●大学会総会での「総体革命」講演
これまで革命というときは、一般的に政治、経済、社会の革命をさすとされてきました。それに対して創価学会では、トータルな意味での「人間」を革命することが第一であるとの立場を強調しています。この章は、1972年(昭和47年)1月2日の大学会総会での伸一の「総体革命」論の講演から始まります。
「総体革命」とは、「立正安国」の現代的表現で、同意義であるとしたうえで、「どこまでも人間を原点とし、仏法によって社会建設の主体である人間を変革する、人間革命が根本となります。人間こそ、社会を形成する基盤である。ゆえに、人間の生命が変革されれば、それは人間社会のすべてに反映されていきます」(24頁)と述べました。
この講演を聞いた当時の学生たちは、教育、科学、政治、経済、芸術などのあらゆる分野に進出して、そこでの「一流人」を目指しました。その際に私は、総体革命と人間革命を別のものと捉えるのではなく、「人間総体」と見做し、一体的に呼称することの大事さを感じました。でないと自分自身の生命自体を変革することを後回しにして、目の前にある相対的な事物・事象を変革することに目が向いてしまうと思ったからです。「人間総体革命」と「社会相対革命」は違うことを、自らに戒めたかったからです。
●新宿区での写真撮影会
この年は「地域の年」と銘打たれていました。1月15日には新宿区で最前線の幹部との記念撮影会が区内の体育館で行われたのです。この日は、あいにくの雨でした。参加した人々、特に婦人部のリーダーたちの落胆は大きいものがあったはずです。伸一は価値創造の源泉である仏法の原理を語っていきます。(33-52頁)
「時には、祈っても、思い通りにならない場合もあるかもしれない。でも、それは、必ず何か意味があるんです。最終的には、それでよかったのだと、心の底から、納得できるものなんです」「要はどんなことがあっても、そこに、何か意味を、喜びを、見いだして、勇んで挑戦していくことが、価値の創造につながるんです。それには、人生の哲学と智慧、そして、生命力が必要になる。実はそのための信心なんです」
【物事をどうとらえるかが「哲学」である。一つ一つの事柄を悲観的にみるか、否定的にみるか、肯定的にみるかーで、人の生き方は全く異なってくる】
私は信心を始めた場所は中野区の下宿先でしたが、社会人になってからは、文京区の社員寮を経て、新宿区の社員寮へと移転していました。組織的には高等部の担当幹部についており、この日も高校生たちと一緒に参加していたのです。懸命に記者業に取り組む一方、未来を築く若者たちへの激励に汗を流していました。そうした時のこの撮影会(新宿1-15グループ)での一連の体験を通じ〝一皮剥ける〟成長が出来たと実感できました。それはすべてを決する根本は生命力であり、その源泉は唱題だということを再確認したことだったのです。
●復帰直前の沖縄へ3年ぶりの訪問
1月29日。伸一は3年ぶりに沖縄に向かいます。戦争が終わって27年間もの長きにわたって、米国の施政権下に置かれてきた沖縄は、この年5月15日に返還が決まっていました。今回の訪問目的は、那覇とコザのメンバーとの記念撮影、コザ会館の開館式でした。これらの行事での同志との触れ合いで、伸一は【復帰後の沖縄を、真実の『幸福島』にしていけるかどうかは、一人ひとりの宿命の転換以外にないことを強く訴えたかった】のです。(52-103頁)
男子部との記念撮影で、一人の青年の腕を握り、肩を叩き、こう訴えます。
「二年後また来るから、その時には、一段と成長した姿で会おう。沖縄には、本土の犠牲となり、苦渋を強いられてきた長い歴史がある。(中略) 過去のみにとらわれ、被害者意識に陥っていれば、本当の建設はできません。被害者意識は、所詮は受け身の生命なんです。そこから生まれるのは憎悪であり、それは破壊のエネルギーにしかなりません。また、あきらめと無気力を生みます」(82頁)
ここに述べられた伸一の思いは、沖縄への根源的な姿勢を表しています。過去のみにとらわれず、未来に向けて真の建設をするべく立ちあがろう、と。復帰後50年が経って、現在の沖縄は表面的には「変わらざる基地の島」ですが、学会同志のメンバーの壮絶な闘いぶりは見事に「幸福島」として開花しています。その背景には、「二年後また来るから」の呼びかけにあるように、伸一の「入魂」の継続があったのです。
戦後77年の転機に、ロシアのウクライナ侵略という、〝歴史の逆転〟と言わざるを得ない事態が発生しています。これをどう捉えるか。これまで日本人は「沖縄」を基軸に「戦争と平和」を考えざるを得なかったのですが、これからは「ウクライナ」が加わり、より深刻になりました。(2022-3-31)