Monthly Archives: 1月 2019

❸どこまでも続くものとしての「人間革命」

「人間革命」なんて、出来るわけないやんー私が家族の中で一人信仰生活に入ってまもない昭和40年代半ば頃に、母は泣くようにこう私に呟いたものです。若い世代の「社会革命」への渇仰が時代の隅々までを覆っていた時に、創価学会の池田大作先生が高らかに掲げたものこそ「人間革命」の旗印でした。マルクス主義による社会変革の押し寄せる波に対して、本能的に忌避感を抱いた私にとって、この言葉の持つ響きには心底から揺さぶられる魅力を感じました。熱い思いで、人間変革こそ先行すべき指標だと語る息子に、母は「若さ」への、そこはかとない危機感を持ったようです。

母の思いの背景には、人間革命という言葉の響きに、人の性格を変えるというイメージがつきまとっていたようです。世に遍く広がる変身願望的なるものには、人の成り立ち、佇まいをガラッと変えてしまう、いかにも今の自分からあたかも別人のようになることへの期待感があります。しかし、仏法では性格は三世変わらないものとして捉えており、人間革命とは、もっとリアルな観点にたつものとの位置付けです。

池田先生は、「人の幸福を祈れば、その分、自分が幸福になっていく。人の健康を祈れば、その分、自分の健康も守られるーこれが妙法の不思議な力用(りきゆう)である」と述べられ、人間の偉大さは「『利己』と『利他』のどちらに力点があるか」だと迫られています。そして「『利己』から『利他』へと」の「ダイナミックな生命の転換」を「偉大なる人間革命」と規定されています。

かつて、自身の病としての肺結核を、闘病最中における池田先生との劇的な出会い(昭和43年4月26日)が機縁となって根治させたものの、50年代になって、次々と新たな障魔が立ち現れました。母の胃がん発病、妻が身篭った子供の相次ぐ流産と早産。義父の倒産と多額の負債。個人的悩みの多発を前に、解決を祈りつつ、心の底から「もっと大きな問題で悩みたい」と思ったものです。自分及びその周辺のことではなく、日本の、世界の難題に立ち向かいたいと。あれから40年ほどが経って、確かに大きなことで悩めるようにはなりました。

こうしたことを総合して勘案すると、人間革命をより具体的に分かりやすく表現すると、境涯革命ということになりましょうか。小さな、自分のこと、身の廻りのことしか考えられない境涯から、大きい、他人のこと、世界のことを考え悩む境涯へ。これが人間革命というものの実態だと思います。従って革命成就は固定的に捉えるというよりも、常に動的なものとして見るべきかもしれません。「利他」の命を身に定着させるべく、「利己」に走りやすい我が身の至らなさを常に自戒するー終わりのない持続的なものとしての人間革命。亡き母に認めて貰いたい一心は今もなお続いています。(2019-1-31)

 

 

 

 

 

 

 

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❷自立心引き出す手立てとしての唱題

繰り返しの無意味さを指摘する文脈で、「お題目のように無意味なことを繰り返す」云々という表現を、私たちは時々目にすることがあります。こうしたことに出くわすたびに、私はなぜ、名目、主題だけを繰り返すことに、宗教批判まで加えるのかと疑問を抱きます。お題目が意味がなく、無価値であるってどうして断定出来るのか、との素朴だけど重要な疑問です。

かくいう私もお題目を唱えることへの違和感がなかったか、と言いますと、当然ありました。紙に書かれた文字を見つめて、口に南無妙法蓮華経と唱えることを繰り返して、どうして人は成仏でき、幸福になれるのかとの疑問をずっと抱いてきました。かつて先輩に会うたびに、この根本的疑問を突きつけて、その人の答え方を聞き出そうと迫ったものです。

この世における究極の最高の実体を、具現化したもの(御本尊)に対して、身も心も尊敬の念を抱きつつ南無妙法蓮華経と繰り返すことで、自らの体内に宿る尊極の生命状態が湧き出てくる、というのが行き着いた答えの決定版です。信仰生活の中で感得し、体得出来ました。簡単に言ってしまえば、最高のものに縁することで、同等のものが自らの五体から出てくるという原理です。その原理は、主体と環境の関係でいい表せます。

宗教といえば、頼る、すがるイメージ。つまり、自立ではなく、他者依存の傾向が強いものとして、位置付ける向きが多いと思われます。私もそう捉えていました。しかし、日蓮仏法を知って、それは全く違うことに気付きました。自己に内在する最高究極の仏界の生命状態を、仏界を具現化したものとしての御本尊を前に(縁すること)おいて唱題することで、内より引き出すことは、いわゆる他者依存ではないということを自覚したのです。しかもその祈りは、「誓願」を本旨とします。誓いと願いの一体化です。誓いの意思あるところに、願いの成就ありと言えるのです。日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」(日女御前御返事1244頁)と述べています。ここで言われている「仏」とは、いわゆる最高無上の人格との位置付けよりも、生命力に満ちたパワフルな人との捉え方を私はしています。(2019-1-15)

 

 

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❶仏法哲理と共に生きて50年余

はじめに

私が日蓮仏法の信者になったのは昭和40年。大学一年の時です。早いもので、54年が経とうとしています。この間に様々なことを見聞し、経験し、考えてきましたが、それをこの辺りで残しておこうと思うに至りました。ひとの一生はその人間の記憶にあるだけ、亡くなれば全て消え去ってしまうというのでは、いささか無念な思いが残ります。仏法哲理の凄さに私は目くるめく思いを抱きつつ、無我夢中に生きて、それなりに思索めいたことも凝らしてきました。自分自身で書き残しておけばそれでいいというものでしょうが、そこはIT時代ゆえ、簡単な手作業で世に同時公開できます。そうすることによって友人、知人、隣人たちに、そして子や孫たちに考える材料を整理して提供できることが可能になります。かつて、新聞記者として社会人のスタートを切った私は、自分の書いた原稿が活字になって翌朝紙面を飾る醍醐味に酔いしれました。やがてそれは、ワープロの登場で、印刷工場での作業を待たずに瞬時に自分の手で印刷されることが可能になりました。それが今では、パソコンの活躍を経て、更にスマホやアイパッドによって活字は空間を自在に飛び交うようになったのです。私の世代より少し前の先輩たちはネットを使いこなせぬままに消えていこうとしています。彼我の差の大きさに息を飲む思いです。戦後世代のトップ、つまり団塊の世代のちょっと先を行く、〝弾頭の世代〟(昭和20年生まれ)のひとりとして、これから少しづつエッセイ風に書いて行くつもりですので、お付き合いいただければ幸いです。(2019-1-5)

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