったといえよう。

 夜は西麻布の霞会館で開かれた姫路出身在京仲間たちの「姫人会」に参加した。僕の上京に合わせて開いて頂く恒例の催しだが、毎回とても刺激を受ける楽しい集いだ。この日の参加者は全部で8人。いつもながらの多士済々の面々たちの談論風発は心地よかった。ただし、ここ数年の兵庫県政の混迷ぶりについては暗さが募った。N党の「立花孝志」の逮捕をシオに収束を期待する向きもあったが、大勢は否定的。悪意と虚報による世論操作で「虚像の知事」を当選させた男と、それを可能にした兵庫県民。この「誤作為と不幸の連鎖」への「嘆きの連続」に、責任ある政治家の一人として聞く身は辛かった。

⚫︎公明新聞の大先輩からの励まし━━第三日目

 翌26日は公明党のOB議員で構成される大光会の県代表者会が南元町の党本部で昼過ぎに開かれた。朝早くにホテルを出て、中野区のカネコ理髪店に足を運んだ。ここに通い始めて43年余。懐かしい店主も寄る年波に勝てず、とうとうこの月末で閉店することになった。最後のカットに涙する思いだった。

 大光会には全国各地から〝往年の名選手〟たちが集ったが、構成年齢層は幅広い。多くの共戦の友としばしの歓談をしたが、姿の見えない仲間が増えてきたのは寂しい。全てが終わって帰神する前に、公明新聞社に立ち寄った。そこでは同社を84歳の今も支え続ける邊見弘さんが待ってくれていた。市川主幹のもとで共に訓練を受けた得難い大先輩である。「数多いる引退議員の中で一番活躍しているね」と褒め過ぎられたのは恥ずかしい。市川さんの価値を骨の髄まで知る数少ない人の励ましを胸に、貴重な情報交換もそこそこに、18年間の「学び舎」を辞した。(この項おわり 2025-11-30)

 

 

 

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【52】めでたくもあり、せつなくもあり━━晩秋の傘寿を東京で(上)/11-29

 とうとう僕も80歳になった。傘寿は「おめでたい」というべきか、それとも「せつない」とみるべきか。偶々この記念すべき日・11月26日に、東京で公明党関連の行事が行われることになった。これを機に26日をゴールに、24日から2泊3日の予定を組み立て、上京した。3箇所での集いを設定し、自ら呼びかけもした。一方、懐かしい人7人に個別に会いたいと声をかけた。目いっぱい動き回って、充実した対面懇談をしてきた。しめて37831歩。距離にして26481㍍。朝は8時から夜は10時まで。よく喋ってよく歩いた。ちょっぴり疲れた。以下はその顛末。上下2回に分けて報告したい。

 ⚫︎始まりは、田町・慶応仲通りの中華店から━━第一日目

 JR田町駅から慶應義塾のある三田山上(山というより丘だが、なぜかそう呼ぶのです)までは、僅か10分ぐらい。そこに至るにも近道があって「慶応仲通り」と呼ばれる。飲食店を中心にした商店街で出来た狭い脇道である。ここを昭和42年4月から44年3月までの2年間、僕らは人それぞれ曲がりながらもせっせと通った。

 24日正午に中華飯店に集まったのは9人。クラス会も往時は30人ほどは集まったが、近年は少なくなる一方で、ついに一桁台になった。やってくる面子はやはり逞しい。ギターを抱えて『ベサメムーチョ』を唄うT君はアイ・ジョージを彷彿とさせたし、歌舞伎「弁天小僧菊之助」の浜松屋出店の一幕の口上を滔々と誦じ続けたO君(写真中央)など、見た目はともかく頭脳年齢は働き盛り。若さが漲る。他にも「古文書研究」に精を出すA君は、老後の嗜みを遥かに超えたプロ級の腕前とか。好奇心は果てしない。

 僕は「近況報告」の際に、今年出版した『ふれあう読書━━私の縁した百人一冊』下巻の話をした。福澤諭吉が文明開化の手ほどきの書として著した『学問のすすめ』に触れて、この書物が実は『交際のすすめ』でもあるとの自論を強調した。福澤は「言語容貌も人の心身の働なれば、これを放却して上達するの理あるべからず」と、顔色、容貌、そして言葉が「人間交際」にとって最も大事なことだと、巻末で訴えている。交流のあり様を百人に分けて論じた僕の企みとの一致。諭吉先生との不思議な一体化。我が80歳の年に、「人生の卒論」を塾の創始者に認めて貰った気がした。『学問のすすめ』をそう「改読」したのである。

⚫︎海外駐在の若手銀行マンとの懇談

 午後3時からは、帝国ホテルに移り、畏敬する後輩H君と会った。彼は若き日より僕を慕ってくれた得難い男だが、苦節の日々を乗り越えて、企業人として相応の成功を収めていることは嬉しい限りだ。彼は愛息を同伴してきてくれた。30年近く前に彼の自宅で会っていた。幼な子は凛々しい若武者へと成長を遂げていた。銀行マンとしての〝戦場〟が香港からニューデリーに移るという。再会は残念ながら慌ただしかった。

 「生命の世紀」と21世紀を位置づけられた池田大作先生のもと、「世界平和」実現の幕間と捉えてきた僕らにとって、現状は極めて厳しい。後事を青年世代に託すほかなく、できるだけ若者に会おうと僕は決意している。その意味でも良き機会を作ってくれたH君に感謝をしつつ束の間の会話に力を注いだ。香港、インドという現代アジアの最先端地域で、腕を奮い知恵を試す場に挑む青年に微力ながらのアドバイスの言葉を費やした。だが、刺激は若者よりも、当方が存分に受けたに違いない。

⚫︎往年の番記者たちとの久方ぶりの出会い

 夕刻6時からは新橋の中華料理店で。先年、市川雄一党書記長を偲ぶ会をやった際に尽力してくれた番記者諸氏男女5人が集まってくれた。当時30代前半だった皆は時の流れと共に新しい道に進んでいる。変わり種は、女性放送記者から大学教授(兼広報部長)に転身して数年が経つYさん。最近の大学生気質や、大学経営の大変さを語ってくれた。

 また、中学校での数学の授業を理解することが難しい生徒のために、個人教授ボランティアをやっているAさんの苦労談はとても新鮮だった。どうしても分からなかった問題がわかるようになって、試験もうまくいったとの体験は感動を呼んだ。「テレビの世界」を続けながらの彼の「余技」に皆が感激した。「リカレント教育」の大事さをふと思った。

 「連立離脱」という選択決断に至った経緯や、いわゆる極中道や真中道といった路線にまつわる質問が僕には向けられた。「安保研リポート」に書いた論稿を皆にラインで事前に見せていたので、それを読んだ上での問いかけもあった。久方ぶりに党広報局長をやっていた昔むかしを思い出した。ついつい乗ってしまっての長話。それを我慢して辛抱してくれた「聞き上手」たちに、感謝するしかなかった。(以下続く 2025-11-29)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類