師弟関係をめぐる私の原点
師匠と弟子と云う場合、通常は直接フェイスツーフェイスというか、面と向かっての人間関係において生じるものと捉えがちです。確かに、 芸術や学問の分野に始まり、お稽古ごとに至るまで、人生万般の事象について、「師事する、される」師弟関係の通常は、相対的位置に立つ両者というのが一般的でしょう。かつて、創価学会に入会したばかりの頃の私は、会員の皆さんが池田先生と呼ぶのを聞いて、自分はまだ直接お会いしていない、だから、「先生とは呼ばない」「会長と呼ぶ」などと、生意気な屁理屈を口にして憚りませんでした。
時間が経つにつれて、先生の偉大さが分かってきました。それにつけて、お会いしたい、何とか直接お会いして、言葉を交わしたい、そういう思いが日々強まっていきました。どうしたら、先生にお会いできるか。お会いして、直接指導を賜りたいとの思いが嵩じていったのです。ある時、先輩に、どうしたら会えるのか。なんとしてもお会いしたいとの想いを、強い衝動感を込めて投げかけました。その先輩は、先生は草の根を分けても人材を求め、探しておられる、君が本当に会いたいと思うのなら、真剣に御本尊にそれを願っていくのだ。必ずそれは叶えられるよと言ってくれました。
いらい、真剣に題目をあげました。それと同時に、私は座談会で多くの会員の皆さんが、口にする体験談を聞くにつけても、どうかして自分も体験を掴みたいと思うようになりました。体験を掴むことと先生にお会いすること。この二つを同時並行的に祈っていくうちに、遂にその願いは叶うのです。(その辺りについては、私の回顧録『日常的奇跡の軌跡』の昭和編に詳しく書いていますので、ご覧いただければ、幸いです。)
ところで、わたしは自身の入会以来、4年で父を除く姉弟と母の計4人を折伏し、その後12年ほどかけて父を入会させることが出来ました。一家広宣流布の原動力になったわけで、それが我が信仰生活最大の誇りです。人生の師・池田先生とも数回ですが、直接お会いする機会が叶いました。それを見ていた姉たちは、喜んでくれると同時に羨みました。「あんたはいい、先生にお会い出来て」「わたしらは会えない。遠くからでさえ。一度もお会いしたことがない」と嘆くのです。映画俳優やアイドルなど世の中の人気者のファンの心情に近いと云えるかもしれません。
物理的に近いか、実際に会うかどうかは重要にあらず
確かに、師弟関係において、会う、会わないはそれなりに大事な要素でしょうが、決定的に重要なことではないと云えます。先生との物理的に距離が近い人(直接的に薫陶を受けて来た人)で、信仰を全う出来ずに退転してしまい、創価学会から離れて行った人は枚挙にいとまがないと云うことをどう見るかと云うことと関係します。近きが故に、厳しさに耐えかねて反発したり、自身の弱さに溺れるケースなど様々なケースがあります。概ね、己が心情を中心に据えてしまい、自身の心情をコントロール出来なかった人たちと云えるかもしれません。むしろ、直接会えずとも、見事に信仰を貫いていった人々は聖教新聞に掲載される様々な体験談に見る通りです。
この辺りのことについて、元外務官僚で作家の佐藤優さんが『世界宗教の条件とは何か』とのタイトルで出版された本において、極めて示唆に富む話をされています。これは創価大学での同氏の「課外連続講座」をまとめたものですが、「『実際に会う』ことは必ずしも重要ではない」との見出しでの52頁から56頁のくだりは、必読されるべきだと思います。
つまり、そこでは、世界宗教においては「師(創始者)と直接会うことは重要ではない」のはなぜか、との問いかけをしたうえで、「世界宗教というものが、時間的にも距離的にも非常に壮大なスケールになるから」であり、「師や創始者と直接会った直弟子の割合は、時を経るほど小さくなってい」くので、「『直弟子こそが偉い』という考え方に立っていたら、ごく一握りの特権階級を教団内に作ってしまうことになりかねません」 と述べているのです。「師のそばにいた時間が長いから信仰が篤いとは限らないし、逆に、師と会ったことがないから信仰が薄いとも限らない」との発言は、多くの若い青年たちを勇気付けてやまないものだと思われます。
日蓮仏法の核心に触れるテーマについて相次ぎ発言をし、講義をされる佐藤優氏は、キリスト教プロテスタントとしての該博な知識を持つ人だけに、私を含めて多くの古い創価学会員は下世話な云いかたですが「お株を奪われた」との感情に陥ります。しかし、その次元に留まっているだけでは、それこそ池田門下の名折れというものでしょう。佐藤優氏の深い洞察力と学識に触発されながら、我々も内的世界を同時に高め、深めていくことが大事だと思われます。(2020-1-14)