Monthly Archives: 3月 2022

【63】「人間総体」との捉え方ー小説『新・人間革命』第16巻「入魂」の章から考える/3-31

●大学会総会での「総体革命」講演

 これまで革命というときは、一般的に政治、経済、社会の革命をさすとされてきました。それに対して創価学会では、トータルな意味での「人間」を革命することが第一であるとの立場を強調しています。この章は、1972年(昭和47年)1月2日の大学会総会での伸一の「総体革命」論の講演から始まります。

 「総体革命」とは、「立正安国」の現代的表現で、同意義であるとしたうえで、「どこまでも人間を原点とし、仏法によって社会建設の主体である人間を変革する、人間革命が根本となります。人間こそ、社会を形成する基盤である。ゆえに、人間の生命が変革されれば、それは人間社会のすべてに反映されていきます」(24頁)と述べました。

 この講演を聞いた当時の学生たちは、教育、科学、政治、経済、芸術などのあらゆる分野に進出して、そこでの「一流人」を目指しました。その際に私は、総体革命と人間革命を別のものと捉えるのではなく、「人間総体」と見做し、一体的に呼称することの大事さを感じました。でないと自分自身の生命自体を変革することを後回しにして、目の前にある相対的な事物・事象を変革することに目が向いてしまうと思ったからです。「人間総体革命」と「社会相対革命」は違うことを、自らに戒めたかったからです。

●新宿区での写真撮影会

 この年は「地域の年」と銘打たれていました。1月15日には新宿区で最前線の幹部との記念撮影会が区内の体育館で行われたのです。この日は、あいにくの雨でした。参加した人々、特に婦人部のリーダーたちの落胆は大きいものがあったはずです。伸一は価値創造の源泉である仏法の原理を語っていきます。(33-52頁)

 「時には、祈っても、思い通りにならない場合もあるかもしれない。でも、それは、必ず何か意味があるんです。最終的には、それでよかったのだと、心の底から、納得できるものなんです」「要はどんなことがあっても、そこに、何か意味を、喜びを、見いだして、勇んで挑戦していくことが、価値の創造につながるんです。それには、人生の哲学と智慧、そして、生命力が必要になる。実はそのための信心なんです」

 【物事をどうとらえるかが「哲学」である。一つ一つの事柄を悲観的にみるか、否定的にみるか、肯定的にみるかーで、人の生き方は全く異なってくる】

 私は信心を始めた場所は中野区の下宿先でしたが、社会人になってからは、文京区の社員寮を経て、新宿区の社員寮へと移転していました。組織的には高等部の担当幹部についており、この日も高校生たちと一緒に参加していたのです。懸命に記者業に取り組む一方、未来を築く若者たちへの激励に汗を流していました。そうした時のこの撮影会(新宿1-15グループ)での一連の体験を通じ〝一皮剥ける〟成長が出来たと実感できました。それはすべてを決する根本は生命力であり、その源泉は唱題だということを再確認したことだったのです。

  ●復帰直前の沖縄へ3年ぶりの訪問

 1月29日。伸一は3年ぶりに沖縄に向かいます。戦争が終わって27年間もの長きにわたって、米国の施政権下に置かれてきた沖縄は、この年5月15日に返還が決まっていました。今回の訪問目的は、那覇とコザのメンバーとの記念撮影、コザ会館の開館式でした。これらの行事での同志との触れ合いで、伸一は【復帰後の沖縄を、真実の『幸福島』にしていけるかどうかは、一人ひとりの宿命の転換以外にないことを強く訴えたかった】のです。(52-103頁)

   男子部との記念撮影で、一人の青年の腕を握り、肩を叩き、こう訴えます。

 「二年後また来るから、その時には、一段と成長した姿で会おう。沖縄には、本土の犠牲となり、苦渋を強いられてきた長い歴史がある。(中略)  過去のみにとらわれ、被害者意識に陥っていれば、本当の建設はできません。被害者意識は、所詮は受け身の生命なんです。そこから生まれるのは憎悪であり、それは破壊のエネルギーにしかなりません。また、あきらめと無気力を生みます」(82頁)

 ここに述べられた伸一の思いは、沖縄への根源的な姿勢を表しています。過去のみにとらわれず、未来に向けて真の建設をするべく立ちあがろう、と。復帰後50年が経って、現在の沖縄は表面的には「変わらざる基地の島」ですが、学会同志のメンバーの壮絶な闘いぶりは見事に「幸福島」として開花しています。その背景には、「二年後また来るから」の呼びかけにあるように、伸一の「入魂」の継続があったのです。

 戦後77年の転機に、ロシアのウクライナ侵略という、〝歴史の逆転〟と言わざるを得ない事態が発生しています。これをどう捉えるか。これまで日本人は「沖縄」を基軸に「戦争と平和」を考えざるを得なかったのですが、これからは「ウクライナ」が加わり、より深刻になりました。(2022-3-31)

 

 

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【62】地域に人間主義の花をー小説『新・人間革命』第15巻「開花」の章から考える/3-25

●牧口先生生誕100年から創価学会創立100年へ

 1944年(昭和19年)に獄死された初代会長・牧口常三郎先生。それから27年。1971年(昭和46年)6月6日は生誕百年の記念日でした。その日胸像の除幕式が聖教新聞本社前で行われたのです。伸一が先師の死身弘法の大闘争をしのぶところからこの章は始まります。

 〝牧口先生、私は先生の敵を必ず討ちます。先生を獄死させた権力の、魔性の牙をもぎとってみせます。そして人間主義の平和と人道のスクラムをもって、傲岸な権力を抑え、民衆が喜びにあふれた社会を築いてまいります。それが私の仇討ちです〟(309頁)

    牧口先生が誕生されたのは1871年(明治4年)。青年期を明治に生き、壮年の只中を大正期に過ごし、昭和5年には創価教育学会を創立されました。還暦直前です。73歳までの14年間は、「15年戦争」と呼ばれるあのアジア・太平洋戦争の全体とほぼ重なっています。創立100年の2030年までを目標にして生きる私たち。三代の会長を苦しめ抜いた権力・国家悪への仇討ちと、民衆讃歌の社会構築の実現を忘れずに、生き抜きたいと思います。

●大沼研修所と月の写真とカメラへの思い

 一転、舞台は2日後の北海道大沼研修所の開所式へと移ります。ここからは伸一の写真、カメラとの関わりが具体的な場面と共に語られ、その後の写真家たちとの交流、各地での写真展の開催などに及びます。私は次の一コマに感動します。(309-330頁)

   【東の空を見た伸一は、思わず息をのんだ。雲の切れ間から、大きな、大きな、丸い月が壮麗に辺りを圧し、煌々と輝いていた。先ほどの空の明るさは山の背後に隠れていた、月の光であったのだ。月は天空に白銀のまばゆい光を放ちながら、悠々と荘厳なる舞を見せていた。そして湖面には、無数の金波、銀波が華麗に踊っていた】

 月に向かい、夢中でシャッターを切り続ける伸一。人生での「一瞬」の大切さの強調。思わず目を瞑って連想が広がります。かつて高校生たちと大沼研修所で御書を研鑽した雪の日のあの熱い思い。夕闇迫る但馬の山間でいきなり巨大なお盆のような満月に出くわした瞬間の驚き。そして喜びを。過ぎ去った歳月の重みと共に。

 『月こそ心よ、花こそ心よ』(白米一俵御書)という日蓮大聖人のかの有名なお言葉は、人生と芸術との関わりに深い思いをもたらせます。先だって読んだ『法華衆の芸術』(高橋伸城)で改めて、「芸術創造の触媒になった日蓮仏法」の凄さを実感しました。仏像美術に関心が持てなかった私ですが、光悦、宗達、永徳、等伯らから、北斎、国芳らに至る法華衆の人材山脈の豊かさには、心底からめくるめく感動を覚えました。

●鎌倉と三崎における地域交流の模範

 鎌倉祭りと三崎カーニバル。神奈川県の鎌倉市、三浦市という二つの地域での催しは、創価学会の地域交流の新たな試みとして、1971年(昭和46年)7月22、23の両日に行われました。【創価学会と社会の間には、垣根などあってはならない。学会の発展は、即地域の興隆であり、社会の繁栄であらねばならないからだ】との伸一の強い信念に基づき、これは催され、以後全国の会館と地域との関わりの模範となっていきました。

 【鎌倉は、大聖人が「たつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや」(御書1113頁)と仰せの天地である。その鎌倉に、そして、神奈川に、広宣流布のモデルを築くことは重大な課題である】ーこの指摘は鎌倉という、ブランド力の高い地を一段と高からしめるものとして、世の歴史好きの関心を更に深めるものといえましょう。

 今年2022年のNHK 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。私も毎週興味深く見ています。喜劇作家三谷幸喜さんの脚本は出色です。面白過ぎて嫌だという人もいるかもしれませんが。時代考証担当の坂井孝一創価大学教授(『承久の乱』の著者)の解説の味わい深さなどをTV「英雄たちの選択」で見て、益々「鎌倉」に嵌まっています。

●世界ジャンボリーの緊急避難受け入れ

 この章最後は、朝霧高原で開かれていたボーイスカウトの世界ジャンボリーが台風の襲来で、総本山富士大石寺に緊急避難してきた時のことが述べられていきます。同年8月5日未明。当時7000人の高校生たちが夏期講習会に参加していました。そこに6000人を受け入れてほしいとの要請が舞い込んできます。(373-397頁)

 これを聞いた伸一は間髪を容れず「受け入れるのは人間として当然です」と述べました。次々と指示が出される様子がリアルに語られていきます。腰の重い宗門側との対比もくっきりと。

 実は私は担当幹部の一人としてこの場にいました。中心のことは知る立場ではなかったのですが、後で一部始終を聞き、深い感動を新たにしました。凄い師と共に生きる有難さを感じたのです。(2022-3-25)

 

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【61】未来に続く師弟の深い絆ー小説『新・人間革命』第15巻「創価大学」の章から考える/3-19

●八王子の美しい夕日と創価大学と

     創価大学は、昨2021年に大学が完成して50年を迎えました。開学された1971年(昭和46年)の4月2日、伸一は恩師・戸田城聖の墓前で深い祈りを捧げていました。その日は、恩師の命日。師弟の大学設立にかけた深い絆が語られていくところから、この章はスタートします。

【伸一は、その八王子という名の場所に、大学が建つことに、深い意義を感じたのだ。彼には、法華経の八王子の教えは、智慧の光をもって、世界を照らし出し、人類の幸福と平和を築く多くの人材を輩出する創価大学の使命を、象徴しているように思えてならなかった】(110頁) 法華経に説かれた8人の王子のことがその名の由来である八王子は、夕焼けが美しいことでも知られています。

【伸一はこの八王子で、何度か夕焼けを目にする機会があったが、その美しさにも魅せられていた。真っ赤に西の空を染める夕日は、荘厳であり、完全燃焼し抜いた勇者の気高さを感じさせた。童謡の「夕焼け小焼け」は、八王子の夕焼けを歌ったものといわれる。】(109頁)

 大学がこの地に出来るということを教えていただいたある日。私は壮大な創設予定地を見渡せる場所に立っていました。命の底に、瞼の奥に、あの時の夕日の美しさが50年以上経っても焼き付いています。

 創価大学にはそれぞれの分野で第一人者といわれる、錚々たる学者が集まって来られました。私の興味のある分野では、『国家悪』の著書で知られる大隈信行先生がおられたのです。実は、つい先程、創価大学に「大沼保昭」文庫が開設され、それを記念するシンポジウムが同大学平和問題研究所主催でオンラインによって行われました。大沼保昭さんは東京大学に長く在籍された著名な国際法学者で、大隈先生に深く師事されていました。

 つい先年亡くなられたのですが、大隈先生とのご縁からその膨大な蔵書が寄贈され、文庫として活用されることになったのです。大沼さんは公明新聞にもPKO(国連平和維持活動)の時を始め、しばしば寄稿していただくなど、公明党と深い関わりを持ってくれました。私とは同い年ということもあり、個人的にも様々な交流を持たせていただきました。

●中世スコラ哲学の講演の持つ意味

 伸一は創価大学の学生からの要請を受けて講演を幾たびかしています。1973年(昭和48年)の寮祭・第二回「滝山祭」での「スコラ哲学と現代文明」は、中世ヨーロッパ哲学に対するそれまでのキリスト教神学の〝御用哲学〟であるとのとらえ方を根底的に見直すものとして注目されました。(235-237頁)

 【伸一は、この講演で、『スコラ哲学』は中世暗黒時代の象徴などではなく、むしろ、近世、近代の出発点であると、とらえ直したのだ。また、その時代は中世ヨーロッパを象徴するゴシック建築やボローニャ、パリ、オックスフォード、ケンブリッジ等の大学の形成に見られるように、優れた文化が花開いたことを述べた。さらに、この『スコラ哲学』の時代に、ヨーロッパ文明の原型が実質的に完成し、ルネサンス、宗教改革、ナショナリズムの勃興など、幾多の変遷を重ねながら、現代文明が築かれてきたことを論じていった】ーこの45分間の講演は【創価大学の使命を明らかにし、学生たちに次代を建設する深い自覚を促す、歴史的な講演となったのである】とされています。

 実は、私の高校時代の友人で、「スコラ哲学」の研究を始め、日本でも著名な哲学者がいます。その彼も、この講演を読み、深く感銘を受けたといいます。私はいま彼を東洋哲学研究所に誘いたいと決意しています。

 キリスト教神学については私自身、ありきたりの位置付けや勝手な思い込みをしていましたが、この講演で覚醒させられた思いがあります。この10年あまりの作家・佐藤優さんの壮絶な文筆活動の影響も少なくありません。創価大学での伸一の講演により、歴史認識にあっても、既成概念に捉われずに自由な挑戦をする大事さを学ぶことができました。

●深い感銘受ける「霊山一会儼然未散」の原理

 伸一の創価大学生への厚い思いは枚挙にいとまがありませんが、私が一番感銘を受けたものは「霊山一会儼然として未だ散らず」との原理を一期生に語る場面です。(287頁)

「散ってなおかつ散っていない」という原理を明かし、生涯、「創価大学の一会儼然として未だ散らず」の心で生き抜くことを盟約にしようと提案されています。卒業して離れ離れになろうとも、生涯創大卒の誇りを忘れるな、との激励を学生たちは受けました。

 福澤諭吉の作った慶大、大隈重信の早大、津田梅子の津田塾大など、創立者と学生の絆は100年を超えてなお深く強く語られています。創大は21世紀を経て更なる未来へと、輝く師弟の絆が語られていくのです。50年を超えた今、身の回りにいる創大生への激励を決意しています。(2022-3-19)

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【60】「公害」との闘いの原点ー小説『新・人間革命』第15巻「蘇生」の章から考える/3-13

●公害問題への告発と言論戦

 人間文化創造への本格的な取り組みー1970年(昭和45年)5月3日の本部総会以降、創価学会は現代社会の歪みを是正する試みに動きます。その一つが公害問題への告発でした。伸一は総会でこの問題に言及したあと、8月に夏季講習会でその問題の本質に迫る一方、2つの原稿で言論戦を展開しました。総合月刊誌での『日本は〝公害実験国〟か!』と、「東洋学術研究」(東洋哲学研究所)での『人間と環境の哲学』です。

   前者で伸一は、「これから、真の公害として対処しなければならないのは、広範な地球的規模での、空気、水、土地の破壊、汚染である」と訴え、公害の要因として「進歩への信仰であり、環境支配のあくなき欲望である」と結論づけました。そして、公害を克服するために、「誤った〝人間生命の尊厳観〟こそ、無制限な自然の破壊と汚染を生んだ元凶に他ならない」としたのです。(25頁)

 後者で彼は、「公害問題の淵源は、自然はいかに破壊されても調和を保っていくという楽観論と、人間こそ宇宙のいっさいに君臨すべく資格を与えられた万物の霊長であるとする考え方にあると断じた」(30頁)

 公害問題はこの当時から50年を経て、収まったかに見えます。しかし、その原因が企業の犯罪から、国家及びグローバルな問題へと、拡大変化しただけかもしれません。地球が今や滅亡への道を歩んでいるかも、との危機感の共有が求められています。また、正しい人間生命の尊厳観こそ東洋思想の仏教にあり、人間と自然を対立的に捉える西洋思想が孕む問題点が一段と鮮明になったということではないかと思われます。

 ウクライナへのロシアの侵略という悲惨な現実を前に、人類の進歩という見方がいかに楽観的に過ぎるかということを痛感します。ひとたびは資本主義との戦いに敗れた共産主義が専制主義国家に衣替えして蘇ろうとしています。その悪夢に、戦慄を覚えるのみです。いま、隣国中国がどう出るかが注目されています。同じような出自を持つ国家同士の連帯で、西欧の民主主義と戦うのか。それとも儒教と無縁でない専制主義国家として西欧国家群との連帯の道を選択するのか。世界が固唾を呑んで見守っています。日蓮仏法を持する創価学会SGIの世界平和への祈りと、国家を超えた連帯の総和の発揮が待望されます。

●イタイイタイ病に見る公明党の戦い

 この章では、具体的な公害としてイタイイタイ病と水俣病が取り上げられています。前者は富山県神通川流域、後者は熊本県南部の水俣が舞台です。それぞれ大手金属会社鉱業所が流すカドミウム、化学会社の工場排水に含まれるメチル水銀化合物が原因でした。

 イタイイタイ病は1961年(昭和36年)6月に、地元の萩野昇医師の整形外科学会総会の場での原因発表が発端でした。以後、被害患者の激痛を伴う死をよそに、徒に時が過ぎました。5年半ほどが経って、1967年(昭和42年)に、この問題の研究を続けていた岡山大の小林純教授から公明党本部に連絡があり、一気に事態は動くことになります。公明党の大矢良彦参議院議員が参議院「公害特別委員会」でこの問題を取り上げました。小林や萩野と連携を取り、患者の皆さんが実情を聞き綿密な実態調査をした上での質問でした。ここから厚生省・政府も重い腰を上げ、事態は解決に向かい、一年後の1968年5月に公害認定がなされたのです。

 【国民の生命を守ろうとする政治家の一念が、遂に政府を動かしたのだ。最も苦しんでいる人に、救済の手を伸ばすことこそ、政治の原点である。公明党結党の意義もそこにある】(13頁)

   このイタイイタイ病が政府の公害認定の突破口となり、同年9月の水俣病へと続きます。私が公明新聞に入社する前年の出来事ですが、これこそ先輩たちの新聞記者としての闘いの原点となりました。その後の一連の公明党の公害追及の動き、その報道へと受け継がれていくのです。

 今コロナ禍で、多くの貴重な生命が奪われていますが、ここでの公明党の戦いもまさに目を見張るものがあります。朝日新聞サイト版『論座』で現在連載中の『政党としての公明党』では、筆者の岡野裕元氏(「行政管理研究センター」研究員)が、自民党との連立で公明党は質的役割を果たしたと述べ、とくにコロナ禍での対応を高く評価しています。公明党を取り上げるメデイア、学者がいないと私は嘆いてきましたが、見ている人はきちっと見てくれているのだなあと、改めて感心し、勇気づけられた思いです。

 一方、水俣病については、この病になった学会員がいかに闘って、地域の希望の星になっていったかが具体的な体験談として語られていきます。(34-53頁)

【人生に希望と使命を見出して、悲しみの淵から、敢然と立ち上がり、蘇生していった】感動の物語が綴られていき、読むものの胸を打たずにおきません。(2022-3-13)

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【59】広布は流れそれ自体ー小説『新・人間革命』第14巻「大河」の章から考える/3-7

●本部総会で受けた三つの衝撃

 創価の流れが「渓流」から「大河」の時代へと入ったーその象徴となった1970年(昭和45年)5月3日の本部総会は、とても印象に残る会合でした。一つは「言論問題」にけじめがつけられたこと。二つは広宣流布とは「流れそれ自体」だとの講演。三つは創価学会の組織活動が「タテ線」から「ヨコ線」になったことです。(294-318頁)

    「名誉を守るためとはいえ、私どもはこれまで、批判に対して神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。関係者をはじめ、国民の皆さんに、多大なご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申し上げるものであります」ーこう述べて「伸一は頭を下げた」と続きます。

 世の中の学会、公明党への度を越した批判・攻撃に、つい身構え過剰防衛をしがちであったことは入会5年だった私も認めざるを得ませんでした。ここに至るまで様々な出来事があったとはいえ、結果的に会長をして、お詫びをさせたことは大きな衝撃でした。学会にとり「自己変革」の大きな一線を越える画期的な場面だった、との思いが今に鮮やかに蘇ってきます。議員の立場と学会の役職との兼任が解かれたり、制度的に公明党と創価学会の分離化が明確になったことなど、大きな変換の展開ではありました。

●広宣流布にゴールあり、との思い込み

 これより先に、伸一が講演の冒頭部分で述べた発言はもっと違う意味で衝撃でした。

 「広宣流布とは決してゴールではありません。何か特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思います。大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、常に未来に広がっていく正法であります。また、日蓮大聖人が『末法万年尽未来際』と叫ばれたこと自体、広宣流布の流れは、悠久にして、とどまるところがないことを示されたものといえます。広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」(297-298頁)

 この発言は後々まで大きな影響を及ぼしました。〈どこかでゴールを迎え、あとはバラ色の新世界が開けるのではなかったのか〉〈ゴールのない競走なんて〉〈永遠に戦い続けるなんてできないし、それは辛く苦しい〉ーこんな声が私の回りからも聞こえてきたのです。いずれも勝手な思い込みでした。それらは自分に都合のいい甘い考え方であり、よく考えれば、社会と断絶した、人生と遊離した〈夢物語〉だったのです。

 本因妙とは、すべて今から始まる、ただいまの瞬間に未来への出発があるとの捉え方です。これに対して本果妙とは、今ある状態が全てで、それは決まったもので変えようがないとする立場です。この二つは、全く正反対です。本因妙の生き方とは、常に戦い続けるところに、「生命の歓喜と躍動と真実の幸福がある」といえるのです。

 ところで、ロシアのウクライナへの侵略という悲惨な事態を前にして、私たちは、「歴史の逆行」のような気分を味わっています。国家間の戦争、力による現状変更などといったことは20世紀で終わったはずと、勝手に思い込んでいたのです。広布の戦いにゴールがないのと同様に、人間相互の争いも、戦争も常に続く。こう全く次元の違うものをつい比較してしまいます。「平和な世界」が今すぐにやってくると、簡単に考える甘さと、広宣流布にゴールありとの捉え方の甘さ。この2つ、何故か妙に似ています。リアルに徹することの大事さに身震いする思いです。

●タテ線組織からヨコ線への移動という大変化

 三つ目は、創価学会の組織形態の転換でした。日常的活動の基軸が、従来の折伏をした、されたという人間関係に基づくタテ線から、住まいの近さによるブロックに依るヨコ線への移行です。これはまた衝撃でした。

「伸一はブロック組織に移行し、学会員が中心になって、地域社会に、人間と人間の、強い連帯のネットワークをつくり上げねばならないと考えていた。それが現代の社会が抱える、人間の孤立化という問題を乗り越え、社会が人間の温もりを取り戻す要諦であるというのが、伸一の確信だったのである」(306-307頁)

    今から思えば「タテからヨコへ」の移行は当たり前に思えるでしょう。しかし、当時は一大変化で、抵抗感がありました。親しい人間関係から離れて、あまり知らぬ人と一緒に活動するのは冒険に思えました。また、隣近所では近過ぎて何もかも分かってしまう、ゆっくりするゆとりもないなどといった怠惰な考えも起こりました。

 ですが、定着すれば、向こう三軒両隣の中で声を掛け合うことの大事さがわかってきました。〝遠くの親戚より近くの他人〟との格言があります。近くの友人、同志が、今の希薄になりやすい人間関係にあってとてつもない役割を果たしていくのです。(2022-3-7)

 

 

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【58】教訓に満ちた大先輩の失敗ー小説『新・人間革命』第14巻「烈風」の章から考える/3-1

●忘れられない高熱の中での和歌山指導

 関西にとって忘れられない出来事の一つが1969年(昭和44年)12月の伸一の和歌山指導です。この年7度めの関西訪問でしたが、最悪の体調の中での敢然とした振る舞いは、その後今に至るまで語り継がれています。休んで欲しいとする周りの危惧にも断固として引かず、待ち望む会員たちとの約束を果たそうとする姿が描かれていきます。(189-230頁)

   40度を越す発熱による寒気、止まらぬ咳。医師の聴診器に聞こえるバリバリという異常な呼吸音。急性気管支肺炎との診断に、抗生物質の注射と投薬。こうした症状の描写に読むものは、ただハラハラどきどきするだけです。東大阪から和歌山へ。会場では咳をこらえながら、聴衆の歓声に応えていく。24分に及ぶ指導の後、学会歌の指揮を所望する会員に応じ、武田節を舞う姿は限界を超えて見え、ただ涙するしかないのです。

 後年この情景を映像で見るに及び、その堂々たる姿とのアンバランスに、伸一の強固な意思、精神力を感じ、ただ頭が下がり、胸迫る思いで一杯になりました。実はこの時は公明党にとって2度目の衆議院選挙の投票日直前でした。弟子たちの苦闘に少しでも報い、皆が立ち上がる力たらんとする師の深い思いに、心底感動せざるを得ません。そうしたことは小説には一切触れられていませんが、想像を超えて迫ってくるのです。

●政治評論家の悪辣で卑劣な〝選挙妨害〟の動き

 発熱をおしての、和歌山から奈良、三重の激烈な指導旅が描かれたあと、この2度目の総選挙の数ヶ月前から起きてきていた、創価学会批判書をめぐる動きが詳細に語られていきます。これは政治評論家・藤沢達造の書いたものを学会と公明党が妨害したという非難が発端でした。この書は、事実無根の話をもとに、学会と公明党は「民主主義の敵」であると勝手に断定し、公明党の解散を叫んだものでした。(230-293頁)

   この時の外からの学会、公明党への攻撃は、国会の場を主たる舞台として発展していったこともあり、「伸一の会長就任以来、初めての大試練となった」(293頁)と総括されています。これは、翌1970年(昭和45年)の通常国会で、いわゆる「言論・出版妨害問題」として扱われ、野党各党を中心に「伸一を証人喚問せよなどと、狂ったように集中攻撃が行われて」いったのです。

 当時私は入社1年に満たない新米記者でしたが、この時期の国会の議論を見聞きして、野党議員の極めて低級な質問姿勢に強い憤りを感じる一方、時の首相・佐藤栄作氏の真摯な態度に感銘を受けました。なんとか学会・公明党非難に同調する答弁を引き出そうと躍起になる共産党、民社党などの議員。それに対して毅然とした言い回しで拒否する同首相。細部は忘却の彼方ですが、実に頼もしく聞こえたものです。

 野党議員による質問が行われる予定の国会の委員会室に予め早くに赴き、お題目を密かに胸中で唱えつつ、ことが穏便に収まるよう祈ったこともありました。こんな理不尽なことが罷り通ってなるものか、と。

●大先輩の「舌禍」から得た教訓

 この無謀な一連の動きの中で、私が印象深く覚えているのは、1月の学生部幹部会に特別参加した渡吾郎国対委員長の挨拶でした。それは「〝言論・出版妨害〟が、いかに誇張された出来事であるかを、個人的な所感を語るつもりで、面白おかしく語った」のですが、場内は爆笑に次ぐ爆笑。皆腹を抱え笑いまくったほど面白い内容でした。「学会、公明党を袋叩きにするようなやり方が、腹にすえかねていたと見え、批判本の筆者や他党を揶揄し、笑いのめした。時に他党を罵倒するような、激しい言葉も飛び出した」ーものでした。

 これが何者かによって密かに録音されていました。それを「言論・出版の自由に関する懇談会」なるグループが数日後に記者会見を開き、テープを公開したのです。やがて渡国対委員長はその立場を辞任せざるを得なくなりましたが、あの時の衝撃は今も鮮やかです。彼のモデルは渡部一郎さん。兵庫県選出(神戸市)の衆議院議員で、初代公明新聞編集長だったこともあり、私は、格別に親しみを持っていました。

「もともと渡は弁舌にたけた男であった。そのうえ、仲間うちという安心感もあり、ますます冗舌になり、口が滑った。人は、ともすれば、自ら得意とするものによってつまずくものである。ついつい調子づいてしまい、緊張感を失ってしまうからだ」(255頁)と、書かれています。このことは当時の創価学会の青年たちにとって深い教訓になりました。

 「言論問題」は、最終的に5月3日の本部総会で伸一が謝罪することで決着がつきました。と同時に、その場で、壮大な広宣流布への展望が披歴されたのです。それを聞き、一抹の悔しさと割きれなさを感じていた私たちは、勇躍新たな舞台の幕開けを感じたものでした。(2022-3-2)

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