●病院の待合室で見たものーナポレオンと芭蕉と漱石と
ナポレオンと芭蕉と漱石とーこの3人の東西の歴史上の人物に共通することって、なに?
ヒントは3人とも同じ病で苦しんだのです。答えは、痔。世にいう痔主なんです。知らなかったですか?痔持ちだとは知ってたという人も、それぞれ何の痔疾とまではわからないでしょう。前から順に、痔核(いぼ痔)、裂肛(切れ痔)、痔瘻が正解なんです。私は漱石が痔で苦しんだということはそれなりに記憶にありましたが、何痔かまでは知りませんでした。それを訪れた肛門外科の待合室に貼ってあったチラシで知るに至りました。
そうなんです。なにを隠そう、私も痔主なんです。若い頃からそれらしき兆候がありながら、この歳になるまで、たとえお医者さんでも人様にお尻の穴を見せるなんてことは、はばかられました。いや、それは嘘になります、ね。大腸がん検査や大腸憩室炎などの治療、検診に際していつも見られていましたし、その都度、「あなた痔ですね」「痔ありますよ」って言われてきたのです。ですが、排便に際して特に痛みを感じることなくきたため、大した痔主ではない、小痔主だろうと高を括ってきました。
ところが、この数年お尻におできが出来て、整形外科で切開してもらっても、すぐまた出来たりするのです。そのうえ、あちらと思えばまたこちらという感じで、まさにもぐら叩きならぬ、おでき潰しの状態でした。それが初めのうちは肛門から離れたところでしたが、この1-2年は肛門のすぐそばにできるようになったのです。それでも、〝出物腫れ物ところ嫌わず〟だろうと、高を括らないまでも、甘く見ていました。しかし、整形外科の医師から「もうこれは私の手に負えない、肛門外科に行け」と言われ、ようやく意を決したのです。
しかし、‥‥と、こう詳細に語ることはこのあたりでやめておきます。肛門外科でもセカンドオピニオンを求めると、違う見立てをする医師がいたため、随分回り道をしてきたとだけ、言っておきましょう。ともあれ、長い長い道のりを経て、とうとう私も手術をしました。そうです。こう書いてくるとお分かりのように、私は漱石先生と同じ病だったのです。
●手術の今昔。漱石の場合と私のケース
未完に終わった漱石最後の小説『明暗』の冒頭部分が、痔の診察で始まることはよく知られています。その後の展開も手術場面を始めとして、漱石自身の体験(二度の痔瘻の手術、入院=日記に書かれています)を基に書かれているのです。およそ100年前の手術と今とではおよそ違うだろう、特に麻酔技術に格段の違いがあるのでは、と思っていました。しかし、小説上の表現から察するに、そう激しい痛みはなかったかのごとく書かれているのには拍子抜けするほどです。
私の場合は、手術の最中に声を思わず上げそうになるくらいの激しい痛みを一二度感じましたが、全体的にはまずまずでした。シートン法というゴムの輪を使って膿みを出すという著名なやり方ですが、完治するまでにそれなりの時間がかかるようで、切ったら日にちぐすりで、はい終わりと言うわけにはいかないようです。左右のお尻の穴の周辺に輪ゴムのようなものをくっつけている姿は想像しづらいものがあるでしょう。つくづく長く生きていると、色んな病気に罹るものだと諦めていますが、実際のところ、この病ほど通常の羞恥心をかなぐり捨てないと付き合いきれないものがあります。いちいちここでは触れませんが、ちょっと想像すれば気付くでしょう。
考えてみれば、若い時に肛門科の医者に診てもらうことをためらったのも、結局は出来ることなら行かずに治せないものかと思ったからでした。痛みと恥ずかしさを天秤にかけて、ごまかしてきたのですが、挙げ句の果ては、歳のせいで恥ずかしさの重みが軽くなり、代わりに痛みの重みが増したと言えるのかもしれません。
漱石は手術後直ぐに帰ってもいいと言われたようですが、1週間入院していたといいます。私の方は1日だけの入院。過去四回ほどの入院経験では最も短いものでした。
●入院して思い知る健康の有り難さ。看護師、女性の優しさ強さ
漱石はその生涯を通じて、胃弱と痔瘻に悩まされたといいます。明治から大正にかけて、最も人々を恐れさせた疾病は肺結核でした。漱石もそれを恐れていたことは『明暗』の記述からも伺えます。私は22歳の年の暮れに肺結核を患ったのですが、僅かな闘病生活をするだけで、見事に克服することが出来ました。これは一重に、人生の師・池田先生との出会いのおかげです。ご自身の体験を通じて、事細かな肺結核へのアドバイス注意をしていただきました。「今のこの一瞬から百万遍のお題目をあげる決意をするのだよ」との指導もこの時に頂きました。そして、後日「我が青春も病魔との戦いであり、それが転じて黄金の青春日記となった。君も頑張ってくれ、君自身のために、一切の未来のために」との揮毫もいただいて、治すことが出来たのです。
その甲斐あって、60歳までは大きな病気と無縁で、きましたが、還暦あたりを境に、次々と病に冒されるようになってきました。もう一度原点に立ち返って、闘病の意識を強く持っていかないといけないと銘記しています。「我が人生は病魔との戦いであり、それが転じて黄金の一代記となった」と言えるように。そして、「体曲がれば影斜めなり」とのご金言に、「心弱ければ痛み増すなり」と付け加えているのです。
過去の入院の際にも、看護師の有り難さに、幾たびも心撃たれ、身を震わせる思いを抱いたものですが、改めてこの度も看護師、女性の持つ魅力に感じ入りました。この生き物は、全く違う、男が人間なら女はそれ以外の動物だ、と。また逆に、女が人間なら男はまた違う種類の生き物だ、と。それくらい両者には違いがあるとの思いを持つのは、私だけでしょうか。70歳台半ばになってこういう思いを持つというのはいったいどういうことでしょうか。これまた恥ずかしい(意味が前述のそれとは違いますが)限りです。
●コロナ禍に入院して考える〝生と死〟
長年の課題であった痔の手術を(痔瘻と知ったのは手術直前)して、僅か1日とはいえ、ベッドの上に横たわりました。言うまでもなく、この2020年という年は、コロナ禍の旋風が世界中に吹き荒れ、多くの人の命を直接奪い、大小問わずそれぞれの国家の行く末に危険信号を灯すことになりました。今この瞬間にも、人生の先行きに絶望を感じて自殺を図ろうとしたり、人生の全てであった愛する会社を畳もうと希望を失っている人も数多くいます。
比較するだに、申し訳なさが先走りますが、私の五体を襲う、得体の知れぬものを含めての痛みの数々(いちいち上げませんが5つを下らないのです)も、ただ事ではないのです。後発の痛みは既にあるものより、強いと相場は決まっています。すると、面白いことに、前発の痛みはやや後衛に退くのです。そのまま消えてくれれば、いうことはないのですが、少し沈むというか、後ろに下がるだけというのが一般です。痛みの総和はしっかりと消えずに、加算されていっています。せいぜい、精神を集中させる何か、夢中になる何かがあって、束の間、痛みや不愉快さを忘れるというぐらいしか対応手段はないといえましょう。漱石や芭蕉が強烈な痛みを抱えながらも数々の名作を残しているのは、やはり痛みを忘れるほどの熱中する力のおかげだと思われます。
コロナに感染されて、生死の境を彷徨っておられる方や、その生命を救わんと懸命の努力をされている医療従事者の皆様に対する強い感謝の念を抱く一方、この歳まで生きてきた私の周辺には、多くの物故者がいます。時に応じて、かつて語り合ったように、先に逝った彼や彼女たちに今私が経験している全てを語りたい。夜に日を継いで語り明かしたいとの思いで一杯になります。そう考えるたびになかなか寝つかれず、眠りは浅くなって、やがて夜と昼の区別がつかなくなる日が来るのでは、と思ったりもするのです。(2020-9-12)