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(27)90歳で逝った作家と100歳でなお元気な作家から学ぶ

▲半藤一利さんのこと

先日作家の半藤一利さんが逝去されたことを新聞報道で知りました。この人の娘婿にして参議院議員の北村経夫氏は産経新聞記者の頃からの友人です。お悔やみのメールを送りました。直ちに北村さんから、返信があり、そこには、昨年暮れまでは原稿を書いていましたが、今年に入って食事を摂らなくなられて、急速に衰えられたとありました。「『燃え尽きた感』がします、『俺はもういいよ、迷惑かけたくねえから、死にてえよ』と言いつつ逝かれた」と。「見事でした」と結ばれた返信が返ってきました。私も見習いたいものと思います。

現職時代、私が半藤さんに会わせて欲しいとの願いをぶつけると、他の友人からも同じ要望があり、一緒でよければとのことで承諾をいただきました。4人でお会いし食事をしたのですが、開口一番、「あなたはくだらない本を随分と読む人ですねぇ」と、ぽつり。事前に私の著作『忙中本ありー新幹線車中読書録』を献本していたことへの反応だったのです。私は、半藤先生の本も入ってるのですが、と言いたいのをぐっと堪えて「政治家の資産公開をするよりも、どんな本をどのように読んだかといった読書録を公開する方が情報公開としては良いと思うのです」ときっぱり述べました。それには、半藤さんもそれは仰る通りですね、と言ってくれたことを昨日のようにまざまざと思い起こします。

90歳で亡くなった半藤さんは、最後の最後までジャーナリストの生き様を貫かれたと思われます。彼は若き日に『文春』編集長だったと聞くと、右寄りの論調の人物と見がちですが、リベラルな視点を常に忘れないバランスの取れた論考で鳴らした人であったと私は尊敬していました。

◆瀬戸内寂聴さんのこと

その残念な訃報と踵を接して、女流作家の瀬戸内寂聴さんのコラム『寂聴 残された日々67』ー「数え百歳の正月に」(産経新聞1-14付け)を目にしました。

「母の死んだ歳(51歳)に出離しなかったら、私は果たして今まで生きていただろうか。中尊寺の奥の部屋で、髪をおろしながら、私は内心『おかあさん、これでよかったのね』と、あの世の母に呼びかけていた。まさか、あの時にこの世で百歳まで生きのびるなどと考えられただろうか。数え百歳を迎えて振り返る時、何とまあ、百年の短かかった事よ、という感慨のみに包まれてくる」

〝百年の短かった事よ〟という表現に、やっぱりなあとの感慨に私は包まれてきます。寂聴さんとは一度だけ新幹線車中で見かけたのですが、声をかけるのは憚られました。話す中身に躊躇したのです。今ならあれもこれもテーマは浮かんできますが。尤も車中、ついでに、という乗りは褒められたことではないでしょう。今でも、この人独特の笑顔が忘れられません。百歳を迎えて、ご自分の母親とのやりとりを記される感性に好感を抱きます。

●そして自分のこと

ついこの間、満75歳の後期高齢者の歳になって、私もまた、あっという間だったことを実感しました。これから仮に25年生きたとしても、長かったなあとの感慨に浸ることは恐らくないだろうと思います。私の母は満58歳で亡くなり、父は満78歳でこの世を去ったために、漠然と私は68歳を超えることが第一目標でした。その歳に衆議院議員を公明党の内規で定年退職したので、とりあえず次なる目標は、父の死んだ歳を越えることが目標です。あと3年です。

最近私は、今取り組んでいる課題に熱中することが何より大事だと思っています。課題に熱中するといっても、それは通常の仕事というのではなく、創作活動と言うのが相応しいかもしれません。我を忘れるほど、没我の時間が長いほど、トータルとしての人生を実感出来る時間は長くなるのではないかとの確信めいたものが芽生えてきています。一番的確なたとえとしては、芸術家がその制作活動に没我の状態で邁進するあり様を想起します。芸術家ならぬ凡人としては、いわゆる芸事でも、趣味でも、あるいは読書でも。それは何でもいいからものを作り出す知的作業と言えましょうか。といっても、それを長いと感じるかどうかは別問題。

充実した時間の只中で、生に熱中し集中力を持って生きてる流れの中で、(気がついたら=勿論本人でなく回りが)死に至っているということが理想でしょう。そうなっても後悔なきよう日頃から準備を怠らないことだと、今は思うに至っています。(2021-1-19)

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(26)戦いすまぬうちに日が暮れて

かつて若き日に交わした母との会話。「『人間革命』を目指すこの信仰は凄いでぇ」と言った私に、母がポツンと、ひとこと。「人間革命なんて出来るわけないよ」ーあれから50年が経ちましたが、未だに耳朶に残っています。

母のその言葉に反発する思い強く、その後の歳月を「人間革命」にこだわって生きてきました。母が還暦を待たずに胃癌で逝ってしまって、はや40数年が経ちます。大正6年生まれだったあの人は生きていたら、もうすぐ104歳です。時々、枕元に立って、「どうや、人間革命の方は?」と、問いかけてくる声が聞こえてきます。

私が信仰の道に入った経緯の一部始終を熟知する、中学校時代以来の親友が昨年晩秋でしたかに、さりげなく私にこう言いました。「赤松は変わらないなあ、代議士を20年やっても昔のまんま。地位や立場が、人を変えるというけど、お前の場合はちっとも変っとらん」と。これは正直、ショックでした(多少褒めるニュアンスはあれ)。わかっているつもりですが、改めて親しい友からそう言われると。つくづく俺ってダメだなあ、成長しとらんとの思いが強まり、我が胸を苛み、苦しめます。

そういえば、私が現職時代に陰に陽にお世話になり、仕事上のご指導を賜った池田門下の兄弟子は、ことあるごとに私にこう言って励ましてくれたものです。「人が大きく成長する、いい方向に変わるというのは、ひとえに責任感のあるなしに左右される。周りが思いもよらぬ抜擢であっても、本人がそれに『責任』を感じて、その立場を守り、まっとうし抜けば、自ずとそれに相応しい力がついてくるものだ」と。29歳の若さで編集長の立場に立ったひとーそして縦横無尽の活躍をしたーならではの言葉だと感心したものです。

周りを見回しても、歳が私よりも若く、経験が浅い後輩たちの中で、次々と頭角を現して大なる仕事を成し遂げてきた人は枚挙にいとまがないと言っても過言ではありません。そういう人とつい我が身を比べてしまい、なんで自分は、と卑下してしまい落ち込む気分を味わうこともありました。他人との比較ではない、自分自身の過去と今とを比較するのだ、とは分かっていても、です。いや、それは正確ではありません。それをすると尚更、変わらぬ自分自身に驚きさえ感じてしまうのが関の山なのですから。

そうした自身の生き方の傾向を自省するにつけて、一つはっきり自覚出来ることがあります。それは直面する課題と真っ向から向き合わずに、先送りしてしまう性癖が自分にあるということです。思い起こせば、若き日に肺結核で苦しみ、中年になって脳梗塞や大腸憩室炎を患ったり、という直接身体的な病に晒された時は流石に必死に唱題に励み、快癒を祈りました。そして、衆議院議員選挙に出馬して7度の生きるか死ぬかの戦いの際にも、猛然と闘争心を掻き立て祈りました。しかし、そうでない時は、客観的に見てたとえ大事なポジションについた時であっても、真剣さが足らないと言わざるを得ない対応ぶりだったと言えるかもしれません。つまり、一言で言えば、戦時、非常時と、平時、常時が違いすぎたということでしょうか。いや、自分にばかりこだわりすぎて、世のため人のためにという基本姿勢が弱かったというしかありません。

気がついたら、すっかり日が暮れてしまっています。「戦いすんで日が暮れて」と一般的に言われますが、私の場合、「戦い未だすまぬうちに日が暮れた」ということでしょう。若き日に、「親孝行したい時に親はなし」とか、「光陰矢の如し」や「少年老い易く学成り難し」との言葉を聞き流していた我が身に哀れを催します。尤も、ここは、「生涯青春」の精神、「未だ懲りず候」の気構えで行くしかない、と開き直っています。そのうち、母が現れて、「エッ。お前変わったなあ、誰かと思うた。見まちごうた」と微笑んで言ってくれることを信じて。(2021-1-11 一部修正1-17)

 

 

 

 

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(25)ビジネスチャンス掴み広めた人生ー友との別れから考えること

●「ビジネスファーム」に生涯かける

コロナ禍にあって、長年親しくしてきた河田正興さん(「ビジネスファーム」代表、「AKR共栄会」専務理事)を11月に失いました。新型コロナの感染が原因です。初めて会ってからもう四分の一世紀が経ちます。慶應大学の同じクラスで学んだ、大阪毎日新聞の成相幸良(元社長秘書室長を経て元大阪毎日ビル社長)から紹介されました。河田さんが取り組んだ「AKR共栄会」の仕組みを取材したことからの二人のご縁だったようです。共同でものを仕入れ、共同で搬送し、共同で保険をかけるというアイディアはなかなかのもので、大手スーパーから町の市場などの零細業者を守る秘策に思えました。直ちに共鳴した私はこの団体の顧問になり、以来ずっと親しく付き合ってきました。いつも何かやと議論し、影響をそれなりに受け、与えもしました。映画好きは共通の趣味で、共に情報交換をしたものです。

この組織を日本全体のメジャーなものにしようと、あれこれと動いた中で、様々な仲間たちと知己を得ることができました。私も政治の世界、特に農水省、経産省、厚労省、総務省などの役所に、時やテーマに応じて繋ぐ役割を果たしたものです。この人は本業がビジネスチャンスを見出し、それを形にするという「ビジネスファーム研究所代表」だったこともあり、私も様々な仕事に関与させて貰いました。自転車の駐輪場の新たな仕組み作りや防災のためのシステム対応などいちいち挙げるとキリがありません。一緒によく上京もしました。例えば、石破茂地方創生担当大臣との面談では大いに大臣をして唸らせたりもしたことを思い出します。

私は彼の取り組みを世の中にもっと知らしめたいと、AKRのことを早わかり10問10答方式にして電子書籍で出版(『中小企業はこれで蘇る』)もしました。二人三脚の所産のひとつです。歳が私より二歳ほど上だったこともあり、兄貴のような存在でした。一、二年前から一緒に歩くと、足が突っかかる感じだったので、気になっていましたが、昨今私も同様のザマになってしまい、苦笑することしばしばでした。今年になって、学習院大と同志社大に学ぶ、ご長女の娘さんの子どもさん(二人の孫娘)のことを、とても嬉しそうに話題にされていました。それもそのはず二人ともとてもチャーミングで、どちらかは忘れましたが、学内美人コンテスト風のもので上位を占められたといいます。

●新型コロナに夫婦揃って感染

11月半ばに突然、奥さんの節子さんが体調思わしくなく、新型コロナ感染の疑いから、PCR検査を受けた結果陽性で即入院したと連絡がありました。「できれば妻を家の近くにある尼崎の県立医療センターに転院できないだろうか」との相談でした。これまで一、二度同病院に斡旋したこともあり、気軽に後輩の県議に投げたのですが、同センターは重症者用でもあるし、そもそもコロナ禍中にわがままは通じないと、嗜められたしだい。さもありなんと、彼にそのまま返すと、「では重症になったら、頼みます」と。しかし、その後数日を経て、彼自身も陽性と判明、県内のある病院に入院しましたが、やがてその県医療センターに転院されました。

奥さんの健康のことを常に気にかけて、あれこれと心配りされていたのが印象に残る人でしたが、コロナ禍にあっても同様でした。県立の尼崎医療センターに転院する際にも、電話で必ず元気で戻りますからとの、いつもと変わらぬ声が聞こえてきました。人工呼吸器をつけての集中治療室に入るとの連絡もメールで受けました。ですが、三週間ほど後には帰らぬ人になってしまったのです。奥さんの方は12月初めには無事に完治し退院されました。そのことを彼は知らないまま、別れの言葉も互いに交わすことなく逝ってしまいました。残念という月並みな言葉ではとても言い表せない、無念さが漂うのみです。もっともっとやりたいことがあっただろうに、と。

●あっという間に去りゆく「時」

彼の突然の死に直面して、私はかねて心に残っている小説『新・人間革命』の一節を思い起こしました。文豪トルストイの「永遠に生活する心構えで働け。同時に今すぐ死ぬ心構えで働け。そして今すぐ死ぬ心構えで他人にふるまえ」との一節です。池田先生は、マレーシアSGIの草創のリーダー・柯文隆が、文字通り「『臨終只今にあり』との決意で、力の限り、命の限り、皆を励まし抜いてきた」として、その「(トルストイの)言葉のごとく柯文隆は生きたのだ」と賞賛されています(21巻『SGI』)。

歳を重ねてきた私も、生き抜くことと、今死んでもいいことの両立を胸に刻んでいますが、口先だけとの自覚も否定できません。どうしたら理想的な生き方ができるか、正直思い悩むところです。そんな折に、池田先生が同じ21巻の『人間外交』の章で、中国での中日友好協会の幹部との語らいにおいて、平和に向けて「具体的に中国が何をするかです」と鋭く厳しく迫っている箇所を発見、強く撃たれました。そのくだりでは、「単に状況の分析や批評、あるいは抽象的な結論に終わってしまうならば、問題解決への本当の進展はない」としたうえで、「大切なことは、今日から何をするか、今から何をするかである」と述べているのです。

問題を先送りするだけで、今をやり過ごす生き方をとるのみでは、あっという間に人生は終焉を迎えるということを実感せざるを得ません。見送りばかりで好球必打とは言い難かったこれまでの我が人生。後悔を込めて思いやると共に、これからは違うぞ、新しい年こそは、一日を五年、十年と感じられる過ごし方をしたい、と性懲りも無く決意するのです。一緒にこの20年を歩んだ河田正興さんの旅立ちを見て、自覚を新たにする2020年の年の暮れです。(2020-12-29)

 

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(24)三島の死から50年ー自ら生命を絶つということ

●三島由紀夫の割腹自決のニュースに接した50年前

毎年11月25日がくると、作家・三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地において、東部方面総監を人質にし、バルコニーから1000人ほどの隊員を前に10分足らず演説をしたあと、割腹自殺したことを思い出す。翌日の26日が私自身の誕生日だから尚更だ。今年はあれから50年、半世紀が経つ。新聞やテレビなどでも取り上げられ、私が75歳の誕生日を迎えたこともあって、より印象が強いことは否定できない。後期高齢者という一般的な人生の終末期を迎え、改めて「三島の自死」を通して、人間が自ら生命を絶つことについて考えたい。

50年前のあの日、私は25歳の誕生日の前日だった。勤め先の公明新聞社の編集室でニュースに接した。ショックだった。戦争が終わって25年が経つ昭和45年に、著名な作家が自衛隊員に「憲法改正」を呼びかけ、クーデターへの決起を促し、それが叶わぬと見るや、割腹し首を落とすかたちで死を選ぶとは。敗戦の前後に、何人かの軍人や政治家が腹を切って死ぬ選択をしたことは記憶にある。しかし、以来25年、高度経済成長を成し遂げ、日本が経済的にはなんとか蘇ったと見られる時点で、こうした〝古色蒼然とした作法〟で三島が逝ったことは、まことに多くのことを考えさせられた。

一つは、彼が45歳という通常の人間でいう、働き盛りであったこと。『豊饒の海』いう作品を書き上げ、肉体を鍛え上げた彼は紛れもなく人生のピークを迎えていた。老いさらばえた姿を人に見せたくない、それを残したくないという「三島美学」の発露であろうか。美しいものはその記憶の消え去らぬまに、消滅せねばならぬとの強迫観念に囚われていたとの見方で、私としては三島らしい死に方だと自らを納得させた。そういう生き方、死に方もあるのだ、と。

● 「生と死」を考え続けるきっかけ

あの日を遡ること5年余り。昭和40年3月に日蓮仏法と出会い、私は創価学会に入会していた。19歳の春だった。「生命の尊厳」なることを改めて学び、戦争の世紀だった20世紀から、来たるべき新世紀を「生命の世紀」にするべく立ち上がった。大学で政治学を齧って卒業し、政党機関紙記者になって一年半。政治的活動の只中で三島由紀夫から「何のためにお前は生きるのか」を突きつけられた思いがした。その時の我が回答は、法華経の凄さを学び、「南無妙法蓮華経」と唱えることの大事さを友人知人に伝え切り、池田大作先生と共に広宣流布に邁進するために生きる、であった。

創価学会との出会いがなく、大学も慶應でなく、行きたかった早稲田に(受験すれども失敗)行っていたら、どうであったか。恐らく学生運動に惹きつけられ、その陣列に加わってしまったに違いない。勿論、自分の性格、人としての成り立ちからして到底過激な〝左翼革命闘争〟にはついて行けず、中途で挫折したことは容易に推測出来る。しかし、縁あって「仏法中道主義」と出会ったおかげで、吹き荒れる社会革命の嵐に巻き込まれずに済んだ。三島由紀夫の自決の姿に哀れを催しこそすれ、共鳴するところは全くなかったのである。

ただ、生命より大事なもの、自らの生命を賭してまで、自衛隊員たちに決起を呼びかけた彼の強い思いは伝わってきた。あれからの50年の歳月の大半を、私は安全保障分野において、新聞記者として、また国会議員としてウオッチしつつ書き、発言してきた。とりわけ、憲法調査会や審査会に身を置くなかでの自身の行動は、憲法9条の理想と現実の乖離解決との戦いであり、時に応じて三島の呼びかけを思い起こしたものである。その中で日米安保条約のもと、独立とは名ばかりの〝半独立国家〟日本の悲哀を噛み締めてきたことも間違いない。

●生き辛さ募る一方の社会で

戦後民主主義教育の只中で生きてきた私は、戦後の「米ソ対決」から昨今の「米中対立」に至るまで、米国に軍事的保護を求めつつ、精神だけは自立を見失なうまいとする生き方に依拠してきた。憲法9条の目指す「恒久平和」実現に身を委ねつつ、真の独立を日本が勝ち取るのはまだまだ先のことと諦めてきたといえよう。そんな自分にとって、三島の行為は、過激な思い込みと間違えた方法論による自滅に見えたのである。ただそうではあるが、生と死の狭間で、長生きすることだけが尊いのか、との問いかけから自由にはなれなかった。短くも激しく生きることの貴重さが強迫観念のように迫ってきたことは否定できない。

加えて、歳をとるということは、同志の死を見送る機会が増えることを意味する。あの人、かの人が死んでゆく。それぞれ自己の人生への充足感、満足感を持って往かれたのだろうが、もう少し生きて欲しかったとの思いがこちら側には残る。それは私自身の「広宣流布」への捉え方による。それは予め決められた一定のゴールを指すのではなく、日常の生命的存在の勢いのある流れそのものだとしても、中々難しいものが残りかねない。結局は果てしないエンドレスゲームに翻弄され続けるのではなく、どこかで折り合いをつけて、〝これでよし〟とする自己充足の目標を見出すことなのだろう。この辺り、これからの私自身の大いなる課題である。

三島由紀夫、川端康成ら著名な知識人から、身近な友人、知人に至るまで、自死、自殺を選ぶ人は跡をたたない。どんな人でも、生命を自ら絶つ瞬間は精神の正常さを見失っている時だと、私は思ってきた。真っ当な神経ならどんなことがあっても、生きる選択をとるはず、と。しかし、その一定の限界線を超えると、そうはいかなくなる。人を自殺に追いやる要因はそれこそ人の数だけあろうが、昨今の経済的厳しさなど追い討ちを迫る〝生き辛さ指数〟も加速度を増す勢いだからだ。

●自分の信ずる「物語」に生ききること

三島由紀夫の50年後の様々の企画を見聞して、新たに知った三島由紀夫の死についての説明がある。それは、彼が学徒出陣による徴兵を免れるために、肺浸潤を装った、つまり仮病を使ったというのである。多くの友が戦地で死にゆく中で、自分だけが虚偽の行為、卑怯な振る舞いで逃げたことが、彼の存在そのものに深く災いをもたらした。その負い目から抜け出すために、あのような過激な自死の道を選んだというのだ。

これは従来の多数説と根本的に違う。従来は、「昭和20年の早春に赤紙が来たとき、たまたま気管支炎で高熱を発していたのを、医者が肺結核と誤診したため、不合格となり、三島は父と共に、喜び勇んで即日帰郷した」というものであった。新しい説の方が50年経って、不可解な三島の自決の理由を説明するのに、事実とは違っていても、腑に落ちやすいとはいえる。凡人の私としては、事実と違っていてもそう信じたい欲望にかられる。その方が面倒な「三島由紀夫論」の迷路から脱却出来るからでもある。

人はそれぞれ自分が信ずる「物語」に生きる。それが破綻したり、挫折した時に、絶望を味わい、生きることを中断する誘惑に負けるものと思われる。人生の晩年にあっても、内から外から様々な妨害、障害の魔の手が伸びてくる。そうしたものに迷わされず、初心を貫徹することの大事さに思いが至る。若き日の熱き想いを持ち続け、最後まで走り続けようと銘記したい。(2020-12-2  一部再修正)

 

 

 

 

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(23)歴史上の人物と同じ痛みを持ってー「生老病」の旅路の果てに❼

●病院の待合室で見たものーナポレオンと芭蕉と漱石と

ナポレオンと芭蕉と漱石とーこの3人の東西の歴史上の人物に共通することって、なに?

ヒントは3人とも同じ病で苦しんだのです。答えは、痔。世にいう痔主なんです。知らなかったですか?痔持ちだとは知ってたという人も、それぞれ何の痔疾とまではわからないでしょう。前から順に、痔核(いぼ痔)、裂肛(切れ痔)、痔瘻が正解なんです。私は漱石が痔で苦しんだということはそれなりに記憶にありましたが、何痔かまでは知りませんでした。それを訪れた肛門外科の待合室に貼ってあったチラシで知るに至りました。

そうなんです。なにを隠そう、私も痔主なんです。若い頃からそれらしき兆候がありながら、この歳になるまで、たとえお医者さんでも人様にお尻の穴を見せるなんてことは、はばかられました。いや、それは嘘になります、ね。大腸がん検査や大腸憩室炎などの治療、検診に際していつも見られていましたし、その都度、「あなた痔ですね」「痔ありますよ」って言われてきたのです。ですが、排便に際して特に痛みを感じることなくきたため、大した痔主ではない、小痔主だろうと高を括ってきました。

ところが、この数年お尻におできが出来て、整形外科で切開してもらっても、すぐまた出来たりするのです。そのうえ、あちらと思えばまたこちらという感じで、まさにもぐら叩きならぬ、おでき潰しの状態でした。それが初めのうちは肛門から離れたところでしたが、この1-2年は肛門のすぐそばにできるようになったのです。それでも、〝出物腫れ物ところ嫌わず〟だろうと、高を括らないまでも、甘く見ていました。しかし、整形外科の医師から「もうこれは私の手に負えない、肛門外科に行け」と言われ、ようやく意を決したのです。

しかし、‥‥と、こう詳細に語ることはこのあたりでやめておきます。肛門外科でもセカンドオピニオンを求めると、違う見立てをする医師がいたため、随分回り道をしてきたとだけ、言っておきましょう。ともあれ、長い長い道のりを経て、とうとう私も手術をしました。そうです。こう書いてくるとお分かりのように、私は漱石先生と同じ病だったのです。

●手術の今昔。漱石の場合と私のケース

未完に終わった漱石最後の小説『明暗』の冒頭部分が、痔の診察で始まることはよく知られています。その後の展開も手術場面を始めとして、漱石自身の体験(二度の痔瘻の手術、入院=日記に書かれています)を基に書かれているのです。およそ100年前の手術と今とではおよそ違うだろう、特に麻酔技術に格段の違いがあるのでは、と思っていました。しかし、小説上の表現から察するに、そう激しい痛みはなかったかのごとく書かれているのには拍子抜けするほどです。

私の場合は、手術の最中に声を思わず上げそうになるくらいの激しい痛みを一二度感じましたが、全体的にはまずまずでした。シートン法というゴムの輪を使って膿みを出すという著名なやり方ですが、完治するまでにそれなりの時間がかかるようで、切ったら日にちぐすりで、はい終わりと言うわけにはいかないようです。左右のお尻の穴の周辺に輪ゴムのようなものをくっつけている姿は想像しづらいものがあるでしょう。つくづく長く生きていると、色んな病気に罹るものだと諦めていますが、実際のところ、この病ほど通常の羞恥心をかなぐり捨てないと付き合いきれないものがあります。いちいちここでは触れませんが、ちょっと想像すれば気付くでしょう。

考えてみれば、若い時に肛門科の医者に診てもらうことをためらったのも、結局は出来ることなら行かずに治せないものかと思ったからでした。痛みと恥ずかしさを天秤にかけて、ごまかしてきたのですが、挙げ句の果ては、歳のせいで恥ずかしさの重みが軽くなり、代わりに痛みの重みが増したと言えるのかもしれません。

漱石は手術後直ぐに帰ってもいいと言われたようですが、1週間入院していたといいます。私の方は1日だけの入院。過去四回ほどの入院経験では最も短いものでした。

●入院して思い知る健康の有り難さ。看護師、女性の優しさ強さ

漱石はその生涯を通じて、胃弱と痔瘻に悩まされたといいます。明治から大正にかけて、最も人々を恐れさせた疾病は肺結核でした。漱石もそれを恐れていたことは『明暗』の記述からも伺えます。私は22歳の年の暮れに肺結核を患ったのですが、僅かな闘病生活をするだけで、見事に克服することが出来ました。これは一重に、人生の師・池田先生との出会いのおかげです。ご自身の体験を通じて、事細かな肺結核へのアドバイス注意をしていただきました。「今のこの一瞬から百万遍のお題目をあげる決意をするのだよ」との指導もこの時に頂きました。そして、後日「我が青春も病魔との戦いであり、それが転じて黄金の青春日記となった。君も頑張ってくれ、君自身のために、一切の未来のために」との揮毫もいただいて、治すことが出来たのです。

その甲斐あって、60歳までは大きな病気と無縁で、きましたが、還暦あたりを境に、次々と病に冒されるようになってきました。もう一度原点に立ち返って、闘病の意識を強く持っていかないといけないと銘記しています。「我が人生は病魔との戦いであり、それが転じて黄金の一代記となった」と言えるように。そして、「体曲がれば影斜めなり」とのご金言に、「心弱ければ痛み増すなり」と付け加えているのです。

過去の入院の際にも、看護師の有り難さに、幾たびも心撃たれ、身を震わせる思いを抱いたものですが、改めてこの度も看護師、女性の持つ魅力に感じ入りました。この生き物は、全く違う、男が人間なら女はそれ以外の動物だ、と。また逆に、女が人間なら男はまた違う種類の生き物だ、と。それくらい両者には違いがあるとの思いを持つのは、私だけでしょうか。70歳台半ばになってこういう思いを持つというのはいったいどういうことでしょうか。これまた恥ずかしい(意味が前述のそれとは違いますが)限りです。

●コロナ禍に入院して考える〝生と死〟

長年の課題であった痔の手術を(痔瘻と知ったのは手術直前)して、僅か1日とはいえ、ベッドの上に横たわりました。言うまでもなく、この2020年という年は、コロナ禍の旋風が世界中に吹き荒れ、多くの人の命を直接奪い、大小問わずそれぞれの国家の行く末に危険信号を灯すことになりました。今この瞬間にも、人生の先行きに絶望を感じて自殺を図ろうとしたり、人生の全てであった愛する会社を畳もうと希望を失っている人も数多くいます。

比較するだに、申し訳なさが先走りますが、私の五体を襲う、得体の知れぬものを含めての痛みの数々(いちいち上げませんが5つを下らないのです)も、ただ事ではないのです。後発の痛みは既にあるものより、強いと相場は決まっています。すると、面白いことに、前発の痛みはやや後衛に退くのです。そのまま消えてくれれば、いうことはないのですが、少し沈むというか、後ろに下がるだけというのが一般です。痛みの総和はしっかりと消えずに、加算されていっています。せいぜい、精神を集中させる何か、夢中になる何かがあって、束の間、痛みや不愉快さを忘れるというぐらいしか対応手段はないといえましょう。漱石や芭蕉が強烈な痛みを抱えながらも数々の名作を残しているのは、やはり痛みを忘れるほどの熱中する力のおかげだと思われます。

コロナに感染されて、生死の境を彷徨っておられる方や、その生命を救わんと懸命の努力をされている医療従事者の皆様に対する強い感謝の念を抱く一方、この歳まで生きてきた私の周辺には、多くの物故者がいます。時に応じて、かつて語り合ったように、先に逝った彼や彼女たちに今私が経験している全てを語りたい。夜に日を継いで語り明かしたいとの思いで一杯になります。そう考えるたびになかなか寝つかれず、眠りは浅くなって、やがて夜と昼の区別がつかなくなる日が来るのでは、と思ったりもするのです。(2020-9-12)

 

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(22)第二次安倍政権の8年はなぜ「安定」してきたのか?

安倍晋三首相が辞任を表明して一夜明けました。全国紙5紙を読んだ上で、我が胸と頭を去来することを述べてみたいと思います。政治がらみのことをこのページで取り上げることはなかったのですが、首相が辞める決断が「病」という人間存在の根源に関わることに起因するので、あえてタブーに挑みます。

●賛否両論大きく割れる評価

首相は辞任を決断した理由を、持病(潰瘍性大腸炎)が再発・悪化して、職務を続けることが困難になったとしています。第一次安倍政権を投げ出したのが2007年。その後、5年足らずのお休みの期間を経てカムバックしたのが2012年暮れ。以来7年8ヶ月もの長い間、激務に耐えてこられたわけです。この病に一番いけないのはストレスだと言いますから、ストレスにも打ち勝ち、再発を防いできたのは想像を絶する精神力と絶妙に効力を発揮した薬の力だったと言えるのでしょう。私は、安倍晋三という人を考える際に、まずこのことを評価したいと思います。脳梗塞と大腸憩室炎を患った上に定年で辞めた私には到底真似のできない7年8ヶ月です。人間として、信じられないくらいの強い人だと褒め称えたいと思います。

その上で、安倍首相の評価を巡っては、高い得点を与える向きと低い査定しか下せない人と大きく二つに分かれるということを指摘します。前者には、経営者たちが多く、「アベノミクスの実行など国政全般にわたり、多大なる実績を挙げてこられた。我が国の国際的なプレゼンスは著しく向上した」(中西宏明経団連会長)、「賃上げや女性活躍推進などによる労働力不足への対応で、日本経済を回復軌道に乗せたのは高く評価されるべき事実だ」(新浪剛史・サントリーホールディングス社長)などと絶賛しています。普通の人々の間でも、株式投資愛好家には概ね評判がいいようです。

一方、後者は、メディア関係者に多いようです。「森友学園」「加計学園」「桜を見る会」などをめぐる疑惑や、黒川検事長定年延長問題、河井議員夫妻事件などの取り扱いは、日本の民主主義に暗い影を投げかけただけでなく、公私混同の典型だとの手厳しい批判が渦巻いてきました。一般の民衆の間でも、格差拡大をもたらした張本人として、安倍首相を厳しく指弾する声は強いものがあります。本来なら、前掲の一連の疑惑事件で、首相逮捕も免れないのではないかとの見方さえ交錯しているほどです。

●コロナ禍には勝てなかった安倍政権

史上最高の長きにわたって首相の座に座ってきた人だけに、評価が一方に偏ったものにならないのは、ある意味当然でしょう。コロナウイルスの蔓延という事態がなければ、未だ未だ続投したかも知れず、一部ではこの秋に解散すれば、今の野党には負けるわけがなく、さらなる長期政権も夢じゃないとの見方が専らでした。過去にこれだけの不祥事や疑惑に塗れながら命脈を保ち続けた例は極めて稀であるが故、よほど野党がだらしないからだとか、メディアの力不足をあげつらう向きもありました。そういう意味では、コロナ禍に負けたといえましょう。これまでの内なるストレスの積み重ねにも負けなかったのに、外からのコロナ禍がもたらすストレスには勝てなかった、と。

辞意表明の記者会見で、首相を追及する声は弱く、殆ど最後に一連の疑惑事件に触れ、コロナ対策と合わせ、共通するのは政権の私物化だとして、「こうした指摘は国民の誤解なんでしょうか」とチョッピリおよび腰で訊くだけ。これに対して同首相は、「説明ぶりなどについては、反省すべき点はあるかもしれないし、誤解を受けたのであれば、そのことについても反省しなければいけないと思います。私物化したことはないということは申し上げたい」と短くさらり受け流すのみ。この説明で引き下がってしまうメディアでは、結局は「安倍一強」に勝てなかったはずという他ありません。

●なぜ第二次安倍政権は「安定」してきたのか

今日の新聞各紙の一面での論評を読んで感じることは、二つあります。一つは、病に倒れた人には優しいとの印象です。二つは、安倍長期政権が何故に安定してきたのかが論じられていないことです。前者は、日本人に特徴的なことでしょうが、ここは割り切って、ここまで保ちえた健康への配慮は配慮として、国民への説明責任があらゆる意味で希薄だったことにはもっと論及があって当然だと思われます。

各紙の論評を担当した、朝日の栗原健太郎(政治部長)、毎日の小松浩(主筆)、読売の橋本五郎(特別編集委員)、日経の吉野直也(政治部長)、産経の佐々木美恵(政治部長)の五人は、全員私が懇意にしている人たちです。首相が復活した7年8ヶ月前に、20年間の政治家生活に別れを告げて引退した私が、現役時代に付き合った手練れの記者ばかりです。その彼らだからこそ、あえて苦言を呈したいと思うのです。総じて上品過ぎないか、と。

後者については、安倍政権が混乱、不安定の極致だった民主党政権の後を受けて登場したことと、無縁ではありません。ただ、これも遠因を探ると、安倍一次、福田、麻生と小泉政権の後に続いた、迷走自民党政権の反省の上に成り立っていると言えましょう。つまり、第二次安倍政権のキーワードは「安定」だったのです。自民党がそれを求めるのは当たり前でしょう。しかし、もう一つの与党・公明党までそれに付き合ったことが大きいと私は思います。

それは、色々あっても、「不安定」にまたぞろ陥ることだけは避けたいとの思いが公明党に強くあったのです。私などは、「安定」も大事だが、それより「改革」を優先させるべきだと思ってきました。モリ、カケ、さくら、黒川、河井と連鎖した不祥事に、いつまで公明党は付き合うのかとの不満は、党内に決して少なくなかったのです。それを抑えて、ひたすら安倍政権を支えてきたのは山口公明党だったのです。

もし、公明党が与党の中で異を唱え、「安倍ノー」に立ち上がって、野党に回る選択をしていたら、果たして日本の政治はどうなっていたか。これには対した想像力はいらないと思います。公明党が先頭に立って野党としてのかたまりを形成していたら。恐らくは30年前の政治に逆戻りをしていたと思います。その意味で、安倍政権の7年8ヶ月を総括することは、公明党の7年8ヶ月を総括することと直結するのです。

この簡単なことに誰も気がつかない、いや気がついていても書かないとはいったいどういうことでしょうか?こう投げかけてとりあえず、この論考はひとまず終わります。(2020-8-29)

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(21)コロナ禍後の世界と信仰者の生き方

●総引きこもり状態の行く末

コロナ禍における「ステイホーム」の有り余る時間にあって、様々の学者や知識人と言われる人々の意見や考え方をメデイアを通じて聞きました。ここでは、これからの人類のあり様とでも言うべきものについて考察を加えてみたいと思います。新型コロナウイルスの感染の凄まじさは今更言うまでもありません。この破壊力は、人間の生の営みを根底から覆しかねないものです。つまり、人が人と密接に交流することで、お互いの親近感や愛情を伝えてきたものを否定するからです。好きだ、愛してる、かけがえのない存在だと思ってることを表すために、ハグをし、キスをし、握手をするのですが、それらはいずれも濃厚接触、三密と称して排除されます。

先日もテレビ映画を見ていて、コロナウイルスの犠牲者が現時点で多いのが欧米先進国であることの理由の一端がわかる様な気がしました。つまり、四六時中、かの国の人々はチュッチュチュッチュと忙しいこと夥しいのです。日本人の場合は、そういう行為はあまり馴染みません。それが直接関係があるかどうかは別にして、欧米の生活文化のあり様が、少なくとも再考を迫られることになるやもしれません。

さらに、人は移動する存在です。旅することで、日常を脱してそこでしか見ることのできないものを見て、生は豊かになり、人は磨かれていきます。移動を断たれ、人との接触を拒まれていけば、自ずと人は人で無くなっていく、その醍醐味を失う存在になるに違いありません。

学問をする場、仕事の打ち合わせをするところも、顔を突き合わせるフェイスツーフェイスから、オンラインという名の、AIを介在させなければならないものに変化を求められてきています。これまでと真逆の〝人類総引きこもり〟と言っても言い過ぎでない事態と隣り合わせなのです。

●人類はコロナ禍後に何を学ぶか

こう見てくると、何を大袈裟な、あともう少しで元に戻るから、心配ない、もう少しの辛抱だとの声が聞こえてきます。確かに未来永劫に今の事態が続くとは予測し難く、やがて効果的なワクチンが見出され、実用化されていくことは間違いないものと思われます。恐らくは、あと数年後には完全に元どおりになると見る考え方が支配的でしょう。何も、人と人の付き合いの基本が根底的に変わるということに直結はしないものと思われます。では、何もかもが元に戻って、やがて全ては忘却の彼方ということになるのでしょうか。

それでは今回の疫病の蔓延で生命を落とした人々の死から、その教訓を学んでいないといえるのではないでしょうか。今回の死者たちは愛する家族からも遠ざけられたままで、およそ生命の尊厳ということからは遠い扱いを受けたと見られます。彼らの死を活かすには、何が必要でしょうか。それは、大きな観点から言えば、人類全体の相互支援と協力の大事さであり、言語を超えたコミュニケーション力の重要性という点ではないかと思われます。究極の価値観は、地球はひとつとの認識であり、地球人の自覚を全ての民族が共有することでしかない、と思われます。そして、音楽や舞踊を始めとする芸術、芸能の力の再発見だと言えます。これらは言語を超え、人を結びつける特異な手立てなのです。

かつて人類が直面したペストやスペイン風邪などの大疫病災害がもたらしたものは何だったのでしょうか。最大のものは、誤解を厭わずに言えば、キリスト教への不信が極まり、「神の死」なるものをもたらしたと私には思われます。当時の元凶のウイルスは人を選ばず、信仰のあるなしに関わりなく、平等に襲ってきました。信仰をしているから、神を信じているから大丈夫とはならないことが白日のもとに明らかになり、結果として信仰者はふるいにかけられたものと思われます。

今回のコロナ禍で、最も私が懸念したのは、世界中で日蓮仏法を信奉する人たちの対応です。かつてのキリスト教信者の多くが歩んだ同じ道を辿らないように、と。ここでも、大事なことは、冒頭に述べた様な、手洗いの励行やマスクの着用を基本に「三密」を避けて、人との接触を抑えるといった、「感染症対策の常識」に立ち返ることに尽きます。信仰を持っているからこそ、人一倍の用心が大切だと言えます。用心に用心を重ねた人、対策の常識に身を委ねた人の頭上にこそ、諸天善神の加護があるのだと言えましょう。(2020-7-30)

 

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(20)ステイホームの中で掴んだ新たな喜びー「生老病」の旅路の果てに❻

過去五回にわたって『「生老病」の旅路の果てに』と題していながら、老いに伴う病についてばかり書いてきました。読者の皆さんから「そんな身体で、大丈夫か」とご心配をいただいています。私は今「元気ですか」と問われると、「部品はあちこち痛んできてますが、エンジンは快調です」と言っています。ここらで、「生」そのものにまつわる話題をお届けします。

●三つの新たな試み

新型コロナウイルスの蔓延が全世界を恐怖の底に落としてから100日を超えた。暑い夏の訪れにも関わらず、口にマスクをせねばならぬ鬱陶しさー手洗い、うがいには抵抗感を感じなくとも、マスクはつい忘れそうになる。ステイホームを強いられる苦しさの中で、人はそれぞれ新たな喜びや、ひと味違う生きがいを掴んだものと思われる。

私の場合、三つある。一つは、放送大学講座をテレビで受講する習慣を身につけた。今まで、友人が放送大学の講師になったと聞いても、あるいは尊敬する病院長が75歳を越えてから受講生になったと知っても、まったくの他人事で我関せずだったのに。今や日々欠かさずに。二つ目は、仲間たちに絶えて久しい手紙を書くことをやってみて、少なからぬ喜びに浸ることができた。返事が届いたり、わざわざ電話をくれての長話に、お互いの違う側面を見て驚いたりもした。そして三つ目は、幾たびもの引越しでその都度〝断捨離〟の憂き目に遭いそうになりながらも逃げ切って来た、30冊を越える膨大なアルバム整理に着手することも出来た。いずれも生きる活力になっている。

●放送大学の魅力あれこれ

放送大学は既に11回目の講義に入っているが、10講座が〝お気に入り〟で連日テレビに向かっている。

『世界文学への招待』ではこれまで知らなかった世界の作家の存在を知ったし、宮下志朗、小野正嗣などと言った老若コンビを始め講師陣も魅力的だ。各地の映像が魅力に溢れ、そこに行った気分になれる。講義で取り上げられた数々の作品のうち、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』やオルガ・トカルチュクの『逃亡派』などを読みたくなって、図書館に注文した。

また、『歴史と人間』ではメアリ・ウルストンクラフトという女性解放運動の先駆者を知って、感動を覚えた。その存在を伝えてくれた梅垣千尋という講師には興味を抱く。この歳になって初めて知る歴史上の人物や作品の奥行きの深さに出会って、まさに〝日暮れて道遠し〟を実感する。『「方丈記」と「徒然草」』は、知ったつもりであった日本の古典の魅力を改めて認識させられた。小林秀雄の『徒然草』を再読してしまった。「日本文学」の学び直しの端緒になりそうである。島内裕子先生の講義は毎回かぶりついて見ていて、そのふくよかなお顔は仏像を思わせるに十分だ。

さらに、『権力の館を考える』なる講座は妙に面白い。日本の歴代総理大臣の住まいから始まって、ついこのほどは、大阪や京都における歴史的建造物の由来を知った。御厨貴と井上章一ご両人の対談(10回、11回)による講義も秀逸で、大いに感じ入った。『京都嫌い』で名を馳せた井上先生の専門が建築学と改めて知った。『現代日本の政治』『グローバル化時代の日本国憲法』『日本政治外交史』などは元衆議院議員としては今更という思いが付き纏うものの、究極のおさらいと言った趣もあって、妙に楽しい気分になって受講している。

加えて、高橋和夫さんによる『現代の国際政治』『中東の政治』『世界から見た日本』の三部作も、自分が専門として来た分野の講座だが、切り口が新鮮な上、現地に飛んでのインタビューが随所に盛り込まれたり、受講者との質疑応答も時にあって、魅力満載。ついに私は高橋先生にファンレターまで書いてしまった。入れ込み具合がお分かりいただけよう。返事も頂いた。

映像を通じての講義はビデオに収録しているので、繰り返しが聞く。それこそ居眠りや聞き逃しがあっても補えるのは助かる。コロナ禍でオンライン化が話題であるが、先行する放送大学からは学ぶことが多い。大学は学問をする場というより、友人を得て遊ぶところだった我が身を反省すると共に、ポストコロナ禍の時代における大学講師陣の先行きに同情を禁じ得ない

●160人に手紙書き、30冊のアルバム整理に着手

ステイホームで、自由に外に出歩けなくなり、人との交流のあり方を考え直した。まずは地方自治体の議員を経験した仲間たちに手紙を書くことを思い立った。全て自筆で書けば良かったのだろうが、さすがに160人分は書きづらい。雛形を作って、それぞれ一人ひとり相手に応じた挨拶文を添えた。日頃の疎遠を詫びつつ、人類が直面する未曾有の危機に立ち向かう激励の呼びかけには、我ながら緊張した。

投函して数日後に、メールや電話、手紙を次々といただいた。皆喜んでくれていたのは嬉しかった。中にはこれまでの付き合いが表面上に過ぎなかったことをお互い知りあった。新たな発見もあった。人はそれぞれ勝手なイメージを描き、適度にやり過ごしている側面があるのかもしれない。

今でこそアイパッドやスマホでの写真が花盛りだが、かつては紙焼きばかり。アルバムも大型で積もり積もって30冊ほどにも。これを整理せねばと思って来たが、中々手がつかなかった。これについに手をのばし、一枚づつ台帳から剥がし、台帳そのものは全部粗大ゴミに出した。写真は残すものは残し、要らないと判断したものは捨てた。スッキリした。懐かしさについ手が止まり、見入ってしまったこともしばしば。若かった日々への哀惜の念を振り切るのに苦労した。残した写真をどうするかの問題が残っているが、おいおい取り組むしかない。

ステイホームの日々で、本当はやりたかったことが他にある。料理である。妻に任せてばかりでなく、〝男の手料理〟に習熟したかった。だが、残念ながら未遂に終わった。次の機会の楽しみにとっておく。(2020-6-14)

 

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(19)大腸の中に憩いの部屋ありー「生老病」の旅路の果てに❺

●大腸憩室炎に悩まされた日々

小とくれば大。小便にまつわるお話の次は、大便です。最近は子どもの世界もうんこブームとか。また、命にまつわる重病に罹った人が、オシッコを飲み一命をとりとめたとか。世の中も変わってきました。うんこやらオシッコが意味は違えども、人間存在を左右する話題になってくるのですから。

ところで、歳をとってくると、大便がきちっと出ることがどんなに嬉しくありがたいことかに気づきます。実は私はこの大便にも随分と悩まされてきました。厳密に言えば、過去形ではなく、今もコントロールできているとはいえ、いつ爆発するかわかりません。その原因は大腸憩室炎です。憩うことが好きなあまり、腸の中にまで憩室が出来るとは、などと冗談を言ってる場合ではないのですが。

この病名を聞いても何のことか分からない人は幸せです。大腸の管の中に小さな袋状のものがいくつも出来て(これは遺伝的なもので生まれつきそういう体質なのだと思われます)、そこに食べたものが溜まっていく。やがてそれが溜まりすぎて破裂してしまうと、大変なことになるというのです。憩室そのものの破裂はまだしも、憩室の増加で大腸の管が破裂するようなことになると、生命に影響が出てくるものとなってしまいます。

●大腸憩室炎で緊急入院

かつて、大便が出そうなんだが、なかなか出ず、20-30分悪戦苦闘しているうちに、汗がガンガン出てきて身体中が震えてくるという症状に悩まされました。そのうち、ひょんなことから出て、ほっとするものの、そこに至るまでが大騒ぎになるとの症状でした。一年のうちに3-4度そういう事態に直面することがあったのですが、ことなきを得ていました。それが今から7-8年ほど前に、凄まじい腹痛で、もう耐えられずに病院に駆け込みました。近くの病院の医師では、あまり分からず、「なんだが便が相当溜まってるみたい」などと言われるだけ。結局、済生会中央病院に緊急入院しました。病名は大腸憩室炎です。

その時は、点滴治療で約二週間ほどの入院で無事退院できました。しかし、その後の状況から見ますと、私の大腸は極めて不都合をきたしているものと見られます。と言いますのは、大腸がんの検査をしようと、病院で検査をしてもらうと、検査用のファイバーが私の場合、痛くて大腸内を通らないのです。とうとう担当医は挿入を諦めてしまいました。恐らく以前に大腸憩室炎を患った際に生じた癒着が昂じて、極度に大腸内部が変形をきたしているものとみられます。

今では、神戸方面で名医と言われるA医師に診てもらって、検査もして貰うのですが、その先生でさえ、もしものことがあると困ると言われ、私の大腸を検査をすることは避けられます。結局は、ファイバーを使わず、簡易な方法で検査も済ませている状況です。大腸は第二の脳ともいわれ、生命の帰趨を決める大事な内臓です。それがこんな状態ではまったく困ったものです。(2020-6-10)

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(18)便器の中が真っ赤になった日のことー「生老病」の旅路の果てに❹

◉赤ワインがそのままでたと勘違い

いやあ、あの日のことは忘れがたい。毎夜毎夜アルコールを飲む機会が多く、その日もしこたま赤ワインを戴いて、宿舎に帰りました。で、尿意を催したので、トイレへ。そこの便器は大小兼用のもので、元気よく立ったままでいたしました。すると、もう真っ赤な色の液体が便器の下部分いっぱいに。驚きました。一瞬、ん、さっきのワインがそのまんま出たなあって思ったのです。笑い事じゃあありません。本当にそう思ったのです。ですが、酔眼朦朧状態の頭でも、その誤りに気づかないわけはなく、血尿だとやがて分かりました。

血の小便が出るくらい苦しみ悩んだとか、勉強をしたとか、物の本やら、人づての話に聞いたことはないわけじゃあありませんが、自分の泌尿器から排出されるとは思いませんでした。翌日、慌てて近所の病院に行ってかかりつけ医に診てもらいました。右の背中の腰部分のやや上のところー腎臓部をレントゲン写真を撮るなどの検査の結果、腎臓結石であるとの見立てでした。

その時より二十年ほど前のこと。同じ部分が痛くなったことがあり、以後数回同じような症状でしたが、いずれの時も、水分を余計に取って、身体を揺らせば大丈夫との素人治療法でいづれも事なきを得たものです。ある時などは、ビールを飲んで縄跳びをしろっていう人がいて、その通りやると、見事に小さくて可愛い石が先端部からぽろんと落ちてきたことがありました。しかし、今回ばかりはそういうわけにも参らず、入院手術ということになってしまいました。かかりつけ医の指示で、虎ノ門病院に行き、入院ということになってしまったのです。

◉ファイバーをペニスの先に入れ、出すときの痛さ

この時の腎臓結石の手術は、いわゆる切除を伴う外科手術ではなく、外側から強力な力を加えて体内にある石を破砕するというものでした。これは上手くいくとどうということはないのですが、下手をすると、破砕された石の一部が尿管に止まったりすると、激痛を伴います。知人から、尿管結石でまさに死ぬ思いの痛さを感じたとの話を聞いていて、怯えもしました。ただ、この手術自体は全く痛くなくて済んだのですが、尿管を通って石が体外に出やすくするため、ファイバーをペニスの先から体内に通す作業と、それをまた数日経って外す時の痛みは結構厳しいものがありました。そして入れてる間の小便時も、まるで絞り出すようで。

腎臓結石はなりやすい体質の人間がいて、私などその代表のようです。今も時々腎臓が痛みを感じるときがあります。この手術を担当してくれた(実際には総括)のが、同病院で泌尿器科部長だった小松秀樹医師です。この人にはその時点で『慈恵医大青戸病院事件』という著書があることを、私は知っていました。病院における医療手術の成否に対して警察が介入してくることの問題点を追及した本です。私は自分の手術の面倒を診てもらったことをきっかけにして大変親しくなりました。しばらくして、私のかつての古巣の公明新聞社の理論誌『公明』誌上で対談をすることにもなりました。懐かしい思い出です。

ただ、小松秀樹先生はその後、日本の医療の現状にかなり過激な姿勢をしめされるようになり、厚生労働省的には敬遠する向きが強くて、なんとなく私とも疎遠になってしまいました。『医療崩壊』なる書物を朝日新聞からだされたり、千葉にある亀田総合病院の副院長になられたりしましたが、なにかと同病院内でトラブルがあって、裁判沙汰にまで発展してしまったと聞いています。腎臓結石で痛み出すと、決まって小松先生を思い出すのも妙なご縁ではあります。(2020-5-25  公開)

 

 

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