Monthly Archives: 1月 2023

【104】勇気、能忍が苦境打開のカギ──小説『新・人間革命』第26巻「奮迅」の章から考える/1-26

●「方南支部」結成で思いだす

   広布第2章の支部制の発足。1978年(昭和53年)1月、伸一は杉並区方南支部の結成大会に出席します。彼は挨拶の中で、「仏法では、『我らが頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり』(御書716頁)と説かれております。私ども自体が、妙法蓮華経の当体であります。また、『足は経』とありますが、敷衍すれば、それは行動を意味する」と御義口伝の一節を引用しながら、広宣流布に向け、勇んで行動を起こそうと呼びかける一方、次のように、強調されています。(329-331頁)

 「広宣流布といっても、どこか遠い、別のところにあると思うのは間違いです。自分自身のなかにあるんです。家庭の中にあるんです。近隣の人びととの絆のなかにあるんです。創価の法友のなかにあるんです。そこに模範の広布像をつくるんです。自身の足元を固めよう──これが最も強調しておきたいことです」

 広宣流布は自分の足元からという原理は、幾度も耳にし、口にしながら、ややもすれば目は遠くに向きがちです。《自身→家庭→近隣》この身の回りをしっかりと繋ぎ固めることこそ、飛躍の源泉だと思われます。

 東京山の手の中心・杉並区方南町。広布第2章はこの地から幕が開かれました。実は私は、入会(昭和40年)したのがいわゆるたて線の方南支部でした。住んでいたのが中野区鷺宮の下宿先。そこから電車やバスを乗り継ぎ、杉並区の方南町界隈に通ったのです。路地裏から漂う夕餉の匂いに空きっ腹が声を上げたことも。大学周辺の日吉や田町を徘徊せず、高円寺、荻窪を歩いた青春でした。「方南支部」は我が信仰の原点の場──懐かしい〝あの人・あのこと〟を思い出して、あらためて決意を固めました。

●耐え忍ぶことが大事

   支部制発足に合わせて開かれた様々な会合で、伸一は〝自分の生命を削ってでも、青年を育成しなければならぬ〟との決意で青年部指導に挑みます。3月4日の立川文化会館での東京青年部の男女部長会では、「能忍」について語っていますが、生命が揺さぶられる思いがいたします。

 「人の一生は、波乱万丈です。勤めている会社が倒産したり、病に倒れたり、愛する家族を亡くしたりすることもあるかもしれない。しかし、たとえ、苦難に打ちのめされ、社会での戦いに、ひとたびは負けることがあったとしても、信心が破られなければ、必ず再起できます。最後は勝ちます。わが人生を勝利していくための力の源泉が信心なんです。そしてそれには『能忍』、よく耐え忍ぶことが大事なんです」(382頁)

    信心が破られるとは?──打ち続く苦境の嵐の中で、題目をあげてあげてあげ抜いて、乗り切ろうとする意欲をなくしてしまうことです。私も自身の境涯の低さが原因で、絶体絶命と思えるピンチに立たされたことがありました。もう駄目だと、仏壇の前でただへたり込むだけのこともあったのです。その時に、「あきらめこそが敗北の因である」との指導を思い起こし、手を合わせ、なんとか声を振り絞り続けました。

 その結果、今では「信仰とは、絶望の闇を破り、我が胸中に、生命の旭日を昇らせゆく力である」ということを心底から確信できるようになりました。

●境涯を開き、宿命を転換するカギとは

   埼玉県婦人部のブロック担当員会を翌日に控えた3月6日に、学会首脳部との懇談会で、かつての志木支部川越地区での伸一の御書講義が話題になりました。そこでは、「佐渡御書」や「聖人御難事」などの講義が次々と語られていきます。そのうち、「師子王の心」については、以下のように述べられています。(386-404頁)

   「広宣流布の道にあって、最も大切なものは勇気なんです。後輩の激励に行くにも、人びとに仏法を語っていくにも、法難に立ち向かっていくにも、根本の力は勇気です。いわば、勇気こそが、境涯を開き、宿命を転換するカギなんです。そして、その勇気の源泉が『師子王の心』です」(394頁)

 「『師子王の心』とは何か。日蓮大聖人の大精神であり、末法の一切衆生を救済していこうという御心です。そしてその仰せのままに、広宣流布に立たれた、牧口先生、戸田先生のご精神でもあります。(中略)   つまり、弟子が師匠と呼吸を合わせ、同じ決意に立ってこそ、何ものをも恐れぬ、勇敢な『師子王の心』を取り出していくことができるんです」(395頁)

     一歩前へ、足を出して歩いて友のところに行く。そして、一言前に声をだす、これだけのことも勇気あらばこそです。その〝一歩・一言〟が大きな結果を生み出すことに繋がります。やれない言い訳を自分で作ってしまうことは、「師子王の心」の芽を詰んでしまいます。「人の目はごまかせても、己心の師匠は、じっと一切を見ています」──ずっしりと響く一節です。(2023-1-26)が

 

 

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【103】新しい「民の世」の実現に向けて──小説『新・人間革命』第26巻「勇将」の章から考える/1-17

●源平の戦いの地から「平和」を発信

   厳寒の空に、微笑む星々が美しかった。静かに波音が響き、夜の帳が下りた海には、船の明かりが点々と瞬いていた。──この章の美しい印象的な書き出しです。1978年(昭和53年)1月19日の夕刻。香川県・庵治町にオープンしたばかりの四国研修道場に伸一はいました。源氏と平家の戦いで義経の勇気と英知が光った舞台になった屋島が見える地にあって、星の下で歴史を回顧するところから始まります。

 〝平氏、そして源氏は貴族の世に代わって武士の世を作った。しかし、民の世は、まだ遠かった。日蓮大聖人のご出現は、壇ノ浦の戦いから三十七年後である‥‥〟さらに伸一は、大聖人の「立正安国」について思いをめぐらし、次のように続けます。

【大聖人は、人間の生き方の基盤となり、活力の源泉となる宗教について、根本から問い直し、人びとの胸中に正法を打ち立てようと、折伏・弘教の戦いを起こされた。(中略)  多くの民衆が飢え、病に倒れ、苦悩している姿を目の当たりにして、仏法者として看過できなかったのである。まさに、『妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑いなきなり』(御書720頁)との大確信と大慈悲をもっての行動であった。それが、大聖人のご決意であり、そこに、仏法者の真の生き方の範がある】(213頁)

 昨年NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、まさに大聖人のご生誕(1222年)前の30数年を描いていました。あの凄惨な戦いを経て、武士の時代が確立し、そこから800年が経って今があります。日本の歴史はこの間、中世、近世の時代に国内各地で数えきれない内戦を経験し、明治維新以降の近代に入ってほぼ収束した後は、外国との戦いを繰り返し、ひとたび滅亡します。そして、米国占領下の7年の後、再興に向かうのです。

 以来、戦後社会に本格的な民主主義が取り入れられ、創価学会も再建されて、折伏・弘教の戦いが進んできました。大聖人が示された仏法者の模範が全国各地で示されるようになって、未だ70年余りぐらいしか経っていません。「日蓮仏法は激しすぎる」などといった批判をする向きもありますが、強く烈しい熱情なくして、〝新しい民の世〟は作り得ないと思うのです。未だ類例を見ない〝歴史創造の戦い〟は、これからさらに継続して続けられるのです。

●ハンセン病患者に寄り添った医師の戦い

  この後、同研修道場を擁する香川県庵治支部の長野栄太支部長と伸一との出会いが語られていきます。長野は、徳島大学医学部学生当時に、「ハンセン病で苦しむ人たちが多い国に渡って、患者を救いたい」との強い意思を伸一に直接披瀝していたのです。伸一は、決して焦らず、当面は基礎を固めることが大事だと助言していました。

 長野は、この時の伸一のアドバスをしっかり受け止め、やがて国立療養所大島青松園に赴任し、ハンセン病の治療に当たる一方、〝患者のために生涯を捧げたい〟との思いの実現に取り組みます。ハンセン病患者の皆さんへの、長野を始めとする地域学会員の励まし、交流が描かれていくところは、感動的です。(238-250頁)

 その流れの中で、「らい予防法」等が廃止され、1996年(平成8年)になってようやく隔離政策が改められたことが触れられていきます。元患者らが、国のハンセン病政策が基本的人権を侵害するものとして国家賠償を求め、熊本地裁に提訴しました。これが2001年(平成13年)5月に地裁が国に対して賠償を命じ、原告側の勝利となったのです。政府内には、これを不満として、控訴を主張しようとの動きもありました。

 しかし、時の厚生労働大臣の坂口力は、「法律面では、多くの問題があるが、人道面を優先させるべきだと強く訴え、これに小泉純一郎首相も同意して、控訴断念が決まったのです。この経緯を読み、改めて当時を思い起こします。あの頃、私は尊敬してやまない大先輩の坂口さんと一緒に国会で仕事をしていました。それを誇りに思います。

●同志のために苦労を厭うな

 四国からの帰途、関西・奈良に伸一は足を運び、「支部制」出発の集いになる幹部会に出席します。そこでは、懸命に決意を語る支部長代表の姿を見て、伸一は御宝前に供えられた鏡餅(直径50㌢、20㌔以上)を持ち上げて贈呈しようとします。思わず、助けようと手を出す沖本県長を遮り、1人で伸一は、お餅の粉でスーツが白くなるのも厭わず抱え運ぶのです。(307-308頁)

 【沖本は、伸一の行動から、リーダーの在り方を語る、師の声を聞いた思いがした。〝人を頼るな!自分が汚れることを厭うな!同志を大切にし、励ますのだ!それが学会の幹部じゃないか!沖本の五体に電撃のような感動が走った。】

 この県長のモデル奥本拓光さんも尊敬する先輩です。会うたびに温かい励ましを受けたことを思い出します。(2023-1-17)

 

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【102】「人類は共同体」との国際世論高めよう──『小説・新人間革命』第26巻「法旗」の章から考える/1-10

●指導部の闘いにあらためて奮起を誓う

 1978年(昭和53年)が明けました。伸一は、元旦の新年勤行会で、法華経寿量品の「毎自作是念」について、「奥底の一念に、常に何があるのか、何を思い、願い、祈っているのかが大事になるんです。そこに、自分の境涯が如実に現れます」と述べ、「日々、久遠の誓いに立ち返り、広布を願い、祈り、行動する一人ひとりであってください」と激励しました。このあと、静岡研修道場に向かい、翌日牧口園で50歳の誕生日を迎え、牧口先生や日蓮大聖人の壮絶な戦いを思い起こし、強い決意を固めて新年の出発をします。

 6日には「支部制」が発表され、それまでの総ブロック長が支部長へと変わることになります。ここでは学会伝統の支部の大事さが語られたあと、「指導部」のあり方について深い意義が触れられます。(123-127頁)

 「信心重厚にして経験豊富な、〝広布の宝〟ともいうべき指導部の皆さんが、会員一人ひとりに、こまやかな激励、指導の手を差し伸べていただきたいんです。指導部の皆さんとライン組織のリーダーが異体同心の団結を図ってこそ、広宣流布の組織は盤石なものとなるのであります」(124頁)

    今年の新年もはや明けて10日となりました。戦後77年の昨年、私は『77年の興亡』と題する本を出版しました。明治維新から敗戦、そしてコロナ禍と続く、77年目の大きな節目を実感したからですが、ウクライナ戦争が起こり、さらに大きな転換期を実感せざるを得ませんでした。その意味でも、歴史を画する新たな年2023年を懸命に生きようと、より一層強い祈りで新年をスタートしました。

 新年になり、同じ地域に住む壮年部の区幹部が新たに支部最前線の役職に就き、草創の決意で頑張るとのご挨拶を頂いたり、つい先日は東京・新宿区の壮年最高幹部から、夜遅く地域の同志の激励に歩いてきたとの電話をいただきもしました。「指導部」といえる皆の活躍を知って、私も決意を新たにしたしだいです。

●エドワード・ケネディ氏との会談

 1月12日にはアメリカの上院議員で、元大統領のJ・ケネディの弟であるエドワード・ケネディ氏が来訪し、伸一と会談しています。この時の会談で、同氏が政治には「道義の力」が必要だと述べたことに対して、伸一が次のように語り、応じていることが注目されます。(133-134頁)

 「大事なのは、人間の生命は等しく尊厳無比であるとの人間的価値観が、『道義』の根本をなすということです。ソ連の首脳も人民も人間です。中国の首脳も人民も人間です。その認識に立ち、『人類は、一つの共同体である』との国際世論を高めていくべきです。そこに、明確な目標を定めて挑戦していただきたいんです」

 この伸一の言葉を、今の時点で読むと、一段と深い意味合いを感じます。ロシアのウクライナ侵攻から始まった戦争で連日、悲惨な市民への戦禍が報じられています。ロシア兵の親たちも犠牲を蒙っています。第一義的にはプーチン氏の道義性が問われます。中国でも道義性が疑われる反人権的行為が取り沙汰され、台湾への武力攻撃も辞さぬ習近平氏の強権的姿勢が疑問視されています。一つ間違うと核戦争の悲劇が再来します。

 今ほど、「人類は、一つの共同体である」との国際世論が待望される時はありません。伸一はかつて、キューバ危機の時に、J・ケネディ大統領がソ連のフルシチョフ首相との間で、人類を絶望の淵から救う行動をしたことを高く評価しており、一度決まった直接会う機会を楽しみにしていました。しかし、日本の大物政治家の横槍で直前になってキャンセルにせざるを得なかったのは残念なことでした。

 世界から「道義性」の根幹をなす人間的価値観が吹き飛んでしまい、相互憎悪の連鎖が始まり、第三次世界大戦に繋がることが懸念されます。人類の叡智がいま試されているのです。

●退転者が出るのを恐れるな

 その後、伸一は1月16日から、愛媛県松山市に飛びます。そこでも、様々な出会いの中で、多種多様な激励、指導が繰り返されます。私が強く印象に残るのは、ある婦人が「私が弘教し、入会させたメンバーが退転してしまい、深く悔やんでいます」と語ったことに関連して、退転者の問題について語っているところです。

 竜の口の法難から佐渡流罪の時に、『千が九百九十九人は堕ちて候』(御書970頁)と、多くの門下が退転していきました。それを引用したのちに、こう激励されているのです。「仏の使いとしての使命を果たそうと、苦労して折伏をしたという事実は、永遠に生命に刻まれ、功徳の花を咲かせます。自身の幸せへの軌道は、間違いなく開かれているんです」(202頁)

 私が折伏し、一度は入会した友人たちも、その後退転していった者が少なくありません。三世の生命と捉えれば、また、この信仰に戻ってくると確信しています。(2023-1-10)

 

 

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【101】 「真剣勝負」の積み重ねと「精進行」──小説『新・人間革命』第26巻「厚田」の章から考える/1-4

●一人燃え立つところからすべては始まる

 山本伸一と妻の峯子は、1977年(昭和52年)9月30日、札幌市豊平区の札幌創価幼稚園を車で発ち、恩師・戸田城聖の故郷である厚田村(後の石狩市厚田区)を目指していました。そこには、師の名を冠した戸田記念墓地公園があり、この日は完成を祝う記念式典が予定されていたのです。冒頭、いわゆる「墓地問題」の経緯などと共に、創価学会初の墓地公園の所長に就いた伊藤順次の「厚田広布」の戦いが語られていきます。その中で、強く印象に残るのは、次のくだりです。

 【伊藤の心にあったのは〝厚田村は戸田先生の故郷であり、山本室長が、世界の広宣流布を誓った地である。その厚田村に、断じて仏法の光を注ぐのだ!〟との一点であった。〝師のために〟──そう思うと、挑戦の勇気が、無限の力が湧いた。一人立つ広宣流布の勇者がいれば、魂の炎は、一人、また一人と燃え広がり、明々と暗夜を照らし出す。一人立て!すべては一人から、自分自身から始まるのだ】(32頁)

    あらゆる戦いの勝利の源泉は、まず自分が一人立つことから始まると教えられてきました。その原理がここからは、読み取れます。ここは厚田という戸田先生有縁の地ですが、日本、世界いやこの地上すべて場所において、この原理が当て嵌まることが説かれているのが、この小説『新・人間革命』なのだと思います。

●絶望と思える戦いにも、粘り抜くことの大事さ

 さらに10月2日の午後、戸田講堂の食堂で行われた「北海道未来会」第4期の結成式で、伸一は、中学生、高校生の代表26人を前に、人生における極めて大切なことを次の様に、語っています。

 「人間にとって大事なことの一つは、〝粘り〟ということなんです。ある意味で、人生は、絶望との戦いであるといえるかもしれません。(中略)  人生の勝利の栄冠は、信心を根本に、執念に執念を尽くし、粘って粘って粘り抜き、自分の決めた道を歩んでいった人の頭上に輝くことを宣言しておきます」(59頁)

   決めた目標に向かって、諦めずに粘り抜くことの大事さを、ここでは力説されています。新しい年の開幕にあたって、それぞれ大きな目標を掲げて出発しました。これまで、私も幾たびも様々な目標を掲げ挑戦してきましたが、その積み重ねこそが〝自己実現〟であると確信して、今年も頑張ろうと決意しています。

●「一節でもいいから身で拝そう」

 伸一は北海道に滞在しているこの時(10月4日)に、『御義口伝』を研鑽御書とするように提案します。石狩川の渡船場で、同行していた北海道総合長の田原薫に対して、「『御義口伝』は難解かもしれない。それでも挑戦し、一節でもいいから、身で拝そうとしていくんです。すごい力になるよ」と。田原は、かつて学生部の代表に行われた『御義口伝』講義受講生だけに、伸一の「君たちは、創価新時代の令法久住の先駆なんだよ」の言葉が強く胸に響くのです。(99-100頁)

 「私も戸田先生にお仕えして以来、深く心に刻んできた『御義口伝』の一節がある。『一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり(御書790頁)の御文です。──ここには、一生成仏の要諦が説き明かされている。「本来無作の三身」とは、一言すれば、自身に具わった仏の大生命である。その大生命を、瞬間、瞬間、涌き出していくための要件とは、わが一念に「億劫の辛労」を尽くすことだ」

 ここにある「一念に億劫の辛労を尽くす」の一節は、幾度となく目にし、耳にしてきました。その都度、その大事さは分かりながらも、その実、いい加減に捉えてきたのではないかとの反省が私にはあります。ただ、その一方で、自分にとって絶体絶命に思えるピンチの時には億劫とまでは行かずとも、千万ぐらいの辛労を尽くしたことを思い起こします。

 「無数の辛労を一瞬に凝縮したような、全身全霊を傾けた仏道修行のなかに、仏の智慧と生命力が湧き上がってくるのである」との一文が分かった瞬間は私にもありました。ともかく真剣に、真一文字に課題解決に向かって立ち向かうことなんだと、今では思っています。「精進行なり」なんだなあ、と。

 昨年11月号の『大白蓮華』から「世界を照らす太陽の仏法」のタイトルで、池田先生の『御義口伝』講義が始まっています。これが最後だとの思いで、私も声を出して口読に挑戦しています。新年号では、「秘とは、きびしきなり、三千羅列なり」の一節について、「因果の理法は厳然です。ゆえに仏法は勝負です。善は善として、悪は悪として、必ずその真実が明らかになる。いな、断固として明らかにしていくのです」とあります。従来、私は善悪を分けて考えてきました。しかし、今回、一人の存在に同居しているケースもあるのではないか、と。我見の罠に陥らずに考え続けたいと思います。(2023-1-4)

 

 

 

 

 

 

 

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