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❼「一念三千」という観念の力の再認識

先日、仏教思想家の植木雅俊さんの近著『江戸の大詩人 元政上人』という本を読んでいて十界にまつわる面白い解説に気づきました。元政上人とは日蓮宗の僧侶で、京都深草に居を構え、母親思いの詩人だったと言われています。「東の芭蕉、西の元政」と言われるほどに俳句や和歌にその才能を遺憾無く発揮したようです。その元政上人が十界を和歌で描いているのです。以下紹介します。

❶地獄界  思ひとかばとづる氷のくれないゐももとよりきよき胸のはちすを

❷餓鬼界   たとひそのほりかねの井はもとむ共露だにあかじ武蔵野の原

❸畜生界  小車のをもきがうへに負杖もめぐるむくひをうしとしらなん

❹修羅界   それをだになどあらそひて雪折のはては見にくき松のすがたぞ

❺人界   うらやまず心にみつのたのしみも後世しらぬ人のたぐひは

❻天界   色もなくむなしき空をきはめてもなを限りある世をや歎かむ

❼声聞界  四十年余りかれたる木にも鷲の山法の華さく春にあふらし

❽縁覚界  月日かくをくれさきだつ中空のやみにもひとり出でるやま人

❾菩薩界  なべて世におほふ衣のさかだまに又きしかたのみちやたづねむ

➓仏界   今は世をすくふこゝろも忘貝さながらもれぬあみのめぐみに

以上いずれも味わい深い生命の働きを10の範疇に分け、詠んだものです。私が前回示したようなものと違って、ぼんやりとは解るもののちょっとこむづかしい感じは否めません。ですが、なかなかの趣きはあるでしょ。この10界がベースになって、三千種にまで発展するというのですから、驚きです。

一念三千というのは、人間の一念にこの宇宙の無限の差別相が具足して欠けるところがないと天台大師が説いた卓越した生命哲理です。以下、仏法辞典風に解説してみます。一言でいうと、これは一瞬の心の働きの中に三千もの凝縮された生命があるというのです。10から3000に、どうしてなるのでしょうか。まず、10の生命の境涯がそれぞれ単独で固定化しているのではなく、10の境涯が相互に具しているのが実相(ありのままの姿)だといいます。つまり10×10で100界です。そしてその10界の身心の活動の変化には、10の側面があると言います。十如是です。如是相、如是性、如是體、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等の10側面です。これをかけると、百界千如となり、さらに、色心、依正の側面から、五陰、衆生、国土の三つの差別を立てることで、かける三の三千ということになります。

なかなかこう説明しても分かりづらいのですが、私はこれを理性的に理解しようとせず(しても分からないので)、一瞬に三千もの膨大な側面を持つ働きが命にはあると直感的に理解しました。かつて、私は心というと、単純に観念的なものとして、退けていました。しかし、それは違うと認識を改めて、逆に一念にはそれぐらい複雑なものが内包されていると捉えるようになりました。朝夕の勤行の際に御観念文で、私たちは色々と念じているわけですが、これも単純に、思う、念ずるというのではなく、三千の生命の働きを総動員させるがゆえに、その願いが叶うということに直結すると考えます。

しかも、これを理屈として提起した天台大師と違って、日蓮大聖人は、事の一念三千の当体としての御本尊に具現化されました。つまり、人間の生命の姿を曼荼羅に表現(具体的図式化)し、それとの一体化の作法を確立されたのです。目で見て、口で妙法を唱え、耳でその自らの音声を聞き、心で念じるという4つが合体することで、誰しもがその意思が叶うということを実感できるのです。

私は、50余年に及ぶ信仰生活の中で、幾つかの超えがたいと思われた障害に直面しました。代表的なものとして、病気、人間関係、経済活動、選挙の当落の4つがありましたが、いずれも、「解決を期して、一心不乱に唱題し、念じきり、そのうえで行動を起こした」ことによって、信じがたい結果を得ることが出来ました。まさに、不思議で、妙法としか言いようがないのです。

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❻生命の変化を「十界論」で分析

生命って不思議なものです。その捉え方の極致ともいうべきものが「一念三千論」であり、その基礎をなすのが「十界論」です。人の生命状態はたしかに千変万化です。「今泣いたカラスがもう笑ってる」「女心(男心)と秋の空」など、移りやすい心の変化をいい表す表現は色々とあります。仏教でいう「十界論」を初めて知ったときは、なるほど言い得て妙だなあと本当に感心しました。

地獄界から仏界まで、人の一瞬の生命状態が十の範疇に分かれて捉えられます。私はかつてこのことを人に説明するにあたって、通勤ラッシュ時の満員電車の中での心情風景で例えました。朝ご飯もろくに食べず、慌てて通勤電車に押し込まれたと想像してみてください。もみくちゃで自分の身体でありながら全く自由が効かない状態ー地獄界です。そのうち、少し時間が経ち多少自分の身体と人の身体の間隔にゆとりが出来ますと、猛烈に空腹感が襲いますー餓鬼界です。あっと思う間も無く隣の人に靴を踏まれました。痛さで舌打ちしたくなりますー畜生界です。素知らぬ顔の隣の人に猛烈な怒りがこみ上げてきますー修羅界です。揺れる車中。乗降客の連続で、やがてゆとりが生じてきますー人界です。そのうち座席が空きます。良かった、座れたー天界です。新聞を開き見て、あれこれと情報に接するー声聞界です。そのうち、自分の今日の仕事、課題を解決するヒントを思いつきますー縁覚界です。はっと前を見ると、かなりのお年寄りが立っている。あっ、いけない。座席を替わろうー菩薩界です。その人が降りて、再び座席につき、深い眠りにつくー仏界です。最後の仏界については、いささか冗談気味ですが、あとは本質を突いているものと自賛したものですが、いかがでしょうか。

このように僅かな時間とちょっとした空間を想像すだけでも人はクルクルとその命のありようが変わる存在だということがわかります。これはある意味で瞬時の状態を分析したものですが、これを人の一生に拡大してみるとまた面白いことが見えてきます。図式化すると一目瞭然で分かりやすいのですが、ここではそれが出来ないので、文章のみになるのが残念です。縦軸が十界。横軸を時間にしてL字を描いて下さい。

時間が経つに連れて、十界は上下運動を繰り返します。地獄界から人界、天界つまり六道をいつも行ったり来たりの上下する生き方をするのを指して「六道輪廻」というのでしょう。声聞、縁覚という境涯には程遠い、時たまでしかないという人も少なくないと思われます。また逆に、地獄、餓鬼、畜生界とは縁遠い福運に満ちた人もいるでしょう。いや怒ってばかりの修羅界を低迷する人も時に出会います。一生というスパンに押し広げますと、人に応じて、より馴染みの多い境涯というものがあることに気づきます。なかなか人のため、世のために身を粉にして動く菩薩界とは縁遠いというのが実態かもしれません。

こうした人生の低迷状況(六道輪廻)を上向き傾向(声聞、縁覚界から菩薩道の実践)に引き上げるのはどうすればいいか。それを日蓮仏法では南無妙法蓮華経という題目をあげ続けることで可能になると、説いているのです。

 

 

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❺「円形組織論」の提唱

「組織」とは難しいものです。なければそれが目指す目的が叶わないし、あればあったで、個人の自由を束縛しかねない。創価学会をめぐる様々な問題も「組織」というものがもたらす様々な弊害と無縁ではありません。

創価学会に入る前。私はその組織形態に漠然とした怖さを感じていました。戦闘的、堅苦しさ、厳しい上下関係などといったイメージ、印象がぬぐえなかったからです。

しかし、実際に組織の中で活動をするうちに、当初抱いていたイメージとはかなり乖離があることがわかってきました。なぜだろう。どうして創価学会の外からの印象は実際のそれと違うんだろう、と考えました。その結果、私がたどり着いた結論は、世の中にある組織というものが持つイメージが、自ずと決まった型を持ってることに気づいたのです。

つまり、私たちは組織と聞くと、直ちに図式イメージとして三角形を連想するのです。いやそんなことない、と仰る向きには、「組織の頂点」「組織の底辺」という言葉があることを指摘すれば十分でしょう。皆さん無意識のうちに、組織と聞くと、頭の中で三角形を描いてると言っても過言ではありません。立体的にはピラミッドであり、歴史的事象としては、インドでのカースト制度、日本での士農工商を思い浮かべることが出来ます。三角形、ピラミッド型は、図式の持つ性格として、固定的な厳しい上下関係が奴隷的な服役の辛さとともに連想されます。

私はこういう連想を惹起させる図式イメージを後退させ、それに代わりうる新たなイメージとは何かと考えました。その時に、はたと思いついたのが、平面的には円形、立体的には球のイメージでした。円形を導入すると、次々と解決します。組織の頂点ではなく、組織の中心。組織の底辺ではなく、円周上。働く力は、求心力と遠心力。たしかに、創価学会のリーダーは組織の頂点であぐらをかいてるのではなく、組織の中心で頑張っています。固定した上下関係ではなく、皆平等な平面上にあって、内外関係が発動し、柔軟です。

信仰をしたからには中心を求めようとする力(求心力)が働くし、信仰をしたけれど、嫌だからやめたいとの外を求める力(遠心力)も働きます。この二つの力のバランスが取れている状態が普通で、円周上にある人々というのが組織の最前線のイメージでしょう。せっかく始めたのだからもっと頑張ろうというのが、成長でしょうし、いやもう嫌だと外向きの力が勝ると、組織外に飛び出る退転状態というように説明できます。

かつてある新聞のインタビューに答えて池田先生は創価学会の組織について、車軸のようなものですと述べておられたとの記憶があります。また、スピーチで「皆で円陣を組むようにすれば、あらゆる角度を向き、しかもあらゆる人が第一線である」(平1-12-28)とも。

三角形の図式イメージなく、円の大事さを感じます。

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❹「広宣流布」という壮大な人生の座標軸

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❸どこまでも続くものとしての「人間革命」

「人間革命」なんて、出来るわけないやんー私が家族の中で一人信仰生活に入ってまもない昭和40年代半ば頃に、母は泣くようにこう私に呟いたものです。若い世代の「社会革命」への渇仰が時代の隅々までを覆っていた時に、創価学会の池田大作先生が高らかに掲げたものこそ「人間革命」の旗印でした。マルクス主義による社会変革の押し寄せる波に対して、本能的に忌避感を抱いた私にとって、この言葉の持つ響きには心底から揺さぶられる魅力を感じました。熱い思いで、人間変革こそ先行すべき指標だと語る息子に、母は「若さ」への、そこはかとない危機感を持ったようです。

母の思いの背景には、人間革命という言葉の響きに、人の性格を変えるというイメージがつきまとっていたようです。世に遍く広がる変身願望的なるものには、人の成り立ち、佇まいをガラッと変えてしまう、いかにも今の自分からあたかも別人のようになることへの期待感があります。しかし、仏法では性格は三世変わらないものとして捉えており、人間革命とは、もっとリアルな観点にたつものとの位置付けです。

池田先生は、「人の幸福を祈れば、その分、自分が幸福になっていく。人の健康を祈れば、その分、自分の健康も守られるーこれが妙法の不思議な力用(りきゆう)である」と述べられ、人間の偉大さは「『利己』と『利他』のどちらに力点があるか」だと迫られています。そして「『利己』から『利他』へと」の「ダイナミックな生命の転換」を「偉大なる人間革命」と規定されています。

かつて、自身の病としての肺結核を、闘病最中における池田先生との劇的な出会い(昭和43年4月26日)が機縁となって根治させたものの、50年代になって、次々と新たな障魔が立ち現れました。母の胃がん発病、妻が身篭った子供の相次ぐ流産と早産。義父の倒産と多額の負債。個人的悩みの多発を前に、解決を祈りつつ、心の底から「もっと大きな問題で悩みたい」と思ったものです。自分及びその周辺のことではなく、日本の、世界の難題に立ち向かいたいと。あれから40年ほどが経って、確かに大きなことで悩めるようにはなりました。

こうしたことを総合して勘案すると、人間革命をより具体的に分かりやすく表現すると、境涯革命ということになりましょうか。小さな、自分のこと、身の廻りのことしか考えられない境涯から、大きい、他人のこと、世界のことを考え悩む境涯へ。これが人間革命というものの実態だと思います。従って革命成就は固定的に捉えるというよりも、常に動的なものとして見るべきかもしれません。「利他」の命を身に定着させるべく、「利己」に走りやすい我が身の至らなさを常に自戒するー終わりのない持続的なものとしての人間革命。亡き母に認めて貰いたい一心は今もなお続いています。(2019-1-31)

 

 

 

 

 

 

 

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❷自立心引き出す手立てとしての唱題

繰り返しの無意味さを指摘する文脈で、「お題目のように無意味なことを繰り返す」云々という表現を、私たちは時々目にすることがあります。こうしたことに出くわすたびに、私はなぜ、名目、主題だけを繰り返すことに、宗教批判まで加えるのかと疑問を抱きます。お題目が意味がなく、無価値であるってどうして断定出来るのか、との素朴だけど重要な疑問です。

かくいう私もお題目を唱えることへの違和感がなかったか、と言いますと、当然ありました。紙に書かれた文字を見つめて、口に南無妙法蓮華経と唱えることを繰り返して、どうして人は成仏でき、幸福になれるのかとの疑問をずっと抱いてきました。かつて先輩に会うたびに、この根本的疑問を突きつけて、その人の答え方を聞き出そうと迫ったものです。

この世における究極の最高の実体を、具現化したもの(御本尊)に対して、身も心も尊敬の念を抱きつつ南無妙法蓮華経と繰り返すことで、自らの体内に宿る尊極の生命状態が湧き出てくる、というのが行き着いた答えの決定版です。信仰生活の中で感得し、体得出来ました。簡単に言ってしまえば、最高のものに縁することで、同等のものが自らの五体から出てくるという原理です。その原理は、主体と環境の関係でいい表せます。

宗教といえば、頼る、すがるイメージ。つまり、自立ではなく、他者依存の傾向が強いものとして、位置付ける向きが多いと思われます。私もそう捉えていました。しかし、日蓮仏法を知って、それは全く違うことに気付きました。自己に内在する最高究極の仏界の生命状態を、仏界を具現化したものとしての御本尊を前に(縁すること)おいて唱題することで、内より引き出すことは、いわゆる他者依存ではないということを自覚したのです。しかもその祈りは、「誓願」を本旨とします。誓いと願いの一体化です。誓いの意思あるところに、願いの成就ありと言えるのです。日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」(日女御前御返事1244頁)と述べています。ここで言われている「仏」とは、いわゆる最高無上の人格との位置付けよりも、生命力に満ちたパワフルな人との捉え方を私はしています。(2019-1-15)

 

 

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❶仏法哲理と共に生きて50年余

はじめに

私が日蓮仏法の信者になったのは昭和40年。大学一年の時です。早いもので、54年が経とうとしています。この間に様々なことを見聞し、経験し、考えてきましたが、それをこの辺りで残しておこうと思うに至りました。ひとの一生はその人間の記憶にあるだけ、亡くなれば全て消え去ってしまうというのでは、いささか無念な思いが残ります。仏法哲理の凄さに私は目くるめく思いを抱きつつ、無我夢中に生きて、それなりに思索めいたことも凝らしてきました。自分自身で書き残しておけばそれでいいというものでしょうが、そこはIT時代ゆえ、簡単な手作業で世に同時公開できます。そうすることによって友人、知人、隣人たちに、そして子や孫たちに考える材料を整理して提供できることが可能になります。かつて、新聞記者として社会人のスタートを切った私は、自分の書いた原稿が活字になって翌朝紙面を飾る醍醐味に酔いしれました。やがてそれは、ワープロの登場で、印刷工場での作業を待たずに瞬時に自分の手で印刷されることが可能になりました。それが今では、パソコンの活躍を経て、更にスマホやアイパッドによって活字は空間を自在に飛び交うようになったのです。私の世代より少し前の先輩たちはネットを使いこなせぬままに消えていこうとしています。彼我の差の大きさに息を飲む思いです。戦後世代のトップ、つまり団塊の世代のちょっと先を行く、〝弾頭の世代〟(昭和20年生まれ)のひとりとして、これから少しづつエッセイ風に書いて行くつもりですので、お付き合いいただければ幸いです。(2019-1-5)

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只今準備中

ようこそ。只今準備中です。

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