イデオロギー中心主義に対抗するものとして
「人間中心主義」(「人間主義」)という使われ方は、恐らくは「イデオロギー中心主義」の反対語として、であろうと思われます。戦後の荒廃した社会状況の中で、いわゆる左翼がイデオロギーとしてのマルクス・レーニン主義を信奉していました。彼らは、すぐそばに人間であるがゆえに生じる悩みや生活しづらさに呻吟する人々ー人間のいのちと暮らしが脅かされているのに、それに真正面に向き合わず、思想を大上段に振りかざして現状の打開を訴えるのが常でした。そうではなくて、文字通りの人間存在に目を向けていくことが大事という当たり前の観点から出てきた考え方が人間中心主義であったと思われます。
人間と自然を対立するものとして捉えるキリスト教
しかし、人間中心主義とは元を正せば、ヨーロッパ社会におけるローマ・ギリシャ哲学やキリスト教思想に根ざすものです。イデオロギーに偏重してはならないということが強調されすぎるあまり、生きとし生けるものものへの慈しみの心情が抜け落ちてしまう傾向が否定できないのです。つまり、人間の生息する地球にあって、大自然の中で生かされている存在であることが、ついお座なりになってしまう危険性と、隣り合わせなのです。人間と自然を対立的に捉えてしまい、人間存在を自然よりも上位と捉えて、破壊し収奪する対象としてしか自然を見ないのがヨーロッパ社会に特徴的なことを忘れてはなりません。森林の荒廃という問題一つ取り上げるだけでも、その社会の歪さが判然としてきます。
仏教の教えは草木成仏にあり
一方、東洋思想の真髄たる仏教の考えでは、「草木成仏」との言葉が端的に象徴しているように、動物は当然のこと、草や木など植物に至るまで「いのち」を持った存在であり、尊ばねばならないとします。大自然の中で動植物と人間との共存共栄こそ本来あるべき地球の姿であるというわけです。しかし、現実にはどうでしょう。いささか昨今の日本では理念としては分かっていても、実際には理想は理想だが、現実はままならず、人間優先の態度があらゆる場面で先行してしまいます。
先年、私が住む地域で宅地造成のために、古くからある祠が取り除かれることになりました。そのこと自体は自治会長をしていた私もやむを得ぬこととして推進する側に立ちました。ですが、その過程の中で周りに生い茂っていた草木を処分する必要が出てきたのです。大きな木の枝や幹を無造作に切り倒す瞬間、あたかも「やめてくれ」「未だ死にたくない」と木が叫んでいるような気持ちがしました。「若木を手折る」という言葉そのものが放つ理不尽さを実感したのです。その後味の悪さは今なお続いています。
大型野生動物との共存こそ
また、熊が人里に現れた言っては大騒ぎして、「殺さねば、人間が危ない」との声の大合唱も昨今珍しくありません。いったい、いつからこんなことになったのでしょうか。私が顧問を務める一般社団法人「日本熊森協会」の前会長の森山まり子さんは、常々「昔の政治家であるお殿様は偉かった。奥山の森には手をつけなかったから」し、「アイヌ民族の間では熊を神として崇める傾向さえあった」といいます。それが戦後の高度経済成長期には、奥山にまで、工業化の波は寄せて開発の対象となり、熊は危険な野生動物と化していったのです。私の親しい仲間でさえ、「熊と人間とどっちが大事なのですか」という疑問を投げつけてきます。どっちも大事なのに。人間と大型野生動物の共存と言い続けているのが「熊森協会」ですが、人間生活を脅かすものは殺せというのが、昨今富に強まりを見せる風潮です。これって人間中心主義の弊害以外のなにものでもありません。(了=一部修正)